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    中国通史で辿る名言・故事(庚戍の変)

     「庚戍の変」


                         明代

      十五世紀後半 明王朝の弘治・正徳年間、モンゴルにおいては

     1487年、チンギスハーンの末裔を称するダヤン干(本名は

     バド・モンケ)がモンゴル南方(現在の内モンゴル)を平定して新しい

     支配体制を敷いた。

      その領域を左右に分かち、自らと長子のトロ・ボラトは左翼を守り、

     第三子のバルス・ボラトを副王にして右翼を守らせた。

      その後、左翼のダヤン干と後継者たる長子のトロ・ボラトが相次い

     で没するに及び、左翼は振るわなくなったが、右翼はますます強大

     化し、第四子のアルス・ボラトの長子のグン・ビリクが後継者になる。

      そして、その弟のアルタンとグンドレンがよく兄を援けた。

      嘉靖帝の頃から、アルタンらは明朝の北辺に侵寇を繰り返すように

     なった。

      これを何時しか、明王朝にとっての『北慮』というようになる。

      嘉靖二十一年(1542年)になると、内陸部の山西地方に侵寇し、

     一カ月以上にわたって略奪を繰り返した。

      住民ら二十余万人を殺戮し、家屋を焼くこと八万戸、家畜 

     二百万頭を掠め盗った。

      その後もアルタン・ハーンの軍勢の侵寇は連年にわたり、特に

     嘉靖二十九年(1550年)には、古北口から侵入して北京城を包囲

     すること数日に及んだ。明王朝が莫大な費用をかけて再構築した

     「万里の長城」は全く防衛の機能を果たさなかった。

      明王朝は、当に風前の灯火となるかに見えたという。

      このアルタン・ハーンの侵寇を庚戍(こうじゅつ)の変という。


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    中国通史で辿る名言・故事探訪(七大根の宣戦布告)

     「サルホの戦い」

      その始めは女真族のマンジュ五部の統率者であったヌルハチは、

     1615年末、その部族の一部の海西女真のイエヘ族を除いてほぼ

     全女真族を統一することに成功した。

      そして年が明けた1616年(天命元年)正月元旦、諸王や重臣に

     推されて「ハン位」に就いた。

      その国号を「後金」と定めた。

      即ちその昔 宋と覇権を争った女真族の国家であった「金」の

     後継者であるという大いなる誇りと自負によるものであった。

      そして自らは天命帝と号し、元号を「天命」と名付けた。

      だが後金が国家として自立するには、食糧の自給自足が急務

     であったが、今や遼東の総兵官であり明の交易を取り仕切る実力者

     でもあった李成梁が政変により失脚し、明の矛先がヌルハチに向け

     られ、剰え一方的に交易は断ち切られてしまった。

      そのような理由もあって、ヌルハチはいつまでも食料を明に頼って

     いたのでは心もとなく覚え、積もり積もった明に対する恨みごとを七つ

     取り上げて、宣戦布告の理由とした。

      これが「七大根の宣戦布告」と言われるものである。

      その理由となった大本の原因は、肉親の殺されたこと、女真(後金)

