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    中国通史で辿る名言・故事探訪(首に畏れ尾に畏る)

       「首(こうべ)に畏(おそ)れ尾に畏る」

                          ◇ 東周王朝 ◇

        用心警戒するにも程があるということ。

        晋・霊公十一年(前610年)春、晋の荀林父、衛の孔達、陳の

       公孫寧、鄭の石楚らが宋を伐った。

        前年の冬十一月、宋の人がその君・昭公㉑を弑殺したので、

       連合国は、「君を弑したのは何故か」、と問責したのである。

       現君主である文公㉒(子鮑革)らを強く詰(なじ)りはした

      ものの、その更迭は図らず、遂にはその地位を認めて引き揚げた。

       その後 晋侯の霊公は、鄭伯(鄭の繆公⑪)とはしばし疎遠と

      なり、今度は鄭が楚に通じたのではないかと、危惧し出した。

       鄭の大夫・子家は、執訊(しつじん。外交文書に携わる官)に書を

      作らせ、晋の卿大夫・趙宣子(趙盾)に送って申し入れた。

       「我が主は即位三年目に蔡侯を誘い、共に晋の君に従おうと図り

      ました。

       その時は図らずも、我が国に騒動があって蔡侯に遅れはしましたが、

      挨拶に伺いました。

       また過ぎし日には、陳公の介添えをして楚からの離脱に奔走し、

      陳を晋に背かせないように骨折りいたしました。

       昨年五月には燭之武(しょくしぶ)を付き添いにして大子・夷を

      晋に伺候させ、八月には我が君が訪れました。

       陳や蔡が大国の楚に接しながらも、これに通ぜずにおりますのも、

      鄭の骨折りがあればこそなのです。

       かほど努めましたのに、なぜお咎めを戴くのでしょうか。

       今 大国が我々に、《お前はまだこちらの思い通りにならぬ》と

      お怒りならば、

      我々は滅びるのを覚悟するだけでございます。
       
       古人はかく申します。

       《首に畏れ尾に畏るれば、身は其れ、余す所 幾ばくぞ》と。 

        (=如何に用心するがよい言っても、首は首で怖い、尾は尾で怖い

         と言っていたならば、その他に体に余すところは無くなり、

         身の置き所は無くなるだろう。)

       また申しました、《鹿もその死声はあさまし》と。

       小国が大国に仕えますのに、大国から恩をかけられれば人間らしくも

      致しましょうが、かけられなければ見栄も外聞もなく、鹿にもなり

      ましょう。

       棒で追われ山路を逃げ回る鹿、その最後の悲鳴は浅ましいもの

      です。

       破(や)れ甲(かぶと)を全部並べ、国境の儵(しゅく。宿)で

      お待ち致します。よろしくお取次ぎください」、と記されていた。

       そこで、晋は鞏朔(きょうさく)を使者として出向かせ、鄭と盟を

      確かめ合い、趙穿(ちょうせん)と公聟池(こうせいち)が鄭の

      人質となり、鄭からは太子・夷と大夫・石楚が交換の人質となった。

                      「春秋左氏伝 文公十七年」

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(大器晩成)

       「大器晩成」

                         ◇ 東周王朝 ◇

       偉大な人物は大成するのに時間がかかり、早くからはその才知を示さ

      ないが、晩年になってから大成するものである。

       現在では大物と言われる人物は、晩年に成功する、というほどの意。

       上士は道を聞けば、勤めて之を行う。

       中士は道を聞けば、在るが若(ごと)く亡(な)きが若し。

       下士は道を聞けば、大いに之を笑う。

       笑わざれば、以て道を為すに足らず。

       (=優れた人物は、道のことを聞いたならば、懸命にそれを実行

        しようとする。

         普通の人となると、聞いても半信半疑である。

         取るに足りない人物が聞けば、大笑いする。

         だが、笑われないようでは、道というほどのものではない。)

       故に建言(格言)これ有り。

       以下 老子は、道、徳と物の本質についての所謂 逆説的論理を展開

      する。

       そして次の論理へ移行する。

       大器(たいき)は晩成し、大音(たいおん)は希声、

      大象(たいしょう)は形無し。


       (=偉大な器が仕上がるのは遅く、偉大な音はほとんど耳に

        聞こえず、偉大な形は形としては現れない。)

       道は隠れて名なし。夫れ唯だ道は、善く貸し且つ善く成す。

       (=道 それは現象の背後に潜んでいて、名付け様の無い

        ものなのだ。

         だがその道こそ、あらゆる事物に力を貸し与え、そして事物を

        成就させると言える。)

        晩成とは、成るのが遅いという意ではあるが、老子の真意は、

        逆説的にいつまでも完成しないのだ。

        その完成しないところに、大器としての特色があるとなす。

                      「老子 老子道徳経 第四十章」

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(三年 飛ばず、鳴かず)

       「三年 飛ばず、鳴かず」

                          ◇ 東周王朝◇

        将来を期して、隠忍自重して力を蓄え、雄飛に備えること。

        現在では、長い間 何もせずに活躍できないことを言う。

        楚の荘王(熊侶)㉓は即位して以来、号令(勅令)を出さず、

       日夜 安逸に更け、挙句の果てに、国中に令して曰く、

       「敢えて諌める者あらば死し、赦すなからん」と布告した。

       そしてその日より以来、三年間 政務を顧みないで酒と女に明け

      暮れた。

       三年が経った。

       右司馬の伍挙は、国の将来を憂いて敢えて君に目通りを願い出た。

       荘王は左手に北方の鄭の姫を抱き、右手に越の女を抱きかかえて、

      鉦鼓(鉦と太鼓)の奏でる間に坐して彼を引見した。

       伍挙は、

       「願わくば、【隠(いん)】を進むるあらん」と言って、

      謎かけをした。

        ※ 隠とは隠語で、「謎々遊び」であり、「迷語」ともいう。

       「鳥ありて南方の丘に止まる。

       三年 翅(し。)せず、飛ばず、鳴かず、

      嘿然(もくぜん)として声 無し。

       此れ何の名と為す
    」と。

       (=鳥が南の丘にいて、三年間 羽ばたきもしなければ、飛ぶことも

        鳴くこともしない。全く押し黙って、声も立てない。

         一体 これは何という鳥でしょうか。)

       荘王曰く、

       「三年 翅せず、将に以て羽翼を長ぜしめん。

        飛ばず、鳴かず、将に以て民情を見るなり。

        飛ぶ無きと雖も、飛べば必ず天に沖(ちゅう)せん。

          ☞ 天に沖す(沖天)とは、高く上がること。

        鳴く無きと雖も、鳴けば必ず人を驚かさん。

        子(なんじ) 之を釈(お)け。不穀は之を知らんや」と。

          ☞ 不穀とは貴人の自称。

        荘王はそうは言っても、尚 数カ月は態度を改めなかった。

        次に忠臣の蘇従(そしょう)が、罷り出て諫言しようとした。

        荘王は、「子 令を聞かざるか」と激怒した。

        だが蘇従は、

        「身を殺して以て君を明にするは、臣の願いなり」と詰め寄った。

        荘王は、この時を限りに逸楽を止め、群臣を招集した。

        即ち、先王の喪が明けたのである。

        荘王は、この三年間に及ぶ臣下の動向の把握に基づき、

        勤勉・怠惰、正・不正、帰順の様子、権勢欲などを的確に評価し、

       処分すべきは処分して、有能な人材を多く任用した。

        誅した者は数百人、任用した者も数百人に及んだ。

        そして伍挙や蘇従を抜擢し、国政に参与させた。

        この人事刷新は、国中の国人を喜ばせた。

                       「史記 楚世家」

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(夏日可畏)

      「夏日可畏(かじつかい)

                         ◇ 東周王朝 ◇

       近寄りがたい威厳のある人柄。

       夏の太陽は炎熱が強いので、日中は恐るべしというのが原意。

       晋の文公の股肱の臣で、大功臣となった趙衰(ちょうし)の子を趙盾

      と云う。

       趙盾は襄公㉓に仕えて、初めて卿大夫(執政)となった。

       趙盾は時宜に適さなくなった法令を改廃し、獄を定めてよく検察し、

      また賢才を発掘して、国政をよく糺した。

       だが襄公の崩じた後は、ややもすると独断専行するようになった。

       晋・霊公㉔元年(前620年)、魯では文公七年のこと、

      狄が魯の西境を侵した。

       文公が晋に訴えると、晋の趙盾は賈季(かき。別氏で狐射姑とも)

      に命じて、鄷舒(ほうじょ)の指揮する狄を攻めさせた。

       この時 鄷舒は、賈季に趙衰と趙盾の親子の人物像について聞きに

      来た。

       賈季は応えて、

       「父の趙衰は、【冬日 愛す可(べ)】、

        子の趙盾は、【夏日 畏(おそ)る可し】」、と。

        (=父の 趙衰は冬の太陽のように暖かみがあるが、

          子の 趙盾は夏の太陽のような激しさがある。)

                    「春秋左氏伝 文公七年」の杜預の注

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(怨み骨髄に入る)

