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    中国通史で辿る名言・故事探訪(皇帝を称し、朕という)

     「皇帝を称し、朕という」

                         ◇ 秦代 ◇

     》 秦の全国統一 《

      前221年、秦王政は戦国七雄であった最後の斉を滅ぼし、戦国時代

     に終止符を打った。

     》 秦王政の諮問 《

      六国を滅ぼして天下統一を果たした秦王政は、丞相及び御史大夫に

     命じた。

      「寡人、至らぬこの身を以て、兵を興し、暴乱を誅す。

      これは偏に宗廟の加護によるものであるが、六王ことごとく其の罪

     に伏し、天下大いに定まった。

      この際 名号(みょうごう)を改めなければ、その成功にそぐわない

     ばかりか、功を後世に伝えることも出来ない。

      そこで、先ず帝号を議せよ」と。

      これは、天下統一という新事態に相応しい「王」に代わる新しい名称を

     考えよ、ということである。

      この諮問に応えて、丞相の王綰(おうわん)、御史大夫の馮劫

     (ふうきょう)、廷尉の李斯がそろって答申した。

      ※ 丞相王綰については不明の人物であり、

       盧綰の間違いとの説もある。

      昔、五帝が支配していたのは、千里四方の地、ところが今や陛下は、

     天下全体を郡県として直接統治する所となりました。

      これは史上初めてのことであり、かの五帝の及ぶところでは

     ありません。

      そこで、学者とも相談したところ、太古には天皇・地皇・泰皇があり、

     「泰皇」が最も貴い存在であったとの事です。

      ついては今後は、王を「泰皇」に変更し、王命を「(政令)」に、

     王令を「」とし、天子の自称を「(ちん)」と為されては如何かと

     存じます」と。

      秦王は言う、

      「では、泰皇の『皇』と上古の帝の『帝』を合せて、「皇帝」とする。

      さらに大昔には王の号はあったが、諡号(しごう)というものは無かった

     そうではないか。

      後には、死後 その者の行いによって諡を贈るという制度が出来たが、

     これは父を評し、臣下が君主を評価するものであり、

     甚だ謂(いわ)れなし。

      今後は、こうした制度は廃止する。

      朕は始めの皇帝であるから「始皇帝」とし、以後は 二世、三世として

     万世に及ぶものとする」と決定した。

                     「史記 秦始皇本紀」

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    テーマ : 中国古典・名言
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    中国通史で辿る名言・故事探訪(人の賢不肖は譬えば鼠の如く、)

     「人の賢不肖は譬えば鼠の如く、

         自ら居る処に在るのみ」


                         ◇ 戦国時代 ◇

      人の才能や人格に対する社会的な評価は、結局 鼠のようなもので、

     其の身を何処に置くかによって、その人間の価値が決まるものである。

      頭の良し悪しは別にしても、人の賢不肖というものは、人の因って立つ

     ところの影響が極めて大きいという李斯の認識と自覚である。

      秦王政の幕吏として活躍した李斯は、郷里の楚で小役人をしていた頃、

     偶々 二種類の鼠を観察して、大いに自得するところがあった。

      吏舎廁中(しちゅう)の鼠、不潔を食らい、人犬の近づくや、

     しばしば之に驚愕するを見る。

      (=役所の便所の鼠は、いつも汚物を喰らいながら生きており、

       人や犬が近づこうものなら、しばしば身の危険に曝されて、

       ビクビクしながら生きているのを見た。)

      斯(李斯) 倉に入るに、倉中の鼠 積粟を食らい、大廡(だいぶ)の下

     に居りて、人犬の憂いを見ざるを観る。

      (=李斯が次に米倉に入ってみると、倉に棲みついた鼠は、山と積み

       上げられた粟を腹いっぱい喰らい、巨大な庇の中(倉の中)にいて、

       人や犬に怯えることも無くぬくぬくと生きているのを見た。)

      李斯は思わず嘆息して、自らに語るに、

      「人の賢不肖は譬えば鼠の如く、自ら居る処に在るのみ」と。

      李斯はそれから一念発起して、役人を辞して荀子の門で学んだ。

      同門には、韓の公子・韓非子がいた。

      李斯はその後 学を終えてから秦へ赴き、呂不韋の食客となり知遇を

     受ける。

                     「史記 李斯列伝」

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(王 剣を背に)

