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    中国通史で辿る名言・故事探訪(晏子春秋)

     「北郭子、節に死す」


                        春秋時代

     春秋時代の紀元前6世紀後半、 晏嬰(あんえい)という斉の宰相の

    宰邑(封地)に北郭騷という士が住んでいた。

     ※ 晏嬰:字は平仲。

       斉の三代の君主(26代景公等)に仕えた春秋時代の名宰相。

     彼は兎取りの網を作ったり、筵を織ったり、麻の靴を縫ったりして生計を

    立てて母を養っていた。

     だがその生活はひどく苦しいものであった。

     そこである日のこと、どうにもならず宰邑主たる晏嬰の邸宅に行き

    生活費の援助を請うた。

     その応対に出た家僕は、晏嬰に次のように口添えをした。

     「北郭騷は斉の賢者です。彼の気質や持節は天子に臣たることを

    肯んじ得ず、敢えて諸侯にも仕えません。

     不義の利はかりそめにも取らず、危難もそれが正当であれば敢えて

    避けず全く恐れません。

     その彼が今日 母親への援助を求めて来たのは、御主君様の道義心

    に敬服しての事でしょう。

     どうかご希望を叶えてやってください」と。

     晏嬰は人を遣り、食料と金銭を持参させた。

     しかし北郭騷は、食料だけを受け取った。

     それからしばらくして、晏嬰が斉君に疑われて出奔することになり、

    その際に北郭騷を訪ねてお別れをしようとした。

     北郭騷は沐浴して身を清めてから、晏嬰に尋ねた。

     「どちらへ行かれますか」と。

     晏嬰は、

     「君に疑いをかけられたので、今 出奔するところです」と。

     北郭騷は、

     「夫子、之を勉めよ(どうぞお大事に)」と言った。

     晏嬰は車に乗ると、ため息をついて言った。

     「嬰の亡(逃)ぐるもそれ宣(むべ)ならずや。

     亦た愈々(いよいよ) 士を知らざること甚だし」と。

     (=嬰が出奔するのも、思えば当然のことだ。まるで士を見る目が

      無かったのだから。)

     晏嬰が去ってから、北郭騷は友人を招き己の心情を話した。

     「私は晏嬰の道義心に敬服し、母を養うために援助を頼んだ。

     諺に言う、

      『親の面倒を見てもらったら、その人の災難は我が身で受けよ』と。

     今、晏子は非常な苦難に陥っているので、私が身命に代えてお助け

    しなければならない」、と言って正装した。

     そして友人に剣と箱を持たせて国君の宮殿に行き、取次の者に言った。

     「晏子は天下の賢者です。彼がこの国を去れば、斉の国は他国に侵略

    されるでしょう。

     国が他国に侵略されるのを見るくらいならば、先に死んだ方がましです。

     どうか私の頭を以って、晏子の身の潔白の証としてください」と言って

    から、次に供をしてくれた友人には、

     「我が頭を箱に入れ、取次に渡して欲しい」と言い残してから自裁した。

     斉君は、この事を知り驚愕した。

     直ちに駅伝を飛ばして晏嬰を捜し、自らも国境の所で追いついて、

    帰国を説得した。

     流石に晏嬰もやむを得ず帰国することに同意した。

                           「晏子春秋 雑上二十七」



     

     

     

     

    テーマ : 中国古典・名言
    ジャンル : 学問・文化・芸術

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(周代の命名法)

     「名に五 有り」

                        周代

      周の時代には、人の名の付け方に五つの慣習があった。

      生まれた時の特徴で名を付けるのを、「信」という。

      徳に因んで名を付けるのを、「義」という。

      似たものを名とするのを、「象(しょう)」という。

      万物の名称から付けるものを、「仮(か)」という。

      父に関係づけて名づけるのを、「類」という。

      だが、建前として、国名・官名・山川名・疾病名・六畜の名・

     祭器や玉帛の名は忌避された。

         ※ 六畜とは、馬・牛・羊・豚・犬・鶏の家畜を云う。

      周代は、生前の実名(諱)によって神(祖霊)に仕えたので、死後に

     おいてはその名は忌んで使われることは無かった。

      現実にはあまりあり得ないことだが、例えば国名や官名が人の名に

     用いられると、その人の死後は、その名に使用された国名や官名は

     使えなかった。

      だからそのような場合には、国名や官名の変更が余儀なくされた。

      そのような稀な事例を一つ紹介すると、

      周の時代 司空職は六卿の一つであり、土地人民を司る重要な官職

     であった。

      ところが諸侯の宋では、そのような禁忌を無視して、十一代戴公の

     後嗣が司空と名付けられた。これが後の十二代武公である。

      以後 宋では司空職は、「司城」と変更されることになった。 

                      「春秋左氏伝 桓公六年」

      
      ☷ 拾遺・弥縫

            「西周の滅亡」 

         東周の平王は、平王十三年の紀元前759年、西周の

        携王(姫余)を攻め滅ぼし、ここに二王並立時代は終止符を

        打った。





    テーマ : 中国古典・名言
    ジャンル : 学問・文化・芸術

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(魏文帝と曹植の確執)

