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    中国通史で辿る名言・故事探訪(長勺の戦い)

     「それ戦いは勇気なり、

      彼竭(つ)き 我盈(み)つれば克つ」


                         春秋時代

      魯・荘公九年(前685年)秋、斉は小国の魯を乾時(かんじ)に破り、

     盟を交わして軍を退いた。

      ところがその翌年春、斉の桓公は管仲らの反対に拘らず、盟約に

     背いて高傒を将として再び魯に軍を進めた。

      魯の荘公が応戦の準備で大童の時、郷人の曹劌(そうけい)という者が

     王に拝謁を願い出てきた。

      彼の同郷の人は、引き留めて言う、

      「肉食者が対策を立てられるのだから、余計なことはするな」と。

      曹劌は、

      「肉食者は身近のことばかりで、遠大な計画は立てられないものだ」

     と言って出向いた。

        ※ 肉食者とは、高位高官連中のこと。

          当時 肉は高価なもので庶民の食せるものではなかった。

      曹劌は願い叶って、目通りした王に問うた。

      「何を恃みに戦いをなさるのですか。」

      荘公は言う、

      「飽食暖衣を独り占めせず、人民と分け合ってきたぞ。」

      曹劌は、

      「そのような恩恵では、とてもすべての者には行き渡りません。

      民は従いかねます。」

      荘公、

      「神には犠牲や玉帛を十分に供え、且つ誠心誠意 信を以ってお祈り

      して来たぞ。」

      曹劌、

      「そのような信は未だ小さいもので、神は福をもたらせません。」

      荘公、
     
      「これまで争いごとの訴えは、その大と謂わず小と謂わず、たとえ

     真相は究明出来なくても、公平を旨として情理を尽くして裁いてきた

     つもりだがな。」

      曹劌、

      「それなれば、当に真心を尽くしたものと言えます。

      一戦交えて然るべきでしょう。わたしもお伴致しましょう。」

     かくして荘公は、彼を兵車に同乗させ、長勺(魯の支配地内)で

     斉の軍と対峙した。

      頃合いを見て、荘公は進撃の太鼓を打とうとした。

      だが曹劌は、

      「まだ早すぎます」と言って、その打つ手を抑えた。

      そして斉軍が三度太鼓を打った時、

      「今です」、と荘公を促した。

      勢いの尽きかけた太鼓に合わせて魯軍に進撃された斉軍は、総崩れ

     となった。

      荘公は敵軍の乱れに乗じて追撃しようとしたが、曹劌は、

      「ちょっとお待ちください」と言った。

      そして兵車から降りると、敵の兵車の跡を調べてから再び荘公に

     言った。

      「もう、よろしいでしょう」と。

      そこで魯軍は、斉軍を追撃して勝利を確定した。

      戦いの後、荘公は曹劌に戦闘中の采配如何の故を尋ねた。

      曹劌曰く、

      「それ戦いは勇気なり。

      一鼓して気(勇気)を作(な)し、再びして衰え、三度して竭(つ)く。

      彼(敵の勇気)竭き我(味方の勇気)盈つ。故にこれに克つ。

      それ大国は測り難し、伏(兵の)あらんことを懼る。

      我その轍の乱れたるを視、その旗の靡(なび)けるを望み、故に(それら

     の乱れ具合から判断して)これを逐(お)えり」と。

      ※ 鼓鉦:こしょう。

         太鼓と銅鑼のこと。

         軍隊用語で、攻めは太鼓で、退却は銅鑼が合図。

                      「春秋左氏伝 荘公十年」

      ※ 春秋時代、一介の地方の郷士が何の手ずるも無しに君主に

        見えることなど出来るものではないが、春秋左氏伝には付言

        も無いが、何らかの事情があったものと解したい。





      

      

    テーマ : 中国古典・名言
    ジャンル : 学問・文化・芸術

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(黄泉で母に見える)

