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    中国通史で辿る名言・故事探訪(国君の追放)

    「衛の献公、斉に亡命す」

                      春秋時代

     衛の献公十八年(紀元前559年)、国君たる献公(25代)が卿大夫の

    孫林父(文子)に追放されて、斉に亡命するという悖逆の大事件が生じた。

     献公と孫林父の対立が極限に達しようとした時より少し前に、献公は

    二人の大臣、則ち孫林父と甯殖(惠子)と会食を約束していた。

     そして約束の日に、二人の大臣は朝服を着て参内したが、日が暮れても

    君からのお召しは無かった。

     聞くところによれば、君はまだ御苑で鳥の射に興じているという。

     二人はそのまま御苑に行ったが、献公からは侘びの一言も無かった。

     さすがにその場は怒りを抑えた孫林父であったが、自分の宰邑である

    戚(せき)に戻ってから怒りが爆発した。

     その後 少し冷静さを取り戻した孫林父は、君主との関係を重んじて、

    その後 自分の子である孫蒯(そんかい)を使いに立てて伺候させた。

     ところが献公は、代理で伺候した孫蒯に酒を与えたまま、何を思ったか、

    「詩経の小雅」から巧言を歌えと大師(楽官の長)に命じたが、大師は

    孫林父(文子)を刺激するのを恐れて辞退した。

        ※ 「巧言」とは、力も勇気も無くして乱を企てる者を誹謗する

          内容の歌である。

     ところがその時、献公に対して密かに遺恨を抱いていた楽人の師曹が

    願い出た。

     師曹は以前に、献公の身分卑しき愛妾に手琴を教えるように命じられ、

    その指導中に愛妾を少し鞭打ったことがあった。

     愛妾からその事を聞かされた献公は、激怒して師曹を鞭打たせること

    三百であった。

     師曹はこの歌を聞かせれば、やがて伝え聞いた孫林父が怒り、献公に

    報復してくれれば自分の恨みが癒されると思っての事であった。

     歌を聞いて、果たしてその意味の分かった孫蒯の顔色が変わった。

     彼は戚に飛ぶようにして帰ったが、父に直ちにその旨を報告した。

     改めて腹を据えた孫林父は、先ず国都から妻子を引き取り、ついでに

    衛の良識として尊崇される遽(きょ)伯玉に会って、之から己の為す

    べき行動について、同意を得ておこうとした。

     だが遽伯玉は、

     「国を治めるのは君主であり、理由はどうであれ臣下がどうして、それを

    犯せましょうか」と言い、

     後に 乱を避けるべく国都を出て他所の国を目指して去った。

     献公はその後 さすがにやり過ぎだと思うようになり、三人の公子を

    使者に立てて和解しようと画策したが、時は既に遅く三人の公子は

    殺されてしまった。

     また献公は孫林父の兵に攻め立てられ、献公は遂に斉へ出奔した。

     献公は、それから十二年後(紀元前546年)に帰国して復位することに

    なるが、衛ではその後 孫林父・甯殖に推されて穆公(23代)の孫の

    公孫剽(ひょう)が即位した。

     これが26代・殤公で、孫林父と甯殖が輔佐した。

      ※ 公孫剽は、史記では「姫秋」と記す。

                     「春秋左氏伝 襄公十四年」






     

    テーマ : 中国古典・名言
    ジャンル : 学問・文化・芸術

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(晋の悼公と祁奚)

