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    中国通史で辿る名言・故事探訪(秦の穆公)

     「秦の穆公の雄略と死」

                        春秋(東周)時代

      秦の穆公三十六年(前625年)、穆公は孟明視等に兵を授けて、

     再び晋を攻略した。

      たちまち晋軍を一蹴して、王官や殽の地を奪取し、ここにおいて殽山

     の敗戦の復讐を遂げることが出来た。

      穆公も茅津から黄河を渡り、殽山の地に遺棄された将兵の遺骸を

     埋葬し、全軍に喪を発して三日間にわたり哭泣の礼を行った。

      後世をして以って余が過ちを記さしむ

      その後、全軍に宣言した。

    「汝ら士卒、謹んで我が誓を聞け。

      古の人、黄髪番番たるに謀れば、過つところなし。

      (=昔の人は事を謀るに際して、老人の順次に従って行ってきたので、

       過つことは無かった。)

       ※ 黄髪とは老人。

          番番は事の順序。

      然るの余はその戒めを破り、蹇叔・百里奚の諌めを聞かず、

     多くの忠良なる将士を死に至らしめた。

      故にこの誓を作り、後世をして以って余が過ちを記さしむ」と。 

      これを聞いて涙せぬ者とておらず、益々穆公に信頼を寄せたという。

      そして翌年、穆公は由余の作戦に基づき、西方の異民族を討伐し、

     戎王の治下にあった十二の国を併呑した。その領土を広げること千里

     に及んだ。

      天子は召公過を派遣して、穆公に金鼓を贈りその功を称えた。

        ※ 金鼓:金属製の楽器。元は鐘(退却時の合図)と

              鼓(進撃時の合図)

      「穆公の死」

      穆公三十九年(前621年)に、穆公は崩じて雍に葬られた。

      時に殉死者は百七十七人に及んだという。

      その中には名臣も多く含まれており、彼らの殉死を悲しみ,秦の人々

     は、「黄鳥の詩」を作って鎮魂歌とした。

      この詩が、「詩経 秦風・黄鳥」である。

      後世の人々は穆公を評して言う、

      覇王に等しい功績を挙げながら、諸侯の盟主になれなかったのは、

     死に際して後事を忘れ、あらた名臣たちを殉死させたことによる、と。

      事実この殉死により、秦の国力は著しく低下し、再び復興して戦国

     時代の雄となるのは、十五世の後の昭王(前306年→251年)の時代

     になってからである。

                      「史記 秦本紀」



     

      

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(郤氏の復活)

     「敬いて相待つこと賓の如し」


                     東周王朝

      ある日のこと、冀(き)に逼塞していた晋の郤缺(げきけつ。郤成子、

     冀缺とも)が田野に出て雑草を刈り、彼の妻がその食事を用意する姿

     があった。

      彼らのその姿や態度、仕草たるや、当に賓客を迎えての接待である

     ような恭敬なものであった。

      その二人の不思議な光景に目を止めた者がいた。

      晋の文公の股肱の臣でまた重臣でもあった臼季(きゅうき。胥臣とも)

     である。

      思えば夫婦のようでありながら互いに敬い、まるで賓客を遇し合って

     いるような光景に接して、臼季は興味を覚えた。

      二人に近寄って見ると、なんとその正体が文公暗殺を企てたことの

     ある今は亡き郤芮(げきぜい)、その子の郤缺であることを知り、臼季は

     さらに驚かされた。

      だがこの時期には晋は、既に国内を完全に統一し、対外的に活動する

     時期に至っていたので、臼季は強いて言えば郤缺ら謀反人の追求者で

     はなかった。

      その後 臼季は郤缺を伴って文王に帰朝報告したが、その際に

     郤缺を推挙した。

      文公は、不機嫌な顔をして承知しようとしなかった。

      「あれの父(郤芮)には、罪(文公の暗殺を謀った経緯)がある。

       それでも良いというのか」と。

      だが臼季は引き下がらず、古の聖人舜と斉の桓公の故事を引き合い

     にして、即ち罪ある者の子を許したり、罪ある本人を許したという例を

     挙げて説得し、

      さらに康誥(書経の篇)を引き合いに出して説得した。

      「父は慈(いつく)しまず、子は親を敬わず、兄は弟を憐れまず、

      弟は兄に仕えざるも、其の罪 相及ぼすものならず」と。

      また詩(詩経)に曰く、

         葑(かぶ)の葉を摘み、韮の葉を摘む。

         根の悪しきとて、葉は棄つるなかれ。

      郤芮の子であるとはいえ、郤缺には優れた資質がございますので、

     捨て置かれませんように。

      臣はこのようにも聞きます、

      「門を出ずるに賓の如く、事を承るに祭りの如くなるは、仁の則なり」と。

      その説得に流石の文公も折れて、郤缺を取り立ててえ、下軍の大夫に

     任じた。

                 「国語 晋語」、「春秋左氏伝 僖公三十三年」 

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(苑濮の盟)

