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    中国通史で辿る名言・故事探訪(想像)

       「想像」

                         ◇ 東周王朝 ◇

       実際に知覚していない物の姿や形を、心に浮かべてみること。

       《 死象の骨を得て生象を想う 》

       道家の祖と言われる老子(老耼)は、「道」を説くのに、道は天地の

      始めであり万物の母であり、且つこの世を含む宇宙の根源的な原理

      であるとなす。

       道こそは、森羅万象の絶対的な秩序だ、と。

       この道は、時にその呼び方は同じではないが、その根源は同じところ

      に在り、これを玄という。

       玄とは、計り知れない深淵であるが、その深淵の更に奥に、微妙な

      根源の働きがあり万物の母体がある。

       之を「衆妙の門」という。

       戦国時代末期の法家の韓非子は、この老子の「道」は、姿も無ければ

      形も無いので、目にすることが出来ない「無状の状・無象の象」である

      と解釈した。

       しかしそれでも普通の人には、尚 抽象的で理解しがたいので、

       韓非子は直截的に「想像」という語句を考え出し、それを「想像」

      すれば能く分かることだと見做した。

       曰く、

       「人の生象を見るや稀なり。

        而して死象の骨を得て、其の図を案じ、以て其の生象を想う


       と。

       (=生きた象の姿を見たことのある人は、極めて稀な事であった。

         だが象の旧骨を拾い並べて、生きた象はこういう形をしていた

        のだと、「想象」することはできるはずだ。)

       かくして、「道」を理解するための具体的な譬え話として、

       想像するが如く象を想う、即ち「想象」なる思いで以てすれば、

      雑然として捉えどころのない「道の何たる」かも、知ることが出来よう

      と解した。

       ※ 「想像」という成語の典拠である。

      

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(罍恥)

       「罍恥(らいち)

                         ◇ 東周王朝 ◇

       「(へい)の罄(つ)くるは罍の恥」を簡にした成語。

       強者が弱者を、或いは富者が貧者を哀れまない事の例え。

       酒宴の席で、準備した酒がすっかり無くなることは宴主(罍)の

      恥の意。

         ☞ 瓶とは、酒などを入れる小さな器。日本の徳利に相当する。

           罍とは、大瓶。

     》  周王朝乱れる  《

       周・敬王㉖三年(前518年)六月、王子朝の軍が、周朝の領域の

      瑕と杏を侵奪した。

       鄭の定公⑱は晋に出かけたが、卿大夫・子大叔が同行して輔佐

      した。

       晋の范献子(范鞅)との会見の席上で、范献子は王室の乱れを

      懸念して、「王室を如何にすべきか」と問うた。

       定公に代わって、子大叔が応えて謂う、

       「この老いぼれの身は、自国の事さえ治める事が出来ないのに、

      如何んぞ王室の事を考える暇がありましょうか。

       しかしながら、誰かが言っております。

       【(き)はその横糸を恤(うれ)えずして、

        宗周の隕(お)ちんことを憂う
    】、と。

       (=寡婦は自分の織る横糸を心配しないで、周室の滅亡を心配して

        いる。) 

       それは周が滅べば、災いが我が身に降りかかるからなのです。

       今や王室は騒乱し、我ら小国も寡婦と同じく災いの及ぶことを心配して

      おります。

       しかしながら、そのような事は大国の心配すべきことであり、我らには

      何も分からないのです。

       あなた方が、早く処理してくれることを願うばかりです。

       詩に曰く、【瓶の罄くるは、惟 罍の恥なり

       これは王室の安らかでないのは、覇者たる晋国の恥と言えます」と。 

       ※ その意は、瓶の罄くる事を王室の乱れに、そして罍の恥を大国の

        晋に譬えたもの。 

         「詩経 小雅・蓼莪(りょうが)」が出典。  

       この子大叔の言外の非難に、諸侯が同調するのを恐れて、范献子は

      韓宣子と相談して、諸侯会盟(黄父の会)の通知を成し、日取りを明年と

      決めた。

                     「春秋左氏伝 昭公二十四年」  

        「嫠は其の緯とを恤えずして、宗周の隕ちんことを憂う」

         この句の用法は、後に至り、

         寡婦でさえも自分の生活などを心配せず、国家の存亡を憂える、

        という意に用いられるようになる。 

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(烈火には死せずして、)

       「烈火に死せずして、水に死す」

                         ◇ 東周王朝 ◇

       火は猛烈な勢いがあるので、見る人をして畏れ尻込みさせる。

       従って、猛火で死ぬということは少ないものである。

       ところが、河川の水は平時は穏やかなので、見る者をして狎れて侮ら

      せる。従って、水に死ぬ者は多いのである。

       春秋時代の鄭の名宰相・子産が病に侵された時、見舞いに訪れた

      子大叔に助言した。

       「我死なば、子必ず政(まつりごと)を為さん(執政となること)。

        唯 有徳者のみ、能く寛を以て(寛大な政治で)民 服す。

        其の次(じ)は 猛に如くは莫し。


        (=次なる方法は、厳しい政治を行うことが最善である。)

        夫れ火は烈なり。民 望みて(眺めて)之を畏る。

        故に死する者は鮮(すく)なし。

        水は懦弱(弱弱しい)なり。民 狎れて之を翫(もてあそ)ぶ。

        則ち焉(これ)に死する者多し。
     
        故に寛は難(かた)し」と。

        それから数カ月後に、子産の病状は悪化して亡くなった。

        かくして、子大叔は執政となって政治を執ったが、厳しく治めるのは

       忍びないとして、寛大に治めることにした。

        ところが、国中に盗賊が多発するようになり、とりわけ萑符

       (かんふ)の沢では殷賑を極めるようになった。

        子大叔、之を悔いて曰く、

        「吾 はやく夫子に従わば、此(ここ)に及ばざらん」と。

        そこでさっそく討伐隊を派遣して、萑符の盗賊を攻めて、賊徒を

       皆殺しにした。

        かくして、国内の盗賊も少しは衰えるようになった。

                     「春秋左氏伝 昭公二十年」

        ※ 子産の死亡年については、明瞭ではない。

          史記では鄭・声公六年(前496年)、

          春秋左氏伝では鄭・定公六年(前522年)と記す。

          しかし史記では、子産は簡公⑰・定公⑱・献公⑲・声公⑳の

         四君に仕えたと記す。

          定公の在位期間は、前527年から前515年。

          声公の在位期間は、前501年から前464年。

          春秋左氏伝と史記では、子産の死亡年について二十六年の

         誤差が生ずることになる。

      

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(同病相憐)

       「同病相憐、同憂相抱」

                         ◇ 東周王朝 ◇

       同じ病に苦しむ者は、互いに同情し合い、

       同じ悩みを抱く者は、お互いに助け合うものである。

       ある宴席があった時、呉の大夫・被離が伍子胥に問うた。

       「あなたは何故に、伯嚭(はくひ)を信用なさるのか」と。

       子胥は、

       「彼の祖父であった伯州犂が楚王(霊王)に殺されたので、彼は呉に

      亡命して来ているのであり、私の怨みと彼の怨みが同じだからです。

       【河上の歌】を聞いたことはありませんか。

          同病 相哀れみ 同憂 相抱く 

          驚き翔ぶ鳥は相 随いて集まり

          瀬(はやせ)の下の水は 因りて復た流れを位(い)にす

            ☞ 流れを位にすとは、止まるべき所に止まること。

          胡の馬は北風に望みて立ち
            ☞ 胡は北方の異民族。

          越の燕は日に向いて煕(たの)しむ。

       似た者同士、それぞれの心を労わり合うものですよ」と。

       被離は言う、

       「あなたの言葉は間違っています。自分の気持ちだけでは、相手を信用

      してはなりません。

       伯嚭という男は、鷹の目つきで人の粗を探し、虎の足取りで人を威し、

      皆殺しもいとわぬ陰険な奴です。

       親しくしない方が良いですよ」、と忠告した。

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(卑梁の釁)

        「卑梁の釁(ひりょうのきん)

                         ◇ 東周王朝 ◇

       小事から大事を引き起こすことの例え。

       ☞ 釁とは、隙間とか手抜かりという意もあるが、民族的用語として、

        血祭・争いの意もあり、転じて、戦争を表わす語。

       春秋時代の末期、呉と楚が対立していた頃、国境を接するところに位置

      した両国の村同士も互いに仲が悪かった。

       楚の側の鍾離(しょうり)の邑(村)と呉側の卑梁の邑は共に養蚕を

      生業としていたが、両方の邑の娘が桑の葉の取り合いをして、遂に喧嘩

      を始めた。

       その後、これが原因となって家同士の対立と為り、更に邑同士の争い

      に発展してしまった。

       伝え聞いた楚の平王㉙は、非常に立腹し、兵を発して呉の卑梁を

      攻めさせ、邑の人を全員殺害してしまった。

       すると今度は、呉王僚㉓が公子光に兵を授けて、鍾離をはじめ

      楚の数カ村で殺戮を繰り返し、鍾離と居巣の城を落として兵を引き

      揚げた。

       それより後、呉と楚の仲は決定的に決裂し、その攻防は呉が滅亡する

      まで続くことになった。

                 「史記 伍子胥列伝」・「呂氏春秋 八覧」

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(不倶戴天)

