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    中国通史で辿る名言・故意探訪(斉の杞梁の妻)

       「斉の杞梁(きりょう)の妻」

                          ◇ 東周王朝 ◇

       杞梁は斉の荘公㉕が莒(きょ)の国と戦った時に、戦場で命を

      落とした。

       戦いが終わって、斉の荘公が凱旋の途次、領内で杞梁の妻に

      出会った。

       そこで荘公は、使者を遣わして、路上で弔わせた。

       杞梁の妻は言った、

       「どうして路上での弔いなのですか。勇敢に戦って死んだのなら、

      屋敷できちんと弔って下さるべきです」と。

       荘公は車を杞梁の屋敷に向けて、改めて礼を尽くしてから帰城した。

       気丈で礼節を弁えた杞梁の妻であったが、子供は無く、而も親戚と

      いっても無かったのである。

       夫の他 頼るべき者のいなかった彼女は、後に帰ってきた夫の亡骸を

      迎えて城壁の下で慟哭した。

       更に彼女は、城壁の下で昼夜に亘り泣き続けたのである。

       彼女の悲しみは人々の心を打ち、行き過ぎる者は皆 ともに涙を

      流したという。

       そのような事があった後、十日にして、城壁が崩れ落ちてしまった。

       一方、夫の葬儀を終えた妻は、もはや死ぬだけと言って、淄水に身を

      投げて死んでしまった。

                      劉向「列女伝 貞順伝」

       ※ 「孟子 告子下」

          華舟・杞梁の妻、善くその夫を哭し、而して国俗を変ず。

          諸(こ)れ内にあれば、必ず諸れ外に形(あら)わる。


         (=華舟と杞梁の妻が、戦死した夫の為に、戦場となった城下で

          夫を偲んで慟哭すると、彼女の心情は城下の人々を感動させ、

          その国の風俗まで改めさせた。

           このような有益なことが内にあれば、必ず外に実績となって

          表れるもの。)

    テーマ : 神話伝説逸話
    ジャンル : 学問・文化・芸術

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(蟷螂之斧)

       「蟷螂之斧(とうろうのおの)

                          ◇ 東周王朝 ◇

        儚い抵抗の例え。

        また弱者が身の程を考えずに、強者に立ち向かうこと。

        カマキリ(蟷螂)が前脚を上げる時、その様が斧に似ているので、

       前脚を斧に例えた故事。

        斉の荘公㉕が出猟した時、一匹の虫が脚を上げて、荘公の乗る馬車

       の車輪に向かって、撃とうとした。

        荘公は御者に、「之は何という虫か」と問うた。

        御者は対えて、

        「之はいわゆる蟷螂でございます。

        この虫ときたら進むを知って退くを知らず、自分の力を考え

       ないで、敵を軽んじます」と。

        だが、荘公の見方は違っていた。

        荘公は言う、

        「之が人であったら、必ず天下の勇士となったであろう」と。

        荘公は車を迂回させて、之を避けさせた。

                       「荘子 外篇・山木」 

       ☆ 「蟷螂当車

          無謀な行動を言い、蟷螂之斧と同じ意味である。

                       「荘子 外篇・天地第十二」

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    テーマ : 慣用句・ことわざ・四字熟語辞典
    ジャンル : 学問・文化・芸術

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(南風 競わず)

        「南風 競(きそ)わず」

                          ◇ 東周王朝 ◇  

        南方の国の勢力が衰えて、北方の国に劣ること。

        転じて、勢いの振るわないことの例え。

     》 平陰の戦い 《

        周・霊王㉓十八年(前555年)冬十月、晋は魯・鄭・宋・衛・曹

       などの十一か国連合軍を率いて、斉と覇権をかけて戦端を開いた。 

        斉の霊公㉔は晋君(平公㉙)に代わり天下の盟主にならんと野望を

       燃や して、富国強兵に努め、虎視眈々と狙っていたのである。

        しかし如何せん、斉一国では力に限りがあり、東征した晋の連合軍

       は圧倒的な力で斉軍を攻めた。

        斉では宦官の夙沙衛(しゅくさえい)が、濟(済)水の南岸の平陰で

       防ぎ、堡塁を築いて、広里で守るべきだと進言した。

        だが霊公は聞かず、敵連合軍の防門に猛攻を仕掛けて、多くの兵を

       損耗した。

        その後、晋の連合軍は、山や谷を埋め尽くして大軍による包囲を偽装

       した。

        そのような有様を巫山に上って眺望した霊公は、已む無く全軍を撤収

       した。

        しかし晋の連合軍は、なおも猛攻をかけ、十二月戊午(25日)

       には、斉の国都・臨淄に攻め込み、あちこちの城壁を破壊するに

       至った。

        その後も晋軍の寇略は止まず、斉の各地を荒らし回った。

        斉の霊公も一時は、国都を放棄しようとまで思ったが、大子光と郭栄

       が必死に諌めて、ようやく思い止まるほどであった。

      》 楚の参戦 《

        事態がここまで進むと、晋の同盟国である鄭では、国元の大夫・子孔

       は、晋の大夫らの横暴を恐れて、晋に背き楚に誼(よしみ)を通じよう

       と画策し始めた。

        楚では令尹・子庚(公子午)は、容易に肯こうとしなかったが、

       康王㉕の意を汲んで、遂に汾で勢揃いをした。

        だが彼の真意は、楚王の名を守り且つ損をしない為のものであった。

        一方 鄭では、国元で守りに就いていた大夫・子展、子西らは、

       子孔の魂胆を見抜いて、城郭の構えの万全を期したので、容易に楚軍

       に加わる機会が無かった。

        その内、斉攻略中の晋の連合国軍にも、楚軍が鄭国に侵攻し始めた

       という急報がもたらされた。

        連合軍は急遽、戦闘行為を中止して、斉から撤退した。

        晋国内では、楚の大軍がやってくると言うので、恐れおののいたが、

       晋君・平公の信任篤き楽師の師曠(しこう)は言った、

       「害せず。吾しばしば北風を歌う、また南風を歌う。

        南風 競わず、死声 多し。楚 必ず功無し
    」と。

       (=何でもありません。私はしばしば北の歌を歌い、また南の歌を

        歌ってみたことがあるが、南の歌はどうも声の調子が弱くて、生き

        生きした声が出ません。

          楚は、きっと何の功も挙げられないでしょう。)

        史官の董叔も言う、

        「天文の上で、勢いは今 西北にあり。

       南から出る軍は、その時を得ず」、と。

        また晋の賢大夫として知られる叔向(羊舌肸・ようぜつきつ)も

       言う、

        「戦の勝敗は、国君の徳に在るのだ」、と。

        楚軍は鄭を伐ち、軍を進めて鄭の城下に至り二晩にして引き揚げた。

        ところがその帰途、豪雨に遭遇し、滍水(しすい)を渡る時、多くの

       兵士や人夫が凍死した。

                      「春秋左氏伝 襄公十八年」

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    テーマ : 中国古典・名言
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    中国通史で辿る名言・故事探訪(利害は相反する有り)

       「利害は相反する有り」

                         ◇ 東周王朝 ◇

        生起した事実には、往々にして二つの利害が相反して存在するもの。

        晋の平公㉙が賓客を招いて宴席を設けたが、少庶子の勧めた炙り肉

       に髪の毛が絡み付いていた。

        怒った平公は、直ちに炮人(ほうじん。肉を炙る者)を呼び出して、

       死罪を言い渡した。

        すると炮人は天を仰いで叫んだ。

        「違いますぞ、天よ。

         臣には三つの罪で死なねばならなくなったようだが、その訳が

       自分でもよく分からないのです
    」と。

        平公が炮人に、「それは、如何なる意味ぞ」と聞くと、

        炮人は、
        
        「臣に罪があるとすれば、それは三つございます。

        臣の研いだ包丁の切れ味は、干将(かんしょう)に勝るとも

       劣りません。

        風を切り骨を断ちます。それが、必ず切れるはずの髪の毛が切れま

       せんでした。それが一つの罪です。

        炉の炭は真っ赤に燃え上がっていましたのに、髪の毛は焼けません

       でした。これが二つです。

        さらに臣の目は節穴ではなく、炙り上げた肉の焼け具合を丹念に

       調べ、肉の筋目までよく見えたのに、何故か髪の毛が見えません

       でした。

        これが三つ目の罪でございます。

        しかしながら、堂下に臣を怨む者がいないとは限りません。

        ここで急いで、臣を死罪にすることも無かろうかと存じます。

        どうか、死罪となる訳を教えて下さってから殺しても、遅くはござい

       ますまい」と対えた。

        平公は、「善し」として、堂下を調べさせたところ、果たして、

       炮人を怨む者がいて、その者の仕業であることが判明した。

          ☞ 堂下とは、朝堂の下の意で、朝廷の内外をいう。

        ※ 韓非子の結論

          国や臣下に、有害な事が起これば、それによって誰が利を

         得るかを反面から考えて、断を下さなければならない。

          利害はそもそも相反するものなのである。

                     「韓非子 内儲説」

        ☆ 「干将莫邪(かんしょうばくや)」の伝説

           春秋時代末期、干将は呉の剣の名工であった。

           呉王の命により、干将は妻・莫邪の助力を得て、世にも秀逸な

          雌雄二振りの剣を造り出した。
       
           後世、その二振り剣には、干将と莫邪の名が付けられる。

           呉王闔閭に剣を造るように命ぜられた干将は、最初は思うよう

          なものが出来なかった。

           後に妻の協力を得て、更には妻が何よりも大事にしていた頭髪

          と爪を切って炉に入れたところ、地金が程よく馴染んで、見事な

          二振りの剣が出来たという。

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(推挽(輓))