     「王、剣を背に‥ ‥」

                         ◇ 戦国時代 ◇

      秦王政が刺客荊軻に詰め寄られて危機一髪の時に、咄嗟に側近から

     発せられた救いの言葉。

     》 荊軻、秦王に見える 《

      前227年、荊軻等は秦の都・咸陽に至ると、先ず中庶子(侍従職)の

     蒙嘉という秦王の寵臣に千金を贈り、秦王への取次ぎを依頼した。

      やがて、蒙嘉の取次ぎが功を奏して、咸陽宮で引見されることになった。

      荊軻は刺客補助者たる秦舞陽と共に参上し、秦のお尋ね者・樊於期の

     首と燕の 割譲予定の督亢(とくごう)を御前に直々に披露して献上したい、

     と願い出て、首尾よく秦王の間近に近づくことが出来た。

      ところがほんの一瞬であるが、従者に仕立てた秦舞陽が極度の緊張と

     恐怖感から来る身震いして不審を持たれそうになったが、荊軻の機知に

     富んだ釈明でその場は 何とか難を逃れることが出来た。

      そして荊軻は、愈々親しく引見された場で、督亢の地図を秦王に広げて

     見せようとして近づき、督亢の中に巻き込んで隠していた毒を塗布した

     匕首を右手で密かにさっと抜き出した。

      その一瞬のスキを捉えて、左手で秦王の袖を掴み、右手の匕首を突き

     出したが、当に間一髪のところで秦王は身を反らして退いた。

      荊軻の手には、ちぎれた秦王の袖だけが残った。

      荊軻は、逃げる秦王を追い詰めようと迫った。

      立って逃げる秦王は、腰に佩する長剣を抜こうとしたが、長すぎて咄嗟に

     は抜けず、柱を目当てにして逃げ回った。

      ※ 長剣は、背負うと抜刀しやすいと言われる。

        鞘を片方の手で下に引き下げ、同時に胸を反らして利き手で

       反動を利用して弧を描くようにして抜刀するのが要領である。

      この急場に、秦王の側近や臣下は、王を助けようにも殿中なので武器

     は一切携帯しておらず、うろたえるばかりであった。

      だがその内、侍医の夏無且(かぶしょ)が、荊軻めがけて薬嚢を投げ

     つけた。

      次に我に返った臣下の一人が、

      「王、剣を背に‥ ‥」と絶叫したので、
     
      ようやく秦王も剣を抜くことが出来て、詰め寄る荊軻に反撃して斬り

     かかった。

      荊軻の左股から鮮血がほとばしった。

      荊軻は無念やるかたなく、咄嗟に匕首を秦王めがけて投げつけたが、

     狙いはわずかに外れて、柱に当たった。

      攻守は逆転し、手に得物の無い荊軻は八か所の傷を受け、最早 

     これまでと覚悟し、「生かしておいて、其の口から大子に詫びさせようと

    したのが不覚の本であった」と叫んだが、その直後に、王の護衛に駆けつけ

    て来た近衛兵に止めを刺された。

                     「史記 刺客列伝・荊軻」

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(壮士ひとたび去ってまた還らず)

     「壮士ひとたび去ってまた還(かえ)らず」

                         ◇ 戦国時代 ◇

      過酷な任務を負った壮士が一度 国を去ると、もはや再び帰還するを

     得ないという、悲壮な情景を詠った詩句。

      戦国時代末期の前227年、荊軻(けいか)は燕の大子・丹の宿願である

     秦王政への復讐を請け負った。即ち刺客を買って出たのである。

      愈々 荊軻らが旅立ちの日、その門出には大子丹を始め、事情を知る

     僅かばかりの賓客たちが白装束に身を固めて、易水の上(ほとり。畔)に

     祖道した。

      つまり見送る者皆も決死の思いで以って道祖神に祈り、壮行の途に

     就こうとする荊軻等の任務の完遂を祈った。

        ☞ 祖道とは、道祖神を祀って旅立つ人の道中の無事を

         祈ること。

          また、宴を設けて旅立つ人を送ること。

      そして最後の別れに、荊軻の親友の高漸離(こうぜんり)の奏でる筑の音

     に合わせて、悲壮な声調で歌った。

         風は蕭々として易水 寒し

         壮士ひとたび去って また還らず

        ※ 易水は燕の国都・薊(現北京)の南方にあって、その下流で

         河水(黄河)に合流して渤海に注ぐ。

          蕭々とは、風雨などの物寂しい様。

      人々の眼は怒りに燃え、髪は逆立ち冠も突き上げんばかりであった。

      遂に荊軻は車に乗った。そして二度と振り返る事は無かった。 

       この荊軻を送る歌は、後の南北朝時代の南朝・梁の昭明太子が

      「文選」を撰修した際に、「歌一首 荊軻」として採録する。

                     「史記 刺客列伝・荊軻」

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(傍若無人)

