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    中国通史で辿る名言・故事探訪(晋の重耳の放浪)

     「重耳と夷吾の放逐」

                        東周

      晋の19代献公(在位期間は前676-651)の大子であった申生や

     公子の夷吾(後の20代恵公)・重耳(後の22代文公)は既に立派な

     青年公子になっていた。

      ところが献公が晩年になって娶った驪姫(りき)の策謀により、太子の

     申生が曲沃の新城に遷された際 ついでに重耳は蒲城に、夷吾は屈城

     にそれぞれ遷されていた。

      ところがその後、夷吾と重耳は国都で驪姫の讒言に遭い、また国主

     たる父に挨拶もせずに帰国してしまった。

      献公は、二人の公子に疑惑を深めて激怒した。

      そして明くる献公二十二年(前656年)、追っ手の兵を屈城と蒲城に

     差し向けた。

      この時 献公の特命を受けた蒲邑の宦官・履鞮(りてい)は、重耳に

     自決を迫り威迫した。重耳はとっさに塀を乗り越えて遁走した。

        ※ 履鞮は、「春秋左氏伝」では勃鞮と記す。

      履鞮は重耳に追いすがって斬りつけたが、袂を切り裂いただけで、

     重耳はそのまま生母・狐姫の里である狄(てき)に出奔した。

      もともと重耳は親子の争いを避けようと考えていて、

      「父の下で食禄を食む身でありながら、其の父に手向かいしたら、

     取り返しのつかぬ大罪を犯すことになる。

      それより我 それ奔らん(亡命の道を選ぼう)」と、

      決心していたのである。

      この時 叔父の弧偃(こえん。子犯とも舅犯ともいう)・顚頡(てん

     けつ)・ 趙衰(ちょうし)・魏武子(魏犨)・司空季子(名は胥臣)らが

     随行した。その外 重耳が若かりし頃から随身していた賈佗(かだ)・

     先軫(せんしん)らがいた。

      その一方 屈城の夷吾は、父から攻められても、しばしば奮戦したが、

     戦況が不利になると、遂に母方の孤氏を頼ろうとしたが、重耳との鍔迫り

     合いになるのを恐れ、且つ大夫の冀苪(郤芮とも)の進言もあり、大国の

     秦に隣接する梁(夷吾の夫人の実家)に亡命した。


               「史記 晋世家」、「春秋左氏伝 僖公六年」

      

      

      

      

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(陳人、其の公子御寇を弑す)

     「陳の公子完、斉へ亡命」

                        東周

      魯桓公十二年(前700年)、陳の13代厲公が崩じた。

      公子完は厲公の二男であったが、厲公の兄の12代桓公の三人の

     公子が順次に即位した。

      即ち利公(14代。在位期間 前700年)、荘公(15代。

     前700-693)、宣公(16代。前693-648)である。

      その宣公二十二年、この年は魯の荘公二十二年に当たりその春に、

     陳では内紛が生じた。「春秋」では次の如く記す。

      「陳人、其の公子御寇(ぎょこう)を殺す」と。

      この御寇は太子であった。

      その弑殺事件の仲間に公子完と顓孫(せんそん)が加わっていて、

     愈々迫りくる身の危険を避けるため二人は斉へ出奔した。

      斉には、中原の覇者・桓公がいての全盛の時代である。

      陳からの亡命者である公子完は、斉では陳氏を田氏と改氏した。

      なお、陳氏の国姓は嬀(ぎ)という。

      公子完の諡は敬,、氏は陳。陳完とも陳敬仲とも。改氏の後は、田完。

      斉の桓公は田完を「卿」に取り立てようとしたが、田完はその桓公の

     自分に対する優遇ぶりが斉の諸氏に嫉まれることを畏れて、拝受は

     しなかった。

      そこで桓公は、職工技芸の宰領たる工正(こうせい)に任じた。

                        「春秋左氏伝 荘公二十二年」



      

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(晋の台頭)

