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    中国通史で辿る名言・故事探訪(蒙求より)

     「庶女振風」

                         春秋時代

     平民の女が、天に向かって無実の罪を訴え続けるという意。

     春秋時代の末期で 斉の景公(26代。在位期間は前547年~490年)

    の時代、一人の平民の寡婦がいた。

     ところが、この寡婦の嫁ぎ先の小姑に謀られて、「義母殺し」の汚名を

    着せられた。

     だが貧しい寡婦には我が身の無実を証明することが出来ず、悲嘆にくれ

    天に向かって己の無実を訴え続けるという故事があった。

     遥か後の事になるが、この故事を前漢の淮南王・劉安が撰入して

    「淮南子・覧冥訓」に記した。

     そして後漢の時代になり、許慎がこの故事を注して言った。

     平民の女とは、斉の国の寡婦である。

     子供は無かったが、再婚しないでよく姑に仕えていた。

     この姑には、他に男子はなく娘が一人いた。

     ところがその娘は、将来 母の遺産を多くとろうと思って、母に勧めて

    寡婦を再婚させようとしたが、寡婦は最後まで承知しなかった。

     事ここに至るや、娘は遂に実母を殺した挙句に、寡婦が殺したのだと

    官署に訴え出た。

     寡婦は、自分でわが身の無実の証しを立てることは出来なかった。

     だが無実だという信念に揺ぎは聊かも無く、天に向かっては己の無実を

    毎日 訴え続けたのである。

                       「蒙求 庶女振風」



     

     

     

     

     

     

     

     

    テーマ : 中国古典・名言
    ジャンル : 学問・文化・芸術

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(斉の杞梁と華舟)

     「生きては忠義を尽くし、死しては名声を立てる」


                        春秋時代

     斉の荘公(25代)は、莒(きょ)を討伐する意向を明らかにし、討伐に

    際して、五台の車に勇士を抜擢して載せることに決っした。


       ※ 斉の荘公の在位期間 : 紀元前553年~548年
      
     ところが、この選抜に普段から勇を以って満を持す大夫の杞梁と華舟が

    いたが、選抜に漏れてしまった。

     二人は意気消沈して、それぞれ家に帰ったものの食事も一切摂ろう

    とはしなかった。

     そのあり様を見て母は言った、

     「お前は生きている内に忠義を尽くすことも無く、死んでからも名声を

    遺すことも無ければ、選に漏れたとしても誰もお前を笑ったりはしない

    だろう。

     だが生きている内に忠義を尽くし、死んでから名声を立てるようなこと

    になれば、五台の車の勇士たちもすべてお前より劣っていることになる

    のだよ」、と励ました。

     それから母は、急いで食事をさせ息子を戦いに追い遣った。

     季梁と華舟は同じ車に乗って、それぞれの臣下を率いて荘公に付き

    従った。

     やがて莒に至ると、敵軍は防戦に努めたが、二人は車を降りて戦い、

    敵兵を三百も討ち取った。

     荘公はいたく感心して、

     「もう其の位で止めるがよい。褒美として封土を与えよう」と慰労した。

     二人は君に対えて、

     「我々は五台の車の勇士の選に漏れました。

     これは我々の勇気が軽んじられたからです。

     我々は今 敵を相手にして障害を乗り越えました。

     この時に利益を与えるからと言って、戦いを止めさせるのは、我々の

    行動を汚すものでしかありません。

     どこまでも突進して、多くの敵を殺すのが臣下の務めです。

     封土を分けてもらうなど、我々の念頭にありません」と言って、猶も敵陣

    に突き進んで陣列を崩して混乱させた。

     そして遂に城下に至ると、この二人の勇猛ぶりに今度は莒の側から、

     「みすみす死ぬことはあるまい。お前たちに莒の国土を分けてやろう

    ではないか」
    と、持ちかけてきた。

     だが二人は、改めて己の信念を開陳した。

     「自分の国に背いて敵側に帰順するのは、忠臣に非ず。

     自分の主君を棄てて、贈り物を受けるのは立派な行為とは言えません。

     しかも夜明け前に約束したばかりなのに、真昼になって其れを忘れる

    ようでは信頼を裏切ることになります。

     何処までも突進して、多くの敵を殺すのが臣下たる者の務めです。

     莒の封土を分けてもらうなどという事は、我々の念頭にはありません」

    と言って、更に勇んで突き進み、敵兵を二十七人道ずれにして壮烈な死を

    遂げた。

     戦端が終わった後、彼等の二人の妻は城壁の側で、夫の末期の言葉

    を耳にして号泣して大いに悲しみに暮れた。

     傍目にもその泣き声が余りにも悲痛だったので、城壁が壊れてその

    一隅が崩れ落ちる程であったという。

      この戦死した季梁と華舟の妻が哭いて悲しみ、城壁を崩したという

      故事はその後 永く語り継がれて、後に万里の長城秘話と言われる

      「孟羌女伝説」を生み出すきっかけとなる。



      

