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    中国通史で辿る名言・故事探訪(晋・平公の賢臣伝)

     「賢人・叔向と師曠」

                        春秋時代

     晋の29代平公(在位 前557~532)は太子の時に、晋の第一の

    英才と言われた叔向(しゅくきょう。羊舌肸《きつ》とも)が傅(お守り役)

    に付けられ、また壮年になってからは、盲目ながら賢人と称せられた

    師曠(しこう)を我が師と仰いだ。

     この師曠は、音楽の才に留まらず、物事の判断力、予測能力に優れ、

    且つ行政や治世の才もあり、平公の政治顧問としても珍重された。

     先代の悼公から平公の初期の時代に、最も権勢を誇ったのは

    欒氏(らんし)一族であった。

     その欒氏も紀元前550年に范宣子に滅ぼされ、代わって范氏一族の

    天下となる。

     この范氏は、その封地から士氏、随氏ともいう。


     「士を好べば、即ち賢士至る」

     君主が真に士を求めるならば、士は必ず集まるもの。

     晋の平公が西河に遊んだ時、嘆じて言った、

     「ああ、いずくんぞ賢士を得て与にこの楽を共にする者ぞ」と。

     すると船人の固桑進が対えて言った、

     「君の言 過(あやま)てり。

      それ剣は越に産し、珠は江漢(長江と漢水)に産し、玉は崑崙に

     産す。

      この三宝は皆 足無くして至る。

      今 君いやしくも士を好めば、則ち賢士至らん」と。

                  前漢の劉向 「新序」

     「田差、平公の驕奢を諌める」

     ある時 晋の平公が、疾駆させる豪華な馬車を作った。

     そして車には彩りの華やかな竜の旗を立て、之に犀や象の角を下げ、

    羽根飾りを付けた。

     そして車が完成すると、

     “ 金 千鎰(せんいつ)の車 ”、と書写してそれを宮殿の下に置き、

    群臣の観覧に供した。

     群臣の我も我もと見物する中、ただ一人 田差(でんし)はそこを

    三度も通りかかったのに一度も振り向かなかった。

     その様子を見ていた平公は、顔色を変えて激怒し田差を詰問した。

     「汝は車の側を三回通りかかったのに、一度も振り向かなかった。

     それには何か訳でもあるのか」と。

     すると田差は対えて、

     「私はこう聞いております。

     天子を相手としては天下の事を語り、諸侯を相手としては国家の事を

    語り、大夫を相手としては官職の事を語り、士を相手としては職務の事を

    語り、農夫を相手としては食糧の事を語り、婦女子を相手としては織物の

    事を語る、と。

     翻って桀王(夏の王)は驕奢の為に滅亡し、紂王(殷の王)は淫佚の

    為に没落したわけですので、私はあの車を振り向いて見たくはなかった

    のです」、と。

     平公はこれを聞くと、

     「よく分かった」と言い、側近の者に命じて直ちに車を片付けさせた。

                        前漢 劉向 『説苑 晋・反質』


     
      

    テーマ : 中国古典・名言
    ジャンル : 学問・文化・芸術

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(画工、牧童に笑わる)

     「画工、闘牛の尾を誤りて、牧童に笑わる」

                        宋代

      絵を描くにしても実物をよく見て描かないと、つまらぬ失敗を犯すもの。

      画家が闘牛の図を描いたが、誤ってその尻尾を伸びやかに描いたので、

     絵心の無い牧童に笑われたというもの。

      従って、仮令 無学の者と雖も、その専門の道には詳しいものだから、

     その教えを受けるがよいという意味。

      蜀という地に、杜(と)と言う処士(在野の人)がいた。

      書画を好み、宝として保有する書画は百を越えていた。

      その中でも戴嵩(たいすう)の描くところの「闘牛図」の一軸を最も

     大切にし、玉の軸を付けて錦の袋に入れて常に肌身離さず持っていた。

      ある日のこと、杜は書画を虫干ししたが、一人の牧童がその闘牛図を

     見て、手を打って大笑いして言った。

      「牛は闘えば、力は自ずから角に集まるから、尻尾は力が抜けて両股の

     間に巻き込むものです。

      この絵を見ると、なんと尻尾を振っていますよ。

      これは、明らかに間違っております」と。

      そう言われて杜は、笑って言った。

      「なるほどその通りだな」と。 

                         蘇軾 「戴嵩、牛を画くの書」




      

      

      

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(呉国の末路)

     「呉国の末路」

                        三国時代

      呉の元興元年(264年)二月に、三代皇帝景帝(孫休)が崩じた時、

     大子はまだ幼く、この難局を乗り切るためには成人の皇帝を立てるべき

     であるとして、丞相濮陽興は左将軍の張布らに諮って、元の廃大子で

     ある孫和の子・孫皓(こう)を迎えて帝位に就けた。

      ところがこの孫皓、帝位に就くや途端に暴君振りを発揮するように

     なった。其の内 孫皓を皇帝に推した二人は、孫皓に誅殺され、以後

     彼の暴走は止まるところを知らず、悪逆無道、遊興淫楽を事とする

     ようになった。

      人民の心は孫皓から離れ、もはや身命を擲って国を守ろうとする者は

     いなくなってしまった。

      結局 呉・天紀四年(280年)、呉は晋の武帝に滅ぼされたが、呉の

     最後の王(末帝)となった孫皓は、自ら進んで降伏したと云う事で、晋に

     迎え入れられ、帰命侯に封じられて存命したが、晋・太康元年

     (284年)に没した。

      