     「晋の武公、内紛を収拾す」

                        東周時代

      晋は内紛で長らく、【翼(本家筋)】と【曲沃(分家筋)】に分れて、

     主導権争いをしていたが、曲沃の桓叔の孫・姫称が宗家の晋侯の

     姫緍(きびん)を殺して宗家の勢力を削ぎ凋落させ、また晋の宝器を

     周王朝の釐王(16代。僖王とも)に献上したりして信任を得、改めて晋の

     国君に任ぜられた。この姫称が第18代武公である。

      ※ 曲沃は、晋の9代穆公の公子で、11代文公の弟である桓叔(諱は

       成師)の分封地。

      「献公、公族の族滅を謀る」

      武公の公子で大子であった詭諸が、父の崩御に伴い即位した。

      これが19代献公である。

      献公九年(前670年)に、国都の絳を「翼」と改称した。

      この献公が即位した頃、献公の実子である重耳(ちょうじ)は既に

     二十一歳の青年であったが、重耳は十七歳にして、五人の賢臣を

     擁していた。

      その五人とは、叔父の弧偃(こえん)を筆頭に 趙衰(ちょうし)・

     賈佗(かだ)・先軫(せんしん)・魏武子らである。

      献公が即位して数年が経った頃から、曲沃では桓叔の子孫が強力な

     公族を形成して、富子が中心となり、その勢力は侮り難いものとなって

     いた。

      献公は大変に苦慮した。彼らを直接に降そうとすれば、反乱を企て

     る恐れがあったからである。

      献公の下には智謀の大夫・士蔿(しい)という者がいた。

      士蔿は献公の許しを得て、彼ら公族の族滅策を推し進めた。

      まず中心勢力の富子を嫉む連中に火を付けて、中傷工作を煽らせた。

      そして富子を除くことに成功すると、これも献公の許しを得て、没収した

     富子の家財をことごとく敵対する公族に分配してやり、その分配方法も

     不平不満が生じるように執り行った。

      即ち、残った公族連中の抗争分裂を煽ったのである。

      その方法で二人の有力な公族を自滅させた。

      次に游氏と他の公族の対立が激化したので、士蔿は游氏に対立する

     公族を煽って、遂に游氏一族を族滅させた。

      士蔿は今回も、族滅された者の家財は公収するのではなく、族滅

     させた者が自分たちの食邑とすることを許した上で、聚に城壁を築いて

     群公子をそこに移住させた。

      そして献公九年(前669年)冬、士蔿は献公の命を受け大軍を率いて

     突如 彼らを包囲して殲滅してしまった。

      献公は最早 誰に遠慮する必要も無くなり、大抜擢人事を敢行した。

      士蔿は大司空に任ぜられた。そしてこの人事は、群臣に活気を生じ

     させることとなった。

      この当時、西方の大国としてしられた虢公(公爵国)の醜が晋に二度

     まで攻め込んで来た。

      その理由は、晋の公室の公子が虢に亡命しており、虢君に哀願して

     攻めてもらったのである。

      献公は直ちに虢を攻め滅ぼそうと考えたが、士蔿に諫言され当面は

     自国の国力を増強することにし、虢に対してはその国力の衰えるのを

     待つことにした。

                       

      
     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(長勺の戦い)

