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    中国通史で辿る名言・故事探訪(弘演納肝)

       「弘演納肝」

                         ◇ 東周王朝 ◇

       弘演が自らの内臓を取り去り、路上に打ち棄てられていた懿公の胆を

      自分の体内に納めた、という凄絶な故事。

       衛の弘演は、他国での使いを終えて帰国した。

       ところが、弘演が衛に帰り君に報告する前に、懿公は無残な姿形と

      なっていた。

       だが弘演は、無残に打ち棄てられていた懿公の肝臓に向かって、

      使者としての報告をし終わると、天を仰いで号泣して悲しみを尽くした。

       次に、肝臓に向かって、己の願いを込めて語りかけた。

       「臣 請う襮(はく)と為らん」、と。

       (=臣たる我が身は、君の体の表(衣服替わり)となることをお許し

        ください。)

       言うや否や、剣を手にして自らの体を切り開き、体内から内蔵物を

      引出して、代わりに懿公の肝臓を我が体内に納め終えて、壮烈な忠義

      の死を遂げた。

       ▲ 絶対的な忠義を誇大表現するために、かくの如く不可能事を

        例にすることは、古来からの中国的発想である。

       後に、斉の桓公はこの事件を知り、また夫人一人が衛の公室に関係

       する人であったので、

       「衛の滅亡は無道によるものだが、現にこのような烈士がいた

      のだから、衛の社稷は存続させるべきである」として、

      衛の旧都・朝歌は棄て、新たに楚丘に国都を再建させた。

       前660年、衛の人民は、懿公の従弟・戴公(姫申)⑳を擁立した。

       この戴公は一年で崩じたので、同母弟・文公(姫き)㉑が即位。

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(懿公の鶴)

       「懿公(いこう)の鶴」

                          ◇ 東周王朝 ◇

       動物などの愛好の度が過ぎると、反って禍の本となる例え。

       衛の懿公⑲(姫赤)は、先代の恵公⑯・⑱(朔。重祚)の子で、

      公子時代に異母兄の大子・伋(母は夷姜)を父に讒言して、殺害させ、

      代わって大子に選ばれ、後に即位するという悖逆の経緯があった。

       そのため即位してからも、臣下は言うに及ばず、

      国内の黎民(人民)の感情も余り良くはなかった。

       そんな君侯の楽しみは、いつしか鶴を格別に好むようになり、

      鶴に大夫専用の車に乗せたり、爵禄を与えたりした。

       臣下人民は、そんな鶴を「鶴大夫」と言って嘆いた。

       ある歳には旱魃で、黎民は水不足に喘いでいたが、

      懿公は鶴専用の飛游池の水を田畑に放流しなかったので、

      怨嗟の的になったこともあった。

       また遊興淫楽を好み、大臣や賢人の諌めも聞かず、、

      忠臣を軽んじ、黎民から重税を取り立て国中の怨嗟を買うようになった。

       かくして、即位九年目(前660年)のある日、狄(翟とも)の侵寇

      を受けて、危機は城の物見台に及んだ。

       懿公は涙を流し、その士民(召集兵)を拝して督励した。
       
       「寇 迫れり、士民それ之を勉めよ」と。

       だが多くの士民は、

       「君は、君の愛する鶴を率いて以て君のために戦わしめよ。

      鶴は尊い禄位を与えられているではないか。我ら何ぞよく守り戦わん」

      と言って、城門を打破り逃走してしまった。

       かくして祖国防衛に立ちあがる者は少なく、懿公は前線にあって、

      自らの車に旗印を掲げて迎え撃ったが、敢え無く討ち死にした。

       懿公が後事を託した大夫の石祈子と甯荘子らは、

      とても都城を守り切れぬと知り、夜を待って守備隊を率いて脱出した。

       だが追跡して来た狄軍に黄河付近で敗れて、

      遂に衛国は一時的に滅んでしまった。

                 「春秋左氏伝 閔公二年」・「東周列国志」

       ※ 春秋時代の慣習として、戦争があっても君侯は軍を編成しても、
     
        自ら第一線に立つことは滅多になく、指揮は卿大夫が執った。

         この卿大夫の指揮車には、君侯から授けられた大軍旗が掲げ

        られた。

         また敵となった諸侯の命や首を狙うという、戦功意識もなかった

        ようである。

     

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    中国通史で辿る名言。故事探訪(同悪相恤)

       「同悪相恤(どうおそうじゅつ)

                       ◇ 東周王朝 ◇

       平時において、ともに憎み合う者(敵同士など)が仇なす場合に、

      事が非常事態ともなれば、一時的に互いに助け合うこと。

      ☆ 斉、狄(てき)を伐って邢(けい)を救う

        魯・閔公元年(前661年)、異民族の狄が邢を伐った。

        この邢と斉とは、普段は芳しくない関係にあったが、

       その邢から斉に救援を要請してきた。

        その救援要請に対して、斉では管仲が桓公に進言した。

        「戎や狄は、山犬や狼のようなものです。

        その貪欲さには限りが無いので、満足させてはなりません。

        だが中原の諸国は親しみ近づくもので、見捨ててはなりません。

        宴安は酖毒なり、懐(おも)うべからざるなり。

        (=酒色に耽り遊び惚けることは、恐ろしい酖毒のようなもの。

         追い求めてはなりません。)

        詩に云う、

        【豈に帰ることを懐はざらんや。此の簡書を畏(おそ)る】、と。

        (=家に帰って安居することを考えないではない。

         だがこの危急を告げる告げ文を恐れるのです。) 

           ☞ この簡書とは、命令の密書の竹簡。

        書簡は、同悪 相恤(あいうれ)うるを之れ謂うなり。

        請う  邢を救いて以て書簡に従わん」と。 

        かくして、斉は出陣して邢を救った。

                     「春秋左氏伝 閔公元年」

     

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    中国通史で辿る名言・故事お探訪(愚公の谷)

       「愚公の谷」

                       ◇ 東周王朝 ◇

       斉の桓公が出猟して、鹿を追い求めて、

      何時しか深い山中の谷に迷い込んでしまった。

       そして、そこで一人の老人の姿を認めたので、「是 何の谷となす」と

      聞いた。

       老人の応えて言うには、「愚公の谷となす」と。

       桓公は、どういう訳で愚公の谷と名付けたのかと、その理由を問うた。

       老人は対えて、

       「臣を以て(私自身のことで)之に名付く」と。

       桓公は言う、

       「今あなたの風采を見ると、愚人とは思えない。どうして自ら卑下する

      のか」と。

       そこでやっと老人は語り始めた。

       「臣、故(もと) 牸牛(じぎゅう。牝牛)を畜(やしな)えり。

      子を産んで大なり(成長した)。これを売って駒を買うに、

       少年曰く、《牛は馬を産むに能わず》、と。

       ※ 言外に、そんな馬鹿な、きっと盗んできたのだろうと、脅して。

       遂に駒を持して去りぬ。

       傍鄰(近隣の者)これを聞きて、臣を以て愚となす。

       故にこの谷を名付けて、愚公の谷となす」と。

       桓公曰く、
     
       「公は誠に愚なり。なんすれぞ之を与えし」と言って帰京した。

       翌日の朝の朝議で、桓公は宰相の管仲に事の顛末を語った。

       すると、管仲は威儀を正して、深く礼をして言った。

       是は老人が愚かなのではございま先。私の愚であると言えます。

       古の堯のような聖天子が上にいて、咎繇(きゅうよう)のような賢才を

      裁判官にすれば、どうして仔馬を奪う者など居りましょうか。

       仮にこの老人のように乱暴された者がいたとしましても、

      きっと仔馬を与えなかったでしょう。

       この老人は、裁判が正しく行われていないことを知っているので、

      裁判をしても無駄と思ったので、少年に仔馬を与えてしまったので

      ありましょう。

       退出して、今 一度 政の勉強をしたいと思います」と。

       孔子曰く、

       「弟子 これを記せ。桓公は覇君なり、管仲は賢佐なり。

      猶 智を以て愚となす者あり。

       況や桓公・管仲に及ばざる者をや」と。

         ☞ 駒とは、若い元気な馬。

           或いは、二才馬など。

                      劉向「説苑 政理」 

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(老馬の知)

