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    中国通史で辿る名言・故事探訪(西伯昌、羑里に幽閉)

      「西伯昌、羑里に幽閉される」

                        殷王朝

       后稷(こうしょく)を祖とする周は、西伯昌の代になって政治の範

      を后稷・公劉(后稷の曽孫)・古公亶父(ここうたんぽ。西伯昌の

      祖父)・季公(西伯昌の父で王季とも)等の先君に求めて、仁政に

      これ努め、老を敬い少を慈しみ、賢者には礼下し日中まで食するに

      暇非ず。以って士を待つという国風を醸し出していた。

       そのような訳もあって、多くの士がその下に帰した。またその名声

      はとみに高まっていた。

       そんな彼の下には、太顛(たいてん)・閎夭(こうよう)・散宜生

      (さんぎせい)・鬻子(いくし)・辛甲大夫らが集まってきた。

       三公でただ一人生き残った西伯昌が、先に処罰された三公で

      あった九侯と鄂侯(がくこう)のことを悲しんで嘆息すると、早速 

      紂王に密告する者がいた。

       西伯昌の人望を嫉む諸侯の一人の崇侯虎(すうこうこ)である。

       「西伯昌は盛んに善を積み徳を重ねており、諸侯が皆之に従おう

      としております。

       これは当に帝にとりて、利とはなりませんぞ」と謗ったのである。

       この中傷があって、西伯昌は直ちに羑里(ゆうり)に幽閉された。

         ※ 羑里は地名であるが、殷代においては「獄舎」の名でも

           あった。

            西伯昌の羑里の幽閉は、史記説では紀元前1068年。

        だが西伯昌の臣下である閎夭、散宜生らが有莘国の美人や、

        驪戎、国の文馬や有熊地方の駿馬三十六頭、その外多くの珍品

        を調達して、朝廷の寵臣・費中を通じて献上した。

           ※ 文馬とは、たて髪は赤く、馬体に縞模様があり、黄金の

             眼をした稀有の馬といわれる。

         紂王は相好を崩して、喜んで言ったものである。

         「この一物(有莘国の美女のこと)にしても、以って西伯昌を

        釈(ゆる)すに足る。況やその多きをや」と。

         即ち西伯昌を赦し、これに弓矢斧鉞などの下賜品に加えて

        夷荻征伐の権まで与えたのである。そしてあろう事に、西伯昌を

        謗ったのは崇侯虎だとも口を滑らした。

         だが西伯昌はそれを聞いても怒るどころか、この機会に洛西

        の地を紂王に献上することを申し出て、其れと引き換えに「炮烙の

        刑」の廃止を請願して、承知させた。

                       「史記」殷本紀



       

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(因声求義)

     「因声求義」

                        清代

      清の初期、古代言語研究を極めるために「小学」という学問が

     生れた。

      古代の経書は難解な文語体で書かれているため、これを読み解く

     ために古代言語研究の手法として「小学」が発達した。

      この小学によれば、漢字は字形が概念を表わすのではなく、音が

     概念を表わすという考え方を取り、同音のものが同義を表わすとなす。

      即ち、「声に因りて義を求む」という原則を唱えた。

      その代表的人物が段玉裁や王念孫であり、小学は考証学の重要な

     拠り所となった。

      この小学を駆使して、経書やそれに関係のある古典籍をこと細かく

     解釈できるようになった。

      ※ 段玉裁は言語学と音韻学に通じ、後漢の許慎の

       「説文解字」の注釈書を著す。

        王念孫は古書や伝書の誤りを正し、管子・墨子・淮南子

       などを読めるように復元した。

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(恥かき井戸)

     「恥かき井戸」

                        隋代

      隋に滅ぼされた陳の後主・陳叔宝の、土壇場における君に

     あるまじき見苦しい振る舞いの故事。

      「辱井」ともいう。

      陳の君主・陳叔宝は常に自国が長江という天然の要塞に守られて

     いるとして、何の心配もすることなく遊興淫楽に現を抜かしていた。

      ※ 君主である陳叔宝は陳最後の国主であるので、

        後世の史家は彼を後主と記す。

      その為やがて政治は宦官などの手に委ねられ、賄賂は横行、

     綱紀は紊乱し、最早 収拾のつかない状況に立ち至っていた。

      丁度そのような状況下に、隋は全国統一を目指して陳に大軍を

     発向した。

      隋軍は二手に分けて長江を渡河したが、韓擒虎(きんこ) 率いる

     一隊は夜陰に乗じて国都・建康の外れにある新林から一挙に朱雀門

     に殺到した。

      その戦況の報告に接して、陳叔宝はもはや如何ともし難く、急遽

     景陽にある井戸の中に身を隠した。

      ところが城内捜索中の一隊の兵が、井戸の中の様子を窺うために

     当に岩石を投下しようとした、その時 井戸の中から援けを求める声

     がした。

      そこで隋兵が縄を下ろして引き揚げてみると、何と国主の陳叔宝と

     二人の愛妾とが引き揚げられてきたのである。

      早速 彼らの身は長安へ送られたが、当時の慣習に反して珍しく

     も陳王朝は滅亡したにもかかわらず、隋王朝から比較的良く厚遇

     されることとなった。

      その為 陳叔宝もその余生を全うしたという。

      後世に至り、陳叔宝らの隠れた井戸は「恥かき井戸」と呼ばれる

     ようになった。

                    「十八史略 隋」 
     
      