     「それ戦いは勇気なり、

      彼竭(つ)き 我盈(み)つれば克つ」


                         春秋時代

      魯・荘公九年(前685年)秋、斉は小国の魯を乾時(かんじ)に破り、

     盟を交わして軍を退いた。

      ところがその翌年春、斉の桓公は管仲らの反対に拘らず、盟約に

     背いて高傒を将として再び魯に軍を進めた。

      魯の荘公が応戦の準備で大童の時、郷人の曹劌(そうけい)という者が

     王に拝謁を願い出てきた。

      彼の同郷の人は、引き留めて言う、

      「肉食者が対策を立てられるのだから、余計なことはするな」と。

      曹劌は、

      「肉食者は身近のことばかりで、遠大な計画は立てられないものだ」

     と言って出向いた。

        ※ 肉食者とは、高位高官連中のこと。

          当時 肉は高価なもので庶民の食せるものではなかった。

      曹劌は願い叶って、目通りした王に問うた。

      「何を恃みに戦いをなさるのですか。」

      荘公は言う、

      「飽食暖衣を独り占めせず、人民と分け合ってきたぞ。」

      曹劌は、

      「そのような恩恵では、とてもすべての者には行き渡りません。

      民は従いかねます。」

      荘公、

      「神には犠牲や玉帛を十分に供え、且つ誠心誠意 信を以ってお祈り

      して来たぞ。」

      曹劌、

      「そのような信は未だ小さいもので、神は福をもたらせません。」

      荘公、
     
      「これまで争いごとの訴えは、その大と謂わず小と謂わず、たとえ

     真相は究明出来なくても、公平を旨として情理を尽くして裁いてきた

     つもりだがな。」

      曹劌、

      「それなれば、当に真心を尽くしたものと言えます。

      一戦交えて然るべきでしょう。わたしもお伴致しましょう。」

     かくして荘公は、彼を兵車に同乗させ、長勺(魯の支配地内)で

     斉の軍と対峙した。

      頃合いを見て、荘公は進撃の太鼓を打とうとした。

      だが曹劌は、

      「まだ早すぎます」と言って、その打つ手を抑えた。

      そして斉軍が三度太鼓を打った時、

      「今です」、と荘公を促した。

      勢いの尽きかけた太鼓に合わせて魯軍に進撃された斉軍は、総崩れ

     となった。

      荘公は敵軍の乱れに乗じて追撃しようとしたが、曹劌は、

      「ちょっとお待ちください」と言った。

      そして兵車から降りると、敵の兵車の跡を調べてから再び荘公に

     言った。

      「もう、よろしいでしょう」と。

      そこで魯軍は、斉軍を追撃して勝利を確定した。

      戦いの後、荘公は曹劌に戦闘中の采配如何の故を尋ねた。

      曹劌曰く、

      「それ戦いは勇気なり。

      一鼓して気(勇気)を作(な)し、再びして衰え、三度して竭(つ)く。

      彼(敵の勇気)竭き我(味方の勇気)盈つ。故にこれに克つ。

      それ大国は測り難し、伏(兵の)あらんことを懼る。

      我その轍の乱れたるを視、その旗の靡(なび)けるを望み、故に(それら

     の乱れ具合から判断して)これを逐(お)えり」と。

      ※ 鼓鉦:こしょう。

         太鼓と銅鑼のこと。

         軍隊用語で、攻めは太鼓で、退却は銅鑼が合図。

                      「春秋左氏伝 荘公十年」

      ※ 春秋時代、一介の地方の郷士が何の手ずるも無しに君主に

        見えることなど出来るものではないが、春秋左氏伝には付言

        も無いが、何らかの事情があったものと解したい。





      

      

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(黄泉で母に見える)

     「地を穿(うが)って母に見ゆ」

                        春秋時代

      春秋の昔、鄭の武公と姜夫人(武姜)の間には二人の公子がいた。

      兄の寤生(ごせい)が太子となったが、武姜は寤生を生む時 難産

     (逆子)であったので、宗教的理由から彼を忌避し、次子の段を大子に

     しようと画策したことがあったが失敗した。

      武公の没後、太子の寤生が即位した。これが荘公である。

      荘公の即位後、母の武姜は荘公に対して、制の邑を弟の段に与える

     よう強要した。

      だが荘公は、制は国の要となる要害堅固の邑であると言って断り、

     その代りに京城の邑を与えることにした。

      その内 段は京城の城郭に着々と大改修を施し、兄の荘公に対抗し

     ようと謀った。

      また物資を集め、武器の手入れをして戦端の準備を整え、あまつさえ

     国都にいる母親と謀略を示し合わせた。

      事ここに至り、荘公は 紀元前722年(魯・隠公元年)夏五月、公子呂

     に兵車二百乗を授けて京城を急襲させた。

      また京城の人民は段に背いたが、段は鄢(えん)の地で戦い、敗れて

     だらに共に奔った。

      自分に背いた母を城穎の地に幽閉した。

      そして曰く、

      「黄泉に及ばずんば相見えること無からん」、と誓った。
     
        ※ 黄泉とは、死後の世界であり地下に行くことをいう。

      だが一年が経ち、母に会いたくなった荘公は、自分の立てた誓いに

     苦しみ始めた。

      潁国の封人(ほうじん。国境警備官)で、母親想いの潁孝叔という者

     がいた。

      彼は荘公の苦しみを耳にすると、献上物を持参して上京し荘公に

     見えた。

      荘公は彼に食事を下賜したが、彼が肉を遺したのでその訳を尋ねた。

      潁孝叔は下問に応えて、

      「私には母が居りますが、差し上げる食事といったら、日々に我々下々

     の戴く物ばかりでありまして、未だこのようなご馳走を差し上げたことが

     ございませんので、これを戴いて帰ることをお赦し願い、食べさせたいと

     存じます」、と。

      荘公は寂しげに言う、

      「爾、母有りて遣る。ああ、我独り無し」と。

      潁孝叔がその訳を聞くと、荘公はその理由を告げ、そしてそれを悔い

     ていることを嘆いて聞かせた。

      潁孝叔は君の嘆きを聞いて、

      「君なんぞ患(うれ)えん。

      若し地を闕(か)きて泉に及び、隧(ずい)して相見えば、それ誰か

     然らずと曰わん」、と。

      (=泉の出る所まで地を掘り下げ、トンネルを掘って、そこでご対面 

       為されれば、誰も誓いをお破りになったとは申しません。) 

      荘公はその意見に従い、遂に地下で母に相見えた。

      荘公は地下で詠った、

          大隧の中 其の楽しみや融融

              ※ 融融:和らぎ楽しむさま。

     母の武姜も出てきて詠った、

          大隧の外 其の楽しみや泄泄(えいえい)

              ※ 泄泄:のびのびする様。

      ここに於いて、遂に母子の仲を取り戻すことが出来たのである。

                       「春秋左氏伝・隠公元年」





     

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    Author:tyouseimaru
    出身地は四国八十八か所参りの発心の阿波、大阪を終の棲家とする。
    歴史好きで、城郭・神社仏閣・歴史遺跡巡りが趣味となる。
    歴史小説や時代小説を好み、往年の著名な時代小説の類は概ね完読と、自負している。

    自薦
    自著「中国通史で辿る名言・故事探訪」の 上・中・下の3巻を、 近い内に「電子書籍」での出版を予定しています。 今年一年間は、さらに工夫を加えるなどして、補記訂正などの校正を第一義としています。       
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