コンテントヘッダー

    中国通史で辿る名言・故事探訪(北林の戦い)

      「北林の戦い」          

                      春秋(東周)時代


      楚・鄭連合軍 対 晋・宋・陳・衛・曹連合軍の戦い。

      楚の二十三代・荘王(熊侶)が即位してから六年がたった。

      魯の宣公元年(紀元前608年)秋、楚とその盟約関係にある鄭が

     陳に侵攻し、ついでに宋を侵した。

      その頃 荘王率いる楚の国力伸展には、目を見張るものがあった。

      中原の覇者を自認していた晋は、楚に脅威を覚えるようになり、遂に

     卿大夫の趙盾は軍を率いて陳・宋の救援に立ち上がった。

      覇者たる晋の呼びかけに応じて、宋(文公)・陳(霊公)及び衛

     (成公)・曹(文公)の各国から成る連合軍は、ヒ林で合流して鄭に向け

     進発した。

      荘王は蔿賈(いか)に師旅を授けて、鄭の国都を守らせるべく派遣

     した。

      蔿賈は一旦は鄭の都城に入ったが、その後 楚軍を率いて城を出て

     北林に兵を伏せることにした。

      趙盾率いる晋の連合軍は数万以上の大部隊であった。

      これを迎え撃つ楚軍は万にも満たないが、蔿賈は敵の大部隊を

     北林に誘い込めば大部隊としての威力が発揮できず、勝算もありと

     判断した。

      果たして趙盾は野戦は無いものと判断し、大軍を北林に休ませ攻城

     戦に備えることにした。

      晋の連合軍が北林に落ち着いたのを見計らって、蔿賈は一斉に伏兵

     を起たせて、敵陣に突っ込ませた。

      蔿賈は要所を徹底的に叩くと、さっと急襲軍を退き揚げた。

      晋の連合軍は開戦の出ばなをくじかれ、また晋は解揚が楚の捕虜に

     されたこともあって戦意を喪失し、鄭の国城を攻めることもなく軍を反

     して帰国した。

      この年 楚は宋を伐ち、戦車 五百乗を捕獲した。


      ☷ 拾遺・弥縫

     「 楚の若敖氏(じゃくごう)の滅亡 」

       鄭を守った蔿賈に対して、荘王の信頼は高まるばかりであった。

       出来るものなら若敖氏に代わって令尹を蔿賈にしたいところで

      あった。

       だが楚では若敖氏が令尹(宰相)職を世襲するのが習わしとなって

      いた。

       この旧弊を打破しない限り真の王権は確立できない、そう確信した

      荘王は彼らの勢力を削ぐ策を巡らせた。

       荘王は信頼する蔿賈を使って、若敖氏の失政・過失を調べさせ、

      その報告に基づき令尹の闘般(子揚とも)を誅殺した。

       ところが闘般の誅殺を知り、従妹の闘椒(子越)は激怒した。

       闘椒は先ずは、王に進言した蔿賈を急襲した。蔿賈はすばやく

      妻子を逃したが、自らは捕らわれの身となった。

       闘椒は、荘王の出方を窺った。

       ところが荘王は和睦の気配を見せず、兵力で以って蔿賈を取り

      戻そうとしたので、闘椒は蔿賈を殺して若敖氏の本拠に立て籠もり、

      派遣軍を迎撃した。

       だが抵抗空しく闘椒は敗れ、ここに楚で全盛を誇った若敖氏は

      滅亡し、荘王は宿願を果たした。

                      「史記 楚世家」



      

    テーマ : 中国古典・名言
    ジャンル : 学問・文化・芸術

    コンテントヘッダー

    中国通史で辿る名言・故事探訪(河曲の戦い)

