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    中国通史で辿る名言・故事探訪(明鏡止水)

     「明鏡止水」

                         ◇ 戦国時代 ◇

      邪念が全く無く、静かで澄みきった心境。

      一点の曇りも無い鏡と静止して動くことのない水の意。

      心の平静さを止水の静けさに比する例えである。

      また、賢者の明澄さを、明鏡に譬えることもある。

      人は流水に鑑みること莫(な)くして、止水に鑑みる。

      (=人は誰でも、流れる水には真の影は映らないので鏡とせず、静止した

       水に自分を映すものである。)

      惟だ止(し)のみ能く衆止を止(とど)む。

      (=だから人も、常に止水のように静かな心を持っておれば、世の中の

       真の姿を捉えることが出来る。)

      鏡 明らかなれば、則ち塵垢(じんく)(とど)まらず。 

      (=鏡はいつも綺麗にしておけば、そこに塵や垢が止まるものではない。)

      ※ そのような訳で、心をよく磨いて美しくしていれば、そこには

        曇りも無く、かつ汚い考えも宿らないものだ。

                     「荘子 内篇・徳充符」

     

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    テーマ : 慣用句・ことわざ・四字熟語辞典
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    中国通史で辿る名言・故事探訪(肝胆楚越)

     「肝胆楚越(かんたんそえつ)

                         ◇ 戦国時代 ◇

      「肝胆も楚越なり」、ともいう。

      見る立場が変われば、類似のものも甚だ異なるものとなることの例え。

      体内で相接している肝臓と胆嚢でさえも、見方が変われば、長江の中流

     にある楚国と下流にある越国のほどに遠くに隔たって見えるの意。

      魯という国に兀者(ごつしゃ)の王駘(おうたい)と言う者がいた。

        ☞ 兀者とは、刑罰により足を斬られた身体の障害者。

      孔子の弟子の常季が師に問うて言った、

      「王駘は兀者でありながら、彼に従い学ぶ者は魯の半ばにも達して

     おります。

      その彼は、立ちて教えず座して議せず。

      然るに之に接する人は、虚(無学)にして往き、実(薫陶を受けて) にして

     帰る、と言われます。

      当に不言の教えでありますが、彼は形 無くして(乃ち体の障害の意)、
     
     心 成れる者(思想学問の完成者)なのですか。一体 如何なる人で

     ありましょうか」と。

      その質問に対して師は、

      「夫子(ふうし)は聖人なり。丘(孔子の諱)や遅れて未だ往かざるのみ。

      丘も当に彼を師と仰ぎたいと思っている。唯 魯国だけの問題ではない。

      丘はすべての者を率いて従いたいものだ」と。

      更にこうまで言った、

      「其の異なる者よりして之を視れば、肝胆も楚越なり。

      其の同じき者よりして之を視れば、万物も皆 一なり。


      (=肝臓と胆嚢という人の体にあっては密接なものでも、別な立場

       から物事を見たら、かけ離れている楚と越の如き敵対関係ともなる。

        同じように、同じ立場から物事を判ずれば、一つ一つは異なる万物

       と雖も、皆 同じとなるのだ。)

      さすれば、物の一なる所を見て、その喪う所は視ないものだ。

      その足を喪うを視ること、なお土を落とすが如し」と。

                     「荘子 内篇・徳充符」

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(君子の交わりは淡きこと水の若く、)

     「君子の交わりは淡きこと水の若(ごと)く、

         小人の交わりは甘きこと醴(れい)の若し」

                         ◇ 戦国時代 ◇   

      君子の交際と云うものは、水の如く淡いものだが、これに反して、小人の

     交際と云いうものは、如何にも甘酒のように濃いものだが、何時しか嫌気が

     さしてくるものだ。

      荘子は、処世に苦しむ孔子に、先輩の子桑戸(しそうこ)を訪ねさせる

     という寓話を設定した。

      孔子 悄然(憂いた様)として嘆いて曰く、

      「私は二度魯国を追い出され、宋の国では礼を練習中に桓魋に樹を

     伐り倒され、衛・殷・周とどの国に行っても苦しみに遭った。

      陳・蔡二国の間では、暴徒に包囲された。

      このように幾度かの苦難に遭ってみると、昔からの親しい友も疎くなり、

     沢山いた門人もだんだん散ってしまった。

      これは一体、何故であろうか」と。

      子桑戸は、仮の国に林回と云う者がいて、千金の壁を棄て、赤子を負う

     て奔るという例え話で以って説き始めた。

      「ふとしたことから、林回は最愛の我が子を見失ってしまった。

       そこで子供を捜すために、大切に持っていた重い壁を棄てて身軽に

      なり、遂に子供を捜し当てることが出来て、その子を背負って逃げ出し

      た。

       つまり、

       『彼(千金の壁)は利を以って合し、此(赤子)は天を以って属(つなが)

      る。

       其れ利を以て合するものは、窮禍患害に迫らるれば相棄て、天を

      以って属るものは、窮禍患害に迫らるれば相収む』と。

        (=利を以って繋がる者は禍に遭うと、いとも簡単に大事な物を棄て

        去り、天を以て繋がる骨肉の関係にある者は、禍や苦しみに遭えば

        遭うほど、互いに手を繋ぐもの。)

       さらに続けて説くに、

       「君子の交わりは淡きこと水の若く、小人の交わりは甘きこと醴の

      若し」と。

                     「荘子 外篇・山木」

     

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    テーマ : 中国古典・名言
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    中国通史で辿る名言・故事探訪(尾生之信)

     「尾生之信(びせいのしん)

                         ◇ 戦国時代 ◇

      堅く約束を守って、機転や融通の利かないこと。

      世間的な名目に拘って命を粗末にし、根源的な事をよく考えないで寿命

     を全うしない、所謂 馬鹿正直の例え。

      春秋時代の魯の尾生らの故事。

      世の所謂 賢士は、伯夷・叔斉に若(し)くは莫(な)きも、伯夷・叔斉

     は狐竹の君を辞して、首陽の山に餓死し、骨肉葬られず。

      ※ 首陽餓死の故事。

      鮑焦(ほうしょう)は行(行状)を飾り世を非(そし。謗)り、

     木を抱いて死す。

      ※ 抱木枯死(ほうぼくこし)の故事。

      申徒狄(そんとてき)は諌めて聞かれず、石を負いて自ら黄河に投じ、

     魚鼈(ぎょべつ。魚とスッポン)の食らう所と為る。

      ※ 負石投河(ふせきとうが)の故事。

      介子推は至忠なり、自らその股を割きて、以って文公に食らわしむるも、

     文公は後に、これに背く。

        ※ 晋の文公は即位する前、国を追われて長い流浪生活を余儀

         なくされた。

          付き随ったのは僅かばかりの股肱の臣たちであったが、介子推

         もその従者として名を連ねていた。

          介子推は、旅の途中に食糧も途絶えたある時、主たる重耳

         (後の文公)の空腹を見るに堪えかねて、自らの股を切り裂き

         主に食べさせたこともあった。

          後、重耳は楚や秦の援助もあって、晋の君主となっり、功臣

         に対する論功行賞を行ったが、介子推がその選考に漏れて

         いた。

          時に介子推は、病で逼塞していたのである。

      子推 怒りて、木を抱いて燔死(はんし)す。

        ※ 抱木燔死の故事。

      尾生(微生とも)は女子と梁下(りょうか)に期し、女子 来たらず。 

      水至るも去らず、梁柱を抱いて死す。

      (=尾生が、ある女性と橋の下で会う約束をした。だが、その女性は

       待てども一向に現れなかった。

        やがて川の水嵩が増えてきたが、尾生は約束を守ってその場を

       離れず、橋脚に抱き付いたまま女性を待ち続け、遂に溺れ死んで

       しまった。)