       「老馬の知」

                      ◇ 東周王朝 ◇

       年の功、人の経験を疎かに考えてはならないということの喩え。

       「管仲随馬」とも。

       斉の桓公十三年(前663年)、北方の異民族・山戎が燕に攻め込み、

      斉に救援を求めてきた。

       それに応じて桓公は、自ら兵を率いて出征し、

      山戎を遥か北方の弧竹の地まで追い払った。

       冬になって帰還する際に、軍団は深い雪の山中で道を見失てしまった。

       時に参軍していた管仲が桓公に進言した。

       「老馬の知 用うべし」と。

       歳とった馬は軍役や騎馬としては余り役には立たないが、

      歳をとっているのでその分、他の若い馬よりは自分の帰るべき道を

      よく知っているはずなので、その先導に任せれば、きっと帰還できるで

      しょう、と。

       果たして管仲の予言通りに、無事に斉に帰還することができた。

                「韓非子 説林篇」・「蒙求 管仲随馬」

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(一薫一蕕、)

       「一薫一蕕(いっくんいちゆう)

       十年 尚 蕕(ゆう)は臭あり。」

                        ◇ 東周王朝 ◇

       善より悪の方が強くて、蔓延しやすいことの喩え。

        ☞ 薫は香り草のことで、蘭の類。

          蕕は、秋に青紫色の花が咲く、カリガネ草。

          別名は帆掛草という。

          清楚な花に似合わず、株全体に不快な臭気がある。

       香草と臭草を一緒に置くと、良い香りは消されて、悪臭のみが勝り、

      十年経ってもまだ悪臭が残っているものである。

       晋の献公五年(前672年)、献公は驪戎を討って得た驪姫を

      夫人にしようとして、亀卜に占いを立てさせると、不吉と出た。

       そこで次に竹筮で占いを立てさせると、吉と出た。

       かくして献公は自分に都合のよいように、「筮に従おう」と言った。

       卜官 曰く、

       「筮は短く、亀は長し、長きに従うに如かず。

       かつその繇(ゆう。易の占い言葉)に曰く、

         [之を専らにせば渝(か。=変)わり、公の羭(ゆ。黒い雌羊)を

          攘(ぬす。=盗)まん。

          一薫一蕕、十年 尚 蕕は臭あり〕

       必ず不可なり」と。

       だが献公は、卜官の忠告に耳を貸さず筮に従った。

       ★ 献公はこの卜官の見立てを無視したので、

        やがて将来の禍根(お家騒動)となって表れる。

                      「春秋左氏伝 僖公四年」 
     

    テーマ : 中国古典・名言
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    中国通史で辿る名言・故事探訪(君子は情を去らず、)

       「君子は情を去らず、讒(ざん)を反(かえ)さず」

                       ◇ 東周王朝 ◇

       君子たる者の親を思う切なる心情は変え難く、

       譬え讒言に遭っても一切 抗弁はしない。

      》 晋のお家の事情 《

        晋の献公⑲には、賈(か)の国から夫人を迎えていたが、子は出来

       なかった。

        その内 亡父の夫人(義母)である斉姜(斉の桓公の娘)を娶り、

       男女の二子を儲けたが、男子の申生は大子となっていた。

        ※ 女子は、後に秦の穆公⑨の夫人となる。

        また後に、戎から狐姫姉妹を娶り、狐姫は重耳(後の文公㉒)を

       生み、その妹は夷吾(後の恵公⑳)を生んだ。

        彼らは順調に育ち、既に立派な成人に達していた。

        ところが、献公五年(前672年)、献公は驪戎(りじゅう)から

       入れた驪姫を夫人にして驪姫は奚斉(けいせい)を生み、驪姫のお付き

       となっていた妹は卓子を生んだ。

       ▲ 驪姫の罠

         ある日のこと、驪姫は君命と偽って大子・申生を罠にかけた。

         即ち申生の母・斉姜の御廟にお供えの胙(ひもろぎ。=膰)を

        祀り、祭りの後、供えた胙と酒を持ち帰って晋の都の献公に届け

        なさい、と。

         六日の後、献公は猟から帰ってきたが、料理人が胙と酒を食膳に

        配して奉った。

         献公は先ずはと天地に感謝して、酒を地に注がせると、地が盛り

        上がった。

         不審に思って、さらに側近に命じて胙を犬に与えると、犬は悶絶

        した。

         ここに至って、驪姫は大芝居を演じて、献公を惑乱させた。

         驪姫に謀られたと知った申生は、直ちに曲沃に向けて出奔した。

         献公は激怒して、大子の傅(ふ。お守り役)の杜原款に殺害する

        ようを命じた。 

         またこの時、重耳と夷吾も上京していたが、驪姫は讒言して、

        この二人も申生の酒と胙の毒物混入を知っていた、と。

         情報によりこの二人は、逸早くそれぞれの城邑に帰国し、備えを

        固めた。

       ★ 杜原款(とげんかん)の死

         献公に大子申生の殺害を命ぜられた杜原款は、自ら死を選び、

        人を介して申生に告げさせた。 

         「この私は知恵も才覚も無く、君のために讒言を斥ける働きも出来

        ず、君のお心も知ること適わず、身を滅ぼすこととなりました。

         然れども、款や敢えて死を愛(お)しまず、ただ讒人とこの悪を

        等しくす。

         吾 聞く、

         [君子は情を去らず、讒を反さず〕と。

        讒 行われ、身 死するも可なり。猶 令名有り。 

        (=讒言がなされ、よって死を命ぜられても止む無し。

         だが名声まで廃れることはない。)

        死して情を遷さざるは、彊(きょう。情が強い)なり。

        情を守り、父を説(よろこ)ばしむるは、孝なり。

        身を殺して志を為すは、仁なり。

        死するも君を忘れざるは、敬なり。

        孺子(若君) 之を勉めよ。死して必ず愛を遣(のこ)さん。
        
        死して民を思う。また可ならずや」と。

        申生は彼の心情をよく納得した。

       「君を棄て罪を去るは、これ死を逃るるなり」

        父を棄て又 罪を逃れるのは、潔い死に方から逃れるようなもの。

        人ありて、「子(あなた)の罪に非ず。何ぞ去らざる」と。

        「吾これを聞く、

        [仁は君を怨まず、智は苦しみを重ねず、勇は死を逃れず〕と。

        吾は静かに天命を待とう。」

        そのような心境になった申生に、驪姫は追い討ちをけるような言葉を

       浴びせた。

        暗に自裁せよと。

        驪姫が帰ると、申生は曲沃の新城の廟で首を括って果てた。

                      「国語 晋語」

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(驪姫の喩え)

       「驪姫(りき)の喩え」

                      ◇ 東周王朝 ◇

       先憂したことを後悔すること。 

       晋の献公(姫詭諸)(⑲ 在位 前676~651)は国力が充実する

      や、驪戎という大きな族を相手に戦い、遂に驪戎を降伏させた。

       驪戎の君は、美人姉妹を献上して国の滅亡を免れようとしたが、

      結局のところ、晋に併呑されてしまった。

       献上されたこの美人姉妹の姉・驪姫は、春秋時代の有数の美人として

      知られる。

       戦国時代の荘子は、戦利品として連行された驪姫の当初の心情に

      仮託して、生死一如の思想を述べている。

       驪姫も晋の都に連行された当初は、次のごとき有様であった。

       「悌泣して襟を沽(うる。=潤)し、王に召され筐牀(きょうしょう)