       「不倶戴天(ふぐたいてん)

                        ◇ 東周王朝 ◇

       恨みや憎しみの異常なまでに激しい間柄。

       天を共に戴かずの意で、同じ天の下ではいられない、

      つまり生かしておけないということ。

       不倶戴天の仇(あだ)は、父の仇を言う。

       “父の讎(=仇)は俱に天を戴かず、兄弟の讎は兵に反(かえ)らず、

       交遊の讎は国を同じくせず。”


       (=父の仇とは同じ天を戴くことはできない。従って同じ世に生かして

        おくおくことはできず、必ず殺さねばならない。

         兄弟の仇は武器を家に取りに帰るような暇はない。常日頃、武器を

        携えていて、直ちに仇を討つべきである。

         友の仇とは国を同じくして住むことはできない。

         仇は国内を隈なく探し回り、仇を討たねばならない。

                     「礼記 曲禮上」

      ※ 礼記は君の讎には言及していないが、中国では君に忠と

        親に孝の思想
    は表裏一体である。

        「周礼」にも曰く、「君の讐は父になぞらう」と。

        「春秋公羊伝」にも曰く、

        「君 弑せられ、臣として賊を討たざるは、臣に非ざるなり。

         復讐せざるは、子に非ざるなり」と。

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(骨肉別疏)

       「骨肉別疏(こつにくべっそ)

                         ◇ 東周王朝 ◇

       親や兄弟など、血筋の繋がっている者を疎んじることの喩え。

     》 楚の佞臣、費無極の讒言 《

       楚の平王㉙(諱は棄疾)は即位後、公子建を大子として、太傅

      (教育の長)には伍奢を当て、少傅(太傅の輔佐)には費無極を

      付けた。

         ☞ 史記では費無忌と記す。

       だがこの費無極は、小心且つ陰険で出世欲の強い男であった。

       大子の少傅に選ばれたが、次代の君主となるべき大子建には疎まれ

      ていた。

       そこで平王に働きかけて、何とか平王の身辺に仕えるようになったが、

      常日頃から大子の讒言をして、その廃位を画策した。

       ある時 隣国・秦から大子建の嫁を迎えたが、迎えの使者に立った

      費無極は、その美しさを平王に吹聴したものだから、平王は自らの夫人

      に納めてしまった。

       また費無極の王への進言で、大子建を辺境の城父に遷させ、

      頃は良しとばかりに、遂に大子建が反乱を企てていると、平王に虚偽の

      噂を捏造して耳に入れた。

       大子建の太傅である伍奢は即刻、平王の召喚を受けた。

       伍奢は費無極の誹謗中傷をよく察知していたので、反対に王に諫言を

      呈した。

       「王独り如何ぞ讒賊の小臣を以て、骨肉之親を疎んずるや」と。  

       (=誹謗ばかりする軽輩者の言を真に受けて、吾が血を別けた大子を

        疎んずるとは何事ですか。)

       費無極も負けじと必死に王に訴えた。

       「王、 今 制せずんばその事成る。

       王 当に禽(とりこ)にせられん。」 

       (=今 ここで先手を打たねば大子の謀が成り、王の死命が制せ

        られますぞ。) 

        この一言で、王の腹は決まった。

        五奢を監禁する一方、召喚していた城父の司馬・奮揚に大子殺害

       を命じた。

      ◇ 余談 ◇

        言、余(われ)の口より出でて、爾の耳に入る。 

        奮揚は城父に向けて出立したが、その途中 直ちに大子に使者を

       飛ばし、王命を伝えた。

        かくして、大子は奮揚が城父に到着する前に、

       宋へ向けて脱出する事が出来た。

        平王が奮揚を呼び戻すと、奮揚は城父の吏卒に自分を捕縛させて

       出頭した。

        王は言う、

        「(お前に命じたこと)、余の口より出でて、爾の耳に入る。

         誰か建に告ぐる
    」と。

        奮揚は釈明して、

        「臣、之に告ぐ。我が君は嘗て臣に命じて曰く、

         《建に事(つか)うること余に事うるが如くせよ》、

        と仰せられました。 

        愚か者の臣は、苟も二心を持てません。初めの命に従って奉仕する

       この身には、後の命を実行するに忍びず、そこで脱出させてあげまし

       た。

        後で後悔はしましたが、最早どうしようもありませんでした」と。

        王は言う、

        「爾がこうして、おめおめと出頭してきたのは何故だ」と。

        奮揚は応えて、

        「派遣されてその使命を全うせず、召喚されて出頭せねば、二度も

       命に背いたことになります。逃げるにも行き先はございません」と。

        平王は命じて、

        「城父に戻れ。以前と同じに務めよ」と。

                    「春秋左氏伝 昭公二十年」

     

    テーマ : 神話伝説逸話
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    中国通史で辿る名言・故事探訪(夫れ学は殖なり、)

       「夫れ学は殖なり、 

       学ばずんば将に落ちんとす」


                         ◇ 東周王朝 ◇

       一体 学問というものは、草木を植え且つ育てるように、我が身を培養

      するものである。

       若し学ばないと、草木が零落するように、その身は落ちぶれて行こう。

       周・景王㉔二十二年(前524年)、この年の秋 曹の平公㉑が

      葬られた。

       その会葬に参列した魯の或る人が、周の大夫・原伯魯に会って

      話をしたところ、学問を好まない様子であった。

       ある人は魯に帰ってから、その事を閔子馬(びんしば)に話した。

         ☞ 閔子馬は孔子の弟子。

       閔子馬は言う、

       「周はそれ乱れんか。

        夫れ必ず多く是の説在りて、而して後に其の大人(たいじん)に

       及べるならん。

        (=一体 学問を好まないという風潮は、元来 下々にはよく在る

         もので、それがいつの間にか権勢家にも及んだものであろう。)

       国は乱れ俗は壊れ、言う者は適(まさ)に多くして、漸く以て大人に

      及ぶ。

       大人は位に在る者なり。

       だからこそ大人は自分が地位を失うのではないかと恐れて、心に

      惑いを来たし、

       「以て学ぶこと無かるべし、学ぶこと事なきも害あらず」と。

        (=学問はしなくてもよい。学が無くても害はなし。)

       害あらずとして学ばざれば、則ち苟(かりそめ)にして可とす。

        (=害が無いとして学ばざれば、一時逃れの間に合わせをしても

         良いと考えるようになるもの。) 

       是に於いてか、下凌ぎ 上替(すた)る。能く乱るること無からんや。

        (=かくして、下の者が増長して凌ぐようになり、上の者は衰退

         するようになる。大いに乱れてくるのではないか。)

       夫れ学は殖なり、 学ばずんば将に落ちんとす。

       原氏はきっと滅びるであろう」と。

                    「春秋左氏伝 昭公十七年・十八年」

    テーマ : 中国古典・名言
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    中国通史で辿る名言・故事探訪(先ずべくして備えざるを怠といい、)

       「先(せん)ずべくして備えざるを怠といい、

      後にすべくして之を先ずる。之を禍を招くという」


                          ◇ 東周王朝 ◇

       災害や事変に対する、備えの在り方の適否。

     》 周・景王、大銭を鋳る 《

       景王㉔二十一年、景王は単価の大きな貨幣を鋳造しようとした。

       ところが、単穆公(ぜんぼくこう)が其れに反対して王を諌めた。

       古は天災が降れば、貨幣の重さを量り、その軽重を加減して釣り合い

      を取って流通させ、民を救済しました。

       若し物価が安くて、思い貨幣に耐えられなければ、軽い貨幣を多く鋳て

      流通させました。

       反対に物価が高くなれば、重い貨幣を鋳て調整したものです。

       また大銭と小銭は、民が利用いたします。

       ところが今 その原則を無視して大銭ばかり鋳造せば、世は物価高

      となり、民は保有するその資産の価値を失い、窮乏することと為りま

      しょう。

       民が窮乏すれば、王とて手元不如意と為り、さすれば民に増税を課す

      ことと為ります。

       夫れ備えは、未だ至らずして之を設くるに有り、

      至りて後に之を救う有り。之 相容らざるなり。


       (=準備というものは、事が起きない内に備えを為すものがあり、

         また 事が起こってから慌てて備えを為すものがある。

         しかし、それは両立するものではありません。)

