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    中国通史で辿る名言・故事探訪(回族の大叛乱)

     「回族の大叛乱」

                           清朝

      清王朝の屋台骨を揺さぶった太平天国の乱の勢いが漸く下火に

     なった頃、西方の雲南地方で回族の大規模叛乱が生じた。

      朝廷は鎮圧に努めるがその実効は上がらなかった。

      そこで、太平天国の乱で鎮圧の将・曽国藩の片腕として活躍した

     左宗棠(さそうとう)に鎮圧軍指揮の命が下った。

      左宗棠は咸豊十年(1860年)に曽国藩の推挙により、湘軍を

     率いて太平天国軍の残党を制圧する功を挙げたが、その後 

     フランスの協力を得て福州に造船所を造り、水師(海軍)を創設した

     が、これが後の福建水師となる。更に曽国藩に倣い漢人義勇兵の

     「楚軍」を編成していた。

      陝甘総督(陝西・甘粛に司令官)となった左宗棠は、義勇兵・楚軍を

     率いて戦った。

      非常な苦労の後、同治五年(1866年)、ついに叛乱の平定に成功し

     たかに見えたが、幾ばくも無く回族(西トルキスタン系ウイグル族)の

     ヤクブ・ベクが新彊において自立してしまった。

      その背後にはイギリスやロシアの蠢動が見え隠れしていたので、朝廷

     内部では新彊放棄論が持ち上がった。

      時の朝廷内部では、目下の国家の急務として李鴻章の「海防論」と

     左宗棠の「塞防論」が論議されていた。

      海防論は海軍増強策を、塞防論は辺境回復策を論じたものである。

      この問題で、左宗棠は強硬に武力奪還を主張し、結局 彼の意見が

     容れられ、左宗棠は新彊叛乱軍鎮圧の総司令官兼欽差大臣に任ぜ

     られた。

      彼は用意周到な作戦計画を立てる一方、新彊住民に対する政治的

     配慮と慰撫工作の両面作戦を展開し、急ぐことなく時間をかけて取り

     組み、遂に新彊の回復に成功した。時に 同治十三年(1873年)五月

     のことである。

      「左宗棠 独断専行す」

      新彊を回復するという国家の名目は立ったがこの時、イリ地方には

     帝政ロシアの軍隊が進駐していた。

      左宗棠はその奪還を目論んだ。

      疲弊した清朝内部では、ロシアを相手にして、下手をすると国際紛争

     に発展することを懼れ、左宗棠を抑えて外交交渉により返還を図ろう

     とした。

      ところが交渉は難航し埒があかないのを見て、左宗棠は自ら率いる

     楚軍をハミに駐屯させてロシアに睨みを利かせ、朝廷の外交交渉を

     強力に支援した。

      その結果、遂に領土拡大に奔走するロシアから譲歩を勝ち取り、

     イリの返還が実現したのである。

      左宗棠なかりせば、現在の中国の新疆はおろか、周辺の少数民族

     居住地も失陥していただろう、と言われるほどの大功績を挙げた。

      「左宗棠の人物評」

      廉にして貧を言わず、謹にして労を言わず。

      人格は清廉にして貧しい境遇にあっても不平不満を言わないし、謹厳

     にして自らの苦労を面に出さない。

    テーマ : 中国古典・名言
    ジャンル : 学問・文化・芸術

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(天下を治むるは貪を懲らし、)

