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    中国通史で辿る名言・故事探訪(春秋五大会戦 そのⅢ)

         邲の戦い そのⅠ

                        春秋(東周)時代

      紀元前597年、鄭を巡り楚・荘王(23代)と晋・景公(26代)が

     邲(ひつ)の地で雌雄を決した。

      1 「会戦の背景と国内事情」

        鄭国は北に晋、南に楚という大国に挟まれ、常に両面外交を

       強いられていた。

        晋が軍事行動を起こせば晋に付き従い、それに対して楚が報復

       すれば楚に付くという反復常無き外交を余儀なくされていた。

        紀元前600年冬、楚が鄭を討った時、晋は郤缺が鄭を救援した

       ので鄭伯もよく戦い楚軍を破った。

        ところが翌年夏、鄭は陳と共に、楚と辰陵において会盟した。

        これに怒った晋は、宋・衛・曹の軍を従えて鄭を討ち、そして和睦

       してから帰還した。

        冬、鄭が晋と和睦したのを怒った楚は、鄭を討った。

        だが晋は士会が鄭を救援して、楚軍を潁河の北に追い払った。

        その後は、諸侯の連合軍が鄭の守備に就いた。

      2 「小国の悲哀」

        楚・荘王十七年(前597年)春、荘王は大いに怒り、態勢を整え

       て兵を動員して、鄭を囲むこと三か月半に及んだ。

        鄭の襄公は、晋に盛んに救援を要請したが、間に合わなかった。

        鄭の大夫・子良は言う、

        「晋も楚も徳を修めずに、大国であることを鼻にかけて武力ばかり

       振り回す。

        だからこちらも、その都度やって来た方に従っておけばよいのだ。

        晋と楚とが、当方の窮余の際に当てにならぬというのであれば、

       こちらも信義を守るにしても、守れないではないか」と。

        そこで、楚に従うことになった。

        楚の荘王も、和睦を赦すことにした。

       「肉袒牽羊」

       鄭伯、肉袒して羊を牽き、以って逆(むか)う。

       (=鄭の君、肌脱ぎして、羊を牽いて楚王を出迎える。)

       そして云う、

       「自らの罪を潔く認め、如何なる処分にも異存はなく、若し祖廟の

      徳に免じて、鄭の祭祀を断つことなく臣下の一員にお加えくださるなら

      誠に幸甚に存じます。

       だがそれも、胸の内を漏らしただけのことで、決してお願いしようなど

      とおおそれた考えはありません」と、陳述した。

       荘王はその言動に胸を打たれ、臣下の一部に反対はあったが、

      自ら指揮を執って全軍をまとめて、三十里下がり宿営し、鄭に対して

      礼を尽くした上で和議を受け入れた。

       鄭は大夫・子良が楚の人質となった。

     3 「晋軍の水師」

       その年の夏六月、晋は鄭を救うため大軍を発動した。

       荀林父を中軍の将、先縠がその佐。士会が上軍の将、郤克が

      その佐。趙朔が下軍の将、欒書(らんしょ)がその佐。

       その他に、趙括と趙嬰斉(えいせい)が中軍大夫、鞏朔(きょうさく)

