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    中国通史で辿る名言・故事探訪(天下を治むるは貪を懲らし、)

      天下を治むるは貪たんを懲らし、

        廉れんを薦むるを以って要となす。


                    清

       政治の要諦は、先ず汚職を封じ貪官(たんかん)を断罪し、清廉

      を奨めて清賢の官を進めることが肝要である。

       清朝の黄金期を創出し、その晩節を全うした稀有の皇帝である

      康熙帝の言葉。 

       二十四歳で崩じた順治帝の後を受けて、順治帝の三男で八歳の

      玄燁(げんよう)が、清王朝の第4代康熙帝(愛新覚羅玄燁)として

      即位したが、康煕六年(1667年)、十五歳になると親政を開始した。

       だが、輔弼のオーバイの力に衰えはいささかも見られなかった。

       親政を始めてから二年、康熙帝は皇太后と叔父ソエトの支援の下、

      少年によるモンゴル相撲にことよせて、政治には無関心の風を装い

      その場にオーバイを招き寄せた。

       オーバイが、少年のことと油断していたそのすきを窺い少年らに

      捕縛させ、後には終身刑に処した。

       ここに於いて、康熙帝の実質的親政が始まった。

       おもな功績は、三藩の乱の平定、台湾の討伐、ロシアとの国境

      の策定。

       また学術を奨励し、清王朝の黄金期の基礎を確立した。

       ※ オーバイ(オボイとも)は、太祖ヌルハチの腹心として活躍した

        武人で、順治帝の遺詔により康熙帝の補佐役としてスクサハ・

        エビルン・ソニンと共に任ぜられた。

         彼等は日ならずして権力争いをしてオーバイが専権を確立した。

    テーマ : 中国古典・名言
    ジャンル : 学問・文化・芸術

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(天下を一家となす)

     「天下を一家となす」

                        清代

      この天の下に広がる国家全体(国中)は、全て一つの家族だと

     する思想。

      清朝の末期、廣州出身の洪秀全は十六歳から三十一歳までの

     間に、廣州府で四回 科挙の秀才を受験するための予備試験

     (府試)を受験したがその都度失敗した。

      その失敗の原因は、身分的差別にあったと云われる。

      彼が三回目の試験に失敗し失意のどん底にあった時、彼に一人の

     伝道者がキリスト教の入門書を与えた。

      洪秀全は熱心に熟読し、「天の啓示」を確信するようになる。

      その後 四回目の科挙を受験したが、あえ無く失敗した。

      そして遂に受験の教本たる孔孟の書を棄てて故郷に帰り、

     キリスト教の洗礼を受けて入信。後 エホバの信仰を説いて

     回るようになる。

      時 至り遂に宗教結社「上帝会」を組織し、多くの貧しい農民らの

     帰依を受けるようになった。

      だが特権支配階級からは激しい弾圧を受けるようになったので、

     江州、広西を旅するようになり、以前にも増して多くの信者を獲得

     するに至った。

      道光三十年(1850年)に、広東・広西地方で大飢饉が発生した。

      多数の餓えた信者が、広西の金田村に集まり決起した。

      洪秀全を首領として指導者たちは、

       「 集まった老若男女・兄弟姉妹は皆平等なり、

        天下一家とする 」


     となし、反清復明・滅満興漢・替天行動・劫富済貧を旗印として、

     即ち満州王朝の支配を打倒し、腐敗官僚と収奪豪農及び大商人らの

     撲滅を叫んで決起した。

      その勢力は「太平軍」と命名されたが、勢力を増すに従い軍団と

     しての整備された組織となり、鎮圧に乗り出した清朝軍をしきりに

     撃ち負かした。

      かくして中原解放を呼称して、北上を開始。

      先ずは広西の永安を占拠し、翌年 洪秀全は天王と称して、

     「太平天国」の樹立を宣言した。

      そして軍団を五つに分けて、それぞれの指導者を王に任じた。

      太平軍は官軍や富豪連中の自衛武装団と戦いつつ、興安・

      全州・長沙・武昌などへその占領地域を広げていった。

      咸豊三年(1853年)には、遂に南京を攻略した。そしてこの南京

     を天京と称して都とした。

      同年五月には洪秀全は、北京攻略を果たすべく北伐軍を派遣した。

      北伐軍は途中の山西や河北で抵抗する住民や満州人を多く虐殺し、

     一時期ではあるが北京の陥落はもはや時間の問題とまで噂された。

      太平天国軍は、蜂起してからその滅亡に至るまでの間 清の都城

     七十余を占拠し、勢力範囲は華南から華中に及び、最盛時にはその

     兵力は百万を称したが、儚く潰え去った。

      南京入りしてから、洪秀全は政務は諸王に任せきりとなり、自らは

     宮廷から出ようとせず宗教に没頭したり、奢侈逸楽を事とするように

     なった。

      政治的理想の実現を没却した太平天国は、次第に民衆から

     疎遠な存在となり混迷を一層深めるようになった。

      咸豊六年(1856年)夏 天京事件と云われる内紛が生じ、民衆

     にも背かれるようになり、また欧米列強の介入を招き入れるように

     なる。 

     

      

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    中国通史で辿る名言:故事探訪(中国三大女傑・西太后)