     と明との国境線の問題及び食糧収穫の問題とイエヘ部族の取り込み

     にあった。

      「七大根の理由」

     (1) 明は理由も無く父と祖父を殺した。

     (2) お互いに国境線を越えないという女真との誓約を破った。

     (3) 誓いを破った越境者を処刑したが、その報復に我が使者を

       殺して威嚇した。

     (4) 我らイエヘ部族の婚姻を妨げ、その娘をモンゴルに与えた。

     (5) 国境近くで我が民が耕作し収穫するのを認めず追い払った。

     (6) 同族ながら悪辣なイエヘ部族を信用して、我らを侮った。

     (7) 天下の公平な裁きに背き、悪を善となし、善を悪とした。

    》 開戦 《    紀元1618年

      天明3年(1618年) 4月、遂に意を決したヌルハチは軍を南進

     させた。

      撫順を守る明の李永芳は、一戦も交えることなく降伏した。

      さすがに明の朝廷でも事の重大さに気付き、大軍を擁して討伐に

     立ち上がった。

      海西女真族イエヘ部、朝鮮などの援軍と合わせて、後金の本拠

     であるヘトアラ(興京)への多方面からの同時攻撃が策定された。

      万暦四十七年(1619年)陰暦三月一日、明軍の総司令官楊鎬は

     全軍を四方面に分けて、ヌルハチの本拠を同時に衝く作戦を取り、

     それぞれの方面軍は進発した。

      撫順方面からは杜松の本隊たる左翼中路軍が、開原方面からは

     馬林の左翼北路軍がサルホ経由で、また同時に清河方面からは

     李如柏の右翼中路軍が、鴨緑江方面からは劉テイの右翼南路軍が

     興京に向けて進発した。

      明の軍勢は援軍も併せて十万余、それに三百余りの大砲をも装備

     した大規模な遠征軍であった。

      対する後金軍は、精鋭部隊のマンジュ八旗六万を称していたが、

     実数は一万数千であった。

      明軍のマンジュの拠点に対する同時攻撃に対して、ヌルハチは

     明軍の各軍団の共同作戦は困難だと予測し、拠点での籠城戦は

     回避し、マンジュ八旗の全軍でもって、明軍の各個方面軍を集中して

     迎撃するという作戦を取った。

      明軍は三月一日を期して、南北各所から後金の領内に進攻した。

      ヌルハチは、明軍の左翼の両軍が主力軍だと判断した。

      もはや躊躇することなくマンジュ八旗の全軍を率いて、自らサルホ

     方面に出撃し、突出していた杜松の左翼中路軍本隊(三万)に

     襲い掛かり殲滅した。

      翌日 ヌルハチはホンタイジを将とする正白旗(一千)を率いてワフム

     に向かったが、火器を装備する龔(きょう)念遂の指揮する左翼中路軍

     の別働隊(二千)と目的地で遭遇した。

      丘に陣したヌルハチは騎兵五百を下馬させ、敵の前線の盾となって

     いた装甲車に肉弾で突入させて装甲車を破壊させるという攪乱戦法

     を取ることにし、ホンタイジに命じて、その間隙を衝いて騎馬で突入

     させ明軍の別働隊の後続を断ち切った。

      さらに北から接近しつつあった馬林の左翼北路軍二万も、ワフムの

     北方にあるシャンギャン、フィエフィンで迎撃されて連戦連敗して瓦解

     してしまった。

      左翼北路軍との共同作戦に従った明の援軍のイエヘ部軍(一万)

     は遁走した。

      時に劉禎  の指揮する右翼南路軍と朝鮮の援軍が、後金の根拠地

     ヘトアラ(興京)に接近しつつあった。

      三月四日 ヌルハチは次子のダイシャンを総指揮官として急遽、

     五旗(五つの軍団)を転進させた。

      マンジュ五旗は本拠地のヘトアラを過り、アブダリ山に劉テイ指揮

     する右翼南路軍を強襲して撃滅し、フチャの野で残存部隊を蹴散ら

     した。

      明の援軍の朝鮮軍(一万)は、戦意を失って後金に降伏した。

      後金軍はさらにその余勢を駆って翌月には宿敵イエへを攻略して

     併呑し、ヌルハチは遂に全女真族を一つに統合してしまった。

      その直後 内モンゴルの東部のモンゴル族が服属するようになった。

      その後 六月には開原を攻略し、時をおかず遼陽を占領してその地

     に遷都した。

      かくして後金は、遼東の肥沃な地に勢力を張ることが出来て、多くの

     漢人を擁することとなった。


      
      

      

      

      

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(煬帝死して群雄割拠す)