        「推輓(すいばん)

                         ◇ 東周王朝 ◇

        車を後ろから押し、前から牽くこと。
        
        転じて、人を推薦すること。

        ある日、斉の郲(らい)に寄寓(実は亡命)していた衛侯(献公㉕)

       を魯の臧紇(ぞうこつ。武仲)が見舞った。

         ※ 亡命する前の献公の在位期間は、前576年~559年

        だが衛侯は臧紇と話をするにしても、その態度はどこか刺々し

       かった。

        臧紇は退出して、従者に言った。

        「衛侯は、おそらく国には戻れまい。話し方に品が無く、亡命中で

       あるのに態度が改まらないようでは、帰国の見込みはない」、と。

        この臧紇の所感を伝え聞いた衛侯の弟の子展と子鮮は、早速 臧紇

       に面談したが、互いに語るに、能く話の条理が通じ合った。

        臧紇は納得して、再び従者に言った。

        「衛君は必ず帰国できよう。

       あの二人が推輓(挽)しているのだから。


        帰国したくなくても、そうはゆくまい」、と。

                       「春秋左氏伝 襄公十四年」

        ☆  献公(姫衎。きかん)は、殤公㉖十二年(前547年)に

          殤公が崩じた後、27代君主として復位する。 

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(貪らざるを以って宝と為す)

        「貪(むさぼ)らざるを以って宝と為す」

                         ◇ 東周王朝 ◇

        無欲であることを尊ぶこと。

        人から物を貪り取らない廉潔こそが、我が家の宝であるの意。

        春秋時代の宋の或る邑里(ゆうり。村落)に、とても無欲な民が

       いた。

        其の民が偶々、美しい玉を手に入れたので、日ごろから尊崇して止ま

       ない宋国の司城・子罕(しかん)に献上しようと上京し、夜になって

       から子罕を訪ねた。

        だが子罕は、それを受け取らず、

        「吾は貪らざるを以て宝とし、汝は玉を以て宝とす。

        若し、吾 玉を得れば、ともに宝を失わん
    」と言って、之を斥けた。

        玉を献上しようとした民は、頭を地に擦り付けて、

        「卑しい者が玉を懐にしていては、盗賊に狙われて村に無事に帰る

       ことが出来ません。

        どうか之を納めて、命をお助け下さい」と嘆願した。

        子罕は、この民を自分の宰邑(封地)に滞在させておき、その玉を

       研磨師に命じて磨かせ、出来上がったところで売却して得た金を持た

       せて、里に帰らせた。

                      「春秋左氏伝 襄公十五年」

       

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(百年河清)

       「百年河清(を俟つ)」

                          ◇ 東周王朝 ◇

        いくら待っても、望みの達せられないことの例え。

        黄河は広大な黄土高原から流出する黄土によって黄色く濁り、

       半永久的に黄河の水質が澄むということは無い。

        そのような黄河が澄むのを期待して、いつまでも待つの意。

        春秋時代の鄭国は、南に大国の楚、北に大国の晋に挟まれ、国の

       平和は偏に両国の動向次第であった。

        その為 常に両面外交を志向し、時には晋と、またある時には

       楚と、変転極まりなき不安定な状態が続いていた。

        鄭・簡公⑰の元年(前565年)、晋に従っていた時、

        鄭は晋(悼公㉘)の命令で楚の属国である蔡を討伐し、

       蔡の司馬・公子燮(こうししょう)を捕えた。

        鄭人こぞって喜ぶ中で、討伐戦に加わり軍を指揮した大夫・公子発

       (子国)をその子の公孫僑(子産)が深く憂いて、

       父を非難して諌めた。

        それに対して、父は子の口出しに激怒するばかりであった。

        やがて属国に対する面目を潰された楚は激怒して、鄭に攻撃命令を

       出した。

        それに対処する方策で、鄭の重臣の意見が分かれてしまった。

        宰相の子駟(しし)ら三人は、緊急の当てにならない晋の救援軍を

       待つよりは潔く楚に降伏し、戦火に曝されないようにすべきである、

       と主張した。

        子展ら三人の大夫は、あくまで晋との盟約を守って、その救援軍を

       要請し、楚に徹底抗戦しながら来援を待つべきだと主張した。

        事ここに於いて、宰相・子駟は反対派の説得を試みた。

        「詩経に言う、

        【河の清むを俟たば、人寿 幾何(いくばく)ぞ。

       兆して茲(ここ)に詢(はか)ること多くば、

       職として競いて羅(あみ)をなさん
    】と。

         (=黄河の水が澄むのを待っていたのでは、人の寿命は尽きて

          しまうではないか。一体に人の寿命はどのくらいあるとでも

          言うのか。

           占って計ることが多過ぎるならば、ここは是非とも貢物を

          敷き並べるべきだ。)

         ☞ 職とは貢物。羅は並べるの意。

         今は事の急を要する時である。何時 来援が来るかもしれない

        晋軍を待っていても、埒はあかないのだ」と。

         そして遂に反対意見を斥けて、同盟国の晋に背き、楚に屈服して

        与力するようになった。

                      「春秋左氏伝 襄公八年」


         ※ 当時の人々は、黄河と雖も、“千年に一度は清む”という

          伝説が信じられていたので、絶対に清まないという意味では

          なかった。

           また、人の寿命は長くても百年を過ぎることはなかった

          ので、長い歳月の例えとして、

          “百年” が用いられるようになった。

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(喬松の寿)

        「喬松(きょうしょう)の寿」

                          ◇ 東周王朝 ◇

        長寿、長生きのこと。

        周王朝の霊王㉓の王子喬と神話時代の神農に仕えて雨を司った

       赤松子は、登仙して(崑崙山に入山)、不老不死の仙人となった。

        「世世(代々)、孤(貴人の自称)を称して、喬松の寿あり。」

                      「戦国策 東周」

        王子喬は道術と鶴を好み、主食の穀を断ち、常人と食を異にするを

       以て、遂に道術を会得し、歳も百を越えて世俗を超脱し、遂に鶴に

       乗って天に昇り仙人になった。

                       劉向「列仙伝」


       漢代の詩歌より

         「楽しみを為すは当に時に及ぶべし」

          楽しみを尽くすには、今というこの時を逃してはならない。


       無名氏「古詩十九首 生年不満百」


         生年は百に満たず、常に千年の憂いを懐く

         (=人はどうせ、百才までもは生きられない。それなのに千年先の

          ことまで心配している。)

         昼は短くして夜の長きに苦しむ、何ぞ燭を秉(と)って遊ばざる

         (=昼は短くて夜は長いと言って悩むなら、どうして

          灯火を灯して、もっと夜を楽しまないのか。)

         楽しみを為すは当に時に及ぶべし、何ぞ能く来玆(らいじ)

         待たん


         (=楽しみを尽くすには、この今という時を逃してはならない。

          来年のことなど待っておられるものではない。)

         愚者は費を愛惜(あいせき)し、但だ後世の嗤(わら)いと為る

         のみ


         (=愚か者は費えを惜しんで、今という時と楽しみを無為にして、

          後世の笑いものとなるだけだ。)

         仙人王子喬とは、与(とも)に期を等しうす可(べ)べきこと難し

         (=仙人となった王子喬と、同じようにように長生き出来る

          はずもないのだ。)

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(姦には君徳、)