      を同じくし、芻豢(すうかん)を食らうに及び、然る後、その泣きたるを

      悔いたり。」

        ☞ 筐牀刃、安楽な寝台。

           芻は秣(まぐさ)などを餌とする草食動物(牛・羊)のこと。

           豢は穀類で飼われる家畜(豚や犬)のこと。

           「芻豢」は、ご馳走の意となる。

       予(なんじ) いずくんぞ夫(か)の死者も、

      其の始め生を求めたるを悔いざるを知らんや、と。

       (=人も生きている間は死を望まないが、いざ死んでみると、

        思いの他の心地良さに、

         生きていた時には死にたくないと願望したことを後悔しないと、

        誰が知り得ようか。)

                     「荘子 内編・斉物論」

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(重徳は報われずとは、)

       「重徳は報われずとは、誠に然り」

                      ◇ 東周王朝 ◇

       人に施した小さい恩徳はよく報われても、

      恩徳が余りにも大きすぎると、恩徳を受けた者にとっては反って重荷と

      なり、報われることが無いと言うが、本当のその通りである。

      》 鄭の厲公⑨の復位の背景 《

        鄭の厲公⑤は前697年、君位を奪われて、櫟(れき)において自立

       していたが、突如として前680年、鄭都の新鄭に向けて侵入を開始

       し、大陵に宿り、鄭の大夫・傳瑕(ふか。史記では甫瑕)を虜にした。

        囚われた傳瑕は、厲公に降る条件を提示して言う、

       「若し我を解き放ってくだされば、貴君を国都にお入れいたします」

      と。

        そこで厲公は、之と盟約を交わして釈放した。

        六月甲子(一日)、傳瑕は国都で国君の鄭子(姫嬰 ⑧)と

       その二子を殺して、盟約の通り厲公を迎え入れ、厲公は復位した。

        ところが、厲公は、今回の復位に大きな功績のあった傳瑕に対して、

        「(し)の二君に事(つか)うるは、二心有り」として、誅殺して

       しまった。 

        傳瑕はその死際に、

        「重徳は報われずとは誠に然り」と言って、無念の涙をのんだ。

        また厲公は、在国していた伯父の原繁を責めて次のように言った。

        「傳瑕には二心有り。因って然るべく罪に服させた。

         我を迎え入れて二心なき大夫には、そのまま職務を続けてもらう

        ことにする。

         だが、寡人が先に国外に在った時、貴方は国の様子を知らせて

        くれず、櫟で自立してからも、寡人のことを配慮してくれなかった

        のは、残念である」と。 

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(妖は人に由りて興る)

       「妖は人に由(よ)りて興る」

                       ◇ 東周王朝 ◇

       この世の妖怪変化は、人のなせる業である。

       人の気の持ち様で、妖ともなれば怪異ともなり、

      全く何も無いということにもなる。

       ことは、鄭の厲公⑤(前700~697)が重祚する前のことになる。

       鄭の時門(南門)の内で、城外の蛇と城外の蛇が戦い、

      城内の蛇が死ぬということがあった。

       それから十七年 経て、厲公⑨が復位(重祚)した。

       ※ 春秋左氏伝では、六年経ってと記すが、

        それでは復位した年代に合致しないので改めた。

         復位は、前679年である。

       魯の荘公はこの妖変を耳にして、

       「そのような事が、果たして起こり得るのか」と、

      申繻に下問した。

       申繻は対えて、

       「人の忌む所は、その気炎して以て之を取る。

        妖は人に由りて興るなり。

        人 釁(きん)無くんば、妖 自ら作(おこ)らず。

        人 常(じょう)に棄つれば、則ち妖 興る。故に妖あり」と。

        (=人の嫌う妖変は、そもそも自分の気が燃え上がって生ずる

         もの なのです。 だから、妖は人から生ずるものなのです。

          人の心に隙が無ければ、妖は一人で興ったりはしません。
         
          人が常道を棄てると、妖は興ります。

          それが妖の本質なのです。)

                     「春秋左氏伝 荘公十四年」

     

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    テーマ : 慣用句・ことわざ・四字熟語辞典
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    中国通史で辿る名言・故事探訪(牛耳を執る)

       「牛耳を執る」

                        ◇ 東周王朝 ◇

       諸侯の会盟を主宰すること。

       転じて、組織や団体、或いは一党一派の首領や中心人物になることを

      言う。

       春秋時代に始まる諸侯の会盟では、その盟約を天地に誓う儀式が行わ

      れた。

       その際に、生贄として牛が捧げられるのが慣例であった。

       そして会盟の明主は、自ら牛の左耳を切り取って手にし、

      諸侯は互いにその血を啜って、盟約を確認した。

       この故事から、「牛耳を執る」・「牛耳る」の成語が生まれる。

                     「春秋左氏伝 定公八年」

       ★ その昔、牛耳を執るのは地位の低い方の者であった、

         とも云う。

         地位の高い者は、ただ立ち会うだけだと。

         また、血を啜ることに関しても、

        後には、口の周りに血を塗り付けるに止まるようになる。

        この諸侯の会盟で主催者になると、所謂 

        「覇者」と称せられるようになる。

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(天下の悪は一なり)

        「天下の悪は一(いつ)なり」

                      ◇ 東周王朝 ◇

       この世の悪と言うものは、何処においても悪であることに変わりは

      ない。

      》 宋の君位簒奪劇 《

       魯の荘公十二年(前682年)秋、宋では南宮萬が湣公⑮を

      弑殺し、仇牧と太宰・督を殺して、公子游を擁立して即位させた。

       この事変で多くの公子連中は䔥(しょう)に奔り、公子禦説は

      亳(はく)に奔った。

       南宮萬の弟・南宮牛と仲間の孟獲は、軍を率いて禦説のいる亳を

      包囲した。

       その一方、蕭を治めていた大夫・叔大心は、宋の先君(荘公⑭)の

      連枝と協力して、かつ曹国の力を借りて反撃に転じ、戦場で南宮牛を、

      新君の游を宋都で殺して、新たに公子禦説を即位させた。

       これが桓公⑰である。

       陳に逃れた南宮萬は、後に陳が宋から賂(まいない)を贈られ、

      陳は南宮萬を騙して捕え、宋に送り返した。南宮萬は塩漬けにして処刑

      された。

       また宋は衛に対して、孟獲の引き渡しを要求した。

       ところが、衛ではその要求を拒絶しようとした。

       衛の大夫・石祈子(せききし)は君を説いて曰く、

       「不可なり。天下の悪は一なり。

       宋に悪にして、我に保つ。之を保つも何の補いかあらん。

       (=宋で悪なる者を、わが国で匿ったところで、何の役にも立ちま

        せん。)

       一夫を得て一国を失い、悪に与して好(よしみ)を棄つるは、

      謀(はかりごと)に非ざるなり」と。

       結局 衛は、孟獲を宋に送り返した。

                     「春秋左氏伝 荘公十二年」  

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(凡例)

       「凡例」

                      ◇ 東周王朝 ◇


       書物の初めに掲げて、その書の要領・例則などを述べる導入文型。

       その凡を発して以て例を言うは、皆 経国(国家統治)の常制、

      周公(周公旦)の垂法(遺制)、史書の旧章(旧史)なり。

       仲尼(孔子) 従いて之を脩(修)めて、以て一経の通體を成す。

       (=「春秋」が、凡そ云々と説き起こして、春秋義例を述べている

        のは、いずれも国家を治める常の制度であり、至聖・周公の

        後世に残した法度であり、史官の記した旧い決まり事である。

         孔子はそれらに従って、乱れたものを質して、「春秋経」の

        全体に通ずる「義例」の体裁を明らかにした。)

       ☆ 旧例に対して、孔子が特に筆削したものを「変例」という。

       「春秋の義例」の戦争に関する一例。

        凡そ師は、敵 未だ陣せざるを、

        (=いったい戦とは、敵軍が未だ陣形を整えていない内に、

         攻めて破るのを)

        「某の師を敗(やぶ)」、と曰い、

        皆 陣するを、

        (=敵軍も味方の軍も共に陣形を整えて戦うことを)

