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    中国通史で辿る名言・故事探訪(晋の文公)

     「晋の重耳の帰国」

                       東周

      永らく流浪していた晋の貴公子・重耳が、楚の成王と秦の穆公の

     側面での支援により秦に落ち着くこととなった。

      重耳が秦に着くや、穆公は重耳に侍妾五人を与えて厚遇した。

      その中には穆公の出戻り女の懐嬴がいたが、この懐嬴は晋の恵公

     の太子・圉が晋の人質として秦に抑留されていた時に嫁いでいたが、

     子圉が前年の紀元前637年に晋に逃げ帰ったので、今は寡婦となって

     いた。

      ※ 懐嬴は、太子圉が秦から逃げ帰り晋で即位して懐公となった

        ので、呼び名は前後することになるが懐公夫人として懐嬴と

        記される。

         なお太子圉は、秦での人質の身を脱して密かに故国晋に帰ろうと

        した時、妻の懐嬴を一緒に連れて還ろうとした。

         懐嬴は夫の立場やその心情をよく理解はしていたが、

         「子(し)に従い還らば、君(父の穆公)の命を棄つるなり。

         敢えて従わず、また敢えて言わず」と。

        太子・子圉は、これ幸いとばかりに逃げ還って即位した。

        これが晋の21代懐公である。

       重耳も初めは秦にいた頃の太子圉の妻まで含まれていたので、

      流石に躊躇った。

       だが司空季子に進言されて、結局はその申し入れを受け入れ、

      穆公も大満足して祝杯を挙げるまでになった。

       重耳が秦で落ち着いていた時、紀元前636年 晋では子圉が後を

      継いで即位した。これが懐公である。

       ところが懐公は、父の恵公の受けていた悪評をそのまま引き継ぐ

      ようになり、次第に臣下や民の人心を失っていった。

       その一方、晋国内では重耳を慕う者が多く、秦に身を寄せていた重耳

      の元に郤縠(げきこく)や欒枝(らんし)が密かに会いに来た。

       彼らは重耳に帰国を要請し、その際には多くの者が内応する旨

      伝えた。

       晋の穆公も力強いく支援すると確約したので、重耳は遂に帰国を

      決断した。この時 重耳は既に六十二歳になっていた。

       秦軍出動の報に、晋も迎撃軍を繰り出したが、重耳帰国のことは

      既に暗黙の了解事項となっていたので、これに反対するのは恵公

      時代からの重臣の呂省と郤芮の一派だけであった。

                       「史記 晋世家」

       黄河を渡り晋の領域に入ると、次々と城郭を落として都の絳に

      向かった。

       重耳の入国を阻止しようとする軍勢は、蘆柳に陣を敷いた。

       重耳を帯同させていた秦の穆公は、公子の縶(ちゅう)を晋の陣営に

      派遣し、交渉に当たらせた。

       その結果 晋軍は郇(しゅん)まで兵を退いた。

       その後は、日を決めて、重耳の代理として子犯が、秦及び晋の大夫

      が一人づつ集まり郇で三者会談を開いた。

       会談の結果、重耳は晋軍に迎え入れられることとなり、重耳は晋軍を

      率いて四日の後には曲沃に入城した。

       さらに翌日には国都・絳に入城を果たし、祖廟に参拝を済ませた。。

       明くる日には高陵に軍を進め、逃亡中の懐公を滅ぼした。

                        「春秋左氏伝 僖公二十五年」



       

       

       

    テーマ : 中国古典・名言
    ジャンル : 学問・文化・芸術

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(狗 猛しければ則ち酒酸)

     「狗 猛(たけ)しければ則ち酒 酸にして售(う)れず

                        東周

      国で姦臣が重用されると、賢臣は寄り集まらず、その国はいずれ

     衰亡することの喩え。

      春秋時代 宋の国で酒を売る人がいた。

      其の酒は美味く且つ貯蔵用の酒壷もとても美しくて清潔そのもの

     であった。

      また見事な字で書かれた看板も店頭高く掲げられ、よく人目に付いて

     いた。

      ところが酒は一向に売れず、為に酒は酸っぱくなってしまう始末で

     あった。

      そこで商人は、里の長者・楊倩(ようせん)に酒の売れない訳を

     尋ねた。

      楊倩曰く、

      「汝の狗 猛しや」、と。

      商人曰く、

      「狗の猛しは、則ち酒 何故にして售れざる」と。

      楊倩曰く、

      「人は、これを畏る。

      誰かが子供に銭を懐にして、酒壷をぶら下げて酒を買いに遣らせても、

     狗が店頭で迎えて、これに噛みつくだろう。

      此れ酒酸にして以って售れざる所なり。

      それ国にもまた猛狗あり。事を用いる者(姦臣)これなり」と。

      ※ この酒屋の猛犬の寓話は、「国を治むるの患い、社鼠猛狗なり」

       の喩えで、

         戦国時代に纏められた「晏子春秋・内編問上第三 九章」に

        同様な寓話がある。

         その外 韓詩外伝 や説苑などでも記されている。


      

