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    中国通史で辿る名言・故事探訪(鞍上 人無く、)

     「鞍上 人なく、鞍下 馬なし」

                        ◇ 戦国時代 ◇

      馬術の名人が、馬を自由自在に御する様を形容する言葉。

      まるで馬上に御する人が居らず、また御者の下に馬がいないの意。

      中国大陸の遊牧騎馬民族の巧みに人馬一体となった騎馬軍団は、

     中原(中華)諸国の戦車を中心として布陣する軍団を縦横に駆け抜けて

     翻弄し、将に電光石火とも言うべき臨機応変の戦闘態勢がとれた。

      中原諸国の軍服は、騎馬するにはおよそ不便な代物ではあった。

      戦袍は膝まである丈の長い戦闘服であり、皮鎧は腰に長く垂れ

     下がり、兵士の行動の自由と敏捷さを著しく阻害していた。

      それに比べて、胡服は短い羽織に革帯を巻き付け、足には皮の

     長靴を履く身軽な兵装である。

      更に彼らは幼少から乗馬に親しみ、未だ鞍は発明されていなかった

     が、人馬一体の乗馬術と騎射に熟達していたのである。

      従って、趙の武霊王が胡服騎射を採用したと言っても、短期間

     で急速に上達する訳ではなく、益してや遊牧の騎馬民族に対抗

     しうるには、それ相当の期間と訓練を要し、先ずは騎乗の改良が

     急務であった。

              

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    テーマ : 詩・和歌(短歌・俳句・川柳)など
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    中国通史で辿る名言・故事探訪(胡服騎射)

     胡服騎射

                         ◇ 戦国時代 ◇

      趙の武霊王が、軍事強化策として採用した中華における革新的戦術。

      胡人の乗馬に適した軽やかな服装で以て、馬上で弓を射るの意。

     》 武霊王の戦術革命 《   前306年

      武霊王の十九年、王は宮中に重臣連中を招集し、天下の情勢について

     意見を交換させ、討議させた。

      この会議は延々と続き、五日を要した。

      その後武霊王は、軍を率いて北に進み、中山国を侵略し、次に房子に

     進み、そこから西に転じて黄河に達し、黄華山に登った。

      これらの軍事行動は、武霊王が国際情勢を重臣らに実感させる

     のが目的であった。

      そこに於いて、武霊王は重臣連中を呼び寄せ、自分の心中の思い

     を打ち明けた。

      「現下の諸国の情勢を見るに、我が国は脇腹に中山国が在り、北方

     には燕、東方には胡、西方には林胡・秦・韓と国境を接し、極めて

     厳しい状況にあると言える。

      だが我が国には、強力な味方がある訳ではない。

      そこで国家存亡の危機に際して、如何に対処するかと言えば、何は

     置いても先ず戦闘力を高める必要があると言える。

      我 思うに、その為には軍旅の重々しい中華の服装を改めて、

     軽やかな胡服を着用すべきだと欲しているのだ」と。

      武霊王の思いに、案の定 保守派の権臣から頑固な反対の声が

     上がった。

      「中華の古来の服装に反する」と。

      武霊王の側近・楼緩(ろうかん)は、武霊王の唱える胡服騎射を

     革新的戦術だとして即座に賛同した。

      武霊王は、隣に控えていた宰相の肥義に声をかけた。

      「先王の趙襄子の功業の跡を継いだが、更なる飛躍を求めて

     異民族の地を開いて行こうと思うのだが、寡人の生存中にその成果を

     見ることは出来ないかもしれない。

      だが手段を講じて、少しでも彼らの力を弱めておけば、後の者が

     無駄な力を使わず、人民にも苦労をかけずに、先王の功業を発展

     させる事が出来よう。

      そこで決心したのだ、在来の慣わしを無視し、旧弊な者たちの

     非難を浴びようとも、寡人は自ら胡服騎射を学び、範を示そうと思うが、

     どうであろうか」と。

     》 大功を成す者は、衆に謀らず 

      大きな功績を成し遂げる者は、多くの人に相談することはしない。

      武霊王の下問に、宰相・肥義は対えて、

      「臣聞く、【疑亊は功なく、疑行は名なし】と。

      既に従来の習慣を変えようと御決心なされたからには、もはや他の

     議論を顧みる必要はございません。

      昔から、【至徳を論ずる者は俗に和せず、大功を成す者は衆に謀らず

     と申します。

      また、【愚者は成亊に昏く、知者は未計を見る】と申します。

      (=愚かな者は将来の事業に疎く、知恵ある者は成すべき姿を

       予見する。)

      もはや疑うべきではございません」と王を勇気づけた。

      事ここに至り、ようやく武霊王は決心した。

      ところが、それでも頑強に反対した公子の成は、病と称して

     参内しなくなった。

        ☞ 公子成は、武霊王の叔父。

      武霊王は後、成の邸に特使を派遣したが埒があかず、自ら訪れて

     直談判した。

      成の反対理由を察した武霊王は、時間をかけて説得した。

      さすがの成も納得せざるを得ず、翌日からは王に下賜された胡服

     を着用して参内した。

      ※ 公子成が胡服着用を理解できなかったのは、中原の優越的

       と信ずる風俗の形式に固執するの余り、武霊王が意図する

       服制改革に止まらない、根本的な変革が理解できなかった

       のである。

      ここにおいて、武霊王は胡服着用令を発した。

                     「史記 趙世家」

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(曾参、人を殺す)

     「曾参、人を殺す」

                         ◇ 東周時代の補記 ◇

      違う人が、それぞれ三度 同じことを言うと、終いには人は其れを

     信用するようになるという喩え。

      春秋時代末期、儒の学統を継ぐ曾参が人を殺したと云う、

     「噂の伝承性」の故事。

      孔子の高弟で親孝行の人・曾参が魯の町に住んでいた時、

     曾参と同姓同名の者がいて、人を殺すという事件があった。

      或る者が曾参の母に、

      「曾参が人を殺した」と報せた。

      曾参の母は、

      「私の子供は人を殺したりしません」と言って、平然として機を

     繰り続けた。

      別の者がまたやって来て、

      「曾参が人を殺した」と報せた。

      母はそれでも未だ、平然として機を繰っていた。

      ややしばらくしてから、さらに別の人が来て、

      「曾参が人を殺したぞ」と告げた。

      曾参の母はさすがにびっくりして、機の横糸を通す杼(ひ)を投げ出す

     と、垣根を越えて走り出した。

      このように曹参ほどの賢明さと、我が子に対する母親の篤い信頼が

     ありながら、違う人が三人ともそれを疑うと、賢母でさえも我が子が

     信じられなくなると言う喩え話である。

                    「孔子家語」・「戦国策 秦・武王」

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(冠蓋相望)

     「冠蓋相望(かんがいそうぼう)

                         ◇ 戦国時代 ◇

      使者の車が陸続と続いていることの例え。

      使者の冠と車の天蓋とが前後にまたがって、遠望できるの意。

     》 韓、秦・楚の脅威に悩む 《

      前308年、秦の武王は甘茂を将として、韓の攻略に向かわせた。

        ☞ 甘茂は、漢音では(かんぼう)、呉音では(かんも)という。

      情報を察知した韓は、十万の兵を投入して、宜陽と崤塞(こうさい)・

     澠池(べんち)の二つの要塞を固め、兵糧は数年堪えられる準備をした。

      流石の無敵の秦軍も、こうなると苦戦を強いられた。宜陽城はどうして

     も抜くことが出来なかった。

      ここに至り武王は、全兵力で甘茂を援けた。戦闘は続行し、甘茂は、

     宜陽城を強攻した。

      亡国の危急となった韓では、宰相の公仲朋が君に進言した。

      「この際は、秦に領土を割譲して和解を求め、秦を煽って韓も援兵を

     出して、ともに南の楚を討つべし」と。

      韓王はその進言を良しとして、早速 講和の使者として公仲朋を遣る

     算段をした。

      方や楚王は其の情報を知るや、説客の陳軫を召して相談した。

      陳軫は次の如く進言した、

      「韓に対して手厚い贈り物を捧げることにし、さらに楚は今すぐにでも、

     兵を総動員して韓を支援するであろう。

      その証拠をお見せするから、貴国のご使者を国境に派遣せられよ」と。

      韓では、検分の使者を現地に派遣した。

      楚王は軍を総動員して、北に向かう道筋に軍旅を整列させていた。

      そして楚王は、韓の使者に対して、

      「直ちに帰国して、現地の様子を報告されよ」と。

      韓王は報告を聞いて大層喜び、公仲朋の秦への出立を差し止めた。

      公仲朋は、楚のこの度の事態の本質と顛末、そして事後の予測を

     君に説得したが、君は聞く耳を持たなかった。

      公仲朋は帰宅するや、そのまま出仕をしなかった。

     》 韓の危機 《

      其の後、韓の宜陽は事態 益々急となった。

      韓の君 その使者をして、卒(軍卒)を楚に趣(うなが)さしむ。

      (=韓王は使者を派遣して、楚王に軍旅の派遣を催促せしめた。)

      冠蓋相望むも、而も卒(終)に至る者無し。

      (=次々と出発する韓の使者の冠や天蓋馬車は遠望出来ても、

       とうとう楚の援軍は無かった。)