       「姦には君徳、宄(き)には刑罰」

                          ◇ 東周王朝 ◇ 

        国外からの殃(わざわい)には国君の至徳で対応し、

       国内の乱れ(患とも)には国法を以て対処すること。

     》 晋の郤氏の族滅 《

        晋の厲公㉗は、即位した当初は郤氏一族を重用していたが、鄢陵の

       戦いの後は重臣たちを退かせ、側近を重用するようになった。

        その側近の中に、郤氏一族を恨む者が少なからずいた。

        また郤氏に抑えられていた欒書(らんしょ)も色々画策し、更に

       厲公の寵臣・胥童(しょどう)が厲公の怒りに火をつけた。

        郤氏の方では厲公の動きを察して、逆に攻め寄せようと郤錡は勢い

       込んだが、郤至は反対し、

        「人は信・知・勇で立つべし。信知勇を失えば味方は去り、死んで

       も憎まれるばかりだ。それでは犬死というものであり、臣は君の者

       ゆえ、主が殺そうと仰せになったからには、もはや争うことは出来ぬ。

        ともかく仰せに従おう。俸禄を受ければこそ部下を持てるのだ。

       その部下を使って主に逆らうほど大罪はない」と。

        晋・厲公七年(前574年)十二月壬午(十九日)、

       厲公は胥童と夷陽五に命じて、甲(よろい)兵八百を率いて郤氏を

       攻めさせた。

        ところが、長魚矯は多人数での攻めは不可なりと断っておいてから、

       厲公の命じた清沸魋(せいふつたい)と二人で以って、この騒乱を

       命に代えても制止するのだと偽装して、戈を引きずり解けた帯を結び

       ながら、郤氏の陣営に駆け込んだ。

        おりしも陣営内では三郤(三人の郤氏の卿大夫)が相談して

       いたが、長魚矯はわずかの隙を見計らって戈を振るい、郤錡と郤犨を

       その席上で撃ち殺した。
      
        郤至はすばやく逃れ、車に乗ろうとするところを追いすがった長魚矯

       が撃ち殺した。

        この三郤は朝廷で晒されたが、胥童はさらに甲兵を引き連れて、

       朝廷で欒書と中行偃を威嚇した。

        長魚矯も進言して、「後々の為にも、この二人は処分すべし」と。

        だが厲公は、

        「既に三人の卿を晒し者にしたのだ。これ以上は堪らないのだ」と。

        長魚矯は、

        「他人は殿を苦しめても、堪らないとは申しません。

        臣 聞く、

        【国の外で企むを乱を姦と言い、内で企むのを宄という。

       姦を防ぐには君徳を用い、宄を防ぐには刑罰を用いる
    】、と。

        恩を施さずすぐに殺すのでは、徳の値打ちが無く、臣下が力で迫る

       のを討たなければ、刑罰の値打ちが無い。

        それでは姦も宄も並んでやってくるでしょう。吾は御免蒙りたい」と

       言って、すぐさま狄に逃れてしまった。

        だが結局 厲公は欒書と中行偃の二人に詫びを入れて、元の席に

       戻した。

        二人は罪を許してくれた厲公の恩徳を深く感謝して、今後の不惜身命

       (ふしゃくしんみょう)の奉公を誓った。

        一方では、厲公はこの度の働きを愛でて、胥童を卿に取り立てた。

                      「春秋左氏伝 成公十七年・十八年」

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(百発百中)

       「百発百中」

                          ◇ 東周王朝 ◇

        絶妙な弓射(射撃)の腕前。

        弓で百発撃って百発命中するの意。

        転じて、予想や狙いがすべて的中することを言う。

        春秋時代、楚の共王㉔の臣下で養由基という者がいて、弓射を善く

       した。

        彼のその腕前はと云うと、

        「(=柳)の葉を去り、百歩にして之を射て、

         百発にして百 之に中(あ)てる。」


        その左右で観る者、数千人いたが、皆曰く、「善射なり」と。

         ☞ 去るとは、遠ざかる・隔てるの意。

                 「史記 周本紀」・「戦国策 西周」 

        「猿、柱を擁して号(さけ)ぶ」

         楚の共王は白い猿を飼っていた。

         王自身が弓でこれを射ると、猿は飛んでくる矢を掴み取って、

        戯れていた。

         ところが、王が養由基という弓の名人に命じて、之を射させる

        と、養由基が弓を張り矢を番(つが)えてだけで、まで狙いも

        定めていないのに、猿、柱を擁して(抱えて)号泣す。

                 「淮南子 説山訓」・「蒙求 養由号猿」 

         
          

        

        

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(内憂外患 )

       「内憂外患」

                          ◇ 東周王朝 ◇

       国内での心配事と、外国から受ける災難。

       転じて、家庭内などの内輪で起こる心配事と、外部からもたらされる

       心配事や災難。

       内憂は心の内の憂い、外患は外から受ける心配事や災難の意。

      》 鄢陵(えんりょう)の戦い 《

       周・定王㉑・二十一年(前597年)の邲(ひつ)の戦いの後、

      楚と晋は 宋の名士で且つ宰相の華元の仲裁で和平協定を結んで

      いたが、それから二十数年後の、周・簡王㉒二十二年(前575年)、

      再び鄭の南西の鄢陵で激突した。

       楚の共王は司馬(楚軍の総帥)の子反の意見を容れて、晋との

      盟約に背いて北上し、鄭と衛の二国を侵攻した。

       しかし鄭は反撃して楚の領域の一部を奪い、晋は楚の腹背に位置

      する呉と鍾離で会盟して、楚を討つ構えを見せた。

       情勢不利と見た楚は、にわかに汝陰を鄭に割譲したので、鄭は晋に

      背き、改めて楚と同盟し、楚の為に宋を伐った。

       それに反して衛は、晋の為に鄭を伐とうとした。

       晋は欒書(らんしょ)が中軍の将となり、上軍は郤錡(げきき)が、

      下軍は韓厥(かんけつ)が将となった。

       四月戊午(25日)、いよいよ出撃命令が下されたが、和平論と

      決戦論が尾を引いて、晋軍の戦意は高くは無かった。

       晋の出撃を知った鄭は、楚に救援軍の派遣を求めた。

       楚では共王㉔が自ら軍を率い、司馬・子反が中軍の将、

      令尹・子重が左軍の将、右尹・子辛(公子・壬父)が右軍の将

      となった。

      》 晋軍の和平論と交戦論 《 

       晋軍が黄河を渡ったところで、楚軍出動の報がもたらされた。

       ここに於いて、晋は再び意見が分かれた。

       新軍の佐の郤至(げきし)は、

       「韓の戦で恵公が敗北を喫し、箕の作戦で先軫が復命できず戦死し、

      邲の出兵で荀林父が戦闘を続行できなかったのは、いずれも晋国の

      恥であった。ここで我らが楚を避ければ、恥の上塗りと為りましょう」

      と。

       中軍の副将・范文子曰く、

       「今までの戦いには皆 訳があった。秦・狄・斉・楚は皆 強敵揃い

      であった。あの時 力を尽くしていなかったならば、子孫は衰えていた

      だろう。

       だが今では、晋・狄・斉の三強は伐ち負かしたので、残るは楚だけ

      となった。

       唯 聖人のみ能く内に憂えず外の患なし。

       聖人にあらざる限りは、外が寧(やす)ければ必ず内の憂いあり。

       だから楚をこのままにしておいて、将来 楚が我が国にとって外の患

      になるようにしておこうではないか」と。

       五月庚午(1日)の朝、楚軍は晋軍を圧倒せんばかりの堅陣を

      敷いた。

       欒書は言う、

       「楚軍は軽々しい。

       こちらが塁を固めて待てば、三日で退却するだろう。

       その時に追撃すれば、必ず勝てる」と。

       だが新軍の佐で代将となった郤至は、急戦論を主張した。

       「楚軍には、六つの隙がある。

       令尹と司馬は不仲。親衛軍には老兵が多い。鄭の陣は締りが無い。

      蛮の軍は烏合之衆である。

       楚は縁起の良くない日に陣を敷いた。更に敵兵はしきりに故郷の方

      を振り返っていて戦意が乏しい。

       我々は、きっと勝つだろう」と鼓舞した。

       その結果、すべての消極論は交戦論に抑えられた。

       時に楚からの亡命者である苗賁皇(びょうふんこう。闘椒の子)は

      晋侯の傍らに持していたが、楚軍の部隊の内実を吐露して進言した。

       「楚の精鋭は王族の多い中軍だけです。晋の精鋭を別けて楚の

      左右二軍を攻め、残りの全軍を楚王の中軍に集中すれば、

      必ず勝てます」と。

       晋侯は、この作戦について筮を立てさせたところ、

      吉と出たので採用した。

      》 射の名人・養由基の活躍 《

       翌日いよいよ合戦が始まったが、晋軍の呂錡(魏錡とも)が放った

      矢が楚の共王の目に命中して乱戦となった。

       共王は、すぐさま養由基を呼びつけ、彼に二本の矢を与えて呂錡を

      射るように命じた。

       養由基は狙いを定めると、矢は呂錡の後頭部に突き刺さり、彼は弓袋

      を上にうつ伏せに倒れた。かくして養由基は矢を一本残して復命した。

       その後、狭い山峡での遭遇戦となったが、養由基は腕を振るい、また

      叔山冉の大活躍もあって、晋軍をその場に釘付けにして、その日の戦い

      は終わった。

       だがこの日の戦いで、楚軍は敗れはしたものの、総崩れと

      ならなかったのは、子反の指揮する中軍の獅子奮迅の働きがあった

      からである。

       この夜 楚では、晋に万全の備えがありとの報に、楚王は対策を

      練るため前線の子反を本営に呼んだが、子反は側近の勧める酒に

      酔い潰れていた。

       楚王は、「これも天命、負け戦と決まった以上は、長居は無用」と

      言って、その夜の内に鄢陵から撤退してしまった。

       楚王は領内に着いた頃、子反に使いを遣り、作戦指揮の不手際を

      責めず、責任は我にありとして、彼を庇った。

       ところが、令尹子重は、

       「その昔、大敗を喫した将軍(令尹・子玉)がどのような責任を

      取ったか、ご承知のはず。

       然るべくお考えになりますように」と追い打ちをかけたのである。

       楚王は子反の死を止めようとしたが、時すでに遅かった。

                      「春秋左氏伝 成公十六年」

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(勧善懲悪)