     「煬帝死して群雄割拠す」

                         唐代

      李淵が長安を占領した翌年(紀元618年)、江都に居た煬帝が重臣の

     宇文化及に弑殺された。

      時に李淵は、長安において恭帝(代王・楊侑)を擁立していたが、

     形式的な禅譲を受けて、ここに唐王朝を開いた。

      ※ 唐王朝より後、元朝までの皇帝の称号は、概ね廟号による。

         唐の李淵の廟号は、「高祖」という。

         諡号は、神堯大聖大光孝皇帝。

         なお、明朝以後は、「元号」による。

       その一方では、江都に居た宇文化及は、代王として擁立していた

      秦王・楊浩を葬り去り、遷都の後 今度は自ら許帝を称した。

       また河北では侠客の大親分である竇(とう)建徳が夏王を称し、

      洛陽救援軍を率いた王世充は、煬帝が死ぬや煬帝の孫の越王・楊侗

      (ようどう)を即位させて専権を揮った。

       さらに一度は唐に降った李密が、再び反旗を翻した。

     》 李密、王世充、宇文化及の三つ巴戦 《

       洛陽で即位した楊侗の旧臣は、王世充に実権を奪われたので、巻き

      返しを図るべく李密に接近して、彼の帰順工作に腐心した。

       李密は前方に王世充を、後方に宇文化及を相手にしなければならず、

      遂に意を決して隋国の大尉、尚書令、魏国公という仰々しい官職を受け

      ることにした。

       そしてその直後、朝廷から宇文化及を討って然る後、皇帝を補佐せよ

      という勅命を受けた。

       李密は徐世勣(せいせき)に黎陽を守らせ、自らは宇文化及の背後に

      回り込み、挟撃して敗走させた。

       宇文化及は魏県まで逃れてから皇帝楊浩を殺し、自ら皇帝を名乗った

      が、竇建徳に攻め滅ぼされてしまった。

       李密は宇文化及を敗走させた勅命を果たしたので、洛陽城に向かおう

      と軍を進めたが、時に王世充が既に反王世充派を粛清した後であった

      ので、油断していた李密軍に速攻をかけて圧勝した。

       李密は、結局 恥を忍んで部下の魏懲(字は玄成)と共に長安の李淵を

      頼った。

       李密は一旦は唐に降ったものの、処遇に不満を懐くようになり、山東

      方面で平定工作をしたいと願い出て、それが許されるや旧部下連中を

      呼び集めて自立しようと謀った。

       だが監視役として付けられていた張宝徳の報告により、李淵は急遽 

      李密を長安に呼び返す勅命を下した。

       李密にしてみれば、離反して再び許されることは無しと覚悟して、遂に

      桃林県を攻めて兵糧を奪い、北に向かって逃亡しようとした。

       そして熊州に着いた頃、これに追いついた討伐軍に打ち破られ、李密も

      誅殺されてしまった。

     》 太原の攻防戦 《   紀元620年

       李淵が長安を目ざした時、根拠地である并州(太原を含む地)には末子

      の李元吉に守備を命じておいた。

       ところが李淵不在を狙って、劉武周が突厥を結んで太原に兵を進めて

      来た。

       李元吉は大いに奮戦したが、支えきれずに長安まで逃げ帰ってきた。

       李淵は今 兵を割いて迎え撃つのは困難と考え、一時并州の放棄を

      考えたが、反対する李世民の説得で、ようやく并州に李世民の軍団を

      派遣することにした。

       李世民は自ら軍中で指揮し、劉武周・突厥軍に対して、間断なき猛攻

      を仕掛け、一気に攻め崩してしまった。

       四月には并州を完全に回復して、勇躍 長安に凱旋した。

       この戦いで、劉武周の同盟者で猛将の尉遅(うっち)敬徳(諱は恭)