      宜陽はとうとう秦軍に抜かれ、諸侯の笑いものとなった。

      かくして、韓の宜陽城の守備兵六万は、一人残らず斬殺された。

      勢いに乗った秦軍は、黄河を越えて、韓の要地である武遂も陥落

     させた。

      この秦の勢いに懼れた周の赧王(たんおう)は、赧王の呼びかけに

     応じて駆けつけて来た楚の将・景翠と面談して、宜陽の奪還を図ろう

     とした。

      秦軍は最早 新手の軍と戦う余力を残していなかったので、楚に一部

     の地を献じることによって、事なきを得た。

      かくして武王は、今回は周王朝の洛陽攻撃を断念した。

       「史記 樗里子・甘茂列伝」・「戦国策 魏」・「韓非子・十過」

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(先従隗始)

     「先従隗始(せんじゅうかいし)

                         ◇ 戦国時代 ◇

      “先ず隗(かい) 従(よ)り始めよ”と訓読。

      先ずは劣った者を登用してから、後に有能な人材を集めるという、

     遠謀深慮な人材募集を言う。

      また大きな事をするには、先ずは身近な事から始めよ、との事。

      先ずこの郭を任用することから始めてくださいの意。

      燕の昭王から人材招請について問われた郭隗先生が対えた言葉

     である。

      昭王は、「子之の乱」で亡国寸前に陥った燕の立て直しに一応 

     成功はした。

      しかし国力を養う為に、広く人材を求めんと欲していた。

      そこで、名士として名高い郭隗先生を訪ね、

      「斉は我が国の内乱に付け込んで、破滅も同然の我が国を侵略した。

     燕は弱小国であり、この国力では仇敵に太刀打ちできないことは十分

     に承知している。

      しかし先王が蒙った恥を何とかして雪ぎたいというのが我の願いです。

      賢者を招き、智勇の士を求めるにはどうすればよいか」と、

     真摯に下問した。

      郭隗は王に対えて、

      「王自らの驕りや誇りを捨てて、また北面して学を受ければ則ち、

     自分に倍する賢者、智勇の士の至らん
    」と、

     賢人招請の古の道理を踏まえた方法を教示した。

      そして、「王が真に広く国中の優れた人物を選んで、その門を訪ねて

     行けば、王が賢者を其の家まで訪ねられるという評判が天下に立ち、

     天下の優れた人物たちは、燕に馳せ集まってくるに違いありません」と。

      王は郭隗に言う、

      「私は誰を訪問すればよろしいか」と。

      ここで郭隗は、千里の名馬を求めた古の君主の例え話を語り始めた。

      「死馬の骨
     
      役に立たない物を買っておいて、役に立つ物が手に入るのを待つ

     ことの喩え。

      囲碁で言う所の捨石を打つとか、呼び水にすることを云う。

      古の君主は、千金を出してでも、一日千里を走る馬を求めるべく

     努めたが、三年経っても手に入れることが出来なかった。

      そこで、宮中の狷人(雑用の小者)が、恐る恐る王に申し出た。

      「この私めが、買い求めて参りましょう」と。

      王はその申し出を許して、彼に千金を与えて買い付けに出発させた。

      三カ月して、彼は千里の馬を見つけたが、その時にはその馬は既に

     死んでいた。

      だが彼は死んだ馬の首骨を五百金で買って帰り、王に復命報告した。

      王は、生きた馬ではなく死に馬に五百金も出したことに激怒した。

      ところが狷人は、確信をもって対えた。

      「名馬なら死んだ馬でも五百金で買ってくれるという事になれば、

     生きた馬なら大変なことになります。

      天下の人々は、王は馬の値打ちがよく分かるお方だから、

     生きた名馬なら、それこそ大変な値で確実に買ってもらえるだろうと

     思うはずです。千里の馬は、求めずとも直ぐにやって来ます」と。

      それから一年と経たない内に、千里の馬が三頭もやって来た。

      このように話してから、郭隗は王に言う。

      「今 王、誠に士を致さんと欲せば、先ず隗 従より始めよ。

      隗すら且つ仕え見(まみ)える、況や隗より賢なる者をや。

     豈に千里を遠しとせんや
    」と。

      そこで昭王は、郭隗の為に邸宅を築き、彼を師として仰ぎ仕える

     ようになった。

                     「戦国策 燕・昭王」

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(訑者の言)

     「訑者(たしゃ)の言」

                         ◇ 戦国時代 ◇

      自ら満足して得意になったり、或いは自ら誇り高ぶって他人の言葉を

     聞き入れないような者の言葉。

        ☞ 訑とは、自ら満足して得意になること。

     》 燕の内乱収束 《  前311年

      燕は内乱に乗じて斉に侵略され、宰相の子之は塩漬けにされ、

     王噲は殺された。

        ※ 「史記」では、子之は国外に亡命したと記す。

      それから三年、王位空白の時代が続いた。

      燕の公子・職は人質となって韓にいたが、趙の武霊王の仲介により

     帰国することが許され、帰国して即位した。これが昭王㊵である。

      昭王は国都を薊から武陽に遷都し、戦死者を弔い、生存者を慰問し、

     懸命に内政の立て直しに取り組んだ。

      ある日、昭王は説客・蘇代に言った、

      「寡人 甚だ訑者の言を喜ばざるなり」と。

      蘇代対えて言う、

      「私の故郷の周では、媒酌を賤しむ風習があります。

      と申しますのも、その両方を誉めそやすからと言えます。

      男の家に行っては、『彼女は美人でございます』と言い、女の家に

     行っては、『彼は金持ちでございます』と。
     
      ですが、周の風俗と致しましては、自ら娶るという事は致しません。

      また娘は媒酌が無ければ、年老いても嫁ぐことが出来ません。

      媒酌を差し置いて、自分をひけらかしても、結局は失敗に終わり

     売れ残ってしまいます。

      順調に運んで失敗が無く、買い手がついて話がまとまるには、媒酌に

     頼る他ないのです。

      また物事は、権謀によらなければ成功せず、勢いに乗じなければ成就

     しないものなのです。

      凡そ依頼人に、居ながらにして出来上がった結果を受け取らせる者は、

     訑者を置いて他にございません」と。

      昭王もこれには、

      「なるほど」と言って、得心した。

                     「戦国策 燕・昭王」

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(席巻)

     「席巻(せっけん)

                             ◇ 戦国時代 ◇

      他国の領土を攻め取ることから、転じて、勢いのよい様を言う。

      古代中国では、蓆(むしろ)を敷いて人の座る場所とし、そこを「蓆」

     とか「席」と呼んだ。

      そこから、蓆を巻き取ることを、他国の領土を巻き取るという意、即ち

     攻め取ると解するようになる。

     》 丹陽・藍田の戦い 《  前312年

      楚の懐王は、秦から帰国した使者の報告により、

      「商於六百里の地」が張儀の欺罔であると知り、

     怒り心頭に発した。

      そして遂に、秦を攻めようと覚悟し、軍旅を発した。

      懐王は屈匈を将として、丹水を北上させた。

      秦の惠文王は、異母弟の樗里子(ちょりし)と魏章を将として武関より

     出撃させた。

      両軍は丹水北岸の丹陽で激突したが、楚軍は無敵の秦軍に正面から

     攻撃したので勝ち目はなかった。

      楚軍はたちまち壊滅的打撃を被り、屈匈は戦死し、八万の士卒が斬首

     された。

      その結果、楚は丹陽の他 漢水上流の漢中郡まで奪われてしまった。

      丹陽で敗戦した楚は、起死回生を目論んで、全国から徴兵して挙国

     一致の大軍を編成した。

      そして再び丹水を北上させ武関を抜く作戦を立てたが、この度は

     進撃の角度を広く取り、軍を二手に分けて進撃した。

      楚軍は秦の領土・商を抜き、秦嶺山脈を越えて藍田関に達した。

      この藍田関を灞河(はが)に沿って北上すれば、秦の国都・咸陽は

     近かった。

      この藍田関は、謂わば秦の生命線である。

      秦の惠文王は檄を飛ばして、将や士卒を激励した。

      だが楚軍にも問題が生じていた。

      大兵力を賄うだけの糧食が補給できなかったのである。

      その内、攻防は秦軍に優位に傾きつつあった。

      楚軍優勢の時には楚に傾いた韓が、秦軍優勢となるや秦に就いて

     しまった。

      更にこの韓軍に魏軍が同調して、楚の軍事拠点である鄧城に奇襲

     攻撃をかけた。

      こうなれば楚軍は挟撃され、完全に危地に陥ってしまう虞があった。

      楚の前線にもたらされたこの報は、楚軍の指揮に乱れを生じさせ、

     士卒は我先にと退却し始めた。

      勢いづいた秦軍は、丹水を下って楚の領域に雪崩込み、遂に懐王

     は二つの城を秦に割譲して和解した。

     》 秦・楚の領地交換 

      丹陽・藍田の戦いの後、秦は楚の黔中の地を得ようとして、秦の

     武関の地との交換用件で外交交渉に委ねた。

      秦の申し入れに対して、張儀への恨みが骨髄に徹した懐王は次の

     如く回答した。

      「地を易(か)うるを願わず。

      願わくば張儀を得て黔中の地を献ぜん
    」と。

      (=領地の交換は望まない。唯 張儀を虜囚として得ることが出来る

       なら、お望みの黔中の地を献じよう。)