       「怨み骨髄に入る」

                         ◇ 東周王朝 ◇

        深く怨みに思うこと。

        晋・文公九年(前628年)冬十二月癸卯(十六日)、

       文公 ㉒が崩じた。

        同年 子の歓が即位したが、この襄公㉓は父に劣らぬ英傑で

       あったと言われる。

        翌年 夏四月、秦の穆公は大夫の百里奚や蹇叔の諌めるのも

       聞かず、鄭を攻略すべく百里孟明・西乞術・白乙丙を将にして大軍を

       発した。

        遠征軍は途中、滑という小国に到着したが、その時 鄭の商人弦高

       に籠絡されて、鄭侵攻の情報がいち早く鄭に急報され、致命的な

       戦略上の齟齬が生じた。

        鄭の抗戦準備の情報に接し、百里孟明は、鄭に備えあれば、

       自軍の兵站補給が追い付かず、遠征軍にとって苦戦は免れないと

      して、全軍を引き揚げようとした。

        だが折角 大軍を動員して来たのだから、せめて晋の属国の滑を

       攻略してから、引き揚げようということに決した。

      》 晋・襄公の墨染めの出撃 《

        晋では、秦に対する対応に苦慮した。

        中軍の将・先軫(せんしん)と下軍の将・欒枝(らんし)の論争

       があったが、襄公は先軫の所見に従って開戦を決定した。

        先軫の所見とは、

        「秦 吾が喪を悲しまずして、我が同姓を討つは、

       秦乃ち無礼なり。


         ※ 喪とは、この時は、未だ文公の服喪中であった。

           同姓とは、滑は姫姓であり、晋とは宗室を同じくする。

       どうして昔は恩義を施しておきながら、今回はこの無礼を為すや。

        私はこのように聞く、

        【一日敵を縦(ゆる)せば、数世の患なり】と。 

        秦の無礼は、謀を子孫に及ぼさんとするのだから、戦闘を交えても

       先君を辱める事にはならない」と。

        襄公は、それまで身に着けていた白い喪服を黒く染め替えて

       腰には白帯を締めて出陣した。

        夏四月、晋軍は殽山(こうざん)の谷間で待ち伏せして、

       完膚なきまで晋軍を撃破し、敵将・百里孟明、西乞術、白乙丙の

       三人を生け捕りにして凱旋した。

        凱旋後、襄公は白い喪服を墨染めにしたままで、改めて文公を

       葬った。

        ★ 白い喪服を墨染めにした理由は、喪中を中断すという意も

         あるが、当時は戦いで敗北すれば、国君は白い喪服を着用して

         降伏するという不文律があったので、それを忌み嫌ったとする説

         もある。

          晋で喪服が黒色になるのは、この時からである。

          また順次、各国共に喪服は黒色に変わっていく。

      《襄公の母の嘆き》

        晋の襄公の母は、秦の穆公の娘であった。

        秦の三将が捕虜となったと聞くや、襄公の下にやって来て、

        「穆公のこの三人を怨むこと骨髄に入る。

         願わくば、この三人を帰らしめ、我が君をして

        自ら快(はや)くこれを烹(に)ることを

        得せしめよ」
    と。

        (=父は、命に背いて負け戦をして、秦の恥を晒した三人の将を、

         深く怨みに思っているはずです。

          だからこの際、三将を秦に帰国させ、父がさっさと処分を
     
         出来るようにして下さい。)

        この母の願いに納得した襄公は、三将を帰国させた。 

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(理に法あり)

       「理に法あり」

                         ◇ 東周王朝 ◇

        物事を糺(ただ)すには、裁く者としての当然守るべき規則が

       ある。

        人を裁いたり、事物紛争を治める者にも、それなりの規則がある

       という意。

        ☞ 理は、裁く、治めるの意。

       ある時、李離は部下の杜撰な審理を信用してしまい、無実の者を死刑

      にしてしまった。

       後にそれが過誤に拠るものと分かり、彼は潔く獄に就き自分を死刑に

      するよう上訴して願い出た。

       文公は李離を呼び出し、

       「責任は職分に応じて違うはずだ。今度の場合は部下の責任であり、

      お前には責任はない」と教示した。

       しかし李離は、

       「私は長として、権限を部下に委譲したつもりはございません。

       また、それ相応の俸禄を戴いておりますが、部下に分け与えたりして

      おりません。

       どうして誤審の責任だけを部下に、なすり付けることが出来ましょう

      か」と。

       文公は言う、

       「お前が自分に罪があると云うなら、お前を任じたこの私にも罪が

      あるのではないか」と。

       李離対えて曰く、

       「いえ、理に法ありと申します。司法の仕事には、それなりの規律が

      ございます。

       間違って刑罰を加えた場合、自分もそれと同じ刑罰を受け、間違って

      死刑に処した場合は、同じく死刑に服さねばなりません。

       我が君には、如何なる事件も正しく審理できるとお考えになって、

      この私を長官にお命じなさったのです。

       そのご期待に反する誤審を致しました以上は、私の罪は死刑に

      相当します」と。

       李離は王の命に服さず、我が命を絶った。

                     「史記 偱理列伝」 

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(三罪して民 服せり)

       「三罪して民 服せり」

                        ◇ 東周王朝 ◇

       七月、晋軍は本国に凱旋し、戦利品を祖廟に供え、全兵士の論功

      行賞を行った。

       その際、この度の戦いで軍律を乱した三人を処罰した。

       股肱の臣である魏武子と顚頡は、文公の曹の釐負覊に対する手厚い

      保護に楯突き、保護を命じたにもかかわらず、その屋敷を焼打ち

      にした。

       この違反に対して、文公は二人も処刑するに忍びず、

      魏武子は赦し、顚頡は処刑にした。

       その他、大将旗を失った旗手の欺瞞(ぎまん)、黄河から勝手に

      帰還した文公の車右・舟之僑(しゅうしきょう)が処刑された。

       君子(時の識者)曰く、

       「文公 其れ能く刑せり。三罪して民 服せり。

        詩に云う、「この中国を恵み、以て四方を綏(やす)んず」とは、

       刑賞を失わざるを謂うなり」と。

       論功行賞では、文公は弧偃を功労の筆頭に挙げた。

       それに対して、ある者曰く、

       「城濮のことは、先軫の謀なり」と。

       文公は言う、

       「城濮のことは、偃 我に信を失う勿れと説く。

        然るに、先軫 軍事は勝を右(最重要)となす、と。

       我 之を用いて、以て勝つ。

        然れども此れ一時の説にて、偃の言は万世の功なり。

        如何ぞ、一時の利を以て万世の功に加えんや。

        是を以て、之(万世の功)を先となす」と。

                     「春秋左氏伝 僖公二十八年」

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(偽装信義)