     「傍若無人(ぼうじゃくぶじん)

                       ◇ 戦国時代 ◇

      「傍らに人無きが若(ごと)し」と訓読。

      人目を憚らない打ち解けた様子。

      転じて、人の迷惑を考えない無作法な仕打ちをいう。

      戦国時代、燕に寄寓する荊軻(けいか)は、元は衛の人とも斉の人とも

     言われる。

      荊卿(慶卿)とも別称されることがある。

      荊軻は燕に於いて、筑の巧みな高漸離(こうぜんり)と知り合いに

     なった。

      彼らは酒を大いに好み、毎日のように酒場に通い、気分が高揚すると

     市中であろうが、どこであろうが、彼らには人無きが如く高漸離の筑に

     合わせて歌い、楽しみ、やがて感極まると人目をも憚らずに涙を流して

     泣き合った。

      だが荊軻は一方では有徳者、賢者とも交友があり、燕では高徳で尊敬

     されていた田光先生と交誼を重ねた。

                     「史記 刺客列伝・荊軻」

      ☆ 「傍若無人」の成語の出典は、史記のこの伝による。

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(右手に円を画き、)

     「右手に円を画(えが)き、左手に方を画かば、

      (ふた)つながら成ること能わず」 

                         ◇ 戦国時代 ◇

      右の手で円を画き、左の手では四角を画こうとしても、どちらの手だても

     成しえるものではない。

      即ち何事をするにしても、心を二つにしては一つのことも成しえない。

      転じて、一度に様々なことの出来る優れた才能をいう事もある。

      君主たる者の患(うれ)いに、自分の呼びかけに的確に応ずる者が

     いないと言うことがある。

      だから片手だけで拍ったのでは、どんなに強いといっても音は出ない、

     と言われるのだ。

      また人臣たる者の患いに、一つの職務に専念できないと言う事がある。

      故に曰く、

      「右手に円を画き、左手に方を画く。両つながら成ること能わず、と。

      そこで、能く治まった国では、君主は桴(ばち。撥)の如く、臣下は

     それに応ずる太鼓の如くであり、技能は車の如く、仕事は繋がれた馬の

     如くである」、と。

                     「韓非子 孤憤篇」

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(犬猛酒酸)