      惠文王は内心では張儀を遣らんと欲したが、流石に口に出せ

     なかった。

      ところが張儀は王の意を察して、且つ目論見もあったので、自ら願い

     出た。

      張儀は、その判断に苦衷する惠文王に語った。 

       「秦は強く楚は弱し。臣は楚の靳詳と好が有ります。

      その靳詳は懐王夫人・鄭袖 のお気に入りです。

      その上、臣は秦王の節を報じて参る者です。

      どうして臣に誅を加えられましょうか。

      たとい臣を誅すとも、秦の為に黔中の地を得ば、臣の上願なり」と。 

                     「史記 蘇秦・張儀列伝」

     》 張儀、楚へ使者に立つ 

      張儀が楚を訪れるや、懐王は待ってましたとばかりに張儀を幽閉

     して、誅殺する機会を窺っていた。

      ところが張儀は、靳詳を通じて懐王夫人の鄭袖に取り入り、その

     取り成しを依頼した。

      結局、懐王は張儀の裏工作を見抜けず、鄭袖夫人の懇願を受けて

     張儀を赦してしまった。

      事ここに至り、張儀は楚に対して秦との連衡策を盛んに勧め、

     改めて秦の強さを説明し、且つ恫喝した。

      「秦は今や四カ国分の兵力を有し、領土は天然の要害に守られて

     います。勇敢な兵は百万を超え、国力は充実し君主は賢明、将軍は

     知勇兼備と言えます。

      常山の堅固なる地も、まるで蓆を巻き取るが如く、

      簡単に攻め取ってしまいます
    」と。

       ☞ 常山とは、中国の五嶽(岳)の一つである「恒山」の異名。

                     「戦国策 楚・懐王」

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(商於六百里)

     「商於六百里(しょうおろっぴゃくり)     

                         ◇ 戦国時代 ◇

      より狡猾な詐欺の手段のこと。

     》 楚、屈原の失脚 《

      楚では、その外交基本政策に於いて、親秦派と親斉派に分かれて

     いた。

      この時期の楚は、斉と盟約を結んでいたが、その指導者は屈原で

     あった。

      そして楚と斉が軍事同盟を結んでから、魏と韓の地を次々と奪う行動に

     出た。

      之に焦りを覚えたのは秦である。

      秦は、如何なる手段に訴えても、其れを阻止する必要があった。

      もともと楚と斉は、好ましい関係にあったわけではない。

      ここで揺さぶりをかければ、両国の盟約は破綻するだろうと、

     秦の惠文王は判断した。

      そこで次々と策を施し、楚の親秦派の靳詳らを買収し、親斉派の屈原

     を讒言させて失脚させることに成功した。

      惠文王は、次に宰相の張儀をして楚に派遣した。

     》 張儀、懐王を籠絡す 《

      楚に使いした張儀は、懐王に斉と国交を絶つという条件で、

     秦の「商・於の地 六百里四方」を譲渡する旨 口約束した。

      その地は、秦の国都・咸陽を守る武関に近接した秦の軍事上の要所

     である。

      楚にとっては当に垂涎の条件であった。

      懐王はこの条件に、有頂天になり飛びついた。 

      そして懐王の喜びの余り漏らす言動に、苦言を呈する客卿がいた。

      張儀に対する、秦以来の政敵である陳軫である。

      陳軫は懐王を説得した。

      「秦の不安は、斉と楚の同盟に在ります。

      已む無く表面上は同盟を解消することにしても、必ず裏で斉と親交の

     絆を結んでおくべきです」と。

      懐王も内心では、秦の裏切りを懸念していたので、張儀の帰国に

     際して、密かに間者を送り込み、秦の真意を探らせた。

      そして秦が商於の地を手放してから、斉との同盟を絶っても遅くは

     あるまいと。

      ところが張儀が帰国して三カ月にもなるのに、車から転落して負傷した

     という事にして、一向に楚との外交結果を秦王に帰任報告しようとは

     しなかった。

      楚の間者は、その経緯を楚王に報告した。

      懐王は焦った。

      これでは商於の件は潰れてしまう。もはや斉との同盟を先に破棄

     するより仕方がないとして、使者に書簡を持たせて斉王に送った。

      その内容は、斉王を痛烈に侮辱するものであったという。

      かくして、斉との同盟は解消した。

      秦の張儀は頃合を見て、密かに斉に使いを遣り誼を通じて、斉と盟約

     をなし、楚を孤立させてしまった。

      それとは知らぬ懐王は、使者を秦に遣わし、約束の地を受け取るべく

     催促した。

      楚の使者に対して張儀は、焦らすだけ焦らしておいて、

      「では約束の地として、「六里四方の地」を差し上げましょう」

     と言った。

      使者は、

      「私は、六百里四方と聞いております。六里とはとんでもありません」と

     抗議した。

      だが張儀は、全く取り合おうともしなかった。

                     「史記 蘇秦・張儀列伝」

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(箪食壺漿)

     「箪食壺漿(たんしこしょう)

                         ◇ 戦国時代 ◇

      圧政下に在った人民が、自分たちを救ってくれた他国の軍隊を歓迎し、

     飲食物で以って労う事。  

      竹を編んで作った瓢(ひさご)に飯を盛り、飲み物を壺に入れるの意。

        ☞ 箪食とは、竹を編んだ作った器(=箪)に盛った飯(食)。

          壺漿とは、壺に入れた酒以外の飲み物。

     》 燕の内紛 《  前318年~316年

      燕王噲(かい)が即位した前後に、斉にいた蘇秦は暗殺された。

      その蘇秦が燕に仕えていた頃、宰相・子之(しし)と蘇秦とは縁戚関係に

     あった。

      その関係もあって、蘇秦の弟・蘇代も子之とは親しい関係にあった。

      ところが、斉の湣王は蘇代の後釜に蘇代を任用して、燕に使者として

     送り込んだ。

        ※ 史記(田敬仲完世家世系表)によると、

           湣王の在位期間は、前323年~284年と記す。

           史実としては、前300年~前284年であるが、ここでは

          史記から出来事を引用するので、史記説に拠る。

      この頃の子之は王の信任を得て、今や国政を取り仕切っていた。

      燕噲王三年(前318年)、蘇代は斉王の意を受けて燕に使いした。

      燕王と蘇代の間で、次のようなやり取りがあった。

      「斉王とはどのようなお方か」と。

      蘇代曰く、

      「とても覇者たるの器ではございません」と。

      燕王は不審に思い、

      「どうして、それが分かるのか」と聞き直した。

      蘇代は応えて、

      「その臣を信ぜず」と。 

      その後、燕に留まった蘇代は、宰相・子之をさらに重用させようとして、

     盛んに後援活動をした。

      子之も之に応じて、蘇代に大金の運動費を提供した。

      かくして益々 王の子之に対する信用が増した所で、蘇代は燕王に

     古の堯舜の禅譲劇の美談をしきりに吹聴した。

      その後 燕王はなるほどと得心して、国事はすべて子之任せと為り、

     人事に至るもすべてを許すに至った。

      そして子之は、蘇代の下工作もあって、首尾よく王位に就こうとする段

     になった。

      だが廃嫡になろうとする大子の側にも、子之に恨みを抱く大夫連中が

     付いていたので、以後 国内の政治は乱れて、国内に不穏な空気が漲る

     ようになった。

      かくして、三年の内紛の後、前315年には遂に燕に内乱が勃発した。

                     「史記 燕召公世家」

      この燕の危機存亡に際して、

      隣国の斉にいた孟軻(孟子)は、斉の宣王の下問に

     対えて、

        ※ 斉の湣王ではない。
      
          「孟子 梁惠王下」では宣王との問答である。

      「之を取りて燕の民 悦ばば、則ち之を取れ。

      古の人 之を行える者有り。武王 是なり。

      之を取りて燕の民 悦ばずんば、則ち取る勿れ。

      古の人 之を行える人有り。文王 是なり。

       ※ 武王の父・西伯昌のことで、文王は周建国後の追諡号である。

      万乗の国を以って万乗の国を伐てるに、

      箪食壺漿して以って王師を迎えるは、豈に他あらんや。水火を避けん

     とてなり。


      (=大国が大国を伐つというのに、燕の民が飲食物を準備して斉王の

       軍旅を迎え入れるというのは、他に之と言った理由はありません。

        唯に戦乱の災難を避けようとするからなのです。)

      水 益々深きが如く、火 益々熱きが如くならんには、

      亦た運(うつ)らんのみ」、

      (=水難や火災、乃ち斉軍の侵略行為が燕の人民の目に余るように

       なれば、天与の運が移ってしまうまでのことです。)

      と言って斉王の開戦の決意を促した。

                    「孟子 梁惠王下」

      この時、斉は燕の大子平を救援するという名目で大軍を投入した。

      斉王は将軍の章子(匡章)に五軍を率いさせ、之に北辺の軍を加えて

     出撃させた。

      だが内戦に疲弊した燕の兵は戦意も無く、城門を閉鎖して守ろうとも

     しなかった。

      かくして斉は労せずして、わずか五十日で燕都・薊を陥落させ、燕王噲

     は死に、子之は国外に逃亡した。

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(一挙両附)

     「一挙両附

                            ◇ 戦後時代 ◇

      「一挙両得」とも言う。

      労少なくして功の多いやり方。

      一つの事をして、二つの利益を得るの意。

      秦の惠文王㉖の御前に於いて、秦の後背地に在る「蜀」の討伐の可否

     について、宰相の張儀と重臣の司馬錯(さく)が論争をした。

      連衡策を推進する張儀は言う、

      「先ずは魏及び楚と友好関係を結び(連衡策)、その後 周を攻めるべき

     である。周は慌てて先祖伝来の宝物を差し出して、和を乞うでしょう。

      そこで、周朝の天子を擁して、天下平定への道を進むのが得策と云う

     ものです。

      蜀の如き僻遠の地を攻め取っても、大した役には立ちますまい」と。

      それに対して司馬錯は、

      「苟も国を富まそうとする者は先ずその土地を広げ、兵を強くしようと

     する者は先ずその民を富ませ、王者たろうとする者は先ずその徳を修める

     と申します。今 秦の土地は狭く、民は亦た貧しさに喘いでおります。

      従って、蜀を手に入れることは、領地を広げ、

     財を得るという、当に一挙両附の妙策と申せます。


      今 周を攻めますと、天子を脅かしたという悪名を得るばかりで、

     益は少しもありません」と反論した。

      秦王は結局、覇業は後回しにして司馬錯の策を採り蜀を攻め取らせた。

                     「戦国策 秦・惠文王」

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(臣 斉に在らば、)

