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    中国通史で辿る名言・故事探訪(馬頭娘神話)

     「馬頭娘(ばとうじょう)神話」

                        太古の神話時代

      高辛氏の時、蚕女(さんじょ)なる者の父は、隣村のために連れ

     去られ、父の馬が取り残された。

      蚕女の母は、多くの者に誓って言った。

      「父を得て還る者有らば、娘を以って之に嫁す」と。

      すると、父の馬はその言葉を聞くと、縛ってある絆(きずな)を断ち

     切って去った。

      それから数日が経って、父は馬に乗って帰って来た。

      母は、その経緯を夫に告げた。

      父は言う、

      「いずくんぞ人にして類に非ざるに、偶する有(あ)らんや」と。

      (=一体 人でありながら、人でないものに連れ添うことが出来

       ようぞ。)

      後、馬は娘を見る度に、猛り狂った。

      その為 父は怒り、射殺してその皮を庭に曝した。

      ところが娘がその傍らを過ぎた時、馬の皮はパッと立ち上がり、娘を

     包み込んで飛び去った。

      それから十日が経ち、娘は木の上で見つかった。

      娘は化して蚕となり、桑の葉を食べては糸を吐き、人間に衣類を

     着せるようになった。

      今、毎年 蚕を祈る者は、泥土で女子の像を作り、馬の皮を広げて、

     これを「馬頭娘」と謂った。

      そして、何時しか蚕の守り神となった。

                     唐・孫頠(そんぎ) 『神女伝』

    テーマ : 神話伝説逸話
    ジャンル : 学問・文化・芸術

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(身代わり貞女)

     「身代わり貞女」

                  ◇ 前漢(西漢)時代 ◇

      漢の城都・長安に至って仲の良い夫婦がいた。

      ところが、その夫を仇と狙う男がいた。だがその男には、目的を果た

     す策略が見つからなかった。

      その男の苦衷が続く日々が続いたが、その内 其の仇の妻が仁義を

     よく心得る節女であると言う事を聞き知るに及び、彼女に敵討の手引きを

     させるべく、彼女の父親を拉致して人質とし、彼女に手引きするように

     強要した。

      彼女は大いに悩んだ。

      男の要求を拒絶して父親が殺されでもしたら、これは不孝の最たる

     ものとなる。

      さりながら要求を入れて夫を見殺しにするのは、不義になる。

      そこで彼女の決断は、自らの身を犠牲にするということに落ち着いた。

      彼女仇と狙う男に会って、申し入れをした。

      「今日 夜になれば、夫は洗ったばかりの髪を東に向けて二階で臥し

     ています。私は出入り口を開けておきます」と。

      そしてその夜、彼女は夫を別の場所に休ませ、自分は髪を洗って二階

     の部屋に入り、頭を東に向けて、入口は開放しておいて臥していた。

      その夜半、仇と狙う男はやって来て、二階に伏す者の首級を挙げて

     持ち帰った。

      ところが夜が明けてみると、その首は何と仇の妻のものであった。

      さすがに男も、仇の妻の義をかくまで重んずる行為に深く憐れみを

     覚えて、遂に怨みを解き敵討を諦めた。

                      劉向「列女伝 節義伝」

     

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    テーマ : 中国古典・名言
    ジャンル : 学問・文化・芸術

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(王昭君秘話)

     「王昭君秘話」

                ◇ 前漢(西漢)時代 ◇

      漢帝国は創建時から、常に北方からの異民族、中でも最大勢力の匈奴

     の侵略に苦慮してきた。

      ところが今回は、匈奴の方から、その融和策として、

     竟寧元年(前33年)、単于である呼韓邪(コカンヤ)が直々に来朝

     した。その意図たるや、漢の皇女を閼氏(あつし=単于の妻)にしたい

     と望んだのである。

      彼の要望に応えて漢朝では、後宮の女性の選考を絵姿により行うこと

     になった。

      その結果、王昭君(名は嬙、字は昭君)が選び出された。

      愈々その別れの時、皇帝(元帝)は王昭君と対面することになったが、

     皇帝の下に提出された絵姿とは全く以って、似ても似つかぬ美女である

     ことが分かり、皇帝は選考の過ちを大いに悔やんだ。
     
      だがもはやこの時点では、皇帝と雖も、如何ともし難かった。

      選考の経緯には、裏の事情が隠されていた。

      絵姿を一任された宮廷絵師の毛延寿は、選考に挙げられた宮女から

     格別に賄賂を贈られ、実物より美しく描くように懇願された。

      ところが王昭君からは賄賂を貰えなかったので、彼女を偽って醜く

     描いたのである。

      後に事情を知った皇帝は、毛延寿の首を刎ねさせた。

      だが王昭君は、泣く泣く匈奴に嫁ぐことになった。

      嫁いだ王昭君は、一人の男児を儲けたが、呼韓邪単于は儚くも亡く

     なってしまった。

      当時の匈奴の習俗として、単于の位を継いだ息子の復株累若鞮

     (ふくしゅるいじゃくてい)の妻となり、二人の娘を儲けた。

                        「漢書 匈奴伝」


     