     「苑濮の盟」

                         東周

      前629年 衛は狄に攻め込まれて帝丘(商丘とも)に遷都した。

      それより前の紀元前634年、衛では文公(21代)の卒(しゅつ)

    後 その子の鄭が即位した。これが22代成公である。

      だが当時、晋と楚という二大強国に挟まれた衛などの弱小国は、

     その舵取りを誤れば亡国の運命を背負うこともあった。

      後に宋国を巡る晋と楚の覇権をかけた戦いで、成公は先代に引き

     続き楚を与国として晋に立ち向かった。

      だが戦いが始まるや晋の策謀により、成公は一時期ではあるが国人

     らに国を追われ、楚に奔ることになる。

      晋に攻略された衛の国人層が晋の要求により、国を復する条件として

     衛君の追放を呑んだのである。

      そして両雄の争いで現実に覇権を手中にしたのは、晋の文公である。

      文公は、斉の桓公に続いて春秋の第2代目の覇者となる。

      後に六月になると、成公は晋に許されて衛に復帰した。

      成公に随行して国外にいた賢大夫の寗武子(ねいぶし)は、衛の国人

     らと苑濮で盟をなした。

      其の命に曰く、

      天 衛国に禍し、君臣協(かな)わず、以って此の憂いに及べり。

      今 天 その衷(まこと)を誘い、皆 心を降して以って相従わしむる

     なり。

      (=だが今や、天のお蔭で以って君臣共々衷心を取り戻し、立場を

       越えて和協するようになった。)

      居る者(残留者)有らずんば、誰か社稷を守らん。

      行く者(君の随行者)有らずんば、誰か牧圉を守らん。

         ※ 牧圉とは、ここでは君の御車を管理する者の意から、

          君の身辺警護をいう。

      
      不協の故に、以って明らかに盟を大神に乞いて、以って天衷を啓く。

      (=和協しなかったので、ここで大神に誓いを立てて、天の示す誠

       のお導きをお願いしよう。)

      今日より以往、既に盟うの後 行く者は其の力を保つことなく、居る者

     は其の罪を懼れること無かれ。

      (=今日より後、盟を交わした後は、君に随行した者は其の功労

       を誇ることなく、国に残留して祀りを守った者も君に従わなかった

       という罪を畏れることは無い。)

      この盟に背く者有れば、禍 たちどころに降りて、明神、先君これに

     誅罰を加えられんと。

      衛の国人は、此の盟を聞いてようやく、

      誰に付くべきか付かざるべきかと苦衷したり、疑心暗鬼の思いを

     持たなくなった。

                       「春秋左氏伝 僖公二十八年」




       

      

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(周室内紛の収束)