       「勧善懲悪」

                          ◇ 東周王朝 ◇

       善を勧め、悪を懲らしめること。

       春秋左氏伝の経文が典拠。

       「春秋経の筆法とは」

       春秋左氏伝・成公十四年 秋の経文に、

       「叔孫僑如、斉に如(ゆ)きて女(むすめ)を逆(むか)。」 

       秋に、魯の宣伯(叔孫僑如)が、魯に嫁入りする公女を迎えに斉に

      赴いた。

       経文に、叔孫僑如と族名まで記録されているのは、国君の命を尊重

      したからである。

       「春秋左氏伝 成公十四年(前577年) 九月の経文に、

       「九月 僑如、夫人姜氏を以て斉より帰る」と。

       経文に僑如と名だけ記し、その族氏名の叔孫を省いたのは、夫人姜氏

      を尊重したからである。

       君子(識者)の評に、

       「春秋の記述は、

       微(かすかで分かりにくい)にして顕(はっきりしてよく分かる)、

       志(意図があるようで)にして晦(かい。明らかでなく)、

       婉(えん。遠回しな表現)にして章(文章)を成し(整然と

       まとまる)、尽くして(事実を残らず記し)汚れず(歪曲しない)、

       悪を懲らして善を勧む。

        聖人でなくて、誰がこのように作れようか」と。 

        ☞ 叔孫僑如は、魯の三桓の一の叔孫氏の長。

                       
        日本では、飛鳥時代に、聖徳太子(厩戸王)の制定とされる

      「十七条憲法」の第六条に、

       悪を懲(こ)らし善を勧るは、古の良典なり、と。

       以下その続文を掲げる。

       是(ここ)を以て人 善を匿(かく)すことなし。

       其れ諂詐(てんさ)する者は、国家を覆すの利器たり、人民を絶つの

       鋒釼(ほうけん)たり。

       亦た佞媚(ねいび)の者は、上に対しては下の過ちを好く説く、

       下に逢っては上の失(とが)を誹謗す。

       其れ此(かく)の如きは、

       人皆 君に忠なく、民に仁(いつくしみ)なし。

       是 大乱の本なり。

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(病 膏肓に入る)

       「病 膏肓(こうこう)に入る」

                           ◇ 東周王朝 ◇

        治療方法がないほどの重い病気に罹ること。

         ☞ 膏は心臓の下、肓は横隔膜の上をいう。

        内蔵のこの部分は体の一番深い所にあり、もはや鍼も効かず、

       薬も効果なしとして、医者も匙を投げたという故事からの成語。

        現在では本来の意味から転じて、道楽や悪癖が深みにはまり、

       手の付けられない状態になることを言う。

        ※ 膏肓(こうこう)の「肓」は、その字形が「盲」に似ている

          ことから、巷間、

          「病 膏盲(こうもう)に入る」

         と字体と読みが誤用されてきた。

          そこで現在では、

          「膏肓」を(こうもう)と読んでもよいようになる。

        春秋時代、晋・景公㉖十九年(前581年)、景公は夢を見た。

        幽鬼が髪を地に引きずり、胸をたたき、足を踏み鳴らして叫んで、

        「よくも吾の子孫を殺したな。天帝に許しを得たぞ」と言って、

       宮門に押し入り、更に中門を破壊して迫って来た。

        景公は逃げようとするが、意の如くならず金縛りの状態になった。

        だがそのうちに目が覚めた。

        景公は直ちに桑田の巫師を召し寄せたが、巫師は話も十分に

       聞かない内に、景公の夢の通りの呪いを語った。

        公 曰く、「如何(吾はどうなるのか)」と。

        巫師は、「新を食わざらん」と。

        (=今年は新麦を召し上がることはないでしょう。)

        その後、景公は病が重くなったので、名医を隣国の秦に求めた。

        秦伯は、名医の高緩(こうかん)を派遣すると知らせた。

        ☞ 秦伯とは、秦の国君は爵位が伯爵であったので、秦伯という。

        だが、名医が到着する前に、景公は夢を見た。

        病、二豎子(じゅし)となりて曰く、

        (=景公の夢中で、疫病神となった二人の子供が話し合って、) 

        「彼は良医なり。懼(おそ)らくは我を傷つけん。

       焉(いず)くんぞ之を逃れん」と。

        (=彼は名医だ。俺たちは、やられるかもしれないぞ。

         どこに逃げたらよかろうか。)

        其の一曰く、

        「肓の上、膏の下に居らば、我を如何せん」と。 

        (=横隔膜の上、心臓の下に逃げ込めば、名医と雖も我らに

         手を出せまい。)

        医 至る、

        曰く、

        「疾(疾病)は為(おさ)むべからず。肓の上、膏の下に在り。

       之を攻(おさ)むるも可ならず。之に達せんとするも及ばず。

        薬は至らず。為(おさ)むべからず」と。

        (=病気は治して差し上げることはできません。

          病巣が肓と膏の間にあるので、鍼をしようにも鍼は通らず、

         薬は効きません。

          もはや治すことはできないのです。)

        公 曰く、「良医なり」、と。

        厚く之が礼を為して之を帰す。

        その後 六月丙寅(13日)、景公は新麦を食べると言い出し、

       公田の役人に麦を献上させ、料理番が麦飯を調理した。

        この時、景公は桑田の巫臣を呼び出し、死の予言が当たらなかった

       ので殺してしまった。

        そして、いざ食べようという段になって、急に腹が張るので厠に

       行ったが、中に転落して亡くなった。

                      「春秋左氏伝 成公十年」

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(南橘北枳)

       「南橘北枳(なんきつほくき)

                          ◇ 東周王朝 ◇

        人の性質は住む環境や受ける教育によって、大きく影響される

       ということの例え。

        橘(たちなな。ミカン)も枳殻(きこく。カラタチ)も同じ仲間の

       樹であり、その花・実・香り・棘の付き具合までよく似ているが、

       ただ枳殻の実だけは食用には適さない。

        その理由とするものは、淮河を境として、その南北では水質や

       土壌が異なるから、同じものが橘と枳殻に分かれるのだと為す。

      《 晏嬰、楚に使いす 》  

        春秋時代、斉の晏嬰が王命(霊公㉔)により、使者として楚を訪問

       した。

        楚の王は晏嬰が賢知なるを知るも、その身が短小なることも知って

       いた。

        そこで、晏嬰をからかってやろうと、事前に城門の傍らに小門を

       設置し、案内する者に命じて、晏嬰をその小門から導こうとした。

        ところが、晏嬰はその小門を潜らず、

        「狗国に使いする者は、狗門より入る。

        今 臣は楚に使いす。将にこの門より入るべからず
    」と言って、

        外国の使者に対する楚の非礼を咎めるとともに、暗に楚は狗国

       なのかな、と揶揄して非難した。

        行人(外交上の接待役)は、改めて晏嬰を大門から導き入れ、

       楚王の下に案内した。

        楚王は晏嬰を謁見した後、再び晏嬰をからかって、

        「斉には人なきか、子(子供)をして使いたらしむ」と。

        晏嬰は言う、

        「斉の国都・臨淄は、三百の条坊有り。

        国人は肱を張って袂を挙げると、日を遮って影が出来、彼らの汗は

       雨となるほどです。

        どうして、人なきと言えましょうぞ」と。 

        楚王は言う、

        「それならどうして、子を使いに出すのか」と。

        晏嬰は対えて、

        「斉が使いを命ずる場合、

        賢なる者は賢主(賢明な国主)に使いさせ、

        不肖(愚か)なる者には不肖主に使いせしむ。


        嬰は最も不肖なり、故に楚に使いするに都合よければなり」と。

      《 楚王の恥の上塗り 》

        晏子(晏嬰)の歓迎の祝宴の時、楚王は再び賢者の晏子を辱める

       ために、予め仕組んだ芝居が行われた。

        楚王の目に入るようにと、宴席の外では二人の役人が、一人の男を

       縛して曳いて来た。

        王は問う、「何者ぞ。」

        役人は対えて、「斉人で、盗の罪を犯した者です」と。

        王は、晏子を顧みて曰く、

        「斉人 もとより盗を善くするか」と。

        晏子、座を退いて対えて曰く、

        「晏子これを聞く、

         【橘、淮南に生ずれば則ち橘と為り、

        淮北に生ずれば則ち枳殻と為る。】


        葉はただ似るも、その実味は同じからず。然る所以の者は何ぞや。

         水土 異なればなり。

         今 民は斉に成長して盗まず、楚に入れば則ち盗む。

         楚の水土、民をして盗を善くせしむる事なきを得んや」と。

         楚王は笑って、

         「聖人とは戯れ合うものではないわ。

         反って、恥をかいたわい」、と。

                        「晏子春秋 内篇・雑下」

      ☆ 「橘 化して枳となる」

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(牛首馬肉)

       「牛首馬肉」

                          ◇ 東周王朝 ◇

        見かけは立派でも、内容が伴わないことの例え。

        また,命令と実行が伴わないことの例え。

        牛首を門に懸けてて宮門の外には禁止しておきながら、宮門内では

       それを偽装して、馬肉を売るの意。

        春秋時代、斉の霊公㉔は、宮中の婦人が「大夫の飾り」を

       する者を好んだ。

        ☞ 大夫の飾りとは、即ち男装の婦人を好んだのである。

        すると、その飾りをする婦人は宮中に止まらず城中の女性が真似を

        するようになった。

        その内、さすがに風紀を紊乱する憂慮すべき社会問題となった。

        霊公も事がここに至ると捨て置けず、吏(役人)に命じて禁止させて

       曰く、

        「女子にして、男子の飾(男装)する者は、その衣を裂き、

       その帯を断たん
    」、と。

        ところが、裂衣断帯 相望んで、而も止まず。

        (=だが、子女は衣を裂き帯を断たれても、なおかつ男装する

         ことを共々請い願って、止まなかった。)

        事態かくのごとく及び、霊公は大夫の晏嬰(あんえい)に

       諮問した。

        「寡人、吏をして、女子にして男子の飾する者を禁ぜしめ、その衣を

       断裂す。相望んで而かも止まざるは何ぞや」と。

        晏嬰対えて曰く、

        「君はこれを内(宮中)に服(着用)せしめ、

        これを外(宮中の外)に禁ず。

         猶 牛首を懸けて、馬肉を内に売るが如し


        (=宮門に牛首を懸けて、則ち門外には禁止しておきながら、

         宮門内では偽装して馬肉を売るようのものです。

          つまり、禁止されたことを暗に容認するようなものです。)