     「祁奚、仇を奨む」

                        春秋時代

     紀元前572年、晋では厲公(27代)崩じた後、姫子周が即位した。

     これが悼公である。

     重鎮の欒書らが、23代襄公の曾孫で周都で勉学中の姫子周を迎え

    入れて即位させたのである。悼公の父は恵伯談という。

     その後 欒書は隠退し正卿の座を韓厥に譲ったが、欒氏一族の権勢

    は次の平公(前557年即位)の初期まで衰えることは無かった。

     悼公は十四歳で即位したが、周都で勉学に励んだだけに凡庸では

    なかったと謂われる。

     賢者を任用し、軍制と軍政を改革したり、対外的には諸侯と会盟したり

    して、晋の最後の名君と称えられたが、秦や楚との戦いが絶えず、その

    戦果は芳しくなかった。

     軍事改革では、「軍尉の官」を創設した。

     中軍の尉に大夫の祁奚(きけい。字は黄羊)をその佐に大夫の羊舌職

    を、司馬には魏絳を起用した。

     上軍及び下軍は省略する。

     晋は逸早く三軍を編成した大国であったが、その中心となる中軍の将

    は全軍の総司令官となる最重要職であった。

     将を補佐するのが佐将であり、佐将を補佐するのが御(御者)である。

     新しく設置された「軍尉の官」は、従来の大夫・卿らの御の管理の他に

    軍警察的な役目も担うようになり、その指揮官は人格識見に優れかつ

    果敢さも要求された。

     悼公のお眼鏡にかなったのが祁奚(きけい)である。

     「祁奚、仇を奨む」

     公平無私な心を称える言葉。

     三年間 「軍尉の官」を務めた祁奚は、引退を願い出た。

     祁奚はその時 悼公に問われた。

     「後任は誰が良いか」と。

     祁奚は応えた。

     「解弧(孤)が良いと存じます」と。

     祁奚は正直な人物で知られ、この解弧も正直な人物であったが、この

    二人はどういう訳か折り合いが悪かったのである。

     お互いに憎み合うことまるで仇敵のような関係にあったので、悼公も

    そのことを薄々は知っていたようであった。

     だから、まさか解弧を推すとは思ってもいなかったが、悼公は何も言わ

    ず、人事は内定した。

     ところが、任命直前になって解弧が死んでしまったのである。

     そこで再び、悼公は祁奚に後任を問うた。

     「誰が良いか」と。

     祁奚は応えて、

     「午が宜しいでしょう」と。

     午は則ち、祁奚の子であった。

     さらに頃を同じくして、副尉の羊舌職が死んだ。

     悼公は、「後任は誰がよいか」と祁奚に尋ねた。

     祁奚は、「彼の倅の赤は、如何ですか」と。

     そこで祁午は中軍の尉に、用舌赤がその佐(副尉)に任じた。

     当時の有識者は祁奚を評して言う

     「これは良い人を挙げたもの。

     仇を推して諂(へつら)いとならず、子を立てて身贔屓(みびいき)と

    ならず、仲間から用いて我が儘とならないとは」と。

                  「春秋左氏伝 成公十八年、襄公三年」



     
     

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(春秋の妖婦・夏姫)