       先ずべくして備えざる、之を怠といい、

      後にすべくして之を先ずる、之を禍を招くという。


       王は禍を予防し且つ民の離反を防ぐべきであるのに、怠にして禍を

      招くような事をせば、国家の命脈は尽きることと為りますので、

      よくお考え下さい、と。

       だが、王は諌めを聞かず、遂に大銭を鋳造した。

                     「国語 周語」

       この周語の件は、古代の貨幣制度についての重要な研究資料と

       されている。

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(抜本塞源)

       「抜本塞源(ばっぽんそくげん)

                          ◇ 東周王朝 ◇

      災いの原因となる物を取り除いて、健全な状態に戻すこと。

      木の根を引き抜き、また水源を塞ぎ止めるの意。

      転じて、根本を忘れて、道理を乱したり破壊することを言う。

     》 周王朝と晋の軋轢 《

       周王朝の甘の大夫・㐮が、晋の閻嘉と閻の田地を巡って争い、また

      他方では晋の梁丙と張趯(てき)が異民族の陰戎を率いて穎を討つ、

      という事件 が起きた。

       景王㉔は、詹(せん)桓伯を使者として派遣し、晋に申し入れさせた。

       「我が周は東西南北に亘り領地が広がっており、周囲に何の近い国境

      があろうか。

       文・武①・成②・康③が同母弟を諸侯にして、周の垣や塀にされた

      のも、周が衰え弱った時に、救わせようとしたが為である。

       ※ 文は武王の父・西伯昌の諡。 

       どうして弁(べん)や髦(ぼう)のように、暫らく使ってからすぐに

      脱ぎ捨てるような扱いをしようか。

       ☞ 弁は元服の時にだけ被る冠。

         髦は子供の前髪に似せて作った髪飾りで、親に仕える時に

        限り、子供の時の心を忘れない意味を込めて付けた。

       昔、吾の祖は異民族は四方の極み(辺境)に住まわせていたが、

      晋の恵公は、秦から帰る時に戎を引き連れてきた。

       そして戎を我が姫姓の国々に隣接させ、我が周の都の外に入り

      込ませたものだ。

       戎が自ら進んで、この地を取ったのではない。戎が中国に地を得た

      のは、誰のせいであろうか。

       吾の祖・后稷が天下に境を付け、その中に五穀を植え増やされたのに、

      今はそこに戎がのさばっている 

       叔父君(王室と同姓なので)は、そこをよく考えてほしいのです」

      と。 

       さらに苦情を呈して言う、

       「私は叔父君にとって、衣に冠が、木に本(根)が、水に源が、

      民に本家の主が、無くてはならないようなものだ。


       あなたが若し、冠を裂き、冕(べん)を破り、木を抜き、源を塞ぎ、

      どうしても本家の主を見捨てようとなさるならば、あの戎までが天子を

      相手にしなくなるだろう」と。

      景王の使者・詹桓伯の話を聞いて、

      晋の賢大夫・叔向(しゅくきょう)が卿大夫の韓宣子(韓起)に言った。

      「文公が覇者であられた時でも、王朝の掟を変えられたことは無く、

     天子を上に戴き、一層敬っておられました。

      文公から後、世は道が衰え、御本家の周を尊ばず、自分の威勢ばかり

     振り回しました。諸侯に二心が生じたのも尤もではありませんか。

      そのうえ天子のお言葉は、本当のことです。

      よくお考えになってください」と助言した。

      韓宣子はこれを聞いて喜び、時に天子の喪があったのを幸いに、趙成を

     周に遣って弔せ、そして閻の田地と亡き人に贈る衣と穎の虜どもを献じ

     させた。

      天子も賓滑(ひんかつ)をして、甘の大夫・㐮を捕えさせて事件の責任者

     として晋に同行して言い訳をさせた。

      晋では、彼らを丁寧にもてなしてから帰らせた。

                     「春秋左氏伝 昭公九年」

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(尾大不掉)

       「尾大不掉(びだいふとう)

                          ◇ 東周王朝 ◇

      下の者の力が強くなり過ぎると、上に立つ者が自分の思い通りに

     腕を掉(=揮。ふる)えなくなることの例え。

      尻尾が大きくなり過ぎると、制御不能となるの意。

         ☆ 「掉尾」と言えば、最後になって勢いのよいことを言う。

      楚の霊王は、霊王・十年(前531年)冬十一月、陳を滅ぼし、

     さらに蔡の霊公⑱を謀略にかけて殺害し、公子棄疾に命じて蔡を平定

     して滅ぼした。

      霊王は、蔡の守備に任じて抵抗した隠大子・友を岡山の祀りの犠牲と

     して捧げた。

      申無宇は言った,

      「不祥な事です。五つの種類の犠牲でさえ、互いに取り替えなくては

     使わないという掟があるのに、ましてや諸侯になる人を犠牲にする法が

     ありましょうか。王は必ず後悔なさるぞ」と。

      ☞ 五つの犠牲:牛・羊・豕(豚)・犬・鶏

      其の後 霊王は陳・蔡・不羹(ふこう)に城塞を築き、棄疾を蔡侯に

     任じた。

      だがその後になってから、霊王は申無宇に諮問した。

      「棄疾を蔡に置くのは、如何なるものか」と。

      申無宇は、

      「【子を択(えら)ぶには父に如くはなく、

      臣を択ぶは君に如くはなし】と申します。

      鄭の荘公③が、櫟に城壁を築いて子元(後の⑤厲公・突)

     を置いた為に、昭公④・忽は君位を保つことが出来ませんでした。

      一方、斉の桓公は穀に都城を築いて管仲を置いたために、今に至る

     まで、斉はその恩恵を被っているのです。

      私はこのように聞いております。

      【五大を外辺(辺境)に置かず、五細を内廷(朝廷)に

     置かず
    】と。  

      ☞ 五大とは、大子・母弟・公子・公孫・正卿などの重い身分の者。

        五細とは、賤・少・遠・新・小などの卑しい身分の軍務に服する者。

      このように近い親族は外に出さず、羈旅(軍隊)の臣は内に入れぬ

     ものなのです。

      今 棄疾殿(公子の身分)が外におられて、鄭丹(羈旅の臣)が内

     におりますが、かようなことは少しお気を付けになられる方が宜しい

     でしょう」と。

      霊王はさらに、

      「国に大きな城があるのは、どうか」と。

      申無宇は対えて、

      「鄭の櫟では、曼伯(昭公⑥)を殺し(厲公⑨の手で)、

     宋の蕭・亳では子游⑯を殺すことになり(蕭叔大心が)、

     斉の渠(葵)丘では公孫無知⑮を殺し(擁廩(林)が)、

     衛の蒲・戚では献公㉕を(甯殖・孫林父らが)追い出すことになりました。

      かく見ますれば、大きな城は国に害があるといえます。

      末 大なれば必ず折れ、尾 大なれば掉わず。

        (=樹木の末端である枝葉が大きくなり過ぎると、幹はいずれ

         折れてしまう。

          また獣の体が小さく、尾ばかりが不釣り合いに大きいと、

         その尾を自由に振ることが出来なくなるもの。)

      君もご承知のはずです」と。

                    「春秋左氏伝 昭公十一年」

      ※ 陳は五年後(前534年)に、哀侯㉑の孫・恵公㉒が再興

       する。 

        蔡は霊公の弟・般(平侯⑲)が、前530年に再興した。

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(春秋の衛の三賢人)

       「春秋時代の衛の三賢人」

                         ◇ 東周王朝 ◇

        衛の霊公㉙は奔放不羈且つ不徳の君として知られるが、君侯として

       何とか全う出来たのは、人材を善く活用したからだと言われる。

        「論語 憲問篇」

        子、衛の霊公の無道を言う。

        (=孔子が衛の霊公の無道なことを語った。)

        康子(季康子)曰く、

        夫れ是(か)くの如くなるに、奚(なん)ぞ喪われざる。


        (=霊公はそのお話のように無道であるのに、どうして君位を

         失わないのだろうか。)

        孔子曰く

        仲叔圉は賓客を治め、祝鮀は宗廟を治め、王孫賈は軍旅を治む。


        夫れ是くの如くなれば、何ぞ喪わん。

        ※ 霊公は無道の君ではあったが、人材を知ってよく用いている、

          との認識で以て。

        (=仲叔圉は言語に長じており専ら外交を担当させ、祝鮀には

         祭祀の事を任せ、軍事面では王孫賈を充てるなどして、人事全般の

         差配に落ち度は無かったので、君の位を失うことは無かった

         のです。)