       

    テーマ : 戦記
    ジャンル : 学問・文化・芸術

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(物の損得勘定)

     「物 之を損して益すること有り」

      
                      春秋時代

     天下には三つの危いことがある。

     人徳少なくして君の寵愛の多きは、その一。

     才能低くして地位の高きにおることは、その二。

     自身の大功無くして高禄を受けることは、その三。

     故に物 之を損して益すること有り、之を益して損すること有り。

     何を以って、その然るやを知るや。

     昔 楚の荘王は覇者たる晋と河雍(黄河と雍水)で戦い、勝利して

    覇権を獲得した。

     そして戦後 その戦功として孫叔敖(しゅくごう)に封地を与えようと

    したが、彼は頑なな辞退して受けなかった。

     孫叔敖は晩年に病に罹り、その死に際に我が子に遺訓した。

     「我もし死せば、王 必ず女(=汝)を封ぜん。

     女 必ず肥饒の地を譲りて(豊穣の地を辞退し)、沙石の間(砂や石ころ

    ばかりの荒れ地)の有寝の丘なる者(地名のこと)を受けよ。

     其の地は确石(かくせき。石の多いやせ地)にして、名(地名)醜くし。

     荊人は鬼(楚の人は鬼神を畏れ)、越人は禨(越人は祟りを信じ)に

    して、人の之(有寝の丘)を利すること莫けん(欲する者はいない)」、

    と。 

     孫叔敖の死後、荘王は果たして、その子に肥饒の地を以って封じよう

    としたが、その子は辞して、改めて不毛の地である有寝の丘を請い願った。

     楚の「制」として、功臣にはその二世に限って襲封を認めるという決まり

    があったが、上記の理由から孫叔敖の子孫のみ 「制の例外」が認められ

    てきた。

     此れ所謂 之を損して益するものなり。


     またその昔 晋の厲公(27代)、南の方 楚を伐ち、

    西の方 秦を伐ち、北の方 燕を伐つ。

     兵 天下に横行して綣(かが)むところなく、威は四方を服して詘する

    ところなく、遂に諸侯を嘉陵に合わす(会盟する)。

     気充ち、志驕り、淫侈(淫乱奢侈)度無く、万民暴虐し、内に輔弼の臣

    無く、外に諸侯の援けなく、大臣を戮殺し、導諛(佞臣)を親近す。

     明年(翌年) 匠麗氏に出遊するや、欒書・中行偃、脅かして之を幽す。

     諸侯のこれを救う莫く、百姓の之を悲しむ無莫く、三月にして死す。

     それ戦えば勝ち攻むれば取り、地広くして名尊きは、是れ天下の願う

    ところなり。

     然れども、身死し、国亡ぶに及ぶ。

     此れ所謂 之を益して損する者なり」、と。

                       「淮南子 人間訓」



     

     
      

    テーマ : 中国古典・名言
    ジャンル : 学問・文化・芸術

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(韓非子・ 十過)

     「小忠を行わせるは、則ち大忠の賊なり」


                        春秋時代

      部下の真心からの誠実な行為を大いに良しとして、無闇矢鱈に赦すと、

     それが時には自らの大いなる誠実を妨げる一因ともなることがある。

      春秋時代の楚の司馬・子反の側近である穀陽は、戦陣にあって

     主人の喉の渇きを見て、水ではなく酒を差し出したが、それは生来 

     酒好きな主を思っての誠実な行為であった。

      ところがその後 子反は共王の緊急の呼び出しにも心疾を理由として

     応じなかった。

      そこで共王は自ら出向いたが、彼の帷幄に入るや酒の匂いを嗅いだ

     のですぐさま本国に向けて帰還してしまった。

      曰く、
      
      「今日の戦い 不穀(貴人の自称)自ら傷つき、恃む所の者は司馬

     なり。

      而るに司馬 また酔うこと此の如し。これ楚国の社稷(国家)を忘れて

     吾が衆(人民)を恤(あわれ)まざるなり。

      不穀 復た戦うこと無からん」と。

      ここに於いて師(軍旅)を還して去り、司馬・子反を斬りて以って

     大戮と為す。

      故に豎穀陽の酒を勧むるは、以って子反に讎(あだ)せんとするに

     非ず。

      其の心 これに忠愛にして、而も適々(たまたま)以ってこれを殺す

     に足る。

      (=その心からの忠愛が反って子反を殺す羽目となり、結果的には

       子反の大きな誠実を妨げたことになった。)