      この四子は磔犬流豕(たくけんりゅうし)、瓢(ひさご)を操(と)りて

     乞う者に異なる無し。

      皆 名に離(か)り死を軽んじて、本(もと)を念(おも)い寿命

     を養わざる者なり。


      (=この四人は、祭祀で悪霊・悪神を防ぐための魔除けに使われる

       磔の犬や、山川沼沢の祭りで鎮魂の為に沈められる豚や、或いは

       瓢を手にして物乞いをする者と変わりはない。

        皆 世間的な名目ばかりを気にして、大事な命を粗末にし、寿命

       の本源的な在り方をよく考えない者と言える。

                     「荘子 雑篇・盗跖」

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(邯鄲之歩)

     「邯鄲之歩(かんたんのほ)

                         ◇ 戦国時代 ◇

      他人の長所にかぶれて、真似しようとしたがものにならず、自分本来の

     ものも忘れて、元も子も無くなること。

      他国の立派な歩きぶり(国能)を真似ようとして、其れを習得できなかった

     ばかりでなく、自分が持っていた本来の歩き方(故行)まで忘れてしまった

     という寓話。

      燕の都の寿陵に住む若者の余子、即ち二十にも満たない若者が趙の

     都・邯鄲へ遊学に行った。

      その当時 邯鄲は天下の文化の中心地であり、趙の人々の歩き方は

     最も恰好の良いものだと考えられていた。

      そこで、余子も早速 この邯鄲の歩きぶりを学んでいだ。

      ところが事情があって、急に帰国する段に及び、

      「寿陵の余子、未だ国能を得ず、また其の故行を失う」と。

      (=寿陵の余子、未だに十分に邯鄲の歩行を会得しない内に、

       帰国する段になり、自分の国の元の歩行まで忘れてしまった。)

                     「荘子 外篇・秋水」

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(盗亦有道)

     「盗亦有道(とうえきゆうどう)

                         ◇ 戦国時代 ◇

      盗も亦た道有りの意。

      「盗跖五徳」とも言う。

      最高の聖人の道も、悪の代表たる盗跖の道にもなるという皮肉な

     詭弁論理である。

      ある時、手下の者が大親分の盗跖に尋ねて謂う、

      「盗も亦 道有るか」と。

      (=盗人にも、それなりの道と云うものがありますか。)

      盗跖曰く、

      「道は至る所に通じているのと同じで、

      先ず第一に押し込む先に、どれほどの物が有るかを当てるのが

     「聖」である。

      第二は先頭に立って働くのを「勇」と謂う。

      第三に引き揚げる時 殿(しんがり)をするのを「義」と謂う。  

      第四に盗んだ物を値踏み出来るものを「知」と謂う。

      第五が贓物(ぞうぶつ)は全て公平に分配するのが「仁」である。

      この聖・勇・義・知・仁の五つの徳なくしては、大盗族は務まらない

     のだ
    」と。

      このような見方をすれば、善人が聖人の道を得ることが出来なければ

     立たないように、盗跖もまた聖人の道を得ることが出来なければ立つもの

     ではない。

      ところが、天下は善人が少なくて不善人が多く、為に聖人の天下を

     利することは少なく、反って天下を害することの方が多いという逆説

     詭弁的な論法である。

                     「荘子 外篇・胠篋」

      ※ 盗跖の「跖」は名ではなく、「碩」と同じ意味で、大きいという意味

       であり、盗跖は盗賊の大親分だとする説もある。

        史記・伯夷叔斉伝では、盗跖は天寿を全うしたとあるが、その実在性

       を疑問視する説が強い。黄帝の神話時代の大盗であろうとする説も

       ある。

        古来中国では、魯の盗跖と共に楚の荘蹻(そうきょう)が大盗賊

       として名高い。この二人を併せて「跖蹻」と謂う。

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(木鶏に似たり)

     「木鶏(ぼくけい)に似たり」
                         ◇ 戦国時代 ◇

      敵意を持たない者や無心の者に対しては、これに対抗しようがないこと。

      一見したところ、木で作った鶏のようだの意。

      無心で以て他人に対することが、万事を処理したり、困難に打ち勝つ

     最上の方法である事の訓戒。

      昔 紀渻子(きせいし)という男が、王の為に闘鶏を育てていた。

      闘鶏の訓練を始めてから十日の後、王が紀渻子に問う、

      「鶏、已(な)れるか」と。

      (=闘鶏はもう仕上がったか。)

      曰く、
     
      「未(いま)だし。方(まさ)に虚憍(きょきょう)にして気を恃む

     と。 

      (=まだ駄目です。今は空威張りして、気力に頼っております。)

      また十日して問う、

      曰く、

      「未だし。なお嚮景(きょうえい)に応ず」と。

      (=まだ駄目です。音や影に対して、立ち向かおうと致します。)

         ☞ 嚮景の「景」は日の影の意であるので、「えい」と読む。

      さらに十日たって問う、

      曰く、

      「未だし。なお嫉視して気を盛んにす」と。

      (=まだ駄目です。相手を睨みつけて、気勢を張ります。)

      十日してまた問う、

      曰く、

      「幾(ちか)し。鶏 鳴く者有りと雖も、已に変ずること無し。

       之を望むに木鶏に似たり。其の徳 全(まった)し。

       異鶏 敢えて応ずる者無く、反(かえ)り走れり。」

      (=もう十分でしょう。他の鶏が鳴くことがあっても、この鶏は泰然自若

       として、もう何の反応も示しません。

        側から離れて其れを見ますと、まるで木で作った鶏のようです。

        其の徳は完全なものとなりました。

        どんな鶏も之を見ては闘志を失い、逃げ出してしまいます。)

                     「荘子 外篇・達生篇」

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(轍鮒之急)

     「轍鮒之急(てっぷのきゅう)

                         ◇ 戦国時代 ◇

      一刻の猶予もならないような、差し迫った状況や難儀。

      車の轍(わだち。車輪の跡の窪み)にできた水溜りに棲む鮒(ふな)が、

     水が枯れて、今にも死ぬかもしれないという生死存亡の危機にある状況。

      荘周は生活に窮して、監河侯の所に米を借りに行った。

      監河侯は言った、

      「承知した。後日 ちょうど邑(=村)から税金が入ることになっている

     ので、三百金を貸そう」と。

      荘周は色をなして怒り、語るに喩え話を引き合いに出して、

      「昨日 来る時、途中で呼んでいる者があり,顧みると車の轍に鮒が

      いました。

      鮒よお前は何するものぞ、と聞きますと、

      『我は東海の波臣(魚)なり、君に斗升の水があれば我は生きられる

     のです』と言いました。

      そこで私は承知した、よしよし、儂はこれから南方の呉国、越国に行く

     所だ。向こうへ行ったら、西江の水を押し流して、お前を迎えてやろう。

     それでよいか、と聞きました。

      ところが鮒は、大いに怒りました。

      『私は今 一刻を争う場合にある。後日多くの水を貰うよりは、今 一滴

     の水が欲しいのだ。

      それが出来なければ私は死ぬから、乾物屋にでも行って私を探し求める

     がよい』と、このように申しました。」

      そう言って、監河侯を非難した。

      非常に苦しい境遇にある人は、ぐずぐずしていたのでは救いにならない

     のである。

                     「荘子 雑篇・外物」

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(蛇蚹蜩翼)