     「地を穿(うが)って母に見ゆ」

                        春秋時代

      春秋の昔、鄭の武公と姜夫人(武姜)の間には二人の公子がいた。

      兄の寤生(ごせい)が太子となったが、武姜は寤生を生む時 難産

     (逆子)であったので、宗教的理由から彼を忌避し、次子の段を大子に

     しようと画策したことがあったが失敗した。

      武公の没後、太子の寤生が即位した。これが荘公である。

      荘公の即位後、母の武姜は荘公に対して、制の邑を弟の段に与える

     よう強要した。

      だが荘公は、制は国の要となる要害堅固の邑であると言って断り、

     その代りに京城の邑を与えることにした。

      その内 段は京城の城郭に着々と大改修を施し、兄の荘公に対抗し

     ようと謀った。

      また物資を集め、武器の手入れをして戦端の準備を整え、あまつさえ

     国都にいる母親と謀略を示し合わせた。

      事ここに至り、荘公は 紀元前722年(魯・隠公元年)夏五月、公子呂

     に兵車二百乗を授けて京城を急襲させた。

      また京城の人民は段に背いたが、段は鄢(えん)の地で戦い、敗れて

     だらに共に奔った。

      自分に背いた母を城穎の地に幽閉した。

      そして曰く、

      「黄泉に及ばずんば相見えること無からん」、と誓った。
     
        ※ 黄泉とは、死後の世界であり地下に行くことをいう。

      だが一年が経ち、母に会いたくなった荘公は、自分の立てた誓いに

     苦しみ始めた。

      潁国の封人(ほうじん。国境警備官)で、母親想いの潁孝叔という者

     がいた。

      彼は荘公の苦しみを耳にすると、献上物を持参して上京し荘公に

     見えた。

      荘公は彼に食事を下賜したが、彼が肉を遺したのでその訳を尋ねた。

      潁孝叔は下問に応えて、

      「私には母が居りますが、差し上げる食事といったら、日々に我々下々

     の戴く物ばかりでありまして、未だこのようなご馳走を差し上げたことが

     ございませんので、これを戴いて帰ることをお赦し願い、食べさせたいと

     存じます」、と。

      荘公は寂しげに言う、

      「爾、母有りて遣る。ああ、我独り無し」と。

      潁孝叔がその訳を聞くと、荘公はその理由を告げ、そしてそれを悔い

     ていることを嘆いて聞かせた。

      潁孝叔は君の嘆きを聞いて、

      「君なんぞ患(うれ)えん。

      若し地を闕(か)きて泉に及び、隧(ずい)して相見えば、それ誰か

     然らずと曰わん」、と。

      (=泉の出る所まで地を掘り下げ、トンネルを掘って、そこでご対面 

       為されれば、誰も誓いをお破りになったとは申しません。) 

      荘公はその意見に従い、遂に地下で母に相見えた。

      荘公は地下で詠った、

          大隧の中 其の楽しみや融融

              ※ 融融:和らぎ楽しむさま。

     母の武姜も出てきて詠った、

          大隧の外 其の楽しみや泄泄(えいえい)

              ※ 泄泄:のびのびする様。

      ここに於いて、遂に母子の仲を取り戻すことが出来たのである。

                       「春秋左氏伝・隠公元年」





     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(二つの周都)

     「宗周と成周」


                         周王朝

       受命の君と謂われ評判の高まった西伯昌は、周原と謂われた

      岐山の麓から、「豊邑」の地に遷都した。時に西暦前1039年。

       周という国、すなわち後の周王朝の名はこの周原に由来する。

       その昔、西伯昌は犬戎、密須国を討伐して更には耆(き)国を

      撃破した。

       西伯昌のこの活躍を紂王の忠臣・祖尹(そいん)が警戒するよう

      進言したが、紂王は、

       「天命は我に在り。西伯に何が出来よう」と言って、意にも解し

      なかった。

       西伯昌はその後、太公望を軍師として邘国、崇国を討伐し、遂に豊邑

      に遷都した。そしてその遷都の翌年に世を去った。

                         「史記」周本紀

       「二つの周都 宗周と成周」

       後 武王の時代に豊邑の近くに大規模な国都「鎬京」が建設され、

      西都或いは宗周と呼ばれた。

       さらに成王の時代には、周王朝第二の都として豊邑より東の地に

      洛邑が完成した。

       これが東都或いは成周

      とも呼ばれる。

       だが豊邑は周の祖廟の地として、鎬京と与に「豊鎬の地」とも言わ

      れて重きをなした。

       洛邑は後漢の時代になると、再び国都が置かれ、その名も「洛陽」と

      呼ばれるようになる。


       