        ◇ 人材の発掘と任用の大切さを説いたもの。

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(驕りて亡びざる者は、)

       「驕りて亡びざる者は、未だ之れあらざるなり」

                         ◇ 東周王朝 ◇

        権勢に驕り高ぶって、それで亡びない者は未だ曽てなかったので

       ある。

        衛の大夫である史鮀(しだ)は、君たる霊公㉙が寵臣の弥子瑕を寵愛

       して重用し、賢臣である遽伯玉を忌避して任用しないのを事あるごとに

       諌めたが、用いられず、悶々として自責の念に駆られて悩み続けた。

        そうした苦悩のうちに病に罹ったが、それでも猶も心中深く危惧

       しつつ、

        「驕りて亡びざる者は、未だ之れ非ざるなり」と謂って、

       遂に帰らぬ人となった。

        ☞ 史鮀の姓名は、史鰌(ししゅう)という。字は鮀。

          彼の官職は神事を掌る官であったので、祝鮀とも言われる。

          通り名は、史魚という。

          弁舌の巧みなことで知られ、衛の賢大夫とも言われた。

                    「春秋左氏伝 定公十三年」

        「史魚尸諫(しぎょしかん)

        死んだ後も、尚 君を諌めること。

        子魚が死んでからもなお、その屍を以て君を諌めるの意。

        子魚は病が重くなり、当に死のうとするとき、枕元に我が子を呼び

       寄せ遺命した。

        「私はしばしば君に対して、遽伯玉が賢人であることを申し上げて

       きたが、遂に君に勧めることが出来なかった。

        また弥子瑕は不肖であるのに、之を斥けることが出来なかった。

        人臣として、生きては賢者を勧め不肖の者を斥けることが出来

       なかった。

        だから私が死んでも、喪を(表座敷)でやってはならない。

        (奥座敷)で殯(かりもがり)をすればじゅうぶんだ」と。

        子魚の死後、このことを知った霊公は、子魚の子にその訳を問うた。

        子魚の子は、父の遺命の言葉を申し上げた。

        霊公は愕然として、

        「子魚の諌めに従わなかったのは、私の過ちなり」と。

        霊公は、にわかに遽伯玉を召し出して、之を重用(卿に任用)し、

       弥子瑕を斥け、更に子魚の殯を堂に移して葬礼を執り行い、然る後に

       帰還した。 

        かくして子魚は、生きては身を以て諌め、死んでは屍を以て諌めた。

        かくこそ正直と謂うべきである。

                     漢の韓嬰 「韓詩外伝」

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(余桃)

        「余桃(よとう)

                          ◇ 東周王朝 ◇

        「余桃之罪」とも言う。

        愛情の変化の激しいことの例え。

        また愛情の薄れた後には、以前に愛し称揚されたことが、

       逆に罪の元になる事。

        食べかけの残りの桃を主君に食べさせたという故事から。

        春秋時代の昔、弥子瑕(びしか)は衛君(霊公㉙)に寵 有り。

        衛国の法、窃(ひそ)かに君車に駕せし者は、罪として刖(げつ)せ

       られる。

          ☞ 君車とは諸侯の専用車。
        
            刖とは刑罰の刖刑を言い、足切りの刑である。

        時に弥子瑕の母が病になり、ある人がこっそりと弥子瑕に知らせた。

        弥子瑕 君のお許しがあると偽り、君車に駕して宮中から出て

       行った。

        後、君聞きて之を賢とし、曰く、

        「孝なる哉、母の為の故に其の刖罪なるを忘る」と。

        また或る日のこと、君は弥子瑕に伴をさせて、果樹園を散歩した。

        弥子瑕は桃をもぎ取って食べかけたが、余りに美味であったので、

       食べかけではあたっが、主君に味わってもらおうとそれを差し出した。

        霊公曰く、

        「我を愛する哉、其の口味を忘じて、以て寡人に啗(くら)わす

       と。

        (=自分が食べるのも忘れてまで、この我を思って食べさせて

         くれるとは、何と愛い奴ではないか。) 

        それから幾年月か経ち、弥子瑕の容色に衰えが見える頃、霊公は

       彼を疎んじるようになり、こうなると何から何まで憎しみの種になる

       ものである。

        霊公曰く、

        「是れ固(もと)より曽て矯(いつ)りて吾が車に駕し、

       又 嘗て我に啗わすに余桃を以てす
    」と。

        是は弥子瑕の振舞は以前と変わらず、而も以前に賢とされたことで

       以て、後に罪を得るというのは、愛憎の変に因るものである。

        故に主に愛ある時は、

        則ち智(賢とされた行い)当たりて(君の心に叶い)親(親密さ)を

       加え、主に憎ある時は、則ち智 当たらず、罪せられて疎(疎ましさ)

       を加う。

                     「韓非子 説難篇」

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(徒に其の一を知りて、)

        「徒(いたずら)に其の一を知りて、其の二を知らず」

                          ◇ 東周王朝 ◇

        唯もう 物事の一面だけを知って満足し、其の他を知らない事。

       管仲や子産の亡き後の、孔子とその弟子・子貢の架空の問答である。

       子貢が師に問うた。

       「今の人臣 孰(たれ)をか賢と為す」と。

       孔子曰く、

       「吾未だ識(し)らざるなり。往者(おうじゃ)は斉に鮑叔あり、

      鄭に子皮あり、賢者なりき」と。

       子貢曰く、

       「然らば則ち斉に管仲 無く、鄭に子産 無きか」と。

       子曰く、

       「賜(子貢の諱)、汝 徒に其の一を知りて其の二を知らず。

      汝 賢を進むるを賢と為すを聞くか、力を用うるを賢となすか」と。

       子貢曰く、

       「賢を進むるを賢と為す」と。

       子曰く、

       「然り。吾 鮑叔が管仲を進めしを聞き、子皮が子産を進めしを

      聞く。

       未だ管仲・子産が進めし所あるを聞かざるなり」と。

         
      ※ 真の賢者とは、自らが賢者であるだけでは不十分であり、世に

       隠れた賢者を見出して、君主に推挙することも必要条件なのである。

                     劉向「説苑 臣術」

       ☆ 「詩経 小雅・小旻」

          其の一(いつ)を知って、其の他を知ること莫し。

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(其の所を得る)

       「其の所を得る」

                          ◇ 東周王朝 ◇

        能力に応じた地位や仕事に就くこと。

        落ち着くべき所を得るの意。

        「君子は欺くに其の方を以てすべし。

         罔(し)うるには其の道に非ざるを以てし難し。」


        君子といえども道理のある言葉で欺けば、出来ないことはない。

        しかし道理に背くことで騙そうとしても、出来ることではない。

        この句は、後世、孟子がその弟子の萬章(ばんしょう)に対して、

       方法を以てすれば、聖人・君子といえども欺くことが出来るという

       ことを教えるために、引用した寓話による教諭である。

        
        ある時、生きた魚を鄭の子産に贈った者がいた。

        子産はこれを校人(池の番人)に命じて、池で飼わせた。

        ところがその校人は、その魚を食ってしまい、子産に復命した。

        「初め、之を池に放った時には、元気が悪かったが、少し経つと、

       元気が良くなって、悠々と泳いでいきました」と。

        子産は言った、

        「其れ所を得る哉」と。

        校人は外に出て、言ったものである。
      
        「子産は智慧者と言ったのは誰だ。わしはとっくに魚を煮て食って

       しまったのに、子産は、“其の所を得る哉”と言っていたぞ」と。

    テーマ : 慣用句・ことわざ・四字熟語辞典
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    中国通史で辿る名言・故事探訪(道 遺ちたるを拾わず)

       「道 遺(お)ちたるを拾わず」

                          ◇ 東周王朝 ◇

        世の中がよく治まって、国法がよく遵守されていることの例え。

        道に落ちている物があっても、拾って自分の物としないという

       意であり、国内に善政が敷かれているので、広く不正を働らく者が

       いないという喩え。

        春秋時代の鄭の昭公⑥は、お気に入りの徐摯(じょし)を

       宰相に任じたが、その成果が全く挙がらなかった。

        国内では、上下の争いが絶えず、親子までいがみ合うという始末

       であった。

        そこで改めて子産を任じたところ、

        一年経つと、子供が悪ふざけしなくなる。

        老人は重い荷物を持たず、未成年者が畑に出されことも無くなる。

        二年経つと、市場から掛値というものが姿を消す。

        三年経つと、夜になっても、戸締りの必要が無くなり、

        道の落とし物でさえ私物化する者は無くなる。

        四年後には、農民は鍬や鋤を畑に置いたまま、家に帰るように

       なる。

        五年後には、戦いは絶えてなく、服喪の期間は、命令を出さず

       とも守られるようになった。

        後に 子産が亡くなった時、民は口々に嘆き悲しんだという。

                    「史記 循吏列伝」

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(人心如面)