     「河曲の戦い」

                        春秋(東周)時代

      秦の11代康公は、令狐の戦い(前620年)の恨みから、前615年

     冬、晋に侵攻し羈馬を占領した。

      晋の霊公(24代)は、趙盾を中軍の将に荀林父をその佐、郤缺を

     上軍の将に臾駢(ゆへい)をその佐、欒盾(らんとん)を下軍の将に

     胥甲(胥臣の子)を佐に任じた。

      そして晋軍は河曲で秦軍を迎え撃った。

      晋軍は当初、臾駢の意見に従って敵遠征軍の疲れを誘導するため

     防禦に徹する陣構えをした。

      会戦を欲する秦は、自国に亡命して来ている晋の名将であった士会

     に戦略を質した。

      士会は助言するに、

      「先代襄公の娘婿で、趙盾にも可愛がられた趙穿(ちょうせん)が

     従軍しているが、彼は猪突猛進型の将であり且つ上軍の佐に任命

     された臾駢を憎んでいるので、彼に集中攻撃をかければ挑発に乗って

     来るでしょう」と。

      十二月戊午(10日)、秦軍は晋の上軍に襲撃をかけたが、果たし

     て趙穿は秦軍の駆け引きに乗ぜられ、自らの部隊を率いて追撃して

     来た。

      総帥の趙盾は、

      「若し秦軍が趙穿を捕獲すれば、卿を一人捕獲したことになり秦は

     勝って帰れるが、我は帰国後 何と報告出来ようぞ」と言って、全軍を

     出撃させた。

      だが黄河の屈折点で交戦するも決着がつかず、両軍とも兵を退いた。

                       「春秋左氏伝 文公十二年」


      「趙盾、士会を呼び戻す」

      趙盾は、秦が名将士会(随会ともいう)を度々戦に起用することに

     不安を覚え、同年夏 六卿を招集して密談を交わした。

      「士会は秦に在り、賈季(狐射姑)は狄に在りて、しかも晋国内では

     再び内紛が生じかねない状況にある」と。

      荀林父は賈季の呼び戻しを薦めたが、郤缺は士会の呼び戻しを薦め

     た。

      かくして士会を秦から奪還するための綿密にして大がかりな偽計が

     為された。

      事は計画通りに運ばれ、士会は言うに及ばず、案じられた彼の家族も

     無事に秦の手で送り返された。

      士会、卿となる

      前612年春、士会は晋軍を率いて赤狄の甲氏・留吁(りゅうく)・

     鐸辰を討ち滅ぼした。

      晋侯はその捕虜を天子に献じて、士会を「卿」に任ずるよう願い出て

     勅許された。

      晋侯は士会を中軍の将に任じ、太傅(たいふ)の職を与えた。

      ☷ 拾遺・弥縫
        「礼記 王制」

         侯・伯(五爵のうちの公は別格としての上位)の国には、

        三卿あり。

         そのうち二卿は上卿となし、他の一卿は下卿となす。

         上卿は天子から直接命ぜられ、その国の執政に任じた。



          

      

              

    テーマ : 中国古典・名言
    ジャンル : 学問・文化・芸術

    コンテントヘッダー

    中国通史で辿る名言・故事探訪(先軫の死)

     「晋の襄公、箕(き)に狄を破る」

    東周王朝

      紀元前627年、殽(こう)で秦と晋が戦った年の八月戊子(25日)、

     白狄が晋を伐ち箕(き)に進出して来た。

      晋侯はこれを箕に迎え撃ち、郤縠(穀)は白狄の君を捕獲した。

      この戦いで従軍していた先軫は、

      「先の殽の戦いの折、臣たる身が君に当たり散らす不敬の行いを

     したが、しかし君からは何のお咎めも無かった。

      この上は進んで自分を罰せねばならぬ」と言って、甲冑を脱いで

     狄軍に突入し討死してしまった。

      戦いが終わって戻ると、先軫の首が狄から返されて来たが、襄公は

     三命により先軫の子・先且居(しょきょ)を中軍の将に任命し、再命に

     よって先茅のものであった県を先代文公に郤缺を推挙した臼季に

     感謝の意を込めて賞として与えた。

      また一命によって、郤缺を卿に任命し改めてその故地の冀(き)に封じ

     たが、軍職は未だ担当させなかった。

                         「春秋左氏伝 僖公三十三年」



      ☷ 拾遺・弥縫

        「三命」とは、周代の制であり君侯の上奏により、改めて天子から

       大国或いは次国の卿大夫に任命されることをいう。

        なお、「一命」とは、初めて正式の官職に任命されることをいう。

      

    テーマ : 中国古典・名言
    ジャンル : 学問・文化・芸術

    コンテントヘッダー

    中国通史で辿る名言・故事探訪(晋・文公の復讐戦)