     「臣 斉に在らば、燕 必ず重からん」

                        ◇ 戦国時代 ◇

      戦国時代の名代の説客・蘇秦の、燕王に対しての遺言となる言葉。

      この私が燕にいては国威を挙げることは出来ないが、斉に行けば大いに

     燕の国威を挙げられましょう。

     》 蘇秦、斉に客死す 《

      蘇秦の没年については、前324年説、前317年説がある。

      史実としては、斉の宣王の崩御年が前301年であるので、

     前317年説が史実に近いと思われるが、「史記」の年代記述である

     前324年説に便宜上、遡及させる。

      蘇秦は燕に在っては易王の生母、乃ち文公の未亡人と密通していた

     ので、いつの日か事のばれるのを懼れていた。 

      易王はそれと知りつつ蘇秦を厚遇していたが、蘇秦はもはや身を退く

     潮時と考えていた。

      そこで易王に、

      「臣 燕に居らば燕をして重からしむこと能わず。

      然れども斉に在らば、燕必ず重からん
    」と、申し出た。

      即ちこれから斉に行って、燕の為に一肌脱いで働きたいという事である。

      燕王は之を許したが、蘇秦の遠謀深慮を容れて、蘇秦は燕で罪を犯して

     出奔した、という事にした。

      斉に赴いた蘇秦は、やがて斉王(宣王)により、顧問に取り立てられた。

      ところが、宣王は間もなく没して(前324年)、湣王が即位した。

      蘇秦は斉の国力を削ぐという目的で以て、湣王を焚き付け、宣王の

     葬儀を盛大に営んで孝心を天下に示し、更には庭園や宮室を絢爛広大

     にして、斉の国威を諸国に誇示すべく勧めた。

      その内 蘇秦は斉の大夫連中といがみ合う事が多くなり、何者かが

     放った刺客によって瀕死の重傷を負った。

      湣王は捕吏を総動員して探索させたが、犯人を捕らえることは出来な

     かった。

      蘇秦は死際に、湣王に言い残した。

      「臣もし死せば、臣を車裂きにして以って市に曝し、布告してください。

      《蘇秦、燕の為に乱を斉に為せり》、と。

      かくの如くせば、臣の賊、必ず得られん」と。

      湣王はそこで蘇秦の言の如くすると、果たして蘇秦を刺した者が忠義面

     をして、自ら出頭してきた。

      由って湣王は、この者を誅殺した。

      そして蘇秦の死後、幾許かしして、彼の策謀が漏れ伝わった。

      湣王は大いに怒り、怨みを燕に灯した。

      この頃 燕では、易王が崩じて王噲が即位した。

                     「史記 蘇秦列伝」

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(壟断)

     「壟断(ろうだん)

                         ◇ 戦国時代 ◇

      利益を独り占めすること。

      壟とは高い丘の意で、断は切り立って一際 高くなった場所を謂い、

     大昔の物々交換時代には、非常に地の利の良い場所でもあった。

     》 斉の宣王の慰留 《

      孟子が斉を去る決心をした時、宣王は孟子を自ら訪ねて慰留した。

      宣王は孟子の持論を政治に反映させなかったが、彼の人柄と得意な

     才能を惜しんでいた。また孟子のような論客を手元に置いておく事は、

     自分に箔を付けることにもなった。

      宣王の慰留に、孟子は意味深な返事をした。

      そこで宣王は、まだ期待できると判断し、後に孟子の弟子・陳子を通じて

     慰留の条件をもたらした。

      即ち、一等地に大邸宅を与え、門弟養成の為に一万鍾の俸禄を給し、

     大臣以下の者たちに孟子を尊崇させるというものであった。

      孟子は、宣王からの申し出に対して釈明した。

      以前に、王から十万鍾の申し出があった時、孟子は固辞したのである。

      然るに、今回 一万鍾を以って慰留しようとする。

        ☞ 俸禄の一鍾は、6・4石。

      人は誰でも富貴を願うものだが、それは誰からも納得されるような公正な

     ものでなければならない。

      十万鍾を固辞した者が、一万鍾を受けて富貴になれるわけがない。
      
      だからと言って、吾は卑しい商人のようなやり取りはしたくない、と

     次の如く得意の寓話を挙げて、釈明し宣王の申し出を断わった。

      「錢丈夫(ぜにじょうぶ)有り。

      必ず壟断を求めて之に登り、以って左右 望して市利を罔(あみ)せり。

      人 皆以って賤(いや)しと為す。故に従って之を征(せい)せり
    」と。

      (=ここに賤しい欲張り男がいました。

        物々交換の時には、必ず丘の切り立った所を求めて場所を取り、

       左右を遠望して物々交換市の利益を独り占めしました。

        他の人たちは、皆 そのような振舞いは賤しいとして非難した。 

        その為に、そのような行いの者には征賦(税金)が掛けられる

       ようになった。)

      ※ 「孟子」のこの章句は、「壟断」の成語と共に「税」の起源

       として知られる故事である。 

                    「孟子 公孫丑下」

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(左右を顧みて他を言う)

     「左右を顧(かえり)みて他を言う」

                         ◇ 戦国時代 ◇

      当面の問題を回避すること。

      難しい問題の回答を迫られた際に質問者から目を逸らして、側近に眼を

     移し、関係のない事を言うの意。

      孟子、斉の宣王に謂いて曰く、

      「其の妻子を其の友に託し、而して楚に之(ゆ)きて遊ぶ者有り。

      その反(かえ)るに比(およ)んでや、則ち其の妻子を凍餒

     (とうたい)せば、則ち之を如何せん」と。

         ☞ 凍餒とは、飢え凍えること。

      王 曰く、

      「之を棄てん」と。

      (=そんな奴は見捨てるぞ。)

      孟子、

      「士師、士を治むること能わずんば、則ち之を如何せん」と。

      (=検察裁判などの掌る上級官吏が、その部下を統率すること

       が出来なければ、如何なさいますか。)

      王 曰く、

      「之を已(や)めん」と。

      (=そんな者は罷免するだけだ。)

      孟子、
     
      「四境の内 治まらずんば、則ち之を如何せん」と。

        ☞ 四境とは、国内をいう。 

      王、左右を顧みて他を言う。

                     「孟子 梁惠王下」

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(木に縁りて魚を求む)

     「木に縁(よ)りて魚を求む」
           
                         ◇ 戦国時代 ◇

      目的と手段が全く逆で、不可能なことの例え。

      木に登って魚を探し求めるの意。

      斉の宣王は、国力を増強して武力により天下に覇を唱えようと、心中 

     大いに期する所があった。

      そんな宣王を見透かすが如く孟子は、宣王に語った。

      「抑(そもそ)も王、甲兵(鎧と武器)を興し、士臣を危うくし、怨みを

     諸侯に搆(むす)びて、然して後、心に快(こころよ)きか」と。

      王曰く、

      「否、吾 何ぞ是に快からん。将に以って吾が大いに欲する所を求めん

     とすればなり。」

      孟子は此処で王の存念を聞き出そうとするが、王は笑って物言わず。

      そこで孟子は、王に衣食住などの物質的な事やら歌舞音曲から側近

     に至るまでの過不足を例に挙げて、自問自答した。

      そして、詰まる所 それらは臣下の調達できるものであり、王の望む所

     の対象になるはずがないとして、自分の方に王の意向を引き付けた。

      頃は良しとして、孟子曰く、

      「然らば則ち、王の大いに欲する所 知るべきのみ。

      土地を闢(ひら)き、晋・楚を朝せしめ(朝貢させ)、中国に莅

     (のぞ。=臨)みて、四夷(周辺の異民族)を撫せんと欲するなり。

      (かくのごと)く為す所を以って、

      若(かくのごと)く欲する所を求むるは、


      猶 木に縁(よ)りて魚を求め、

      山に昇りて珠(真珠)を採るが如し
    」と。

      斉王のその覇業達成の目的と手段方法とは、例えてみれば、木に登って

     魚を求め、山に登って真珠を採るようなものだと、強く否定したのである。

      王曰く、

      「是の如くそれ(手段方法)甚だしきか」と。

      孟子曰く、

      「殆ど是より甚だしきもの有り。

       (=全く以って甚だしいものです。)

      木に縁りて魚を求むれば、魚得ずと雖も、後の災い無し。

      若(かくのごと)く為す所を以て、 若く欲する所を求むるは、

       (=従前の遣り方で以って、覇業達成を企図すること。)

      心力を尽くして是を為して、後 必ず災いあり」と。

      孟子はようやくにして、斉王をして自ら進んで王道を聞く席に着かせる

     ことが出来たのである。

                    「孟子 梁惠王上」

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(民を貴しと為す)

     「民を貴(たっと)しと為す」

                         ◇ 戦国時代 ◇

      国家や君主に支配され統治される人民こそが、最も尊い存在であると

     見做す説。 

      孟子曰く、

      「民を貴しと為し、社稷は之に次ぎ、君を軽しと為す。

       (=民は国家(社稷)よりも大切であり、また国家は君主よりも尊い

        ものである。

         則ち最初に民があり、民があっての国家であり、次いで主君が

        あるという所謂 「民本思想」である。)