       「人心如面(じんしんじょめん)

                          ◇ 東周王朝 ◇

        人の顔つきはそれぞれ異なっているように、人の心も千差万別で、

       同じではないということ。

        鄭の正卿(宰相)の子皮が、自分が目にかけていた若い尹何

       (いんか)を邑宰(邑の代官)に抜擢しようとした時、多くの者は

       尹何は若年で而も経験もなく、とてもその任には堪えられないだろう

       と思っていた。

        子皮の補佐役であった子産も、その人事には反論した。

        それでも子皮は、尹何を信頼して止まなかった。

        だが子産が猶もあれこれと譬え話をして、その選任の理非曲直を

       具体的かつ熱心に説くに及んで、遂に子皮も納得して言った。

        「衣服に使う美しい織物の裁断でさえも、経験のない素人には練習

       のためとはいえ裁断させることはないのに、国家人民の利益を守る

       べき大官を、素人に任せることの愚は相よく分かった。

        政治のことは此れまで、そなたに多く任せてきたが、今後は朝廷の

       事も家の事もそなたの言を聞こう」とまで言ったのである。

        この言に対して子産は、

        「人の心は面(おもて)の如し。

         子(し)の顔を吾の顔と同じにせよと、申したわけでは

        ありません


         唯 心中危ういと思った事を申し上げたまでの事です」と

        応えた。

         子皮は大いに感嘆し、その後、彼に鄭国の政務を委譲した。

         ここに於いて、春秋の名宰相・子産が誕生した。

                     「春秋左氏伝 襄公三十一年」

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(燕、幕に巣くう)

        「燕、幕(ばく)に巣くう」

                        ◇ 東周王朝 ◇

        非常に危険な事の例え。

        人の手によって設営された幔幕の上に、燕が巣を作るの意。

        呉の賢人・季札が王命を受けて晋に行く途中、衛の旧領であった

       「戚」に着いた。

        この戚の地というのは、以前に衛の君(献公㉕)を廃して、

       新たに君(殤公㉖)を擁立して輔佐した実力大夫の孫林父の宰邑

       (封地)であった。

        ところが孫林父は後に反対勢力に敗れ、献公㉗が復位した後も、

       臣従せず、宰邑の戚に拠りつつ、遂には領地と領民を引き連れて隣国

       の晋に服属してしまった。

        季札がこの戚に宿ろうとした時、鐘(しょう)の声を聞いた。

          ☞ 鐘の声とは、音楽の演奏。

        季札は言った、

        「異な事もあるものだ。吾 之を聞く。

        【弁じて徳せずんば、必ず戮(りく)を加う

        (=腕や口が達者でも、心がけの悪い者は、必ず罰を受ける

         もの。)

        夫子 罪を君に獲(え)、以て此(ここ)に在(いま)す。

        懼(おそ)れ猶 足らざるなり。而して又 何をか楽しまん。

        夫子の此に在るや、猶 燕の幕上に巣くうなり。

        君 又 殯(かりもがり)に在り。

        ※ 献公はこの時には既に亡くなており、仮に遺体を棺に

         納めて祀られていた。

        而して楽(音楽)を以てすべきや」と。

        遂に之を去る。

        後に、孫林父はこれを聞いて、死ぬまで琴も瑟も聞くことは

       無かった。

                     「春秋左氏伝 襄公二十九年」

    テーマ : 中国古典・名言
    ジャンル : 学問・文化・芸術

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(物の使い方の幅)

       「物の使い方の幅」 

                          ◇ 東周王朝 ◇

        物欲を抑制する心の基準をいう。

        斉の国では、先の内乱 則ち崔杼・慶封の大乱で諸公子が激減

       した。

        そこで、魯にいた公子鉏(しょ)、燕にいた叔孫還(せん)、

       句瀆(こうとう)之丘にいた公子賈(か)を召し返し、元の邑

       (宰領地)を与えた。

        また晏子(晏嬰)には邶殿(はいでん)の辺りで、六十邑を与え

       ようとしたが、晏子は之を辞退した。

        大夫の子尾は言う、

        「富は誰しも欲しいもの。何故 師君一人は欲しくないのか」と。

        晏子はそれに応えて、

        「慶氏の封邑は、欲を満たしたために亡んだのです。

        吾が封邑は欲を満たしていませんが、若し邶殿を増すと、

       欲を満たすことになります。

        そうなれば程なく逃れる事になるでしょうが、国外に逃れれば

       吾が一邑さえ管理ができません。

        邶殿の邑を受け取らないのは、富を嫌うのではなく、今の富を失う

       のを恐れてのことなのです。

        また富というものは、「織物の幅」のようなもので、

       限りを付けて、それ以上に広くすべきものではありません。

        人は皆 豊かに暮らし、存分に物を使いたいと思うものです。

        しかしながら物には自ずと限りがあり、それに反して 人の欲望

       には限りがありません。

        だからこそ心を引き締め、以て物の幅を定めて、物の多寡や広狭を

       無くさねばなりません。

        之を「物の使い方の幅」というもので、

       その幅が広すぎては失敗します。

        私が多く貪ることを控えているのも、この幅というもの

       なのです」、と。

                     「春秋左氏伝 襄公二十八年」


    テーマ : 名言・格言・ことわざ
    ジャンル : 学問・文化・芸術

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(偕老同穴)

       「偕老同穴(かいろうどうけつ)

                   ◇ 東周王朝 ◇

        夫婦の固い契り。

        生きては共に老い、死しては同じ穴(墓)に葬られたいの意。

        この故事成語は、次の二つの詩経を併せてできたもの。

        
        (よろ)しゅうして言(われ)に酒を飲み

        子(し)(と) 偕(とも)に老いん


        (=吾と一緒に楽しみつつ、あなたと共に歳を取りましょう。)

        ☞ 「言」は、我の意で、主として詩に用いられる漢語。

        ※ 妻の夫への誓いである。

        「偕老」という成語の典拠となる。

                      「詩経 鄭風・撃鼓」

        (い)きては則ち室を異にするも

        死しては則ち穴を同じくせん


        (=生前には別々の部屋にいても、せめて死後は同じ墳墓に

         葬られたいものです。)

        ☞ 穀は、生きるの意。 

        「同穴」という成語の典拠。

                       「詩経 王風・大車」

         ※ 深海生物で偕老同穴という名の六放海綿がおり、

          形は糸瓜(ヘチマ)に似て、円筒状の広い胃腔を持ち、

          下腹に長い根毛があるという。

           その胃腔の中には、ドウケツエビが寄生すると言われる。

           このドウケツエビは雌雄一対となって寄生するところから、

          初めは偕老同穴と言われたが、後になって、海綿の方を指して

          言うようになる。

         日本の俗謡に、

          「お前百まで、わしゃ九十九まで、ともに白髪の生えるまで、

          死しては同じ墓に葬られん」、という言い回しがある。 

           ※ このお前とは、夫のこと。


      次に古典的な夫婦円満を称える故事成語を少し列挙する。   


       「鳳凰于飛(ほうおううひ)

        「鳳凰 于(ここ)に飛ぶ」と訓読。

         夫婦仲の睦まじいことの例え。

         鳳は雄、凰は雌。この鳳凰はいつも番で大空を飛ぶところから、

        夫婦仲の良いことに例えられる。

         本義は、鳳凰は高徳の天子がこの世に現れた時にのみ、

        姿を見せるという想像上の大鳥である。

         また鳳凰が飛ぶと、他の鳥もそれに従って飛び立つことから、

        聡明な天子の下には、賢者が多く集まることの例えにもなる。

                      「詩経 大雅・巻阿」

        

        「和如琴瑟(わじょきんしつ)

         夫婦仲の睦まじいことの例え。

         「琴瑟 御(ぎょ。側)に在り、

          静好(音色の静かで美しいこと)ならざるは莫し。」

         琴と瑟の奏でる調和を、夫婦仲の良さに例えたもの。

         ☞ 琴は五弦か七弦の小型の琴。

           瑟は二十五弦の大型の琴。

                       「詩経 鄭風・女日鶏鳴」


       「比翼連理(ひよくれんり)