        公、何を以て 内(宮中)をして服(着用)することを

       なからしめざる。 

        則ち外(宮中の外) 敢えて為すことなからん」と。

        (=内で禁ずれば、外も守りますよ。) 

        霊公は納得して、宮中でも禁じたところ、、国中で男装する者は

       いなくなった。

                      「晏子春秋 内篇・雑下」

     

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    テーマ : 中国古典・名言
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    中国通史で辿る名言・故事探訪(解剣懸墓)

       「解剣懸墓」

                          ◇ 東周王朝 ◇

        人の信義を重んずる例え。

        呉の季札が帯びていた愛剣の紐を解いて、故人の墳墓の樹に懸け

       て献上したの意。

        春秋時代、呉の寿夢⑲の末子の季札は、その賢なるを以て、

       「延陵の季子」と呼ばれていた。

        季札は王の命を受けて、中原諸国の諸侯に挨拶回りに出かけたが、

       その途中、「徐」の国に立ち寄った。

        徐の君は、季札の帯びていた宝剣に格別の関心を示し、如何にも

       欲しそうな顔をしていた。

        季札はそれと察して、出来る者ならすぐにでも贈ろうと思ったが、

       何分にもまだ使命を果たしていなかったので、使命を果たした後に

       贈るつもりで、一旦は徐を後にした。

        そして使命を果たした後、再び徐を訪れた時には、既に徐の君は

       この世にいなかった。

        そこで季札は故人の墳墓にお参りを済ませてから、宝剣を身から

       外して、墓前の樹に懸けて贈り、帰国の途に就いた。

        季札の従者が言った。

        「徐の君は既に亡くなられました。猶 どなたにお遣りになられるの

       ですか。」

        季札は言った、

        「いや誰でもない。初め徐の君にお会いした時から、私の心は既に

       徐の君に差し上げようと決めていたのだ。

        どうして徐の君が亡くなられたからと言って、自分の心に背くことが

       出来ようぞ。」

                     「十八史略 春秋 呉」、「蒙求」 

        ※ 春秋時代の名剣の輩出地は、呉と越であった。

          当時の剣は青銅製ではあったが、その特殊な鍛造法と熟練に

         より、鉄剣に劣るものではなかったようである。

          戦国時代には鉄製武器も多く作られるようになったが、戦国時代

         を制した秦は、最後まで青銅武器に拘って戦い抜き、遂に天下を

         統一した。

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(過ちて能く改むる者は、)

       「過ちて能く改むる者は、民の上なり」

                          ◇ 東周王朝 ◇

        失敗してもそれを反省して改善できる者は、人民の上に立つことが

       出来る。

        魯の三桓の季文子(季孫行父)は、先代の宣公㉑に引き続き

       成公㉒に仕えて執政を務めていた。

         ☞ 季文子は、季孫氏の祖たる成季(季友)の子。

        季文子は常に変わらず質素を旨として、その妻妾は絹の衣装を着る

       ことも無く、馬には粟を食わすということも無かった。

        そのような季文子に対して、上卿の孟献子(孟孫蔑)の子である

       仲孫它(た)が諌めて言った。

        「子は魯の上卿と為りて、二君に相たり。

       妾、帛(絹)を衣(き)ず、馬、粟(上等の飼料)を食わず。

        人 それ子を以て、愛(お)しむと為す。且つ国の華にせざるか」

       と。

        (=人はあなたが倹約しすぎて、反って国の繁栄を妨げている。)

        その非難に対して季文子は、

        「吾も、またこれを願えり。

         然れども吾 国人を観るに、その父兄の麤(そ。粗)を食らいて、
      
        悪しきを衣(き)る者 猶多し。吾 是を以て敢えてせず。

         人の父兄は麤を食い、悪しきを衣て、吾 妾と馬とを美しくせば、

        乃ち人に相たるに非ざる無からんや。

         且つ吾 徳の栄えるを以て国華と為す を聞く。

         妾と馬を以てするを聞かず」と。

         ※ 要旨は、盛徳こそは国の栄華であり、妻妾や馬の贅沢が

          国の栄華というものではない、ということ。

         後に季文子は、仲孫它の父・孟献子にその経緯を話した。

         孟献子は、我が子を七日間 軟禁して戒めた。

         そして軟禁が解かれてから仲孫它は、その妾の衣装は粗末な布

        しか使わさず、馬の秣(まぐさ)も雑草にした。

         いつしか季文子はその噂を耳にして、言った、

         「過ちて能く改むる者は、民の上なり」と。

         そして後に彼を上大夫に任じた。

                      「国語 魯語」

         □ 春秋時代の支配階級

                     天子(周王朝の王) 

                          ↓

            諸侯          大夫         士


             ↓           ↓     
                                 
         大夫    士        士
      
           ※ 大夫には、卿大夫(上卿)  上大夫とも

                          中卿   中大夫  

                          下卿   下大夫 

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(楚王弓を失い、)

       「楚王 弓を失い、楚人 之を得」

                          ◇ 東周王朝 ◇

        人の度量の狭いことの例え。

        楚王が名弓を失ったが、楚の人がそれを拾ったので、改めて探がし

       求める必要はないという、王の器量の大きさが原意であった。

        楚の共王㉔が出猟して、烏嘷(うこう)という名の名弓を亡くした。

        左右の者が、之を探し求めることを請い願った。

        王は言った、

        「止めよ。楚王 弓を失い、楚の人が之を得る。

       また何ぞ之を求めん
    」と。

        孔子、之を聞きて曰く、

        「惜しいかな、それ大ならざることや。

        (=惜しいけれども、それは大きな度量ではありえない。) 

         人 弓を落として、人 之を得んのみ、と曰わざるや。

         何ぞ必ずしも楚ならんや」と。 

         (=どうして楚に限ることがあろうか。)  

                      劉向「説苑」・「孔子家語 好生」

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(草を結ぶ)

       「草を結ぶ」

                          ◇ 東周王朝 ◇

        恩に報いることの例え。

        晋の大夫・魏顆(ぎか)の父・魏犨(ぎしゅう。武子)には愛妾が

       いたが、その愛妾には子はいなかった。 

        時に、魏武子が病に罹った。

        そして魏武子は覚悟を示すべく、息子の魏顆を呼び寄せて、言い

       渡した。

        「必ず之(愛妾)を嫁入りさせよ」、と。

        ところが、魏武子はいよいよ死が近づいてくると、前言を翻して、

        「殉死せしめよ」、と遺言した。

        父の死後において、魏顆は父の病の甚だしくない時の言葉を重ん

       じて、父の愛妾を他家に嫁がせてやった。 

        時代は下って 晋・景公㉖六年(前594年)秋七月、

        秦の桓公⑫は晋を撃ち、晋の領土の輔氏に軍を進めた。

        時に 晋侯は狄を攻略中であったが、この報に接して、急遽 

       洛水まで帰ってきた。

        ところが既に洛水には、魏顆が秦軍を破り、敵の勇士・杜回を生け

       捕り、帰っていた。

        この杜回の捕獲に先立ち、魏顆は秦軍を迎えて防戦に努めていた

       が、一時 大変な苦戦を強いられると言う経緯があった。

        その時 戦場のとある草原で、魏顆の率いる晋軍を猛烈に攻めて

       いた敵の勇士・杜回が不意に草に躓いた為に、僅かに生じた隙に魏顆

       は危地を脱することが出来、逆に戦いを有利に進めることが出来るよう

       になり、遂に秦軍を撃ち破り、杜回を生け捕りにできた。

        そしてその夜、夢うつつの魏顆の枕元に、老人が現れて、

        「戦場に草を結び、敵軍を躓かせてお助けしたのは、あなたが私の

       娘を殉死させず、他家に嫁がせてくれたご恩に報いたのです」と

       言って消えた。

        ※ この霊魂の働きの故事から、

          恩に報いることを「草を結ぶ」と言うようになる。

                       「春秋左氏伝 宣公十五年」

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(長鞭馬腹)

