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    中国通史で辿る名言・故事探訪(斉の田氏)

     「斉の田乞、田氏隆盛の基礎固め」

                        春秋時代

     田乞(「こつ」は慣用読み。字は釐子【きし】)は、春秋の覇者 斉の桓公

    の時に陳から亡命してきた王族(公子)陳完の六世の孫で、斉の二十六代

    景公に仕えて大夫となり、次第に才略を以って田氏隆盛の基礎を確固たる

    ものにした。

     【小斗を以って受け、民に与えるに大斗を以ってす。】

     年貢は小さな枡(斉の公用枡)で受け取り、

     貸し与える時は何と大きめの枡(田氏の私用枡)を使い領民の衆望を得た。

     景公はその事を黙認したが、宰相の晏嬰が王を諌めるが聞き入れなかった。

     この田氏の魂胆を見抜いた晏嬰、仕方なく。

     「斉はやがて田氏のものとなろう』と予言した」という。

                         「史記 田敬仲世家」




     

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    テーマ : 中国古典・名言
    ジャンル : 学問・文化・芸術

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(兵法家の誕生)

     「斉に救世主、現る」

                        春秋時代

    ” 将、軍に在りては君命も受けざることあり ” 

     戦場における前線指揮の将軍は、一旦軍中に入った以上は、たとえ

    君命があろうとも従わないこともある。

     田穣苴(じょうしょ)は斉の兵法家であり、その戦術は「司馬法」として

    広く普及した。

     彼の遠祖は、春秋時代の陳の公子・田完である。

     その田完は将軍職の大司馬に任ぜられたので、一般には司馬氏と

    言い習わされきた。

     田穣苴は、そのような訳で以後は司馬穣苴と記す。

     斉の26代景公の時代(前547年~490年)、斉は晋・燕に敗れて

    国はじり貧状態にあった。

     まさにそのような時、司馬穣苴は宰相の晏嬰(あんえい)に推挙されて

    出仕するようになった。

     穣苴は出仕するに当たって、景公にひとつの事を願い出た。

     「臣は微賤の出であるので、将士の信を得ることが出来ません。

     そこで君の寵臣で、国人らの敬愛を受けている人物を副将に付けて

    戴きたい」、と。

     景公はそこで荘賈(そうか)を任命した。

     穣苴は荘賈に対して、翌日正午に軍門に集まるよう命令を伝達した。

     荘賈は穣苴を軽く見ていたので、自分の送別の宴が正午を過ぎても

    軍門に行かなかった。

     やがて招集の時間が来たので、穣苴は全軍の閲兵をして軍令を伝達

    した。

     夕方になってから、ようやく荘賈が現れた。

     穣苴は軍令官に、

     「遅刻した罪は何であるか」と聞き、

     それが斬罪であることを確認すると、これに従って荘賈を処罰しよう

    とした。

     これに驚いた荘賈は、急ぎ景公の元へ急使を派遣した。

     しかし穣苴は全軍に軍律の厳しさを徹底させるため、穣苴の処刑を

    執行してしまった。

     間もなく君侯の使者が、赦免状を持って軍営の中を下馬しないで

    乗り込んで来た。 

     穣苴は使者に対して、

     「将は、軍中に在りては君命も受けざる所あり」、

    と言って全く動じないばかりか、軍令官に向って使者が陣中を馬で馳せた

    罪が斬罪に当たることを確認した上で、

     「君侯の使者を斬ることは出来ない」と言って、使者の馬車馬と御者

    を斬らせた。

     このように穣苴の軍律は厳格を極めたが、自分の俸禄を私せず散財し、

    自ら病人には薬を煎じ、兵と同じ食事を摂った。

     かくして三日後には、全軍は勇躍して出陣した。

     この新しい斉軍の動向を伝え聞いた晋・燕軍は、戦わずして斉の占領地

    から撤退を開始した。

                         「史記 司馬穣苴列伝」

       

     

     

    テーマ : 中国古典・名言
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    中国通史で辿る名言・故事探訪(卿大夫の専横)

      「君主弑殺の魁」

                        春秋時代

     斉においては、春秋の初期において覇者となった16代桓公の死後、

    1世紀が経った頃から公子達の間で激しい君位の相続争いが起こり、

    内紛が絶えなかった。

     その当然の結果として国の実権は、次第に君侯を擁立しようとする

    卿大夫に握られるようになっていった。

     そのような状況下 大夫の崔杼(さいちょ)が擁立する公子・呂光が

    即位した。これが25代荘公である。

     大夫・崔杼の臣下で東郭偃という者がいた。

     その者の姉の姜は、棠の大夫・棠公に嫁しており、名は棠姜という。

     ところが棠公が死ぬや、その美貌に目を付けた崔杼は東郭偃の反対

    にも拘らず強引に娶ってしまった。

      ※ 古代中国では、「同姓に嫁せず」という不文律の慣行があった。

        崔杼の先祖は斉の丁公(2代)であり、東郭偃の先祖は斉の桓公

        (16代)で、共に姜姓(呂姓とも)であった。

     そうした或る日 崔杼の妻となった東郭偃の姉・姜と荘公が密通する

    ようになった。荘公の恩知らずともいえる行為であった。

     それ以後 崔杼は荘公弑殺を決意し、その機会を窺っていた。

     その内 隣国の晋に内乱が生じると、荘公は好機到来とばかりに晋に

    攻撃を仕掛けた。

     崔杼は強敵となる晋を恐れて、いよいよ荘公を亡き者にしようと謀るが、

    容易にその機会を掴むことが出来ないので、荘公の近侍の者を抱き込ん

    だりして動静を窺っていた。

     五月になり莒の君主が伺候して来たので、歓迎の酒宴が張られたが

    崔杼は病と称して列席しなかった。

     その翌日 荘公が見舞いにかこつけて崔家を訪れたが、直ちに崔姜

    の部屋に向かった。

     だがこの時、崔姜は夫と共に室外へ逃れていた。

     荘公の供をしてきた近侍の賈挙(かきょ)は、他の従者を全て屋外に

    残し、自分だけ屋敷内に入ると出入り口をすべて閉じてしまった。

     そして突如として、崔杼の手はずどおり、隠しておいた武装兵が荘公

    を取り囲み弑殺した。

     荘公の直属の臣や騒乱を聞きつけて駈け込んで来た幾人かの忠臣は

    壮絶な討死を遂げた。

                      「春秋左氏伝 襄公二十五年」



     