      と韓穿(かんせん)が上軍大夫、荀首と趙同が下軍大夫、韓厥が

      司馬に、それぞれ任じられた。

       そして全軍は黄河沿岸に到達したが時は既に遅く、鄭は楚と講和

      したとの情報に接し、軍の総帥である荀林父は軍を退き返そうとした。
      
       だが中軍の副将・先縠と司馬・韓厥らの主戦派に押し切られて、

      遂に晋の全軍は黄河を南に渡り、邲の地に布陣した。

       一方では、楚の荘王は北進して、エンの地に布陣した。

      楚では、沈尹(しんいん)が中軍の将、子重が左軍の将、子反が

     右軍の将であった。

      ところが荘王は、晋軍が黄河を渡り終わったという情報を知り、軍を

     引き揚げようとした。

      寵臣の伍参(ごしん)は会戦を望んだが、令尹の孫叔敖は戦いを望ま

     ず、車の向きを南に変えて軍旗を返した。

      伍参はなおも王を説いたので、王は気にして令尹に指示して軍の向きを

     再び北に向けさせ、管の地に留まり晋軍を待った。

      やがて晋軍が敖(ごう)と鄗(こう)の間に進駐するや、荘王は晋軍に

     和議を申し入れ、晋軍では和戦両様があって容易に決しなかった。

      「塁を摩する」

      敵の砦や陣に迫ることをいう。

      また、地位や技量がほぼ同じ程度に達することをいう。

      両軍の使者による何度かの詰めあいで、ようやく晋でも同意する

     ようになり、結盟の日取りも決まった。

      ところが、楚の許伯が御し摂叔が車右を務める落伯の兵車が、晋軍

     に戦いを挑もうとした。

      許伯は言う、
     
      「挑戦する時、御者は兵車の旗を靡かせ、塁を摩す、と聞く」と。

      落伯は言う、

      「挑戦する時、車右は鋭矢を射こみ御に代わって手綱を執る。

      御は車を降りて馬を整え、帯革を締め直して引き揚げる、と吾は

     聞く」と。

      摂叔は言う、

      「挑戦する時、車右は敵陣に飛び込み、殺した敵の耳を切り取り、

     捕虜を一人牽き連れて引き揚げる、と吾は聞く」と。

      果たしてこの三人、それぞれの事を遣ってのけ、引き返そうとすると、

     晋の追跡にあった。

      左右から迫りくる敵に、楽伯は左の方の馬を射、右の方は人を射て

     喰い止めた。だが今はもう矢は一本しか残っていなかった。

      そこへ大鹿が躍り出たので、楽伯はその背中を正確に射抜いた。

      そこへ晋の鮑癸の兵車が背後に迫って来た。

      楽伯は摂叔に命じて、鮑癸に大鹿を献じさせた。

      鮑癸曰く、

      「車左(楽伯)の弓のお手前は見事、車右(摂叔)の文辞もお見事。

     皆 君子なり」と。

      かくして、三人ともども脱出することが出来た。

                        「春秋左氏伝 宣公十二年」

    4 「晋軍の内部破綻」

       晋軍の副将でありながら、韓琦(魏犨の第3子)と趙旃(ちょうせん。

     趙穿の子)という二人の不心得者がいた。

      彼らは晋では己の望む高い地位(卿大夫)が得られなかったことを

     恨み、憂さ晴らしに晋軍を敗北に導こうと画策した。

      二人は講和の使者を買って出て、楚の陣営に着くと、逆に開戦を通告

     したのである。

      そしてその夜、趙旃は楚の陣営に近づき、部下の兵を突入させた。

      ここにおいて開戦の火蓋が切って落とされた。

     

      



       
        
       

        

        
        
          

      

    テーマ : 戦記
    ジャンル : 学問・文化・芸術

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(楚の名臣 孫叔敖)

     「狐丘の戒め」

                        春秋時代

      他人に怨まれないようにせよ、との戒めである。

      春秋の昔、楚の21代成王(熊惲)と23代荘王(熊侶)に仕えた

     智謀の大夫がいた。その名を孫叔敖(しゅくごう)と云う。

      姓と氏は、それぞれ羋(び)、蔿(い)。

      通称は孫叔敖と云うが、蔿艾猟(いがいりょう)ともいう。

      その曾祖父は、楚の第17代君主・蚡冒(ふんぼう)である。

      ある時 楚の狐丘という邑(ゆう。町のこと)の丈人(老人のこと)が、

     若き孫叔敖に語った。

      「人には三つの怨みがありますが、あなた様はそれをご存知ですか。

      爵位が高い者は、人民が之を嫉みます。

      官職が大きい者は、主君が之を憎みます。

      俸禄が厚い者は、人の怨みもそれだけ多くなります」と。

      孫叔敖は言った、

      「私の爵位が高くなればなるほど、私の志は益々へりくだります。

      私の官職が大きくなればなるほど、私の心は益々小さくなります。

      また俸禄が厚くなればなるほど、施しは益々博(ひろ)くなります。

      このようなれば、三つの怨みも免れることが出来ようか」と。



         

     

      

     
      

      

    テーマ : 中国古典・名言
    ジャンル : 学問・文化・芸術

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(叔向伝)

     「其の罪 一なり」

                        春秋時代(東周)