     「周王室の内紛 終息す

                        東周

      魯・僖公二十二年(前638)、周王朝の襄王(18代)は大夫富辰の

     助言を得て、斉に亡命中の王子帯(叔帯)を京師(周朝の都)に呼び

     戻した。

      この王子帯は、王室にとっては好ましからざる人物であった。

      折角 襄王は弟の王子帯を京師に呼び戻したが、前636年 王位を

     狙う王子帯に夷荻の「狄(翟とも)」と結託して京師に攻め込まれ、防戦

     するも利非ず,止む無く軋轢のあった鄭国に避難して身を寄せる事態と

     なった。

      春秋の筆法によると、天子が亡命したり逃走することを

      「外に蒙塵す」と記す。

      慣例的にて天子が王宮を出ると、下々の者は総動員されて、事前に

     その予定経路の露を落し、塵を祓い清めて、塵埃や霜露が玉体(天子

     の体)に触れてはならないとされていた。

      しかし天子の亡命や逃走といった非常時には、そのような措置をとる

     ことが出来るはずも無く、外に塵を蒙ると、糊塗したのである。

        ※ 諸侯以下の者が他国に逃れることは、「出奔」という。

          天子は天下を以って家と為すので、何処に行っても「居る」

         といい、「出る」ということは無い。

          敢えて「出る」といえば、天子を非難しての意を含む。 

      この戦いで大夫の富辰は、一族を率いて奮戦したが陣没した。

      その昔 襄王は鄭が臣下の礼を尽くさなかったので、異民族の狄

     と同盟し、その力を借りて鄭国に攻め込んだことがあった。

      そして周・狄同盟の証として狄の娘を周王朝の後宮に入れるという

     経緯があった。

      政略結婚であるから愛情がある訳はなく、頃合いを見計らって

     襄王はその娘を狄に追い返してしまった。

      その仕打ちに激怒した狄王は、野望を抱く襄王の弟の王子帯に

     与して周の京師を攻め、遂に襄王を追い詰めて王宮から鄭国に逃亡

     させてしまった。

      その年の冬、襄王は使者を魯に遣わし、周の騒動を告げさせた。

      魯の臧(ぞう)文仲《諱は孫辰》対えて曰く、

      「天子 外に蒙塵す。敢えて奔りて官守に問わざらんや」と。

      (=天子様は難を外に避けられておられる由。

        どうしてすぐにお伺いして、お役人たちのお指図を受けないで

       おられましょうや。)

      襄王はその後、前635年 春秋の覇者である晋の文公と秦の穆公

     との働きにより復位することができたが、王子帯は殺された。

          「史記 秦本紀」、

          「春秋左氏伝 僖公二十二年、二十四年、二十五年」



      

      

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(郤氏の雌伏)

     「郤氏の雌伏」

                        東周

      紀元前636年 晋の重耳は故国に迎え入れられて即位することに

     なったが、一方では重耳が流浪し他国に亡命中 晋に留まり官途

     に就いていた呂甥(史記では呂省)と郤芮(げきぜい)は、重耳の即位

    による報復の処罰を畏れて重耳(文公)暗殺計画を巡らしていた。

      だがその計画は、漏えいして失敗に帰した。

      重耳は事前に其の暗殺計画を知ることとなり、これに対処するため

     重耳は密かに秦に行き、秦の穆公と会見して秦の援助を仰いだ。

      三月晦日、郤芮らは計画通り反乱を起こした。

      主犯格の郤芮は逃亡した重耳を追い、子の郤缺は宮城に火を放ち

     残留兵と戦っていた。

      だが郤缺は、その内 攻守逆転の劣勢を悟り兵を退き、なおも追撃

     を避けるため一時 兵を山野に埋伏させた。

      そして最早 状況の好転は望めないとして、兵を解きそれぞれ分散

     して帰住させ、自らも妻子とわずかな供を従えて、父の封土の冀(き)

     へ逃れた。

      その内 父が呂甥と与に秦軍に謀殺されたことも、重耳が秦軍に

     護衛されて帰国し即位したことも知った。

      さてこれからは郤氏ら反逆した者たちの残党狩りが行われようが、

     大国の晋から逃亡して他国に亡命しても、その先行き危険はあって

     も安全はあり得なかった。

      郤缺は妻子とともに用心を重ねて、逼塞した生活を送った。その間も

     探索から逃れて何度も山野を往復した。

      その内 ようやく重耳 即ち文公の目が国内から国外に向けられる

     ようになってきた。

      それに伴い郤缺らは、野に出て耕作に親しむことが出来るように

     なった。

      郤缺には克(こつ)という男児があった。

      己自身はもはや公の場に出ることは無いが、せめて我が子には

     将来の機会に備え不足なきよう、己が師となり、日々 厳しく武術と

     礼法や学問を教え込んだ。

      また妻に対しても、

      「いついかなる場合も礼容(礼儀正しい動作)を崩すなかれ」

     と勉めさせた。

                       「春秋左氏伝 僖公二十四年」




       

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    Author:tyouseimaru
    出身地は四国八十八か所参りの発心の阿波、大阪を終の棲家とする。
    歴史好きで、城郭・神社仏閣・歴史遺跡巡りが趣味となる。
    歴史小説や時代小説を好み、往年の著名な時代小説の類は概ね完読と、自負している。

    自薦
    自著「中国通史で辿る名言・故事探訪」の 上・中・下の3巻を、 近い内に「電子書籍」での出版を予定しています。 今年一年間は、さらに工夫を加えるなどして、補記訂正などの校正を第一義としています。       
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