        「戦う」と曰い、

        大いに崩れるを、

        (=大敗して総崩れになることを)

        「敗績」と曰い、

        儁(しゅん)を得るを、

        (=戦闘で敵の英邁な師将を捕獲することを)

        「(か)」と曰い、

        覆いて之を敗るを、  

        (=敵を包囲して全軍を撃破することを)

        「某の師を取る」と曰い、

        京師 敗れるを、

        (=天子の軍が敗れることを)

        「京師 某に敗績す」と曰う。


        ☆ その他、「師(軍旅)」に関する義例 

          「取る」とは、邑を攻略するのに、師を用いないで得た

          という意。

          「伐つ」とは、出兵に際して、鉦鼓(鉦や太鼓)を用いること。

          「侵す」とは、出兵に際して、鉦鼓を用いないこと。

          「襲う」とは、不意を衝く出兵をいう。 

             晋代の 杜預「春秋左氏伝集解(しっかい)」の伝の序。

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(天下は財 無きを患えずして、)

       「天下は財 無きを患(うれ)えずして、

       人の以て 之を分かつなきを患う。」


                       ◇ 東周王朝 ◇

       国家に財が足りないということは、さほど心配すべきことではない。
       
       それより為政者が、現在ある財物を如何に公平に配分するか、

      ということに気を配るべきである。

       公平に配分できないことこそ、大いに心配すべきである。

                     「管子 牧民篇」

        この政治論理は、古代社会におけるものではあるが、

        現代社会の貧困と所得格差に悩む世界諸国における最大の

        政治経済上の課題に相通ずるものがある。

        諸々の政治家に、少しく配慮して欲しいことではある。



       「明主は聴を兼(あ)わせて、独り断ず」

        賢明なる君主は、物事を行うに際しては、

       必ず多くの人の意見を聞いてから、自ら判断して事を定める

       ものである。

                     「管子 牧民篇」


       「寡(すく)なきを患えずして、均(ひと)しからざるを患う」

        為政者は自国民が少ないとか、物資が少ないとかは心配する必要

       はない。

        それよりも、人民が皆 不平等だ不当だという不満を抱き、上下とも

       相安じない事を一番に心配するべきことである。 

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(国の四維)

       「国の四維(よもづな) 

                       ◇ 東周王朝 ◇  

       国家の秩序と安定を維持するための、四つの重要な大綱(道の意)、

      則ち綱領をいう。

       それはまた道徳の基本となるものであり、礼・義・廉・恥をいう。

       「礼・義・廉・恥は国の四維、四維 張らざれば国 則ち滅亡せん。」

          戦国時代以後に成立した管仲の政治論集 「管子 牧民篇」

       ※ 天空は大地の四方の維(すみ。隅)で、四本の大綱で繋がれ、

         支えられているというのが古代思想である。

         この四隅を、四維という。

         なお隅は、艮(うしとら。北東)、巽(たつみ。南東)、

        坤(ひつじさる。南西)、乾(いぬい。北西)をいう。

       管子から、政治論を二題掲げる。

       「礼節と栄辱を知る」

          倉廩(そうりん) 実(充)ちて、則ち礼節を知り、

          衣食足って、則ち栄辱を知る。


        (=蔵の中の品物が豊富になってくると、人は初めて礼節を知る

         ことが出来るし、

          日常生活に必要な衣食が足りてくると、初めて真の名誉とか

         恥辱が如何に在るべきかを知るようになるものである。)

        日本では、「衣食足って礼節を知る」と言い習わす。

       「民の潤いは、税の元」

          与うるの取りたるを知るは政(まつりごと)の宝なり。 

          (=民の生活を豊かにすることが政の根幹であり、

           国庫収入の源泉であるといえる。

            しからば、税を取ろうとするならば、先ず民が必要とする環

          境の整備、則ち生産体系の改善や農耕の改良、諸々の農民

          政策を計画的に行うことが最優先の課題である。) 

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(管鮑の交わり)

       「管鮑の交わり」

                      ◇ 東周王朝 ◇

       親密な交際の例え。

       春秋時代(東周)の、斉の管仲(諱は夷吾)と鮑叔牙との

      終生変わることのない篤い友情。

       管仲と鮑叔牙は幼馴染であり、互いにその身分や環境、

      さらに立場が異なっても、二人の友情は終生変わるとは無かったと言わ

      れる。

       巷説として、

       管仲の才と能力を貴とするも、鮑叔牙の篤い友情がなかったならば、

      管仲の存在も、その名も無かったとも言われる。

       《 鮑叔牙の出自 》

        夏王朝の末裔で、「夏礼」を伝承した「杞」という小国が春秋時代に

       あった。 

        時代は遡るが、杞国は殷、周王朝においても、その先祖の祭祀を

       守るべく存続を許されて来た。

        そして春秋のある時期から、杞の公子の一人が「斉」に仕えるように

       なり、鮑の地を与えられ、以後 鮑氏を称するようになり、鮑叔牙を

       輩出する。 

                     「史記 管晏列伝」 


        ♯  唐代  杜甫「貧交録」

          手を翻せば雲起こり、手を覆えば雨 降る

         ※ 金があるうちは仲良くしているが、金がなくなると変わって

           しまうという世間の情の軽薄さを引き合いにしての嘆き。

          (=まるで手の平を反すと、雲になったり雨になったりする。)

          粉粉たる軽薄なんぞ数(かぞ)うるを須(もち)いん

          (=そのような薄っぺらい姿なぞ、

           一々取り上げてみても仕方がないではないか。)

          君見ずや管鮑貧時の交わり

          (=昔の斉の管鮑と鮑叔牙のような、

           貧乏の中での立派な交際を見たことがないのか。) 

          この路 今人(こんじん)棄てて土の如し。

          (=そのような立派な交友の道を、今日の人は、

           まるで土くれのように捨て去ってしまった。)

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(社鼠(鼡))

       「社鼠(しゃそ)

                         ◇ 東周王朝 ◇

       社(やしろ。神殿)に巣くう鼠(鼡)が原意。

       土地神を祀る社は、人が濫りに手を入れることが出来ないので、

      鼠にとっては当にやり放題の安楽な棲家となる。

       そこから意味は転じて、君主や権力者の陰に隠れて悪事を働く側近の

      悪臣、いわゆる「君側の姦(奸)」のことを例えて言う。

       ある日の事、斉の桓公⑯が管仲に問うた、

       「国 何をか患(うれ)いと為す」と。

       (=国を治めるのに、最も気にかかるか事は何か。)

       管仲は対えて、

       「最も気にかかるのは、社の鼠でございます。

       夫れ狐は人の攻むる所なり、鼠は人の燻(いぶ)す所なり。

        臣 未だ嘗て稷狐の攻められ、社鼠の燻せられしを見ざるなり。

          ※ 「社稷」とは土地の神と五穀の神を言うが、

           稷狐は田畑に棲みつく狐を言い、社鼠は神殿に巣くう鼠。

        何となれば、則ち託する所の者 然ればなり」と。

        (=その身を託する所が、物事の理に適っているからです。)

        桓公は問う、

        「それではどういう訳で、社の鼠が気にかかるのか」と。

        管仲はその訳を説明して、

        「我が君にも、かの社を造るのをご覧になりましたか。

       先ず板を立て連ねて、最後に壁土を塗り込みますが、

       鼠はその隙間を噛み破り、その内側に穴を掘って身を隠します。

        其れを駆除しようとして、その穴を燻せば板を焼く懼れがあり、

       穴に水を注げば、壁が崩れる懼れがあります。

        だから社の鼠を退治できないのには、それなりの理由があるのです。

        翻って、国にもまた社鼠(鼡)がおります、

       人主の左右(側近) 之なり。

        内は則ち善悪を君上に蔽い、外は則ち権重を百姓に売る。

        (=朝廷内に在っては君主の明を晦まし、外部に向かっては、

         権力に物を言わせて百姓を苦しめる。)