       「戦略を秘めた偽装信義」


               東周王朝                

       魯・僖公二十七年(前633年)、晋の文公四年の暮れ、

      楚は陳・蔡・鄭・許の同盟軍を率いて、宋へ攻略をかけ、国都・商丘を

     包囲した。

       窮した宋は、晋に救援を要請した。

       この要請に、晋の文公㉒は苦慮し、決定を下しかねていた。

       文公は重耳時代の流浪中、宋では襄公⑱からは暖かい恩義を承け

      たし、楚の成王㉑からも手厚い保護を受けるなどして、それぞれに

      大恩があった。

       干戈は交えたくはなかったが、楚王に宋寇略の撤退を申し入れ

      しても、聞き入れられるはずもなく、また早急に宋都へ軍を派遣すれ

      ば、楚の同盟国の衛と曹に側面を衝かれる恐れもあった。

       文公は、臣下からの進言を待った。

       先軫(せんしん)は言う、

       「宋の難局を救って、宋公の恩義に報いると同時に、諸国に我が国

      の力を示し、以て天下に覇を唱える好機かと存じます」と。

       弧偃(こえん)は言う、

       「楚の同盟国の衛と曹を攻撃すれば、楚な何をおいても、この二国

      の救援に向かうはずです。

       こうなれば、占めたものです。宋はもちろん、予てから楚に脅かされ

      ている斉も、危急から逃れることが出来ましょう」と。

       文公は進言により、出兵を決断した。

       晋軍は十二月には、太行山の東部一帯を攻略した。

      「謀略戦」

       晋は今後の戦略上、どうしても斉と秦の協力が必要であった。

       戦略会議の席上で先軫は、

       「宋の救援を一応形式的に断わっておけば、宋は直ちに斉と秦に

      和平工作を働きかけるでしょう。

       然る後に、直ちに楚との関係の深い衛と曹を攻略し、接収した領地

      を宋に与える策を取ります。

       楚にしてみれば、衛と曹は親密な同盟国であり、斉・秦の調停に

      応じるはずがありません。

       斉、秦にしてみれば、拒否されれば国のメンツが潰され否応なく

      吾らに協力してくれるでしょう。

       かくして、年が明けた春、文公は本格的に曹を討ち、五鹿の地

      占領した。

         ◆ 五鹿の地

           かつて重耳主従が流浪中、曹の国で食糧に窮した時、

          地の者に食料を懇願したが、食料の代わりに土饅頭を

          贈られたという屈辱の地。

       二月になると、衛に侵攻し、この地で斉の昭公⑲と会盟した。

       この会盟に、衛の成公も参加を申し出たが、文公に拒絶され、国人層

      の支持も得られず、一時 隠棲の憂き目を見た。

       その後 晋軍は曹攻略戦ではかなりの損害を出したが、三月には城門

      を攻略し、曹の文公⑩を捕えた。

       「文公、反璧の恩を返す」文字色

        この戦いで、文公は曹の大夫・釐負覊(きふき)に受けた恩義に

       報いた。

       》 城濮の戦い   開戦 《

       その後、楚と宋の紛争が再燃した。

       晋は予てからの手筈通り、衛と曹の領地を宋に与えた。

       その事を知った楚の成王は、激怒して斉・秦の和平の仲介を一蹴

      してしまった。

       ここに於いて、晋の思惑通り、晋・秦・斉・宋の同盟が為った。

       楚の成王は、その同盟の為ったことを知り、止むを得ず宋都の包囲

      を解き、自ら指揮する遠征軍を引き揚げ、宋の奥深くまで転戦中の

      総司令官・子玉に、決戦を避けて、撤退せよと命じた。 

       だが子玉は、「吾、必ずしも功有らんとするに非ざるなり

      と言って、

      戦闘継続の許しを請いつつ、独断で決戦に臨んだ。

       決戦に先立ち、成王の率いる主力軍が撤退したので、子玉は戦力的

      に手薄な状況となったので、晋軍に軍使・苑春を遣り、停戦の条件を

      通告させた。

       「請う、衛侯を復して曹を封ぜよ。

        臣も亦 宋の囲み繹(解)かん
    」と。

       (=願うところは、先ず衛侯の身柄を衛に帰し、曹の領土を元に

        戻すべし。さすれば吾も同様に宋の包囲を解き撤退しよう。)

       この子玉からの停戦条件に付いて弧偃は、

       「子玉は礼無し。

       (文公)は一を取るに、臣(楚王の臣)にして二を取る。

      許す勿れ」と、反対した。《戦略なき信義》 

       また先軫は言う、

       「人を定める、之を礼という。

       楚は一言にして三国を定め、子(弧偃)は一言にして之を亡ぼす

      は、我 則ち礼無し。

       (=人の地位を安泰に保つことが、礼というもの。

         楚は一言にして三国(衛・曹と間接的に宋を含む)を定め、

        子反あなたは、一言にしてこれを亡ぼすことになり、我ら晋が則ち

        礼無しとなります。)

       楚に許さざるは、是れ宋を棄つるなり。

       (=楚の無礼な要求を斥ければ、宋を棄てることになります。)

        そこで、とりあえずは楚の申し出を受け入れるが如く見せかけて

        おき、密かに曹と衛には恩を着せて誘降し、一方では楚の軍使・

        苑春を捕縛して楚を怒らせて、無理にでも戦争に巻き込むに

        越したことはありません。

      《戦略を秘めた偽装信義

        結局、先軫の進言が容れられ、楚の軍使はそのまま拘束し、

       子玉に知らせることなく、隠密裏に曹と衛を旧に復した。

        その為、両国は楚との同盟を破棄してしまった。
      
      晋軍、「三舎を避く。

       これを知った子玉は烈火のごとく怒り、晋軍に迫った。

       だが晋の文公は、立ち向かわず、軍を大きく三舎 後退させた。

       ※ 文公は、楚の成王との盟いを実行して、借りた恩義に報いた

        のである。

         三舎は、約九十里。当時の一里は405m。 

       》 決戦 《

       四月戊申(五日)、晋の四ヶ国連合軍は衛の地の城濮

      (じょうぼく)で、子玉の率いる楚の連合軍と対峙した。

       楚は、中軍は子玉が総指揮官、右軍は同盟国の陳・蔡軍を編入し

      子上(闘勃)が将となり、左軍は子西(闘宜申)が将となった。

       翌日、先ず晋の下軍の副将胥臣(司空季子)が精鋭部隊を

      率いて、楚の右翼の陳・蔡軍を急襲すると、楚の右翼はたちまち

      総崩れとなった。

       しかし子玉は意に介せず、三軍を並行して出撃させ、晋軍と真っ向

      から激突した。

       楚軍は成王の主力軍が撤退したが、それでも数においては晋の

      連合軍を凌駕していたので、次第に晋軍は押し返されるようになった。

       ここで、晋の狐毛(弧偃の兄)を将とする上軍と欒子(欒枝)

      を将とする下軍が、粉じんを蹴上げて敗北を装い後退した。

       ここを勝機と見た楚軍は、全軍を挙げて追撃態勢に入った。

       ところが晋の中軍は自陣に踏み留まり、楚の猛攻によく耐えて陣を

      死守した。

       機を窺っていた晋の上軍と下軍は、急ぎ兵車や歩兵の向きを反転

      させ、二手に分かれて楚の両翼を挟撃した。

       事ここに至り、子玉の率いる中軍のみ辛うじて持ちこたえていたが、

      敗北は既に決していたので、子玉は兵を収めて戦線から離脱した。

       ■ 城濮の戦いは、春秋の五大会戦とはいえ、たった一日の

        決戦で決着がついたというあっけない幕切れである。

         主戦場となった城濮は、黄河の氾濫地帯に広がってできた

        大地であり、当に戦車戦に適した戦場であった。

         この戦いに動員された戦車は、晋軍は七百乗を、楚軍はそれ

        以上で以って戦ったとされるが、結果的には晋軍の戦車運用の練度

        と全軍の指揮能力の差が勝敗を決したとされる。

           「春秋左氏伝 僖公二十七・二十八年」

           「史記 晋世家」



     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(寗武子の愚)

       「寗武子(ねいぶし)の愚」
                           
                         ◇ 東周王朝 ◇ 

       春秋時代の弱小国・衛では、衛・文公二十五年(前635年)に、

      文公が 崩じ、その子・鄭が即位した。これが成公㉒である。

       当時の国際状況は、晋と楚の強国が弱小国の衛を挟んで、圧迫して

      いた。

       衛にとっては、その舵取りを間違えば、亡国の運命に晒されるという

      危機的状況にあった。

       成公即位の翌年、晋(文公㉒)と楚(成王㉑)で覇権をかけた大会戦
     
      が勃発した。

       当時の衛は、先代・文公に引き続き、楚を与国(同盟国)として晋

      に立ち向かた。

       だが戦端が開かれるや、晋は謀略を巡らして衛の国人層を

      取り込んだ。

       則ち晋に先制攻撃されて亡国の運命に晒された衛の国人層が、

      晋から、国を復する条件として衛君を追放をせよとの条件を呑まされた

      のである。

       成公は内外に圧迫されて、遂に一時的ではあるが楚に難を避けた。

       その後 この覇権をかけた晋楚の会戦は、晋の勝利に帰した。

       この会戦は、春秋の五大会戦と言われる「城濮の戦い」である。

       この戦いはまた、晋の文公を覇者と認めさせる一大契機でもあた。

       その後、成公は晋に赦され、衛に帰還した。

       成公の帰国後、成公に随行して国外にいた賢大夫の寗武子

      (ねいぶし)は、衛の国人らと苑濮で盟(誓)を為した。

       その盟に曰く、

       「天、衛国に禍し、君臣協(かな)わず、以て此の憂いに及べり。

       (=天が衛国に禍を降されたので、君臣は和合せず、このような

        憂患に陥ったのだ。)

       今 天その衷(まこと)を誘(いざな)い、皆 心を降して以て

      相従わしむるなり。


       (=だが今や、天のお蔭で君臣共に衷心を取り戻し、それぞれ

        の立場を越えて和協するようになった。)

       居る者有らずんば、誰か社稷を守らん。

       行く者有らずんば、誰か牧圉を守らん。


       (=国元に残留する者がいなかったら、誰が国家の祀りを守らんや。

         君に随行する者がいなかったら、誰が君の身辺を守ることが

        出来ようか。)

         ☞ 牧圉(ぼくぎょ)とは、牛馬を飼育する者。

           ここでは、君の車馬を管理する者の意で、君の身辺警護

          を言う。

       不協の故に、以て明らかに盟を大神(たいしん)に乞いて、

      以て天衷を啓(ひら)く。

       (=和協しなかった経緯もあるので、ここに大神に誓いを

        立てて、天の示す誠のお導きをお願いしよう。)
       

       今日より以往、既に盟うの後 行く者は其の力を保つこと無く、

      居る者は其の罪を懼れること無かれ。

       (=今日より後は、盟を交わした後、君に随行した者はその

        功労を誇ること無く、国に残留して祀りを守った者も

        君に従わなかったという罪を畏れること無かれ。)

       この盟に背く者有れば、禍 たちどころ降って、明神、先君、

      之に誅罰を加えられん」と。

       衛の国人は皆 この誓を聞いて、ようやく誰に就くべきか、

      就かざるべきかと苦衷したり、疑心暗鬼の思いを持たなくなった。

                      「春秋左氏伝 僖公二十八年」

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(貪天の功)