     「犬猛酒酸」

                         ◇ 戦国時代 ◇

      「犬猛々しくて 酒 酸(いた)む」と訓読する。

      姦臣を重用すれば、国が衰えることの例え。

      酒屋が店先で猛犬を飼っていたばかりに酒が売れなくなり、甕の酒は

     酸っぱくなって売り物にならなくなった。

      昔、宋という国に、荘子と呼ばれる造り酒屋があった。

      その店で売る酒は美味く、量り方も公正で、且つ客の扱いも至って丁寧

     であったので繁盛していた。

      だがいつの頃からか急に、酒が売れなくなってしまった。

      荘子はあれこれ考えた末に、看板を大きくしたり、幟(のぼり)を高く

     掲げたりしたが、それでも売れなかった。

      其の内 大きな甕に貯蔵された美酒は、遂に酸敗してしまった。

      荘子は酒が売れない理由を猶も考え続けたが分からず、思い余って

     邑里の長の楊倩(ようせん)に相談した。

      楊倩は言った、

      「汝の家で飼っていた子犬が大きくなって、猛々しくなったからだよ」、

     と。

      だが荘子はその理由が分からず、

      「なぜ犬が猛々しくなると、酒が売れなくなるのですか」と聞き返した。

      「決まった事だよ。人が猛々しい犬を恐れるからだ。

      男連中は仕事が忙しいので、子供や下女に買いに行かせるだろう。

      だが女子供は吠えたり唸る獰猛な犬を恐れて、他の店に買いに行く

     だろうよ。

      すると酒は売れなくなり、売れなければ酒は酸っぱくなると言うものだ。

      そうなると、今度は大人も、道行く人も誰も、買わなくなるだろう。

      原因は犬だよ、猛犬に尽きるね」と。

      韓非子は言う、

      「ところで話は変わるが、朝廷にも荘子の酒屋のような猛犬が

     いるものだ。


      遊説有道の士、つまり治国の道に明るい士が、懐に治世の術を懐いて、

     万乗の国の主に授けようと国を訪れ、さて朝廷に足を踏み入れようとする。

      すると決まって、外にあっては君主の権勢を笠に着て利益を収奪し、

     内にあっては比周して悪事を覆い隠すような社鼠の臣(姦臣をいう)、

     所謂 大臣と言う猛犬に出くわし、往々にして噛みつかれることがある」

     と。

      大事に飼っていた犬を殺すには、苦しい決断がいる。

      寵臣を排除するのは辛いものだ。

      だが猛犬を殺し、社鼠を退治しなければ、政治は廃り国を保つことは

     出来ない。

      故に、

      「犬猛々しくして酒酸む」は、君主たる者の守るべき治世の心得である。

                    「韓非子 内儲説」

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(螻蟻潰堤)

     「螻蟻潰堤(ろうぎかいてい)

                         ◇ 戦国時代 ◇

      大事も極めてわずかな事から敗れ、難事もちょっとした油断から潰える

     ことの例え。

      ケラやアリのような微小なものが、堤防を決壊させるの意。

      螻蟻は、ケラとアリ。取るに足りない物の例え。

         ☞ ケラは東アジア、東南アジアにおいて土中や水辺に

          生息する昆虫。

           前足で地中にトンネルを掘って棲みつき、親水性の皮膚を

          持つので泳ぎも上手い。

      有形の類(形ある物)は、大は必ず小より起こる。

      恒久の物(年季を経た物)は、族(衆多)は必ず少より起こる。

      故に(老子は)曰く、

      天下の難事は必ず易(い)より作(お)こり、

      天下の大事は必ず細より作こる、と。 

      是(ここ)を以って物を制せんと欲する者は、その細(小さい内に)に

     於いてするなり。

      故に曰く、

      難を其の易に図り、大を其の細に為す、と。

      (=そこで、難しい事はそれが易しい内によく考えて、大きな事は

       それが小さい内に、それぞれ上手く処理するものなのだ。)

      千丈の堤も螻蟻の穴を以て潰え、

      百尺の室も突隙の熛(ひょう)を以て焼かる。


      (=長大堅固な堤防でも、小さなケラやアリなどの穴から水が洩れ

       出して崩壊することもあれば、また広大な邸宅も煙突の煙出し

       のような小さな隙間から出る飛び火が原因となり、焼失したりする

       ことがある。)

      故に白圭の堤を行(めぐ)るや其の穴を塞ぎ、丈人の火を慎(しず)む

     や其の隙を塗る。

      (=だから治水の名人の白圭が堤防を点検して周る時には、小さな穴

       でも先ず塞いで補強し、老人が火災を用心する時には、煙突の隙間

       や割れ目を無くするように土を塗り込んだ。)

      是(ここ)を以て白圭に水難無く、丈人に火患無し。

        ※ 白圭は、戦国時代の魏の惠王に仕えた治水工事の名匠。

          丈人は、杖をひく人の意で、老人のこと。

      これ皆 易を慎みて以て難を避け、

     細を敬(つつし)みて以って大に遠ざかる
    ものなり。

      (=このような事は全て易しいことを慎重に行って、よって大きな困難を

       避けようとするものであり、小さな事を慎重に取り扱って、由って重大

       な事態を引き起こさないようにするもの。)

                     「韓非子 喩老篇」

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(守株待兎)

     「守株待兎(しゅしゅたいと)

                         ◇ 戦国時代 ◇

      「株を守りて兎を待つ」とも言う。

      偶然の幸運を当てにする愚かな行為。

      転じて、古い(昔の)やり方や仕来りに拘泥して融通が利かず、

     新しい事態(時代)に即応できない愚かさをいう。

      昔、宋の国に農夫がいて、その農夫の田には大きな木の切り株があった。

      或る日、農夫が畑仕事をしている時、兎が跳んで来て、勢い余って

     その切り株に突き当たり、首の骨を折って昏倒するという場面に遭遇した。

      そのお蔭で、農夫は労せずして獲物を手にするという幸運に恵まれた。

      この無為による幸運の経験が災いして、農夫は来る日も来る日も、

     切り株近くで兎がかかるまで、その果報を待つという習性が出来て

     しまった。

      しかし兎は二度とかからず、農夫の身は国中の笑いものとなり、

     このような成語が生まれた。

      有史以前の有巣氏、燧人氏、夏后氏(夏の禹王)、后稷氏(周の武王)