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(一旅一成)

     「一旅一成」

                        南宋

      多くも無いが、少なくも無いという意味の軍団の勢力。

      古代においては、一旅は五百人編成の軍団をいい、

     一成は十里四方の土地を云った。

     》 南海の流浪 《

       南宋の末期の紀元1276年、第6代度宗の嗣子で第7代恭帝

      (趙隰)が早逝したので、抗戦派は度宗の子・趙昰(ぜ)を擁立

      した。これが第8代端宗である。

       ところが新たな態勢も整わぬうちに、彼らは福州を追われて

      泉州に至った。

       その当時 泉州では大食(たーじ。サラセン)人の蒲寿庚が

      招撫使として大きな勢力を持っていた。

       その彼が端宗に拝謁した後、当地に滞在するよう助言した。

       この蒲寿庚は南海貿易に従事して、巨万の財を蓄積し、大小

      無数の船舶を保有していた。

       ところが宋軍では船舶が不足していたので、蒲寿庚の船とその

      積み荷を没収したのである。

       蒲寿庚はその背信行為を怒り、泉州在住の宗室関係者や士人・

      兵卒を殺して、あっさり元軍に投降してしまった。

       抗戦派は再び南海の沿岸を転々とし、遂に南海島に近い地に

      移るが、三年に及ぶ逃亡流浪の日々が続いたので、夏の四月 

      遂に幼帝端宗は病没してしまった。

       陸秀夫曰く、

       「度宗皇帝の一子、尚 在り。将(はた) 焉(いず)くにか之を

      置かん。

       古人、一旅一成を以って中興せしむ者在り。

       今 百官有司 皆 具わり、士卒数万在り。

       天若し未だ宋を絶つを欲せずんば、之 豈に国を為す

      べからざらんや」と。 

      (=度宗皇帝にはまだ御子が御一人おられる。其れなのに、

       このお方を一体どうして置いておかれようか。 

        昔の人で、五百人の軍勢と十里四方の土地を以って、

       国の中興を果たした者がいたという。

        ところが、今 我が軍には官人も軍隊も数万は備わっているでは

       ないか。

        天命がまだ宋の命脈を絶とうとしていないならば、之でどうして

       国を興せないことがあろうか。)

       彼の説得でようやく、衆人は一緒になって 時に七歳の衛王趙昞

      (度宗の第三子)を擁立して皇帝とした。

       南宋最後の皇帝であるが一般には第九代祥興帝という。

       楊太妃が幼帝を補佐し、張世傑が宰相と為り、陸秀夫が之を援け

      た。

       その後 新会県の崖山に移って仮行宮を造営し、兵舎や軍船も

      建造して軍備の強化に務めた。

       この時には、官民合わせて、尚も二十万余が従っていた。

       

        

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(君子豹変)

     「君子豹変」

                 春秋時代

      節義も自己主張もなく、他人に迎合するのが巧みで、素早い変わり身

     を言う。

      「大人(たいじん)は虎変し、君子(くんし)は豹変し、

       小人(しょうじん)は面(おもて)を革(あらた)む。」


      大人も君子もそれに小人も、それぞれ本来の面目を一新するの意

     である。

      虎変とは、季節の移り変わりに応じて虎の毛が抜け代わり、美しい

     縞の斑紋を一層鮮やかにして、変化の妙を加える事。

      豹変とは、虎と同様の変化に富むが、虎の変化に及ばずと雖も、

     四季に従って、それなりの妙を加えるものである。

      小人は変化の妙も自在さも無く、ただその顔色を変えるだけである。

                        「易経 革象」

     

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    tyouseimaru

    Author:tyouseimaru
    出身地は四国八十八か所参りの発心の阿波、大阪を終の棲家とする。
    歴史好きで、城郭・神社仏閣・歴史遺跡巡りが趣味となる。
    歴史小説や時代小説を好み、往年の著名な時代小説の類は概ね完読と、自負している。

    自薦
    自著「中国通史で辿る名言・故事探訪」の 上・中・下の3巻を、 近い内に「電子書籍」での出版を予定しています。 今年一年間は、さらに工夫を加えるなどして、補記訂正などの校正を第一義としています。       
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