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    中国通史で辿る名言・故事探訪(速杞の戦い)

     「楚は左を上位にす」

                        春秋時代

      隋の少師には、国君の寵愛一方ならぬものがあったという。

      そのあり様を聞くにつけ、楚の闘伯比は隋の攻伐を進言した。

      東周桓王十七年(紀元前704年)夏、楚の武王は諸侯を楚の沈鹿

     に招集したが、黄と随は参集しなかった。

      武王は、イ章を黄に遣わして攻め、また王自らは軍を率いて随を伐ち、

     漢水と淮水の間に軍を進めた。

      その様子から随の杞梁は、随侯に進言した。

      「ここは、一旦 降伏しましょう。許されなかったなら、戦いましょう。

      之は我が軍の士気を高め、敵軍を侮らせる策と申せます」と。

      ところが少師は、

      「必ずや速やかに戦わん。然らずんば、将に楚の師を失わんとす」と。

        ※ ここで失うとは、逃がしてしまうの意。

      かくして随侯は楚軍を禦(ふせ)ごうとして、楚の陣営を見渡した。

      季梁は言う、
      
      「楚は左を上位にす。楚君は必ず左翼に在ります。この際、楚王に

     当たってはなりません。

      しばらく、楚軍の右翼を攻めればよろしい。右には精鋭はおりません。

      必ず破ることが出来ます。右翼が破れると、楚軍は離散しましょう」と。

      だが手柄を焦る少師は、

      「王の軍に当たらねば、戦ったことにはなりません」と言って、従おう

     としなかった。

      かくして、速杞において両軍は激突した。

      だが随の軍は大敗を喫し、随侯は逃げ去った。

      その一方では楚の闘丹は、随侯の車とその車右となっていた少師を

     捕獲した。

      その年の秋、随は楚と和睦しようとしたが、楚王はそれを許そうとは

     しなかった。

      すると闘伯比は進言した。

      「天は、随の疾患(少師のこと)を取り除いてしまいました。

      もはや随に克つことは出来ません」と。

      そこで両国は盟を結び、楚は帰還した。

                       「春秋左氏伝 桓公八年」



     

      

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(日清戦争)

     「日清戦争」

                          清朝

      光緒二十年(1894年 明治二七年)七月から翌年二月にかけて、

     眠れるアジアの獅子と評された清国は、李氏朝鮮に対する宗主権

     と、朝鮮半島における日本の権益の駆け引きを巡って互いに出兵し、

     戦端が開かれた。

      日本軍が豊島沖で、清国の偽装艦船を攻撃し開戦に到る。

      清国軍は、平壌、黄海、威海衛、遼河対岸の田荘台で敗北を喫し、

     光緒 二十一年二月 下関で講和条約を締結した。

      中国は台湾の割譲と賠償金 二億両(テール)を払い、且つ遼東半島

     における日本の権益を保証して条約を締結し批准した。

      ※ この二億両は、当時の日本の国家予算の二年分に相当する額

        であり、日本の要した戦費の総額でもあった。

         なお、遼東半島における権益については、後にロシア・ドイツ・

        フランスの三国干渉により放棄するに至る。

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(回族の大叛乱)