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(洪武帝の六諭)

     
    「洪武帝の六諭」

                        明代

      明朝を創建した洪武帝(朱元璋)は、異民族の元朝支配下に

     荒んだ天下の人心の安定を重んじ、離農放浪していた農民の

     帰農を推し進めるとともに、人民教化策として、その守るべき道を

     示そうとした。

      洪武帝は、人民支配の原理として「朱子学」を国家学となし、

     その徳目を人民階級に普及させようとして、1397年 六カ条の教訓

     を発布した。
      
      これを洪武帝(或いは明)の「六諭(りくゆ)という。

         一  父母に孝順なれ。    

         二  子孫を教訓せよ。

         三  長上(年長者)を尊敬せよ。

         四  各々 生理(生計の道)に安ぜよ。

         五  郷里に和睦せよ。

         六  非為(不法)を作(な)す毋(なか)れ。


       明朝のこの「六諭」は、次の清朝にも受け継がれて、

      「六諭衍義(りくゆえんぎ)」となった。

      

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(格物か致知か)

     「朱子と王陽明の格物致知論」

                        南宋~明

      儒教の経典である「四書五経」のうち、「四書」の一つである

     “大学”は、儒教の教義を簡潔かつ体系的に叙した書である。

      その大学に曰く、

      「古の明徳を明らかにせんと欲する者は、先ずその国を治む。

                               (治国)

      その国を治めんと欲する者は、先ずその家を斉(ととの)う。

                               (斉家)

      その家を斉えんと欲する者は、先ずその身を修む。

                               (修身)

      その身を修めんと欲する者は、先ずその心を正す。

                               (正心)

      その心を正さんと欲する者は、先ずその意を誠にす。

                               (誠意)

      その意を誠にせんと欲する者は、先ずその知を致す。

                               (到知)

      知を致すは、物に格(いた)るに在り。」と。

                               (格物)  

      ところで「到知」と「格物」については、古来から解釈が分かれた。

      朱子は到知を解して、

      「到は押し極むるなり、知はなお識の如し。

      我の知識を押し極めて、その知るところが尽きざること無からんを

     欲するなり」と。

      (=知識を徹底的に追求して求め、あらゆる事物を知り尽くすのが

       到知の本義なのだ。)

      この解釈に対して、後の時代(明)の王陽明(守仁)は曰く、

      「知は、これ心の本体なり。

      朱子の如く知識と解せば、知識は刻々増進してやまない。

      心の本体と解せば、始めより完全に具備していて、少しも増減する

     ことは無い。

      これを良知といい天性に根ざすものである。」と。

      両説をさら突っ込んで比較すると、

      朱子は説く、

      「あらゆる事物に即して、既知の理を手掛かりにして、日々努力して

     事物に内在する理を極め尽くせば、普遍的且つ客観的な道理を明らか

     にし、知の認識作用を完全なものと成すことができる」と。

      これを砕けて言えば、

      「万物はすべて一木一草に至るまで、それぞれ理を備えている。

      この理を一つ一つ極めてゆけば、ある時 豁然として万物の表裏・

     精粗を明らかにすることが出来る。

      これが格物致知なのだ」と。

      この朱子説に対して、後代(明)の王陽明が反論した。

      王陽明の説くところは、

      格物の「物」とは、「事」である。

      事はすべて心の働き、意のあるところのものである。

      事と云うからには、そこに心があり、心の外には物も理も無い。

      故に格物の「格」とは、「正す」と読むべきで、事を正し・心を正す

     ことが「格物」である。

      悪を去り、心を正すことによって、人は心の中に先天的に備わる

     良知を明らかにすることが出来る。

      これが知を致すことであり、「良知」である。」と唱えた。

      朱子に対する王陽明の格物致知に関する論争を称して、

     「格物致知論争」という。

      
      

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    テーマ : 中国古典・名言
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    Author:tyouseimaru
    出身地は四国八十八か所参りの発心の阿波、大阪を終の棲家とする。
    歴史好きで、城郭・神社仏閣・歴史遺跡巡りが趣味となる。
    歴史小説や時代小説を好み、往年の著名な時代小説の類は概ね完読と、自負している。

    自薦
    自著「中国通史で辿る名言・故事探訪」の 上・中・下の3巻を、 近い内に「電子書籍」での出版を予定しています。 今年一年間は、さらに工夫を加えるなどして、補記訂正などの校正を第一義としています。       
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