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    テーマ : 神話伝説逸話
    ジャンル : 学問・文化・芸術

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(鳳や鳳や、)

     「鳳や鳳や、故(もと)より是れ一鳳なり」

                        三国時代

     鳳、鳳と言っても、それ乃ち一羽の鳳に過ぎない。

     魏の鄧艾(とうがい)は、後に蜀を滅ぼす大功を立てるが、彼は生来、

    言葉が吃音(きつおん)であった。

     その為に話をする時は、口癖で

     「艾(がい)、 艾(がい)、 ‥ ‥ ‥ 」,と言った。

     即ち聞く人にとっては、それが自分の名前を二回繰り返すように聞えた

    のである。

     司馬師(後に晋朝を開く武帝から 文帝の諡号を贈られる)は、これを

    戯れて言う、

     「卿は艾艾と言う、定めて是れ幾艾なるか」と。

     鄧艾の名前が「艾」であったので、それにひっかけて何人乂がいるのか、

    と揶揄して言ったのである。

     ところがこの鄧艾は、当に文武両道の秀でた人であったので、論語の

    一句をもじって答えた。

     「鳳や鳳や、故より是れ一鳳なり」、と。 

              南朝・宋の劉義慶編 「世説新語・言語編」


      「論語 微子篇第十八」

        楚の狂接與 歌うて孔子を過ぎて曰はく、

        「鳳や鳳や、何ぞ徳の衰えたる。往く者は諌むべからず。来たる者

        は猶追うべし。已みなん已みなん。今の政に従ふ者は殆し。」

        ※ 鳳は霊鳥であり、世の中 道があれば現れ、道が無ければ

         隠れて姿を現さない。

           狂接與は、鳳を以って孔子に比し、孔子がかかる無道の世

          から隠れることを欲したのである。

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(王褒これに在り)

     「王褒(おうほう)これに在り」

                         三国時代

      魏の王褒の母は、平生ひどく雷を懼れる人であった。

      その母が亡くなった後にも、王褒は電車(雷のこと)のしける時には、

     急ぎ母の墓所へ行って、「褒はこれに在り」と言っては、墓の周囲を

     廻り、死んだ母に力を添えたと謂う。

      人は言う、

      「このように死して後まで孝行を続ける王褒の、生前の親に対する孝行

     や推して知るべし」と。

      王褒は、舜や曾参などの古今の孝子を総称する「二十四孝」の一人に

     数えられる。

      祖父の王脩(しゅう)は後漢末、渤海の太守・孔融の主簿(文書帳簿

     の管理官)となり、高密県の令を務め、孔融の死後は袁譚に仕えて、

     その忠節ぶりが謳われた。後 曹操に仕えて、魏郡太守となり、大司農

     や郎中令となった。

      王脩の子である王儀は、気品ある誠実な人柄であったので、安東将軍

     の司馬昭(後の晋の元帝)は、王儀を自らの司馬に任じた。

      魏・嘉平四年(252年)、魏は呉に対して討伐軍を発向したが、

     事実上 負け戦となって虚しく帰還した。

      司馬昭は、司馬の王儀に言った、

      「この責任は誰が負うのか」と。

      王儀は、

      「軍の責任は統帥にございます」と。

      言わずもがなの王儀は、激怒した司馬昭に誅殺されてしまった。

      この王儀の子が、王褒である。

      字は偉元と言い、若年より品行高く、礼に外れた行動は取らなかった。

      罪無くして断罪された父の無念を思い、一期の間は、其の方に

     向かって座る事は無かった。

      そして世間との交渉を絶ち、父の墓の側に廬を建て、来る日も来る日も 

     朝夕は頠づいては祈りを捧げたが、悲しみの余り、側に植えられた柏の木

     に取りすがって哭礼した。

      彼の涙がその木に降りかかり、やがて柏の木が枯れてしまった。

      やがて王褒は、教育こそが己の天職とし、遂に官に就く事は無かった。

      彼の晩年、国都の洛陽は崩壊したので、王褒の親族を含め多くの者

     たちが南方に向かって避難して行ったが、王褒は先祖の墳墓に執着し

     て決心がつかなかった。

      賊徒は次第に強勢となり、流石に王褒も墳墓を後にして泰山郡まで来た

     が、郷土を懐かしんで進むことを承知せず、其の内賊徒に捕まり殺害され

     てしまった。

                         東晋時代 干宝「捜神記」

      

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    テーマ : 神話伝説逸話
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    Author:tyouseimaru
    出身地は四国八十八か所参りの発心の阿波、大阪を終の棲家とする。
    歴史好きで、城郭・神社仏閣・歴史遺跡巡りが趣味となる。
    歴史小説や時代小説を好み、往年の著名な時代小説の類は概ね完読と、自負している。

    自薦
    自著「中国通史で辿る名言・故事探訪」の 上・中・下の3巻を、 近い内に「電子書籍」での出版を予定しています。 今年一年間は、さらに工夫を加えるなどして、補記訂正などの校正を第一義としています。       
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