      が唐に帰順した。

     》 洛陽の攻防戦 《

       李世民は并州を回復した後、同年七月には洛陽の王世充の討伐に

      出征した。

       王世充はこの時、鄭国皇帝を称していた。

       洛陽の攻防戦は熾烈を極めた。技術官僚で名を成した王世充では

      あったが、用兵の才にも恵まれていた。

       だが流石に苦戦は免れず、死中に活を求めるべく竇建徳に援軍を要請

      した。

       この二人は一戦も交えたことはなかったが、その仲は良くなかったと

      謂われていた。だが竇建徳にしても、洛陽が落ちると、我が身が危うく

      なるので援軍を派遣することにした。

       李世民は竇建徳軍が汜水(しすい)に接近すると、洛陽攻めの兵を

      最小に留め、動員できるすべての兵を竇建徳軍の迎撃に当てた。

       そして軍団を二つに分けて、竇建徳軍を挟撃する策を採った。

       背後を襲う軍団は、強引なまでの急襲作戦を取り、回り込みに成功する

      や、直ちに挟撃態勢に移り、一気呵成に襲い掛かり敵軍を壊滅した。

       王世充は、恃みの竇建徳軍が壊滅しては如何ともし難く、遂に李世民の

      軍門に降ってしまった。

       捕虜となった竇建徳は長安に連行され誅殺されたが、王世充は軍門に

      降る時の約束が守られて、助命された。

     》 劉黒闥(こくたつ)、突厥戦 《

       竇建徳の公開処刑は、唐朝を再び揺るがせることとなった。

       李淵の従弟である淮安王・李紳通と同安公主は、かつて竇建徳の捕虜

      となったことがあった。

       だが竇建徳はこの二人を手厚くもてなして、条件を付けることもなく

      送還したことがあった。

       さらに唐に帰順した後の徐世勣は、竇建徳に捕らえれたことがあった。

       徐世勣は何とか自力で脱出したものの、逃げ遅れた彼の父は竇建徳の

      監視下に在った。

       竇建徳の側近は言う、「父を捕えて誅殺すべきだ」と。

       だが竇建徳は、徐世勣の行為は忠義そのものであるとして、

       「彼の父に何の罪やあろう」と言って、取り合わなかった。

       竇建徳は、元々 任侠の士として名を馳せていたので、その彼を長安

      で公開処刑したことは大きな反響となって、再び群盗が動き出した。 

       竇建徳の盟友であった劉黒闥が、突厥と結んで蠢動しだした。

       唐朝は折角 手に入れた竇建徳の旧地を劉黒闥に奪われ、その制圧

      に出動した李世民も、一時は包囲され窮地に陥ると言う事もあった。

       だが李世民は、辛抱強く獅子奮迅の戦いを展開して危地を脱し、逆に

      劉黒闥は突厥に逃れる羽目となった。

       その後 しばしば劉黒闥は、突厥から南下して唐朝を苦しめたが、武徳

      六年(紀元623年)の初頭には完全に平定された。

       その他、各地に割拠していた群盗も、李世民の東奔西走の活躍により

      完全に制圧された。

                         「十八史略 唐」



      

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(合肥の戦い 2)

