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    中国通史で辿る名言・故事探訪(魏文帝と曹植の確執)

     「魏の文帝(曹丕)と曹植の確執」

                                三国時代

      後漢末期の魏王・曹操には、男子が二十五人いたと謂われるが、

    戦場で曹操の身代わりとなって死んだ長男の曹昻(そうこう)を除いて、

    卞(べん)皇后の生んだ次男の曹丕、三男の陳留王・曹植、四男の

    燕王・曹宇が主な子であった。

     曹操は一時期ではあるが、曹昻亡き後、次男の丕を差し置き、三男の

    植を皇太子に立てようとする動きがあった。

     後の兄弟不仲の遠因は、此処にあったとも言われる。

     曹操が崩じた後、皇太子であった二男・曹丕が後継者となり、後漢王朝

    の献帝から禅譲を受けて魏を建国し、皇帝となった。これが 文帝である。

     魏の建国後、 文帝は弟の植を鄄城侯(けんじょうこう)に封じた。

     だが 文帝は、彼には監国謁者(公族親藩に対する動静監視官)を派遣

    し、特別に厳しく監視させ、流罪に等しい処遇をした。

     その後、 文帝が先に崩じたが、曹植の境遇に変化はなく、亡くなるまで

    の十一年間に、三度 封地を遷されるという悲運に泣いた。

     晩年には、陳国に封じられ、その地で亡くなった(紀元232年)ので、

    一般的は陳留王とか陳思王と呼ばれる。

     曹兄弟と曹操は、他に抜きんでた詩才に富み、いずれも秀逸な作品を

    残している。

    テーマ : 神話伝説逸話
    ジャンル : 学問・文化・芸術

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(三革と改元)

     「三革と改元」

      中国では、「三革(さんかく)」と称する暦法がある。

      それらの歳には、治安が大いに乱れ、また縁起が良くないとして、

     しばしば元号が改められて来た。

      その一   「革令」と称し、甲子(かっし。きのえね)に当たる。

      その二   「革運」と称し、戊午(ぼご。つちのえうま)に当たる。

      その三   「革命」と称し、辛酉(しんゆう。かのととり)に

           当たる。

      この三者は、それぞれ順に忌み嫌われてきた。

      中でも「革命」は最悪であり、

      例えば歴史的出来事では、清末の1921年の「辛酉革命」は良く知ら

     れるところである。この年に中国共産党も結成された。

      ※ 元号の制定される以前では、前180年に、漢の呂太后の

       専横を絶ち、劉氏の復権を果たした周勃・陳平らの決起は、

       革命ではなかったが辛酉年のことであった。

        後漢の霊帝の中平元年(西暦184年)は甲子の歳であり、

       この歳に張角等の「黄巾の乱」が起こり、群雄割拠の様相を

      呈するようになった。

       西晋の恵帝の永安元年(西暦304年)は甲子の歳で、

      この歳に所謂 五胡十六国の乱が起った。

                               

    テーマ : 中国古典・名言
    ジャンル : 学問・文化・芸術

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(死は天地の理にして、)

     「死は天地の理にして、物の自然なるものなり」

                  前漢(西漢)時代

      温厚で且つ誠実、よく臣下の意見を受け容れて、善政に努めた文帝の

     遺詔である。 

         けだし天下万物の崩生するもの、、死 非ざるなし

         死は天地の理にして物の自然なるものなり

         何ぞ甚だしく哀しむべけんや 


       (=およそ天下万物の生ある物で、滅びないという物はない。

         死というものは、天地の摂理であって、自然の姿なのである。

         従って、ひどく嘆き悲しむに当たらないのだ。

      文帝の遺詔は最後に、

      世間の厚葬の風を改め、自分の葬儀も軽くせよ、と。

      そして、葬儀を薄くさせるために、細かい指示まで残した。

                        「史記 孝文本紀」

     

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    テーマ : 中国古典・名言
    ジャンル : 学問・文化・芸術

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(隠公左伝)

     「隠公左伝(いんこうさでん)

                 ◇春秋時代◇

      読書や勉強などの長続きしないことの例え。

      「春秋左史伝」を略して「左伝」と言うが、孔子が編纂したという

     魯国年代記である「春秋経」は簡潔過ぎて、その義の解釈は、

     時代の経過と共に困難であったので、各種の経伝(注釈)が著される

     ようになったが、「春秋左氏伝」はその内の一つである。

      この春秋左氏伝は、魯の第14代君主・隠公元年から

     第25代・哀公27年までの12代に亘る国史「春秋」の全30巻に及ぶ

     春秋経の注釈書である。

      ところが、この春秋左氏伝を読み始めて、最初の経文条解である

     「隠公」の所で、早々と止めてしまうという勉学の根気の無さを評して、

     “隠公左伝“と揶揄した。

      だがもう少し根気があって、第18代・僖公まで読み続ければ、

     “僖公左伝“と言われた。

      いずれにしても、中途半端の例えではある。

      

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    テーマ : 慣用句・ことわざ・四字熟語辞典
    ジャンル : 学問・文化・芸術

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(柩と咸陽に会して葬れ)

     「喪(ひつぎ)と咸陽に会して葬れ」

                         ◇ 秦代 ◇

      始皇十三年(前210年)七月、始皇帝は第五回の巡幸の途中、沙丘で

     病死した。

      旅先のことであり、まだ正式な後継者も決まっていなかったので、その死

     は秘匿された。

      その死を知っている者は、同行していた公子・胡亥(こがい)、宰相の

     李斯、始皇帝のお気に入りの宦官の趙高、その他 始皇帝側近の宦官

     を含めても数人であった。

      公子の胡亥は、幼少時から趙高が傅(お付きの教育係)をしており、

     趙高の心中には、出来るものなら次期皇帝にと、野望の火が灯った。

      ところが、始皇帝は生前に自らの死を覚り、かねて辺境の地に遠ざけて

     いた長子の扶蘇宛の書簡を趙高に託していた。

      書簡の内容には、

      「兵を以て蒙恬に属(しょく」)し、

      喪(ひつぎ)と咸陽に会して葬れ
    」というものであった。

      即ち辺境の守備は蒙恬将軍に任せておき、汝は国都の咸陽に帰り、

     吾が遺骸を迎えて葬儀を執り行えとのことで、暗に扶蘇を許して吾が

     後継者とするという遺勅でもあった。

                      「史記 李斯列伝」

     

    テーマ : 中国古典・名言
    ジャンル : 学問・文化・芸術

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    tyouseimaru

    Author:tyouseimaru
    出身地は四国八十八か所参りの発心の阿波、大阪を終の棲家とする。
    歴史好きで、城郭・神社仏閣・歴史遺跡巡りが趣味となる。
    歴史小説や時代小説を好み、往年の著名な時代小説の類は概ね完読と、自負している。

    自薦
    自著「中国通史で辿る名言・故事探訪」の 上・中・下の3巻を、 近い内に「電子書籍」での出版を予定しています。 今年一年間は、さらに工夫を加えるなどして、補記訂正などの校正を第一義としています。       
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