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(報恩と背逆の論理)

     「報恩と背逆の論理」

                        春秋時代

     》 晋の恵公の即位 《    紀元前650年

       晋では先代の献公(19代)が驪姫との間に儲けた奚斉(在位は

      前651年)と悼子(在位 前651年)が相次いで弑殺され、梁に亡命

      していた夷吾が秦の穆公の支援を受け、かつ覇者たる斉の桓公の

      仲介もあって君位に就く。

       晋国内では人望の高かった公子重耳に期待をかけたが、実現しな

      かったので里克らは梁にいる夷吾を迎えることにしたのである。

       だがこの時 夷吾にはほとんど率いる兵力も無く、故国にも真の

      味方はいなかったので先ず策を練った。

       夷吾は大国の秦に郤芮(げきぜい)を使者として派遣し、故国に

      復帰した暁には晋の河西の地を割譲する旨の約束を持ちかけ協力を

      取り付けた。

       更に故国の重臣・里克に書を遣り、真に復帰に尽力してくれるなら

      封土を与えるとまで約束し味方に取り込んだ。

       だが晋国の内政の乱れを憂慮した覇者たる斉の桓公は、晋の内乱を

      討つと称して晋領の高梁まで出兵した。

       その後 秦の穆公の意向を知り、大夫の隰朋(しゅうほう)に命じて秦と

      相談の上、夷吾を晋の君の座に就けることにして兵を退いた。

       かくして夷吾は、帰国の準備が整うや、秦軍に守られて堂々と帰国を

      果たし君位に就いた。これが恵公である。

       《 報恩か背逆か 》

       夷吾は即位の後 己の即位に尽力した里克を誅殺せんとして、

      代弁させて言う。

       「子 微(な)かりせば則ち此(これ)に及ばざらん。

       然りと雖も子は二君(驪姫の子の奚斉と悼子)と一大夫(筍息)とを

      殺せり。

       子の君たる者,亦た難からずや」と。

       (=そのような汝の君主となることは、何と難しいことではないか。)

      里克は対えて、

      「廃すること有らずんば、君 何を以って興らん。

       之に罪を加えんと欲せば、それ辞なからんや。

       (=それに罪を着せようとするなら、どんな理由でも成り立つだろう。)

      臣 命を聞けり」と言って、剣に身を伏せて死んだ。

      この際、里克の盟友・丕鄭は使者として秦に赴き、遅ればせながら

     賂を贈って秦にお礼を言上していたのでその難を避けることが出来た。

      だがその後 丕鄭が秦に行った時、穆公に晋の恵公が約束した地の

     割譲が実現しない理由として、呂甥・郤称・郤芮の三人が反対している

     からだと釈明し、この三人を多くの財貨で以って秦に呼び寄せることを

     煽り立てた。

      その冬 穆公は使者を出して、晋の三人の大夫を秦に招かせた。

      とこらが、郤芮はそれらが丕鄭らの策謀を見抜いて、躊躇することなく

     丕鄭を始めとして一味の大夫らを誅殺してしまった。

                      「春秋左氏伝 僖公十年」


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    中国通史で辿る名言・故事探訪(古人の糟魄(粕))

     「古人の糟魄(粕)

                        春秋時代

      昔の聖賢の言葉や著作として今日に伝わるものは、聖賢の神髄とは

     言えず、その粕に過ぎないということ。

      所謂 真髄は言葉や文章では伝えきれないという老荘流の思想。

      糟も魄も「かす」の意で、糟魄の原義はつまらないものの喩え。

      斉の桓公、書を堂上に読む。

      車輪作りの輪扁(輪は職を意味する)は、車輪を堂下で作っていたが、

     槌と鑿をを下に置いて堂上に上がり、桓公に問うた。

      「敢えて問う、公の読む所のものは何の言と為すや」と。

      (=敢えてお尋ねいたしますが、殿さまがお読みになっておられるのは、
      
       どういう言葉でございますか。)