       「長鞭馬腹」

                          ◇ 東周王朝 ◇

        強大な勢力でも、時には及ばない事もあるという例え。

        長い鞭であっても、馬の腹までは届かないの意。

        楚・荘王十九年(前595年)、楚が見舞で斉に派遣しようとした

       使者の申舟を、宋が途中で邪魔をして之を殺してしまった。

        楚王は申舟を送り出す時、

        「宋を通る時 挨拶をするな」と、

        また晋へ使いに出す公子馮(ひょう)には、

        「鄭を通る時 挨拶をするな」と命じた。

        斉へ使いを命ぜられた申舟は、以前 宋の猛諸で狩猟した折に、

       宋の文公㉒に恨みを買っていた。

        だが覚悟の上で王に言った、

        「鄭は目先が見えるが、宋は聞く耳を持ちません。晋へ行く使者は

       無事でも、私はきっと死ぬでしょう」と。

        それに対して荘王は、

        「子 が討たれれば、我が宋を伐つ」と約束した。

        申舟は、吾が子を王に引見させてから出立した。

        果たして、申舟が宋を通る時 捕まってしまった。

        宋の大夫・華元は言う、

        「我が国を通過するのに挨拶もせぬとは、宋を属国扱いするのか。

         属国扱いされているなら、滅びたも同然である。

         この使者を殺せば、きっと攻めてくるだろうが、攻められたら滅び

        るは必定。

         使者を殺しても殺さぬでも、どうせ亡国となるのだ。」と言って、

        遂に殺してしまった。

         九月、荘王は開戦の理由がついたので、待ってましたとばかりに

        宋に攻め込み、宋の都城を包囲した。

         翌年の春、宋は楽嬰斉を使者として、晋に急を告げさせ救援を

        請うた。

         晋の景公㉖は救おうとしたが、伯宗が君を諌めて言う、

         「駄目でしょう。古い言い草に

         【鞭の長しと雖も馬腹に及ばず】と申します。

         今 天運は楚の上にあって、戦いにはなりません。

         晋が強くても天運には勝てません。

         是も天命なら、しばらく待たねばなりませんぞ」と。

           ☞ 宗伯とは、祭祀や礼法を掌る官。

        「義に二信なく、信に二命なし

         義 即ち正しい君命を守れば、こちらの人に一つの信義を立て、

        また別の人に信義を立てるということはできない。

         また信義を忠実に守るならば、その者に対して別の命令が重ね

        て出てくるはずもない。

         そこで晋侯は、宋救援を中止したが、解揚を激励の使者として

        派遣し、

         「晋はあらん限りの軍を繰り出して、もうすぐ到着するであろう。

        宋よ降らず頑張れ」、との口上を与えた。

         だが解揚は途中 鄭で囚われ、楚の陣営に送致された。

         楚は解揚に多くの賂を約束して、彼に課せられた使者としての

        口上を阻止し、それとは逆の口上を言わせようと画策した。

         解揚は同意しなかったが、三度目にしてようやく同意したので、

        車高の高い車に乗せて、宋の城内に向けて叫ばせた。

         すると解揚は、晋の君命である口上を正しく伝えた。

         激怒した楚は、解揚の約束違反を責め、

         「何故背いたか。我が方は信義を守るつもりであったが、

        お前の方が約を破ったのだ。さっさと刑に就くがよかろう」と。

         解揚は、悠然と己の覚悟の信念を述べた。

         「臣は聞いております。

         【君が正しく命令を出せるならば、これを義といい、

         臣がまともに命令を果たせるならばこれを信という
    】と。

         義に二信なく、信に二命なし。

         我が約束したのは、主命を果たさんがためなり。

         死んで命令が果たせるならば、臣の幸いなり。 

         我が君には信義を守る臣が出来、臣は事を成して死ねます。

        この上何をか望まんや」と。

         楚王は解揚の堂々たる心意気に免じて、帰還させた。

         五月、楚軍は包囲を解いて、宋を去ろうとした。

         この時、今は亡き申舟の遺児・申犀が王の車前に頓首し嘆願

        して、言った、

         「我が父は死を承知で王命を果たそうと致しましたのに、

        その時のお約束をお破りになられますか」と。

         さすがに王は言葉を失ったが、王の御者の申叔時が進言した。

         「我々が郊外に梄(すみか)を築き、そこに退き下がって耕作

        でも始めるならば、長居されると宋も窮迫し、当方の言うことも

        聞きましょう」と。

         楚軍が国境付近に居座ることになり、宋公は不安になり、

        執政将軍の華元を闇にまぎれて城から抜け出させて、直談判させる

        ことにした。

         華元はこっそり楚の令尹・子反の陣に紛れ込み、子反の寝台を

        揺さぶって起こし、宋の実情を具(つぶさ)に語った。

         吾は我が君から、「この宋の苦しさを包み隠さずに話して来い」、

        との命を受けて参りました。

         「今や宋は子供を取り換えて食い、屍を薪に用いねばならぬ。
      
         しかしながら城下の盟だけは、国が滅んでも結びたくないのだ。

         楚が三十里だけ退却してくれたら、どんな言い分でも聞く心算

        でいる」と。

         子反は不意を衝かれて動転していたが、宋の言い分をそのまま

        荘王に伝えた。

         かくして荘王は軍を三十里を退いて、宋と和平し、華元が人質と

        なって楚に入った。

         其の盟に言う、

        「吾 汝を詐(いつ)らじ、汝 吾を欺(あざむ)くべからず」と。

                    「春秋左氏伝 宣公十四年・十五年」


    テーマ : 中国古典・名言
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    中国通史で辿る名言・故事探訪(両頭蛇)

       「両頭蛇」

                          ◇ 東周王朝 ◇

        春秋時代の昔、楚の国では頭の二つある蛇に出会うと、人は死ぬ

       という言い伝えがあった。

        孫叔敖(そんしゅくごう)がまだ幼少の砌(みぎり)、不運にも

       この両頭蛇に出遭ってしまった。、

        だが彼は義侠心から、後々の人の為にこの蛇を殺して、土中に

       埋めてしまってから家に帰った。

        ところが自分の行いに不安が付きまとい、食も進まぬ様子であった。

        悶々とする我が子を見るにつけ、母親はその理由を尋ねた。

        すると、孫叔敖は泣いて答えた。

        「今日、吾 両頭の蛇を見る。恐らく死を去る日なけん」と。

        (=今日 自分は二つ頭の蛇を見たので、恐らく死から免れない

         だろう。)

        母はさらに聞く、

        「今 蛇はいずくに在る」と。

        叔敖は答えて、

        「吾聞く、両頭の蛇を見る者は死すと。吾 他人のまた見んことを

       恐れ、已に之を埋めぬ」と。

        訳を聞いて母親は、叔敖を諭して言った、

        「憂うること無かれ、汝 死せず。吾これを聞く、

        《陰徳ある者は、天 報くゆるに福を以てす》」、と。 

        (=人知れず善行を積んだ者には、天はその内に、其の善行に

         対して福を授けてくれるものです。) 

        果たして、孫叔敖が長ずるに及んで、、楚王のお召しを受けるように

       なり、その後 才覚を発揮して令尹(宰相)にまで出世した。

        ※ 孫叔敖が令尹に任ぜられるのは、邲の戦い(前597年)の前年

         である。

          邲の戦いは春秋の五大会戦の一つと言われ、鄭を巡っての、

         楚の荘王㉓と晋の景公㉖の決戦であり、晋が大敗する。

          この戦いの勝利により、楚の荘王は「春秋の覇者」と

         認められる。

          孫叔敖は通称であり、姓は羋(び)、氏は蔿(い)。諱は敖。

          蔿艾猟(いがいりょう)ともいう。父は蔿賈。

          曽祖父は、楚の16代君主の蚡冒(ふんぼう)である。

                      前漢 賈誼(かぎ)「新書春秋」

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    テーマ : 神話伝説逸話
    ジャンル : 学問・文化・芸術

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(鶏皮三少)

        「鶏皮三少(けいひさんしょう)

                         ◇ 東周王朝 ◇ 

        老人が何度も若返ることの例え。

        鶏の皮のような皺だらけん老人が、鶏の毛が三度生え代わるように

       若返るの意。

        「夏姫、道を得て、鶏皮 三度少(わか) 」

        春秋時代、鄭国生まれの妖艶な夏姫は、男性遍歴の余りの長さの

       故に、いつしか仙術を会得し、鶏の毛が三度生え代わるように

       老いの身を三度 若返らせた、との噂が立った。

                      「列女伝」の韻府の引より。

        ☞ 「韻府」とは、漢字の語彙を韻字によって索引出来るように

          した手引書。

     

    テーマ : 中国古典・名言
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    中国通史で辿る名言・故事探訪(奔命に罷る)

       「奔命に罷(つか)る」

                          ◇ 東周王朝 ◇

        君命に奔走すること。

        忙しく駆け巡ることをいう。

        楚の巫臣は、夏姫の夫である連尹(弓矢の管理官)の襄老が

       晋と楚の戦いである邲の戦い(前597年)で戦死した後、

       夏姫に通じた。

        それから幾年か後、巫臣は密計を以て夏姫を生国の鄭に帰し、

       時宜を見て妻として迎える約束をした。

        その後 前591年、楚では荘王が崩じて、共王が即位した。

        共王は斉と盟約を交わして、魯を討とうとしたが、その前に出師の

       打ち合わせで、巫臣を斉に使者として派遣することにした。

        巫臣はこれ幸いとばかりに、家財道具一式を取りまとめ、

       慌ただしく楚を出立した。

        途中 巫臣は夏姫の生国・鄭に至り、同行していた副使らを鄭

       から楚への贈り物を持たせて帰国させ、自らは手筈通り夏姫を伴い

       斉へ亡命しようとした。

        だがその思惑は外れて、斉が晋に敗れるという報(鞍の戦い)

