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    中国通史で辿る名言・故事探訪(呉の越有るは、)

     「呉の越有るは、腹心の疾(やまい)なり。

      斉の呉におけるは、疥癬(かいせん)なり。」


                        ◇ 東周王朝 ◇

      そもそも呉にとって越の存在は、我が身の病の如きもの。

      其れに比して、斉の我が呉に対するものなどは、単なる皮膚病のような

     もの。

      伍子胥の諫言

      呉王夫差六年(前490)、斉の景公が亡くなり、斉では内紛が絶えず、

     国力が著しく低下したと伝え聞いた夫差は、軍を発して斉に遠征しよう

     とする野望を燃やすようになった。

      夫差は孫子(孫武)を北伐の総司令官に任じようとしたが、孫子は諌めて、

     今は兵を休ませるべき時だと進言したが、受け入れられず、遂に自ら官を

     辞して帰郷してしまった。

      次いで伍子胥が諌めて曰く、

      「未だ可ならず。臣聞く、勾践 食は味わいを重ねず(質素な食事)、

     百姓(多くの臣下)と苦楽を同じくす、と。

      この人 死せずんば、必ず国の患(わずらい)をなさん。

      呉の越有るは、腹心の疾なり。斉の呉におけるは、疥癬なり。

      願わくは王、斉を釈(す)てて越を先にせよ
    」と。

      だが、呉王は聞かず、遂に遠征の途に就いた。  

                     「史記 越王勾践世家」

    テーマ : 中国古典・名言
    ジャンル : 学問・文化・芸術

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(馬 進まざるなり)

     「馬 進まざるなり」

                        ◇ 東周王朝 ◇

      戦功を誇らない言辞の例え。

      先陣を引き払っての退却戦で、殿軍(しんがり)を務めるのは、危険

     かつ困難を極める軍役であった。

      殿軍の役目を無事に務めて帰還すれば、その軍功は傑出したもので

     あった。

      ところがその軍功を自慢せず、反って軍馬の愚鈍さに理由づけした釈明。

     □ 郊外の役

       建国以来、斉と魯の因縁は長くかつ深かったが、この両国の因縁に、

      最近 新興国の呉が絡んで複雑な様相を呈するようになった。

       魯・哀公六年(前489)、斉の大夫らの勢力争いで、田乞・鮑牧らに

      敗れた国夏と高張が魯に亡命した。

       哀公八年(前487)春、呉が魯を攻めた。そして同年夏、斉の鮑牧が

      軍を率いて魯の領地を侵略した。

       哀公十年(前485)春、魯と呉は合して、斉の南境を攻伐した。

       哀公十一年春、斉は国書・高無丕が軍を率いて魯を討つべく出撃し、

      自領の清に軍を進めた。

       その迎撃戦に先立ち、魯国内では季孫氏(当主は季康子)と叔孫氏

      (叔孫叔武)・孟孫氏(孟懿子)の対立が見られたが、季孫氏の宰を務め

      ていた孔子の弟子・冉求の進言もあり、漸く国論も纏まり、防衛の左右

      の二軍を編成した。

       右軍は孟懿子の子・孟孺子洩(じゅしせつ)が指揮を執り、左軍は

      季孫氏の宰・冉求が指揮を執り、共に郊外に出征した。

       斉軍は稷曲(しょくきょく)方面から攻めてきたが、魯の左軍は溝を

      踏み越えて斉軍に突入した。

       ところが、右軍は溝を越すことが出来ずに逃げ出したので、斉軍の

      陳荘らは之を追跡し、泗水を渡って来た。

       この右軍の退却戦で、殿軍を務めたのは将の一人で大夫の孟之側

      (もうしそく)である。

         ☞ 「史記」では、孟之反と記す。孟之側の、側は諱である。

       孟之側は、無事に殿軍の役目を果たして国都・曲阜の城門に入る時、

      彼は矢を引き抜き愛馬の尻を衝きながら、その功を誇ることも無く、

       「馬 進まざるなり」と、言った

      ものである。

       敗北を喫した軍の逃走を助ける殿軍は、古今東西を問わず、最も困難

      過酷な軍務と見做されていた。

       一方では、魯の冉求率いる左軍は、斉の甲(よろい)武者八十の首を

      討ち取り、斉軍は最早 統率がとれず戦闘を継続できない状態となって

      いた。

       夜になってから、間諜が斉軍の遁走を報告して来たので、冉求は

      追撃を季康子に願い出たが、許されなかった。

                     「春秋左史伝 哀公十一年」

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    テーマ : 中国古典・名言
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    中国通史で辿る名言・故事探訪(東食西宿)

     「東食西宿」

                         ◇ 東周王朝 ◇

      人が利を選ぶに際して、貪欲なことの例え。

      東の家に食して、西の家に宿るの意。

      春秋の昔、斉に一人の娘がいて、二つの家から同時に彼女を求めて

     きた。

      娘を求められた親が、娘に両家の事情を話して聞かせてから、

      「東家を望むなら左袒しなさい。西家を望むなら右袒しなさい」と。

        ☞ 袒とは、肩衣を脱ぐこと。

      すると娘は、あろう事に両袒したのである。

      父母は驚いて、その訳を娘に問うた。

      娘は応えて謂う、

      「願わくば、東家に食して西家に宿せん。

       東家は冨にして醜、西家は美にして貧を以てなり」と。

       (=東家の息子は家は金持ちだがその容姿は醜くく、西家は家は貧乏

        だが男前だからです。)

               唐 欧陽詢らの撰「芸文類聚 婚・風俗通」

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(螓首蛾眉)

     「螓首蛾眉(しんしゅがび)

                        ◇ 東周王朝 ◇

      美人を形容する成語。

      夏蝉の首(人間の額に相当する)は四角で広く、蛾の眉は細長くて

     曲がっており、美しいものの例えとされた。

      それが何時しか転じて、美人の形容に用いられるようになる。

        ☞ 螓は夏ゼミ。

      春秋時代に斉に生まれた荘姜は、詩経・衛風「碩人の詩」で、

     春秋第一の美女であり、賢婦人の誉れとまで謳われる。

      斉国の王室から、衛の荘公に正夫人として迎え入れられたが、不幸に

     して子には恵まれなかった。

      荘公には、別に陳国の王室から迎えた厲嬀(れいぎ)という夫人も

     いたが、その妹であり姉の媵(よう)となっていた戴嬀の産んだ子を

     我が子として養育した。

      その子は、後の桓公⑮である。

        媵とは、付き添い。時に君侯などの妾となることもあった。


      「詩経 衛風・碩人(せきじん)の詩」

         手は柔らかき荑(つばな)の如く

          手はまるで新芽のようになよやかで      

         膚は凝こりし脂(あぶら)の如く

          肌は滑らかで艶やか

         (セミ)の首 蛾の眉

          その額は際立って広く、その眉は細長く曲がって麗しい

         巧笑 倩(せん)たり

          愛らしく笑うと、その口元は麗しく

            ☞ 倩は口元の愛らしいさま。

         眉目 盼(へん)たり

          その目は白黒がはっきりして、何と美しいことか

            ☞ 盼は目の白黒のはっきりして美しい様。

         (そ)以て絢(けん)を為す

          素肌はただでさえ美しいのに、化粧でさらに何と際立つことよ

            ☞ 素は、もとよりの意。

              絢は、綾がって美しい様、則ち化粧してさらに磨きが

              かかるの意。

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    テーマ : 神話伝説逸話
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    中国通史で辿る名言・故事探訪(掣肘)

     「掣肘(せいちゅう)

