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    中国通史で辿る名言・故事探訪(晋対秦)

     「遷延の役」

                        春秋時代

     「序章」

     紀元前562年 晋(28代悼公)と秦(14代景公)は鄭を巡って、

    黄河の東岸にある櫟(れき)で戦闘を交えた。

     秦の庶長鮑と庶長武が軍を率いて晋に侵攻し、鄭を救援した。

     先ず庶長鮑が晋の領内に侵入した。

     晋の士魴がこれを迎撃したが、秦軍の勢力を見誤り防備を怠った。

     十二月壬午(19日)、武は輔氏(地名)から黄河を渡り、魴に歩調を

    合わせて晋軍を攻めた。

     七日の後の己丑(26日)、両軍は櫟で会戦したが、晋軍は大敗した。

     この戦いを「檪の戦い」という。

                        「春秋左氏伝 襄公十一年」

     「遷延の役」   紀元前559年

     魯・襄公十四年(前559年)夏四月、晋は櫟の敗戦に報復するため、

    魯・斉・宋・衛・鄭・曹・莒・邾(ちゅう)・杞(き)などの諸国と向で会盟し、

    それぞれの国の大夫が率いる連合軍とともに秦を攻めた。

     晋侯は国境で待機し、三軍の将・佐の六人の率いる軍を進発させた。

     連合軍は涇水(けいすい)に達したが、そからは諸侯の軍は渡ろうと

    しなかった。

     晋の叔向が魯の叔孫穆子に会うと、穆子には渡る意志があると察して、

    叔向は退いて船を用意した。

     すると魯と莒の軍は、真っ先に河を渡った。

     鄭の子蟜(しきょう。公孫蠆)が衛の北宮懿子に会って、

     「晋と盟を結びながら動揺するのは、最も憎まれる元である。

     社稷の存立に係りますぞ」と謂うと、

     北宮懿子は故あることとして、動こうとしない諸侯国軍の大夫連中に

    渡河を勧めた。

     かくして晋の連合軍は涇水を渡って宿営したが、秦は上流から毒を

    流したので、連合軍では死者が多く出た。

     鄭の司馬・子蟜が軍を率いて進撃すると、諸侯の軍も後に続き

    棫林(よくりん)に達したが、秦との和議は纏まらなかった。

     晋の中軍の将・荀偃(中行献子)は指令を出して、

     「明朝、鶏が鳴いたら車に馬を繋ぎ、井戸を埋め竈を壊せ。

     そして余の馬の首をよく見ておれ」と。

     すると下軍の将・欒黶(らんえん)は、

     「晋国には未だ曽て、このような勝手な指令はない。

     余の馬の首は東を向きたがっておるぞ」と言って、

     帰国の準備を命じ、下軍はこれに従った。

     左史が下軍の佐の魏絳に、

     「中行伯(荀偃)の動きを見届けては」と言うと、

     「夫子(ふうし。荀偃のこと)は、将の指示を仰げと命じられた。

     欒伯(欒黶)は吾の将ゆえ、之に従う。将に従うのが夫子への正しい

    態度だ」と。

     後 荀偃は、

     「吾の指令は間違っていた。後悔しても間に合わぬ。

    秦に捕虜を残すだけだ」と言って、全軍に撤退を指令した。

     世評では、この出兵を「遷延の役」という。

     則ち、ぐずぐずした愚鈍な戦いと言う意である。

     だが欒黶の弟・欒鍼(らんけん)は、

     「この出兵は檪の戦いへの報復だったのに、戦果が無ければ晋の恥

    である。

     吾は兄の兵車の車右として、恥ずかしくてたまらぬ」と言い、

    士匃(しかい)の子・士鞅(しおう)と与に秦軍に突入した。

     そして欒鍼は戦死したが、士鞅は生還した。

     欒黶は士匃を非難して、

     「余の弟は突撃を望んでいなかったのに,汝の息子が弟を誘った

    のだ。余の弟は死んだのに、汝の息子は生還した。

     これでは余の弟は、汝の子に殺されたようなものだ。

     息子を晋から追放せぬと、余が殺してしまうぞ」と脅したので、

     士鞅は秦に逃げた。

                      「春秋左氏伝 襄公十四年」



     