     「蛇蚹蜩翼(だふちょうよく)

                         ◇ 戦国時代 ◇

      世の中は互いに持ちつ持たれつの関係にあること。

        ☞ 蚹は蛇の下腹部の鱗。
       
          翼はここでは、蝉の羽の意。

     》 影と罔両(もうりょう)の問答 《 

        ☞ 罔両とは、影の外側にできるより薄い影。

      罔両が影に質問した。

      「先にあなたが歩くと私も歩き、今はあなたが止まると私も止まる。

       先にあなたが座ると私もまた座り、今あなたが立つと私も立つ。

      自分は何と自主の志操が無い者か。吾は待つことありて然る者か」

      と言って、己の存在が、唯 外の動き(命令)を待つだけという意識の

      無さ、自主性の無さを詠嘆した。

      これに対して影は、

      「私も同様に、唯 外の動き(人の動き)を待つだけの者なのだ。

       吾は蛇蚹蜩翼を待つ者か。どうしてそうなのか、その理由は知らない。

       どうしてそうでないのか、その理由も知らない」と答えた。

       (=蛇の動きは鱗の働きによると言えるが、鱗は蛇が無ければ動く

        ことは出来ない。

         また蝉は翼により飛ぶことが出来るが、翼は蝉が無ければ飛ぶ

        ことが出来ない。

         影の私も、そのように待つだけの者かもしれない。) 

       荘子の言わんとする所は、世間でなされる議論、善悪の判断と

      言ったところで、善と云うものが真の善であるか、悪と云うものが真の悪

      であるか、可が可であり、不可が不可であるとするその峻別、判断は

      如何にも難いものであるから、

      「可不可は一貫」という結論を導き出す。

                     「荘子 内篇・斉物論」

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(莫逆之友)

     「莫逆之友(ばくげきのとも)

                         ◇ 戦国時代 ◇

      互いに心に逆らうことなく、意気投合した親しい間柄の友人。

        ☞ 莫逆は現在では「ばくぎゃく」と読むが、正しくは「ばくげき」

         と読む。

          莫は、否定の無しの意。

      子祀(しし)・子輿(しよ)・子犁(しり)・子来(しらい)、の四人、

      与(とも)に語りて曰く、

      「孰(たれ)か能く無を以って首(こうべ。頭)と為し、生を以って

     背(体)と為し、死を以って尻(終末)となすや。

      孰れか生死存亡の一体なるを知るものぞ。吾 之と友とならん」と。

      (=無の世界から出でて、人体を育んでこの世に生き、死んで再び

       無の世界に戻ることの出来るのは誰か。

        乃ち存在と無、生と死が一体と為り、存亡生死の空間的・時間的

       な次元を超えた万物斉同の立場を知り得るのは誰だろうか。

        そのような者と我は友になろう。) 

       四人 相視て笑い、心に逆らう莫(な)く、遂に相い与(とも)

      友と為る。


       ※ 荘子の死生感は一条、可不可は一貫という思想である。

         「莫逆之友」の出典。

                          「荘子 内篇・大宗師」

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(胡蝶之夢)

     「胡蝶之夢」

                         ◇ 戦国時代 ◇

      この世における人生の儚いことの例え。

      また物我一体の境地、万物の変化をいう。

      荘周が夢で胡蝶になるの意。

      昔者(むかし) 荘周、夢に胡蝶と為る。

      (=荘周は、かつて蝶になる夢を見た。)

      栩栩然(くくぜん)として胡蝶なり。自ら喩(たの)しみて志に

     適(かな)うか、周なることを知らざるなり。

      (=歓びの余りに飛び回る蝶になっていた。そして楽しみ過ぎて、

       自分が荘周であることを自覚することが出来なかった。)

         ☞ 栩栩然とは、喜ぶさま。

      蛾然として覚むれば、則ち蘧蘧然(きょきょぜん)として周なり。

      (=ふと夢が覚めると、驚くことに自分は明らかに荘周であった。)

         ☞ 蘧蘧然とは、驚くさま。

      知らず、周の夢に胡蝶と為るか、胡蝶の夢に周と為るか。

      (=一体 荘周が夢で蝶となったのか、蝶が夢で荘周となったのか、

       分からなかった。)

      周と蝶とは、則ち必ず分(ぶん)あらん。此れこれを物化と謂う。

      (=荘周と蝶とは、きっと区別があるだろう。こうした移り変わりは、

       これを万物の変化と謂うのだ。)

                     「荘子 内篇・斉物論」

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(井蛙之見)

     「井蛙之見(せいあのけん)

                         ◇ 戦国時代 ◇

     「井の中の蛙(かわず)、大海を知らず」とも。

      世間知らず、狭い見識の例え。

      井戸の中に棲んでいる蛙には、海と云うものを知らないので、広大な海

     の事を話しても分かるはずがない。

      荘子がその思想の基本である、「無為にして自然」を説くために使った

     寓話。

      時は秋なり、川の水量が多くなって、百川(多くの川)が黄河に注ぐ

     ようになってきた。

      黄河の雄大さに満足した河伯(黄河の神)は得意になって、

     遂に流れに従って初めて東の海に出たが、その海の果てしない広さ

     に感動して、若(海の神)に言った。

      「私はこれまで黄河こそ最も広大と思っていたが、こんなに広い海が

     あることなど知らなかった」と。

      すると海の神・若は、河伯に教えを垂れた。

      「井蛙は以って海を語るべからず、虚にかかわるればなり。

       (=井戸の中の蛙は大海原の事を話しても理解できない。というのは、

        虚乃ち空間にある自分の棲家の狭さに捉われているからだ。)

       夏虫以って氷を語るべからず、時に篤ければなり。

       (=夏虫は夏の短い時間に捉われているから、冬の氷を語る

        ことは出来ない。)

          ☞ 時に篤いとは、時期に専らの意。

       曲士以て道を語るべからず、教えに束せられるればなり。」

       (=世の中の一曲の士が道を語れないのは、つまらぬ教えに束縛

        せられているからである。)

          ☞ 曲士とは、物事の一辺だけを見て、太極に通じない

           人のこと。  

       北海の神である若は、このように河伯を戒めたが、更に北海の大なる

      ことを説き、その北海と雖も世界の一部であること、更に人間と云う

      ものの万物の間における関係と存在性を説き、人為に捉われている人

      は、ちょうど河伯のように、人為の為に視野が狭められ、「無為自然」と

      いう心理を説いても理解できないものである、と。

                     「荘子 外篇・秋水」

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(蝸角之争)

     「蝸角之争(かかくのあらそい)