                         ◇ 東周王朝 ◇

      他人に干渉してその行動の自由を妨げる事。

      傍らにいる人が、書き手(書記)の肘を制御して、筆記の邪魔をするの意。

      孔子の弟子に宓子賤(ふくしせん。諱は不斉)と言う人がいたが、

      孔子は彼を“君子”なり、と評した。

      その彼が魯の哀公に仕えて、亶父(ぜんぽ)と云う地方を治めることに

     なった。

      赴任に先立ち、彼は赴任地での部下から哀公の側近を通じて、あれこれ

     と君に告げ口や讒言されたり、或いは事ある毎に、改めて君命を受ける

     羽目になれば、自分の思い通りの仕事が出来なくなることを懸念した。

      そこで、宓子賤は哀公の側近二人を属官として付けてもらい、任地へ

     赴任した。

      さて任地に着くと、早速 役所の属僚を集めて訓戒したが、彼は二人の

     属官を陪席させた。

      だが彼は訓話の途中、時々二人の属官の肘を掴んだり、引っ張ったり

     した。

      後に、宓子賤は彼らの筆記録を確かめたが、その書いた文字は歪んで

     見苦しいものであった。

      宓子賤がその事で彼らを詰ると、二人は腹を立てて、それなら都へ

     帰して欲しいと願い出た。

      彼らの願いに対して、宓子賤は待ってましたとばかりに言った

     ものである。

      「子(なんじ)の書 甚だ善(よろ)しからず。子、速やかに帰れ」と。

      国都に帰った二人は、哀公に具に事情を説明して不満を訴えた。 

      その後、哀公は宓子賤の師である孔子に質(ただ)すと、

      孔子は、

      「宓子は君子です。その才能は覇王の輔佐でも務まります。節を屈して

     亶父を治めているのは、自分の才能を試そうとしているのです。

      思うに、このことで以て君を諌めようとしているのではないでしょうか」

     と。

      哀公はため息をついて、宓子賤の真意を悟り、にわかに使いを遣り、

     言わしめた。

      「今より已往、亶父は吾が邑に非ざるなり。子の制に従いて、民に便なる

     ものあらば、子 決して之を治めよ。五年に一度 その要を言え」と。

      かくして彼に思い通りに施政を任せた所、亶父はよく治まり、民は彼の

     施政上の態度や言動によく淳化したという。

              「孔子家語 屈節解」・「呂氏春秋 審応覧・具備」

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(西施捧心)

     「西施捧心(せいしほうしん)

                        ◇ 東周王朝 ◇

      美醜、善悪の見境もなく、他人の真似事をする例え。

      春秋時代の越の絶世の美女・西施が、持病で胸に手を当てて苦しみ

     悩むの意。

      「顰(ひそみ)に倣(なら)う」とも言う。

     ◇ 「周を魯に行うは、舟を陸に押すが如きなり」

        時代遅れとなった周朝の聖天子の政治手法をもって、魯で行うのは、

       水上に浮かべるべき舟を、陸上で押してゆくようなもの。

     》 師金の占い 《

       孔子の諸国歴遊の始め、衛に着いた頃 後に残った弟子の顔回が

      師金という人物に占ってもらった。

       「先生の今度の旅行は、どうなるでしょうか」と。

       即ち、師の求める開明な君主に果たして巡り合えるものかどうか、

      不安な気持ちから問うたのである。

       師金は言う、

       「残念ながら、師はお困りになろう」と。

       顔淵がその理由を問うと、師金は語り始めた。

       「例えば、祭に使う藁作りの狗にしても、祭りまでは大事にされるが、

      祭りが終われば、往来に投げ捨てられたり、焚き付けにされてしまう

      もの。

       ところで、子の師もこれと同様、遥か昔の先王たちが使い古した藁狗

      とも言うべき「仁義礼楽」を拾い上げ、それで弟子たちを集めて、その

      周りで彷徨い、夢を追い続けているようなものだ。

       諸国流浪の難儀は、まさにその夢、うなされた結果ではないのか。

       其れ水行には舟を用いるに如くはなく、而して陸行には車を用いるに

      如くはなし。

       舟の水に行くべきを以てして、之を陸に押さんことを求むれば、則ち

      世を没(お)うるまで尋常をも行かず。

       (=方法を間違えると、生涯をかけてもわずかな距離しか進まない

        だろう。)

       今 周を魯に行わんとを蘄(もと)むるは、

      是れ猶 舟を陸に押すが如きなり。


       労して功なく、身には殃あり。

      今 猨狙(猿)を取りて衣(き)するに、周公の服を以てすれば、

     彼 必ず齕齧(こつげつ)挽裂し、尽く去りて而る後に慊(あきた)らん。

      (=今 猿を連れて来て、周公の衣服を着せてやれば、猿はきっと衣服

       を噛んでひき裂き、跡形も無くしておいて、徐に不満に思うだろう。)

      古今の異を観るに、猶 猨狙の周公に異なるが如きなり。

      (=昔から今に至るまでの違いを見るに、なおも猿が周公とは違って

       いるようなものと言える。)

      故に西施、心(むね)を病んで矉(ひん)せるに、その里の醜人(不美人)

     見て之を美とし、帰りて亦た心を捧げて矉す。


      その里の富人はこれを見、堅く門を閉ざして出でず。

      貧人はこれを見、妻子を挈(たずさ)えてこれを去り走(に)ぐ。

      (醜人)は矉を美とするを知るも、矉の美なる所以を知らず。

      惜しい哉、而(なんじ)の夫子(孔子)は其れ窮せん。

      この悲劇は、彼女たちが唯 胸に手を当てて、しかめ面になれば美人に

     なれると、思い込んでしまったことに在る。

      実の所、西施の生地はもともと美しいので、顔を顰めても、尚その美しさ

     を失わないと言う道理を知らなかった所から起った事と言える。

      思うに、子の師(孔子)が徒に先王の政治に憧れるのは、ちょうど西施の

     顰に倣う醜人のような類だ、と論断して、

      「だから残念ながら、先生はお困りになるだろうよ」と。

                     「荘子 外篇・天運」

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(晴好雨奇)

     「晴好雨奇」

                        ◇ 東周王朝 ◇

      山水の景色が晴れた日には好く、雨に日には際立って美しいこと。 

      ♬ 北宋 蘇軾「湖上に飲す 初め晴れ後雨降る その二」

           水光瀲灔(れんさん)として 晴れて方(まさ)に好く

       さざめく水面が陽の光に映じてきらめく、晴れた日の眺めは

      真に素晴らしい。

           山色空濛(くうもう)として 雨も亦 奇なり

       山の姿がぼんやりとうす煙る、雨の中の眺めも亦素晴らしい。

         ☞ 奇の字義は、優れる、抜きんでる。

           西湖を把(と)りて西子(せいし)に比せんと欲せば

       このような西湖を、かの西施に譬えてみれば、

           淡粧濃抹 総(すべ)て相 宜(よろ)

       薄化粧でも 圧化粧でも いずれもよく似合うもの。

         ☞ 濃抹は圧化粧。抹は塗る・刷くの意。

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(勾践嘗胆)

     「勾践の嘗胆(しょうたん)

                        ◇ 東周王朝 ◇

      勾践王の敗戦で受けた恥を雪ごうとして、苦心惨憺する故事。

      転じて、目的を達成するために、機を窺い苦難に耐えること。

     》 夫椒(ふしょう)の戦い 《

       周・敬王㉖二十七年(前494年)、呉王夫差が越王勾践を破る。

       呉の夫差が富国強兵に取り組んでいるとの情報に接して、越王勾践

      は范蠡の諌めも聞かず、呉に先制攻撃を仕掛けようとして出動した。

       だが今度は準備万端の呉軍は、全兵力を夫椒に投入して準備不足

      の越軍を撃破して大勝した。

       勾践は残った五千の兵を率いて、故国の会稽山に籠城したが、呉軍は

      厳しくかつ強力な包囲網を敷いた。

                        「史記 呉太伯世家」

      「満を持す」

       来るべき時に備えて、十分に準備して待機すること。

       元の意は、狙いを定めて弓を引き絞ったまま、未だ矢を放たない沈着

      且つ緊迫の状態にある構え。

       越は今や絶体絶命の危地に在った。

       勾践は敗北の原因が范蠡の諌めを聞かなかったことにあるとして、

      自ら深く反省し、この窮地を脱するには 今後 如何に対処すべきか、

      その方策を頭を下げて范蠡に問うた。

       范蠡対えて曰く、

       「満を持するものは天と与し、傾を定る者は人と与し、事を節する者

      は地を以てす。

       (=心を常に漲らせる者には、天の援けがあります、傾いて危うい

        国家を治める者には、人の援けがあります、質素倹約する者には、

        地の援けがあります。

       辞を卑(ひく)く礼を厚くして、以て之に遺(おく)れ。

       (=今後 天地人の援けを得ようとするならば、言葉を尽くして

        和を請い、礼物を厚くして呉王に献上なさることです。)