     
           

    テーマ : 戦記
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    中国通史で辿る名言・故事探訪(鄭の内乱)

     「衆恕は犯し難く、専欲は成り難し」

                        春秋時代

     大勢の人々から怒りを招くことになると、それに対抗することは難しく、

    又 自分ひとりの欲望を専らにしようとしても、成功は覚束ないもので

    ある。

     鄭の十五代・簡公二年(紀元前564年)冬、公族の連中が先代の釐公

    殺害の無念を晴らすため、宰相の子駟を襲撃するという陰謀が謀られた。

     だが陰謀を事前に察知した子駟は、先手を打って加担した諸公族を撲滅

    した。

     この族滅により、鄭国ではもはや公族で重職を得る者はいなくなった。

     朝廷における子駟の独裁色は一層強まったが、それから二年後 子駟に

    恨みを抱く五族と公族の残党が密かに結集して反乱を惹き起こした。

       ※ 五族:反子駟派の尉氏・司氏・堵氏・侯氏・子氏をいう。

          公族:子駟殺害計画を事前に察知され敗死した公子・子狐の

             子で、衛に亡命した孫撃と孫悪のこと。

     今度は彼らの密謀は漏れることなく、朝儀で朝廷に集まった所を急襲し、

    子駟と子産の父で司馬を務める子国らを殺害し、簡公を脅して人質にし、

    北宮に立て籠もった。

     この謀議には大臣の子孔(公子嘉)が加担してたと謂われるが、子孔

    は何らの手も打たなかった。

     事件を知った子産は素早く一族の兵を集めて、父が殺された西宮に

    向い、父の遺骸を収めてから、兵を北宮に進め、五族の反乱兵と戦闘

    を交えた。

     そこへ大夫の子蟜(公孫蠆《こうそんたい》)が国人層の兵を率いて

    応援に駆け付け、反乱軍を圧倒して簡公を救出した。

     反乱鎮圧後、大臣の子孔が宰相となったが、子蟜・子産の功績は

    誰の眼にも明らかで、人民の間で与に声望を高めた。

     子孔に次いで子蟜も執政に加わるようになり、対外政策は一貫して

    晋の盟約下に従った。

     子蟜の名は次第に高まり、それに反して宰相の子孔は、何ら為し得る

    ことは無かった。

     それどころか、子蟜の打ち立てた親晋路線を転換して、親楚路線を

    画策し、親晋派の大臣連中を一掃しようと企んだ。

     さらに子孔は、先の反乱の際の盟約書(載書)に基づき、旧体制下

    の位階の順序によって、官職に就くことを決めようと図った。

     子孔の措置に対して、大夫や諸司(役人)の多くは反対した。

     そこで子孔は彼らを粛清しようとしたので、再び内乱の様相を呈して

    きた。

     この危機に際して、子産は子孔に進言した。

     「先ずは多勢の怒りを収めるために、載書を焼却してしまうべきです」と。

     だが子孔は、

     「載書で以って国を定めようとするのだ。多勢が怒るからと言って焼く

    のでは、多勢が政治をするということになる。それでは国は治め難し」と

    言って、許そうとはしなかった。

     子産は猶も言う、

     「多勢の怒りは逆らいにくく、一人の専断は成功しにくい。

     この二つのし難いやり方で国を治めるのは、危険な事です。

     載書を焼いて多勢を落ち着かせる方がよろしい。さすれば、子は

    求めることが得られるし、多勢も安定します。

     衆恕は犯し難く、専欲はなり難し。


     多勢に逆らえば災禍を招きますし、一人の専断では事は成功しま

    せん。反対する者たちを宥(なだ)めるべきです」と。

     かくして子孔は、子産の意見に従って載書を焼いたので事なきを

    得たのである。

       ☆ 載書とは、本来は諸侯が会盟で盟約を結んで、その取り決め

         事項を記した文書をいった。


                       「春秋左氏伝 襄公十年」



      

    テーマ : 中国古典・名言
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    中国通史で辿る名言・故事探訪(呉対楚の戦い)