       に接し、急遽 晋の大夫・郤至(げきし)を頼ることになり、

       取り敢えずは単身で晋に亡命した。

        巫臣は、郤至に世話になる内、その才覚を認められるようになり、

       刑邑の地の代官を拝命したので、夏姫を晋に呼び戻した。

        そのことを伝え聞いた楚の令尹子反(側)と子重(嬰斉)は、

       楚に残っていた巫臣の一族を皆殺しにし、その財産を横領した。

        この殺戮を耳にした巫臣は激怒して、彼らに次のような書を送った。

        「爾 讒慝貪惏(ざんとくたんらん)を以て君に仕え、

        多くの不辜を殺す。

         余 必ず爾らをして本命に罷(つか)れ、以て死せしめん
    」と。 

         ☞ 讒慝は邪まな人。貪惏は非常に欲深いこと。

           不辜は罪なき者。

         ☆ 「史記」では、「必ず子をして奔命に罷れしめん」と。

        巫臣は先ず晋王に願い出て、当時は後進国と見做されていた呉

       への外交使節を買って出た。

        巫臣の目論見は、先ず呉を強くして楚の背後に楔を打つというもの

       であった。

        巫臣に進言は採用され、巫臣に与えられた三十乗の兵車を率いて、

       呉王・寿夢に謁見した。

        寿夢は巫臣の説くところに共鳴し、協力態勢は整った。
       
        巫臣は、兵車操練に未熟な呉に十五乗と射手や御者を呉王に

       献上し、さらに呉の兵士に操練法や戦法などを指導した。

        彼らがある程度習熟すると、取り敢えず巫臣は帰国するが、

       同行してきた息子の弧庸を残して軍事教練を指導させた。

        巫臣親子の努力の結課、呉軍はたちまち見違えるようになり、

       楚と対等に戦うまでになった。

        その為、楚の子反と子重は君命を受けて、防戦に駆けずり回る

       ようになった。

                      「春秋左氏伝 成公七年」

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    テーマ : 中国古典・名言
    ジャンル : 学問・文化・芸術

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(春秋の妖婦・夏姫)

       「春秋の妖婦  陳の夏姫の禍」

                          ◇ 東周王朝 ◇

        陳・霊公⑱十四年(前599年)、霊公は大夫であった夏御叔の

       未亡人の夏姫と通じていた。

        夏姫は鄭の穆公⑪の娘であり、食い物の怨みで公子宋に殺された

       霊公⑫の妹でもあった。

        夏姫は夏御叔との間に一子・徴舒を儲け、今は夫に死別して

       寡婦であった。

        ところが夏姫は、あろう事に陳の霊公の他に大夫の孔寧と儀行父

       にも通じていた。

        夏姫に通じたこの三人は、それぞれ夏姫からもらい受けた襦袢

       (下着)を朝儀の席にまで着込んで来て、ふざけ合うという体たらく

       であった。

        ある日、堪りかねた大夫の泄冶(せつや)は霊王に諫言を呈した。

        霊公がその事を二人の大夫に話すと、二人は之を殺さんと息巻い

       たが、霊公はそれを制することも無かったので遂に泄冶を殺して

       しまった。

        翌年、霊公と二人の大夫は夏姫の屋敷で酒宴に耽り、霊公が、

        「ここの息子の徴舒は、お前達に似ているぞ」と言えば、

        二人の大夫も負けずに、

        「殿にも似ておりますぞ」と言い合う始末であった。

        そのような三人の悪ふざけが耳に入った夏徴舒は、怒り心頭に

       発して霊公の帰りを待ち、弩(ど)を厩門に伏せておき霊公を射殺し

       てしまった。

        二人の大夫は楚へ、霊公の大子・午は晋へ逃れ亡命した。

        ここに至り、夏徴舒は自ら陳王を名乗った。

                     「春秋左氏伝 宣公十年」

       ★ 「三夫二君一子を死なせ、

          一国二卿を滅ぼす


          夏姫の妖婦ぶりを評する言葉である。

          三夫とは、最初の夫(若死しており人物像は不明)である子蛮、

         次に陳の大夫・夏御叔(病死)、それに楚に抑留されていた時の

         夫である楚の襄老(戦死)を言う。

         ※ 春秋左氏伝・杜注では、子蛮の代わりに、巫臣(ふしん)と

          する。 

          二君とは、陳の霊公⑱(夏姫の息子の夏徴舒が弑殺)と

         楚の荘王㉓(自然死)を云う。

          一子は、もちろん我が子の夏徴舒(即位紀年にして、楚の荘王

        に攻め殺される)である。

          一国二卿とは、

          子の夏徴舒が治める陳国(楚の荘王に征伐され、一時的に併合

         された)と、楚の令尹・子反と大夫・子重を云う。

          ☞ この二人の大夫は、夏姫の愛人ではないが、夏姫が楚に

            抑留中、その美貌に食指を動かせた当事者。

            その食指を妨害したのが、夏姫の最後の夫となる楚の名臣

           と言われた巫臣であり、後にこの巫臣が夏姫を横取りして晋に

           亡命したのを怨み、楚に残留していた巫臣の一族を族滅し、

           財産を横領した。

            巫臣はその事で彼らを許すまいと、楚の隣国の呉に働き

           かけ、彼らを国境の防衛に奔走させるようになる。

                      「春秋左氏伝 成公二年」

     

    テーマ : 神話伝説逸話
    ジャンル : 学問・文化・芸術

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(臣と為りては必ず臣たり、)

       「臣と為りては必ず臣たり、

        君と為りては必ず君たり」


                          ◇ 東周王朝 ◇

        臣下は必ず臣下としての道を行い、

        君主は必ず君主としての道を行うべきである、という封建国家に

       おける君臣間のあるべき準則。

      《「魯の三桓」の将来予測》

        周・定王㉑八年(前600年)、定王は劉康公を使節として魯を

       訪聘(ほうへい)させた。

        ☞ 訪聘:天子或いは諸侯が大夫を使者として、他の諸侯を訪問

          させること。

        当時の慣例儀式として、魯の大夫にそれぞれ幣(贈り物)を贈った。

        その際 劉康公は、魯の三桓として権勢を振るう大臣の季文子

       (季孫行父)、孟献子(孟孫蔑)、叔孫宣伯(叔孫僑如)の内、

       季文子と孟献子は質素倹約だが、叔孫宣伯と公族たる東門子家

       (公孫帰父)はすこぶる驕り昂っていた、と観た。

        劉康公は帰朝報告の時、定王から質問を受けた、

        「魯の大夫は、誰が賢者か」と。

        対えて曰く、

        「季氏と孟氏の両家は将来 長く魯に残りましょう。

       叔孫氏と東門氏の両家は滅びるでしょう。

        若しその家が滅びないなら、彼ら自身がきっと滅亡を免れま

       せん」と。

        王はその理由を質した。
       
        「臣の聞くところ、《臣と為りては必ず臣たり、

       君と為りては必ず君たり
    》と。

        寛粛宣恵は君なり。敬恪恭倹(けいかくきょうけん)は臣なり。 

         ☞ 寛粛宣恵:寛大でいて厳粛であり、宣明かつ慈恵の意。
         
           敬恪恭倹:敬って謹み勤め、恭順にして倹約の意。

        君が寛粛宣恵なれば、即ち以て長く保つべし。臣が敬恪恭倹なれば、

       即ち上下に隙 無かるべし。

        君が事を行って疎漏が無く、臣がよくその任に堪えるならば、

       令聞(れいぶん。良い評判)は世に長きを為す所以なり。

        今 彼の二氏は倹約にして、能く費用を足らしておりますので、

       将来も族を守ってゆくことが出来ます。

        ところが、彼の二氏は驕って贅沢に耽り、窮乏の憂いを抱いて

       おりません。いつかは窮乏が我が族を亡ぼしましょう。

        また臣たる者が驕らば、国家は堪えずこれ亡びるの道であり

       ます」と。 

        果たして、周・定王十八年(前590年)、東門子家は魯国の

       内紛でに亡命し、次の周・簡王㉒十一年(前576年)には、

       叔孫氏の本家たる叔孫宣伯も斉に亡命することになる。

                      「国語 周語」

       魯の三桓と東門子家の系譜 

       魯・桓公⑮ → 荘公⑯ → 閔公⑰

                     公子遂 → 東門子家(公孫帰父)

               ①慶父(共仲) →    ⑤孟献子(孟孫蔑)

               ①叔牙(僖叔) →    ④叔孫宣伯(僑如)

               ①季友(成季) → ②季文子(季孫行父) 

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    テーマ : 中国古典・名言
    ジャンル : 学問・文化・芸術

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(食指が動く)

       「食指が動く

                          ◇ 東周王朝 ◇

        本来は、美味しい物が口に入る前兆。

        転じて、物事に対して欲望を感じることを言う。

        ☞  食指は、人差し指。

        ある時、鄭の霊公⑫の下に、楚から大きな鼈(スッポン)が

       贈られてきた。

        ※ 霊公(姫夷)は即位する以前の若い頃 楚の人質に

          なっていたが、その時 楚の大子・旅(即位して荘王㉓)

          の知遇を受けた。

           そのため即位してからは、それまでの親晋外交を、

          親楚外交に切り替えようとして、公子の子家などと対立

          するようになる。

        たまたまその日、鄭の大夫で公子でもある子宋と子家(名は帰生)

       の二人が共に参朝してきた。

        王に拝謁する前に、公子宋の食指(人差し指)がピクリと動いた。

        そこで公子家に示して言った、

        「他日 我 此の如くなるときは、必ず異味を嘗(な)」と。

        (=いつもこの指が動くと、必ず珍味な食べ物がこの口に入る

         のだ。)