       許さずんば、身 これと市(あきな)え」と。 

       (=それでも猶お許しが得られない時は、我が身を奴隷に落としても

        耐え忍ばねばなりません。)

       勾践曰く、「諾」と。

                     「史記 越王勾践世家」

       
       「汝、会稽の恥を忘れたるか」

       事ここに至り、勾践は范蠡の進言に従い、大夫・文種(ぶんしょう)を

      使者として、呉に和議を申し入れた。

       「勾践 臣と為り、妻 妾となるを請う」と。

       (=願わくは勾践を臣下の端に、妻を下婢の列にでもお加え戴きたく、

        お願いいたします。」

       かくまで遜った態度の勾践の申し入れに、夫差は大いに気を善くして、

      許そうと傾きかけた。

       ところが、傍らの伍子胥は、

       「天、越を以て呉に賜う。許す勿れ」と。

       結局 和議の使者・文種は、失敗して一旦は帰国して、報告した。

       勾践は、もはやこれまでと覚悟して最後の一戦に持ち込もうとしたが、

      文種は、呉の太宰・伯嚭は貪欲なので、利を以て誘うべしと進言した。

       かくして勾践は今一度 文種を派遣して、伯嚭の買収工作に成功し、

      思惑通りに呉王夫差に謁見する機会を得た。

       文種は、呉王に今 越を滅ぼすことの損得功罪を説き、どうしても

      滅ぼそうとするなら、窮鼠 猫を食むの例えもありと再考を促した。

       すると、呉王に側に控えた伯嚭が文種に口添えした。そこで再び

      伍子胥の反対もあったが、呉王は伯嚭の言を認めて、遂に越の降伏

      を認めた。 

       和議が整うと、呉王は捕虜となった勾践王や范蠡らを引率して凱旋

      した。

       夫椒の戦いに敗れて、会稽山に逃れて籠城したが、呉軍の重圧に耐え

      切れず、恥辱を忍んで和議を請うたことを、「会稽の恥」と言う。

     》 勾践、帰国を許される 《

       その後、勾践の卑屈なまでに臣従する姿に接して、呉王夫差は勾践

      の帰国を許可した。

       勾践は帰国してからと謂うもの、会稽の恥を雪ぐために、動物の胆を

      側に置き、寝起きの度にその胆嚢を嘗め、その苦みを以てして、

       「汝 会稽の恥を忘れたるか」と、日々 叱咤激励した。

                 「史記 越王勾践世家」

                 「呉越春秋」

      ★ 呉王夫差の「臥薪」と越王勾践の「嘗胆」、之を合して「臥薪嘗胆」

       の故事が出来たと言われる。

        しかし、司馬遷の「史記」には越王勾践の「嘗胆」の記録はあるが、

       呉王夫差の「臥薪」の記録はない。

        明末から元初の人である曽先之の「十八史略」によって、初めて

       呉王夫差の「臥薪」が記されて、ここにおいて「臥薪嘗胆」なる故事が

       出来た。

        だが、それでも猶 「臥薪」もまた越王勾践の故事とする説もある。

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(夫差臥薪)

     「夫差の臥薪(がしん)

                         ◇ 東周王朝 ◇

      呉王夫差が父の仇を討とうとして、厳しい苦労を重ねた故事。

      転じて、目的を達成するために、機を窺い苦難に耐えること。

      呉の闔閭(廬)王は、孫武や伍子胥の働きにより、楚の侵攻において

     大いに成果を上げたが、楚を滅亡させるには至らなかった。

      楚の国都・郢を陥落させた直後、楚の忠臣・申包胥の必死の努力に

     拠り、秦軍の楚救援の緊急出動によって、呉軍は局地戦で五戦して五敗

     と言う惨敗を喫した。

      その一方では、呉の国内では、闔閭王の弟・夫概が王位簒奪を企て、

     剰え新興国の越が呉の虚を衝いて侵攻して来た。

      呉王は急遽 すべての遠征軍を引き揚げ、直ちに弟の始末をして、越軍

     と対峙した。

      だが越の勾践王は名参謀范蠡を擁して、呉軍の意表を突く作戦で呉軍

     を大破した。

      この戦いを檇李(すいり)の戦いと言うが、この戦いの最中 勾践王は

     受けた矢傷が原因となり、あっけなく世を去った。

      闔閭王は死際に、大子の夫差を枕元に立たせて、

      「爾(なんじ)にして勾践が汝の父を殺せるを忘れんか」と遺命した。

       (=夫差よ、お前の父を殺した勾践のことを、忘れるでないぞ。)

      夫差は対えて、

      「敢えてせず。三年にして、即ち越に報いん」と。

       (=どうして忘れましょうか。三年の内には必ず、越に報復いたし

        ます。)

      父の跡を継いだ夫差は、それからと謂うもの、

      朝夕薪中に臥し、出入するに人をして呼ばしめて曰く、

      (=朝晩薪の中に寝起きしては、我が身を苦しめ、出入りする臣下の

       者には必ず、次の如く称えさせた。)

      「夫差、汝は越人の汝の父を殺したるを忘れたるか」と。

      臥薪して、その痛みに耐えることで、一日として父の恨みを忘れまいと

     した。

      そしてその翌年、夫差は楚からの亡命者である伯嚭を太宰(百官の長)

     に任じ、越に復讐することを最大の目標にして、軍事力の強化に取り

     組んだ。

               南宋 曽先之(そうせんし)「十八史略 呉」

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(木鐸)

     「木鐸(ぼくたく)

                        ◇ 東周王朝 ◇

      世人を覚醒させ、教え導く人。

      ☞ 木鐸とは、金口に木の舌のついた鈴。

      古代中国では、朝廷が法令などの布告をする時、伝達しようとする官吏

     が、人民の注目を集めるために、木鐸を振って人民を呼び集めて、法令・

     通知を周知徹底しようとした。

                     「礼記 明堂位」

      孔子が陳に入った時、儀という邑(村)の封人(国境を守る役人)が、

     有名な孔子の入国を知るところとなった。

      儀の封人 見(まみ)えんことを請うて曰く、

      君子の斯(ここ)に至るや、吾未だ嘗て見(まみ)ゆるを得ずんば非ず、

     と。


      君子がここに来られて、この吾が未だ嘗てお目にかからないと言うこと

     はありませんでした。

      従者 之を見えしむ。

      出でて曰く、

      封人は孔子に面謁した後、控えていた孔子の弟子たちに向かって言う、

      二三子(にさんし) 何ぞ喪うことを患えんや。天下の道なきや久し。

      お弟子さんたち、お師匠さんが位を失って下野されたことを残念がる

     ことはありませんぞ。

      世が乱れて、正道が失われてから久しいのです。

      天 将に夫子を以て木鐸となさんとす。

      乱れも極まると、治に復するものです。そのうち天はお師匠さんを元の

     地位に復して政教を為さしめ、人臣を戒める社会の木鐸にしようと為され

     ることでしょう。

      弟子たちを、このように慰撫したのである。

                     「論語 八佾編」

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(発憤忘食)