     「合肥の戦い 其の2」

                          三国時代

      呉は緒戦で大敗したものの、主力軍は健在であった。

      孫権は合肥の南方、濡須(じゅしゅ)に退却して陣を立て直した。

      この濡須から合肥までは、辺り一帯に大きな巣湖があり、接続

     する水路が開けていた。その為 呉の得意とする水上戦が展開

     できる利点があった。

      一方では張遼は、己の力量もこれまでと覚悟して、遂に曹操に

     救援の要請をした。

      要請を受けた曹操は定軍山の守備を夏侯淵に命じておき、

     自らは大軍を率いて濡須に向かった。

      事ここに至って、ようやく蜀の孔明の戦略が実現したのである。

     》 恩讐の彼方に 《

       呉の猛将である甘寧と孫権を命がけで護った凌統は、俱に

      天を戴かぬ仇敵同志であった。

       甘寧は遊侠を好み、永らく長江沿岸で海賊を稼業としていて、

      その名を轟かせていた。ところが其れも二十年ほどで足を洗い、

      一念発起して学問に励み、後には部下の連中 八百人ほどを

      率いて、荊州の劉表に仕えた。

       だが劉表には重用されることも無かったので、呉の孫策を頼ろ

      うとしたが、途中で劉表の部下の黄祖に足止めされ、以後は彼に

      従っていた。

       その頃の出来事であるが、孫策が劉表討伐の軍を率いて侵攻し

      て来たので、甘寧は呉の武将である凌操と戦って、遂に彼を討ち

      取った。この凌操が、凌統の父であった。

       甘寧はその戦功を黄祖が評価しようとしなかったので、もはや

      荊州に留まらず江東に向かった。

       江東に到るや、甘寧は周瑜や呂蒙の推挙を受けて、孫権に仕え

      るようになったが、呉の旧臣たちと同等の待遇が与えられるように

      なった。

       感激した甘寧は、以後 常に先鋒として働き、孫権の期待に

      十分に応えた。

       一方、凌統は若年の頃、酒席で父を侮辱した者がいたことを

      知り、その者を惨殺したことがあった。

       そんな父思いの凌統であったが、彼が十五の時に、父は甘寧

      に討ち取られたのである。

       その時には彼も戦陣に加わっていたが、奮戦して父の遺骸を

      奪い返すという働きをした。

       ところが後に、怨み骨髄の甘寧が孫権に認められて呉の陣営に

      加わったが、凌統の怨念は消えることはなかった。

       或るときなど、酒席で泣きながら甘寧に斬りかかったこともあり、

      孫権の執り成しがあっても、なおも咸寧を睨み続けたという。

       この度の皖城攻略の後、ささやかな酒宴があったが、その席上

      で凌統は甘寧を見かけると、剣舞にかこつけて甘寧に迫った。

       殺気を覚えた甘寧も二本の戟をつかんで応戦したが、それと

      察した呂蒙が中に入って、二人を押し分けた。

       孫権は凌統を諭すが、凌統は悔しさに泣き伏した。

       凌統の行動は、明らかに陣営の秩序を乱す不埒な行為であった

      が、孫権は今回も凌統を罰することはなかった。

       濡須で布陣した孫権は、迫りくる曹操の大軍に、その出鼻を

      挫く者は居らぬか、と諸将に声をかけた。

       ようやく傷の癒えた凌統が名乗り出て、三千の軍団を率いて

      先駆けした。

       魏の先鋒は張遼である。両者は激突したが、その日は決着が

      つかず、お互いに帰陣した。

       その夜、甘寧は魏軍をかき回してくると言って、百騎を率いて

      出撃し、敵陣で暴れまわって無傷で帰還した。

       翌日、凌統は甘寧の活躍を悔しがり、張遼の首を必ず取って

      来ると孫権に約束して、五千の兵を率いて出撃した。

       張遼は楽進を凌統に当たらせたが、激闘が続き容易に決着が

      つかなかった。その内 曹操の命を受けた曹休が、張遼の側から

      一矢を放った。

       矢は凌統の乗馬に当たり、棒立ちになった馬から凌統は振り落

      とされた。その凌統めがけて、楽進が槍で突きかかろうとした。

       その瞬間に、呉の陣営から矢が飛来して、楽進の顔に命中した

      ので楽進は落馬した。間一髪で、凌統はまたもや命拾いした。

       帰陣した凌統は、矢を放って自分を救ってくれたのが甘寧で

      あったことを知り、遂に積年の恨みを忘れて、固い交わりをし、

      お互いに助け合うことを誓った。

                  「三国志演義 第68回」他

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(合肥の戦い 1)