     「回族の大叛乱」

                           清朝

      清王朝の屋台骨を揺さぶった太平天国の乱の勢いが漸く下火に

     なった頃、西方の雲南地方で回族の大規模叛乱が生じた。

      朝廷は鎮圧に努めるがその実効は上がらなかった。

      そこで、太平天国の乱で鎮圧の将・曽国藩の片腕として活躍した

     左宗棠(さそうとう)に鎮圧軍指揮の命が下った。

      左宗棠は咸豊十年(1860年)に曽国藩の推挙により、湘軍を

     率いて太平天国軍の残党を制圧する功を挙げたが、その後 

     フランスの協力を得て福州に造船所を造り、水師(海軍)を創設した

     が、これが後の福建水師となる。更に曽国藩に倣い漢人義勇兵の

     「楚軍」を編成していた。

      陝甘総督(陝西・甘粛に司令官)となった左宗棠は、義勇兵・楚軍を

     率いて戦った。

      非常な苦労の後、同治五年(1866年)、ついに叛乱の平定に成功し

     たかに見えたが、幾ばくも無く回族(西トルキスタン系ウイグル族)の

     ヤクブ・ベクが新彊において自立してしまった。

      その背後にはイギリスやロシアの蠢動が見え隠れしていたので、朝廷

     内部では新彊放棄論が持ち上がった。

      時の朝廷内部では、目下の国家の急務として李鴻章の「海防論」と

     左宗棠の「塞防論」が論議されていた。

      海防論は海軍増強策を、塞防論は辺境回復策を論じたものである。

      この問題で、左宗棠は強硬に武力奪還を主張し、結局 彼の意見が

     容れられ、左宗棠は新彊叛乱軍鎮圧の総司令官兼欽差大臣に任ぜ

     られた。

      彼は用意周到な作戦計画を立てる一方、新彊住民に対する政治的

     配慮と慰撫工作の両面作戦を展開し、急ぐことなく時間をかけて取り

     組み、遂に新彊の回復に成功した。時に 同治十三年(1873年)五月

     のことである。

      「左宗棠 独断専行す」

      新彊を回復するという国家の名目は立ったがこの時、イリ地方には

     帝政ロシアの軍隊が進駐していた。

      左宗棠はその奪還を目論んだ。

      疲弊した清朝内部では、ロシアを相手にして、下手をすると国際紛争

     に発展することを懼れ、左宗棠を抑えて外交交渉により返還を図ろう

     とした。

      ところが交渉は難航し埒があかないのを見て、左宗棠は自ら率いる

     楚軍をハミに駐屯させてロシアに睨みを利かせ、朝廷の外交交渉を

     強力に支援した。

      その結果、遂に領土拡大に奔走するロシアから譲歩を勝ち取り、

     イリの返還が実現したのである。

      左宗棠なかりせば、現在の中国の新疆はおろか、周辺の少数民族

     居住地も失陥していただろう、と言われるほどの大功績を挙げた。

      「左宗棠の人物評」

      廉にして貧を言わず、謹にして労を言わず。

      人格は清廉にして貧しい境遇にあっても不平不満を言わないし、謹厳

     にして自らの苦労を面に出さない。

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    中国通史で辿る名言・故事(庚戍の変)

     「庚戍の変」


                         明代

      十五世紀後半 明王朝の弘治・正徳年間、モンゴルにおいては

     1487年、チンギスハーンの末裔を称するダヤン干(本名は

     バド・モンケ)がモンゴル南方(現在の内モンゴル)を平定して新しい

     支配体制を敷いた。

      その領域を左右に分かち、自らと長子のトロ・ボラトは左翼を守り、

     第三子のバルス・ボラトを副王にして右翼を守らせた。

      その後、左翼のダヤン干と後継者たる長子のトロ・ボラトが相次い

     で没するに及び、左翼は振るわなくなったが、右翼はますます強大

     化し、第四子のアルス・ボラトの長子のグン・ビリクが後継者になる。

      そして、その弟のアルタンとグンドレンがよく兄を援けた。

      嘉靖帝の頃から、アルタンらは明朝の北辺に侵寇を繰り返すように

     なった。

      これを何時しか、明王朝にとっての『北慮』というようになる。

      嘉靖二十一年(1542年)になると、内陸部の山西地方に侵寇し、

     一カ月以上にわたって略奪を繰り返した。

      住民ら二十余万人を殺戮し、家屋を焼くこと八万戸、家畜 

     二百万頭を掠め盗った。

      その後もアルタン・ハーンの軍勢の侵寇は連年にわたり、特に

     嘉靖二十九年(1550年)には、古北口から侵入して北京城を包囲

     すること数日に及んだ。明王朝が莫大な費用をかけて再構築した

     「万里の長城」は全く防衛の機能を果たさなかった。

      明王朝は、当に風前の灯火となるかに見えたという。

      このアルタン・ハーンの侵寇を庚戍(こうじゅつ)の変という。


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    中国通史で辿る名言・故事探訪(七大根の宣戦布告)

     「サルホの戦い」

      その始めは女真族のマンジュ五部の統率者であったヌルハチは、

     1615年末、その部族の一部の海西女真のイエヘ族を除いてほぼ

     全女真族を統一することに成功した。

      そして年が明けた1616年(天命元年)正月元旦、諸王や重臣に

     推されて「ハン位」に就いた。

      その国号を「後金」と定めた。

      即ちその昔 宋と覇権を争った女真族の国家であった「金」の

     後継者であるという大いなる誇りと自負によるものであった。

      そして自らは天命帝と号し、元号を「天命」と名付けた。

      だが後金が国家として自立するには、食糧の自給自足が急務

     であったが、今や遼東の総兵官であり明の交易を取り仕切る実力者

     でもあった李成梁が政変により失脚し、明の矛先がヌルハチに向け

     られ、剰え一方的に交易は断ち切られてしまった。

      そのような理由もあって、ヌルハチはいつまでも食料を明に頼って

     いたのでは心もとなく覚え、積もり積もった明に対する恨みごとを七つ

     取り上げて、宣戦布告の理由とした。

      これが「七大根の宣戦布告」と言われるものである。

      その理由となった大本の原因は、肉親の殺されたこと、女真(後金)