     「発憤忘食」

                        ◇ 東周王朝 ◇

      憤りを奮い起こして、食事を取るのも忘れるほど物事に熱中して励む

     こと。

      ☞ 憤を発すとは、事物の道理を知ろうとして未だ知ることが

        出来ず、煩悶する様をいう。

      葉公(沈諸梁)が、孔子の人物を弟子の子路に問うた。

      だがその時、子路は何を思ったか応えず、葉公邸を辞してから、

     孔子にそのことを報告した。

      子曰く、

      (なんじ) 奚(なん)ぞ曰(い)わざる。

      汝はどうして、こう謂わなかったのだ。

      其の人となりや、憤りを発して食を忘れ、楽しみを以て憂いを忘る。

      老いの将に至らんとするを知らず、爾(しか)云う、と。

      その人となりは、事物の道理の探求で分からないことがあると、何とか

     知ろうとして、気を奪い起して食事さえ忘れてしまい、また事物の道理が

     分かると、得られたことの楽しみに、憂いさえも忘れるほどです。

      このように一心に学を好み、時には、その老いの迫りくる事さえ忘れる

     ほどです。

      このような人物に過ぎません、とか言えば良かったのだ。

                     「論語 述而篇」

      ☞ 憤りを発する事を「発憤」、心を奪い立たせることを「発奮」と

       言う、意味が似通っているので、しばしば混用される。

        一般的は発奮を用いることが多い。

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(直躬 父を証す)

     「直躬(ちょくきゅう) 父を証す」

                        ◇ 東周王朝 ◇

      余りにも正直過ぎるのは、正直とは言えないと言うことの例え。

      躬(み)を直(なお)くする者が、自分の父の罪を証言したとの意。

      ある日のこと、

      葉公(しょうこう)、孔子に語(つ)げて曰く、

      ※ 孔子師弟は陳蔡之厄に遭って難儀した時、楚王の命により救出

       された後、楚の葉(しょう)県の領主であった沈諸梁(しん

       しょりょう)の所で一時期 世話を受けた。

        その沈諸梁の尊称が、葉公である。

      吾が党に躬を直くする者有り、其の父 羊を攘(ぬす)む。

      而して子 之を証せり。

      吾等の仲間にその身の行いが直くて、少しも曲がった事をしない者が

     いまして、其の父が他所から紛れ込んできた羊を横領するということが

     ありました。

      だが、その事実を子でありながら上に訴え出て、証言した者がいました。

      孔子曰く、

      吾が党の直き者は、是に異なれり。

      父は子の為に隠し、子は父の為に隠す。

      直きこと其の中に在り。

      吾の仲間の身の行いを直くする者は、之とは違います。

      父子が互いに隠し合うのは、直くないようですがこれは人情の極みと言う

     ものであって、強いて正直なことを求めはしないが、その自然の人情に

     従って互いに隠し合うという所に正直があるのです。

                     「論語 子路篇」

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(顔回のつまみ食い)

     「顔回のつまみ食い」

                        ◇ 東周王朝 ◇

      孔子師弟の諸国放浪中、陳蔡之厄に遭って、難を避けるため僻遠の

     山岳地帯に逼塞した。

      一行は七日の間、一粒の飯も口にすることが出来なかった。

      そのような極限の事態にあっても、孔子が昼寝をしていた際、顔回が

     ようやく穀類を手に入れて来て、炊飯にとりかかった。

      そしてもうすぐ炊き上がるという所で、目が覚めた孔子が遠くを見やる

     と、顔回が土鍋の中からつまみ食いする姿が目に止まった。

      だが、孔子は見ないふりをしていた。

      それから間もなく飯が炊きあがったので、顔回は孔子の所に来て、食膳

     を勧めた。

      孔子はやおら起き上がってから、

      「今しがた夢で、亡くなった父にお目にかかったので、手を付けない内に

     先に飯を差し上げたい」と言った。

      顔回は対えて、

      「それは駄目です。さっき煤が土鍋の中に入ってしまいましたが、貴重な

     食べ物なので棄てることも出来ず、私がつまんで戴いてしまいました」と。

      孔子はそれを聞いて、嘆息して言った。

      「目は信じられるはずのものだが、その目も信じられない。

       心は頼りになるはずのものだが、その心も頼りにならない。
       
       弟子たちよ、覚えておきなさい。

       人を知るのは容易でないということを
    。」 

                     「呂氏春秋 八覧 審分覧・任数」

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(喪家の狗)

     「喪家の狗(いぬ)


                        ◇ 東周王朝 ◇

      心身が極度に疲れ果て、痩せ衰えて見る影もないような人。

      喪中の家の飼い犬は、家人が悲しみの余り飼い犬にまで気を配る余裕

     が無くなり、餌を与える事を忘れるので、自ずと飼い犬は痩せ衰えた。

      そこから極度に痩せ衰えた人のことを、喪家の狗と譬えられるように

     なる。

      孔子は鄭の国都に辿り着いたが、弟子たちとは逸れてしまい、独りで

     東郭(東の城門)の外に立っていた。

      師の所在を探していた弟子の子貢は、たまたま鄭のさる人に尋ねた。

      すると、去る人曰く、

      「東門に人有り、顙(額)は堯に似、その項(うなじ)は皐陶に類し、

     其の肩は子産に類す。

      然れども要(腰)より下、禹に及ばざること三寸、

      纍纍(るいるい)として喪家の狗の如し」と。

        ☞ 纍纍とは、疲れ果てた様。

      子貢は師の所在をさる人に確かめてから、ようやく再会することが

     出来た。

      子貢は、その去る人の言葉を孔子に告げた。

      すると孔子は欣然として喜んだが、また溜息をついて言った。

      「形状は未だ当たらずと雖も、喪家の狗に似るは然(しか)らん哉、

     然らん哉
    」と。

        ☞ 堯は神話時代の五帝の一人。禹は夏王朝の始祖。

          皐陶は五帝の一人の舜帝に仕えた法理に長じた賢臣。

          子産は春秋時代の鄭の名宰相。

               「史記 孔子世家」・「孔子家語 困誓」 

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(遽伯玉 行年六十にして六十仮す)

     「遽伯玉、行年(こうねん)六十にして六十化す」

                          
                        ◇ 東周王朝 ◇

      春秋時代の衛の賢人・遽伯玉(きょはくぎょく)は、歳が六十に

     なるまでに、その思想や態度は、六十回も変化した。

      則ち、彼の求める徳の道は日進月歩して止まず、六十の歳にして五十九

     の非を悟ったのである。

        ☞ 行年とは、経過した齢であり、歳をとったの意。

                            「荘子 雑篇」  


      ☆ 後に漢の世となり、遽伯玉は歳六十よりさらに前に、

        「遽伯玉は、歳五十にして四十九年の非あり」と、言われる。

                         前漢 劉安撰「淮南子」

       「論語 憲問篇」

        遽伯玉 人を孔子に使わす。

        衛の遽伯玉が、孔子の下に使者を遣って、その後の安否を問わせた。

        ※ 孔子が衛にいた頃、遽伯玉の家に宿泊して、親しんだことが

          あった。

        孔子 之と坐して焉(これ)に問うて曰く、

        孔子は其の使者と座を共にして、質問した。

        夫子 何をか為す。

        ご主人は平生 何を為さっておられますか。

        対えて曰く、

        夫子は其の過ちを寡(すく)なくせんと欲す。

      而して未だ能わざるなり。


       ご主人様は普段は己の過ちを少なくしようと心がけておられますが、

      まだ思う通りにはできません。

        使者 出ず。

        子曰く、

        使いなるかな、使いなるかな。

       この使者の遽伯玉に代わる代言は、当に己の身を顧みて、己に克って

      常に及ばざるが如くすることが分かり、使者の発言は謙虚にして、且つ

      遽伯玉の賢である事が明らかであった。

       この使者は、深く君子の心を知り、見事に応対した者と言えた。

       そこで、孔子はその使者を褒めて、

       これぞ、立派な使いと言える。立派な使いだ。 

      ★ 明 李攀竜(はんりゅう)「唐詩撰 駱賓王(らくひんおう)」

           (しばら)く論ぜん三万六千の是なるを

           寧(いずく)んぞ知らん四十九の非なるを


        遽伯玉は五十の歳にして、四十九の非を悟ったと言うが、

        そのように人生を後悔ばかりしていては、楽しむことも出来ない。

        人は良く生きて百年、約三万六千日であるわけであるが、其の

       三万六千日の人生の正しかったことを論ずべきであって、何も遽伯玉

       のように己の過去の非のみを論ずる必要はあるまい。

        過去の事はくよくよせず、人は楽しむべき時に楽しむべきである。 


     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(東西南北の人)