                         ◇ 戦国時代 ◇

      「蝸牛角上(かぎゅうかくじょう)とも言う。

      極めて小さなつまらない争い。

      小さなカタツムリの角の上での争いの意。

        ☞ 蝸牛とは、カタツムリ。

      戦国時代、魏の惠王が斉の宣王に盟約を破られて、その報復を考えて

     いた時、或る賢者が惠王を訪れて説いたとされる寓話。

      賢者、

      「蝸牛と云うものをご存知ですか。」

      王、

      「知っている。」

      賢者、

      「蝸牛の左の角には触氏という国があり、右の角には蛮氏という国が

     ございます。

      両国は領土を言い争って戦い、多くの死傷者を出して終結しました。」

      王、

      「作り話か」と。

      賢者、

      「作り話を真実の話にして見せましょう。王様は宇宙の四方上下に際限

     があるとお考えですか。」

      王、

      「いや際限はないだろう。」

      賢者、

      「では心を無限の宇宙を回らせた上で、現実の私たちの国々の事を

     考えたならば、その有る無しなど取るに足りないものではございません

     か。」

      王、

      「ふむ、そうだろうか。」

      賢者、

      「その国々の中に魏があり、魏の中に梁(魏の国都)があり、その梁の中

     に王様がいらっしゃます。

      無限の宇宙と比べれば、魏が斉を伐つなど、蝸牛角上の触氏、蛮氏

     の争いと何の違いがありましょうか。」

      王、

      「なるほど、違いないわ。」

      かくして魏の惠王は、」斉への報復を止めたという。

                    「荘子 雑篇・則陽篇」

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(無用の用)

     「無用の用」

                         ◇ 戦国時代 ◇

      役に立たないように見えるものが、反って役に立つこと。

      有用、則ち役に立つという事は、大事なことに違いはない。

      だが浅はかな人間の知恵で推し量る有用が、本当に有用であるか

     どうか、また無用と見做されるものが、果たして事実として無用である

     のかどうか。

      荘子は疑問を呈する。

      》 無用の用の寓話 《

      荘子が弟子と旅に出た時、山径で枝葉もよく繁茂した大木を見かけた。

      立派な木であるのに、その付近にいた樵がこの木に手を付けようと

     しないので、弟子がその訳を樵(きこり)に尋ねると、

      曰く、「用うべき所無し」と。 

      荘子曰く、

      「此の木、不材を以て其の天年を終うるを得たり」と。

      (=この木は役に立たぬお蔭で、天寿を全うすることが出来るのだ。)

      その後 山を下りてから、知り合いの家に泊まることになった。

      そこの主人は大喜びして、召使の豎子(少年)に、雁をつぶして御馳走

     を作りなさいと命じた。

      豎子は主人に向かって尋ねた、

      「二羽の雁のうち、一羽はよく鳴くが、もう一羽は少しも鳴きません。

     どちらをつぶしますか」と。

      主人曰く、

      「鳴かないのをつぶしなさい」と。 

      明日(翌日)、弟子は荘子に問うて曰く、

      「先日、山中の木は不材を以て其の天年を終うるを得、今、主人の雁

     は不材を以って死す。

      先生は将(はた) 何(いず)くにか処らんとする」と。 

      (=先生は一体、有能と無能とでは、どちらに身を置かれますか。)

      荘子は笑いながら、

      「役に立つのと、立たぬのと中ほどを取ろうか。

      しかし、其れもまだ道に似て道に非ず、まだ累(わずら)いが残る

     のだ。

      ところが、夫(かの)の道徳(真実の道と徳)に乗じて、浮遊するが

     若(ごと)きは然(しか)らず。

      もはや名誉とか謗りを超越し、よくその時々に順応して、天空を駆け

     たり、地上を這い回り、時の推移と与に変化して一事一物に泥(な)む

     ことなく、浮くも沈むもままにして人と争わず、万物の始原(本源たる道)に

     身を任せ、外界の事物を制しても制せられないことだ。

      そうすれば何の累があろうか。

      これこそ太古の神農・黄帝の法(のっと)る所なり。

      夫の万物の情(あり様)・人倫の伝(人の世の移ろい)の如きは然らず。

      会えば離れ、完成すれば壊れ、高貴になって害に遭い、何事かをしては

     危うくなり、賢なれば謀られ、不肖であれば欺かれる。

      胡(なん)ぞ得て必すべけんや。

       (=どうして、安定した立場が得られようか。)

      悲しい哉。弟子 これを志(しる)せ。

      其れ唯 道徳の郷か(真実の道と其の徳の世界)」と。

                     「荘子 外篇・山木篇」

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(法を為すの蔽、)

     「法を為すの蔽(へい)、一(いつ)に此に至るか」

                         ◇ 戦国時代 ◇

      法治主義の弊害が、遂にここまで来たか。

      法律万能主義の商鞅の自縄自縛の嘆き節である。

      商鞅は警吏の追跡を逃れて、密かに他国に亡命しようと国境の函谷関

     に辿り着き、一夜の宿を取ろうとした。

      ところが宿の主は、その人が商鞅とは知らず、

      「商君の法、人の験無き者を舎すれば(宿泊させる)之に坐す」

     と言って、験の提示を求めた。

        ☞  験とは、出国証明書。 

      商鞅は大きくため息をついて、

      「嗚呼 法を為すの蔽、一に此処に至れるか」と。

      商鞅はやむを得ず、道を変えて何とか魏に逃げ込んだ。

      ところが、魏の人々は商鞅が曽て魏の公子卬(ごう)を騙し伐ちにした

     ことを忘れておらず、且つ秦を懼れて、商鞅を秦に追い返した。

      商鞅は秦に入ると、自分の宰邑地・商に逃げ込み、改めて一族郎党を

     率いて北方の鄭国を目指した。

      だがその報に接した秦は、兵を繰り出して商鞅一行を追跡し、遂に国境

     を出た鄭の澠池(べんち)で捕えて、商鞅を殺した。

      恵公は、見せしめの為、連れ帰ったその遺体を車裂きにし、一族諸共 

     処刑して、布告した。

      「商鞅の如くする勿れ」と。

                     「史記 商君列伝」

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(危うきこと朝露の如し)

     「危うきこと朝露の如し」

                         ◇ 戦国時代 ◇

      人の生命や運命の儚さや危うさを例える言葉。

      朝露が陽に出合えば、たちまちにして乾いて消えてしまうことを人生に

     比したもの。

      秦・孝公二十四年(前338年)、商鞅の強い支えであった孝公㉕が

     没した。

      惠公が即位したが、恵公は大子の時、商鞅の変法に触れる行為が

     あって、その身代わりとして側近が処罰を受けると言う経緯があり、

     商鞅を酷く憎んでいた。

      また曾て、二度も処罰を受けたことのある公子虔(けん)を始めとする

     保守派の反商鞅一派が蠢動した。

      商鞅が最大にして唯一の保護者であった孝公が没する、その五か月前

     の事である。

      商鞅の行く末を按じた商鞅の客人・趙良は、商鞅に対して、

      「身に危険が切迫する前に、封じられた商の地を返上して、田舎にでも

     隠退するのが唯一の延命策ですよ」と前置きしてから、

      「秦王 一旦賓客を捐(す)て、朝(ちょう)に立たたざれば、

       秦国の君を収むる所以の者、豈に其れ微なからんや。

       亡びるは足を翹(あ)げて待つべし。

       (=孝公があなたを置き去りにして亡くなり、最早 朝廷に立つこと

        も無くなれば、次に立つ君侯の側近連中であなたの事を恨んで

        捕えようとする者は、決して少なくはありませんぞ。 
         
         あなたが亡び去るのは、爪立って待つようなものですぞ。)