        之を誅せざれば則ち乱を為し、之を誅すれば則ち人主に察せられる。

        腹に拠りて而して之を有す、これ亦 国の社鼠なり」と。 

        (=これを誅しても誅さなくても、君の腹中に巣くう姦人は、

         不忠そのものであり、将に国家の社鼠と言える。) 

                前漢 劉向(りゅうきょう) 「説苑」

        ☆1  春秋の名宰相と言われる斉の晏嬰(あんえい)は、

          「社鼠猛狗」と言って、景公㉖に国を治めることの患い

          を説く。 

        ☆2 南朝時代に編纂された「晋書」では、「城孤社鼠」という。

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(被髪左衽)

       「被髪左衽(ひはつさじん)

                        ◇ 東周王朝 ◇

       中華文明を自認する中国人の、周辺異民族に対する蔑視した風俗観

      の例え。

       古来中国では、冠は上は天子から下は官吏役人(士階級)に

      至るまで、冠を着装することは中華の文化人の証として欠かすことの

      出来ない礼儀であった。

       従って、冠をしないで髪を結わず露出するという習俗は、極めて蔑視

      されて来た。 

       また衣服の襟(衿)を左前にそろえて着るのは、異民族の習俗と

      見做された。

       斉の名宰相・管仲からほぼ二世紀後の人である子貢(端木賜)が、

      管仲の人物について、師の孔子に尋ねた。

       子貢曰く、

       管仲は仁者に非ざるか。桓公 公子・糾を殺す。

       死すること能わず。又 之に相たり。


       管仲は公子・糾を擁立して、鮑叔牙の擁立する糾の異母弟・小白と

      後継君主の地位を争ったが、事破れて後は主従ともども魯に在って

      頼った。

       その後、桓公は鮑叔牙の進言もあって、管仲を斉に帰順させようと

      して、魯を攻め、魯の荘公に公子・糾を殺させ、輔佐役の管仲の身柄を

      斉に引き渡させようとした。

       この時、公子・糾のもう一人の傅役(守り役)は主に殉じて死んだ

      が、管仲は殉死を択ばず反って斉に迎え入れられて、

      その宰相になった。

       子貢は、それは不義不忠であり、また人情にも外れることだと、

      非難して師に尋ねたわけである。

       子曰く、

       管仲、桓公を相(たす)けて諸侯に覇たらしめ、天下を一匡し、

      民、今に至るまで其の賜(たまもの)を受く。


      (=管仲は斉の桓公を援けて、諸侯に先駆けて桓公を初めて中原の

       覇者たらしめ、そして改めて天下の秩序を正して統一したのである。 

        そのため今に至るまで、多くの民は、管仲から様々な恩恵を受けて

       いる と言えよう。)

       管仲 微(な)かりせば、

      吾 其れ髪を被(こうむ)り衽(じん)を左にせん。


      (=その昔、管仲がいなかったならば、中原諸国は夷狄に侵され、

       私などは今頃、夷狄の習俗である頭髪をむき出しにして、左前で襟を

       合わせる衣服を着ていただろう。)

       豈に匹夫匹婦の諒をなすや。

      自ら溝瀆(こうとく)に縊(くび)れて、之を知る者莫しが

      若くならんや。


      (=管仲ほどの者が、どうして下賤な男女の小さな信を重んじようか。

       自ら溝の中に縊死して、誰からも知られないようなことをしようか、

       するはずがないのだ。)

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(君 覇王たらんと欲せば、)

       「君 覇王たらんと欲せば、

       管夷吾にあらざれば不可なり」


                      ◇ 東周王朝 ◇

       わが君が諸侯に覇者となろうとするならば、

      是非にも管夷吾を重用しなければ望みは達せられません。

       斉では内乱が収束して、莒に亡命していた呂小白が鮑叔牙に先導

      されて、また斉の卿大夫の高傒や国氏にも受け入れられて、

      紀元前685年夏、君位に就いた。

       これが桓公である。

       この即位に先立ち、管仲の輔佐する魯に亡命していた公子・糾は、

      鮑叔牙の輔佐する異母弟の小白との君位争いで、一足遅くなり

      帰国する機会を逸してしまった。

       その後、八月に公子・糾らは魯軍の支援もあり、斉に攻め込んで、

      乾時で戦闘を交えたが、惨敗を喫した。   

       桓公は即位するや、卿大夫の高傒に代わって、鮑叔牙を宰相に

      任じようとした。

       ところが、鮑叔牙は自分のことは棚において、進言した。

       「臣は幸いにも我が君に従うことが出来て、今や君は遂に、

      斉の君侯にご即位なさいました。

       だがこれから先は、もはや我の力量では君の尊貴を高めることは

      できません。

       君 斉を治めんとせば、高傒と叔牙とにて足る。

       君かつ 覇王たらんと欲せば、管夷吾にあらざれば不可なり。

       夷吾 居るところの国は、国重し。失うべからず。

        ※ 語中には、桓公が諸侯に覇者たらんと欲するならばの意

          を含む。

       臣の夷吾に及ばぬ事に、

       寛大で恵み深く民を安泰にすること。

       国を治めて権勢を失わないこと。

       忠信によって人民をまとめること。

       礼儀を制定して教化させること。

       軍門に立ち民を鼓舞すること。   

       以上の五つは如何ともし難いものです。

       しかし桓公は言う、

       「かの管夷吾は寡人を射て帯鈎(革ベルト)に中て、

       ここを以て死に瀕す
    」、と。

       たが、小白はその場でとっさに死んだ振りをして、

        管仲の目を誤魔化した。矢は小白の革帯に命中したが、軽傷で

       済んだ。

       叔牙は夷吾を弁明して、

        「彼は其の君(公子糾)のためにしたことです。

       君が罪を許されて帰国させますならば、同様に君に忠誠を尽くす

      でしょう」と。

       ようやく納得した桓公は、その後 鮑叔牙とともに、

      管夷吾を魯から帰国させるべく秘策を練った。

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(斉の無知、)

       「斉の無知、その君 諸兒(しょげい)を弑す」

                        ◇ 東周王朝 ◇

       斉の襄公⑭の従弟である公孫無知が、君侯の襄公を弑殺した。

       襄公の父・僖公⑬には夷仲年という弟がいたが、その弟は早世

      したので、僖公はその遺児である公孫無知を可愛がり、あらゆる点で

      大子である諸兒と同様にして、甘やかせてきた。

       だが諸兒が即位するや、無知から一切の特権を奪い取るという経緯

      があった。

       魯・荘公八年(前686年)冬 十二月、斉の襄公が大規模な狩を

      催うした。 

       その狩猟中、襄公の眼前に巨大な猪が出現した。

       すると公孫無知は、予てからの手筈通りに、王の従者をして、

      「公子彭生なり」と絶叫させた。 

       ☞  この公子彭生は、曽て襄公に命じられて、前694年に

         斉を訪れた魯の桓公⑮を車上で撲殺した人物である。

          ところが魯から、筋の通った抗議を受けて、止む得ず、

         魯への釈明として殺された、いわばその犠牲であった。

       脛に傷を持つ襄公は、精神の動揺をきたし、怒鳴りつけて矢を射させ

      たが、なんと大猪が人の如く立ち上がって鳴いたので、襄公は驚愕して

      車から転げ落ち、足に怪我をし、あまつさえ履を失ってしまった。。

       》 王位簒奪劇 《

       襄公は急遽、宮殿に帰還した。そしてこの時に、君侯の殺害が

      行われた。

       「春秋 荘公八年(前685年)」の経に記す。

       「冬 十有一月(11月のこと)癸未、

       斉の無知、其の君 諸兒を弑す
    」と。

          ※ 諸兒は、史記では諸児と。

            「春秋経」で、君侯である襄公を諸兒と諱で記すのは、

           討たれる方にもそれなりの宜しからぬ理由があるから

           である。

       この反乱が起こった時、襄公は即位して十二年になるが、

      無道なことばかりして政治は乱れ、況や人臣も王から離れていたので、

      王の異母弟たちも身の危険を感じて、

      公子・糾(生母は魯の公女)は管仲とともに魯国へ、

      公子小白(生母は衛の公女)は鮑叔牙とともに莒に亡命していた。

       このような状況下に、公孫無知は君位を簒奪したが、翌年の春、

      大夫の擁廩(林)に暗殺されてしまった。   

                      「春秋左氏伝 荘公八年」

       この公子小白が、後に鮑叔牙に擁されて帰国して即位する、

       春秋の覇者第一号の桓公⑯である。

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(物言わぬ息嬀)