     「東西南北の人」

                        □ 東周王朝 □

      流浪の人。

      諸方を彷徨い、住む所の定まらない人の意。

      「今の丘や、東西南北之人也。」 

       当に昨日今日の孔子は、行き着く所もな流浪の人である。

         ☞ 孔子の諱は、丘。諡は仲尼。

                            「礼記 壇弓上」 

      魯・定公十三年(前497年)、魯の官を辞した孔子は多くの門弟を

     率いて、理想の主を求めての諸国歴遊が始まる。

      時に孔子も、歳は既に五十有余となっており、

      「五十にして天命を知る」と言う、知命の歳を過ぎていた。

      ※ 「知命」は五十歳を言い、人間の遭遇する吉凶禍福は、避け

       がたいものだと言う事を、孔子はこの歳に悟った。

      しかし時代はもはや仁徳や礼楽による王道主義の安定期は終わり、

     覇権主義の全盛期となり、政治思想においても法家思想による政治改革

     が進行しようとしていた。

      そのような情勢下での諸国歴遊に際して、当然の結果として孔子の

     言動に、しばしば矛盾が露呈されることになる。

        
          

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(観闕之誅)

     「観闕之誅(かんけつのちゅう)

                       ◇ 東周王朝 ◇

      不正の臣を誅殺すこと。

      孔子が大夫・少正卯を、思想上の理由から、魯の宮門の両脇に築いた

     台の下で殺害した故事。

        ☞ 観闕とは物見台(楼観)。

                          「漢書 王尊伝」

      少正卯誅殺諸論

       後漢の王充 「論衡」

       魯の大夫である少正卯は、孔子と同様に魯で有力な学塾を開いて、

      若者に強い影響力を持っており、孔子の弟子たちも彼の下に奔る者

      が多かったと。

       少正卯は孔子にとっても、いわば学問上の宿敵でもあったわけ

      である。

       そこで孔子が夾谷の会盟の功により、宰相の代行にまでなると、

      真っ先に取り組んだのが、この少正卯の排斥であった。

       そしてその理由として、無頼の徒を集めて徒党をなし、黒を白と言い

      くるめる言説で大衆を欺き、正道に反し専横を行う強大な勢力を作った、

      というものであった。


      「朱熹の論」

       南宋の朱子学者・朱熹は、孔子のこのような事績が「論語」・「春秋」

      や「孟子」などの古記録に見えないことを理由に挙げて、

       「斉・魯の陋儒(固陋なる儒学者)が、聖人孔子の失職に憤慨して、

      儒教の権威をより以上に高めるために、史実に非ざるこの説を作り

      出し、儒教は政治の現実の場においても、十二分に実用され得る

      ものだと粉飾誇張した結果の産物である」と論断した。 

     
     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(文事あるものは必ず武備あり)

     「文亊あるものは必ず武備あり」
                        ◇ 東周王朝 ◇

      平和的な諸侯会盟であっても、緊急事態に備えて軍備を怠ってな

     ならない。

      》 夾谷の会 《

       孔子は、魯の定公㉖の下で大司寇に抜擢されて、政局の中枢に

      いた。

         ☞ 大司寇(だいしこう)とは、警察・司法関係の長官職。

       魯・定公十年(前500年)、斉と魯の間に二国間の会盟がもたれる

      ことになったが、これは孔子の下、隆盛に赴こうとする魯の勢いを

      削ごうとする斉の謀略であった。

       定公は招きに応じて、無防備のまま会盟に出立しようとした。 

       この会盟の魯の折衝役を仰せつかった孔子は、進言してた。

       「文亊あるものは、必ず武備あり。

       請う左右の司馬(軍旅)を具え以て従わんことを
    」と。

       則ち平和的な外交交渉と雖も油断すべきではなく、非常事態に

      備えて身近に兵馬を従えておくべきことを請うて王を諌めたのである。

       定公は孔子の諌めに従って、軍旅を引き連れて夾谷の会場に

      向かった。

       会盟では、斉の景公㉖の恫喝的言辞によって危機に直面する定公を、

      孔子は再三に亘り援け、逆に景公を道義的窮地に追い込むことも

      あった。

       そして会盟の結果、嘗ては魯を追われて斉に亡命してきた陽虎が、

      魯から奪い取った鄆(うん)、讙(かん)、亀陰の領地を斉に返還させる

      ことに成功する。

       斉の景公は国都に帰ってから、会盟を差配した主だった臣下の不甲斐

      なさに大いに嘆き、

       「魯は君子の道を以て、その君を助く。

       而るに子(なんじ)は、独り夷狄の道

      を以て寡人に教う
    」と。 

             「史記 孔子世家」・「春秋左氏伝 定公十年」 


     ★ 「君子過ち有らば謝するに質(ち)を以てし、

        小人過ち有らば謝するに文を以てす。」

        自分が間違ったと悟ったら、人は謝罪する。しかしどのように謝罪

       するかは、君子と小人では差がある。

        君子は質朴誠実で飾り気の無い内容の伴った謝罪をするが、小人

       は形式を飾った誠意の無い謝罪をする。

        夾谷の会盟では、斉は「礼の定め」に反する行為を重ね、孔子に

       指摘され度々叱責された。

        魯公に顔向けならぬ仕儀と為り、景公はその臣下に善後策を相談

       した。

        その臣下曰く、

        「君子は過ち有らば謝するに質を以てし、小人は過ち有らば謝する

       に文を以てす」と。

        かくして景公は、会盟の非礼を詫び、陽虎の置き土産であった魯の

       旧領を返還した。

                     「史記 孔子世家」

     ☆ 「論語 衛霊公篇」

        子曰く、

        君子は諸(これ)を己に求め、小人は諸を人に求む。 


        君子は何事も能くしないことがあれば、責めは自分に求めて省みる

       が、小人は思いが達せられなければ、その責めを他人に求めようと

       する。 

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(死屍に鞭打つ)