      時に、晋の執政は韓宣子(韓起)であった。

      夏姫と巫臣の間の子か否かは不明であるが、春秋左氏伝では言う

     巫臣の子・邢侯が、同じく楚からの亡命貴族の雍子土地争いをして

     裁判沙汰となった。

      たまたま雍子の娘を夫人にしていた叔魚(羊舌鮒といい、古の遺直

     と謂われる叔向の弟)が訴訟を裁くことになった。

      ところがこの叔魚は兄の賢人・叔向(しゅくきょう)に似ず、利に聡い

     全くの俗物であり、当然に義父・雍子の味方をし、邢侯に罪ありと裁断

     した。

      もともと罪は雍子にありと言われていたので、邢侯は怒って雍子と

     叔魚を朝廷で殺してしまった。

      時に執政の韓宣子(韓起)は、其の罪を叔向に問うた。

      叔向曰く、

      「三人罪を同じくす。生に施し、死を戮して可なり。

       (=三人は同罪です。生きている者には刑罰を、既に死んだ者

        には誅戮を施してもよい。)

       雍子は自ら其の罪を知りて、賂を以って直(勝訴による無罪)を買い、

      叔魚や獄を鬻≪(ひさ)≫ぎ(賂によって公正たるべき裁きを曲げ)、

      邢侯は殺を専らにす。

       其の罪一なり。

       (=三人の犯した罪は皆同じである。)

       己の悪を隠して人の美(無罪)を掠め取るのは昏(暗愚)、貪欲の

      ために官職を涜(けが)すは墨(汚れ)、人を殺して情けなき者は賊

      (人殺し)。

       それらの罪は、夏書にも曰く、

       「昏・墨・賊は殺す」と。皐陶(こうよう)の刑なり、と。

       請う、之に従わん、と。

       則ち、邢侯は処刑され、雍子と叔魚の屍は市(市場)で曝された。

       仲尼(孔子)曰く、

       叔向は古の遺直なり。

       (=叔向は古の遺風を守る正直者である。)

       国を治め刑を制して、親(親族)に隠(まげ。=曲)ず。

       三度 叔魚の悪を数えて、末減(軽減)を為さず。

       曰く、

       「義なるかな。直と謂う可し」

                        「春秋左氏伝 昭公十四年」



      

    テーマ : 中国古典・名言
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    中国通史で辿る名言・故事探訪(呉・楚の戦い)

    「申包胥立つ」

                     春秋時代

     楚の昭王(30代)は、戦いに敗れて隋の国に逃れた。

     その時 申包胥は、昭王の使いとして秦に行き援軍を請うた。

     申包胥は昭王の言葉として、秦の哀公(14代)に伝えた。

     「呉は貪欲にして厭くことなき野蛮な国です。

     若しも我が楚国が滅ぼされて、貴国が呉と国境を接するように

    なったら、それこそ貴国の大いなる憂患となりましょう。

     呉が未だ楚を平定し終わらぬうちに、貴国から兵を出して分け前を

    お取りになってください。

     若し我が国が滅ぼされた時には、その分は貴国の地となり、またもし

    貴国のお力で幸運が得られるならば、我が楚国は子々孫々まで貴国に

    お仕え致しましょう」と。

     だが秦の哀公は、臣下を通じて、

     お使いの趣きは承りました。しばらくは館でお休みください。

     詮議の上 後ほど返事いたします」と、婉曲に断らせようとした。

     すると申包胥は、

     「我が君は国を離れて流浪しております。満足な休む場所さえない

    ことでしょう。

     臣下の私が、なんぞ休んでなどいられましょうや」と言って、

     朝廷の塀に縋り付き、夜も昼も声を挙げて泣き続けた。

     彼は飲まず食わずで七日間 ずっと泣き通したのである。

     哀公も流石に、彼の国と君を思う忠誠心に胸を打たれて、「無衣」

    の詩を歌った。

      無衣(ぶい)の詩   「詩経 秦風」

       豈に衣無しと曰(い)わんや、子(なんじ)と袍を同じくせん

       (=君に衣が無いわけではないが、君と同じ綿入りの服を着よう。)

       王ここに師を興さば、わが戈矛を修め、子と仇を同じくせん。

       (=いざ王が兵を動員する時 武器を手入れし、君と同じ敵に

         立ち向かおう。)