       「物言わぬ息嬀(そくぎ)

                      ◇ 東周王朝 ◇

       春秋時代、大国の楚に隣接する小国の「息国」の君主は、

      陳国から息嬀を夫人として迎えたが、その花嫁が輿入れの途中、

      蔡国で足止めされ、有りうべからざる無礼を受けた。

        ※ 息嬀は、「史記」では「息姫」と記す。

       美貌の噂を聞いた蔡侯⑬(在位 前694~675)が、

      強引に花嫁の顔を見たくて、無理強いしたのであった。

       この蔡侯も、同じ陳国から夫人を迎えていたが、

      息嬀の美貌には及ぶべくもなかったのである。

       だが蔡侯は、足止めはしたもの、惜しみつつ花嫁を送り出した。

       息嬀は無事に息に到着したが、事情を聴いた息侯は激怒した。

       自分より先に花嫁の顔を見た蔡侯が、許せなかった。

       息は弱小国であり、蔡に対抗することは不可能であったので、

      大国の楚を利用しようと謀った。

       息侯は、盟主である楚の文王を焚き付けて言う、

       「我を伐て。我 救いを蔡に求めて、之を伐たんか」と。

       (=盟を破って、楚が我が国を攻めてくれれば、我は蔡に助けを

        求めましょう。そこで楚は、改めて蔡を伐ってください。)

       即ち息は、楚に会戦理由を与えようとしたのである、

       かくして魯の荘公十九年(前684年)九月、文王は蔡を討ち、

      辛の戦いでこれを破り、蔡侯を捕虜にした。

       だが蔡侯はその後、帰国を許された。

       蔡侯は息嬀への想いは止まらず、魯の荘公十四年、また息侯を

      怨む余りに、文王に息嬀の美貌を滔々と語ったものである。

       果たせるかな、文王は堪らず、今度は罪も無い息国を攻略して、

      息君を殺して息嬀を奪った。

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(周王室乱れる)

       「国を耦(ぐう)するは、乱の本なり」 

                       ◇ 東周王朝 ◇

       国家を二人で執り行うのは、国家騒乱の原因となるもの。

       ☞ 耦とは、二人並んで田を一尺幅に耕すことをいう。

         古代中国では、五寸幅の鋤を用いて、二人並んで耕作した。

       周王朝の荘王四年(前694年)、

       周公黒肩が荘王の弟の公子・克(子儀)を立てて、周王を謀殺

      しようとした。

       ところが、そのことを知った周公の臣・辛伯が荘王に注進して、

      王と協力して周公を殺したが、王子克は直ちに燕に逃れた。

       》 事の顛末 《

       その昔、庶子であった王子克は、先代桓王⑭に寵愛され、

      桓王は周公黒肩にその後見を依頼すると言う経緯があった。

       周公黒肩に仕える辛伯は、桓王には嫡出の公子がいたので心配

      して、周公を諌めたものである。 

       彼曰く、

       「后に並び、嫡に匹し、政(まつりごと)を両(ふたつ)にし、

        国に耦するは、乱の本なり」と。


       (=妾が王の后に肩を並べ、庶子が嫡子に匹敵し、

        王の寵臣が正卿(執政)と並んで政治を行い、

        当に田を耦耕するがごときは、国家騒乱の原因となります。)

       だが、周公は之を聞き入れなかったので、禍に罹ったのである。

                      「春秋左氏伝 桓公十八年」

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(本支百世)

       「本支百世」

                         ◇ 東周王朝 ◇

       一家一門の長く栄えること。

       本が強いものは、末が永遠に栄えるの意。

       ☞ 本支は「本枝」とも記し、もと・わかれの意。

         幹と枝、本家と分家、一家一門をいう。

       衛では宣公⑮が崩じて、公子・朔が即位した。これが恵公⑯である。 

       先代の宣公は初め、亡き父・荘公⑫の夫人・夷姜(庶母)に通じ、

      急子(伋)を儲けて、右公子・職に後見させた。

       そして後、成長した急子のために斉から宣姜を娶らせようとしたが、

      そのあまりの美しさの故に、自らの夫人とし、二人の男子を儲けた。

       これが、寿と朔である。

       そして寿には、左公子・泄(せつ)に後見させた。

       だがその後、急子の母・夷姜は絶望して自ら命を絶った。

       魯の桓公十二年(前700年)、宣姜は子の公子朔と共謀して、

      急子を無実の罪に陥れた。

       之を受けて宣公は、邪魔者となった急子を使者として斉に派遣し、

      その途中において、宣公の内意を受けた賊に殺させようとした。

       事の真相を知った公子寿は、その事を急子に知らせ、

      他国に逃がそうとしたが、急子は、

       「父の命(めい)を棄てば、いずくんぞ子を用いん。

        父無きの国有らば、則ち可なり」と言って聞かなかった。

       いよいよ斉に出発する段になり、公子寿は急子に酒を飲ませて

      酔わせておき、自らは急子の旗を車に掲げて先行した。

       途中、賊徒はそれを急子と誤認して、公子寿を殺害した。

       その現場にやや遅れて到着した急子は、

       「この私を殺そうとしていたのだ、公子寿に何の罪があろうか。

        吾を殺してくれ」、と言ったので、賊は急子も殺してしまった。

       その後、間もなく宣公が崩じて、公子朔が即位した。

       これが恵公⑯(在位 前699~697)である。

      》 公子黔牟(けんぼう)を擁立 《

       魯・桓公十五年(前697年)冬、恵公を恨んでいた左公子泄と

      右公子職は、宣公の別の公子・黔牟⑰(前697~687)を擁立

      した。 

       恵公は母の生国・斉へ亡命した。

     》 周王朝の荘王⑮の介入 《

       荘王十一年(前687年)夏、荘王は斉に亡命中の惠王(朔)を衛に

      帰し、黔牟を追放し、左公子泄と右公子職を殺して、

      改めて恵公を国君に復位させた。 

       「世評」

       君子(時の有識者)は、二人の公子が黔牟を擁立したことについて、

      思慮のないことをしたものだ、と看破した。

       夫れ能く位を固くする者は、必ず 本末を度(はか)りて、

      而る後に衷を立つ。

       (=その地位や爵禄をよく守る者は、必ず物事の本と末を見極めて

        から、適切な位置にいるものだ。)

       其の本を知らざれば謀らず。

       本の枝せざるを知れば強いず。

       (=木の幹が弱くて、枝の繁茂しないことを知れば、無理は

        しないもの。)

       詩に曰く、

       「文王孫子、本支百世」、と。

       (=周の文王の子孫は、末永く繁栄することだろう。)

                        「詩経 大雅・文王」

                        「春秋左氏伝 桓公十六年」 

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(王と覇者)

       「君子 義なれば王たり、信ならば覇たり」

                      ◇ 東周王朝 ◇ 

       諸侯で義に篤ければ王と成り得るし、

       また諸侯の信を得ることが出来れば覇者と成れる。

       これは、戦国時代の荀子の「覇王説」である。

       周王朝が権威と実権を失い、天下を治める力が機能しなくなると、

      「覇」という存在概念が慣行として現れた。

       先ず春秋時代初期に、鄭の荘公が「春秋の五覇」に先ずる「覇」

      として、「春秋の小覇」と称せられる。

       ☆ 荘公(姫寤生)の在位期間は、前743年~701年。

       次に前七世紀中頃、斉の桓公⑮(呂小白)が、

      「春秋五覇」の第一の覇者として産声を挙げる。 

       ※ この春秋五覇は誰か、書によって異同がある。 

       荀子はその著「荀子 覇王篇」で、五人の覇者を記す。

         初代覇者  斉   桓公⑯(呂小白)
     