     「合肥の戦い 其の1」

                          三国時代

    》 三国争乱の発端 《

     赤壁の戦いの後 紀元215年、魏の曹操は呉と蜀への備えとして、

    合肥(がっぴ)に前線基地を置いていた。

     曹操は、次に懸案となっていた漢中の張魯を降して、後顧の憂い

    となる恐れのあった漢中を確保し、進んでは蜀攻略への前進基地と

    すべく大軍を投入しようとした。

     曹操は散関から武都に出て、張魯討伐に向かい陽平関に達した。

     時に張魯は、漢中挙げて降伏しようとしたが、弟の張衛に反対され、

    張衛は数万の軍勢を率いて、陽平関を防御しようとした。

     だが曹操は之を撃ち破り、遂に蜀の入り口に侵攻した。

     張魯は最早これまでと、降伏を決意し、宝物財貨を保管する倉庫を

    封印して立ち去った。

     曹操は南鄭に入城すると、張魯の取った措置に大層感心し、使者を

    立てて彼を慰撫し説得に当たらせさせ、出頭してきた彼や一族全員に

    賓客の礼を以て待遇した。

     その一方では、諸葛孔明は、曹操の動きに対する軍議の席で、

    劉備に進言した。

     「敵の矛先をかわすに如かず。呉の孫権を動かして、合肥を攻め

    させれば、呉を畏れる曹操のこと、必ずや大軍をそちらに移しましょう。

     そこで使者を遣り、孫権には荊州の三郡、長沙・桂陽・零陵の譲渡を

    ちらつかせて、孫権の心を動かしましょう」と。

    》 荊州分割案で、呉・蜀の和議成る 《

     劉備は、諸葛孔明を使者として、呉に派遣した。

     呉では、諸葛孔明の兄である諸葛瑾が使者として会談に応じた。

     孔明は呉に対して、呉の合肥への出撃と荊州の長沙・桂陽の二郡

    返還の件が伝えられた。

     この提案に対して呉は、荊州の南郡を交換条件として蜀に領有を認め

    る代わりに、長沙・桂陽の二郡を領有すると謂う事で合意に達した。

     かくして、蜀は荊州の西部の南郡・武陵・零陵を、呉は同じく江夏・

    長沙・桂陽を領有することとなった。

     かくして劉表の遺領は、呉と蜀に二分割支配されることとなった。

     呉はいよいよ、知将・呂蒙(りょもう)と猛将と恐れられた咸寧

    (かんねい)が先鋒となり、孫権は中軍を率いて長江北岸の皖城を

    目指した。

     魏の皖城は、合肥の南方にあり、屯田を行いつつ呉に備える最前線

    にあった。

     この皖城攻略は、呂蒙の策に拠るものであり、魏の名将・張遼が守る

    合肥に先んじて魏の手足をもごうとするものであった。

     呂蒙の進言は入れられ、速戦即決となり、数時間の激闘で決着が

    ついた。余りにも速い皖城の陥落に、応援途中にあった張遼は取り

    敢えずは合肥に帰城して策を練り直した。

      ☆ 賊至らば開くべし ☆

     張遼が戦略を練って苦悩していた時、曹操から使者が派遣されてた。

     使者は張遼に小箱を差し出した。其の蓋には、曹操直筆で

    「賊至らば開くべし」と。

     そこで張遼は早速 小箱を開くと、書簡には、

    「孫権至らば、李・楽将軍と力を合わせて戦うべし」と記されていた。

     張遼は、李典と楽進を呼んで軍議を開き、軍略を練った。

     李典も楽進も、初めは張遼の決意と腹中が分からなかったんで、

    等閑の意見しか言わなかった。

     すると張遼は憮然として言い放った、

    「ならば我 独りでも戦って見せる。お主らは己の保身を考えれば

    よかろう」と。

     事ここに及んで、ようやく二人の猛将は張遼に心服し、その采配を

    受ける覚悟を示した。

     先ず李典は、一足先に一軍を率いて進発した。

     そして軍を逍遥津の北に埋伏し、呉軍が小師橋を渡り終えた後、

    橋を破壊する奇計を受け持った。

     李典に後れて、張遼は楽進と共に主力軍を率いて呉軍の迎撃に

    向かった。

     呂蒙と甘寧を先鋒とする呉軍は、合肥に向けて進軍して来た。

     呉軍の先鋒に対して、魏の楽進が一軍を率いて突撃して来た。

     これを呉の甘寧が迎え撃ち、しばしば激闘が続いたが、何を思った

    か楽進は急に軍を退かせた。

     甘寧は当に勝機と見て、呂蒙を誘って追撃した。

     中軍の孫権は先鋒の勝利を知り、余裕たっぷりに中軍の凌統隊

    三百のみを率いて、逍遥津に先行した。

     そして逍遥津の北に差し掛かった時、轟音の合図と共に左翼からは

    張遼、右翼からは李典の軍が襲い掛かって来た。

     ☆ 孫権の小師橋飛び ☆

     孫権は直ちに呂蒙・甘寧に伝令を飛ばした。

     だが孫権の守りは凌統の三百のみであったので、とても戦える

    戦力ではなかった。

     そこで凌統は、前方の小師橋を指して孫権を急ぎ脱出させよう

    とした。 

     そして自らは配下を率いて、張遼の奇襲隊二千に敢然と立ち

    向かった。

     孫権は凌統に詫びつつ、小師橋に向かって馬を走らせた。

    だがそこで孫権が目にしたものは、橋の残骸であった。

     橋の向こう際までは丈余はあり、橋板一枚とて残ってはいなかった。

     愛馬と共に右往左往する孫権に、側近の谷利(こくり)が大声で

     叫んだ。

     「一先ず馬を後退させて、間合いを取って一気にお跳びください」と。

     孫権は馬を後退させること三丈、運を天に任せて馬に鞭打ち跳んだ。

     ところが着地するかと思いきや、向こうの岸辺近くに馬ごと着水して

    しまった。

     だが待ち受けていた後詰の董襲と徐盛が、小舟を出して救出した

    ので事なきを得た。

     一方では、孫権脱出の盾となって迎撃した凌統隊三百は、多勢に

    無勢で奮闘虚しく全滅してしまった。ただ凌統だけは、満身創痍に

    なりながらも、橋の袂までたどり着いていた。

     対岸から心配していた孫権が、董襲に命じて小舟を出して救出

    させたので、何とか一命を取り留めることが出来た。

     方や先鋒の呂蒙・甘寧軍は反転したものの、迫り来る楽進軍と

    勢いに乗る張遼・李典軍に追撃される羽目となり、大いに苦戦した

    が何とか撤収することが出来た。

     

    テーマ : 中国古典・名言
    ジャンル : 学問・文化・芸術

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    Author:tyouseimaru
    出身地は四国八十八か所参りの発心の阿波、大阪を終の棲家とする。
    歴史好きで、城郭・神社仏閣・歴史遺跡巡りが趣味となる。
    歴史小説や時代小説を好み、往年の著名な時代小説の類は概ね完読と、自負している。

    自薦
    自著「中国通史で辿る名言・故事探訪」の 上・中・下の3巻を、 近い内に「電子書籍」での出版を予定しています。 今年一年間は、さらに工夫を加えるなどして、補記訂正などの校正を第一義としています。       
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