     「鄭君を得て甘心せん」

                       東周王朝

      晋の文公七年(紀元前630年)の九月甲午(一日)、文公は晋の

     穆公と連合して鄭を包囲攻撃した。

      討伐の理由としては、かつて亡命の途中に立ち寄った鄭国で、

     文公(重耳)を冷遇したことと城濮の戦いで楚に味方したことが挙げ

     られた。

      鄭の都を包囲した文公は、鄭の大夫・叔瞻(しゅくせん)の身柄を

     要求した。

      叔瞻は重耳主従が流浪中、鄭都に立ち寄った時に、主たる鄭君に

     重耳を礼遇しないのであれば、後顧の憂いをなくするために重耳を亡き

     者にせよと、進言したことがあった。

      叔瞻は要求の経緯を耳にするや、自ら命を断った。

      鄭ではその屍を晋の陣営に届けて赦しを請うたが、晋では素気無く

     突っぱねた。

      曰く、「必ずや鄭君を得て甘心せん」と。

      (=きっと鄭君を捕虜となし、この忌々しい我が思いが晴れるまで

       思う存分にしようぞ。)

      一方では鄭の文公(鄭伯)は怖れをなして、燭之武(しょくしぶ)という

     老臣を密かに秦の陣営に派遣して、好条件を手土産に説得させた。

      燭之武曰く、

      「鄭を滅ぼして晋に篤くするは、晋においては得なれども秦は未だ利

     となさず。

      君 なんぞ鄭を解き、東道の交となすを得ざる」と。

      (=鄭を滅ぼさずに、秦が東方へ行く際の接待役とさせた方が秦に

       とっては得策ですぞ。)

       ※ 晋・鄭・秦の地理的状況は、秦が西方に晋は東方にあり、

         鄭はその中間にあった。

        「東道の交」

          「東道主人」ともいう。

          客を案内してもてなす主人のこと。

       晋の穆公は悦んで鄭と盟約を結び、大夫の杞子、逢孫、揚孫の

      三人を留めて鄭を守らせ、自らは軍を率いて本国に引き揚げた。

       晋の子犯は、憤り晋軍を追撃すべきことを進言したが、文公はそれ

      を推し止めて、

       「秦君の援けなかりせば、今の我は無し。

       人から力を借りてその人を損なっては、不仁というもの。

       良い味方をむざむざ無くすのは、愚人の為すこと。

       せっかく収まった秦・鄭の仲をまた乱すのは武の道に非ず」と。

       かくして、文公も已む無く撤兵した。

                       「春秋左氏伝 僖公三十年」




      

    テーマ : 中国古典・名言
    ジャンル : 学問・文化・芸術

    コンテントヘッダー

    中国通史で辿る名言・故事探訪(城濮の戦い)

     「城濮の戦い その4」

                        春秋時代

      四月戊申(5日) 尽くすべき措置を終わった晋は、直ちに宋・斉・秦と

     四カ国連合軍を編制し、子玉の率いる楚の連合軍を城濮(衛の地)

     で迎えた。

      楚軍は子玉がその一族の六卒を中軍に編入して総指揮をなし、右軍

     には同盟国の陳・蔡軍を編入して子上(闘勃)が将となり、左軍は子西

     (闘宜申)が率いた。

      楚の連合軍は、険しい丘陵を背にしての宿営であった。

      そのあり様から晋公は心配して、開戦の意を決しかねているようで

     あったので、子犯は激励して、

      「ここは戦うべきです。戦って勝てば必ず諸侯は付いてきます。

      たとえ勝てなくても、晋の山河を表裏にすれば必ず害なけん」と。

      晋公が、

      「かって楚で受けた恩義はどうするか」と言うと、

      今度は欒枝(らんし)が応えて、

      「漢水以北の我らと同姓の姫姓諸国は、楚がすべて滅ぼしたのです。

      小さな恩義に拘って、受けた大きな屈辱をお忘れなきように」と。

      「楚と晋の宣戦の口上」

      決戦に先立ち楚軍を指揮する子玉は、子上を宣戦布告の使者として

     晋の陣営に派遣して言わしめた。

      「請う君の士と戯れん。

      君 軾(しょく)に馮(よ)りて之を観よ。

      得臣(子玉の名)も与かりて目を寓(よ)せん」と。

      (=君は指揮車で見物でもなされよ。我もお供して見物いたしま

       しょう。)