         二代目   晋   文公㉒(姫重耳)

         三代目   楚   荘王㉓(羋旅)

         四代目   呉   闔閭(廬)王(姫光)㉔ 

         五代目   越   勾践王(娰勾践)⑤

       ※  二代目までは、どの書も同じであるが、三代目以後は、

         秦の穆公、宋の襄公、呉王夫差を挙げる。

          ただこの春秋五覇とか、春秋五大会戦とかは、

         後代の戦国時代に流行した陰陽五行説による比定と言われて

        おり、「五」という数字に特別な意味があるわけではない。

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(噬臍)

       「噬臍(ぜいせい)

                    ◇ 東周王朝 ◇

       「臍(ほぞ)を噛む」と訓読する。

       事が起こってから後悔しても及ばないこと。

       後悔することの例え。

       自分の腹の臍(へそ)を噛もうとして、

      どんなにもがいても口は届かないことから生まれた成語。

       ※ 日本では、「臍(ほぞ)を噛む(=噬)」という。

       南方の楚では、武王の後に文王⑲(武王の公子・熊貲)が即位した。

         ◇ 文王の在位期間 前689年~673年

       文公は稀にみる英傑で、周辺諸国を次々と討滅させ、楚を大国に

      のし上げる。

       文王の母方の叔父に、鄧の祁侯(きこう)がいた。

       魯の荘公六年(前688年)冬、文王が申を討伐し、帰国に際して、

      「鄧」を過った。

       文王の叔父の祁侯は、文王を

       「吾の甥だ」と言って、得意げに文王一行を留めてもてなした。

       ※ 祁侯の妹・鄧曼は、楚の文王の母であり、武王の賢夫人として

         知られた。

       だがその際に、祁侯の他の三人の甥、騅(すい)・聃(たん)・

      養が祁侯に、楚王殺害計画を持ち出したが、祁侯は許さなかった。 

       三人はそんな祁侯に言う、

       「鄧国を亡ぼす人は必ずこの人ならん。

        若し早く図らずんば、後に君 臍を噬まん。

        其れ之を図るに及ばんか。之を図らんとせば、之を時となす」と。

        (=将来この鄧国を亡ぼすのは、きっとこの人ですぞ。

          早く事を図っておかないと、行く行くは臍を噛むことになりま

         しょう。

          ですから、今のうちに決行しましょう。

          図るには今がその時ですぞ。)

        しかし祁侯は言った、

        「人 将に 吾が余りを食らわざらんとす」と。

        (=誰も吾の食べ残しを、食べなくなるだろうよ。)

         ☞ 甥(文王)殺しの汚名を蒙れば、祁侯が死んだ後には、

          その霊廟に祀られる供え物を食べてくれる者はいなくなる、

          の意。

        三人の甥たちは言う、

        「若し我々の意見を言聞き入れになりませんと、恐らく鄧国滅亡の

       後には、社稷の神にはお供え物は上がりますまい。

       何処で食べ残しをなさいますか」と。

        結局、祁侯は聞き入れることはなかった。

        ■ 楚王は無事に帰国したが、その年に鄧を討ち、それから十年後

         に再び、討伐して遂に鄧を亡ぼしてしまった。

                      「春秋左氏伝 荘公六年」 

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(城下之盟)

       「城下之盟(ちかい)

                 ◇ 東周王朝 ◇            

       敵軍に自国の領域内にまで攻め寄せられてから、

      降伏(或いは講和)の盟約を結ぶこと。

       交戦して自国軍の形勢が極めて不利な時に、優勢な敵国軍に和議

      を求めて、自国の城下において行われる甚だ屈辱的な講和条約の締結

      をすること。

       魯・桓公十二年(前700年)、楚の国が絞を討って、その南門に陣を

      張った。

       その時、楚の莫敖(ばくごう。楚の官職名)・屈瑕が謀略を

      進言した。

       「絞は小にして軽るし。軽ければ則ち謀 寡(少)し。

        請う、樵を采る者を扞(ふせ)ぐこと無くして、

       以て之を誘(いざな)わん」と。

        (=則ち、仮装させた薪取り人夫の部隊に護衛兵を付けずに入山

         させ、それを囮として敵軍をおびき寄せましょう。)

        ★ その間に手薄になるであろう敵城の北門に奇襲攻撃をかける

          という策謀。

        その謀略を実施したところ、はたして出動した絞軍は、楚の

       薪取り人夫の三十人を捕獲し、さらに翌日には大勢の兵を繰り出し

       て、山中で楚の役夫を追い回した。

        かくして楚軍は、手薄になった絞城の北門に奇襲攻撃をかけて

       城を制圧し、さらに山麓に伏せておいた楚の別働部隊が絞軍を大い

       に撃破した。

        ここにおいて絞は、楚に和議を請い、城下において誓いを為して

       還る。

                        「春秋左氏伝 桓公十二年」 

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(人は儘く夫なり、)

        「人は盡(ことごと)く夫なり、父は一(いつ)のみ」

                         ◇ 東周王朝 ◇

       人なら誰でも夫にすることが出来るが、父はこの世に一人しか

      いないもの。

       鄭の厲公⑤(姫突)は、昭公④(姫忽)の異母弟であったが、

      母の父が宋の正卿であったので、間接的に宋の力を借りて即位する

       という、裏の事情があった。

       厲公にとって、父以来の重臣である蔡仲は、

      一応は自分の即位に尽力してくれた恩人ではあった。

       だがその蔡仲がいつまでも政治の実権を握っていたので、

      今や目の上の瘤となっていた。

       厲公四年(前697年)、遂に蔡仲の娘婿である雍糺(ようきゅう。

      史記では雍丘)に命じて、蔡仲を暗殺させようと企み、蔡仲を郊外の

      饗宴に招こうとした。

       ところが、その秘密は雍糺の妻の雍姫(蔡仲の娘)に知られて

      しまった。

       夫を通じて知ったその秘密亊を、雍姫は実母に尋ねて言う、

       「父と夫、孰(いず)れか親しき」と。

        (=父と夫では、どちらが親しいのでしょうか。)

       すると母は言う、

       「人は盡(儘)く夫なり、父は一人のみ。

      胡(なん)ぞ比すべけんや」と。


       そこで雍姫は、父に事情を打ち明けてしまった。

       蔡仲は激怒して雍糺を殺し、死体を周氏の邸の池中に晒した。

       厲公はこの件には手も出せず、雍糺の死骸を車に乗せて周氏の邸

      を出た。

       そして曰く、

       「謀(はかりごと) 婦人に及ぶ。宣(うべ)なり、その死するや」

      と。

       (=謀を夫人に知らせるとは何事だ、殺されても仕方あるまい。)

      》 一国二君の鄭 《/span>

       厲公はその年の夏、櫟という地に行き、国都・新鄭を留守にした

      ので、蔡仲は衛に亡命していた厲公の異母兄昭公⑥(忽)を

      迎え入れて復位させた。

       その一方、厲公は櫟で自立して、宋の援助を仰いだので、ここに

      おいて、鄭は二君の並立状態となった。

            「春秋左氏伝 桓公十五年」・「史記 鄭世家」



     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(長を犯すことすら且つ之を憚る、)