       君の危うきこと朝露の如し。

      尚 将(はた) 歳を延べ寿を増さんと欲するか


      と言って、警鐘を鳴らした。

         ☞ 歳を延べ寿を増すとは、向こう先何年も地位に留まり、

           功績を上げて更なる恩賞に与ることを云う。

       ところがこの時、商鞅は自らの力と功績を恃んで、身に迫る危険を

      察知しなかった。

       そして孝公が没するや、時は既に遅く、商鞅捕縛の沙汰が下った。

                     「史記 商君列伝」

    テーマ : 中国古典・名言
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    中国通史で辿る名言・故事探訪(惠施の譬喩)

     「惠施(惠子)の譬喩」

                         ◇ 戦国時代 ◇

     戦国時代、宋の学者で弁論を得意とする詭弁学派の名家の一人がいた。

     その名を惠子と言い、荘子の友人であり、魏の惠王の宰相になったとも

    言われ、歴史上では魏の惠施と言われる。

     「五車」と言えば、蔵書の多いことの譬であるが、惠施は

    其の蔵書が多くて、五台の車を連ねて蔵書を運搬したという故事がある。

                     「荘子 天下・五車之書」

      ある時、魏の惠王の客人が、惠王に向かった言った、

      「惠子は人に対して物事を説明するのに、譬喩(へきゆ)を如何にも

     上手に使います。

      若し王が彼に譬喩を使わせないようにすれば、恵子はきっと何も

     言えなくなるでしょう」、と唆(そそのか)した。

      王は其の事を承知して、次の日 恵子に言った、

      「これからは先生が物事を説明される時、どうか譬喩を使わないで、

     直接にその事だけを話して欲しいものです」と。

      すると恵子は対えて、

      「今 此処に一人の人がいて、弾(弾き弓)と云う物を知らないものと

     仮定して、《弾とは如何なる物か》と尋ねられたとします。

      これに対して、

     《弾とは弾に似た形の物だ》と答えただけで、

     直ぐに納得してもらえるでしょうか」と。

      王は、「それでは、納得出来ないだろうな」と。

      恵子はさらに続けて、

     《弾とは、弓に似た形をしていて、弦と竹で作ったものだ》と応えたら

     分かるでしょうか」と。

      今度は王も、「それならば、分かるだろう」と。

      そこで恵子は、

     「人に物事を説明する者は、どうしても相手の知っている事物を使って、

     知らない事を納得させ、其の人に分からせなくてはなりません。

      ですから今 我が君が、譬喩を使うなと言われましたが、それでは上手く

     説明が出来ないのです」と。

      すると王は、「それでは使うがよかろう」と許すことにした。

                     「説苑 魏・善説」

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(千人の諾諾は、)

     「千人の諾諾(だくだく)は、

       一士の諤諤(がくがく)に如(し)かず」


                         ◇ 戦国時代 ◇

      衆愚(所謂 凡俗)は、一賢人にも及ばないことの例え。

      唯唯諾諾(ただハイハイと言って、ひたすら人の言に従うだけの者)は、

     たとえ千人いても何の益にもならないが、たった一人でも事の是非善悪

     を遠慮なく直言してくれる者の方が、役に立つものである。

      商君(公孫鞅=商鞅の尊称)が秦の宰相となって十年、趙良と云う者が

     面会を求めてきた。

      商君が趙良に尋ねて言った、

      「子、我が秦を治めるを観るに、五羖大夫の賢なるに孰(いず)れぞ」

     と。

       ※ 五羖大夫とは、春秋時代の秦の穆公に仕えた賢大夫の

         百里奚のこと。

      趙良曰く、

      「千羊の皮は、一狐の腋(えき)に如かず。

      千人の諾諾は、一子の諤諤如かず。

      僕 請う、終日 正言せん。可ならんか」と。

      (=千頭の羊皮と雖も、たった一匹の狐の腋下のわずかな毛の

       値打ちにも及ばず、千人が反対もせず黙々と従うのは、一人の

       士が遠慮なく直言するのにも及びません。

        願わくば、この私 夙に直言を以てお仕えしたいと思が、如何」と。

      商君は言う、

      「こういう言葉があります。

       貌言は華(はな)なり。至言は実(み)なり、

      苦言は薬(やく)なり、甘言は疾(しつ)なり。


         ☞ 貌言とは上辺を飾った言葉。

           至言とは最も道徳に適った言葉。

       子、果たして終日 正言するを肯(がえ)んぜば、鞅(商鞅のこと)

      薬なり」と。

         ☞ 肯んぜばとは、承知するなら、吝かでないの意。

                     「史記 商君伝」

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(魯酒薄くして、)

     「魯酒(ろしゅ)薄くして、邯鄲囲まる」

                         ◇ 戦国時代 ◇
      思わざる禍・影響を受けること。

      世の中には一見何の関係もないと思われる所に、因果関係が生じたり

     することがある。

      魯の酒が薄くコクが無かったために、趙の都・邯鄲が魏軍に包囲される

     という大事件が起こった。

      荘子の寓話である。

      楚の宣王㊱は、覇者気取りで、天下の諸侯を自国に来朝させた。

      その当時、魯の共王(共公)㉙は他の諸侯に遅れて参朝し、而も楚へ

     献上した酒が薄くて、旨味が無かった。

      楚の宣王は大いに立腹し、やがて魯の国を征伐するという事になった。

      当時、魏の惠王は趙を伐つ野心を持っていたが、魯がいつも趙と好を

     通じていたので、乗ずる隙が無かったのである。

      ところが今度、その邪魔になっていた魯が楚に伐たれることになった

     ので、魏の惠王は好機到来とばかり、趙を攻め邯鄲を包囲した。

      趙都・邯鄲が攻められることになった原因は、魯の国が楚へ献上した酒

     が薄かったからである。

                     「荘子 外篇・胠篋(きょきょう)」

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(囲魏救趙)