        夫婦または男女の契りの深くて、仲睦まじいことの例え。

        「天に在りては願わくは比翼の鳥と作(な)り、

         地に在りては願わくは連理の枝と為らん」 

        ☞ 比翼とは翼を並べるの意。

          連理とは二つの枝や幹の木目が連なるの意。

         比翼の鳥は、雌雄それぞれの頭や首を有するものの、

        雌雄二羽で合体しており、目と翼はそれぞれ一目一翼しかなく、

       当に一心同体のような想像上の鳥である。

        連理の枝は、根を別にする二株の樹木が地上で木目が重なり合い、

       一本の樹枝になったもの。

                      唐 白居易(白楽天)「長恨歌」

      ◆  この比翼連理の誓いは、安史の乱により、都を追われた

        唐の玄宗皇帝と楊貴妃の馬嵬駅(ばかいえき)での悲惨な別れ

        となるので、あまり縁起の良い例えとは言えないのだが。


      □ 「韓憑(かんぴょう)夫妻と相思樹伝説」

        戦国時代の宋の康王の時代、舎人の韓憑は美しい何氏を妻として

       いた。 

        ところが、その何氏の美しさに目を奪われた康王は、之を奪って

       しまった。

        韓憑は王を酷く怨んだ。

        王は韓憑を捕えて、城内に閉じ込めてしまった。

        何氏は、密かに書を韓憑のもとに送りつけたが、その言葉の意味が

       分からないようにした。

        「雨が延々と降り続いて居ります。

         河は大水で深さを増すばかりです。

         お日様が出て、私の心に当たっております。」 

        やがてその書は、王の手元にもたらされた。

        王は左右の者に示して、その書の意味を解き明かそうとしたが、

       彼らで解る者はいなかった。

        そのうち臣下の蘇賀が出でて、対えたものである。

        「雨が延々とは、憂い且つ想うことです。

         河が深さを増すとは、行き来することが出来ないということ

        です。

         日が出でて心に当たるとは、心に死ぬ覚悟があることをいう

        ものと思われます」と。 

         そのうち韓憑が自殺してまった。そのことを聞き知った何氏は、

        密かに自らの着衣を腐らせておいた。

         ある日のこと、何氏は王とともに高殿に昇った時、不意に自ら

        高殿から身を投じた。

         彼女の左右のお付きの者が之を捕まえようとしたが、袖は腐食

        していたので、着衣は彼らの手に掴まれることなく、彼女は転落死

        した。

         その彼女の帯の中から、次のような書が発見された。

         「王様は私が生きているのがよいのでしょうか。

        それとも死ぬのがよいのでしょうか。

         死をお望みならば、どうか私の死骸を韓憑に賜ってください
    。」

         王は怒って之を聞き入れず、

         韓憑の墓に向かい合って何氏の墓を設えさせた。

         そして曰く、

         「汝ら夫婦は、互いに愛し合って止まぬ。

         もしこの墓を一つに併せることが出来ようものなら、邪魔立ては

        しない
    」、と。

         すると一晩のうちに、梓の樹が両方の墓から生えて来て、十日も

        経つと、大きさは一抱えほどになり、根は互いに下で交わり、

        枝は上で入り混じった。

         また、一対の鴛鴦(えんおう)が樹上に棲みつき、

        朝も晩も去らず、悲しそうな鳴き声を上げていたので、

        村人は哀れみ、その樹を相思樹と名付けた。

                      干宝「捜神記 相思樹」  

        ※ 相思相愛なる熟語の「相思」という語の典拠となる。


         戦国時代の康王㉜は、偃王とも称される。

          前329年から286年まで在位した宋国の最後の君主である。

          その暴君ぶりから、夏の最後の桀王に擬(なぞら)えて、

         「桀宋」とも呼ばれた。

         宋・康王四十四年(前286年)、宋国は斉によって

        滅ぼされた。

         「鴛鴦の契り」という、夫婦仲の睦まじいことの譬えの

         典拠でもある。

          鴛鴦(えんおう。オシドリ)は水鳥の一種の渡り鳥で、体は

         鴨に似ているが小さく、またオシドリとも言われ、巷では終生 

         雌雄で連れ添うかの如く言われるが、現実には毎年相手を

         替えるようである。

          誠に生涯 連れ添い、相手を取り換えない鳥は、丹頂鶴で

         あると言われる。

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(妻の老いて悪きは、)

       「妻の老いて悪きは、嬰(えい) 

       これと居るが故なり」


                          ◇ 東周王朝 ◇

        妻が年取って醜くなったのは、このを嬰(晏嬰)と共に永年 

       苦労を共にしてきたからである。

     》 糟糠の妻を労わる晏嬰(あんえい) 《

        斉の景公㉖には、年頃の愛姫がいた。

        或る日、之を晏嬰に嫁がせんとの腹積もりで、晏嬰の邸宅を訪れ

       酒宴となった。

        当に酒 酣(たけなわ)の頃、景公は挨拶に現れた晏嬰の妻を見て、

       晏嬰に言った、

        「此れ子(し)の内子(大夫の妻の呼び方)か」と。

        晏嬰は、

        「そうです、妻です」と対えた。

        内子が去った後、景公は嘆じ且つ薦めて曰く。

        「嗚呼、また老いて且つ悪し。

        寡人に女(むすめ)あり、若くして且つ姣(こう。美しい)なり。 

        以て夫子(君子に対する呼び方)の宮(晏嬰の邸宅)」を満たさん」

       と。

        晏嬰は、席をずらして対えた。

        「此れ則ち老いて悪きは、嬰これと居るが故なり。

         もとはその若くして且つ姣に及べり。

         且つ人はもとより壮を以て老に託し、姣を悪に託す。

         婦 嘗て託して、嬰 これを受く。


         君賜ありと雖も、以って嬰をして

        その託に倍(そむ)かしむべけんや」と。

         (=我が妻が歳をとってから醜くなったのは、この嬰と共に永年

          一緒に苦労を共にしてきたからです。

           これでも若かりし頃は、美人の内に入ったものです。

           また若い時には老後を託し、美しい者も来るべき衰えを

          託すものです。

           我が妻も、嘗ってはその身を吾に託し、吾もまたそれを

          喜んで受け入れたものです。


           君のご配慮は誠に以て有り難く存じますが、どうか、この吾等

          の信託を破らせるようなことはご遠慮願いたく存じます。)

         そう言って、晏嬰は己の固い信念と決意を示し、再拝して辞した。

                        「晏子春秋 内篇・雑下」

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(意気揚々)

      「意気揚揚」
                          ◇ 東周王朝 ◇

      「晏御揚揚」とも。 

        得意になって威勢よく振舞うさま。

        ☞ 揚揚とは、得意げな様。

        斉の晏嬰は優れた宰相で、政治上の事は言うに及ばず、その人格も

       人々から高く尊崇されていた。

        その身は小柄であったが、その日常の挙措動作は非常に控えめで

       あり、馬車に乗っている時でも、その隅に座って少しも眼立たなかった

       と言われる。

        しかし今と時めく大宰相の馬車であるから、大通りを通れば、人々は

       畏敬の念を以て道を避け、腰を屈めて見送ったものである。

        ところが、この大宰相の馬車の御者は、胸を張っては駟馬に

       策(むちう)ち、「意気揚揚 甚だ自得せり」という有様であった。

        (=大得意になって、鼻息も荒く大層自惚れていた。)

        ☞ 駟馬とは、四頭立ての馬車馬。

        或る日のこと、そのような有様を見た御者の妻は、帰ってきた夫に、

       その大胆な振舞いを強く諌めた。

        「あなたのご主人様は、天下の大器量人でありながら、少しも威張る

       こと無く、謙虚そのものです。

        それに引き換え、あなたは、たかが御者のくせに威張り過ぎです。

        私は最早 これ以上、連れ添っていたくありません」と、涙ながらに

       訴えた。

        すると、御者は大いに反省して、素直に態度を改めた。

        後に至って、この御者は、晏嬰に推薦されて大夫にまで昇進した

        という。

        「意気揚揚」の典拠である。

                       「晏子春秋 雑上二十五」

        ☆ 「蒙求」では、「晏御揚揚」という。
        
        ☆ 「晏子の御」

           意気揚揚よりは、独善性が先に立つ成語である

           実力によらず、その背景に物を言わせて、高慢ぶること。 

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(二桃、三士を殺す)

       「二桃(にとう)、三士を殺す」

                          ◇ 東周王朝 ◇

        奇計を以て、人を自滅させること。

     》  晏嬰の遠謀深慮  《

        春秋時代、斉の景公㉖は、人並はずれた豪勇果敢で且つ顕著

       な功績も挙げた三人の寵臣を抱えていた。

        その名も公孫捷(しょう)、田開彊(かいきょう)、古冶子(やし)