     は何れも聖王と謂われた賢君であった。

      そして それぞれの要望を担い、且つその要望に応える功績を残して

     きた。

      しかし当然のことながら、時代が変われば要望も異なり、果たす役割も

     違ってくるものである。

      だから、今まさに夏后氏の世だとすると、誰が有巣氏の巣の生活や

     燧人氏の火食を教えようか。禹や鯀(崇伯)に笑われるのは必定である。

      同様に、殷・周の世に河を決壊する者がいれば、湯(殷の湯王)・

     武(周の武王)に笑われるのは必定である。

      然らば則ち、今 堯・舜・禹・湯・武の道を当今の世に美(善)と

     する者有らば、必ず新聖に笑われん。

      新しい時代の聖人賢者は、修古(古代の道を倣い修めること)を

     期することなく、古代の常道(古今に通ずる則)に則らず、今の世の

     現実を論じて、その対策を立てるべきである。

      この寓話は、韓非が秦王政に招かれて説いた際のものであり、

      要は秦が先王以来の政治を踏襲して、そのまま現在の人民を

     統治しようとするのは、この農夫の愚行と何ら変わる所は無ない、

     と説いたのである。


                     「韓非子 五蠧篇(ごとへん)」

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(毛嬙・西施の美を善すとも、)

     「毛嬙・西施の美を善(よみ)すとも、

      我が面(おもて)に益無し」

                         ◇ 戦国時代 ◇

      古代の代表的美人として知られる毛嬙(もうしょう)や西施(せいし)を

     いくら美しいと誉め称えたところで、自分の顔が美しくなる訳ではない。

      今 或る人が然る人に、「汝をして賢にして寿ならしめん」と言った

     とする。

      すると世間の人は、或る人を必ず、戯(たわ)けと思うだろう。

      賢や寿は天性のものであり、天命に拠るものである。

      人に学んで得られるものではないからである。

      同様に、言っても出来ないような事は悟るしかないが、悟ることも

     実は天性である。

      従って、儒学の徒が君侯に道を説くに「仁義」を教えるのは、まさしく

     「智」や「寿「を説くのと同じ事である。賢明な君侯の受け入れられる事

     ではない。

      故に、毛嬙・西施の美を善すとも、我が面に益無し。

      脂沢粉黛(したくふんたい)を用うれば、則ちその初に倍す。

      (=だが、鏡に向かって脂(口紅)や沢(髪の艶出し)、白粉や黛を上手

       に使って化粧すれば、必ずやもと(素)に倍する美しさを得よう。)

      先王の仁義を言い立てても、治世に益する所は無いのである。

      だから国があるべき法度を明らかにして、賞罰を確実に執行する

     ことが、謂わば、国が脂沢粉黛を使うことになるのである。

      その際に必要な事は、その脂沢粉黛の援けを借りることであって、

     美人の美しさや先王の徳を頌歌(しょうか。歌で誉め称えること)すること

     ではない。

      また巫女は、人を祝福して、“千秋万歳の寿を賜われ”と祈祷する。

      しかし、千秋万歳の声は喧(かまびす)しいが、一日たりとも人の寿を

     延ばしたという証拠はない。

      それで人は、次第に巫女を疎かにするようになった。

      然るに、今の儒学の徒は君侯に語るに、現下の政情を語らず、ただに

     悪いと決めつけて過去の治世を語り、ひたすら先王を称賛するのである。

      そうしておいて、言葉を飾って我が言を聞かば覇王になれようと言って、

     己を売り込もうとする。

      これなど、まさしく巫女の言葉そのものではないか。

      故に明主は、事実(事実関係)を挙げて無用(な物事)を去るのである。

                     「韓非子 顯学」

     

    テーマ : 中国古典・名言
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    中国通史で辿る名言・故事探訪(明主の臣を制するものは、)