       「貪天(たんてん)の功」

                        ◇ 東周王朝 ◇

       他人の功を自分のものとしたり、盗むこと。

       天の意に背き、その功績を貪るの意。

       晋の文公が即位してから、臣下の論功行賞を行った。

       長い十九年におよぶ亡命と流浪を共にした弧偃(舅犯)・ 趙衰・

      顚頡・魏犨(魏武子)・胥臣(司空季子)らを賞した後、多くの者が

      栄誉に輝いた。

       文公はそれでも尚 賞に漏れた者は申告するよう布告した。

       文公の長い流浪中に食料が途絶した際、自分の股の身を割いて

      までして主に食させたと言われる忠臣の介子推は、この時は病で

      野に下っていた。

       だがその余りの貧しさを目のあたりにして、介子推の従者であった者

      が、行賞の申告をするように言った。

       介子推は言う、

       「私は何かが欲しくて忠義を尽くしたのではない。

        王は兄弟で最も賢明な人であったので、帰国して王になるのは

       当然のことで誰の功績でもない。

        それなのに、自分の手柄のように振舞うのは見苦しい。

        主君に対して、貪天の功を競うのは盗みよりも恥ずべき行為だ」

       と。 

        この介子推の従者が、晋の都の宮門に、「謎かけの書」を掲げた。

                       「十八史略 春秋戦国・晋」 

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(君命に二無きは、古の制なり)

       「君命に二無きは、古の制なり、

       君の悪を除くは、ただ力これを視る」

                          ◇ 東周王朝 ◇

       君命の絶対服従は、古来からの臣下の道であり、

      君が悪とするところの者を除くのは、命を受ければ全力を尽くすだけ

     のこと。 

     》 重耳の即位 《

       晋では懐公が即位したが、父の恵公の悪評をそのまま受け継ぐことに

      なり、次第に民や臣下の人心を失ってゆく。

       そして国内には秦に寄寓する重耳を慕う者が多く、大夫の郤縠(穀)

      や欒枝が重耳に密かに逢って、帰国を要請した。

       さらに秦の穆公の力強い後援もあって、重耳は遂に帰国を決意した。

       時に重耳は、既に六十二歳になっていた。

       秦の軍隊に守られた重耳は、黄河を渡り晋の領土に入ると、入国を

      阻止する反重耳の軍勢と小競り合いはあったが、秦の穆公のお声掛か

      りもあって、重耳の代理として子犯(舅犯)、それに秦と晋の大夫の

      三者会談が開かれた。

       会談の結果、重耳は晋軍に迎え入れられることになり、

      四日後 曲沃に入城した。 

       そして翌日には国都・絳に至り、祖廟に参拝を済ませた。

       前636年、ここに於いて重耳は改めて即位した。

       諡号は(第二十二代)文公である。

       さらにその翌日、高陵に軍を進めて、逃亡中の懐公を滅ぼした。

      ▲  刺客・寺人披(ひ)

         文公・重耳が亡命中、晋に留まり重職に就いていた大夫の

        呂甥(りょせい。史記では呂省)と郤芮(げきぜい)は、

        重耳の即位により、その処罰を恐れて文公暗殺計画を巡らした。

         ところが、その暗殺の陰謀を通報したのは、文公が重耳と言われ

        た時代に、その亡命先に何度となく重耳を追い回していた寺人

        (じにん。宦官)の披(史記では履鞮)であった。

         そのような経緯もあって、文公は取次の者にその理由を挙げて、

        謁見拒否の命を伝えさせた。

         寺人披はその取次の者に伝えて曰く、

        「臣 思えらく、君の入るや、それ之を知れりと。

         もし未だしならば、また将に難に及ばんとする。


         (=君は長い間ご苦労を重ねられた末、君主となられたので、

          既に私のしたことも十分ご理解して戴けたものと思っており

          ました。

           若し未だそうではないとしたならば、再び将来の御難が安じ

          られます。)

         君命に二 無きは、古の制なり。

         君の悪を除くは、唯 力これを視る。


         かつて斉の管仲は、桓公の命を狙った大罪人であったのに、

        その才を惜しみ宰相にまで取り立てました。

         我が君が桓公とは違う方針ならば、言われるまでもなく晋を去り

        ましょう。

         そうなれば、晋を去る者は刑臣(自分を卑下して)だけではない

        でしょう」と。

         その意を尽くした釈明に、遂に文公も彼の目通りを許した。

         その席で文公は事前に暗殺計画を知る事になり、これに対処

        する為、密かに秦の穆公に会い、その援助を要請した。

         三月の晦日、郤芮らは計画通り反乱を起こして、宮殿に火を

        放った。

         だが文公を探し求めても発見に至らず、慌てて黄河方面に逃走

        を図ったが、そこで手筈通り、秦の穆公は彼らおおびき寄せて誅殺

        してしまった。

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(策名委質)

       「策名委質」

                          ◇ 東周王朝 ◇

       臣籍簿に名を記し、死を以て忠節を尽くすという覚悟を示した慣例。

       名を記し質に置くの意。

       古にあっては、初めて君に仕える時 自分の名を、

      臣下の名を書き連ねる名簿に記し(策し)、君のためには節に死す、

      という飾り気の無い覚悟(本来の姿、乃ち生地)を示す意味から、

      死んだ雉(雉)を礼物として献じた。

       この雉は、直接献上されるのではなく宮庭に置く(委く)習わし

      であった。

       晋では恵公の没後(前637年)、秦で人質となっていた恵公の

      大子・圉が、秦王に無断で密かに帰国して即位した。

       これが懐公㉑である。

       懐公は即位すると直ちに下命した。

       「亡人に従う事勿れ。朞(期)して至らずんば、赦す事

       なからん」と。

       (=他国亡命している者《伯父の重耳のこと》 には従うな。

         指定の期日までに帰って来ない者は赦さないぞ。)

      ★ 弧偃の父の死

        重耳の股肱の腹心・弧偃の父・孤突は、晋の国内に残留していた。

        この孤突には毛・偃という二人の子がいたが、

       二人とも今は秦に寄寓している重耳に随従していた。

        孤突は懐公の下命にも拘らず、命に背いて彼らを呼び

       戻さなかった。

        冬になると懐公は、孤突を捕えて、

        「子 来たらば、則ち赦さん」と、命じた。

        孤突は対えて、

        「子の能く仕うれば、父、之に忠を教うるは、古の制なり。

        (=子が成長して仕官する歳になれば、父が子に忠を教える

         のは昔からの定めです。)

        名を策し質を委して、貳(弐)あるは乃ち辟(邪悪)なり。 

        (=臣籍簿に己の名を記し礼物を献じて仕官したからには、

         君に二心を持つことは赦されない事なのです。)

        今や私の子は、公子・重耳様の臣下として名を連ねてから、

       既に久しいのです。

        然るにその子を呼び戻して、君に仕えさせれば、これ二心を

       勧めるようなものとなります 

        父 子に貳(二心)を教うれば、何を以て君に仕えん。

        刑の濫り(乱れ)ならざるは君の明なり、臣の願いなり。 

        刑の濫りにして以て、逞(たくまし)くせんとせば誰か則ち罪

       なからん。 

        (=刑罰を乱用して自分勝手な事をするならば、罪の無い者など

         いないでしょう。) 

        臣  命を聞けり」と。

        懐公は孤突の釈明を聞いても、無情にも彼を殺してしまった。

                      「春秋左氏伝 僖公二十三年」

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(宋襄の仁)

        「宋襄の仁(そうじょうのじん)

                         ◇ 東周王朝 ◇

        婦人の仁に例える。

        敵に無用の情けをかけ、その結果 時宜に応じた適切な判断が

       出来ず、不利益を受ける愚か者の人徳を云う 。 
     
        春秋時代の宋の襄公⑱(子茲甫)が示した「仁」、即ち 

       思い遣りを言う。

     》 泓(おう)の戦い 《

        魯・僖公二十一年(前639年)春、宋の襄公は強国の楚を牽制

       するため、斉・楚と鹿上において盟を為した。

        そしてその秋、襄公は諸侯と宋の盂(う)において念願の会盟を

       した。

        ところが翌年三月、鄭の文公⑩が楚を訪問し、友好を修めた

       のである。

        これは先に盂での会盟に加わった鄭の、宋に対する背信行為でも

       あった。

        鄭国が宋の体面を損ねたとの理由で、襄公は大司馬の子魚が

       諌めるのも聞かず、衛・許・滕(とう)の軍を率いて鄭国を

       討とうとした。

        鄭の文公は楚王に救援を要請した。

        秋になると、楚の成王㉑は鄭救援の軍を繰り出し、

       国境の泓水(おうすい)の畔に軍を進めた。

        そして冬十一月、宋軍は楚軍と泓水で相見えることになった。

        宋軍は既に陣形を敷き終えていたが、楚軍は布陣はおろか、

       軍の大半は未だ渡河を終えていなかった。


        大司馬・魚曰く、

        「彼は衆(おお)く、我は寡(すく)なし。

        その未だ既(ことごと)くは済(わた)らざるに及び、

       請う、之を撃たん」と。

        (=敵は大軍、わが軍は弱小。だが敵の大軍は、

         まだほとんど渡河していないので、之を攻撃させてください。)

       だが、襄公は、「不可なり」と。

       そのうち楚軍は全軍が渡河を終えたが、未だ布陣は完了して

       いなかった。


       子魚は再度 即刻攻撃するよう進言したが、

       襄公は、「未だ可ならず」と。

       そして、楚軍の布陣が完了してから、ようやく襄公は開戦を命じた。

       戦いの結課は言わずと知れたことで、襄公自身は矢傷を負い、

      襄公の身辺の門官(護衛兵)は悉く戦い果ててしまった。

                     「春秋左氏伝 僖公二十二年」

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(尸蟲 戸より出ず)