     「囲魏救趙」

                         ◇ 戦国時代 ◇

      救援すべき国を直接には救わず、遠征して攻撃中の敵国の本国を

     奇襲攻撃して、救援すべき国の包囲を解かせて、間接的に救援目的を

     果たす戦略をいう。

      魏を包囲して、間接的に趙を救うの意。

     》 孫臏(そんぴん)と龐涓(ほうけん) 《 

      戦国時代の初期、斉の孫臏と龐涓は若い時、斉で共に兵学を学んだ

     仲であった。

      才能では孫臏が優れていたが、仕官することでは龐涓が早かった。

      龐涓は魏の惠王に仕えて、その内 頭角を現すようになり将軍職に

     任命された。

      時代は骨肉相食む戦国の世である。

      龐涓は魏の隣国・斉にいる孫臏の存在が常に気になり、畏れてもいた。

      いつの日か、両国の間で戦いともなれば、相見えることもあろうかと

     危惧し始め、そこで悪計を思いつき、未だ仕官していなかった孫臏を魏に

     招請した。

      龐涓は、魏を訪れて来た孫臏を先ずは魏王に謁見させた。

      一旦退廷した後、龐涓は王の意向が決まる前に、孫臏排除の画策を

     した。

      則ち、孫臏に何処かの国の命を受けた反間(スパイ)の嫌疑をかけて、

     王の任用の意向を牽制し、手際よく孫臏を捕縛して、早々と肢斬刑に

     墨刑を併科して処断した。

      この刑により孫臏は、脚の無い(膝から下)、かつ額に刺青された罪人と

     しての無残な幽閉生活を強いられることになった。

      其の後、斉から魏を訪れた外交使節団の長に密かな伝手を頼りに、

     運よく連絡が取れ、使節団一行に紛れ込んで帰国する音が出来た。

      使節団の長は、孫臏に出遭った際の、彼の話中における稀に見る兵法

     理論に傾倒したのであった。

      そして帰国後は、孫臏を斉の将軍・田忌(でんき)に紹介した。

      田忌は孫臏をとても重宝して、彼を斉公に推挙。後に田忌付きの軍師

     となる。

      この孫臏は、春秋時代末期に活躍した兵法家・孫武の百年後の子孫

     である。

     □ 桂陵の戦い

      斉威王四年(前343年)、魏は龐涓を司令官として趙を攻撃し、その国都

     の邯鄲に迫った。

      趙は抗し得ず、友好のある斉に救援を求めて来た。

      斉の威王は孫臏を救援の司令官に任じようとしたが、孫臏は、自分が

     刑余の身であることを理由に辞退した。

      威王はそこで改めて、田忌を総司令官に任じ、孫臏をその軍師として

     派遣した。

      田忌は直ちに危地に陥っている邯鄲に向かおうとしたが、孫臏は異を

     唱えた。

      「糸がもつれた時、これを解こうとして無理に引き延ばしたなら、反って

     糸はもつれるものです。

      急所を避け、虚を衝くことがこの際は肝要です。

      今 魏の精鋭は悉く趙の戦線に投入され、魏の本国内には老若の兵が

     残っているだけです。この空き巣となっている魏都の大梁を衝けば、遠征中

     の魏軍は必ず趙の攻撃を中止し、自国に帰還するはずです。

      これこそ、趙の囲みを解かせ、敵を奔命に罷れさせ、趙を救う

     最上の策です
    」と進言した。

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(楚に至らんとして、)

     「楚に至らんとして、北に行く」

                          ◇ 戦国時代 ◇

      方向を誤ること。

      転じて、志と行いが相反すること。

      南方の楚に行こうとして、逆に北へ行くというように、手段・方法を

     誤まるの意。

      魏の惠王が趙の邯鄲を攻めようとした時、季陵はこれを聞きつけ、急ぎ

     引き返して、着衣や顔の汚れも払拭せず、王に見えて言った。

      「今 臣が来ます時、大行山で一人の男に会いました。

       おりしも北の方を向いて、その馬車を整えながら、臣に告げて、

       『私は楚に行きたい』と申します。

       臣が、君は楚に行くのに、どうして北へ向いているのかと言いますと、

       『私の馬は良馬です』と申します。

       臣が、馬は良馬でも、これは楚に行く道ではありませんよ、と言うと、

       『私の御者は上手です』と申しました。

       このように、五つ六つと物が良ければ良いほど、いよいよ楚から遠く

      なるばかりです。

       今 王様には動き出して、覇業を成し遂げんとし、天下の諸侯の信

      を得ようとし、国の大と兵の精鋭を恃んで、邯鄲を攻めて以て地を広め、

      名を尊くしようと為されております。

       しかし王様の動きが多くなればなるほど、いよいよ覇業から遠くなる

      ばかりです。

       それは丁度 南にある楚に行こうとして、北に行くようなものでござい

      ます。」

                     「戦国策 魏策・安釐王」

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    テーマ : 中国古典・名言
    ジャンル : 学問・文化・芸術

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(杯盤狼籍)

     「杯盤狼籍(はいばんろうぜき)

                         ◇ 戦国時代 ◇

      酒宴 酣(たけなわ)となって、酒席の大いに乱れる様。

      また酒宴の終わりに近づいて、杯や盤(大皿)などの器物の散乱する様

      を言う。

        ☞ 狼藉とは、滅茶苦茶に乱れる様を言う。

          狼は、草を藉(=敷)いて休んだり仲間と遊ぶが、その跡は

         一面の草が踏みしだかれ、滅茶苦茶に乱れるからだと言わ

         れる。

      斉の稷下の学の祭酒・淳于髠(じゅんうこん)が、酒にかこつけ威王を

     それとなく諭した言葉。

      威王が後宮で酒宴を催し、淳于髠も招かれた。

      席上、威王は淳于髠に尋ねた、

      「先生は酒をどのくらい飲めば、酔うだろうか」と。

      髠対えて、
      
      「一斗でも酔い、一石でも酔います。」

      王、

      「一斗で酔うくらいなら、どうして一石も飲めるのか。」

      髠、
     
      「王の御前で酒を頂戴するとします。側には執法(司法官)がいて、

     後ろに御史(監察官)がおれば、緊張して飲むので、一斗も飲まぬうちに

     酔ってしまいます。

      親の所に厳格で大切な客がいるとします。私は衣服を整え、礼儀作法

     通りにお相手をしなければなりません。時にはお流れを頂戴し、また客の
     
     長寿を祝って、しばしば立ち上がりますので、二斗も飲まぬうちに酔って

     しまいます。

      旧友と久しぶりに杯を交わすとします。思い出話に興じ、気の置けない

     お喋りをしながら飲みますので、五、六斗は戴けます。

      邑(村)の無礼講で飲むとします。この日は男女思い思いの席に着き、

     男女入り混じり杯をやり取りして、終いには双六や投壺まで持ち出して

     相手を決めることにでもなれば、もはや誰も咎めだてをしません。

      耳輪や簪(かんざし)が乱れ散るにぎやかさ、私もついつい酒が進み、

     八斗位で二度、三度と酔いつぶれます。

      酒極まれば乱れ、楽しみ極まれば悲しむ。

      さらに日が暮れて、宴 酣となりますと、残った酒樽が寄せ集められ、

     互いに声を掛け合って、男女も席を同じくする(同じ敷物に座るの意)

     ようになります。

      すると、履舃交錯(りせきこうさく)し、杯盤狼籍し、堂上燭滅し、

     主人 髠を留めて客を送り、羅襦襟解け、微かに薌沢(きょうたく)を

     聞く。

      (=履物が入り乱れ、杯や器が所構わず散乱し、程なく室にの明かり

       が消えて、最後に主人が私を引き留めて他の客は送りだし、暗闇の

       中で、微かに薄絹の肌着が解けて、微かに香ばしい脂粉が匂って

       きます。)

      この時に当たりて、髠 心最も歓び、よく一石を飲まん。

      誠に万事は斯くの如くであります」と。

      王、
      
      「よくぞ申してくれた。」

      それより後、王は連日の酒宴を取り止めたという。

                     「史記 滑稽列伝」

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    テーマ : 慣用句・ことわざ・四字熟語辞典
    ジャンル : 学問・文化・芸術

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(百家争鳴)

     「百家争鳴(ひゃっかそうめい)

                        ◇ 戦国時代 ◇

      多くの学者や専門家が、自由に持論を展開したり、論争したりすること。

      また様々な立場の人が自由に論争すること。

      斉の威王は学問を好み、学者を大事にした。

      国都臨淄の稷下に学者の為の豪奢な居住区を作り、学者には多額の

     俸禄を給し、彼らに自由に討論させた。これが稷下の学と言われた。

      その祭酒(学長)は淳于髠(じゅんうこん)である。

      稷下には色々な思想、理論を持つ学者が諸国から集まり、彼らは毎日

     のように論争を繰り広げた。

      人々はその光景を、「百家争鳴」と表現した。

      所謂 諸子百家と言われる様々な派の学者たちが、言い争うが如く、

     声を嗄らして自説を主張し、他派の学説を批判した。

      この稷下の学は、威王の跡を継いだ宣王⑤の時代まで隆盛が続く。

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(白馬非馬論)