      故に曰く、

      「小忠を行わせるは、則ち大忠の賊なり」と。

                      「韓非子  十過」


    テーマ : 中国古典・名言
    ジャンル : 学問・文化・芸術

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(晋・郤克の私怨)

     「郤克、斉に使いする」

                        春秋j時代

      紀元前592年春、晋侯(28代景公)は離反した国々

     (宋・鄭・陳・蔡)を咎めるべく、断道で諸侯会盟を持つために

     郤克を使者として斉に派遣し,斉侯に会盟参加を呼びかけようとした。

      ところが斉の頃公は、朝堂に婦人(母堂の蕭同叔子)を呼んで几帳

     (仕切りの帳)で隠し、引見する際に脚の悪い郤克を見世物にしようと

     した。

      それとは知らない郤克が朝堂の階段を昇る様子に、几帳の内の婦人

     が笑いたてたので、それと察した郤克は激怒し、すぐさまその場を立ち

     去り、自ら誓った。

      “ この辱めに報ゆるを得ずんば、再び河(黄河)を渡らず ”、と。

      即ち今度 来る時を待っておれ、と復讐の念を燃やしたのである。

        ※ 後年 鞍の戦いで、中軍の将となった郤克は、斉と死闘を

         繰り広げることとなる。

      そして自らは一足先に帰ることにし、副使の欒京盧(らんけいろ)に、

      「斉が承知するまでは帰って来るな」と言って斉に留めた。

      そして帰国後、郤克は晋侯に斉の討伐を請うたが赦されなかった。

      ところで斉侯は自分の代理として高固・晏弱・蔡朝・南郭偃を諸侯会盟

     に派遣したが、斂盂(れんう)まで来たとき高固だけは、郤克の復讐を

     恐れて逃げ帰ってしまった。

      即ち、あの人が一度怒れば、事の理非曲直を忘れて事態の収拾が

     つかなくなるだろう、と判断したのである。

      その後 六月の六日、晋・魯・衛・曹・邾(ちゅう)は断道に会して、

     二心ある者を討つ盟約を交わした。

      だが晋は斉の参加を拒絶し、待機していた斉の使者の三名を、晏弱

     は野王に、蔡朝は原に、南郭は温にそれぞれ足止めさせた。

      使いを終えた晋の苗賁皇(びょうふんこう)が野王に立ち寄り晏弱に

     出会ったが、帰国してから晋侯に進言し、晏弱らの見張りを緩めさせた

     ので、彼らは急ぎ逃げ帰った。

      秋七月 晋軍は会盟の地から引き揚げた。

      八月 晋では范武子(士会)が隠居し、子の范文子(士燮)が跡を継ぐ

     ことになった。

      武子は文子に告げて曰く、

      「士燮よ、

      『喜怒に其の所を得たるは少なく、所を得ざる者多し』と吾は聞く。

      詩(詩経 小雅・巧言)にも、

      【君子もし怒れば、事の乱れは速やかに止みなん。

      君子もし祉(よろこ)べば、事の乱れは速やかに止みなん】とあり、

       ※ 祉:字義は神の止まる所、即ち神から授かる喜びの意。

      君子たる者の正しい喜怒は、世の乱れを止めることが出来るが、

     君子たらざる者の下手な怒り方では乱れも止まず、止まなければ

     怒りは一層 酷くなるというものだ。

      さて郤克は、しきりに斉を懲らしてやろうと怒っているのだが、上手く

     いかぬと晋の国内で八つ当たりし、内政の乱れが増しやせぬかと

     心配なのだ。

      この際 儂は隠居するが、お前は郤子(克)に思う存分やらせて、その

     怒りが消えてしまうように持って行くがよい。

      つまり、汝はあの方々に謹んで従っておればよいのだ」と。

      その後 いよいよ郤克(郤献子ともいう)が執政となった。

                      「春秋左氏伝 宣公十七年」


      

      

    テーマ : 中国古典・名言
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    tyouseimaru

    Author:tyouseimaru
    出身地は四国八十八か所参りの発心の阿波、大阪を終の棲家とする。
    歴史好きで、城郭・神社仏閣・歴史遺跡巡りが趣味となる。
    歴史小説や時代小説を好み、往年の著名な時代小説の類は概ね完読と、自負している。

    自薦
    自著「中国通史で辿る名言・故事探訪」の 上・中・下の3巻を、 近い内に「電子書籍」での出版を予定しています。 今年一年間は、さらに工夫を加えるなどして、補記訂正などの校正を第一義としています。       
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