       「尸蟲(しちゅう)、戸(こ)より出ず」

                         ◇ 東周王朝 ◇

        遺体にわいた蛆虫が、部屋の外まで這い出して来るという状況。

     》 斉の覇者・桓公⑯死す 《

        桓公には三人の夫人がいたが子は無く、その他数知れず愛妾が

       いたが、その中で夫人同様の待遇を受けていた者が六人いた。

        ※ 夫人と名のつく者は本来は一人であるが、複数いるという

          ことは、それだけ世の中が乱れていた証拠でもある。

        長衛姫は無詭⑰を、少衛姫は元(後の恵公㉒)を、

        鄭姫が昭(後の孝公⑱)を、葛嬴が潘(後の昭公⑲)を、

        密姫が商人(懿公㉑)を、宋華子が雍を産んでいた。

        ※ 斉君舎⑳という公子が即位したが、前613年に 若くして

         夭折した。

        桓公は生前、管仲と相談して、鄭姫の子・昭を、大子に立て、

       宋の襄公⑱にその後見を頼んでいた。

        ところが、管仲の死後、長衛姫お気に入りの易牙が、宦官の

       豎刁(じゅちょう)を通じて桓公に取り入り、料理人としても桓公に

       気に入られるようになった。

        遂には、桓公に無詭を大子に立てる内諾を取り付けた。

        このように桓公の生前から舞台裏の後継者争いは激烈であったが、

       斉・桓公四十三年(前643年)冬の十月、桓公は崩じた。

        それを契機として、後継者争いは一気に表面化した。

        宋華子の産んだ公子雍を除き、他の五人の公子はそれぞれ党を

       組んで、互いに武力抗争を起こして勢力争いに狂奔した。

        「その為、宮中は以て空しく、敢えて棺する者 莫し。 

        桓公の尸、牀(しょう。床)上に在ること六十七日、

       尸蟲 戸より出ず」と。


        (=もはや宮殿には誰も出仕せず、桓公の遺体を納棺する者は

         いなかった。

          かくして桓公の遺体は、六十七日間も置き去りにされ、

         ウジ虫が寝室の戸から這い出るあり様であった。) 

                      「史記 斉太公世家」

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(辟君三舎)

       「辟君三舎(へきくんさんしゃ)

                         ◇ 東周王朝 ◇

       相手に一目置くことの例え。

       先陣にあって、其の君(敵国の)を避けること三舎の意。

       ☞ 舎とは、軍旅(軍隊)の一日の行程における宿営をいう。

         一舎の行軍距離は三十里である。

         当時の一里は、405メートル。

       晋の重耳が、楚の成王の世話になった時に約束した誓いである。

       重耳主従が楚に至った時、楚の成王は盛大な宴席を張り手厚く

      もてなした。

       その席上で、成王は重耳に耳打ちした。

       「子(あなた)、即(も)し国に反らば、何を以てか

      寡人に報いん」と。

       ※ 今後 重耳が帰国して即位するようなことがあれば、

         どんなお返しがあるかの意。 

       重耳は、

        「羽毛、歯角(象牙・犀の角)、玉帛(珠玉・絹)の類は、

      楚では有り余っている物ばかり、どう考えても楚王に報いるすべを

      知りません。果たして、何にしたものか」、と思案した。

       成王は、

       「それでも、何か一つぐらいは戴きたいものですな」と、

      念を押した。

       ※ 暗に領土の一部割譲を期待しての念押しかも。

       重耳は言う、

       「では、こう致しましょう。

        もし已むを得ずして、君王と兵車を以て平原広沢に会せば、

        (=後に已むを得ず、私と成王とが大平原地帯において、

         戦車で戦闘を交えるような事態になれば、)

       請う 王を避けること三舎せん」と。 

       干戈を交える戦争では、勝敗は当に食うか食われるかの大博打でも

      あった。

       その様な「危急存亡の秋(とき)」において、正面の敵軍を避ける

      ということは、敵を優勢な戦況に導く恐れがあり、実に危険極まりない

      軍事行動だと言えた。

       余程の人物でないと出来ない事であり、また言える事ではなかった。

       成王の傍らで聞いていた楚の令尹(宰相)子玉は、この人こそ将来

      の難敵と思い、宴の後 成王に重耳の暗殺を示唆した。

                     「春秋左氏伝 僖公二十三年」

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(反璧)

       「反璧(はんぺき)

                         ◇ 東周王朝 ◇ 

        贈り物を辞退すること。

        贈られた玉壁を反すの意。

        晋の公子・重耳主従は、斉を去った後 曹国に立ち寄った。

        だが曹の共公は重耳主従を冷たくあしらい、その上、

       予てから噂に聞く重耳の「一枚肋骨」を見たいものだと、

       言い出し始末であった。

         ☞ 一枚肋骨とは、一枚板のように見える肋骨で、古代中国

          の習俗では、身体に異常を持つ者は天授の霊能力がある

          と信じられていた。

        曹の大夫・釐負覊(きふき)は、

        「公子は器量の優れたお方です。而も我が君とは同姓の間柄なの

       です。逆境にあって、我が国に立ち寄られたものを、左様な無礼は

       なりません」、と諌めた。

        ※ 「曹」は周王朝の草創期に封ぜられた武王の一族。

           宗室と同じ「姫」の姓である。氏は「曹」を名乗る。

        だが共公は聞き入れず、重耳が湯浴みするところを簾越しに

       のぞき見した。

        釐負覊の妻がその噂を耳にするや、夫に向かて言った。

        「晋の公子のお付きの方々を見ますに、何方も一国に宰相に

       相応しい方ばかりです。

        あの方たちが公子を盛り立てて行く限り、公子はその内きっと

       本国にお帰りになられるでしょう。

        そしてやがては、諸侯を抑えて覇者となられるに違いありません。

        そうなれば、非礼を働いた我が国がやり玉に挙げられることは

       間違いありません。

        今のうちに密かに誼(よしみ)を通じておくべきです」と。

        釐負覊は早速、重耳一行に贈り物をしようとした。

        そして人目を避けて、料理を器に盛りその中に璧玉を潜ませて、

       重耳の下を訪れた。

        重耳は感謝しつつも、料理は受け取ったものの壁は返して、やがて

       曹を去った。

        ※ 重耳が器に盛った料理は受け取ったのは、釐負覊には

          大いに感謝しているということであり、璧を返したのは曹君の

          無礼は許さないぞ、という意思表示でもあった。

                      「春秋左氏伝 僖公二十三年」
        
        果たして後に、釐負覊夫人の言った事は実現することとなる。

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(懐と安は実に名を負ぶる)

       「懐(かい)と安とは実に名を負(やぶ)る」

                         ◇ 東周王朝 ◇

        懐とは親しみ懐かしむこと、安とは一時の安逸を貪ることを言い、

       この二つは人の将来の大事を損なわせるものである。

        魯・僖公十六年(前644年)、重耳主従は斉の国に着いた。

        斉では、覇者たる桓公の厚遇を受けることになった。

        そのうち重耳は斉の公族の娘・姜氏を娶り、この地に安じ、

       いつまで経っても斉を離れようとしなかった。

        重耳の思惑は、管仲亡き後のこともあり、斉が人材を求めている

       だろう、との見込みと期待があったからでもある。

        桓公も重耳を破格ともいえる厚遇をしたが、管仲亡き後は、

       自制心も利かず、二年にして桓公も崩じてしまったのである。

        そして斉では後継者争いが勃発した。

        前638年、重耳に随従した者たちは、

       彼を何とか出発させようと対策を練った。

        ところが、そのことが女の召使いに盗み聞きされ、主の姜氏に

       注進した。

        だが姜氏はその召使を殺して、重耳に向って耳打ちした。

        「あなたは天下を狙う大事な身です。

        だから私は、あなたの臣下達が未来を画策するところを盗み聞き

       した召使を殺してしまいました」、と打ち明けた。

        重耳は言う、
      
        「吾はそんな大望はない。」と素っ気ない返事をした。

        姜氏は、

        「貴方は晋での難を避けて斉に来られました。

        でも貴方が晋を去ってから、晋には安寧なく、臣民は立派な君主

       に恵まれず、という状態です。

        その晋を能く治めることが出来るのは、貴方にあらずして

       誰ぞや」、と叱咤激励した。 

        それでも重耳は、

        「吾は動かず。必ずここに死せん」、と。

        そんな不甲斐ない夫に姜氏は、「周詩」を持ち出して励ました。

           莘莘(しんしん)たる征夫(せいふ) 

           毎(つね)に懐(おも)えば及ぶ靡(な)からん


          (=旅人の多くの者が、何時も身の安楽な事ばかり思って

           いるならば、到底何事も為し得るものではない。)

           夙夜 行(みち)を征(ゆ)きて、

           啓処するに暇 非ず、
     
           猶 及ぶ無きを懼(おそ)


          (=朝夕 道を急いで行き、家に寛いでいる暇もない

           というのに、それでも猶、為し得ないことを恐れる

           のです。)