        二人は霊公に拝謁した後に、スッポンの吸い物が用意された。

        公子宋は笑って言った、

        「やはいりそうだったか」と。

        怪訝に思った霊公に問われるままに、公子宋は憚ることもなく、

       その理由を話した。

        ところが霊公は生来皮肉屋であったので、理由を聞いて気分を

       害し、また悪戯心もあって公子宋にだけその吸い物を与えようと

       しなかった。

        怒った公子宋は、無礼にも吸い物の入った鼎に指を染めて、

       さっさと御前から退出してしまった。

        ☞ 「指を染む」とは、食べ物に指を付けて嘗めることだが、

           転じて、物事に着手すること、或いは分外の利益を受ける

          ことを言う。

        霊公は無礼を怒り、公子宋を殺そうと図ったが、先に察知した

       公子宋は策を施して公子家を抱き込み、先手を打って霊公を弑殺

       してしまった。

                      「史記 鄭世家」

         峻厳で知られる「春秋経」では、公子宋ではなく、

          「鄭の公子帰生、其の君 夷を弑す」と記す。

          現実には公子宋が手を下したのだが、公子帰生はそれを押し

         止める事が出来なかったので、臣下としての罪あり、と

         断罪された。



     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(鼎の軽重を問う)

       「鼎の軽重を問う

                          ◇ 東周王朝 ◇

       「鼎の小大、軽重を問う」とも。

       君王(統治者)を軽視して、その地位を奪おうとする野心のあること。

       周王朝の王権の象徴である「九鼎(きゅうてい)」の大きさ及び

      その重さの加減を尋ねるが原意。

       現在では、その人の実力を疑い、その能力を問う、というほどの意。

       楚・荘王八年(前606年)、荘王は鄭を討ち、さらに洛陽南方の

      陸渾の戎を討伐し、その余勢をかって周都に近い洛水の境で威圧的

      軍事行動をした後、観兵式を行った。

       周朝の定王㉑は、慌てて大夫の王孫満を楚の陣営に派遣し、

      荘王の遠征を慰労させた。

       会見の席上で荘王は、王孫満に周王朝に伝来する鼎の大小、軽重を

      問うた。

       即ち、出来るものならば、楚国に持ち帰りたいという荘王の意中を秘め

      ての探りである。

       王孫満は毅然として応答した。

       「鼎の重さや大きさは、持つ人の徳に在りて鼎に在らず。

        昔、夏王の徳が十分であった時に、遠い国々から地方の風物を画に

       描いて献上し、九州の長官たちを通じて金(銅のこと)を上納した

       ので、夏王はその金で鼎を造り、地方の風物事象を彫り込ませた

       ものです。

        そのように色々な物を予め知らせておいて、人民に悪魔の見分けが

       つくように工夫したわけです。

        ところがその後、夏の桀王の乱暴から鼎は商(殷)に移り、

       六百年が経ちました。

        再び商の紂王の悪行から、鼎は周に移ったのです。

        徳が輝かしければ小さい鼎も重く、徳が邪(よこしま)ならば

       大きくとも軽いと言えます。

        天が徳に報いるにも期限がありまして、昔 成王が鼎を安置する

       時に、今後 王が何代続くや、歳月はどれほどか、と占ったところ、

       三十世七百年という結果が出ましたが、これは天命というものです。

        今では周王の徳も衰えましたが、天命の革まらぬ限りは、鼎の重さを

       他人が問うことではありません
    」、と。

        荘王は、その実力を周朝に誇示するのが目的であったので、

       それ以上の徴発はせず、軍を収めて本国に引き上げた。

                     「春秋左氏伝 宣公三年」

        ※ この「鼎の軽重」の故事については、新興勢力の楚の国力を

         誇示するために、後世の人が作った説話だと見做されている。

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(窮すれば則ち変じ、)

       「窮すれば則ち変じ、変ずれば則ち通ず」

                          ◇ 東周王朝 ◇

        何事も窮すれば必ず変化が生じ、変化が起これば必ず道が生じて

       くるものである。

                     「易経 繋辞下」


        晋・霊公十四年(前607年)秋九月、霊公は酒宴にことよせて

       趙盾を招き寄せ、伏兵を以って殺害しようと機会を窺っていた。

        ところが趙盾の車右・堤弥明(ていびめい)が寸前に霊公の陰謀

       を見抜き、我が身を以って趙盾を守り、伏兵を斬り伏せて趙盾を無事

       に脱出させた。

       「翳桑(えいそう)の餓人」

        人から受けた施しや恵みに報いることの例え。

        趙盾自身も追跡する伏兵と切り結んで逃走しようとしたが、突然 

       伏兵の一人の霊輒(れいちょう)という者が趙盾を庇って、

       その矛先を仲間に向けて、同士討ちを始めたので、何とか危機を

       脱することが出来た。

        この危機に堤弥明は斬り死にしたが、霊輒は趙盾の国外逃走を

       手助けした。

        危機を脱した趙盾は、霊輒に感謝しその助けてくれた訳を

       尋ねた。

        しかし霊輒は、「翳桑の餓人でございます」と言うだけで、

       何も応えず退き下がり、それきり行方は分からなくなった。

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(屋漏に愧じず)

       「屋漏に愧(は)じず」

                          ◇ 東周王朝 ◇

        人のいない所においても、恥ずべき行いをしない事。

        ☞ 屋漏(おくろう)とは、家屋の西北の隅で土神を祀る所。

          西北の隅は家屋の最深部にあって、日の射さない暗所。

          「愧」の字義は、心が縮み引けるの意。

        「(なんじ)の室に在るを相(み)るに、尚 屋漏に愧じず

       (=自分の室にいて事を行うのを見るにつけ、人の見ていない所に

        いるからと言って、恥ずかしいことが無いようにしなければなら

        ない。)

                       「詩経 大雅・抑」

     》 趙盾 霊公を諌める 《

        晋の霊公㉔は、卿大夫趙盾の援けで即位することが出来た。

        だがこの霊公は、文公や父の襄公に似ず、暗君であった。

        即位するも、次第に驕慢になり、剰え恩人の趙盾の諫言にも

       耳を貸さなくなった。

        民に重税を課し、賦役を増やして王宮を飾りたて、望楼からは、

       下の通行人をめがけて弾き玉を浴びせたりして面白がり、さしたる

       理由もなく近臣を殺したりした。

        その有様を見て、遂に重臣の二人が諫言することになった。

        卿大夫の趙盾と士会(随会)である。

        二人は相談して、先ず士会が先に諫言することに決した。

        士会は逃げる霊公を執拗に追いすがり、詩などを引用しながら懇々

       と説き諌めた。

        霊公は、仕方なく「我過つところを知れり、以後 改めよう」と。

        だが霊公の行いは、依然として改まらなかった。

        今度は趙盾が、君を何度も諌めた。

        余りの執拗さに、煩くなった霊公は、いつしか彼の殺害を謀る

       ようになった。

        晋・霊公十四年(前607年)、霊公はお抱えの力士・鉏麑

       (しょげい)を刺客に任じた。

       「一名を此に受くるは、死するに如かず」 

        (=不忠・不信のどちらか一つでも汚名を蒙るくらいなら、

         死を選ぶに越したことはない。)

        鉏麑は命を受けて、明け方近くに趙盾の屋敷内に潜入した。

        そっと趙盾の寝室に近づいてみると、とは既に開け放たれており、

       参朝(朝廷に出仕)の準備も終えて、端坐して仮眠しているところ

       であった。

        鉏麑はその場を離れてから、深いため息を漏らした。

        「趙盾は敬なるかな。

        夫れ恭敬を忘れざるは社稷の鎮(重鎮)なり。

         国の鎮を賊するは不忠なり、命を受けて之を廃するは不信なり。

         一名を此に受くるは、死するに如かず」として、

        趙盾の庭の槐の木に頭を打ち付けて死んでしまった。

                      「国語 晋語」

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(人の心 持たぬ人)

        「人の心 持たぬ人」

                         ◇ 東周王朝 ◇

        人でなしの意。

        宋・文公㉒五年(前607年)春、楚の荘王㉓は鄭に命じて

       宋を撃たせた。 

        宋の宰相華元は軍を率いて、鄭の公子・帰生の軍と大棘で戦った。

        宋の軍は敗北を喫し、華元は生け捕りになり、楽呂は討ち死にし、

       鄭は大戦果を挙げて凱旋した。

        この戦いの始まる前のことである。

        出陣前に、華元は羊を屠って将士に大判振舞をしたが、

       戦場で華元の御(御者)となる羊斟(ようしん)には、その分け前

      が行き渡らなかった。

       それには訳があり、羊斟の姓が羊であたので、華元は憚って

      彼には回さないようにしたのであった。

       ところが羊斟は華元の配慮を知らず、このことを酷く怨んで

      しまった。

       いよいよ出陣となった時、羊斟は華元に言った。

       「昨日の羊は、あなたが存分になさった。

       今日の車は、私が存分に致します
    」と。

       果たして戦闘が始まるや、羊斟は総帥・華元の乗る指揮車をひたすら

      走らせ、敵陣の中に乗り入れてしまった。

       これが、華元が鄭の捕虜となった経緯である。

       君子は言う

       「羊斟は人でなしだ。私の恨みで国を負けさせ、民を殺させる。

      最大の罰を加えねばならぬ。

       詩に云う、【人の心 持たぬ人】とあるのは羊斟のことだ。

      途方もなく国に仇した男だ」と。 

     

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    tyouseimaru

    Author:tyouseimaru
    出身地は四国八十八か所参りの発心の阿波、大阪を終の棲家とする。
    歴史好きで、城郭・神社仏閣・歴史遺跡巡りが趣味となる。
    歴史小説や時代小説を好み、往年の著名な時代小説の類は概ね完読と、自負している。

    自薦
    自著「中国通史で辿る名言・故事探訪」の 上・中・下の3巻を、 近い内に「電子書籍」での出版を予定しています。 今年一年間は、さらに工夫を加えるなどして、補記訂正などの校正を第一義としています。       
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