      天下を治むるは貪たんを懲らし、

        廉れんを薦むるを以って要となす。


                    清

       政治の要諦は、先ず汚職を封じ貪官(たんかん)を断罪し、清廉

      を奨めて清賢の官を進めることが肝要である。

       清朝の黄金期を創出し、その晩節を全うした稀有の皇帝である

      康熙帝の言葉。 

       二十四歳で崩じた順治帝の後を受けて、順治帝の三男で八歳の

      玄燁(げんよう)が、清王朝の第4代康熙帝(愛新覚羅玄燁)として

      即位したが、康煕六年(1667年)、十五歳になると親政を開始した。

       だが、輔弼のオーバイの力に衰えはいささかも見られなかった。

       親政を始めてから二年、康熙帝は皇太后と叔父ソエトの支援の下、

      少年によるモンゴル相撲にことよせて、政治には無関心の風を装い

      その場にオーバイを招き寄せた。

       オーバイが、少年のことと油断していたそのすきを窺い少年らに

      捕縛させ、後には終身刑に処した。

       ここに於いて、康熙帝の実質的親政が始まった。

       おもな功績は、三藩の乱の平定、台湾の討伐、ロシアとの国境

      の策定。

       また学術を奨励し、清王朝の黄金期の基礎を確立した。

       ※ オーバイ(オボイとも)は、太祖ヌルハチの腹心として活躍した

        武人で、順治帝の遺詔により康熙帝の補佐役としてスクサハ・

        エビルン・ソニンと共に任ぜられた。

         彼等は日ならずして権力争いをしてオーバイが専権を確立した。

    テーマ : 中国古典・名言
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    中国通史で辿る名言・故事探訪(辛亥革命)

     「辛亥革命」

                        清朝末期

      宣統三年(1911年) 辛亥の年、革命勢力が清朝を倒して

     「中華民国」を樹立した民主主義革命を辛亥年に因んで辛亥革命と

     いう。

      1910年3月、武昌蜂起に始まり、翌年1月には孫文を臨時大総統

     とする南京臨時政府が成立した。

      清朝最後の皇帝となった12代宣統帝(愛新覚羅溥儀)は退位して、

     ここに「清国」は滅亡した。

      だが革命勢力は弱体であったし、うち続く各地での内戦や外国勢力

     の介入を未然に防止すべく北洋軍閥の袁世凱と妥協し、袁世凱も

     共和政府の樹立に同意したので、ここにおいて彼を大総統に任じた。

      ところが1916年、袁世凱が急死し、後継体制を巡って大総統・

     黎元洪(れいげんこう)と国務総理・段祺瑞(きずい)の政治的対立が

     生じた。

      黎元洪が段祺瑞を抑えようと、張勲の軍隊を利用しようとしたところ、

     何と清朝に忠実であった張勲は、1197年7月、前皇帝の溥儀の復辟

     (いわゆる皇帝返り咲き)を図った。

      だが結局 段祺瑞の巻き返しにあって、結局 11日間で退位を余儀

     なくされた。

      溥儀は退位はしたものの、紫禁城に住むことは許された。追放される

     のは1924年11月5日である。

      ところが、溥儀は日本の満州駐屯の関東軍により、三度 皇帝に担が

     れた。所謂 傀儡皇帝で「満州国皇帝溥儀」といわれるその人である。



      

    テーマ : 歴史
    ジャンル : 学問・文化・芸術

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(天下を一家となす)