           ☞ 啓処とは、家の中で安らかにひざまずいていること。

           況や其れ身に従い、

           欲を縦(ほしいまま)にして安を懐わば、

          将(はた) 何ぞ及ばん

           人 及ばんことを求めずんば、其れ能く及ばんや


          (=ましてや身勝手に、己の欲望の赴くまま安楽を慕うの

           でしたら、どうして為し得ましょうか。

            人と云う者は、自ら為そうとするのでなければ、

           どうして為す事が出来ましょうか。) 

           日月は処(お)らず、人 誰か安きを獲(え)ん。

          (=時は待ってくれないのに、誰が安楽を貪っておられ

           ましょうか。)

           また「周書」にも曰く、
          
          《懐と安とは、実に大事を損なう》、と。

           姜氏は、当に我が身の境遇を犠牲にしてまで、

          夫を帰国させようと努力したが、重耳はそれでも聞き入れ

          なかった。

           そこで、姜氏は已む無く、弧偃ら随行者と示し合わせて、

         重耳に酒を飲ませて酔いつぶし、頃合を見計らって車に担ぎ

         込ませて、強引に出発させた。

          重耳はこのようにして、斉に在ること五年にして、魯・僖公の

         二十三年(前638年)、再び流浪の旅が続く。

                       「国語 晋語」

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(雲は龍に従い風は虎に従う)

       「雲は龍に従い風は虎に従う」

                         ◇ 東周王朝 ◇

        聖天子がこの世に現れると、其れを補佐する賢臣が必ず、

       出てくるということの例え。

        水中に棲む竜が天に登ると、其れに付き従って雲がわき起こり、

       虎が吠えると、其れにつれて風が吹き起こるの意。

        「同声相応じ、同気相求む。

         ☞ 声は言葉。気は心持。

         水は湿(しめ)れるに流れ、火は燥(かわ)けるに就く。

         雲な竜に従い、風は虎に従う。」

                      「易経 文言伝」

     》 晋の公子・重耳の流浪 《

         晋では恵公⑳が即位したが、兄の重耳は狄の地で主従共に仮寓

        していた。

         しかしやがて恵公は重耳を亡き者にしようと画策して、再三に

        亘り刺客(宦官の履鞮など)を送り込んできた。

         義の立たない争いごとを好まない重耳は、やむなく十二年間に

        及ぶ住み慣れた狄の地を離れる決心をした。

         狄で娶った妻・季隗とも別れ、叔父の弧偃(こえん)・ 

        趙衰(ちょうし)・顚頡(てんけつ)・魏武子(魏犨)・

        司空季子らの股肱の臣を従えて旅立った。

         この五人こそは、当に龍に従う雲であり、虎に従う風であった。

         時に 晋・恵公七年(前644年)である。

         ※ 重耳主従の流浪は、それから七年に及ぶことになる。

            弧偃は孤突の子で、字は舅犯 或いは子犯という。

           司空季子は多姓名の人で、胥臣(しょしん)や賈佗

           (かだ)、或いは司空臼季(きゅうき)とも云う。

              「春秋左氏伝 僖公二十三年」・「史記 晋世家」

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(臣を知ること君に如くはなし)

        「臣を知ること君に如(し)くはなし」

                        ◇ 東周王朝 ◇

       この私のことは、君が最もよくご存知です。

       斉の名宰相・管仲が急病に陥った。

       桓公は病床に管仲を見舞い、かつ其の病の重徳を知り、彼の後継者

      として、はたして誰を選任すべきかと、その意向を聞いた。

       管仲は言う、

       「臣を知ること君に如くはなし」と。

       桓公曰く、

       「易牙は如何」と。

       管仲対えて曰く、

       「子を殺して以て君に適(かん)う、人情に非ず。不可なり」と。

         ◆ 易牙は桓公のお気に入りの料理人で、いつかの日に、

          桓公が幼児の肉を食いたいと言ったので、我が子を殺して

          料理し、桓公の食膳に献じた、と言われる。

       桓公曰く、

       「開方は如何」と。

       曰く、

       「親に倍(そむ)き以て君に適うは、人情に非ず。近づけ難し」と。 

         ◆ 開方は親に背いて国を出奔し、斉に仕えていた。

       桓公、

       「豎刁(じゅちょう)は如何」と。

       曰く、

       「自ら宮(きゅう)して以って君に適うは、人情に非ず。

       親しみ難し」と。  

         ☞ 宮とは、宦官になるために自ら去勢(断種)すること。

           宮刑は、刑罰の一種。

       それから間もなく管仲は没したが、桓公は生前の管仲の言を用いず、

      巧みな言辞を弄するその三人を側近として任用し、管仲の最も忌避

      した易牙を重用した。

       為に国内は大いに乱れ、しばらくは収拾できないほどの大混乱と

      なる。

       そのような状況下に、春秋の覇者は露と消えた。

                      「史記 斉太公世家」

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(封禅)

       「封禅(ほうぜん)

                         ◇ 東周王朝 ◇

       天子の行う祭りの名。

       天神・地祇を祀ること。

       「泰山に封(ほう)じ、梁父に禅(ぜん)す」からの造語。

       泰山における場合は、

      其の頂で土を盛って壇を築いて、天を祀り(これを封という)

      次にその麓の梁父(りょうほ)で,

      地を祓い清めて山川を祀る(これを禅という)

                     「管子 封禅」

       斉の桓公は葵丘の会盟で、その覇業は成ったとして、次第に驕慢と

      なり、遂に封禅の儀式を望むようになった。

       桓公曰く、

       「寡人、兵車の会(戦時の会盟)を三度、

       乗車の会(平時の会盟)を六度、

       諸侯を糾合して、天下を一匡す(天下の乱れを正した)。

       昔、三代(夏殷周)の命を受く、何を以てか此れに異なる

      あらんや。

       吾 泰山に封じ、梁父に禅せんと欲す」と。

       管仲は固く之を諌めたが、桓公は聞こうとしなかった。

       そこで管仲は、攻め口を変えて、

       「遠方の珍怪の物、至らば乃ち封ずるを得るを以てす」と。

       覇者と雖も、それは不可能であることを知り、桓公も諦めた。

                     「史記 斉太公世家」

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(噂沓背憎)

       「僔(噂)沓背憎(そんとうはいぞう)

                          ◇ 東周王朝 ◇   

       会えば上手いことを言って喜び合うが、

      背後では悪口を言って憎しみ合うこと。

       ☞ 僔は集まるの意。
         
         詩経では、「噂」と。

         沓は流暢に喋るの意。

       その昔、晋の献公⑲が娘の伯姫を嫁がせることの可否について、

      筮を立てたところ、帰妹(きまい)の卦が、

      睽(けい。背く)の卦に変化するという結果を得た。

       ※ 帰妹とは、易の六十四卦の一つで、女性を嫁がせるに際しての

        戒めの象。

         睽とは、六十四卦の一つで、物事がうまくいかない象。

       献公はそこで、卜筮の史蘇に占わせると、彼は「不吉」なりと言い、

      その将来の推移を詳しく説明した。

       だが献公は、筮には従わなかった。

       献公から幾星霜、恵公⑳が韓原の戦いで敗れて秦に抑留されていた

      ある日のこと、恵公は嘆息して言った。

       「先君もし史蘇の占いに従わば、

      吾 此処に及ばざらんかな(抑留されなかった)」と。

       恵公の側近の韓簡は言う、

       「占いの亀は象(形)で、筮は数で示すものです。万物が生じて形が

      でき、それが繁茂して、後に数があるのです。

       先君献公の悪徳の後々に及ぼした影響たるや、数えきれないほど

      あります。

       ※ その報いは当然という、言外の意を含む。

       史蘇のこの占い、従うこと無きも何の益かあらん。

       そして韓簡は、次に詩経を引用して恵公の不遇を納得させようと

      した。

                     「春秋左氏伝 僖公十五年」

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(皮の存せざる、)

       「皮の存せざる、毛 将(はた) 

       安(いずく)にか傅(つ)かん」


                         ◇ 東周王朝 ◇

       物事の根本が存しないのに、枝葉のことを努めても、

      何の効果もないことを言う。

       転じて、普段は義理を欠いているのに、少しばかりの施しで

      義理を果たそうとしても、何にもならないことをいう。

      》 晋の内紛のその後 《 

      献公と驪姫姉妹との後嗣・奚斉と悼子が李克らに殺害された後、

     李克らは人望のある重耳を後継者に迎えようとしたが、重耳はそれを

     潔しとせず帰国要請に応じなかった。

      かくして、晋に近い「梁」に亡命していた重耳の弟・夷吾が迎えられて

     即位した。

      これが恵公⑳である。在位は前650年~637。

      この時 徒手空拳の夷吾は、隣国の秦の穆公⑨に協力を要請し、

     即位の暁には封土の一部を割譲をするとの条件を提示し、空約束をした。

      そして、その頃の覇者たる斉の桓公は、晋の内紛を匡すと称して、

     晋の高梁まで出兵した。
     
      その後 桓公は秦の穆公の意向を知り、大夫・隰朋(しゅうほう)に

     命じて,秦と相談の上、夷吾を即位させることで同意し軍を退いた。

      》 晋の大飢饉 《 
     
      晋・恵公四年(前647年)冬、晋に大飢饉が発生し、

     晋は隣国・秦に食料の緊急援助を要請した。

      秦では、先に領土割譲が反故にされた経緯もあり、この機会に晋を

     討つべし、という意見もあった。

      だが穆公は、先の葵丘の会盟での「戴書」を守って、

      〝其の君はこれ悪あれど、其の民に何の罪あらん〟

     と言って、食料を大量に送った。

      ところがその二年後、今度は秦が飢饉に見舞われたので、秦は晋に

     救援を 依頼したが、その翌年 晋の恵公は秦の弱みに付け込んで、

     なんと師旅(軍隊)を繰り出した。

      食料の救援については、晋でも一応は論議が為された。

      大夫の慶鄭は、

      「受けた施しに背くのは隣国としての親を無くすることになり、

     人の災いを我が幸いとするのは不仁であり、人から受けた恩恵を

     貪るのは不祥であり、隣国を怒らせるのは不義というものです。

      この親・仁・祥・義の四徳を皆失ったら、何を以て国を守ろうと

     なさいますか」 と言って反対した。

      だが恵公の舅になる虢射(かくせき)は反対した。 

      「之れ皮の存せざる、毛 将 安にか傅かん」と。

      (=皮の無い所には毛は付かない。

        晋は秦に大きな義理を欠いているのに、少しばかりの施しをした

       ところで意味はない。) 