     「中国三大女傑 其の三」

                         清朝

      古来から中国では、王朝の有力な女性権勢家として、

     漢王朝初期の劉邦夫人(呂太后。名は雉)・唐王朝初期の

     二代皇帝・高宗に召された武氏(武皇后とも則天武后とも)・清朝

     末期の九代咸豊帝の二人の皇后の内の一人である西太后

     (名は蘭)の三人が周知の事実である。

      西太后は満州族の中級旗人・官吏の家に生まれ、名は蘭。

      時の皇帝・咸豊帝には皇后がいたが実子に恵まれなかった。

      そこで祖法(朝廷の慣習法)に従い、国中から王室とは血縁関係の

     無い品性と知性に優れた候補者選びが行われた。この選考祖法を

     「選秀女」といった。

      其の一人に十七歳の蘭も選ばれ、貴人(下級の側室の位階)として

     後宮入りした。

      ところがその後、咸豊帝の寵愛を受けるようになり位階も進み、遂に

     男子(載淳)を生んで貴妃に昇った。

      咸豊帝は長年の淫乱生活がたたり、原因不明の熱病に犯され重篤

     の状態に陥った。

      蘭貴妃は意識朦朧たる咸豊帝の病床で、我が生んだ子の載淳を

     後継者として承諾させ、また摂政には自分を指名するよう同意させ、

     急ぎ詔書を作らせた。

      皇帝の死後、三歳になった載淳が即位したが、これが同治帝で

     ある。

      遺命により八人の側近が政治を補佐するようになった。

      ところが彼らは幼帝を侮るようになり、権力を独占するに至った

     ので、今は亡き咸豊帝の慈安皇后とともに蘭貴妃は、新しく王族と

     なった咸豊帝の弟・恭親王を抱き込み、周到な計画のもとに大粛清

     を断行した。

      ここに至って慈安皇后と蘭貴妃による女 二人の「垂廉政治」が

     始まることとなった。

      そして清朝祖法により、同治帝の嫡母たるべき慈安皇后はいつしか

     東太后と呼ばれ、同治帝の実母たる蘭貴妃は西太后と称されるように

     なった。

      だが東太后には係累は無く、政治的見識も無く万事が控えめな性格で

     あったので、遂に西太后の独壇場となってしまった。 


     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(垂簾之政)

     「垂廉之政」

                        清代

      「臨朝称制」ともいう。

      中国では、幼少の天子に代わって太后或いは皇太后が

     国政を執り行なうことをいう。

      宮中の玉座の前に垂らされた簾の陰で、政を聞くの意。

      日本では、一般的には天皇が死亡した後、次代の継承者たる

     皇太子や先帝の后が即位しないで政務を執ることがあったが、

     これを「称制」といった。日本の称制は、天皇不在である。

      清朝の第9代咸豊帝は、長年の淫乱生活が祟って、原因不明

     の熱病に犯され重体に陥った。

      この時 蘭貴妃(後の西太后)は意識不明の咸豊帝の病床で、その

     後継者として我が生んだ子である載淳を認めさせた。

      皇帝の死後 3歳の載淳が10代同治帝として即位し、遺命により

     指名された8人の側近が輔佐するようになった。

      ところが彼らは幼帝を侮り、権力を独占するに至った。

      咸豊帝の慈安皇后と蘭貴妃は、新たに王族となった咸豊帝の

     弟の恭親王を抱き込んで周到な計画を巡らし大粛清を断行した。

      事ここに至り、慈安皇后と蘭貴妃による女二人の垂廉政治が

     始まった。

      清朝の祖法により、同治帝の嫡母たるべき慈安皇后はいつしか

     「東太后」と呼ばれ、同治帝の実母たる蘭貴妃は「西太后」

     称されるようになった。

      ところがその内、東太后には実子は無く、また政治的見識もなく、

     控えめな性格であったので、ついに西太后の独壇場となった。

      同治14年(1875年)1月12日 同治帝が19歳の若さで早逝

     した。死因は天然痘とも淫乱による梅毒とも言われる。

      そこで咸豊帝の弟の醇親王奕譞(えきけん)に嫁した西太后

     の妹が生んだ5歳の載湉(さいてん)が西太后に推されて即位した。

      これが11代光緒帝である。

      西太后にとっては、同治帝にも増して「垂廉聴政」が遣り易くなった

     といえる。





      
      

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(朱を奪うは正色に非ず、)

     「朱を奪うは正色に非ず、

        異種もまた王を称す」


                        清代

      清に滅ぼされた明王朝は、「朱」を正色としていた。

      即ち、朱色は正統王朝たる明の証でもあった。

      ところが、その朱を奪ったのは正色でない異色の異民族たる

     満州人であり、勝手に清王朝と称している。

        ☞ 異色とは、原色を混ぜ合わせてできた色をいい、

         中間色(間色)ともいう。

      清王朝の第6代乾隆帝の治世下、礼部尚書の陳徳潜は、

     「黒牡丹」という題名の詩作をした。

      そして彼の死後の事になるが、その詩中の一句が問題視され、

     告発された。

      その一句とは、次のような文言である。
     
      「朱を奪うは正色に非ず、異種もまた王を称す」。

      その文言の解釋たるや、

      これは異民族の満洲人が、朱の正統王朝である漢人の明朝

     の皇位を簒奪して清朝を建てたと当てこすったものであり、

     大逆罪に当たるとして断罪が決定した。

      ところが、その罪人たるべき陳徳潜は既に埋葬されていた。

      そこで勅命により墓地は掘り起こされ、棺を開いて屍体は切断

     された。

      このような状況下において、漢民族の反満攘夷思想は地下に

     潜行したが、やがて時代は推移し中国を侵略しようとする西洋諸国

     に向けられるようになる。
     

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    Author:tyouseimaru
    出身地は四国八十八か所参りの発心の阿波、大阪を終の棲家とする。
    歴史好きで、城郭・神社仏閣・歴史遺跡巡りが趣味となる。
    歴史小説や時代小説を好み、往年の著名な時代小説の類は概ね完読と、自負している。

    自薦
    自著「中国通史で辿る名言・故事探訪」の 上・中・下の3巻を、 近い内に「電子書籍」での出版を予定しています。 今年一年間は、さらに工夫を加えるなどして、補記訂正などの校正を第一義としています。       
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