     「春秋の妖婦夏姫 その3」

                        春秋(東周)時代

      「夏姫、巫臣と共に晋に亡命」

      その後 楚の荘王は夏姫を連尹(弓矢の管理官)の襄老に娶わせた。

      ところがその襄老は紀元前597年、楚晋の戦いである邲(ひつ)の

     戦いにおいて戦死してしまった。

      そして、その遺骸は晋に奪い去られてしまった。

      夏姫は夫の死後、襄老の子・黒要と通じ、さらには巫臣とも通じた

     のである。

      それから幾年かが過ぎた。

      巫臣は人を介して密かに夏姫に伝えた。

      「生国の鄭に帰りなさい。その内に 正式の手続きを踏んで妻として

     迎えるべく鄭に行くつもりだ」と。

      その一方では、鄭伯(鄭の君)に働きかけて、

      「襄老の遺体が届けられるから、間違いなく引き取りに来るべし」

     と、楚に申し入れさせた。

      夏姫がこの報せを荘王に告げると、荘王は巫臣を召してその意見を

     求めた。

      巫臣は何食わぬ顔で応えるに、

      「それ信(まこと)ならん。襄老を討ち取った荀首は成公の寵臣であり、

     且つ中行伯(荀林父)の末弟でもあります。

      その彼は最近、中軍の副将となっております。その上 彼は鄭の皇戌

     とも昵懇なのです。

      ところがこの荀首の最愛の息子の知罃(ちおう)は、我が国の捕虜

     となっている訳です。

      そのような訳で、晋は捕虜の交換を考えておるのではないでしょうか。

      鄭にしてみれば、先の邲の戦いで晋に恐れをなし、誼を通じようと

     進んで仲介の労を引き受けたのに相違ございません」と。

      そこで荘王は、夏姫を鄭に帰らすことにした。

      諸々の手筈が整ってから、巫臣は夏姫に対して、後に時宜を見て

     妻として迎える算段のあることを報せた。

      夏姫は故郷の鄭へ旅立つに際して見送り人達に、

      「尸(し)を得ずんば我 反(かえ)らじ」、と。

      我が夫の屍骸を受け取るまでは、楚に帰ることはありません。

      かくして鄭に帰った夏姫は、兄の鄭伯に迎え入れられた。

      準備万端を整えた巫臣は、密かに鄭伯に夏姫を妻として迎え入れたい

     と申し入れ、許されることとなった。

      それから幾年か経ち、楚では荘王が没し(前591年)、共王(熊審)

     が二十四代君主として即位した。

      そして荘王の喪が明けると、共王は斉と盟約を交わして魯を討とうと

     したが、戦いを始める前に、出師の打ち合わせで巫臣を斉への使者と

     して派遣することにした。

      かくして巫臣一行が鄭に到着すると、同行していた副使らに鄭から

     楚への贈り物を持たせて帰国させ、自らは手筈通り夏姫を伴い斉へ

     亡命しようとした。

      ところが思惑が外れて、亡命しようと画策した斉が晋に敗れるという

     急報(紀元589年の鞍の戦い)に接し、急遽 晋の大夫・郤至を頼る

     ことにして、取り敢えずは単身で晋に亡命した。

                     「春秋左氏伝 成公二年」

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(春秋の妖婦夏姫)

