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    中国通史で辿る名言・故事探訪(周公 摂政を辞す)

     「周公 楚に逃れる」

                        周王朝

      幼かった成王も、幼少の身で即位してから7年が経った。

      成王も成長したので、自ら政治を執り行なうことが出来るようになった

     ので、周公は政治の大権を返上した。

      そして臣下の席に着き、臣下の礼を以って王に仕えるようになった。

      成王は周公の手を離れて大権を掌握したが、臣下に対しては常々、

     叱咤激励した。

      「功の高きは惟れ志、業の広きは惟れ勤」と。

      (=志を確と立てれば、その功は自ずと高くなる、

        また努力して勤勉であれば、その業は自ずから広くなる

       ものである。) 

      ところが成王が政治を行うようになると、周公について在らぬ事を

     吹き込む者が現れた。

      いつしか成王も、いささか猜疑心を募らせるようになったので、周公は

     楚に逃れる羽目になった。

      周公が去った後の事になるが、或る日 成王は王室の府庫を開扉し

     した。

      府庫の役人を従えて各種の記録などを見聞したが、図らずも周公の

     祭文を見つけた。

      それは成王が未だ幼かった頃、重病に罹ったことがあったが、周公は

     自分の爪を切って之を黄河に沈め、成王の病の回復を河神に祈ったもの

     であった。

      祭文の曰く、

      「王は少(わか)く未だ識る非ず、

      神の命を奸(おか)す者は及ち旦なり」 
    と。

       (=王はまだ幼少の身で分別を備えて居りません。

         神の命に背いたとすれば、すべてはこの旦の責任であります。)

       そしてこの祭文は、武王の時と同じように府庫に納めて、人目に触れ

      ないようにしていたのである。

       果たして成王は、自らの不明を悔い、周公を楚から呼び戻した。

                     「史記」 魯周公世家

    テーマ : 中国古典・名言
    ジャンル : 学問・文化・芸術

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(王朝の女官の制)

     「歴代王朝の内宮の諸制度」

       中国の歴代王朝においては、公の政を行う朝廷(外廷)に対して、

      天子或いは帝王の私生活の場である後宮についても、決まり事

      即ち制度的なものが定められた。

       天子に仕える女官は、それぞれの階級と階級別の人数及び

      官位が定められた。

       以下 先ず周王朝の女官の制について記す。

       「周王朝」

       階級は正妻たる「皇后」に続いて、

       「夫人」は三人、「嬪(ひん)」は九人、「世婦(せいふ)」は二十七人、

      「御妻(ぎょさい)」は八十一人で、総枠は百二十一人であった。

       この周朝の女官の制は、後世の各王朝の範となる。

       尚 皇后については、一,二の例外を除きほぼ常に一人であった。

       夫人以下は複数の設置となり、各王朝でそれぞれの定数が決め

      られた。

       また女官の名称は各王朝により異なり、階級の上下位が入れ

      替わる。

       後宮に詰める女官などを含む官女の総数は、各王朝ともに其の

      実数は把握しきれなかったようである。

       中唐の白楽天(白居易)の「長恨歌」では、後宮の美女三千と詠っ

      たりするが、この三千という数は唐代流行の誇張的比喩だとしても、

      唐王朝の女官の実数は他王朝に比しても隔絶していると謂われる。

       就中 盛唐の玄宗皇帝の後宮は、嘘か真か四万人説まであると

      いう。

        ※ 玄宗皇帝: 第6代皇帝で、在位期間は712年~756年

       最も少なかったのは、清王朝でありほぼ、三、四百人で推移した

      と謂われる。

       「唐王朝」

       皇后が正妻であり、その他の側室はすべて貴賓別に階級化され、

      それぞれの定数が制度化された。

       『四夫人』  正一品

          貴妃(きひ)・淑妃(しゅくひ)・德妃・賢妃

             ※ この貴妃に玄宗皇帝の楊貴妃がいる。

       『九嬪』   正二品

          昭儀・昭容・昭媛・修儀・修容・修媛・充儀・充容・充媛

             唐朝・高宗の愛妾・武氏は昭儀であったが、後に

            則天武后となる(女性唯一の天子)。

       『二十七世婦』

          婕妤(しょうよ) 正三品、 美人 正四品  才人 正五品

          各々 九人づつ。

            婕妤は、漢代には序列も異なりその格も高く、「列侯」に

           匹敵した。

       『八十一御妻』

          宝林(ほうりん。正六品)、御女(ぎょじょ。正七品)、

          采女(さいじょ。正八品)、の順で、各々二十七人ずつ。  



       
      
      
      

      

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    テーマ : 歴史雑学
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    中国通史で辿る名言・故事探訪(周礼の制定)