       ※ 暗に比喩して、この皮とは晋の割譲を約束した封土であり、

        毛はこの度の食料救援である。

      その後も慶鄭と虢射の応酬があったものの、恵公慶鄭の意見を取らず、

     救援を拒否して、大軍を進発させた。

                    「春秋左氏伝 僖公十四年」

     》 晋秦の戦争 《 

      この晋と秦の戦いは、韓原の戦いという。

      この戦いで秦の穆公は、絶体絶命の危機を乗り越えて勝敗は逆転

     した。

      晋の恵公は虜となり、秦に連れ去られる。

      だが、穆公の夫人は晋の恵公の姉であり、その穆公夫人の必至の

     懇願により恵公は帰国を許される。

      ただし、恵公の公子・子圉(しぎょ。後の懐公)は人質となり秦に

     留め置かれる。

     ☆  「我に投ずるに桃を以てすれば、

       之に報いるに李(すもも)を以てす」


        桃を贈られたならば、こちらは李を以てお返しする。

        どんな小さな恩義に対しても、必ず報いなければならないという

       教訓である。

                    「詩経 大雅」


     

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    テーマ : 中国古典・名言
    ジャンル : 学問・文化・芸術

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(死者をして復た生ぜしむるも、)

       「死者をして復(ま)た生ぜしむるも、

        生者 慙(は)じざらん。」


                         ◇ 東周王朝 ◇

        生前に約束を交わした者が、再びこの世に生き返ってくるという

       ようなことがあったとしても、

        生き残っていた者としては、その約束を果たしておれば、聊かも

       恥じ入ることはありません。

     》 晋の献公崩ず 《

        晋では献公夫人の驪姫の禍で、年長の公子たちは諸国に亡命して

       いたが、献公二十六年(前651年)、重篤な状態になった献公

       は、大夫・筍息を召し出して、相に任じて国政を委ねた。

        そして驪姫が産んだ未だ若年の奚斉の傅(お守り役)に補した。

        その際の経緯は、献公曰く、

        「吾 奚斉を以て後(跡継ぎ)となすも、年若く、諸大臣服せず。

       乱の起こることを恐る。

        子(なんじ) よく之を立てんか」と。

        筍息曰く、「可なり」と。

        献公曰く、「何を以て験(しるし)となす」と。

        筍息対えて曰く、

        「死者をした復た生ぜしむるも、生者 慙じざらん。

         これを験となす
    」と。

        ※ 献公がこの世に再び帰って来られても、、この筍息が

         約束をしたことは死守しておりますので、恥じ入ることは

         ありません。

          そのことが証拠となります。

         
        献公はここに於いて、、奚斉を筍息に託し、筍息を相として国政を

       委ねた。そして、同年秋九月、献公は崩じた。

                      「史記 晋世家」

     》 内乱の発生 《

        献公の死後、ただちに内乱が生じた。

        大夫の李克と丕鄭(ひてい)は、亡命中の重耳を迎え入れ

       ようとして、反驪姫派を従えて蜂起した。

        味方の少なかった驪姫一派は抗すべくもなく敗れ、驪姫も大子の

       奚斉も殺害された。

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(春秋の覇者)

       「春秋の覇者」

                         ◇ 東周王朝 ◇

       魯・僖公九年(前651年)、斉の桓公三十五年、

       桓公は、諸侯を宋の葵丘(ききゅう)に招集して会盟し、

      朝廷からも認められ、ここに覇業が完全になり、春秋の覇者となった。

       「春秋左氏伝」に記す、

       「夏 葵丘に会し、盟いを尋(あらた)

        且つ好(よしみ)を脩(おさ)む。礼なり」
    と。

        この葵丘の会盟は、国際紛争事案に対処するものではかったが、

       諸国家間の倫理的取り決めが為された、と言われる。

        従来、会盟の式次第は周礼により、

       「殺牲歃血(さっせいそうけつ)を踏襲してきたが、この会盟

      からは、生贄は殺すものの歃血という野蛮な

      「血を歃(すす)る儀式」は廃止された。

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(風馬牛も相及ばず)

       「風馬牛も相(あい)及ばず」

                         ◇ 東周王朝 ◇

      遠く離れていること、或いは無関係なことの例え。

      盛りのついた牝牡の馬・牛が、互いに求め合っても出会えないほど

     遠くに離れているの意。

      》 斉と楚の和平の盟なる 《

       斉の桓公は既に在位三十年に及ぶ。

       名宰相・管仲の輔佐宜しきを得て、中原の覇者として君臨して

      いたが、その頃 南方では楚が着々と勢力を張り、北上して、

      しばしば鄭国を侵すようになり、斉と対立するようになっていた。

       桓公二十九年(前655)、桓公は弱小国の蔡侯に、

      覇者としての面目を潰されると言う経緯があった。

       そして桓公はいつの日かと、その報復を按じていたが、この度の楚

      の中原侵寇で兵を出す大義名分が立った。

       翌年、桓公は遂に立ち上がり、曹・陳・衛・鄭・許・宋と盟を為し、

      連合軍を率いて先ずは蔡を侵攻して、軽く鬱憤を晴らした。

       そして勢いづいたところで、楚に攻め込んだ。

       楚の成王㉑も兵を繰り出して応戦したが、斉王の下に使者を

      派遣して、その軍事行動の非を詰った。

       使者は言った。

       「君は北海に居り、寡人は南海に居り、

      唯だ是れ風する馬牛も相及ばざるなり。


       慮(はから)からざりき、君の吾が地に渉(わた)らんとは。

      何の故ぞ」と。

      (=貴国は北に、我が国は南に在って、互いに遠く隔たっている。

        互いに求めて駆けずり回る盛りのついた牛馬でさえも、

       行き交うことの出来ない隔絶した地に在ると言えます。

        然るに、君が我が国を侵そうとする意図が分かりません。

        その理由を聞こうではありませんか。)

       管仲対えて曰く、

       「昔 我が先君・太公望は、成王②の意を受けた王室の一族の

      召公奭の命により、天下を従えて王室を盛り立てよ、と命じられ

      ました。

        ☞ 召公奭  武王に封ぜられて燕の君となる。

       以来、度々征討軍を繰り出して王朝を安泰ならしめてきたものです。

       今 貴国に軍を進めてきたのも、同じ理由からです。

       即ち貴国が周室に対する義務を怠り、朝貢物の苞茅(ほうぼう)

      を贈らず、為に酒を漉(こ)すことが出来ず、従って周王室では

      祭祀を執り行えずにいるのです。

        ☞ 苞茅とは、酒を漉すための茅の一種。

       またこれも旧い事ながら、昭王におかれては、南方の楚へ巡狩に

      出られたまま消息を絶ってしまわれた。

       その消息を問い質(ただ)す意もあって、軍を進めて来た

      のです」と。

        ※ 昭王は西周の第4代天子。

          在位期間は、前995年~977年。

       楚の使者は対えて謂う、

        以下は追記で。

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(唇亡歯寒)

        「唇亡歯寒(しんぼうしかん)

                         ◇ 東周王朝 ◇

       両者の利害が密接に関係しており、一方が亡びると、

      他方も影響を受けて危うくなるという例え。

       強い相互依存の関係をいう。

       唇と歯は常に密接しており、お互いに補完し合っているの意。

       魯・僖公五年(前655年)、晋の献公⑲二十二年に、

      晋軍は再び虞(ぐ)に道を借りて虢(かく)を討伐した。

       それより先、虞の大夫・宮之奇(きゅうしき)は再び虞公を諌めて、

       「虢は虞の表なり。虢 亡べば、虞 必ず之に従わん。

        晋は啓(ひら)く可からず。寇は玩ぶ可からず。

        一度するも之れ甚だしと謂う。それ再びする可けんや。

       (=虢は虞にとって日陰柱のようなものです。

         虢があっての虞であり、虢が亡べば虞も自ずから亡んでしまい

        ます。

         晋軍を手引きしてはなりませんぞ。

         国を讎(あだ)なす者を侮ってはなりません。

         先の一度でも酷かったと云うのに、二度もすべきでは

        ありません。)