      公曰く、

      「聖人の言なり」と。

      曰く(輪扁)、

      「聖人在りや」と。

      (=聖人は今この世にいるのですか。)

      公曰く、

      「已に死せり」と。

      輪扁曰く、

      「然らば則ち君の読む所のものは、古人の糟魄已矣(のみ)」と。

      (=そうだとすれば、殿さまがお読みになっておられるものは古人の

        「カス」にしかすぎません。)

      桓公曰く、

      「寡人 書を読むに、輪人 安(いずく)んぞ議するを得んや。

       (=私が書を読むのに、車輪作りがどうしてかれこれ言えるのか。)

      説あらば則ち可なるも、説なくんば則ち死せん」と。

      輪扁曰く、

      「臣や臣の事を以って之を観る。

      輪(車の)を斲(き。切削)るに、徐ならば則ち甘くして固からず、

     疾ならば則ち苦にして入らず。

        ※ 徐と疾は、ゆったり(甘い)と激しい(きつい)の意。

      徐ならず疾ならず、之を手に得て心に応じ、口も言うこと能わず、

     数(技或いは道理)のその間に存するあり。

      (=その具合の緩急は、長年の経験による我が感と手加減で

       会得して自らの心に納得するだけで、口で説明できるものでは

       ありません。

        物事の技や理屈というものは、そのようなものなのです。)

      臣は以って臣の子に喩すこと能わず、臣の子も亦た之を臣より受くる

      こと能わず。

       是を以って行年七十にして老いて輪を斲る。

       (=そのような訳で、私も已に七十にもなっておりますが、老いてなお

        この仕事をやっている訳であります。)

       古の人とその伝うべからざるものとは、死せり。

       然らば、則ち君の読む所のものは、古人の糟魄のみ」と。

                        「荘子 外篇・天道」

        ☞ 荘子:戦国時代の思想家で、後の道教の始祖の一人

             とされる。


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    中国通史で辿る名言・故事探訪(一国の政はなお一身の治の如し、)

     「一国の政はなお一身の治の如し、

        治まる所以を知らず」


                        東周

      ある時 異民族の戎王が、由余(ゆうよ)という者を秦に派遣した。

      戎王は、秦の穆公(9代)が名君であること耳にして、視察の為に由余

     を派遣してきたのである。

      この由余はその先祖が晋から戎への亡命者であったので、彼は中原

     の言葉を理解することが出来た。

      晋の穆公は、蛮族からの使者ということで由余に向って悠然と質した。

      「我らの中原の国には、詩書・礼楽・法度などによって国を治めている

     が、それでも騒ぎは絶えないものだ。

      貴国などでは何も基準になるようなものが無いようだが、さぞかし国を

     治めるのは難しかろう」と。

      それに対して由余は、

      「そもそも中原の諸国が乱れるというのは、そのようなものがあるから

     なのです。

      古代の聖王と謂われる黄帝以来、帝王はそれぞれ率先して法度に

     従われたので、国は治まって来たのです。

      だが後世になると、為政者は日に日に驕慢となり、法度をかざして

     人民を責めつけるようになりました。

      痛めつけられた人民は、仁義で以って為政者に楯突こうとするように

     なりました。

      かくして為政者と人民との争いは、王位の簒奪、宗族の滅亡へと発展

     して来たのです。

      これは、すべて法度の類を恃みとした結果です。

      だが、戎夷は然らず。

      上(うえ) 淳徳を含みて以ってその下を遇し、下 忠信を懐いて以って

     その上に事(つか)う。

      一国の政はなお一身の治の如し、治まる所以を知らず。

      これ真に聖人の治なり
    」と。

      (=政治というものは、人と人との信頼関係によって成り立つもの

       であり、為政者に徳があれば人民の信頼も得られ、国は自然の内

       に治まるものなのです。

        国を治めるということは、我が身を育むようなんのであり、

       これと云った理由もなしに治まるものなのです。

        これこそ聖人の政というものです。)

             
                     「史記 秦本紀」




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    tyouseimaru

    Author:tyouseimaru
    出身地は四国八十八か所参りの発心の阿波、大阪を終の棲家とする。
    歴史好きで、城郭・神社仏閣・歴史遺跡巡りが趣味となる。
    歴史小説や時代小説を好み、往年の著名な時代小説の類は概ね完読と、自負している。

    自薦
    自著「中国通史で辿る名言・故事探訪」の 上・中・下の3巻を、 近い内に「電子書籍」での出版を予定しています。 今年一年間は、さらに工夫を加えるなどして、補記訂正などの校正を第一義としています。       
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