     「春秋の妖婦・夏姫その1」

                        春秋(東周)時代

      「荘王、陳を伐つ」

      荘王は陳の夏徴舒を伐つと称して、前598年冬、軍を率いて陳に

     発向した。

      そして陳に至るや、陳の人民に対して布告した。

      「動くなかれ。まさに少西氏を伐たんとす」と。

      即ち 我に領土的野望はない、陳君を弑殺して即位した夏徴舒を

     誅するだけなのだ、と。

      古い諺に謂う、

      【牛を牽きて以って人の田を径(わた)るに、田主これが牛を奪う】、

     と。

      これ当に悪事の上塗りを謂うところのもの。

      ところが荘王は陳に入るや、夏徴舒を殺し、陳の領土を自領に編入

     してしまった。

      折しも斉に使いしていた申叔時が楚に帰国してきて、荘王の御前に

     伺候し復命の報告をしただけで、王に改めての祝賀の意を表せず退出

     した。

      荘王は申叔時の祝賀抜きの挨拶に立腹し、使いを遣り詰問した。

      そこで申叔時は参内して、意見を申し上げた。

      「夏徴舒が霊公を殺したのは如何にも重罪で、それを討伐なさったこと

     は義に適った行為と申せます。

      しかし、

      『牛を牽きて以って人の田を径るに、田主これが牛を奪う』

     という卑語がございます。

      人が牛を牽いて他人の田畑を踏み荒すのは確かに行き過ぎという

     ものです。

      この度 諸侯が君の命令に従がったのは、不義を討つというお言葉

     があったればこそです。

      それなのに、陳を併合してしまわれた。それでは不義を討つどころか、

     自国の領土欲を満足させる行為であった、ということになりませんか。

      以って他の行為と申せます」と。

      荘王はこの言を聞き入れ、陳の太子・午を晋から迎えて陳を復興させた。

      これが陳の成公である。

      さらに荘王は帰国後、楚に亡命していた陳の二人の大夫、公孫寧と儀行父

     を彼らの本国に復帰させた。

     
      ☷ 拾遺・弥縫

        「千乗の国を軽しとなし、一言を重んずる」

        大国を捨てても約束を重んずる、の意。

        後世、孔子は史官の記録を読んで、楚の陳を復する段に至り、感嘆

       して言った。

        「賢なるかな楚の荘王、千乗の国を軽しとなし、

       一言を重んずる」と。

        この一言とは、討伐に際して陳の民に布告した、

        「動くなかれ、将に少西氏(夏徴舒)を伐たんとす」

       との言葉を指す。


         「孟子 盡心下」

          「名を好む人は、能く千乗の国を譲る」

          名誉心の強い人は、その名誉を得るためには、時として千乗の

         大国をも、人に譲って惜しまないことがある。

          それはしかし、真の無欲からのものではない。

      

        

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(晋の重耳の放浪)

     「重耳と夷吾の放逐」

                        東周

      晋の19代献公(在位期間は前676-651)の大子であった申生や

     公子の夷吾(後の20代恵公)・重耳(後の22代文公)は既に立派な

     青年公子になっていた。

      ところが献公が晩年になって娶った驪姫(りき)の策謀により、太子の

     申生が曲沃の新城に遷された際 ついでに重耳は蒲城に、夷吾は屈城

     にそれぞれ遷されていた。

      ところがその後、夷吾と重耳は国都で驪姫の讒言に遭い、また国主

     たる父に挨拶もせずに帰国してしまった。

      献公は、二人の公子に疑惑を深めて激怒した。

      そして明くる献公二十二年(前656年)、追っ手の兵を屈城と蒲城に

     差し向けた。

      この時 献公の特命を受けた蒲邑の宦官・履鞮(りてい)は、重耳に

     自決を迫り威迫した。重耳はとっさに塀を乗り越えて遁走した。

        ※ 履鞮は、「春秋左氏伝」では勃鞮と記す。

      履鞮は重耳に追いすがって斬りつけたが、袂を切り裂いただけで、

     重耳はそのまま生母・狐姫の里である狄(てき)に出奔した。

      もともと重耳は親子の争いを避けようと考えていて、

      「父の下で食禄を食む身でありながら、其の父に手向かいしたら、

     取り返しのつかぬ大罪を犯すことになる。

      それより我 それ奔らん(亡命の道を選ぼう)」と、

      決心していたのである。

      この時 叔父の弧偃(こえん。子犯とも舅犯ともいう)・顚頡(てん

     けつ)・ 趙衰(ちょうし)・魏武子(魏犨)・司空季子(名は胥臣)らが

     随行した。その外 重耳が若かりし頃から随身していた賈佗(かだ)・

     先軫(せんしん)らがいた。

      その一方 屈城の夷吾は、父から攻められても、しばしば奮戦したが、

     戦況が不利になると、遂に母方の孤氏を頼ろうとしたが、重耳との鍔迫り

     合いになるのを恐れ、且つ大夫の冀苪(郤芮とも)の進言もあり、大国の

     秦に隣接する梁(夷吾の夫人の実家)に亡命した。


               「史記 晋世家」、「春秋左氏伝 僖公六年」

      

      

      

      

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    Author:tyouseimaru
    出身地は四国八十八か所参りの発心の阿波、大阪を終の棲家とする。
    歴史好きで、城郭・神社仏閣・歴史遺跡巡りが趣味となる。
    歴史小説や時代小説を好み、往年の著名な時代小説の類は概ね完読と、自負している。

    自薦
    自著「中国通史で辿る名言・故事探訪」の 上・中・下の3巻を、 近い内に「電子書籍」での出版を予定しています。 今年一年間は、さらに工夫を加えるなどして、補記訂正などの校正を第一義としています。       
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