          ☞ 社稷とは、土地の神(社)と五穀の神(稷)のこと。

            この社稷を祀るのは天子や諸侯であったので、

           社稷は国家そのものを意味するようになる。

            古代の五穀は、黍(しょ。もちきび)・稷(しょく。

           たかきび)・麻・麦・豆をいう。

            就中、稷は最も早くから栽培されて来たので、穀物の長と

           して重要視された。

      この故に丘民(地方に住む身分の低い民衆)に得られて

     天子と為り、天子に得られて諸侯となり、諸侯に得られて大夫と為る。


      諸侯、社稷を危うくすれば、則ち変置(退位)す。

      犠牲既に成り(よく肥えた牛や羊を犠牲に捧げ)、粢盛(しせい)既に

     潔く(清浄な穀物のお供えも整い)、祭祀 時を以ってす(お祭りも時宜に

     適して行ってきた)。 

        ☞ 粢盛とは、器に盛った神に供える穀物。 

      然るに旱乾水溢(かんかんすいいつ)あらば、則ち社稷を変置す。

      (=干害や水害が起これば、また新しい王朝に取り替える。) 

      ※ 斉に滞在中の孟子に宣王(田辟疆)が、春秋時代の覇者と

        なった斉の桓公(姜小白)と晋の文公(姫重耳)の事績についての

        下問がなされた。

        孟子は対えるに、諸侯の「覇権主義」を否定し、持論である

       「王道主義」を説くために展開した論理である。

        そして孟子の思想は、詰まる所 王朝の交代は、禅譲によらず

       「放伐」に因ると為す。

                     「孟子 盡心下」

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(残賊の人は之を一夫という)

     「残賊の人は之を一夫(いっぷ)という」

                         ◇ 戦国時代 ◇

      仁義を損ない破る人は、ただの一人の野人に過ぎない。

      ある日、孟子は自ら王宮に参内した。

      斉の宣王、問いて曰く、

      「湯は桀を伐ち、武王は紂王を伐てること、諸(これ)ありや」と。 

        ※ 湯は商(殷)王朝を開創。桀は夏王朝最後の天子。

          武王は周王朝を開創。紂王は殷王朝最後の天子。 

      孟子対えて曰く、

      「伝にこれあり。」

      曰く、

      「臣にして、その君を弑す、可ならんか」と。

      (=臣下の身で、その君を殺すことが出来ますか。)

      曰く、

      「仁を賊(そこ)なう者は之を賊と謂い、義を残(そこ)なう者は之を

     残と謂う。残賊の人は、之を匹夫(ひっぷ)と謂う。

      一夫 紂を誅せりとは聞けども、未だ君を弑したりとは聞かざる

     なり
    。」  

      王朝の君と雖も、もはや仁と義を失った者は君王ではあり得ず、

     ただの残賊であり一人の野人に過ぎない。

      孟子は、このように断言して、。

      そして、ただの野人である紂を征伐したとは聞いても、王朝の君を

     弑殺したとは聞いていない、と論じた。

      これは君たる者の軽さを論証して、所謂 「放伐論」を容認

     するものである。

                     「孟子 梁惠王下」

      孟子のこの放伐論も、その実行者は必ず大夫級の者でなければ

     ならないとする。

      「万乗の国、その君を弑する者は、必ず千乗の家なり」と。

      (=兵車万乗を出すことの出来る大国の、その主君を殺すことが

       出来る者は、必ず兵車千乗を出すことが出来る采邑を有する大夫

       でなければならない。) 

                     「孟子 梁惠王上」

    テーマ : 中国古典・名言
    ジャンル : 学問・文化・芸術

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(采薪之憂)

     「采薪之憂(さいしんのうれい)

                         ◇ 戦国時代 ◇

      病気に犯され、薪も採りに行くことが出来ないという心配。

      転じて、長上者に対して自分の病気を卑下して言う言葉。

      前319年、魏の惠王の死と共に孟子は魏を去った。

     》 孟子の君子然たる矜持 《

      次に斉を訪れた孟子は、足掛け七年 斉に滞在することになるが、

     其の間、いつしか自分は斉王のただの食客ではなく、王の師を以って

     任じていた。

      そして自らの意志により、王宮に出向いて王に説くことはあっても、

     召されて行くことは潔しとしなかった。

      孟子、将に朝(参朝)せんとす。

      その頃 宣王は使者を立てて、丁重に孟子を召し出そうとした。

      ところが孟子曰く、

      「不幸にして疾あり。朝(朝廷)に造(いた)る能わず」と断りを入れた。

      その翌日のこと、孟子は斉の大夫の東郭氏の弔問に出かけようとした。

      弟子の公孫丑(こうそんちゅう)曰く、

      「昔者(きのう)辞する(断る)に病を以ってし、今日は弔す。

      或いは、不可(不都合)ならんか」と。

      曰く、

      「昔者(むかし)は病みしも、今日は癒えたり。

      之を如何(いか)で弔せざらん」と言って、出掛けてしまった。

      ところがその後、王は見舞を兼ねて医師を孟子宅に派遣してきた。

      留守番をしていた孟子の従兄弟の孟仲子は、応対して曰く、

      「昔者 王命ありしも、采薪之憂ありて、朝に造ること能わざりき。

      今は病 小(すこ)しく癒えたり。趨(はし)りて朝に造れり。

      我知らず、能く至れりや否やを」と。

      (=着いたかどうかは、私には分かりません。)

      その後 孟仲子は直ちに数人の者を使いに出し、弔問途中の孟子を

     追わせて、

      「請う、必ず帰ることなくして、朝に造れ」と、言わしめた。

      さすがに孟子もやむを得ず、景丑氏(けいちゅうし)の家を訪れて、

     そこに泊まる事にした。

                    「孟子 公孫丑下」

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(強顔女子)

     「強顔女子(きょうがんじょし)

                         ◇ 戦国時代 ◇

      面の皮の厚い、即ち恥を知らぬ強かな女性。

      戦後時代、斉にある婦人がいた。

      その容貌の醜さは二人としてなく、人は邑(村落)の地名を取って、彼女

     を無塩女(ぶえんじょ)と呼んでいた。

      その人となりは、臼頭で奥目、大女にして骨太、高い鼻で突き出た喉、

     太い首に薄髪、その肌は漆のように黒く、歳は三十にもなるのに嫁にも

     売れず、打ち棄てられて匿ってくれる者も無かった。

      そんな彼女がある日、身の塵を払って、自ら王城へ行き、国王に会見

     を願って、取次の者に言った、

      「私は斉の売れない女です。王様の聖徳をお聞きしております。

     どうか後宮の掃除に使うなりして頂きたく、門外に伏してお願い

     申し上げます」と。

      取次の者は報告をした。

      宣王は折りしも漸台(贅を尽くした庭園)で酒宴に興じていたが、左右の

     者はこれを聴いて大笑いして言った。

      「これ 天下の強顔の女子なり」と。

      だが宣王は、彼女に興味を覚えて、直ちに招じ入れ、申し渡した。

      「寡人の後宮には、妃を始め多くの女官がいるが、それぞれ序列まで

     決まっておるぞ。

      聞くとお前は、国元の売れない女とのことだが、何故また君主たる寡人

     の後宮に入りたいと願うのか。

      窮めて何か特別の才でも持っておるのか」と。

      彼女は王の問いに否定したが、再度の王の問いに接して、「隠の道」に

     通じていると対えて、いつの間にか、書付だけを残して、その姿は掻き

     消えるように去ってしまった。

      残された書付には、《危ないぞ、この四つ》という、「隠」が記されて

     いたが、王にはその意味がさっぱり分からなかった。

                     劉向「新序 雑事」

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(南郭濫吹)

     「南郭濫吹(なんかくらんすい)

                         ◇ 戦国時代 ◇

     「南郭濫竽(なんかくらんう)とも。

      才能や実力がないのに、見せかけで以ってよい地位を占めている者

     のこと。

      南郭が濫りに竽(う。=笛)を吹くの意。

      斉の宣王は、竽の合奏を好んだ。

      楽人をして竽を吹かせる時は、ひと吹きに必ず三百人なりと言われた。

        ※ この三百人とは、集団演奏の意である。

      ところが、南郭先生は、竽を吹くこと能わずして、三百人の内に

      濫し(多くの楽人の中に乱れ立つこと)、以って禄(秩禄)を食めり。

      その後、宣王崩じて、子の文王(実録では湣王)が即位した。

      だが、この文王は曰く、

      「寡人、竽を吹くこと愛するも、一々(一人一人)これを聴かんことを

      欲す
    」と。

      先生、驚いて乃ち逃ぐ、是を以ってその濫たることを知れり。

                     「韓非子 内儲説」

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(海大魚)

     「海大魚(かいたいぎょ)

                         ◇ 戦国時代 ◇

      進言する際の機知の妙をいう。

      斉の宣王⑤の異母弟・静郭君(田嬰)が、将に采邑(封土)の薛(せつ)

     に城を築かんとした。

      客(食客) 多く以て諌む。

      静郭君、謁者(取次役)に謂えらく、

      「客の為に通ずる勿(なか)れ」と。

      (=客人を我に取り次ぐようなことはするな。)

      斉人、請う者有り。曰く、

      「臣、請う三言にして已(や)まん。

      一言を益(ま)さば、臣 請う烹(に)られん
    」と。

      静郭君因りて、之を見(まみ)ゆ。

      客 趨(はし)りて進んで曰く、

        ☞ 趨るは趨走の意で、君前などでは、臣下などは小走りに移動

         する仕来りがあった。

      「海大魚」と、

      因(よ)りて反(かえ)りて走る。

      君 曰く、

      「客、此れに有らん」と。

      (=客よ、先ずは此処に留まられよ。) 