     「周礼の制定」

                        周王朝

      周公旦は幼い天子の成王を摂政する任に就いたが、王朝維持の

     為の制度として、「周礼(しゅうらい)」を制定したとされる。

      制度の根本は、封建制と井田(せいでん)制である。

      『封建制』

      武王は一族功臣を各地に封じたが、周公旦はそれを拡充し制度化

     した。

      封建制は王朝の地方統治の制度であり、天子が一族の功臣及び

     殷討伐に敢えて敵対しなかった諸侯らを、新たに九州(全国)を治める

     こととなった領域を分割して封じ(柵封)て建(立)て、それぞれの国を

     治めさせる制度である。

      「封建」なる言葉の由来である。

      周公旦は、彼らをその身分・功績に応じて、公・侯・伯・子・男の

     「五等の爵」を定めて下賜し、朝覲(ちょうきん)制度や貢納、さらに出兵

     義務などを定めた。

        ※ 朝覲とは、諸侯や属国の君が、天子に伺候して拝謁する

          制度。

      『井田制』

       井田制は、土地の均分所有を建前とし、可能な限り正方形の地形

      を九等分して、周辺の八等分を私田とし、中央の一等分を公田とした。

       そして公田分は、私田の八家に協同して耕作・収穫せしめた。

       なお農家の宅地として、公田の二割分の田地面積を八等分して

      各戸に与えた。

       一井(田)は、一里四方の面積で、一私田の面積は百畝であった。

       周の税制では、六十四井を「甸(でん)」といい、この甸から税の一つ

      である「兵賦」として、兵車一台・兵士七十五人を供出させた。

       収穫期には、公田・私田のすべての収穫を均等に分け、概ね民は

      九を得て、国は税として一の割合を徴収した。

       この税は「徹法(てつほう)」といわれ、即ち「十分の一税」が基本で

      あった。

       また耕作地を類別し、連作可能地を不易とし、一年休耕する地を

      一易となし、二年休耕地を再易とした。

       そして不易地は百畝、一易地は二百畝、再易地は三百畝を支給

      する規定を設けた。

       なお古代の五穀とは、黍(もちきび)・稷(うるちきび)・麻・麦・豆

      をいう。

       なお周礼について、一般的には周公旦の制定とされるが、後代の作

      とも言われる。

       ☷ 拾遺・弥縫

          「儀礼」と「礼記」

          周公旦は、周代の冠婚葬祭などの儀式作法などについても

         詳しく定めたが、これを「儀礼(ぎらい)」という。

          周代から遥か後 漢の時代の初期に、儒者は周代より伝わった

         一般的な礼に関する諸々の説を集大成した。

           これを「礼記(らいき)」という。

          この「周礼」・「儀礼」・「礼記」を併せて「三礼

         (さんらい)」といい、それぞれ儒教の「十三経典

         (ぎょうてん)」の一部に数えられる。

         ※ 従来 儒家の経典には「六経」あったが、楽経は早い

           時期に亡び漢代には「五経」となった。

            後漢の時代に論語と孝経が加わり「七経」

           となる。

            なお漢の「五経」のうち、「礼」には三礼、春秋には三伝

           あるので、経に分けると「九経」となり、論語と孝経を併せて

           「十一経」となる。

            更に唐代に「爾雅」が、宋代には「孟子」が加わり

           「十三経」となる。




     

      

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(周公の三笞)

      「周公の三笞」

                        周王朝

      よく子弟を教育することの戒め。

      周公旦の子である伯禽は父の襲封地である「魯国」に、また周公の

     弟である康叔が「衛国」にと、それぞれが着任した後のことである。

      彼らは上京して成王に謁見したが、その席で周公にも会った。

      だが周公旦は、その二人を訳も言わずに鞭打った。

      その後も同じように三度 成王に謁見したが、そのたびに周公は

     二人を鞭打った。

      康叔は、驚いた顔色をして伯禽に言った。

      「商氏という者あり、賢人なり。

      そなたとこれから会いに行こうではないか」、と誘った。

      二人は商君に会って言った。
      
      「我々は先日、成王に謁見して、その席で周公に出会いました。

      その後も 同じようにして三度会って、三度 我々は鞭打たれました。

      その訳は、一体 何でしょうか」と。

      商君は二人に言った。

      「二人で与に南山(泰山)の陽(みなみ。=南)に行ってみなさい。

      【橋】という名の木がありますよ。」

      二人は南山の陽に行って、橋という木を見た。

      それは真に実に仰ぐべき程の高であった。

      二人は帰ってから、商君に其の見たことを報告した。

      商君は言った、「橋は父道なり」と。

      商君はさらに、

      「二人で与に南山の陰(きた。=北)に行ってみなさい。

      【梓(あずさ)】という名の木がありますよ」と。

      二人は南山の北に行って、梓を見た。

      それは真に畏敬の念を生ずること、俯するが如しであった。 

      それは、低く低く下を向いていたのである。

      二人は帰って、商君に報告した。

      商君は言った、「梓は子道なり」と。

      そして二人はその翌日、周公に会おうとするに、門に入っては趨行し、

     堂に昇っては膝まづいた。 

         ※ 趨行とは、貴人の前では小走りに歩む当時の仕来たり。

      周公は二人の頭の塵を払い、労って食事を与えてから尋ねた。

      「何処で君子に会ったのか」と。

      二人は応えて、「商君に会いました」と。

      周公は言った、「君子だな商子は。」

                        「説苑」建本

      ※  周公旦が幼帝・成王の摂政となった際、その子の伯禽は

        父に代わって襲封した魯国に赴いて政事を執り行なっている

        ので、現実にはこの訓話はあり得ないことになる。



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    中国通史で辿る名言・故事探訪(韓原の戦い)