     「鴆茲の戦い」

                        春秋時代

     紀元前570年、呉と楚の戦いがあった。

     呉の君子は19代寿夢、楚の君子は24代共王である。

     呉が楚の甲冑軍団を鴆茲(ちんし)で撃破する。

      「楚の子重(しちょう) 奔命に罷(つか)る。


      奔命に罷るとは、君命により戦場を駆けずり回り疲れ果てるさま。


     紀元前570年の春、楚の子重は呉を伐ったが、その軍勢はえり抜きの

    精鋭であった。

     先ず鴆茲(ちんし)を抜き衡山に至り、ここで鄧廖(とうりょう)を主将と

    して組甲(くみよろい)の・三百と被練の・三千で押し寄せた。

       ※  組甲:布紐で綿密に綴った頑丈な鎧。

          被練:布で粗雑に綴じた鎧。 

     ところが呉軍は伏兵を仕掛けており、楚軍を迎え撃ち鄧廖を撃殺した。

     楚軍でうまく逃げ帰ったのは、組甲の八十と被練の三百だけであった。

     子重は先に帰っていて、既に勝ち祝いまでしてから三日が過ぎていたが、

    呉軍は猶も攻め込み、駕の地を奪った。

     この駕は楚にとって、とりわけ豊かな邑であり、また討死した鄧廖も

    楚の名士であった。

     当時の君子は、次のように評した。

     「子重がこの戦いで獲たものは、亡くなったものに及ばぬ」と。

     楚の国人は、其の事を種にして子重を非難したので、子重は次第に

    心痛から脳を患い死んでしまった。

                        「春秋左氏伝 襄公三年」

     

     

    テーマ : 戦記
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    中国通史で辿る名言・故事探訪(春秋五大会戦 その4)

     「鞍の戦い」

                        春秋時代

      紀元前589年、晋(26代景公)が魯・衛・曹の連合軍を率いて、

     斉軍を鞍の地に破る。これを「鞍の戦い」といい、春秋五大会戦・

     その四に数えられる。

      楚(24代共王)と晋が互いに相手を凌駕することが出来ず、覇権を

     確立することが出来ずにいた間に、中原の東端にある斉の23代頃公

     が、嘗ての勢いを取り戻しつつあった。

      1 「前哨戦」

      前589年春、斉の頃公は自ら軍を率いて、魯(22代成公)の北境に

     攻め込んだ。

      だがその年の夏四月 斉の隙を衝いて魯を救援するため衛の穆公

     は、上卿・孫良夫らに命じて、斉の地へ侵入を目論んで派兵した。

      ところが斉軍は、魯軍と決着を付けての帰還の途次 衛の領土の

     新築においてこの衛軍と遭遇し、衛軍を敗走させた。

      この時 石稷(せきしょく)は孫良夫に謂った、

      「子(し。貴方)は一国の正卿です。子を失えば恥になります。

      子が将士を率いて退却するなら、吾はここに踏み止まります」と。

      さらに軍中に布告して回った、

      「もうすぐ援軍が来るぞ」と。

      衛の軍中の様子を察知して、斉軍は進軍を停止して鞫居(きくきょ)