     「天下を一家となす」

                        清代

      この天の下に広がる国家全体(国中)は、全て一つの家族だと

     する思想。

      清朝の末期、廣州出身の洪秀全は十六歳から三十一歳までの

     間に、廣州府で四回 科挙の秀才を受験するための予備試験

     (府試)を受験したがその都度失敗した。

      その失敗の原因は、身分的差別にあったと云われる。

      彼が三回目の試験に失敗し失意のどん底にあった時、彼に一人の

     伝道者がキリスト教の入門書を与えた。

      洪秀全は熱心に熟読し、「天の啓示」を確信するようになる。

      その後 四回目の科挙を受験したが、あえ無く失敗した。

      そして遂に受験の教本たる孔孟の書を棄てて故郷に帰り、

     キリスト教の洗礼を受けて入信。後 エホバの信仰を説いて

     回るようになる。

      時 至り遂に宗教結社「上帝会」を組織し、多くの貧しい農民らの

     帰依を受けるようになった。

      だが特権支配階級からは激しい弾圧を受けるようになったので、

     江州、広西を旅するようになり、以前にも増して多くの信者を獲得

     するに至った。

      道光三十年(1850年)に、広東・広西地方で大飢饉が発生した。

      多数の餓えた信者が、広西の金田村に集まり決起した。

      洪秀全を首領として指導者たちは、

       「 集まった老若男女・兄弟姉妹は皆平等なり、

        天下一家とする 」


     となし、反清復明・滅満興漢・替天行動・劫富済貧を旗印として、

     即ち満州王朝の支配を打倒し、腐敗官僚と収奪豪農及び大商人らの

     撲滅を叫んで決起した。

      その勢力は「太平軍」と命名されたが、勢力を増すに従い軍団と

     しての整備された組織となり、鎮圧に乗り出した清朝軍をしきりに

     撃ち負かした。

      かくして中原解放を呼称して、北上を開始。

      先ずは広西の永安を占拠し、翌年 洪秀全は天王と称して、

     「太平天国」の樹立を宣言した。

      そして軍団を五つに分けて、それぞれの指導者を王に任じた。

      太平軍は官軍や富豪連中の自衛武装団と戦いつつ、興安・

      全州・長沙・武昌などへその占領地域を広げていった。

      咸豊三年(1853年)には、遂に南京を攻略した。そしてこの南京

     を天京と称して都とした。

      同年五月には洪秀全は、北京攻略を果たすべく北伐軍を派遣した。

      北伐軍は途中の山西や河北で抵抗する住民や満州人を多く虐殺し、

     一時期ではあるが北京の陥落はもはや時間の問題とまで噂された。

      太平天国軍は、蜂起してからその滅亡に至るまでの間 清の都城

     七十余を占拠し、勢力範囲は華南から華中に及び、最盛時にはその

     兵力は百万を称したが、儚く潰え去った。

      南京入りしてから、洪秀全は政務は諸王に任せきりとなり、自らは

     宮廷から出ようとせず宗教に没頭したり、奢侈逸楽を事とするように

     なった。

      政治的理想の実現を没却した太平天国は、次第に民衆から

     疎遠な存在となり混迷を一層深めるようになった。

      咸豊六年(1856年)夏 天京事件と云われる内紛が生じ、民衆

     にも背かれるようになり、また欧米列強の介入を招き入れるように

     なる。 

     

      

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    中国通史で辿る名言:故事探訪(中国三大女傑・西太后)

     「中国三大女傑 其の三」

                         清朝

      古来から中国では、王朝の有力な女性権勢家として、

     漢王朝初期の劉邦夫人(呂太后。名は雉)・唐王朝初期の

     二代皇帝・高宗に召された武氏(武皇后とも則天武后とも)・清朝

     末期の九代咸豊帝の二人の皇后の内の一人である西太后

     (名は蘭)の三人が周知の事実である。

      西太后は満州族の中級旗人・官吏の家に生まれ、名は蘭。

      時の皇帝・咸豊帝には皇后がいたが実子に恵まれなかった。

      そこで祖法(朝廷の慣習法)に従い、国中から王室とは血縁関係の

     無い品性と知性に優れた候補者選びが行われた。この選考祖法を

     「選秀女」といった。

      其の一人に十七歳の蘭も選ばれ、貴人(下級の側室の位階)として

     後宮入りした。

      ところがその後、咸豊帝の寵愛を受けるようになり位階も進み、遂に

     男子(載淳)を生んで貴妃に昇った。

      咸豊帝は長年の淫乱生活がたたり、原因不明の熱病に犯され重篤

     の状態に陥った。

      蘭貴妃は意識朦朧たる咸豊帝の病床で、我が生んだ子の載淳を

     後継者として承諾させ、また摂政には自分を指名するよう同意させ、

     急ぎ詔書を作らせた。

      皇帝の死後、三歳になった載淳が即位したが、これが同治帝で

     ある。

      遺命により八人の側近が政治を補佐するようになった。

      ところが彼らは幼帝を侮るようになり、権力を独占するに至った

     ので、今は亡き咸豊帝の慈安皇后とともに蘭貴妃は、新しく王族と

     なった咸豊帝の弟・恭親王を抱き込み、周到な計画のもとに大粛清

     を断行した。

      ここに至って慈安皇后と蘭貴妃による女 二人の「垂廉政治」が

     始まることとなった。

      そして清朝祖法により、同治帝の嫡母たるべき慈安皇后はいつしか

     東太后と呼ばれ、同治帝の実母たる蘭貴妃は西太后と称されるように

     なった。

      だが東太后には係累は無く、政治的見識も無く万事が控えめな性格で

     あったので、遂に西太后の独壇場となってしまった。 


     

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    Author:tyouseimaru
    出身地は四国八十八か所参りの発心の阿波、大阪を終の棲家とする。
    歴史好きで、城郭・神社仏閣・歴史遺跡巡りが趣味となる。
    歴史小説や時代小説を好み、往年の著名な時代小説の類は概ね完読と、自負している。

    自薦
    自著「中国通史で辿る名言・故事探訪」の 上・中・下の3巻を、 近い内に「電子書籍」での出版を予定しています。 今年一年間は、さらに工夫を加えるなどして、補記訂正などの校正を第一義としています。       
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