       「韓原の戦い」   

      「汎舟の役」

       魯・僖公十三年(前647) 晋では未曾有の大飢饉が発生した。

       晋の恵公(二十代。姫夷吾)は隣国の秦に食料の緊急救援を要請

      した。

       秦では先に晋の領土割譲を反故にされた経緯もあり、この機会に

      晋を討つべしという意見もあった。

       だが穆公(十代)は葵丘の会盟での盟約、即ち「飢饉が生じた際の

      諸国の食糧の融通」という条目もあって、それを順守しようとして、

      “ 其の君はこれ悪あれど、其の民に何の罪あらん ”と言って、

      食料を大量に送った。 

      秦の国都・雍を出発してから,晋の国都・絳まで川面に大船団が延々

     と続いた。

      「粟(ぞく)を晋に輸(いた)す。雍より絳に及ぶまで相 継げり」 

      これを命(な)づけて、汎舟の役という」。  

        ※ 汎:はん。

             水に浮かぶさま。

                       「春秋左氏伝 僖公十三年」

      「韓原の戦い」

      それから二年後(前646年)、今度は秦が大飢饉に見舞われたので、

     秦は晋に緊急の食糧救援を要請した。

      ところが翌年、晋の恵公は秦の弱みに付け込んで、なんと師旅

     を繰り出した。所謂 「韓原の戦い」の勃発である。

      秦の穆公は丕豹(ひひょう)を将に任じて兵を動員し、自らも出陣した。

      魯・僖公十五年(前645年)、韓原の地で合戦の火ぶたが切って落と

     された。

      しかし晋軍は三度敗北を重ねて、自領の韓まで軍を退いた。

      晋の恵公は慶鄭に向かって言う、

      「敵は我が領内に深く侵入した。どうすべきや」と。

      慶鄭は対えて、

      「君自身が招き入れたことです。どうすることが出来ましょうぞ」と。

      恵公は不遜なりとし怒り、改めて車右を務める者を卜させたところ、

     なんと慶鄭吉なりと出たのである。

      だが恵公は慶鄭の言を無視して、歩揚を車御に家僕徒を車右にして、

     小駟という駒を馬車とした。この小駟は鄭が晋に献上したものであった。

      慶鄭が再び言う、

      「昔は戦争という大事には、自国産の馬を用いたものです。

      それはその土地に生まれているので、国の人の気心を読み、普段の

     調教にも慣れ親しみ道を覚えているからです。

      然るに今や他国産の馬で戦場に出られようとしています。

      外見は強そうに見えても、いざという時には、きっと進退ままならない

     でしょう。君 必ずこれを悔いん」と。

      九月 恵公は彼の意見を聞くことなく、短期決戦で挑み、捨て身の

     勝負に出た。

      ところが戦場を駆け巡っているうちに、恵公の車を牽く駟馬が泥濘に

     脚を取られ、身動きが取れなくなった。

      恵公は慶鄭を大声で呼び付けたが、慶鄭は、

      「人の諫言を聞かず、卜の占いにも従わなかった。

      是 もとより敗戦を求めしもの。どうして逃れることが出来ましょうや」

     と言って立ち去った。

      そこで恵公は意を改めて、韓簡に命を伝えさせて、

      慶鄭の為に梁由靡(ゆうび)を御に、車右には虢射(かくせき)を

     付けて、肉薄してくる秦の穆公の手勢に立ち向かわせた。

      秦の穆公は、どうしても恵公を仕留めることが出来ず、手こずって

     いる内に、逆に晋の軍勢に包囲されてしまった。

      だが穆公のこの危機一髪の時に、慶鄭がなんと、

      「恵公を援けよ」と絶叫したので、優勢に包囲していた晋軍の咄嗟

     の対応に齟齬を生じさせることとなり、秦の穆公を取り逃がして

     しまった。

      そして立場再び逆転し、晋の恵公は秦軍に捕らわれて秦に連れ

     去られた。

                        「春秋左氏伝 僖公十五年」

          

      

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    Author:tyouseimaru
    出身地は四国八十八か所参りの発心の阿波、大阪を終の棲家とする。
    歴史好きで、城郭・神社仏閣・歴史遺跡巡りが趣味となる。
    歴史小説や時代小説を好み、往年の著名な時代小説の類は概ね完読と、自負している。

    自薦
    自著「中国通史で辿る名言・故事探訪」の 上・中・下の3巻を、 近い内に「電子書籍」での出版を予定しています。 今年一年間は、さらに工夫を加えるなどして、補記訂正などの校正を第一義としています。       
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