      客 曰く、

      「鄙臣(ひしん)、敢えて死を以て戯れを為さず」と。

      (=この私めは、どうして死を賭してまで三言以上の戯言を申し

       ましょうや。)

      君、曰く、

      「亡(な)し。更に言え」と。

      (=死ぬ事は無いから、続けて言ってくれ。」 

      対えて曰く、

      「君、大魚を聞かずや。

      網を止むること能わず、鉤(鉤針)も牽くこと能わず、

     蕩して水を失わば、則ち螻蟻(ろうぎ)も意を得ん。


      (=君に置かれましても、あの大魚の事はお聞きのことと存じます。

        網で以っても取り押さえることが出来ず、大物釣りの鉤針を仕掛け

       ても、引き揚げることが出来ません。

        しかし、そのような大物でも、すっかり水を無くしてしまえば、

       ケラや蟻のようなものでさえ思うがままとなるのです。) 

      今、夫れ、斉は亦 君の水なり。君 長く斉の陰を有(たも)て。

      (=斉と言う国は、将に君にとっての水と言えます。

        いつまでも斉という木陰に身を立てるべきです。)

      なんぞ薛を以って為さん。斉を失わば薛の城を隆(たか)くして天に

     至るとも、猶、之れ益無からん」と。

      君曰く、

      「善し」と。

      乃ち薛に城を城(きず)くを綴(や)む。

                     劉向「戦国策 斉」    
      

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(恒産なければ、)

     「恒産なければ、因って恒心なし」

                         ◇ 戦国時代 ◇

      人民は恒産 即ちどんな場合にも、きちっとした生活していけるだけの

     収入や財産が備わっていないと、恒心 即ち不偏の思想や不動の道徳心

     は保ちにくい。

      従って為政者たる者は、先ず人民に恒産を持たせるような為政が肝要

     である。

      恒産無くして恒心ある者は、惟(ただ) 士(君子)のみ能くすと為す。

      民の如きは、則ち、恒産無ければ、因って恒心為し。

                     「孟子 梁惠王下」

      ※ 孟子の時代は、既に「仁とか義・徳」」を唱える儒家の時代

       ではなく、喰うか喰われるかの戦国時代である。

        君子と言っても、その矜持で生きるには極めて厳しい社会で

       あった。

        しかしながら、猶 建前としては儒の道も、一応は重んじられた

       ようである。

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(五十歩百歩)

     「五十歩百歩」

                         ◇ 戦国時代 ◇

      似たり寄ったりで少々の違いはあるが、本質的には同じ事を云う。

     》 孟子、魏王に謁見す 《

      紀元前320年頃、孟子が魏の惠王(魏罃)③に目通りした。

      惠王は先ず、自ら質問した。

      「老先生は千里の道を遠しとせず御足労を願ったが、時にどんな事で

     我が国の利を図って下さろうというのですか」と。

      孟子は対えて、

      「唯 仁義だけです。何も利を口にするまでも無いでしょう」と。

      惠王曰く、

      「寡人の国に於けるや、心を尽くせるのみ。

       (=私は国内の政治向き全般において、最善を尽くしてきたと

        言える。)

      河内(かだい) 凶なれば即ち其の民を河東に移し、その粟

      (主要な食料)を河内に移す。河東 凶なるも亦同じ。

      隣国の政を察するに、寡人の心(民を思う善き政治)を用うるが如くなる

     者なし。

      隣国の民、少なきを加えず(減少しないで)、寡人の民、多きを加えざる

     (増加しないこと)は、何ぞや」と。

      ※ 戦国時代は格別に、農業人口の多寡が国力に正比例した。 

      孟子対えて曰く、

      「王 戦を好む。請う 戦を以って喩えん。

      填然(てんぜん)としてこれを鼓し、兵刃 既に接(まじ)わる。

      (=ドンドンと盛んに太鼓を打ち鳴らし、干戈を交えて既に戦闘状態

       に入っています。)

         ☞ 戦時の太鼓の音は、進撃の合図。

           銅鑼(鉦)の音は、退却の合図。

      甲(鎧)を棄て兵(武器)を曳いて走(に)げ、或いは百歩にして後

     止まり、或いは五十歩にして後 止まる。

      五十歩を以って百歩を笑わば、則ち如何」と。

      王曰く、

      「不可なり。直(ただ) 百歩ならざりしのみ。

     是も亦 走(に)ぐるなり。」
     
      (=駄目だな。五十歩の者とて、ただに百歩の者に及ばなかっただけ

       ではないか。逃げたという事では、互いに違いは無かろうぞ。)

      孟子曰く、

      「王 如(も)しこれを知らば、則ち民の隣国より多からんことを望む

     勿れ」と。

      (=王様それがお分かりなら、何故自国の民が増えないのか、などと

       お考えになってはなりません。)

      ※ 孟子は、続いて多くの譬えを挙げて、今の魏王の程度の善政では、

       何もしない隣国の政治と比べて少しは違っていても、本質的には同じ

       事であり、似たり寄ったりなのだと傍証。

       そして愈々、先ず人民をして生を養い死を喪して憾みなき政治の実践

      の重要性を説き、戦国諸侯の目指す「覇権主義」に対する、孟子の

      「王道政治論」の熱弁が始まるのである。

                     「孟子 梁惠王上」

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(伯楽一顧)

     「伯楽一顧(はくらくいっこ)

                         ◇ 戦国時代 ◇

      名君や賢人の知遇を受けること。

      春秋時代中期の周の博労で名馬の優れた鑑定人である伯楽が、市に

     出された馬を一度だけ振り返って見たの意。

      戦国時代の説客蘇代(蘇秦の弟)が燕の為に、斉の王に遊説する

     手づるを求めて斉にやって来た。

      先ずは斉王お気に入りの稷下の学の世話役・淳于髠(じゅんうこん)を

     訪ねて、面談した。

      蘇代語るに、

      「駿馬を売る者があり、朝市に三朝(三日)も立ったが、

     声をかけてくれる者はいなかった。

      そこで、その者は伯楽を訪ねて言いました、

      『私は駿馬を売りたいと思って、馬市に立つが、三朝 経っても売れ

     ません。

      そこで、あなた様に私の馬の周りを回ってよくご覧いただき、馬の側を

     去っては、再び顧り見て頂けないでしょうか。

      その御足労代として、今朝の馬の付値の分を差し上げたいと存じます』

     と。

      翌日 伯楽は朝市に出かけて、その馬の周りを回り、じっと見ては

     側を離れ、再び顧り見ました。

      すると、一朝でその値は、十倍になったのでございます。

      さて私は今、駿馬として斉王にお目にかかりたいのですが、私の

     引き立て役になってくれる人が居りません。

      そこで御面倒でも、あなたが私の伯楽になってくださるお積りは

     ございませんか。

      望み叶わば、白壁一対、黄金千鎰を秣料(まぐさりょう)として

     差し上げます」と懇願した。

      淳于髠は、「謹んでお引き受けいたしましょう」と。

      果たして、蘇代は参内して斉王に謁見する機会を得た。そして斉王も、

     蘇代が気に入ったのである。

                     「戦国策 燕・王噲」・「春秋後語」

      

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(画蛇添足)

     「画蛇添足(がだてんそく)                 

                         ◇ 戦国時代 ◇

     「蛇を画(か)きて足を添う」と訓読する。 

      一般的には「蛇足」と慣用する。

      無用のことをして、元も子も無くしてしまう愚行の例え。

      現在では、単に余計な物を付け加えることを言う。 

      楚の令尹・昭陽は、大将として軍を率いて出征し、魏を伐ち、魏軍を

     覆滅し、魏将を殺して、八城を奪取した。

      更には軍旅を転じて、斉に攻め寄せた。

      その為 斉王は、説客の陳軫(ちんしん)に依頼して、楚の侵略を思い

     止まらせようと、楚の前線に派遣した。

      陳軫は令尹・昭陽に会い、再拝して戦勝を祝し、徐に立ち上がって

     尋ねた。

      「楚の国の法では、敵軍を覆滅して敵将を殺した功に対し、与えられる

     官爵は何でございましょうか」と。

      昭陽は応えて謂う、

      「官は上柱国(じょうちゅうこく)で、爵は上執珪(じょうしつけい)

     である」と。

        ☞ 上柱国とは、戦国時代の楚に於いて、大功ある者に与えられる

          大官名であり、国家の大柱石の意。

      陳軫はさらに問うて、

      「他に其れより高い官爵としては、何がありましょうか」と。

      昭陽は、

      「唯 令尹あるのみ」と。

      陳軫は頃は良しと、昭陽を説き始めた。

      「令尹と云えば最高の官でありましょうが、楚王が二人の令尹を

     置かれる訳はありますまい。

      臣が一つあなたの為に、例え話をしたいのですが、宜しいですか。

      楚の国に先祖の祀りをした人がおりまして、近侍の者たちに大杯に

     いっぱいの酒を振舞いました。

      近侍の者たちは、相談しました。

      「数人で飲めば足りないが、一人で飲むなら有り余るほどある。これは

     ひとつ、地面に蛇の絵を画いて、先に画きあげた者が飲むことにしては

     どうか」と提案した。

      すると、一人の者が先に蛇を画きあげて、大杯を引き寄せて、今にも

     飲もうとしながら、左手で杯を持ち、右手で蛇に足を画き続けて、 

      「我は足を画くまで暇があるぞ」と申しました。 

      そして、その者が足を画き終わらない内に、他の一人の画いていた蛇

     が出来上がりまして、先の者の持つ大杯を奪い取り、

      「蛇に足などあるものか。足など画けようはずがない」と言って、その

     大杯を飲んでしまいました。

      蛇の足を画いた者は、とうとう酒を飲み損なったのです。

      ところで、今 あなたは楚の令尹として魏を攻め軍を破り、将を殺し、

     八城を奪い取りながら兵力を損耗することなく、更に斉を攻めようと

     なさっています。

      斉のあなたを畏れること、それは大変なものです。

      あなたは、それで以って名誉とされれば十分と言えます。

      これまでの功績でお受けになられた官爵の上に、更に加える官がある

     訳ではないのです。

      戦って負けた試しがないというので、止まることをお忘れになると、

     万が一、運悪くお亡くなりになった場合、爵は死後の身にお受けになる

     ことになります。

      それでは、方に蛇の足を画くようなものでしょう」と。

      昭陽は、如何にもと思い、軍を撤収し、帰国した。

      則ち、死人に勲功は必要なし、生きてこその勲功とするものだと自得

     した。

                     「戦国策 斉・閔王」

      ※ 蛇足(画蛇添足)の出典は、戦国策に拠る。

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(禍を転じて福と為し、)