      文公は欒枝に応対させて言わしめた。

      「寡君 命(宣戦の口上)を聞けり。

      楚君の恵み未だ之を敢えて忘れず。

      是を以って此れに在り。

      (=恩を忘れぬ故にこそ、三舎を避けてここに陣したのだ。)

      大夫(楚の子上)の為にも退きたり。其れ敢えて君に当たらんや。

      既に命を獲(え)ざれば、敢えて大夫を煩わす。

      (=しかし既に宣戦の口上を受けたからには、お相手致しましょう。)

      二三子に謂え、汝の車乗を戒め、汝の君事を敬せよ。

      (=ご一統に伝えられよ。兵車の御と乗者をよく戒め、最善を尽く

       させよ。)

       ※ 二三子とは、君主が諸侯に対しての「呼びかけの)常套語。

      詰朝(明朝) まさに相見えんとす」と。

      晋の兵車七百乗は既に準備を完了していた。

      文公は有莘(古代の国)の廃墟に上り、自軍の軍勢を観て断じて

     曰く、

      「かほど統制が取れておれば、十分戦えるぞ」と。

      「決戦」

      翌日の己巳(6日) 先ず晋軍から下軍の副将胥臣が精鋭部隊を

     率いて撃って出て、楚陣の右翼を受け持つ陳・蔡勢に襲い掛かった。

      楚の右翼軍が完膚なきまでに壊滅しても、子玉は意に介せず、三軍を

     並行させて出撃した。

      晋軍はそれぞれに真っ向から激突させた。

      だが楚王に兵力を削減されたとはいえ、楚軍は数においては晋軍を

     凌駕していたので、次第に押し返されるようになった。

      晋軍では将たる狐毛の上軍と同じく将たる欒枝の下軍が、粉じんを

     蹴上げつつ敗北を装って後退した。

      之を見た楚軍は、全軍挙げて一斉に追撃態勢に移った。

      ところが晋の中軍は自陣に踏みとどまり、楚の猛攻に耐えてよく陣を

     死守した。

      そこを見計らって、晋の上下両軍は急ぎ兵車や歩兵の向きを反転させ、

     二手に分かれて楚軍の両翼を挟撃した。

      ここに至って、楚の中軍を率いた子玉のみ辛うじて持ち堪えたが、楚の

     敗北は既に確定したので子玉は兵を収めて去った。

      「拾遺・弥縫」

      城濮の戦いは、「春秋の五大会戦」の一つであるが、たった一日の決戦

     で決着のついた会戦であり、余りにもあっけない幕切れであった。

      戦場となった城濮は、黄河の氾濫原が広がってできた大地であり、当に

     戦車戦に適した戦場であった。

      この戦いに投入された戦車は晋軍は七百乗、楚軍はそれ以上の戦車

     を以って戦ったとされるが、その兵車の操縦練度と全軍の運用指揮能力は

     晋軍が格段に優っていたとされる。

                   「春秋左氏伝 僖公二十七年・二十八年」 

                   「史記 晋世家」

    テーマ : 中国古典・名言
    ジャンル : 学問・文化・芸術

    プロフィール
    プロフィール

    tyouseimaru

    Author:tyouseimaru
    出身地は四国八十八か所参りの発心の阿波、大阪を終の棲家とする。
    歴史好きで、城郭・神社仏閣・歴史遺跡巡りが趣味となる。
    歴史小説や時代小説を好み、往年の著名な時代小説の類は概ね完読と、自負している。

    自薦
    自著「中国通史で辿る名言・故事探訪」の 上・中・下の3巻を、 近い内に「電子書籍」での出版を予定しています。 今年一年間は、さらに工夫を加えるなどして、補記訂正などの校正を第一義としています。       
    最新記事
    月別アーカイブ
    最新コメント
    最新トラックバック
    カテゴリ
    天気予報

    -天気予報コム- -FC2-
    FC2カウンター
    おきてがみ
    おきてがみ
    twitter
    フリーエリア
    フリーエリア
    検索フォーム
    RSSリンクの表示
    リンク
    Powered By FC2ブログ

    今すぐブログを作ろう!

    Powered By FC2ブログ

    ブロとも申請フォーム

    この人とブロともになる

    QRコード
    QR
    メールフォーム

    名前:
    メール:
    件名:
    本文:

    <
      /body>