     「白馬非馬論」

                         ◇ 戦国時代 ◇

      白い馬は馬ではない、と謂う論説。

      戦国時代における詭弁学派の公孫竜の所論。

      「馬」と言えば、それは形態から付けられた概念である。

      「白馬」といえば、其れは色から付けられた概念である。

      従って馬と白馬は、その概念の範囲内容に於いて広狭があり、

     同じものではない。

      故に、白馬は馬に非ず、と説く。


      物事の概念の相違を説き、その区別を厳格にすべであると論じたが、

     概念を玩んだ所謂 詭弁論の域を出ないと評される。

                    「荀子 終身篇」

     ※ 一般的には「白馬非馬論」は公孫竜の説とされるが、「韓非子」では、

      宋国の大夫・兒(倪)説(げいえつ)が稷下で唱えた説だとする。

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    テーマ : 中国古典・名言
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    中国通史で辿る名言・故事探訪(肩摩轂撃)

     「肩摩轂撃(けんまこくげき)

                         ◇ 戦国時代 ◇

      大都会の雑踏の例え。

      人や車が頻繁に街路を往来して、人の肩と肩が擦れ合ったり、

      車同士の轂(こしき)がぶっつかり合うほど混雑しているということ。

        ☞ 轂とは、車輪の軸受部。

      戦国時代、斉の国都・臨淄は、中原文化の華の都の感を呈していた。

      この肩摩轂撃と言う言葉は、遊説家・蘇秦が戦国時代の最強国・秦に

     対抗するための方策「合従策」を引っ提げて、斉王を説いた時の言葉に

     由来する。

      「臨淄の中に七万戸あり、臣 密かに之を度るに、下戸にても男子 

     二十一万、遠県より発するを待たずして、而も臨淄の卒 固より已に

     二十一万なり。」

      このように、戦時に動員できる壮丁の多さに言及しているが、しかも臨淄

     だけで直ちに、二十一万の兵力を招集できる、と言っている。

      この数は、家族構成員の多い上戸ではなく、其れよりかなり少ない

     下戸で以って断定しているのである。
     
     人口の多さは、計り知れないほどと言える。

      推定であるが、七〇~八〇万人の大都会であったとも言われる。

     蘇秦はさらに言う、

     「臨淄は甚だ富みて実(充)つ。其の民、竽(笛)を吹き、瑟(大琴)を鼓し、

     筑(弦楽器)を撃ち、琴を弾じ、鶏を闘わせ、犬を走らせ、六博(双六博奕)、

     蹹鞠(とうきく。蹴鞠)せざる者無し。

      臨淄の途(みち)は、車 轂撃(こくげき)し、人 肩摩(けんま)し、

     衿(えり)を連ねて帷(とばり)を成し、袂(たもと)を挙げて幕を

     成し、汗を揮って雨を成し、家は敦(あつ)くして富み、志は高くして

     揚がる」と。

      ※ 街にあふれる恐るべき人々の多さと、民の豊かさを誇大なまで

       に解説。

                     「戦国策 斉」

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(百花斉放)

     「百花斉放(ひゃっかせいほう)

                         ◇ 戦国時代 ◇

     「百花繚乱」とも言う。

      色々な花が一斉に咲くこと。

      色々な花が咲き乱れるの意。

      転じて、優れた人物や業績などが時を同じくして、次々と世に出てくる

     こと。

     》 稷下の学 《


      斉の威王④の治世下、国都・臨淄(りんし)で、稷下の学が興る。

      臨淄の城郭には雍門、申門など十三の城門があったが、その内 

     稷門付近には多くの学者を住まわせる邸宅が軒を連ねた。 

      稷下の学が興る前の事である。

      ある日、道家の第一人者として名高い田駢(でんべん)が斉威王に遊説

     した。

      彼の説くところは、宇宙万物の平等であり、その思想は自由にして無碍、

     一切の先入観念に捉われるべきでない、というものであった。

      その説は現実離れした抽象論であったので、気分を害した威王は

     言った。

      「寡人(貴人の自称)の有(たも)つ所のものは、斉国なり。

       願わくば、斉国の政(まつりごと)を聞かん」と。

      田駢は対えて曰く、

      「臣の言は政 無けれども、しかも以って政を得べし。

       (=私の話は政治そのものではありませんが、そこから政治に

       取り入れることの出来るものがあるはずです。)

      之を譬うれば、森の材木の如し。材 無けれども、しかも以って材を

      得べし。

       (=それを譬えてみれば、森の中の樹木のようなものです。

         森の樹木は材木そのものではありませんが、そこから材木を

         得ることが出来るのです。)

      願わくば、王の自らの斉国の政を取らんことを」と。

      ※ 斉国内で政に用いることの出来るような人材を養成して、

        任用なされよの意。

      威王は田駢の意をよく理解して、有為の学者・人材を集めようと、

     稷門の付近に学者村を作る気になった。 

      かくして広く天下から招聘された名のある学者や思想家には、邸宅や

     大夫並みの俸禄を受け、政務に直接関与はしないが、各々 研究を

     深めたり、それぞれが議論し合って、学問の花を咲かせた。

      その有様は当に「百花斉放」であり、「百花繚乱」と言われる所以

     である。

      ※ 稷下の学は、極めて進歩的なものがあり、才能さえあれば、

       その門地を問わないというのが、斉の方針であった。

        従って、本質的には復古主義的な儒家は、稷下に於いては余り

       振るわなかった。

        この稷下の学で隆盛であったのは、道家である。

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(四臣 千里を照らさんとす)

     「四臣(ししん) 千里を照らさんとす

                         ◇ 戦国時代 ◇

      四人の優れた将軍が、それぞれの所定の国境地帯で守備に就き、

     よく外敵を防いで国家の平安に寄与するとともに、また敵国に対しても

     その余影を与える事が出来たという故事。

      ※ 千里とは距離の実数ではなく、方千里の国という「国の異称」で

        ある。

     《 斉の威王と魏の惠王の国宝問答 》

       斉王と魏王が城外で相互親善の狩猟をした時のこと、魏王が斉王に

      問うた。

       「斉にはどんな宝がありますか」と。

       問いを受けて斉王は、

       「あると言えるほどの宝はありません」と。

       魏王は其の言葉を聞いて、自慢げに言った。

       「私の国は小さいとはいえ、直径が一寸ほどの宝玉があり、

      その輝きたるや車の前後 十二乗の距離を輝き照らす事が出来ます


      と。

       だが斉王は悠然として言った。

       「私の宝は、王のものとは異なります。  

       我が臣に壇子と言う者がいますが、南の城を守らしてからというもの、

      楚は敢えて領土の泗上を侵攻しなくなり、十二諸侯まで来朝するよう

      になりました。

       肦子(はんし)と言う者に高唐を守らせたところ、

      趙の人たちは敢えて東の河を侵略しなくなりました。

       黔夫(けんぷ)と言う者に徐州を守らせたところ、

      燕は吾が北門に、趙は吾が西門に来て攻められないように祈り、

     祭礼をするようになりました。

       種首(しょうしゅ)という者を盗賊に備えさせれば、

      当に道 遺ちたるを拾わず、と言う治安状態となりました。

       この四臣、将に千里を照らさんとす、

       豈に特(ただ) 十二乗のみならんや
    」と。

       これを聞いた魏王は、恥じ入った態であった。

                     「十八史略 戦国・斉」

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(豚蹄一酒)