     「魏の文帝(曹丕)と曹植の確執」

                                三国時代

      後漢末期の魏王・曹操には、男子が二十五人いたと謂われるが、

    戦場で曹操の身代わりとなって死んだ長男の曹昻(そうこう)を除いて、

    卞(べん)皇后の生んだ次男の曹丕、三男の陳留王・曹植、四男の

    燕王・曹宇が主な子であった。

     曹操は一時期ではあるが、曹昻亡き後、次男の丕を差し置き、三男の

    植を皇太子に立てようとする動きがあった。

     後の兄弟不仲の遠因は、此処にあったとも言われる。

     曹操が崩じた後、皇太子であった二男・曹丕が後継者となり、後漢王朝

    の献帝から禅譲を受けて魏を建国し、皇帝となった。これが 文帝である。

     魏の建国後、 文帝は弟の植を鄄城侯(けんじょうこう)に封じた。

     だが 文帝は、彼には監国謁者(公族親藩に対する動静監視官)を派遣

    し、特別に厳しく監視させ、流罪に等しい処遇をした。

     その後、 文帝が先に崩じたが、曹植の境遇に変化はなく、亡くなるまで

    の十一年間に、三度 封地を遷されるという悲運に泣いた。

     晩年には、陳国に封じられ、その地で亡くなった(紀元232年)ので、

    一般的は陳留王とか陳思王と呼ばれる。

     曹兄弟と曹操は、他に抜きんでた詩才に富み、いずれも秀逸な作品を

    残している。

    テーマ : 神話伝説逸話
    ジャンル : 学問・文化・芸術

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(三革と改元)

     「三革と改元」

      中国では、「三革(さんかく)」と称する暦法がある。

      それらの歳には、治安が大いに乱れ、また縁起が良くないとして、

     しばしば元号が改められて来た。

      その一   「革令」と称し、甲子(かっし。きのえね)に当たる。

      その二   「革運」と称し、戊午(ぼご。つちのえうま)に当たる。

      その三   「革命」と称し、辛酉(しんゆう。かのととり)に

           当たる。

      この三者は、それぞれ順に忌み嫌われてきた。

      中でも「革命」は最悪であり、

      例えば歴史的出来事では、清末の1921年の「辛酉革命」は良く知ら

     れるところである。この年に中国共産党も結成された。

      ※ 元号の制定される以前では、前180年に、漢の呂太后の

       専横を絶ち、劉氏の復権を果たした周勃・陳平らの決起は、

       革命ではなかったが辛酉年のことであった。

        後漢の霊帝の中平元年(西暦184年)は甲子の歳であり、

       この歳に張角等の「黄巾の乱」が起こり、群雄割拠の様相を

      呈するようになった。

       西晋の恵帝の永安元年(西暦304年)は甲子の歳で、

      この歳に所謂 五胡十六国の乱が起った。

                               

    テーマ : 中国古典・名言
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    中国通史で辿る名言・故事探訪(死は天地の理にして、)

     「死は天地の理にして、物の自然なるものなり」

                  前漢(西漢)時代

      温厚で且つ誠実、よく臣下の意見を受け容れて、善政に努めた文帝の

     遺詔である。 

         けだし天下万物の崩生するもの、、死 非ざるなし

         死は天地の理にして物の自然なるものなり

         何ぞ甚だしく哀しむべけんや 


       (=およそ天下万物の生ある物で、滅びないという物はない。

         死というものは、天地の摂理であって、自然の姿なのである。

         従って、ひどく嘆き悲しむに当たらないのだ。

      文帝の遺詔は最後に、

      世間の厚葬の風を改め、自分の葬儀も軽くせよ、と。

      そして、葬儀を薄くさせるために、細かい指示まで残した。

                        「史記 孝文本紀」

     

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    tyouseimaru

    Author:tyouseimaru
    出身地は四国八十八か所参りの発心の阿波、大阪を終の棲家とする。
    歴史好きで、城郭・神社仏閣・歴史遺跡巡りが趣味となる。
    歴史小説や時代小説を好み、往年の著名な時代小説の類は概ね完読と、自負している。

    自薦
    自著「中国通史で辿る名言・故事探訪」の 上・中・下の3巻を、 近い内に「電子書籍」での出版を予定しています。 今年一年間は、さらに工夫を加えるなどして、補記訂正などの校正を第一義としています。       
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