       と云う。

        ところが宰相の晏嬰は、彼らが自分の功を誇り、しばしば礼を

       失するので、国の将来を憂いて景公に見えて言った。

        「臣 晏嬰、王の養われる勇士である彼ら三人を見ますところ、

       上は君臣の義が無く、下は上下の倫(みち)が無く、内は以って

       暴を禁ずることが出来ず、外は以って敵を脅すことが出来ません。

        これは国を危うくする器です。

        之を去るに越したことはありません」と。

        景公は言う、

        「三人の勇士は之を手で撃っても恐らく撃てまいし、之を刀で

       刺しても恐らく通るまい」、と。

        そこで晏嬰は、

        「三人は皆 勇力で以って敵を攻める人であって、人徳に欠け

       長幼の序がありません」 と人物評価してから、

        改めて景公に請うて、彼らの元に使者を遣わし、彼らを一つ所

       に集めてから、

       彼らに二つの桃を贈って、言わせた。

        「三人で、各自の功績を比べ、その功績が一番優れている者が、

       この桃を食べよ
    。」

        公孫捷は天を仰いで、ため息をついて言った。

        「晏子は智慧者だ。一体 我が君に吾らの功績を計らせようとして

       いるのに、桃を戴かなかったら、吾らに勇気が無かったことになる。

        しかし、勇士は多くて桃は少ない。

        そこで、お互いの功績を比べあって、一番優れている者が食べよう

       ではないか。

        かく言うこの俺は、以前に三歳の虎を撃ち殺し、また子持ちの虎を

       撃ち殺したものだ。

        俺くらいの功績があったら、桃を食べてもよくはないか」、と言って

       桃を手前に引き寄せた。

        田開彊が立ち上がって言った。

        「俺は兵を率いて、敵の三軍を退けたことが二度ほどもある。

        俺くらいの功績だったら桃を食べてもよかろう」と言って、桃を引き

       寄せた。

        古冶子が言った。

        「己は曽て君のお供をして黄河を渡った時、巨大なスッポンが

       我が君の馬車の左の副馬を咥えて、河の中の不動の巨岩の当たりに

       嵌まったことがあった。

        その時 己は水中に潜って流れに逆らうこと百歩、流れに従うこと

       九里、遂に巨大なスッポンを捕えて殺し、左に副馬の尻尾を捕まえ、

       右に巨大なスッポンを引っ提げて、左右の肩を突っ張って水上に

       出たものだ。

        渡し守はスッポンを河の神と言ったものだが、俺くらいの功績が

       あれば、桃を食べてもよかろう。

        二人は何故、桃を寄こさないのだ」と言って、剣を引き寄せて立ち

       上がった。

        先の二人は言った。

        「吾等の勇力は君には及ばぬ。また功績も及ばない。

        桃を取って譲らないのは、欲深いことである。

        また死なないのは勇気が無いことになるな」と言って桃を返し、

       それぞれ首を刎ねて死んでしまった。

        古冶子は嘆いて言った。

        「二人が死んで、独り生き残るのは、不仁である。

       言葉で人を辱めたり、自分の名声を自慢したりするのは不義である。

        自分の行ったことを後悔して、而も死なないのは勇気が無いこと

       になる。

        思えば彼ら二人の勇力は相等しいのだから、彼ら二人で一つの桃を

       分けて食べ、また己は一つの桃を食べてもよかったのだ
    」と。

        しかし古冶子もまた、その桃を返してから自らの首を刎ねて死んで

       しまった。

        その後 使者は、

        「既に死にました」と復命したが、景公は、彼らを士の礼を以って

       葬った。

                       「晏子春秋 内編・諫下」

      ★ 斉の公孫捷ら三人は、それぞれ自分の功を誇り、君侯の寵愛

        をよいことに、宰相の晏嬰に対しても、しばしば礼を失することが

        あった。

         晏嬰は国の将来を憂い、一計を王に勧めた。則ち、

         「この三人の勇士に対して二つの桃を与え、改めて各自の手柄

        を述べさせ、且つ互譲の精神を確かめてみましょう」と。

         だがこの三人にとっては、二個の桃がキーポイントとなり、

        それぞれ、功は主張するものの、悲しい哉 真の仁義、徳行、礼儀

        を知らず、死ぬことを以って勇気となし、それぞれ自らの命を絶って

        しまった。

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(晏子高節)

       「晏子高節(あんしこうせつ)

                          ◇ 東周王朝 ◇  

        時の利益や権勢に左右されない確固たる信念の例え。

        時に斉の賢大夫・晏嬰(あんえい)が荘公㉕と折りが合わず、

       封土も位も返上して、致仕するということがあった。

        だが晏嬰が致仕中の荘公六年(前548年)、荘公が大夫の

       崔杼(さいちょ)の邸宅で弑殺されるという事件があった。

        晏嬰は事件を耳にするや、直ちに崔杼邸に駆けつけ、

       荘公の遺体に取りすがり、

        「尸(し)を股に枕せしめて哭し、三度 踊り 出で去る」

       との伝がある。

      (=自分を膝枕として遺体を抱えて哭し、三度跪拝して立ち去る。)

        この事件は荘公と大夫崔杼の個人的な女性関係のもつれが原因

       であったので、晏嬰は荘公には一応の礼を示した訳であり、それ以上

       の行動は取らないとの決意の表明でもあった。

        その後、崔杼は景公を即位させ、自らは右大臣と為り、慶封

       (けいほう)を左大臣にして、ともに祖廟に国の主だった連中を

       召して、

        「崔杼・慶封に与(くみ)せざる者有れば天も御照覧あれ」、

       と誓わせた。

        ※ 君侯を弑殺するという大逆罪を犯した徒に臣従することを

          強要した誓いの言葉である。

        その誓いの時 晏嬰は、

        「ただ君に忠に社稷を利する者に与せざる者あらば、

       天もご照覧あれ
    」と、言い直して誓った。 

        即ち君に対しては忠誠を尽くし、かつ国家を隆盛に導く者に対して

       忠誠を尽くさない者があれば、と限定的な表現で誓った。

        暗に君への不忠な行いと社稷を害した崔杼らへの盲従と忠誠を

       拒否したわけである。

         それまでも晏嬰の人望と忠臣ぶりは他国にまで聞こえていたが、

         この事件を以って、その存在は確固不動のものとなったと

         言われる。

                      「春秋左氏伝 襄公二十五年」

    テーマ : 中国古典・名言
    ジャンル : 学問・文化・芸術

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(樽俎折衝)

       「樽俎折衝(そんそせっしょう)

                          ◇ 東周王朝 ◇

        酒席で和やかな外交交渉を行い、有利に事を結ぶこと。

        転じて、談判や駆け引き、或いは国際上の会見を言う。

        春秋時代、斉の賢宰相(卿大夫)晏嬰(あんえい)の外交交渉の

       巧みさについて、「晏子春秋」に記す、

        「樽俎の間を出でずして千里の外に折衝するとは、

       それ晏子の謂いなり
    」と。

        (=酒樽や料理を宴席に並べている間に、歓談しながら敵の鋭鋒

         を避けて、事を有利の内に外交交渉を行うこと、

          謂わば千里の彼方で敵の攻撃を挫いてしまうとは、当に晏子の事

         である。) 

            ☞ 樽俎の俎は、まな板のことで、俎上の肉の意であり、

             ご馳走・料理をいう。 

    テーマ : 慣用句・ことわざ・四字熟語辞典
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    中国通史で辿る名言・故事探訪(楚材晋用)