     に宿営した。

      この後 新築の仲叔于奚(うけい)が孫良夫の救援に駆けつけて来た

     ので、孫良夫らは辛うじて脱出することが出来た。

      斉に敗れて衛の国都に戻った孫良夫は、城門には入らず、その足で

     直に晋へ援軍を請いに行った。

      同じ頃 斉に敗れた魯も、臧孫(ぞうそん)宣叔を使者に立てて晋へ

     援軍を要請に来ていた。

      彼らは共に、晋の実力者である郤克(献子)に口添えを依頼した。

      晋侯(景公)は七百乗の出動を許可したが、郤克は、

      「この数は城濮の戦いの折の兵車数であり、先君(文公)の明察、

     先大夫(先軫や弧偃ら)の敏捷があらばこそ勝てたものです。

      我は先大夫らに比べれば、その召使いにも及びません。

      八百乗をお願いします」と懇願して許された。

      かくして中軍の将は郤克、その佐に士燮(ししょう。范文子とも)、

     下軍の将に欒書(らんしょ)、司馬に韓厥が任ぜられた。

      魯は季文子(季孫行父)を将として派遣した。

     2 「序盤戦」

      夏六月壬申(九 )の日、晋・魯・衛の連合軍は、斉の地の

     靡笄(びけい)山に駒を進めた。

      翌日の朝、両軍は鞍の地に対陣した。

      斉の高固が突然、晋の陣地に兵車を乗入れ晋兵に大石を投げつけ、

     倒れた兵を捕えて車に引き上げ、さらに付近にあった桑の木を根元から

     引き抜いて車に括り付けて悠々と自軍の陣地に馳せ戻り、連合軍の

     ど肝を抜いた。

     3 決戦

      斉公の指揮車には邴夏(へいか)が御し、逢丑父(ほうちゅうほ)が

     車右を務めた。

      その一方では、晋の郤克の指揮車では解張が御し、鄭丘緩が車右

     を務めた。

      斉公は、

      「余、姑(しばら)く此れを殲滅して朝食せん」と言って、馬に鎧も着せず

     に鞭をくれた。

      かくして戦端が開かれるや、晋の郤克は矢傷を受け、その流れる血が

     足の履を浸した。

      だが郤克は気力を振り絞って、鼓を打ち続けた。

      師の耳目は吾が鼓旗にあり、進退これに従う。

      (=軍の象徴は軍鼓と旌旗にあり、攻撃するも退却するも

       それ次第である。)