     「死屍に鞭打つ」
                         ◇ 東周王朝 ◇

      死んだ人を非難し攻撃すること。

      死体に鞭打って、生前の怨みを晴らすの意。

     》  呉軍、楚都の郢に侵攻す  《

       呉・闔閭(廬)王㉔の十年(前506年)、呉と楚の戦いは最終戦に

      入る。

       前511年の前哨戦に始まり、前508年には豫章の大戦となり、楚軍

      は大敗を喫し、剰え公子繁まで捕獲されてしまった。

       それから五年後のこの年、呉は満を持して最終戦に臨んだ。

       楚の属国であった蔡国と唐国が呉に好を通じてきた。

       伍子胥の建議に基づくものであった。

       楚の豫章方面は防衛が極めて堅固であったので、淮河上流に在る

      唐国と中流に在る蔡国の加勢があれば、楚の防衛線を撃破できると

      の策を練ったのである。

       呉の闔閭王は主力軍を率いたが、伍子胥と孫武は水軍を指揮して

      淮河を遡上し中流地点で蔡国軍と合流して、ともに陸路を取った。

       其の後 桐伯山脈を越えて、麓に在る三関内で唐軍に合流した頃、

      漸く呉の主力軍も到着し、楚の中枢である江漢平原を目指した。 

       その後の呉軍は、江漢平原に在る楚の拠点を次々と攻略した。

       楚は令尹・囊瓦(のうが)を総司令官に任じ、大軍を動員して迎撃し

      ようとした。

       楚軍は二手に分けて、囊瓦の主力軍は漢水の防衛線を守り、

      左司馬・沈尹戌の別働隊は漢水を遡上して南陽盆地に入り、東に転進

      して淮河に停泊する呉の軍船を焼き払い、三関を奪取して呉軍の退路

      を絶つという作戦を立てた。

       ところが、囊瓦の主力軍は別働隊の攻撃を俟たず、漢水を渡河して、

      呉軍に攻撃を仕掛けた。

       楚の主力軍は数を恃んで、呉軍を東へ押し出し、柏挙で止まった。

       十一月庚午(七日)、呉楚両軍は柏挙に陣を張った。
     
      臣は義にして行い、命を待たず

       呉の闔閭の弟・夫概は、早朝 闔閭に、

       「楚の囊瓦は不仁にして、士卒も必死の覚悟がありません。だから

      真っ先に囊瓦の直属部隊を攻めれば、必ず逃走します。
     
       其の後に呉が大軍を突入させたら必ず勝てます」と奇襲攻撃を買って

      出たが、許されなかった。

       だが夫概は納得せず、

       「『所謂 臣は義にして行い、命を待たず』とは、其れ此れを

      之れ謂うなり。

       今日、我死せば、楚に入るべきなり(楚都に入城することが出来る)」

      と言って、単独で軍事行動を起こした。

       夫概は五千の精鋭を率いて、楚の大軍に立ち向かったが、絶妙な

      戦機の頃合いであったので、大いに楚軍を撃破した。

       大軍を率いた囊瓦は敗走したが、呉軍は全軍一体となって追撃し、

      溳水(おうすい)において、さらに楚軍に深い傷口を与えた。

       沈尹戌の別働隊は、囊瓦敗走の報せに、漢水と溳水に挟まれてた

      雍澨の地で防戦に努めたが、呉軍の勢いを止めることはできず、結局

      この度の戦いで、楚軍は五戦して五敗と言う大敗を喫した。

       楚軍にはもはや、国都・郢を防衛する戦力は無く、郢は間もなく陥落

      した。

     》 伍子胥、不倶戴天の怨念を晴らす 《

       伍子胥は呉兵を率いて、勇躍 楚都の郢に入った。

       子胥が楚を出奔して、はや十六年が経っていた。

       だがこの時には、既に怨念を晴らすべき不倶戴天の平王は亡くなって

      おり、また復讐の原因をもたらした佞臣・費無極も、昭王㉚即位の際の

      内紛で誅殺されて、今やこの世に存在しなかったのである。

       無念やるかたない伍子胥は、そこで已む無く平王の墓を暴いた。

       そして棺おけから
        
       《その尸(しかばね)を出だし、之を鞭打つこと三百。

       然る後 已む。》


       このような暴挙を敢えて行い、父や兄に対する復讐を果たし、積年の

      怨みを晴らした。

                      「春秋左氏伝 定公四年」・「史記」

      

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(魯の男子)

     「魯の男子」

                      ◇ 東周王朝 ◇

      人の行為を学ぶには、その外見だけで判断することなく、

     その心意を学ぶべきであるという教訓。

      春秋時代の魯の国に、独り暮らしの男がいた。

      またその男の隣には、独り暮らしの後家(未亡人)がいた。

      ある日の夜、嵐が来て後家の家は壊れたので、後家は小走りに男の

     家を訪れて頼った。

      ところが、男は戸を閉めて、後家を家の中に入れようとしなかった。

      後家は窓越しに男と話をして、

      「あなたはどうして私を家の中に入れてくれないのですか」と。

      男は言った、

      「男は六十にならないと、女と居を同じくしないと聞く。

       今あなたは若く、私もまた若い。だから入れる事が出来ない

      のです」と。

      後家は話を続けて言う、

      「あなたはどうして、柳下惠のようにしないのですか。

       柳下惠は不逮門の女を暖めてやったが、国の人は彼が乱れた

      とは言いませんでしたよ。」

         ☞ 不逮門とは、魯の都城の門の名。

       男は言った、

       「柳下惠はそう出来ても、私にはそうはできない。

       私のような、そうできない男が、柳下惠のようなそう出来る人の

      真似が出来ようか」と。

                    「詩経 小雅・巷伯」

      

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(柳下季の信)

     「柳下季(りゅうかき)の信」

                        ◇ 東周王朝 ◇

     》 斉、魯を攻め岑鼎(しんてい)を求む 《 

      斉は魯を攻めて後、和平の条件として魯に伝わる宝物の岑鼎を要求

     してきた。

        ☞ 岑鼎:普通の鼎より、かなり大きな鼎ではないかとの説がある。

      その要求に対して、魯の君は別の岑鼎を献上したが、斉公は之を信用

     せず、突き返して申し渡した。

      「柳下季(りゅうかき)、以て是と為さば之を受けん」と。

      魯公はそこで柳下季に、間違いないことの保障を請うた。

      柳下季対えて曰く、

      「君の賂(まいない)するは、岑鼎を以てするか、以て国を免れしめんと

     欲するか。


       ☞ 賂とは、頼みごとの為の不正の贈り物の意。

       ※ 偽物の岑鼎を贈呈して国難を逃れようとするのかの意。

      臣も亦た此に国有り。

       ※ 柳下季自身の誠の信念を、「国」に譬えて、かく言う。

      臣の国を破りて以て、君の国を免れしめるは、此れ臣の難しと

     する所なり
    」と。

      事ここに於いて、魯公は改めて、本物の岑鼎を斉に献上した。

       柳下季

        春秋時代の魯の人。大夫で柳下と言う地に封ぜられたので柳下氏

       を称す。

        本名は展獲。字は季または禽。通り名は柳下惠

     
     ◇ 「呂氏春秋の評」

        且(こ)れ柳下季は、此れを能く説けりと謂うべきなり。

        (=このように柳下季は能く主君を説得したということが出来る。)

        独り己の国を存するのみに在らずして、また能く魯君の国を有すれ

       ばなり。

        (=自らの信念を全うしたばかりでなく、魯君の国をも保ったと

         言える。) 

                       「呂氏春秋 季秋紀・審己」

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(一慙之れを忍びずして、)

       「一慙(いちざん)を之れ忍びずして、

       終身慙(は)じんや」


                         ◇ 東周王朝 ◇

       一時の恥に堪えられなくて、生涯にわたり恥をかくような事をしては

      なりません。

       魯・昭公三十一年(前511年)、昭公㉕は季孫氏の専断を抑え

      きれず、挙兵したものの敗れ、遂に国を出奔した。

       以来、斉や晋に身を寄せたこともあったが、今は乾侯に在った。

       ところがこの時の春、晋の定公㉜は軍を率いて昭公を魯に入れよう

      とした。

       すると范献子(范鞅)が君に助言して言った。

       「若し季孫を呼び寄せて来なかったら、それこそ誠に不忠の臣である

      と言えます。

       そこで、季孫を伐つ事になさったら如何ですか」と。

       晋はかくして季孫意如(季平子)を呼び寄せる事にしたが、范献子は

      密かに使いを送り、その内意を告げて、

       「子 必ず来たれ。我 其の咎(とが) 無きを受けん」と言わせた。

       (=汝が来れば、私は必ずそのお咎めの無いように図ろうぞ。) 