     「禍を転じて福と為し、敗に因りて功を為す」

                         ◇ 戦国時代 ◇

      智恵を働かして禍を福に転じたり、失敗(敗北)をよく学び、

     成功に導くこと。

     》 蘇秦、斉王を籠絡 《 

      燕では文公が亡くなり、前332年、大子が即位した。

      諡号は易王(えきおう)㊲という。

      この易王が喪に服している間隙に、斉の宣王⑤は戦を仕掛けて、

     燕から十城を奪った。

      ※ 斉の宣王の在位期間について、「史記 田敬仲完世家世系表」

       では、前342年~324年と記すが、疑問視されている。

        前332年であれば、宣王の父・威王④の時代である。

      燕王はその報せを受けるや、直ちに蘇秦を召し出し不満をぶっつけた。

      「先に先生は燕に至り六カ国合縦を約したが、今 斉が先ず趙を討ち、

     次に燕に至る。貴方の故を以って燕は天下の笑いものと為る。

      だから、よく燕の為に侵された地を取り戻して戴きたい」と。

     》 俯して慶し、仰ぎて弔す 《

      機を一にして、祝辞と弔辞を述べること。

      そこで、蘇秦は易王の命を受けて斉に赴き、斉王に拝謁した。

      その席上、蘇秦は再度 拝の礼をして慶し、次に斉王の顔を仰いで

     弔した。

      (=同じ席で、先に祝辞を言上し、続いて弔辞を述べた。)

      斉王は戈(か)の柄に手をかけ、

      「俯して慶し、仰ぎて弔すとは怪しからん」と怒鳴りつけ、

     蘇秦の退席を命じた。

      そこで蘇秦は、改めて次の如く説明した。

      「飢人の飢えども烏喙(うかい)を喰わざる所以(ゆえん)は、その

     いよいよ腹に充つるも、餓死と患(わず)いを同じくするが為なり。

      (=餓死寸前の人でも、トリカブト(毒草)だけは食べようとしないのは、

       食べれば腹は満つが、餓死と同様に死の患いが生じるからです。)

      続けて言う、

      「ところで燕は弱小の国家ではありますが、彼の王は強国・秦の若き

     娘婿でございます。

      君には燕の十城をまんまとお取りになって、強国・秦と仇敵関係に

     なりました。


      今 強国秦の脅威を受け、天下諸侯の精鋭部隊を招来なさるのは、

     烏喙を食べる類でありましょう。

      つまり燕の十城を奪った事へのお祝いであるとともに、秦と諸国の現実

     の脅威が烏喙になったとして、同時慶弔を申し上げた次第です」と。

      すると斉王はさっと顔色を変えて、

      「然らば、如何せん」と。

      蘇秦は対えて、

      「『聖人の事を制するや、禍を転じて福と為し、敗に因りて功を為す

     と申します。

      貴国の昔の桓公は、夫人に悩まされることにより覇者としての名を高め

     ました。

      晋の韓献は邲の戦いで敗戦の罪をかぶりましたが、そのことから三軍

     の将の結束はいよいよ固くなりました。

      これらは何れも禍を転じて福と為し、失敗が本で成功した実例で

     ございます。

      君に置かれて、臣の献策をお聞き入れ戴けるなら、燕の十城を

     お返しになり、辞を低くして秦に詫びをお入れになるに越した事は

     ありません。


      秦王がその事を知らば、斉王に恩義を感じまた燕王も同様であります。

      さすれば君には実の無い虚言で以って秦を手玉に取り、たかだか十城

     で天下の実をお取りになる訳で、これこそ覇王の功業と謂えましょう。

      所謂 禍を転じて福と為し、敗に因りて功を為す、という事です」と。

      斉王は大いに喜んで、早速 秦に詫びを入れ、燕に十城を返還した。

                     「史記 蘇秦列伝」

    テーマ : 中国古典・名言
    ジャンル : 学問・文化・芸術

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(嗚呼、吾 術中に在りて、)

     「嗚呼、吾 術中に在りて、而も悟らず」

                         ◇ 戦国時代 ◇

      情けなや、吾は術に掛けられても、それを見破ることが出来なかった

     のだ。

     》 蘇秦の杞憂 《

      蘇秦は合従策を以て趙王を説き、その信頼を得て六カ国合縦同盟に

     取り組んでいたが、難問を抱えていた。

      即ち秦が、絶えず趙に狙いを定めていたのである。

      そこで、何とか秦を上手く牽制しなければ、六カ国合縦が締結される

     前に、破綻を来す虞があった。

      この秦を牽制出来る者は、誰あろう張儀を置いて他にはいなかた。

      そこで、気心も知れた張儀を何とか秦に送り込む算段を練った。

      早速、或る者を張儀の元へ遣り、張儀に語るに、今や趙・燕で活躍中

     の同門の蘇秦を頼るべし、と焚き付けた。

     》 益を求めて、反って辱められる 《

      張儀は勇躍して蘇秦を訪れた。

      だが豈に計らんや、蘇秦につれなく扱われて失意に打ちひしがれて

     しまった。

      張儀が蘇秦を頼ってきたのは、同門であり親しみがあったればこそ

     なのに、その仕打ちたるや、拝謁を奉っても礼を返さず、剰え言を左右

     にして会おうともせず、数日も足止めにして、ようやくにして会えば堂下

     に坐せしめ、散々悪態を浴びせられるという有様であった。

      張儀にはこの上ない侮辱であり、無念やるかたなかった。

      何としてもこの無念を晴らしたい、その為には蘇秦の仕える趙を苦しめ

     ることの出来る国は秦しかない、と思い詰めるようになった。

      張儀はすぐさま秦に向かって旅立った。

      張儀の出立を知った蘇秦は、直ちに食客の一人を呼び、これから張儀

     の事を何くれとなく面倒を見ることを委託した。

      その時 率直に己の思惑を食客に語って聞かせた。

      「張儀は自分に優る天下の賢士である。自分が先に世に出たが、張儀

     がこれから行く秦で、その国政をよく担える者は張儀の他にはいない

     だろう。

      しかしながら張儀は貧乏なので、貴顕を通じて、国王に見えることが

     出来ない。

      そこで我は張儀をわざと辱め、発奮させたのである。そういう訳である

     ので、子は私の意を受けて密かに張儀を援けてやってもらいたいのだ」

     と。

      そして蘇秦は趙王に願って、車馬・金幣を都合してもらい、之を食客に

     与えて、密かに張儀を追わせた。

      食客は日ならずして張儀に追いつき、近づき、張儀を何くれとなく面倒

     を見た。

      張儀らが秦に至って幾許もせず、張儀は念願かなって秦王に見える

     ことが出来た。

      張儀の献策は惠王に大変気に入られ、取り敢えずは外交顧問として

     任用され、やがて対外攻略の計画にも参画するようになった。

      蘇秦の食客は、そこまで見届けてから暇乞いをした。

      張儀は、その食客にこれからの恩返しを考えていたので、その訳を

     尋ねた。

      そこで食客は、それまでの経緯を包み隠さず語り、

      「私の役目は終わりました」と言って去ろうとした。

      張儀は、蘇秦の遠謀深慮に驚きつつ、その恩義を感じて、

      「嗚呼、これ吾 術中に在りて而も悟らず。

       吾 蘇君に及ばざること明らかなり。

       吾また新たに用いらる、いずくんぞ能く趙を謀らんや。

       吾が為に楚君に謝せよ。蘇君の時 儀、何をか敢えて言わん。

       且つ蘇君在らば、儀、なんぞよくせんや」と。

       そしてそれから間もなく、張儀は顧問から宰相に任じられた。

       蘇秦の目論見は、見事に的中することとなった。

                     「史記 張儀列伝」

     

    テーマ : 中国古典・名言
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    中国通史で辿る名言・故事探訪(我が舌を見よ、)