     「豚蹄一酒(とんていいっしゅ)

                         ◇ 戦国時代 ◇

      「豚蹄穣田」ともいう。

      僅かな謝礼で、多くの願い事を期待すること。

      豚の蹄一個と酒一椀の意。

      また、豚の蹄で田の豊穣を祈るの意。

      斉の威王八年(前348年)に、楚の宣王は大軍を発して斉を攻めようと

     した。

      威王は淳于髠(こん)を趙に遣って、援軍を請うように命じた。

      そして趙への手土産として、金百斤と車馬十駟を託した。

        ☞ 駟は四頭立ての馬車。

      淳于髠は天を仰いで、大笑いしてしまった。

      威王は言った、「先生は贈り物が少ないとでもおっしゃるのですか」と。

      淳于髠は、「何でそんなことを申しましょう」と。

      威王は、「それなら何か訳があるのですか」と。

      淳于髠は対えて謂った。

      「先ほど、臣が東方から来るとき、道端で田の神に豊穣をお祈りする男

     がいました。

      其の男は、豚の蹄一本と酒一椀を供えて、

         狭い地の採り入れ、籠に満ちよ

         痩せた地の採り入れ、車に満て

         五穀豊穣、お山の如く家に満て
      と、

      このように祈っていました。

      臣は其の男の供え物が少ないのに、多くの物を欲張っているのを

     見ました。

      だから、それを思い出して笑ったのです」と。 

      この話を聞いて、威王はすぐさま、黄金千鎰(いつ)と白璧十双、

     車馬四百頭を預けて趙へ出立させた。

      趙王に謁見した淳于髠は、趙から精兵十万と兵車千乗の援軍を得た。

      其の情報を知った楚王は、軍旅を撤退した。

        ※ 黄金千鎰は、二万四千両。

          一鎰は二十四両。二十両の説もある。

          金百斤は、千六百両。

          一斤は十六両。

                     「史記 滑稽列伝・淳于髠」

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(瓜田李下)

     「瓜田李下(かでんりか)

                         ◇ 戦国時代 ◇

      「瓜田の履(くつ)、李下の冠(かんむり)」とも言う。

      疑われやすい行動は、事前に避けなければならないという例え。

      「君子は未然に防ぎ、疑惑の間に処(お)らず。

       瓜田に履を納(い)れず、李下に冠を整(ただ)さず。」


        ☞ 履は履物の総称。

          納の字義は、引き入れる。 

      瓜の実っている畑で履を履き替えると、如何にも瓜を盗っているように

     思われるし、李が実っている下を通る時、そこで手を挙げて冠を直そうと

     すれば、如何にも李を盗っているように思われるから、

      そのように人から疑われるような紛らわしい行為は、避けるべきである

     という意味に解される。

                     「文選 古楽府・君子行」

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(徙木之信)

     「徙木之信(しぼくのしん)

                        ◇ 戦国時代 ◇

      政治を行う者は、人民を欺かないことを明らかにすべきであるという事。

      転じて、約束を実行することの例え。

      国家の制や令の布告を信じて、為政者が設置した「木」を移した人民に

     約束通りの報奨金を与えて、為政者が人民を欺かないことを実証し、

     人民全般の信頼を得るの意。

      衛の出身である公孫鞅は、魏の宰相・公叔座の中庶子となっていた

     が、公叔座は臨終の際、見舞いに訪れた惠王に自分の後継者として

     公孫鞅を推薦した。

      だが公叔座が亡くなっても任用の音沙汰は無く、公孫鞅は遂に魏を

     見限って出奔した。

      公叔座は生前、惠王に対して若し任用しない場合は、躊躇わず公孫鞅

     を亡き者にするよう遺言していたが、遂に追跡したり刺客は送られ

     なかった。

      公孫鞅は、秦の孝公㉕が広く人材を求めていると知り、また幸いにも

     伝手を得て、秦の都を訪れた。

      時に孝公の寵臣・景監に取り入り、その紹介で遂に孝公に謁見する機会

     を得た。

      公孫鞅は三度 謁見の機会が与えられたが、秦王の興味を惹くことは

     なかった。

      だがこれが謁見の最後として、四度目の機会が与えられた。

      秦王は今度は熱心に聞き入り、自らも意見を出して議論を重ねた。
     
      謁見は、それから数日も続いた。
     
      後に景監が、不思議に思って公孫鞅に其の間の事情を問うと、

      「初めは帝王の道を説き、次に王道を解き、更に覇道について説き

     ました。

      そして今度、富国強兵の方策を説いたところ、大いに喜ばれたという訳

     です」と。

      かくして公孫鞅は秦王に任用され、国政改革の「変法」実施を望んだが、

     王は保守勢力や世論の非難を恐れて躊躇っていた。 

      公孫鞅は、身を引き締めて王に進言した。

      「強国を目指すなら、先例に囚われず、慣習に引きずられず、自信を

     持って断乎として改革を推進すべきである。

      疑行は名なく、疑亊は功なし」と。

       (=何事もやるからには自信を以て断行しなければ、

        名誉も成功も得られない。)

      孝公は遂に公孫鞅を左庶長(爵位の位。重職)に任じ、公孫鞅の

     法家思想に基づく富国強兵を国是として、改革案を実施することに

     なった。

      だが、人民が法に従うかどうかを見定めるため、すぐには実施しな

     かった。

      施行に先立ち、人民に対して信賞必罰を以って、法の絶対性と実効性

     を教える必要があったからである。

      そこで三丈の木を城都の南門に立てて、人民に対しては、

      「斯の木を徙(うつ)して北門に置く者あらば、十金を予(あた)えん

     と布告した。

      ところが人民は怪しんで、敢えて移そうとする者はいなかった。

      そこで再度、布告した。

      「よく徙す者には、五十金を予えん」と。

      すると今度は、一人の者が之を徙した。

      その者には早速、五十金が賞として下賜された。

      これで法が、人民を欺かないことを明らかにしたのである。

      今度は禁止の制・令が布告された。

       ※ 制は掟・詔。令はお触れ・法令。

      「火を燃やした灰を道に棄てる者あらば、斬首に処す」と。

      初めは灰を棄てたくらいで、首を斬られることもあるまいと、無視して

     灰を棄てる者があった。

      ところが、その者は直ちに捕えられ、処断されてしまった。

      事ここに至り、人民は法の恐るべき実態を知ったのである。

      かくして、公孫鞅は遂に「第一次変法」を実施することにした。

      ※ 公孫鞅の第一次変法が成功すると、その成功を愛でて、孝公は

       公孫鞅を「商」の地に封じた。
        
        それより後は、公孫鞅は、商鞅と称せられる。

                     「史記 商君列伝」

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    tyouseimaru

    Author:tyouseimaru
    出身地は四国八十八か所参りの発心の阿波、大阪を終の棲家とする。
    歴史好きで、城郭・神社仏閣・歴史遺跡巡りが趣味となる。
    歴史小説や時代小説を好み、往年の著名な時代小説の類は概ね完読と、自負している。

    自薦
    自著「中国通史で辿る名言・故事探訪」の 上・中・下の3巻を、 近い内に「電子書籍」での出版を予定しています。 今年一年間は、さらに工夫を加えるなどして、補記訂正などの校正を第一義としています。       
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