       やがて季孫意如は晋に出向いて、荀躒(知文子)と適歴で会合した。

       荀躒は晋君の意向を受けて、季孫氏を責めて言う、

       「何の故に君を出だせる。君 有りて仕えざるは、周に常刑

      (決まった掟)有り。

        子 其れ之を図れ(そのことを熟考なされ)」と。

       季孫意如は喪に服する姿に改め、憂慮に堪えない気持ちを表わし、

      我が君の意のままに従います、と表明した。

       夏四月、季孫意如は荀躒に従って、昭公のいる乾侯に行った。

       両者会談の後、昭公お付きの大夫・子家子は謂う、

       「君 之と與に帰れ。一慙を之れ忍びずして、終身慙んや」と。

       昭公は帰国を承諾しようとしたが、他の多くの随身は、晋を拠り所と

      して恃めば、季孫氏を追放できると言って反対した。

       その後 荀躒は晋公の命を受けて、昭公を見舞った。

       「君命を以て季孫意如を責めたが、意如は決して己の死を免れよう

      とは致しませんでした。

       ですからこの際、季孫と一緒に帰国されよ」と慰めたが、昭公は同意

      しなかった。

       荀躒は、驚き且つ失望して昭公の下を去った。

       そして季孫意如に対しては、

       「君の怒りは未だ懈怠せず。子、姑らく帰りて祭れ」と。

       (=君の怒りは未だに緩んでいないので、汝は帰国して暫く政事を

        行うべし。) 

                     「春秋左氏伝 昭公三十年」

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(千羊の皮は、)

       「千羊の皮は、一狐の腋(えき)に如かず」

                        ◇ 東周王朝 ◇

       衆愚の智慧は、一人の賢人にも及ばないことの例え。

       千頭の羊の皮も、一匹の狐の腋下(わきした)の皮には及ばない

      の意。

       晋の実力者である卿大夫・趙簡子には周舎という臣下がいて、

      しばしば趙簡子を諫言して良き補佐をしていたが、ある日 突然 

      亡くなってしまった。

       その後 趙簡子は、朝政を聞くごとに、いつも不機嫌な顔をしていた。

       そんな趙簡子の様子を見て、ある大夫はその原因が自分にあると

      して、己の不行き届きを詫びた。

       趙簡子は言う、

       「大夫に罪はない。『千羊の皮は、一狐の腋に如かず』という。

       大夫 初め朝政に参与するも、唯にハイハイと言うだけで、周舎の

      ような諤諤(がくがく)の論が聞けなくなった。

       それを心配しての事なのだ」と。

         ☞ 侃々諤々(かんかんがくがく)と言えば、

           憚ること無く正論を堂々と主張する様をいう。

                    「史記 趙世家」

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪

       「磨すれども磷(りん)せず、

       涅(でっ)すれども緇(し)せず」


                         ◇ 東周王朝 ◇

       至って硬い物はいくら砥石で磨いても薄くはならず、その精神さえ堅固

      であれば、どのような環境にあっても、挫けたり駄目になってしまうこと

      はない。

       また至って白い物は、いくら黒く染めようとしても黒くは染まらず、

      真に潔白な人は、どのような悪の誘惑があっても、堕落するようなこと

      はない。

       
      》 佛肸(ふつきつ)、趙簡子に背く 《

       晋の卿大夫である趙鞅(趙簡子)の宰邑地・中牟(ちゅうぼう)の宰を

      務める佛肸が、趙氏に背いた。

       》 不義不善人を嫌悪忌避しない孔子 《

       佛肸 呼ぶ。

       子 往(い)かんと欲す。

       そんなある日のこと、佛肸が孔子を招聘しようとした。

       時に、孔子は主を求めての流浪中の身であり、その招きに応じようと

      した。

       子路 曰く、

       昔者(むかし)、由(仲由。通り名は子路)や諸(これ)を夫子に

       聞けり。


       曰く、
     
       親(みずか)ら其の身において不善を為す者は、君子は入らず、と。


       佛肸、中牟を以て畔(そむ)く。子の往くや之を如何。

       (=以前に先生は、自分自身で不善をする者の所には、君子は行

        かずと申されました。

         ところが、佛肸は主たる趙氏の封地の中牟において、自立しよう

        と反乱を起こしておりますので、行かれるのどうかと思います。)

       子曰く、

       然り。是の言あり。


       堅きを曰わずや、磨すれども磷せず、と。

       白きを曰わずや、涅(でっ)すれど緇しせず、と。


       (=その通りだ。前にそう言ったことがある。

          しかし堅い物を言う時に、磨いても薄くならないと言うでは

         ないか。

          白い物を言う時に、黒く染めようとしても黒まないと言うでは

         ないか。

          だがそれは、堅さと白さが足りない者の為に言ったのである。

          私は彼の党に入っても、決して穢れる事は無いのだ。)

       吾 豈(あに) 匏瓜(ほうか)ならんや。

       焉(いずく)んぞ能く繋がりて食(くら)わざらん。

       (=この吾は人であって、ヒサゴではないのだ。どうしてヒサゴのよう

        に一つ所に掛けられて、飲食することも出来ずにいられようか。

         世間の無用の物とならないためにも出かけるのだ。)

          ☞ 匏瓜とは、瓢箪や瓜の類でできた容器であり、

            「瓢(ふくべ)」とも「匏(ひさご)」とも言う。

                    「論語 陽貨篇」

      

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(繭糸)

       「繭糸(けんし)

                          ◇ 東周王朝 ◇

       税金の取り立てが厳しいことの例え。

       繭(蚕が糸を吐き出して作った巣)から糸(蚕糸)を引き出すように、

      次々に税金を取り立てるの意。

       春秋時代の晋の卿大夫・趙簡子は、晋陽の宰邑地を賢臣の董閼于

      (とうあつう)に采配させていたが、思うところがあって、彼の下に尹鐸

      (いんたく)という偉才を派遣して輔佐させることにした。

       尹鐸は赴任に先立ち、趙簡子にその腹中を尋ねて言った。

       「以て繭糸を為さんか、以て保障を為さんか」と。

       即ち農業を奨励して税を多く取り立てるか、それとも民を慰撫して人民

      の安定を保障するか、という施政の方針を尋ねたわけである。

       趙簡子は言う、「勿論 保障だ」と。

       尹鐸は晋陽に至ると、その総戸数を調べてから、登録の戸数を実際の

      数より減らし、税収入に係る戸数を過小にしてから、民の負担する税金を

      軽減した。

       その後、趙簡子は後継ぎとなる次男の趙無恤(ぶじゅつに遺言した。

       “晋国、難有らば、必ず晋陽を以て帰と為せ ”、と。

       (=将来、この晋に国難が生じた時は、必ず晋陽に帰住して備えよ。)

         ☞ 董閼于は、諱を安于ともいう。

           趙無恤は、諡号を(趙)襄子という。 

               「国語 晋語」・「韓非子・十過」

               「十八史略・春秋戦国 趙」

       
       春秋時代の末期、晋の四卿時代に趙氏は、最大勢力を誇る知伯に

       領地の割譲を迫られたが拒絶したため、知伯率いる知・韓・魏の連合軍

       と戦闘を交えた。

        趙氏は晋陽城に三年余り籠城し、領民とともに苦難に耐え忍び、終に

       知伯軍を撃ち破ることに成功する。

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(掩耳盗鐘)

        「掩耳盗鐘(えんじとうしょう)

                         ◇ 東周王朝 ◇

       小策を弄して自らを欺くこと。

       その場逃れをしても、いずれは悪事が世間に知れ渡るの意。

       春秋時代、晋の六卿である范氏が、同じく六卿である智(知)伯の為に

      滅ぼされた時、范氏の遺民で范氏の釣鐘を無断で手に入れた者がいた。

       ところがそれを背負って逃げようとしたが、大き過ぎて背負いきれず、

      槌でそれを叩き壊した。

       当然のこれ亦 大きな音がした。

       范氏の遺民は、人がその音を聞いて駆けつけて来て、自分から釣鐘を

      奪い取られるのを懼れて、慌てて自分の耳を手で覆ったものである。

        人が聞くのを懼(おそ)れて、音が出るのを憎むのは良し

        としても、自身がこれを聞くのを懼れて憎むのは道理に合わない

        ことだ。

                    「呂氏春秋 六論 不苟・自知」

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(三令五申)

        「三令五申(さんれいごしん)