     と明との国境線の問題及び食糧収穫の問題とイエヘ部族の取り込み

     にあった。

      「七大根の理由」

     (1) 明は理由も無く父と祖父を殺した。

     (2) お互いに国境線を越えないという女真との誓約を破った。

     (3) 誓いを破った越境者を処刑したが、その報復に我が使者を

       殺して威嚇した。

     (4) 我らイエヘ部族の婚姻を妨げ、その娘をモンゴルに与えた。

     (5) 国境近くで我が民が耕作し収穫するのを認めず追い払った。

     (6) 同族ながら悪辣なイエヘ部族を信用して、我らを侮った。

     (7) 天下の公平な裁きに背き、悪を善となし、善を悪とした。

    》 開戦 《    紀元1618年

      天明3年(1618年) 4月、遂に意を決したヌルハチは軍を南進

     させた。

      撫順を守る明の李永芳は、一戦も交えることなく降伏した。

      さすがに明の朝廷でも事の重大さに気付き、大軍を擁して討伐に

     立ち上がった。

      海西女真族イエヘ部、朝鮮などの援軍と合わせて、後金の本拠

     であるヘトアラ(興京)への多方面からの同時攻撃が策定された。

      万暦四十七年(1619年)陰暦三月一日、明軍の総司令官楊鎬は

     全軍を四方面に分けて、ヌルハチの本拠を同時に衝く作戦を取り、

     それぞれの方面軍は進発した。

      撫順方面からは杜松の本隊たる左翼中路軍が、開原方面からは

     馬林の左翼北路軍がサルホ経由で、また同時に清河方面からは

     李如柏の右翼中路軍が、鴨緑江方面からは劉テイの右翼南路軍が

     興京に向けて進発した。

      明の軍勢は援軍も併せて十万余、それに三百余りの大砲をも装備

     した大規模な遠征軍であった。

      対する後金軍は、精鋭部隊のマンジュ八旗六万を称していたが、

     実数は一万数千であった。

      明軍のマンジュの拠点に対する同時攻撃に対して、ヌルハチは

     明軍の各軍団の共同作戦は困難だと予測し、拠点での籠城戦は

     回避し、マンジュ八旗の全軍でもって、明軍の各個方面軍を集中して

     迎撃するという作戦を取った。

      明軍は三月一日を期して、南北各所から後金の領内に進攻した。

      ヌルハチは、明軍の左翼の両軍が主力軍だと判断した。

      もはや躊躇することなくマンジュ八旗の全軍を率いて、自らサルホ

     方面に出撃し、突出していた杜松の左翼中路軍本隊(三万)に

     襲い掛かり殲滅した。

      翌日 ヌルハチはホンタイジを将とする正白旗(一千)を率いてワフム

     に向かったが、火器を装備する龔(きょう)念遂の指揮する左翼中路軍

     の別働隊(二千)と目的地で遭遇した。

      丘に陣したヌルハチは騎兵五百を下馬させ、敵の前線の盾となって

     いた装甲車に肉弾で突入させて装甲車を破壊させるという攪乱戦法

     を取ることにし、ホンタイジに命じて、その間隙を衝いて騎馬で突入

     させ明軍の別働隊の後続を断ち切った。

      さらに北から接近しつつあった馬林の左翼北路軍二万も、ワフムの

     北方にあるシャンギャン、フィエフィンで迎撃されて連戦連敗して瓦解

     してしまった。

      左翼北路軍との共同作戦に従った明の援軍のイエヘ部軍(一万)

     は遁走した。

      時に劉禎  の指揮する右翼南路軍と朝鮮の援軍が、後金の根拠地

     ヘトアラ(興京)に接近しつつあった。

      三月四日 ヌルハチは次子のダイシャンを総指揮官として急遽、

     五旗(五つの軍団)を転進させた。

      マンジュ五旗は本拠地のヘトアラを過り、アブダリ山に劉テイ指揮

     する右翼南路軍を強襲して撃滅し、フチャの野で残存部隊を蹴散ら

     した。

      明の援軍の朝鮮軍(一万)は、戦意を失って後金に降伏した。

      後金軍はさらにその余勢を駆って翌月には宿敵イエへを攻略して

     併呑し、ヌルハチは遂に全女真族を一つに統合してしまった。

      その直後 内モンゴルの東部のモンゴル族が服属するようになった。

      その後 六月には開原を攻略し、時をおかず遼陽を占領してその地

     に遷都した。

      かくして後金は、遼東の肥沃な地に勢力を張ることが出来て、多くの

     漢人を擁することとなった。


      
      

      

      

      

    テーマ : 歴史雑学
    ジャンル : 学問・文化・芸術

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    Author:tyouseimaru
    出身地は四国八十八か所参りの発心の阿波、大阪を終の棲家とする。
    歴史好きで、城郭・神社仏閣・歴史遺跡巡りが趣味となる。
    歴史小説や時代小説を好み、往年の著名な時代小説の類は概ね完読と、自負している。

    自薦
    自著「中国通史で辿る名言・故事探訪」の 上・中・下の3巻を、 近い内に「電子書籍」での出版を予定しています。 今年一年間は、さらに工夫を加えるなどして、補記訂正などの校正を第一義としています。       
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