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(士大夫の時代へ)

     「晋の勢力交代」 

                        春秋時代

     晋の平公(29代)の御世(紀元前557年~532年)、その2年前

    までは欒(らん)氏一族が勢力を誇っていたが、大夫の范宣子(士匃)が

    首謀となり欒氏一族を誅滅しようとした。

     欒氏の宗家の欒盈(らんえい)は敗れて楚に奔り、さらに斉に亡命

    して巻き返しを画策した。

     魯・襄公二十二年(前550年)、晋では平公八年の時 斉の荘公

    (25代)の陰の支援により、欒盈は晋の国都・曲沃に潜入し、胥午や

    魏献子(魏舒)を味方に引き入れて反撃に出ようとした。

     だが士匃(しかい)親子は冷静な判断で以って、その持てる権力を

    最大限に発揮して反乱を鎮圧した。

     欒盈は誅殺したが、欒魴(ぼう)は宋に逃亡した。

     この陰謀があってから、晋の旧貴族である胥氏、原(先)氏、孤氏、

    続(しょく)氏、慶氏、伯氏などが滅び去った。

     その結果 生き残ったのは、中行氏(荀氏)・知(智)氏・范氏(士氏)・

    韓氏・魏氏それに趙氏らの六人の卿大夫であり、所謂 「六卿」であった。

     その中でも最大の権力を握っていたのは、欒氏を亡ぼした范宣子(士匃)

    と次代を担った宣子の子である范献子(士鞅)である。

     彼等の担った時代は、旧王侯貴族に取って代わり新しい勢力となった

    ので、「士大夫の時代」という。 



         

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(儒家の祖)

     「孔子生れる」

                        春秋時代

     公子の生没年については、通説では紀元前551年~479年となる。

     春秋公羊伝や春秋穀梁伝では、紀元前552年~479年。

     孔子は「儒家の祖」とされる。孔子の名は丘、字は仲尼。

     魯の昌平郷の貧しい家に生まれる。

     孔子は神話時代の堯・舜、古代の周王朝の文王(追贈)・武王・叔旦

    (周公旦)を尊崇し、古来の思想を大成した。

     仁を理想の道徳となし、孝悌と忠恕とを以って理想を達成しようとした。

     孔子の父は、孔紇(こつ)と言い、字は叔梁。背が高く武に優れていた

    という。

     母は顔氏の三女で、名は徴在。正式の婚姻(媒酌人のある婚姻)関係

    ではなかったので、孔子は正嫡出子ではなかった。

     「史記・孔子世家」によれば、

     「孔紇、顔氏の女と野合(やごう)して孔子を生む。

     尼丘(丘の名)に祷(いの)りて孔子を得たり。

     魯の襄公二十二年(前551年)にして孔子生まる。

     首上(頭上) 圩頂(うちょう。頭の頂が窪むの意)なり。

     故に因りて名付けて丘と曰う」と。

     公子は幼児の時から、「俎豆(そとう)遊び」と言って、祭器をいじくって

    独りで遊んでいたという。

     それと言うのも孔子の母が、儒と云う祈祷師(招魂礼儀など)の出自

    であり、そういう家庭環境の為せる子供心の業ではないかとも言われる。

      ※ 史記に言う「野合」云々については説が分れる。

         絶対的条件である仲人を介していないので、正式の夫婦に非ず、

        とする説。

         正式に結婚したが、当時の仕来りで要求される礼儀の全てが

        不備であったとする説。

     貧困の内に育ったが、長じてからは魯国の三桓と言われた実力者の

    季孫氏に仕え、初めは穀物の測量に従事、次いでその仕事ぶりが

    認められて牧畜の任に就いた。

     孔子と「道家の祖」とされる老子の関係について、「史記」では孔子の

    弟子となっていた南宮敬叔(魯の三桓の仲孫何忌の二男)が君主の許し

    を得て孔子と共に周都に遊学し、老子について「礼」を学んだと記す。

     後世 聖人君主と崇められる孔子の言行録・事績は、飛躍したり拡大

    解釈されて伝わるようになるが、漢代に至り儒教が国教となった、という

    事実に留意しておく必要がある。

     ☷ 拾遺・弥縫

       「四聖人」

        神話時代の伏羲氏・周の文王・春秋時代の孔子を「三聖人」と

       いうが、孔子は周の建国功労者の周公旦を聖人として崇めるので、

       この四人を「四聖人」となす。

        戦国時代の孟子は、聖人に準ずるという意味で、「阿聖」と言わ

       れる。

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    tyouseimaru

    Author:tyouseimaru
    出身地は四国八十八か所参りの発心の阿波、大阪を終の棲家とする。
    歴史好きで、城郭・神社仏閣・歴史遺跡巡りが趣味となる。
    歴史小説や時代小説を好み、往年の著名な時代小説の類は概ね完読と、自負している。

    自薦
    自著「中国通史で辿る名言・故事探訪」の 上・中・下の3巻を、 近い内に「電子書籍」での出版を予定しています。 今年一年間は、さらに工夫を加えるなどして、補記訂正などの校正を第一義としています。       
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