        ※ 旌旗とは、大将軍旗をいう。

      戦乱が続く中、郤克の気力もようやく衰えようとした。そして弱音を

     吐いて言う、

      「吾、病めり」と。

      だが御車の解張が励ました。

      「戦闘が始まってから、私は肘や手に矢を受け、それをへし折って馬

     を御しておりますぞ。兵車の左輪は私の血で真っ赤に染まっております

     が、何条以って病めりと言えましょうや。

      御大将、しっかり耐えて下さい」と。

      また車右の鄭丘緩は、

      「戦闘が始まってから、急坂にさしかかる度に私は車を降りて、後押し

     してまいりましたが、貴方はその事にお気づきではなかった。

      それも道理で、そんな酷い状態だったのですね」と、慰撫した。

      ここで解張は更に力強く励ました。

      「師(軍旅)の耳目は、吾が鼓旗に在り。進退これに従う。

      御大将が一人、この指揮車で頑張っておられれば勝利は我がもの、

     それなのに、何ぞそれ病めるからと言って君の大事を敗れましょうや。

      甲(よろい)を着け武器を手にしたからには、死はもとより覚悟のはず。

      病むといえども未だ死ぬ事はありません。

      確り指揮を執ってください」と言って、手綱を左手だけで持ち、右手で

     郤克から撥(ばち)を受け取り、烈しく鼓を叩いた。

      ところが抑えが十分に利かず、その為 馬は奔走し、全軍は一丸と

     なってその後に続いた。

      それまで優勢に戦いを進めていた斉軍は、晋軍のこの思わぬ猛攻に

     堪らず敗走し、攻守が逆転してしまった。

     4 韓厥と頃公の奇跡の運命

      この追撃戦で司馬の韓厥は、斉公の指揮車の後を追った。

      この時、韓厥は車の左にある指揮官席に立たず、自ら御車となり中央

     で手綱を握っていた。

      と謂うのも、開戦前夜 父が夢枕に現れ、

      「明日は、兵車の左右に立ってはならぬぞ」、とのお告げがあった

     からであった。

      追われる斉公の御車・邴夏が言った、

      「あの御車を狙うべし。君子ですぞ」と。

      しかし斉公は、

      「いや、君子と知って矢を射かけるのは如何にも失礼である」、と

     言って、車左を射倒し、続いて車右も射倒した。

      左右の勇士を失った韓厥の兵車に、兵車を失った晋の大夫の

     綦母張(きむちょう)が追い縋って車右の席に乗り移ろうとした。

      しかし韓厥は肘で押しのけた。ところが更に車右の席に着こうと

     するも、やはり肘で押しのけ、自分の後ろの余地にしか乗せなかった。

      そして、ずり落ちそうになった左右の士の遺骸を落ちないように引き

     戻した。

      そのわずかの隙に、追われる斉公は車右の逢丑父と席を入れ替えた。

      やがて華泉に近づいたところで、指揮車の副馬が木に引っかかって、

     動きが取れなくなった。

      逢丑父は昨夜、指揮車の中で寝た時、蛇に咬まれて負傷していたので、

     指揮車を後から押すことも出来なかったので、とうとう韓厥に追い

     つかれてしまった。

      韓厥は斉公の馬前に進み寄り、その手綱を取り、再拝稽首(頓首)

     し、また持参した盃に玉を添え斉公に捧げて、

      「我が君の出兵の目的は、衛・魯の救援に在って、斉の地に深入り

     してはならん、と。

      しかし軍を進めるうちに、不幸にして貴軍に出くわしました。

      逃げ隠れもならず、故意に避けるのは主君の名を辱め且つ

     君に対しても無礼かと存じあげ、敢えて戈を交えさせて戴きました。

      失礼の段は御許しいただき、この私がお供いたしますのでお越し

     いただきたい」と、言上した。

      この時、斉公に成りすましていた逢丑父は何食わぬ顔で、

      「華泉に行って水を飲んで来い」と、傍らの斉公に命じた。

      車を降りた斉公は、鄭周父が御を務め、宛茷(えんはい)が車右を

     務める副官車に乗り移って難を逃れた。

      その後も斉軍は追撃を受けて、華不注山を三周して、ようやく逃げ

     帰った。

     君に代わりて患に任ずる者あることなからん

       (=我が君に代わって災難を引き受ける者、即ち主君の身代わり

        となる者はいなくなるだろう。)

       斉君の身代わりとなった逢丑父は、韓厥により郤克の下に連行

      された。

       郤克は彼を殺戮しようとしたが、逢丑父は大声で叫んで言った、

       「今より後 その君に代わりて患に任ずる者(君侯の身代わりとなる

      者)あることなからんや。

       ここに一あるに、当に戮することを為さんとするか」と。

       この言葉に郤克は胸を打たれた。

       「人 死を以ってその君を免れしむるを憚らざるに、

       (=勇士が吾が身を忘れてまで敢えてその主君を助けようとした

        のに)

        吾 これを戮するは不祥なり。これを赦して以って君に仕える者を

       勧めん」と言って、処刑を取り止めた。

        この戦いで晋は斉の国都・臨淄(りんし)近くまで攻め込んだが、結局

       魯と衛の仲裁で和平協定を結ぶことになった。

                      「春秋左氏伝 成公二年」



      

               

      
      



       

       

      

      

    テーマ : 戦記
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    中国通史で辿る名言・故事探訪(春秋の五大会戦 そのⅢ)

      邲の戦い そのⅡ


                        春秋時代

      「開戦」

      晋軍の陣営にあっては、和睦の使者として派遣した魏錡らが一晩

     経っても帰陣して来なかったので、もしかして楚軍を刺激して怒らせた

     のではないかと心配して、防護用の兵車を差し向けた。

      ところが魏錡を追っていた楚の将軍・潘党は、晋の兵車の挙げる

     砂塵を見て本陣に急使を派遣し、敵の襲撃有りと通報した。

      「むしろ人に迫るとも、

     人をして迫らしむることなからん」

      (=こちらから攻めても、攻めさせてなならない。)

      楚軍においては令尹の孫叔敖が、荘王が深入りして晋軍に包囲

     されては一大事とばかりに出撃命令を出した。

      むしろ人に迫るとも、人をして迫らしむることなからんと、攻勢を執る

     べく兵を繰り出した楚軍は晋軍に襲い掛かった。

      晋の総帥・荀林父は為す術もなく、慌てて撤退の鉦(かね)と叩き、

     軍中に告げさせた。

      「先に河(黄河を北に)を渡った者には、恩賞を取らせる」と。

      舟中の指、掬すべし

      (=舟の中に切り落とされた人の指が、手で掬(すく)い取れるほども

       あった。)