        諺に所謂、輔車相依り、唇亡べば歯寒しとは、

       それ虞・虢を之れ謂うなり
    」と。

         ☞  「輔車相依」とは、輔(頬骨)と車(下顎)とは互いに

           助け合っているの意。

            転じて、両者の密接な関係を言う。 

        しかし虞公は、

        「晋は吾が宗(同姓の一族の宗家)なり。豈に吾を害せんや」と

       言って聞かず、晋軍の国内通行を認めてしまった。

        八月、晋軍は虢の都城上陽を包囲し、冬 十二月には虢を亡ぼして

       しまった。

        虢公醜は京師(周朝の都)に奔ったが、晋軍は凱旋の途次、

       虞に宿営を装って油断させ、不意を衝いて王宮に侵攻した。

        虢は如何ともし難く、攻め亡ぼされ、虞公と大夫・井伯は囚われの

       身となった。

        度々諫言した宮之奇の行方は不明。

        ※ 表とは日陰柱をいう。

          日陰を見て、時刻を知る柱である。

          ここでは、虢を日陰柱に、虞はその影に見立てたもの。

                     「春秋左氏伝 僖公二年・僖公三年」


     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(思い邪なし)

       「思い邪(よこしま)なし」 

                       ◇ 東周王朝 ◇ 

       考えに邪念がないこと。

       詩を読む人の心が正しい、というのが原意。

       もとは、魯の僖公が、

       魯の初代君主である伯禽の制定した法に、邪念が無く従ったことを

      言う。

       魯の荘公の庶子である申の母・成風は、

      成季(季友)の我が子の出生時の占いの辞を耳にしていたので喜び、

      常に成季に対しては礼を尽くし、また我が子の将来を託していた。

       そして後に、成季の画策により、申は君主に擁立されることになる。

       これが魯の僖公(釐公とも)⑲(在位 前659~627)である。

       また成季は、魯の三桓の筆頭として、権勢を築く。

          ※ 魯の三桓とは、魯の公室の分家で、桓公⑭から分かれて、

           叔孫氏・孟孫氏・季孫氏が台頭する。

       春秋時代の後期に生まれた孔子は、「詩経」の採録編集をして、

      この「思い邪なし」の一語は、詩経の作品すべてに通ずるものと見做

      した。

      ☆  「論語 為政篇」

         子曰く、

         詩三百、一言(いちげん)を以て之を蔽う、曰く、思い邪なし。


         (=詩は三百篇あり、その内には色々なことを歌ているが、

          それらは唯 一句で包括することが出来る。

           それは、「思い邪なし」という語句である。 

         ☞ 「思い邪なし」という語句は、「詩経 魯頌・駉(けい)」 

          に拠る。

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(国に聖人あるは、)

       「国に聖人あるは、敵国の憂いなり」

                       ◇ 東周王朝 ◇

       国に優秀な人材がいるということは、その敵国にとっては、

      脅威となり、頭痛の種になるもの。

       秦の穆公⑨は隣国の戎から由余(ゆうよ)という使者がやって来た

      が、その人物・識見ともに非の打ち所がない優れた人物であったので

      苦慮した。

       由余との会見の後、穆公は内史(だいし)の廖(りょう)を召して

      言った。

         ☞ 内史とは、君主の側近で、策命などを掌る職名。

       「【国に聖人あるは、敵国の憂いなり】、と申すが

      由余ほどの人物をそのまま戎に留めておけば、我らの害となることは

      疑いない。何か良い策はないものか」と。 

       廖は対えて、

       「由余を暫くこちらに留めておいて戎王の疑惑を深めておきます。

       その間に 戎王の下には美女の歌舞団を送り込み戎王を骨抜きにし、

      君臣の離間に成功すれば、政治を怠るのは必至となりましょう」と。

       穆公は早速 策を実行に移した。

       由余のために宴席を設け、互いに横に並ぶという破格のもてなしをし、

      由余に親近の情を示し、戎の国内の事情や地形などを聞き出した。

       一方では、廖に命じて、十六人編成の美女歌舞団を戎王の下に派遣

      した。

       果たして、戎王は美女に現(うつつ)を抜かし、年が明けても歌舞団を

      秦に返そうとはしなかった。

       そのころ合いを見て、穆公は由余を帰国させたが、戎王は政治を忘れ、

      由余が幾度となく諫言しても、もはや聞き入れることはなかった。

       遂に由余は見切りをつけて国を去り、穆公の勧めを受け入れて秦に

      帰順した。

       後に戎は秦に攻略され、秦・穆公三十七年(前623)に平定された。

                   「史記 秦本紀」・「韓非子 十過」

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(牝牡驪黄)

       「牝牡驪黄(ひんぼりこう) 

                         ◇ 東周王朝 ◇ 

       物事は外見に捉われず、その本質を見抜くことが大切という例え。

       馬の牝(めす)と牡(おす)、その毛色の黒色と黄色を見間違える

      の意。

         ☞ 驪(り)の字義は、黒駒或いは黒い。

       秦の穆公が、老齢の博労の伯楽に対して、

      彼の身内から後継者の推挙を頼んだ。

       伯楽は対えて曰く、

       「臣の子は皆 下才であります。良い馬をお知らせすることは出来まし

      ても、天下の名馬をお知らせすることはできません。

       臣には共に苦労を尽くした九方皐(きゅうほうこう)という人物

      がいますが、馬を見る目は臣に劣るものではございません。

       お召しになってみてください」と言って推挙した。

       そこで穆公は、九方皐に会ってから、馬を求める旅に出した。

       それから三カ月後、帰ってきた九方皐は復命した。

       曰く、「已に之を得たり。沙丘に在り」と。

       穆公が早速、臣下に命じてその馬を調べさせたところ、

      牡の驪(黒駒)であると言う。

       不機嫌になった穆公は、伯楽を呼びつけて、不平をぶちまけた。

       「敗れたり。子(なんじ)が馬を求め示しし所の者は、

        色物牝牡(しきぶつひんぼ)、猶 知る能わず。

        また何の馬をか之れ能く知らんや」
    と。

       (=お前の推挙してきた者は、馬の毛色の違いや雌雄の別さえ

        分からないではないか。

         どうして馬をよく知る者と言えるのか。)

        穆公から話を聞くや、伯楽は大きなため息をついて言った。

        「一(いつ)に此に至れるか。

       是れ乃ちその臣に千万にして数無き所以(ゆえん)の者なり。

         (=詰まる所はそこなのです。乃ちその臣こそは千万人に一人と

          いう 逸材なのです。)

        皐の見る所の如きは、天機(天性の才)なり。

        その最も優れた所を捉えて、悪い所は問題とせず。

        また内面的な素質を重視し、外面的なところは問題としません。

        目を付けるべき所には十分に目を付け、必要のない所には目を付け

       ません。

        掻い摘んで言わば、(九方)皐の馬を相するが如きは、乃ち馬その

       ものよりも、馬に自然に備わっている素質をこそ見るべきだと考えて

       いるような次第です」と、その訳を補足して説明した。

        果たして、その馬は世にも優れた駿馬であった、と。

                      「列子 説符」

      ※ 伯楽とは、馬の鑑定人であるが、この伯楽は周の孫陽

        という名の人で、秦の穆公の時代の人でもあり、馬の目利き

        (鑑定)の名人という意味では、「伯楽」と言われる

        最初の人である。 
      
       唐代の 韓愈(かんゆ)「雑説」

         「世に伯楽有りて、然る後 千里の馬有り」

         世間に馬の良し悪しを見分ける名人がいてこそ、

        初めて一日に千里も走る名馬が世に現れる。

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(百里奚は虞に居りて虞亡び、)

       「百里奚は虞(ぐ)に居りて虞 亡び、

       秦に在りて秦 覇たり。」


                         ◇ 東周王朝 ◇

       百里奚(ひゃくりけい)は虞の大夫であった時には、その国は滅び、

       秦に仕えてからは、秦に覇権をもたらした。

       ※ 虞では愚者で、秦では賢者となったという意味ではなく、

        その身の用いられ方、或いはその計策の使われ方を言う。

       虞は前655年、晋の献公⑲によって滅ぼされ、虞の賢人大夫として

      名高かった百里奚は、晋に囚われ奴隷に身を落としていた。

       その後 晋の献公は、百里奚を秦の穆公(史記では繆公と記す)⑨

     に嫁いだ娘の伯姫の媵(よう。付け人)とした。

      ところが、百里奚は秦に入って間もなく、無断で楚に出奔した。

      だが伯姫や穆公の臣下で、百里奚を高く評価する者がいて、

     穆公の命で直ちに探索が続けられた。

      続きは追記で。

     

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    tyouseimaru

    Author:tyouseimaru
    出身地は四国八十八か所参りの発心の阿波、大阪を終の棲家とする。
    歴史好きで、城郭・神社仏閣・歴史遺跡巡りが趣味となる。
    歴史小説や時代小説を好み、往年の著名な時代小説の類は概ね完読と、自負している。

    自薦
    自著「中国通史で辿る名言・故事探訪」の 上・中・下の3巻を、 近い内に「電子書籍」での出版を予定しています。 今年一年間は、さらに工夫を加えるなどして、補記訂正などの校正を第一義としています。       
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