       豈に衣無しと曰わんや、子と沢(肌着)を同じくせん。

       王ここに師を興さば、我が矛戟を修め、子とともに

      作(た。=立ち上がる)たん。

       豈に衣無しと曰わんや、子と裳(しょう。戦闘服)を同じくせん。

       王ここに師を興さば、我が甲兵を修め、子と偕(とも)に行かん。

      「無衣の詩」を聞いて、申包胥は頓首の礼を九回繰り返し、ようやく

     席に戻った。

      かくして秦軍は、楚の救援に立ち上がった。

                「春秋左氏伝 定公五年」



       
          


     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(春秋の妖婦・夏姫)

     「春秋の妖婦夏姫 その3」

                        春秋(東周)時代

      「夏姫、巫臣と共に晋に亡命」

      その後 楚の荘王は夏姫を連尹(弓矢の管理官)の襄老に娶わせた。

      ところがその襄老は紀元前597年、楚晋の戦いである邲(ひつ)の

     戦いにおいて戦死してしまった。

      そして、その遺骸は晋に奪い去られてしまった。

      夏姫は夫の死後、襄老の子・黒要と通じ、さらには巫臣とも通じた

     のである。

      それから幾年かが過ぎた。

      巫臣は人を介して密かに夏姫に伝えた。

      「生国の鄭に帰りなさい。その内に 正式の手続きを踏んで妻として

     迎えるべく鄭に行くつもりだ」と。

      その一方では、鄭伯(鄭の君)に働きかけて、

      「襄老の遺体が届けられるから、間違いなく引き取りに来るべし」

     と、楚に申し入れさせた。

      夏姫がこの報せを荘王に告げると、荘王は巫臣を召してその意見を

     求めた。

      巫臣は何食わぬ顔で応えるに、

      「それ信(まこと)ならん。襄老を討ち取った荀首は成公の寵臣であり、

     且つ中行伯(荀林父)の末弟でもあります。

      その彼は最近、中軍の副将となっております。その上 彼は鄭の皇戌

     とも昵懇なのです。

      ところがこの荀首の最愛の息子の知罃(ちおう)は、我が国の捕虜

     となっている訳です。

      そのような訳で、晋は捕虜の交換を考えておるのではないでしょうか。

      鄭にしてみれば、先の邲の戦いで晋に恐れをなし、誼を通じようと

     進んで仲介の労を引き受けたのに相違ございません」と。

      そこで荘王は、夏姫を鄭に帰らすことにした。

      諸々の手筈が整ってから、巫臣は夏姫に対して、後に時宜を見て

     妻として迎える算段のあることを報せた。

      夏姫は故郷の鄭へ旅立つに際して見送り人達に、

      「尸(し)を得ずんば我 反(かえ)らじ」、と。

      我が夫の屍骸を受け取るまでは、楚に帰ることはありません。

      かくして鄭に帰った夏姫は、兄の鄭伯に迎え入れられた。

      準備万端を整えた巫臣は、密かに鄭伯に夏姫を妻として迎え入れたい

     と申し入れ、許されることとなった。

      それから幾年か経ち、楚では荘王が没し(前591年)、共王(熊審)

     が二十四代君主として即位した。

      そして荘王の喪が明けると、共王は斉と盟約を交わして魯を討とうと

     したが、戦いを始める前に、出師の打ち合わせで巫臣を斉への使者と

     して派遣することにした。

      かくして巫臣一行が鄭に到着すると、同行していた副使らに鄭から

     楚への贈り物を持たせて帰国させ、自らは手筈通り夏姫を伴い斉へ

     亡命しようとした。

      ところが思惑が外れて、亡命しようと画策した斉が晋に敗れるという

     急報(紀元589年の鞍の戦い)に接し、急遽 晋の大夫・郤至を頼る

     ことにして、取り敢えずは単身で晋に亡命した。

                     「春秋左氏伝 成公二年」

    テーマ : 中国古典・名言
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    Author:tyouseimaru
    出身地は四国八十八か所参りの発心の阿波、大阪を終の棲家とする。
    歴史好きで、城郭・神社仏閣・歴史遺跡巡りが趣味となる。
    歴史小説や時代小説を好み、往年の著名な時代小説の類は概ね完読と、自負している。

    自薦
    自著「中国通史で辿る名言・故事探訪」の 上・中・下の3巻を、 近い内に「電子書籍」での出版を予定しています。 今年一年間は、さらに工夫を加えるなどして、補記訂正などの校正を第一義としています。       
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