      撤収と恩賞のお触れに、兵士たちは命がけとなった。

      人より早く河を渡ろうとして、中軍、下軍 舟を争い、

      「舟中の指 掬すべし」、という惨状を呈し、最早 収拾がつかなく

     なってしまった。

      即ち 先に乗船した兵たちが、定員過剰となり舟の転覆を免れる

     ために、後から乗り込んで来ようとする兵の船べりを掴んだ手を、剣で

     斬り落としてしまうという舟中の生き残りの争いが、あちこちの船で

     一斉に起ったのである。

      かくして舟の中には、切断された手の指が両手で掬い取ることが

     出来る程もあったという。

      晋の中軍と下軍は、当に総崩れとなり右に移動した。

      激戦中に、楚の大夫・熊負羈(ゆうふき)は、晋の大夫・荀首の子

     である知罃(ちおう。知武子とも)を生け捕りにした。

      荀首はその一族郎党を率いて、知罃奪還に立ち向かったが、

     ようやく楚の連尹(武器類の管理官)・襄老(夏姫の夫)を射止めて

     その遺骸を兵車に乗せ、さらに楚の公子・穀臣(荘王の子)を射て、

     これも生け捕りにして晋に連れ帰った。

      屈辱の敗戦を蒙った晋ではあったが、和平派であった知将の随会

     (士会)の指揮する上軍のみは無傷で、戦場に踏み止まっていた。

      楚の荘王は属国の「唐」の恵侯を説得して従軍させ、潘党に兵車

     四十乗を授けて唐軍に配属させて左翼軍となした。

      そしてこの左翼軍をして、晋の上軍を追撃させた。

      晋の上軍の副将・郤錡は、徹底抗戦を唱えたが、随会は、

      「楚の師 当に壮(勇壮)なり。

      若し吾に集まらば、わが師必ず尽きん。

      如かず、収めてこれを去らんには。

      (=撤収するに越したことは無い。)

      謗りを分かち民を活かさんこと、また可ならずや」、と決断して」、

      (=非難を受けても、兵士を活かして帰すことの方が大切だ。)

     自らの上軍を殿軍として撤退し、晋軍の全滅を防いだ。

      日が暮れて、楚軍は邲に陣を設営したが、晋の敗残部隊は陣営を

     設営できず、夜中に黄河を渡った。

                       
                       「春秋左氏伝 宣公十二年」


      ☷ 拾遺・弥縫

        邲の戦いの勝利により、楚の荘王は会盟を主催し、斉の桓公、

       晋の文公に続いて春秋の第三代覇者と認められた。

        鄭救援軍の総指揮官である荀林父は、敗戦の責任を取って

       景公に死を賜るよう願った。

        景公がその願いを容れようとすると、士貞子(士渥濁。士会の

       祖父)が反対して次のように進言した。

        「かつて我が文公が城濮の戦いで楚を撃ち破った時、楚王は敗軍

       の将となった子玉の責任を問うて彼を自裁させましたが、晋では戦い

       に勝っても楚の猛将を討ち漏らして憂いておられた文公は、その事を

       知って大喜びされたものです。

        今 楚に敗れた上に総指揮官まで死に追いやったのでは、みすみす

       敵の思う壺となりましょう」と。

        かくして荀林父は処罰を免れた。

                       「史記 晋世家」



        

       



      


      

      

    テーマ : 中国古典・名言
    ジャンル : 学問・文化・芸術

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    Author:tyouseimaru
    出身地は四国八十八か所参りの発心の阿波、大阪を終の棲家とする。
    歴史好きで、城郭・神社仏閣・歴史遺跡巡りが趣味となる。
    歴史小説や時代小説を好み、往年の著名な時代小説の類は概ね完読と、自負している。

    自薦
    自著「中国通史で辿る名言・故事探訪」の 上・中・下の3巻を、 近い内に「電子書籍」での出版を予定しています。 今年一年間は、さらに工夫を加えるなどして、補記訂正などの校正を第一義としています。       
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