       「長を犯すことすら且つ之を憚る、

       況や敢えて天子を凌ぐをや。」


                         ◇ 東周王朝 ◇

        君子と謂う者はどこまでも付け込んで、人を凌ごうとするものでは

       ない。ましてや天子を凌ぐことなど出来るものではない。

       春秋時代の初期、繻葛(じゅかつ)において、天子の擁する連合軍と

      戦い、之を撃ち負かした鄭の荘公の言葉。

       鄭の荘公はこれにより、威信を高めて「春秋の小覇」

      と称せられるようになる。

       ※ この時の天子は、東周王朝の桓王(姫林)であり、

        周王朝通算では第14代となる。在位は前720年~697年。

         鄭の荘公は、3代目の姫寤生。在位は前743年~701年。

         春秋の小覇とは、春秋の覇者第1号となる斉の桓公に先ずる、

        小さな覇者という意。

       》 繻葛の戦い 《   前707年

        鄭の荘公は桓王から執政の権を取り上げられていたので、

       以後入朝しなくなった。

        桓王は周王室の権威復興を目論んで、今を時めく鄭国制圧を

       目論んだ。

        桓王15年(前707年)秋、桓王は討伐軍を起こし諸侯に参集を

       命じた。

        虢(かく)・蔡・衛・陳が参集したが、天子は自ら連合軍を

       率いて、鄭の地にある繻葛で陣を構えた。 

        王朝連合軍は、天子が中央軍を率いて指揮し、

       虢公林父が右翼となり蔡・衛との連合軍を率い、

       周公黒肩が左翼を率いて陳との連合軍を率いることになった。

        一方 鄭では、子元が荘公に提言し、

        「吾が左翼を構えて蔡・衛に当たるので、君は右翼でもって陳に

       当るべし」、と。

        その理由と言うのは、

        「陳は内乱のために士気が落ちています。もし真っ先に陳を攻めれ

       ば必ず、腰砕けになって逃れるでしょう。

        そうなると天子の中軍も混乱し、右翼の蔡や衛の軍も、支えきれ

       ません。

        そこを狙ってわが軍が天子の軍に集中攻撃を懸ければ、事は成り

       ます」、と。

        荘公は、子元の戦略を採用した。

        大夫・曼伯が右翼となり、上卿・蔡仲が左翼となり、

       原繁・高渠弥が中軍を率いて君を守護した。

       「弥縫(びほう)

        つくろい縫うの意。

        隙間を一時的に取り繕うこと。

        その陣立ては

        魚鱗の陣を為し(円形の陣)、偏(戦車)を先にして

       伍(歩卒の五人編成)を後にし、伍 承けて弥縫す。


        (=兵車と兵車の間に歩卒を配備して、その間隙を繕う。)

          ※ 「偏」とは、本来は戦車二十五乗の部隊をいう。

            当時は戦車一乗につき、三十人の従卒(甲士十人、

           歩卒二十人)が付く。

            「伍」は従卒の軍団編成の最小単位。

       いざ戦端は開かれたが、手筈の通り鄭の右翼は、敵左翼陣の陳軍

      に対して、集中攻撃を仕掛けた。陳軍は予測通り脆くも敗走した。

       やがて敵右翼の蔡・衛連合軍も大混乱に陥り、潰走し始めた。

       かくして天子の指揮する中央軍も大混乱に陥り、

      そこを鄭の軍は総力を挙げて攻め立てた。

       この戦いで鄭の祝耼(しゅくたん)は、天子を弓で射て肩に命中

      させた。

       天子は負傷を負ったが、本陣を離脱せず、軍の立て直しを図り

      頑張った。

       祝耼は天子に追撃の兵を向けようとするが、荘公は之を止めさせ、

       「長を犯すことすら且つ之を憚る、況や敢えて天子を凌ぐをや」と

      言って、押し留めた。

       もともとは自衛のためにしたことであり、

       「社稷の安全が保てばそれでよし」と言い、

       蔡仲を使者として天子の陣中に差し向け、その容態を侍臣に伺わ

      せた。

       この戦いで、荘公はその名を天下に高めることとなった。

                       「春秋左氏伝 桓公五年」

       ■ 春秋時代もその初期には、戦争中の慣習として、互いに出陣した

        君侯を意図的に狙ったり、戦いを仕掛けることはなかった。 

         戦いを職業とする師将は未だ存在せず、卿大夫が総司令官と

        なった。

    テーマ : 中国古典・名言
    ジャンル : 学問・文化・芸術

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(目 逆えて之を送る)

       「目、逆(むか)えて之を送る」

                         ◇ 東周王朝 ◇

       男性が、通りすがりに美しい女性を見て心を奪われ、

      その艶やかな姿を凝視して、なおも去りゆく容姿を見送ること。

       魯の桓公元年(前710年)、宋の太宰・華父督(かほとく)が、

      大夫で司馬の孔父の妻を路上で見かけて、大いに心を奪われた。

       その時の有様を記すと、当に

       「目、逆えて之を送る。」

       曰く、

       「美にして艶なり」、と。

         ※ この孔父は、後の聖人・孔子の六世の祖であり、

          孔父嘉ともいう。

           太宰は、この時代の諸侯国の宰相。

           司馬は、軍事担当の長官職。

       その翌年の春、華父督は突然、孔父の屋敷を攻めて、孔父を殺し、

      その美しい妻を奪い取った。

       だが、君侯である好戦家の殤公⑬は、華父督の不義不道に

      激怒した。

       その殤公の意中を知るや、華父督は後難を懼れて、遂に君をも

      弑殺した。

       だが太宰として国政に関与していた立場上、人民に対して作為して

      喧伝した。

       曰く、

       「殤公 立ちて、十年に十一戦す。民 命に堪えず。

       孔父嘉 司馬たり、(華父)督 太宰たり」と。

       そして民の命に堪えざるに因るとして、先ず宣言して曰く、

       「司馬 則ち然らしむ」と。

        (=司馬の孔父が、このような戦争をさせたのだ。)

                    「春秋左氏伝 桓公二年」

        ☆ 「先ず其の君を弑す」 

         後世に至り、孔子は、

         「督を以て君を無(な)みするの心有りて、

         而る後に悪に動く、と為す。

         故に先ずその君を弑す」と書す。

         (=華父督は君の存在を蔑ろにする(無にする)心があったから

          こそ、そのような悪事を働くに至ったのだ。

           だからこそ孔父を殺す前に、先ずその君を弑したのだ。)

    テーマ : 慣用句・ことわざ・四字熟語辞典
    ジャンル : 学問・文化・芸術

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(夸父、日影を追う)

       「夸父(こほ)、日影(にちえい)を追う」

                          ◇ 東周王朝 ◇

       己の力量を計らずに、大事を企てること。

       夸父(神人の名)と言う者が己の力量を計らず、太陽と力比べ

      しようとして、太陽の影を追い求めて、隅谷(ぐうこく)という太陽の

      没する際まで、追いかけて行った。

       その途中で非常に喉が渇いてきたので、水を飲みたいと思い、黄河と

      渭水へ行き飲み干した。

       ところが黄河と渭水の水だけでは足りず、さらに走って行って、

      大沢の水を飲まんとしてたが、未だ目的地に至らずして、渇して

      死んでしまった。

       その屍体の傍らには杖が棄てられていたが、その杖が屍体の油に

      浸されて、化しては鄧林(橙の林)という林が生じた。

       鄧林はその広さ、数千里に弥(わた)る。

                      「列子 湯問」

       ☆ 「夸者は権に死す」

          栄誉を好む者は、権力を一生追い求めて止まない。

                      「史記 伯夷伝」 

     

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    Author:tyouseimaru
    出身地は四国八十八か所参りの発心の阿波、大阪を終の棲家とする。
    歴史好きで、城郭・神社仏閣・歴史遺跡巡りが趣味となる。
    歴史小説や時代小説を好み、往年の著名な時代小説の類は概ね完読と、自負している。

    自薦
    自著「中国通史で辿る名言・故事探訪」の 上・中・下の3巻を、 近い内に「電子書籍」での出版を予定しています。 今年一年間は、さらに工夫を加えるなどして、補記訂正などの校正を第一義としています。       
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