     「我が舌を見よ、なお在りや否や」

                         ◇ 戦国時代 ◇

      戦国時代の遊説家の双璧と言われる張儀の、己の弁舌に対する矜持

     の言葉。

      張儀は魏の人。合従策で成功した蘇秦と共に鬼谷子に遊説術を学ぶ。

      蘇秦が師の元を去った後、暫らくしてから張儀も自らの道を歩み

     始めた。

      諸国遊説の旅に出かけて、楚の国に滞在していた。

      やがて楚の宰相の食客となっていたが、或る日、宰相主催の宴席に

     陪席した時、宰相自慢の玉が紛失するという事件が起こった。

      その嫌疑は、楚に滞在中の貧乏な食客で遊説家の張儀に寄せられた。

      張儀は捕えられて拷問を受ける羽目になったが、彼には身に覚えの

     ないことであり、あくまで無実を訴えて、ようやくにして釈放された。

      事ここに至り、張儀は痛む体を引きずって故郷に帰った。

      張儀の妻は言う、

      「嗚呼(ああ)、子(なんじ) 書を読み遊説すること無かりせば、

       焉(いずく)んぞこの辱を得んや」、
    と。

      張儀は遊説家であったが、金もコネもない貧乏な下士の出身であり、

     頼りになるのは己の舌先三寸だけであった。

      妻の説教に対して、張儀は口を大きく開けて曰く、

      「我が舌を見よ、なお在りや否や」と。

      妻は笑いながら、

      「舌 在るなり」と。

      張儀曰く、

      「足れり(それで十分だ)」と。

                     「史記 張儀列伝」

    テーマ : 中国古典・名言
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    中国通史で辿る名言・故事探訪(桂玉之艱)

     「桂玉之艱(けいぎょくのかん)

                         ◇ 戦国時代 ◇

      他国の物価高の中で生活することの難儀。

      転じて、物価の高い都会で苦学すること。

      蘇秦が合従策を引っ提げて、楚に行った時の事である。

      蘇秦は楚で三カ月経って、ようやく王に見える事が出来た。

      ところが蘇秦は王との雑談が終わると、楚を立ち去るべく挨拶をした。

      怪訝に思った楚王は聴く、

      「寡人は先生の噂を聞くと、まるで古の人であるように思って

     いました。

      その先生が今、千里の道を遠しとせず来られて寡人に会い

     ながら、 既にして帰国なさろうとする。

      願わくば、その理由を聞きたいものです」と。

      蘇秦は対えて言った。

      「楚国の食は、玉よりも貴(たか)く、

      薪(たきぎ)は珪(香木の金木犀)よりも貴し。


      謁者(取次の者)の見るを得難きこと鬼(霊魂)の如く、

     王の見(まみ)ゆるを得難きこと天帝の如し。

      今 臣をして玉を食(は)み、珪を炊(た)き、鬼に因って

     帝に見(まみ)え令(し)むるも、其れ得 可(べ)けんや」と。

      (=物価高の中で、苦学しながら王に謁見しようとしても、それは

       無理な話である。)

      王は言う、
     
      「先生、先ずは宿舎にお入りください。寡人、先生のお話を拝聴し

     ましょう」 と。
     
      蘇秦の揣摩の術は、孰れの国でもそれぞれの国力や地理条件を

     事細かく数え上げて、合縦の利を数字を挙げて説明した上で、

     それぞれの国内における連衡策を支持する者を売国奴と非難攻撃

     して、国王の心を掴んだ。

      連衡策とは、六国のそれぞれの国が各別に超大国の秦と横(東西)

     の同盟を結んで、国家の存立を保とうとする戦略。

                     「戦国策 楚・威王」

     

    テーマ : 慣用句・ことわざ・四字熟語辞典
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    中国通史で辿る名言・故事探訪(鶏口牛後)

     「鶏口牛後(けいこうぎゅうご)

                         ◇ 戦国時代 ◇

      「鶏口となるも牛後となるなかれ」とも。

      大きな組織の末端で仕えて軽んじられるより、むしろ小さな組織でも

     その頭となり重んじられる方が立派な選択であるとする比喩。

      喩え鶏のクチバシ(嘴)となっても、牛の尻にはなるべきではない

     の意。

     》 蘇秦、六国合縦策を掲げて遊説 《

      燕の文侯の説得に成功した蘇秦は、その後 愈々遊説に旅立った。

      文侯は、蘇秦に豪華な専用の馬車と従者を付け、黄金・絹布などを

     与えて大いに支援した。

      蘇秦は先ず趙に向かった。

      趙では先年、蘇秦の献策に反対した宰相・奉陽君が他界していて、

     蘇秦はこの時とばかりに趙王に取り入り、揣摩の術を発揮して

     六カ国合縦の利を説き、首尾よく王の同意を取り付けることに成功した。

      ※ 六カ国合縦策とは、戦国時代の主要な国 乃ち戦国七強と

       謂われた韓・魏・趙・斉・燕・楚及び秦の内、最強国の秦に敵対する

       ために他の六カ国が南北に、つまり縦に合わせて軍事同盟する戦略

       である。

      蘇秦は次に韓を訪れた。

      蘇秦は韓の宣惠王の説得に全力を尽くした。

      韓は就中、秦と国境を接しており、侵略の脅威は他国の比ではなかった

     のである。

      蘇秦は韓王に対して、韓の地勢と国力、その兵と武器の優秀さを改めて

     説き、韓王に自国の防衛意識を強く自覚させようとした。

      蘇秦は韓王に、武力に屈して秦に仕えることの愚を説き、秦に仕えて

     服従すれば、韓に対する要求は次第に際限が無く、次々と領土の割譲

     を迫られ、限りある韓の領土を以て、頭に乗り秦の限りなき要求に応え

     なければならないことを説いた。

      そして最後に念押しして言った、

      「此れ所謂、怨みを市(か)い禍を結ぶものなり。

       戦わずして地 既に削られん。

       臣、聞く鄙諺(ひげん。世俗の諺)に曰く、

      『寧ろ鶏口と為る牛後と為る無かれ』と。

      今 西面して臂(ひじ)を交えて、秦に臣従せば、

     何ぞ牛後と異ならんや。

      それ大王の賢を以って、彊韓(きょうかん)の兵を挟みて、而も牛後の

     名あるは、臣 密かに大王の為にこれを羞ず」と。

        ☞ 「西面する」とは、主たる者は東面して、客は西面すると

         謂うのが古来からの仕来りである。

          天子は南面し、臣下は北面すると謂う。

      (=今、儀礼上の形式として賓客として扱われても、その実 秦の意

       のままに従うのであれば、何ら牛後と為るのと異なりません。

        しかるに賢明な王様がいて、精強な韓の兵を擁していながら、

       従属を強いられるというのは、この臣、懼れながら大王の為に大いに

       愧ずるところであります。)

      蘇秦の合従策を説く揣摩の術は冴えわたり、遂に韓王も合縦に与する

     ことに同意した。

                     「史記 蘇秦伝」

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(百里の患いを憂えずして、)

     「百里の患いを憂えずして、千里の外を重んずるは、

         これよりも過あやま)てるものなし。」

                         ◇ 戦国時代 ◇

      近隣諸国の軍事的脅威を憂えないで、遠国からの軍事的脅威を重視

     することの戦略上の過ち。

      六国合従策を採る蘇秦の揣摩(しま)の術の一つ。

      多いに確信を得た蘇秦は、先ずはお膝元の周朝の顕王㉟に見えんと

     したが、王の側近は蘇秦のことを周知していたので、取り合おうとは

     しなかった。

      然らばと蘇秦は西方の秦に向かったが、秦では商鞅を刑死させた

     惠王㉖の時代であり、口舌の徒である遊説家を嫌っていたので、

     門前払いされた。

      そこで蘇秦は今度は、戦国最強の秦に対抗する方策 則ち

     「六国合従策」を引っ提げて東方諸国を経巡った。

      最初に趙に向かったが、粛侯⑥の弟で宰相の奉陽君に献策は阻止

     された。

      次に蘇秦は燕に行き、一年ほどしてようやく文侯㊱に見える機会が

     訪れた。

      蘇秦はここぞと、満を持して王を説き始めた。

      蘇秦は隣の趙と戦国最強と言われる秦の現状と、それまでの経緯を

     論じ、両国が直接に干戈を交えてきたので、燕は其の局外にあったから

     両国から侵攻を受けることが無かったのだと、その理由を説いた。

      そして引き続き、その上での仮の話として、弁を揮った。

      「若し秦が燕を攻めれば数千里の征旅となり、例え燕を攻略することが

     出来たとしても、それは一時的なもので占領をいつまでも続けることは

     出来ません。

      ところが趙が燕攻略に乗り出せば、十日もあれば、数十万の軍旅を集結

     でき、四、五日で攻略を果たす事が出来ましょう。

      斯くの如き状態は、言うなれば秦は千里の外に戦い、趙は百里の内に

     戦うという事になります。

      それは、百里の患いを憂えずして、千里の外を重んずるは、

     計(はかりごと)これよりも過てるものなし


     と言うものです。

      この故に、大王、趙と従親し、天下 一とならば、燕 必ず患い

     なからん」と。

      (=まずは隣国の趙と同盟し、次に秦を除いた他の四ヵ国

      【韓・魏・斉・楚】と合縦の盟約を結び、秦に当たれば燕の憂いは

     なくなりましょう。)

      遂に文侯は、納得して蘇秦に言った、

      「必ず合縦を成功させることが出来るなら、国を挙げて従おう」と。

                     「史記 蘇秦列伝」

     

    テーマ : 中国古典・名言
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    tyouseimaru

    Author:tyouseimaru
    出身地は四国八十八か所参りの発心の阿波、大阪を終の棲家とする。
    歴史好きで、城郭・神社仏閣・歴史遺跡巡りが趣味となる。
    歴史小説や時代小説を好み、往年の著名な時代小説の類は概ね完読と、自負している。

    自薦
    自著「中国通史で辿る名言・故事探訪」の 上・中・下の3巻を、 近い内に「電子書籍」での出版を予定しています。 今年一年間は、さらに工夫を加えるなどして、補記訂正などの校正を第一義としています。       
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