       「楚材晋用」

                         ◇ 東周王朝 ◇

        優秀な人材が他国で重用されること。

        春秋時代、楚の人材が多く晋に亡命したり流出したりして、他国で

       重用されたことから生まれた成語。

        楚の伍参(ごしん)は蔡の太師・子朝と友であったので、

       子の伍挙も子朝の子・声子(公孫帰生)とは仲が良かった。

        ☞ ここでの太師は、君侯の補佐役。

          子朝は蔡の文侯⑯の公子。

        伍挙は楚の公子・牟の娘を妻に迎えていたが、牟は申邑に封ぜられ

       た後、訳があって外国に亡命した。

        楚の人は、「伍挙めが申公を助けて逃した」と誹謗した。

        その為 伍挙は鄭に奔り、さらに晋を目指そうとしたが、時に声子も

       晋へ行く所であったので、鄭の郊外で伍挙に出会った。

        事情を知った声子は伍挙に向かって、

        「あなたが国に帰れるように、力を尽くしましょう」と言って、

       共々 晋に行くことになった。

        周・霊王二十七年(前546年)、宋の向戌(しょうじゅつ)の

       提唱で、晋・秦・楚・斉以下十三か国の和平交渉が纏まり、

       「第二次宋の盟」が成った。

        声子は蔡の使者として晋を訪れたのであり、その帰国の途次 

       楚に立ち寄った。

        楚の令尹・子木は、晋に使いした声子に問うた。

        「晋の大夫と楚の大夫とでは、どちらが勝っているだろうか」と。

        声子は言う、

        「晋の卿は楚の卿に適わないが、大夫たちは賢くて、卿の資格が

       あります。

        その理由とするのは、ちょうど杞(川柳)や梓(あかめ柏)の木材

       とか、皮やなめし皮などが楚から晋へ交易で送られるようなものです。

        このように楚には良い材があるのに、それを使うのは晋ということに

       なります」と。

        子木は言う、
     
        「しかし晋侯にも勝れた一族もいよう」と。

        声子曰く、

        「それはいます。しかし、楚の人材が用いられているのが目につく

       のです。

       《上手に国を治めている人は、賞を与えるのに間違いが無く、

       罰を下すのに無闇なことが無い
    》ということです。

        賞を間違えると悪人にも相伴が行き、罰が無闇に行われると善人

       まで巻き添えを喰らいます。 

        若し不幸にして間違うとしても、

        《賞は間違うとも、罰を無闇にしてはならない》 

        つまり悪人にもおこぼれを遣るのが益しで、善人が無くなったら、

       国そのものが立ち行かなくなりましょう。

        詩にも言います、【人し尽きなば、国も絶えなん】とあります。

        これは善人が無くなることを言うのです。

        今、楚には無闇に罰が多く、その為に大夫たちが死を避けて四方の

       国々に亡命し、その国の軍師となって仇をするから、楚はどうしても手

       の施しようがなくなるのです。

        つまりは、人材を用いることが出来なくなるということです。
      
        声子はその後も、あれこれと楚の人材流出を持ち出して語った。

        子木は言う、

        「それは、みんな真の事だ」と嘆息した。

        そこで、声子は遂に伍挙の国外逃亡を持ち出し、伍挙は現在 晋に

       いるが、晋では伍挙にどこかの県を与えるつもりであり、もし彼が楚に

       仇なすようになれば、楚の大損と為りましょう、と吹き込んだ。

        後、子儀は怖気づいて、早速 楚王(康王㉔)に伍挙の事を話し、

       彼の秩禄位階を高めて呼び戻すことになった。

                      「春秋左氏伝 襄公二十六年」

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(其の手を上下す)

       「其の手を上下す」

                          ◇ 東周王朝 ◇

        自己の便宜で法を左右にし、事の軽重を転倒すること。

     》 王子圍と臣下の功争い 《

        楚の康王㉕は秦の景公⑬とともに呉を攻略して雩婁(うる)にまで

       進んだが、呉に万全の備えあるを知り、両軍は退き返してたが、楚は

       単独でついでに鄭を侵攻した。

        五月、城麇(じょうきん)に達し、守備する鄭の皇頡(こうけつ)

       は城から出て楚軍と戦ったが敗れて、その身は楚の穿封戍

       (せんほうじゅ)に捕われた。

        ところが後に、楚の王子圍(後の霊王㉗)は、穿封戍と捕虜の

       生け捕りの功を争い、伯州犂に裁定を求めた。

        ※ 伯州犂は晋の人で、父・伯宗が三郤(晋の卿大夫・郤錡ら

         三人の郤氏)に讒訴されて誅殺されたので、楚に亡命して

         いた。) 

        伯州犂は言った、

        「事は一つ捕虜に訊ねてみよう」と。

        そして捕虜を立たせて、伯州犂は言った、

        「争いの対象たる子(し。お方)は君子

       なれば、何でもお分かりになろう。

        見覚えが無いことがあろうか
    」と。

        そして自らの手を上げて、

        「夫子(あのお方)は王子圍とおっしゃり、楚君の弟君

       であられる」と。 

        次に手を下げて、

        「此子(こちらの方)は穿封戍、方城外の県尹である。

         子(し。汝)を捕えたのは誰か」と。

         捕虜は対えて、「この頡は王子と出くわして負けました」と。

         穿封戍は、嘘の証言に怒り狂って、王子圍を追い回したが、

        逃げられてしまった。

         楚の人は、皇頡を引き立てて楚に帰還した。

                       「春秋左氏伝 襄公二十六年」

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(大子の簡、董狐の筆)

      「大子の簡、董狐(とうこ)の筆」

                          ◇ 東周王朝 ◇

        国家の歴史の記録を掌る者が、己の良心の命ずるままに直筆して、

       権勢を憚らないことの例え。

        晋・霊公十四年(前607年)、晋の史官の董狐の記した歴史記録

       と、斉・荘公六年(前548年)、斉の史官の長である太史の歴史

       記録を云う。

        董狐の筆では、

        「秋九月乙丑(いっちゅう。2日)、

         晋の趙盾、その君 夷公を弑す」と。

        太史の簡では、

        「夏五月乙亥(いつがい。12日)、

         崔杼(さいちょ)、その君 光を弑す」と。 

        ☞ 簡とは竹簡のこと。

           紙の無い時代における記録媒体の一つ。 

        晋の卿大夫趙盾は、抗議はしたものの史官の強い信念とその記録

       にはそれなりの理由があるとして、潔く自分の罪を認めた。

        ところが斉の大夫崔杼は、悪名が後世まで残るので、激怒して記録

       をした太史を殺害した。

        すると、次にはその弟が同じことを記録した。

        その弟も殺されたが、今度はまたその弟が同じことを記録した。 

        これには崔杼も困惑しながらも感心して、遂に記録を許した

       という。

        だが事態はそれだけでは収まらなかった。

        国の太史が次々と命を落としたと伝え聞いて、地方在住の史官が

       竹簡を手にして、次々と国都の臨淄に駆けつけて来た。

        その内の一人は曰く、

        「南史氏、太史 尽く死せりと聞き、簡を執りて以て往く。

        既に書せりと聞き、乃ち還る」と。

        (=地方在住の史官の南史氏が、すわ一大事とばかりに竹簡を

         携えて国都・臨淄に出向いたが、記録が済んだと知って、

         引き返した。)

                      「春秋左氏伝 襄公二十五年」

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(不朽)

         「不朽(ふきゅう)

                          ◇ 東周王朝 ◇

        朽ちることなく、行く末長く伝わる事物や人の言葉。

        魯・襄公二十四年(前549年)、晋の実権を握った范宣子は、

       魯の国から来訪した(卿大夫)執政・叔孫穆子(ぼくし。諱は豹)

       を出迎えた席上で、彼に尊大な態度で問うた。

        「人に言あり 曰く、《「死して朽ちず、何の謂いぞや》」と。

        そして叔孫穆子が未だ答えない内に、言ったものである。

        「我が祖は、虞より古は陶唐氏を称し、夏にありては御竜氏

       (ぎょりゅうし),商にありては豕韋氏(しいし)、周にありては

       唐杜氏(とうとし) となり、周 卑しくして晋これを継ぎて、

       范氏(はんし) となる。

        ※ この時代の周王朝は、権威も支配力も衰退傾向にあった。

        それ之を「死して朽ちず」と謂うか」と、

       己が名門の繁栄ぶりを自慢したものである。

       太上の三不朽

        魯の賢人大夫と言われた叔孫穆子(ぼくし)は、范宣子のその

       尊大な言い草に腹を据えかねて言った。

        「私が聞くところによると、それは世禄(せいろく)

       というものです。不朽というものではありません。

         ☞ 世禄とは、世襲の俸禄。

        私の魯国では、昔 臧文仲(ぞうぶんちゅう)という賢大夫が

       いました。

        その身は既に没すれども、彼の言行は今もなお我が国で行われて

       おります。

        彼曰く、

        【太上(この上もなく特上の者)は徳を立つる有り。(立徳)

        其の次は功を立つる有り。(立功)

        其の次は言を立つる有り。(立言)】

       と、私は聞いております。

        その様であれば、いくら年月が経ってもその人の言行が廃れる

       ことはないといえます。

        それを三不朽と申します。

        姫姓を受け継いでゆき、宗廟を守って、代々祀りを絶やさぬ

       ごときは、どの国にでもあることです。

        それは世禄が大きいというだけのことであって、不朽であるとは

       言えないと思います」と。

                      「春秋左氏伝 襄公二十四年」

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    Author:tyouseimaru
    出身地は四国八十八か所参りの発心の阿波、大阪を終の棲家とする。
    歴史好きで、城郭・神社仏閣・歴史遺跡巡りが趣味となる。
    歴史小説や時代小説を好み、往年の著名な時代小説の類は概ね完読と、自負している。

    自薦
    自著「中国通史で辿る名言・故事探訪」の 上・中・下の3巻を、 近い内に「電子書籍」での出版を予定しています。 今年一年間は、さらに工夫を加えるなどして、補記訂正などの校正を第一義としています。       
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