                         ◇ 東周王朝 ◇

       号令や命令を繰り返して説明すること。

       ☞ 数字の三と五は、数そのものではなく、度々とか繰り返しの意で

        ある。

       古代の兵法書「孫子の兵法」の著者・孫武が呉王(闔閭王㉔)に招か

      れた。

       これは、伍子胥の推挙に拠るものであった。

       そしてある日のこと、孫武は呉王に請われて、宮殿の前庭で実戦的

      兵法を披露する運びとなった。

       孫武は宮中の女官 その数 百八十人を集めて、二つの隊を編成した。

       そして、呉王の二人の特別な寵姫をそれぞれの隊長に任じた。

       先ずは、じっくりと軍隊の号令や命令を言葉で教え込んだ。

       愈々 模擬訓練に入り、孫武が総指揮官として、

       「」と号令を下したが、寵姫の隊長以下 女官たちは笑い転げる

      ばかりで、号令に一向に従おうとはしなかった。

       このあり様を見て、孫武は自分を責めた。

       号令が徹底しないのは自分の責任であるとして、三令五申した。

       そうした上で漸く孫武は、総指揮官として、太鼓を鳴らして、

      「」と号令を下した。

       だが今回も、やはり女官たちは笑い転げるばかりであった。

       今度は、孫武も自分を責めなかった。

       既に号令の内容は十分に分かっているのに、従わないのは隊長の

      責任であると言って、二人の隊長を斬首しようとした。

       すると驚いた呉王は、二人を助命しようとしが、孫武は呉王に言った。

       「私は、王から将軍に任んぜられたのです。

        将、軍に在りては、君命を受けざる所有り」と婉曲に拒否し、結局

      二人の寵姫を斬ってしまった。

       そして新たに隊長を任命し、模擬訓練を始めたが、能く号令が徹底し、

      意のままに従うようになった。

                    「史記 孫子列伝」

     ★ 孫武の君命による模擬訓練、訓練の史実そのものは納得できても、

       果たして、史記の記載の通りであったかどうかは疑わしい。

       将軍による「命令の絶対的遵守」を敷衍しようとしたものであろうが、

      たかだか模擬訓練である。

       寵姫二人を犠牲にしてまで、呉王が納得するものかどうか

      疑問が残るところである。
       
       要は、総指揮官としての孫武の部隊の運用の妙と采配振りが分か

      れば良しとするものではないか。 


      帝国海軍の連合艦隊司令長官となった山本五十六海軍大将の言葉として

       次の有名な訓戒がある。

       「やってみて、言って聞かせて、させてみて、

      褒めてやらねば人は動かじ。」

       これぞまさしく、指揮官たる者の、人情の機微をよく理解した部下統率

      の基本的な心構えといえよう。

       口先だけでは人は動かないし、また動かせるものではない。

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(天網恢恢)

       「天網恢恢(てんもうかいかい)

                         ◇ 東周王朝 ◇

       天はこの世の出来事すべてを察知しているので、人間の悪事は

      必ず滅び去るということの例え。

       天の張り巡らした網は,大きくて広く、その網目は粗いが、網を破ろう

       とする何者も決して取り逃がすことはないの意。

       ☞ 恢恢とは、広く大きな様。

       ※ 悪事に対する、天道の厳正な事を「網」に例えたもの。

       「天の道は、争わずして善く勝ち、言わずして善く応じ、

         (=無為自然たる天の摂理、即ち自然の働きは、争わずして

          うまく勝ち、ものを言わずしてうまく応答し、)

        招かずして自ら来(きた)し、繟然(せんぜん)として善く謀る。

         (=呼び寄せることも無く自ら来させ、ゆったりと構えていて

          上手く事を謀るものといえる。)

           ☞ 繟然は、ゆったりした様。

        天網恢恢、疎にして失わず。」

         (=天の網は広大で粗いようだが、如何なる悪も見逃す

          ことはない。)

        この章の大意は、無為なればこそ、すべての事は上手く

        成し遂げられるという、老子の逆説論理である。

         とかく世の中の英知による法の裁きというものは、利害に

        囚われ勝ちだが、無為自然の「天の摂理」のまま、自然の裁きに

        委ねると、事は上手く運ぶものである。

        後世の南北朝時代、北斉の魏収の編纂した

       「魏書(北魏書)」では、

        「天網恢恢、疎にして失わず」を、

        「天網恢恢、疎にして漏らさず

       と言い換える。

       ※ 日本では、後者の方が慣用される。

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(報怨以德)

       「報怨以德(ほうおんいとく)

                        ◇ 東周王朝 ◇

       人から受けた酷い仕打ちによって生じた怨みに対して、

       仇を報ずるのではなく、恩徳を以て報いること。

       怨みに報いるに徳を以てするの意。

       「老子道徳経 第63章」

       無為を為し、無事を事とし、無味を味わう。

       (=殊更に何もせず、格別な事もせず、味が無いという道の

        無味を味わう。)

       小を大とし少を多とし、怨みに報いるに徳を以てす。

        (=小さなことも大きなことに、また少ないものも多くなると

         考えて、細心に取り扱い、怨みごとに対しては恩徳で報いる。

          そうすれば、怨みを与えた人も、遂にはこの徳に感化される

         ので、受けた怨みも次第に薄らいでいくもの。)

       難きを其の易(やす)きに図り、大をその細に為す。

       (=難しいことは、それがまだ易しい内によく考えて処理し、

        大きなことは、それがまだ小さい内に手を打っておくべき

        である。)

       天下の難事は必ず易きより作こり、天下の大事は必ず細より作こる。

       (=世の中の難しくて大事な問題も、必ず易しい些細なことに

        端を発するものである。)

       是を以て聖人は、終に大を為さず、故に能くその大を成す。

       (=その故に聖人は、決して大きなことはしないのである。

         だからこそ、能く大きな事を成し遂げられると言える。)

       夫れ軽諾は必ず信 寡(すく)なく、多易(たい)は必ず難 多し。

       (=そもそも安請け合いは必ず信義に乏しく、安易な事ばかり

         していると、必ず難しくなるなるものだ。)

       是を以て、聖人すら猶これを難(かた)しとなす、

      故に終に難きこと無し。

       (=それゆえ、聖人でさえも猶難しいとして、慎重に臨むのだ。

         だからこそ、終には難しく無くなるのだ。)


        老子の「無為」は、何もしないということではなく、

        殊更なことはしないという、実践の在り方を逆説的に述べたもの。

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(人を知る者は智なり、)

       「人を知る者は智なり、自ら知る者は明なり」

                         ◇ 東周王朝 ◇

       他人の事が能く分かるのは、智慧の働きに拠るものである。

       自分で自分の事を能く知ることが出来る者は、それ以上に進んだ明知

      に拠るものである。

       人に勝つ者は力有り、自らに勝つ者は強し。

       他人を打ち負かすことが出来るのは、力があるからだが、自で自分に

      打ち勝つことが出来るのは、本当の強さだと言える。

       足るを知る者は富む。強(つと)めて行う者は志あり。

       其の所を失わざる者は久し。


       満足することを知るのが、本当の豊かさである。

       努力して行い続ければ、既に志を果たしていると言える。

       自分本来の在り方から離れていなければ、事は永続する

      ものである。

       死して而も亡びざる者は、寿(いのちなが)し。

       たとえ死んでも、真実な道と一体となって滅びることが無いのが、

      長寿と言うものである。

                     「老子道徳経 第三十三章」

      

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    Author:tyouseimaru
    出身地は四国八十八か所参りの発心の阿波、大阪を終の棲家とする。
    歴史好きで、城郭・神社仏閣・歴史遺跡巡りが趣味となる。
    歴史小説や時代小説を好み、往年の著名な時代小説の類は概ね完読と、自負している。

    自薦
    自著「中国通史で辿る名言・故事探訪」の 上・中・下の3巻を、 近い内に「電子書籍」での出版を予定しています。 今年一年間は、さらに工夫を加えるなどして、補記訂正などの校正を第一義としています。       
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