    テーマ : 神話伝説逸話
    ジャンル : 学問・文化・芸術

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(西王母伝説)

     「西王母(せいおうぼ)伝説」

                  ◇ 周~戦国時代 ◇

      中国の西周時代、第五代天子・穆王(ぼくおう)と西王母との瑶地での

     出会いと別れが初出。

      「朝雲暮雨」

      「巫山の夢」、「雲雨巫山」ともいう。

      時代は戦国時代となり、戦国七雄の一人である楚の王が高唐に遊び、

     夢の中で巫山の仙女に邂逅し、情を交わした、という故事。

      そしていよいよ別れる時に、その仙女は言った。
      
      “われは巫山の陽(みなみ。南)高丘の岨(そ。険しい所)に在り。

       晨(あした。明日)には朝雲となり、暮れには行雨(にわか雨)と

      なり、
     
       朝雲暮暮、陽台の下に在り“、と。

         ☞ 陽台は、南面する住まいの高殿。

                     楚の宋玉「高唐賦」

      ※ 巫山の仙女とは、古来から知られた西王母のことである。

        楚の楚王とは、襄王(39代 前298~263)のことだと

       言われるが、襄王の先代の懐王(38代 前328~299)

       との説もある。

      さらに時代は下がって、漢の武帝の時代、武帝が不老長生を願って

     いた時、西王母は天上から降りてきて、武帝に仙桃七顆

     (仙界の仙人が食するという七個の桃)を与えたという伝説もある。

      その桃は、「三千歳(みちとせ)の桃」と言われるようになる。

                    「唐詩撰 劉廷芝・公子行」

    テーマ : 神話伝説逸話
    ジャンル : 学問・文化・芸術

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(天馬伝説)

     「天馬(てんば)伝説」

                  ◇ 前漢(西漢)時代 ◇

      天馬とは、天帝が乗って空を飛翔する馬を言う。

      転じて、名馬のことを天馬と言うが、とりわけ大苑国産の馬を言う。

      漢の時代の伝説によれば、大苑国には峻険な高山があり、そこでは

     天馬が棲んでいるが、捕えることは出来ないと言われていた。

      そこで大苑国では、その麓に五色の美しい牝馬を繋いでおいて、

     天馬をおびき寄せて交合させ、天馬の仔馬を得たという。

      この仔馬は長じるに及んで、一日千里を走り、血の汗を流すという。

     》 張騫の帰朝報告 《 

      武帝の御世、張騫(ちょうけん)が十三年ぶりに苦しい西域の旅から

     帰還した。

      張騫は、武帝に其の詳細な報告書を提出した。

      時に武帝は、匈奴との戦いで良馬を渇望していたが、張騫の報告書に

     大苑国の汗血馬の報告があった。

      それから後、西域諸国との交通が頻繁になり、使節として派遣された

     随行者が報告した。
     
      「苑に善馬あり。弐師城にあり。

      匿(かく)して漢の使いに与うるを肯んぜず」、と。

      武帝は張騫の報告もあり、この度は何としても手に入れたいと、千金と

     金銀の馬を携えさせ、使節を派遣した。

      だが大苑国王は、その申し出を拒絶し、剰え帰国の途についた使節一行

     から財物を強奪してしまった。

      かくして太初元年(前104年)、武帝は、愛妾李夫人の兄・李広利を

     弍師将軍に任じて、数万の軍団をかき集めて遠征させた。

      だが遠征軍は食糧不足やらで大苑国に至る前に、反撃に会って敦煌に

     辿り着いた。

      かくして第一次遠征は失敗に帰したが、武帝はそのまま放置すれば、

     大苑国ごときに侮られ、また大夏からも侮られるとして、1年ほどの

     期間をおいて第2次遠征に備えた。
     
      そして遠征が再開されたが、今度は準備も万端であり、大苑軍の反撃

     に会っても射撃戦で圧倒し、遂に講和の盟は成った。

      漢軍は多大の犠牲を払ってようやく、汗血馬を数十頭、中等以下の

     牡三千頭を手に入れて帰還した。

      この汗血馬を「天馬」と呼び、それより先に手に入れた烏孫の駿馬は、

     「西極(さいきょく)」と呼び名を変えた。

                       「史記 大苑列伝」

     

    テーマ : 神話伝説逸話
    ジャンル : 学問・文化・芸術

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    tyouseimaru

    Author:tyouseimaru
    出身地は四国八十八か所参りの発心の阿波、大阪を終の棲家とする。
    歴史好きで、城郭・神社仏閣・歴史遺跡巡りが趣味となる。
    歴史小説や時代小説を好み、往年の著名な時代小説の類は概ね完読と、自負している。

    自薦
    自著「中国通史で辿る名言・故事探訪」の 上・中・下の3巻を、 近い内に「電子書籍」での出版を予定しています。 今年一年間は、さらに工夫を加えるなどして、補記訂正などの校正を第一義としています。       
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