     「明主の臣を制するものは、二柄のみ」

                        ◇ 戦国時代 ◇

      賢明な君主の臣下を統御する拠り所は、二つの権柄に在る。

      柄とは権柄のことで、「刑」と「徳」を謂う。

      刑とは処罰して殺戮すること、徳とは称揚して賞を与えることである。

      人臣たる者は、本来は誅罰を畏れて慶賞を喜ぶものである。

      だから君主たる者は、自らその刑徳を厳正に執行すれば、群臣は其の

     威を畏れて、自ずと褒賞の利益へと向うものである。

      ところが、世の所謂 邪悪な臣下はそうではない。

      自分の嫌悪する者がいると、君主の刑罰権を上手くかすめ取って処罰し、

     逆に自分の気に入った者には、君主の慶賞の権を上手く手中にして賞誉

     する。

      今 人主、賞罰の威利をして己より出ださしむるに非ず、

      (=今という時に、君たる者が慶賞刑罰と言う利器を、自ら判断して

       行使することをしない。)

      その臣に聞いて其の賞罰を行わば、則ち一国の人、皆 その臣を

     畏れてその君を易(あなど)り、其の臣に帰して其の君を去らん。

      此れ 人主、刑と徳を失うの患(うれ)いなり。

                     「韓非子 二柄」

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(毋望之人)

     「毋望之人(ぶぼうのひと)

                         ◇ 戦国時代 ◇

      思いがけない(思わざる)助っ人のこと。

      困難に陥った時、求めなくても助けに来てくれる人の意。

        ☞ 毋望とは、望まないの意で、思いがけないと言う事。

          毋(ぶ)の字義は、なかれの意。動詞の前に置かれて、

         禁止・否定を意味する。

     》 楚の春申君の最後 《   前237年

      春申君が楚の考烈王の下で宰相となってから二十五年、考烈王が病に

     倒れた。

      その時、春申君の食客・朱英が進言した。

      「世に毋望の福あり、また毋望の禍ありと申します。

      ご主君は今、いつ思いがけない事が起こるかも知れない世に処し、

     頼みにならぬ君侯にお仕えしておられます。

      そんな時にこそ、あなたの為に毋望之人を用いるべきです」と。

      かく言うには、それなりの訳があったのである。

      考烈王自身は知らないが、王には子種が無かった。

      幼いながら大子となっている子は、実は春申君の実子であったが、

     その秘密を知る者は限られていた。

      大子の実母は李園の妹であり、彼女は春申君の愛妾であった。

      ところが李園は妹が身籠ると春申君を丸め込んで、妹を考烈王の内宮に

     送り込んだのである。

      その甲斐あって、李園は考烈王に重用されるようになった。

      その内 李園はその秘密が春申君の口から洩れるのを畏れて、

     春申君殺害の機会を窺っていた。

      朱英は尚も春申君を説得した。

      毋望の福とは、考烈王亡き後、大子を補佐して周公の働きをするか、

     或いは自立して楚王になることです。

      毋望の禍とは、李園の手にかかることです。

      そして毋望の働きをする人物とは、この朱英自身のことです、と。

      だが春申君はこの朱英の進言を一笑に付したが、果たして

     その十七日後、考烈王は崩じ、春申君も李園の手の者にかかり殺された。

                     「史記 春申君列伝」

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(泰山は土壌を譲らず、)

     「泰山は土壌を譲らず、故によくその大を成す」

                         ◇ 戦国時代 ◇

      君主たる者は、様々な異なった人物を併せて包容するだけの度量が

      無ければ、大事業を達成できるものではない、と言う例え。

      中国の名峰五嶽(岳)の一つである泰山(東嶽、或いは終南山とも)は、

     古来 如何なる塵芥や土石をも排斥することなく、自然の内に堆積して

     きたので、その高山たるを維持形成することが出来たのだと言う、

     李斯の上申書の一節である。

      歴代王朝のそれぞれの優れた天子は、即位した後、自らの善政を天帝

     に報告するために天地を祀る儀式(封禅の儀)を執り行った。

      泰山は、その天地を祀る儀式の行われる最大の名峰である。

     》 鄭国渠と逐客令 《   前237年

      韓の水利技術者である鄭国は、韓王の内命を受けて、間諜として秦へ

     送り込まれた。

      秦の侵略に喘ぐ韓では、当に亡国の危機に瀕していたので、その打開策

     として秦に大規模土木工事を持ちかけ、灌漑用水路の技術者として名高い

     鄭国を派遣した。

      かくして秦は大規模灌漑用水路の工事に着手し、鄭国を工事責任者に

     任用した。

      ところが工事の最中に、鄭国の間諜としての役目が発覚した。

      当に鄭国は罪死する所であったが、この灌漑用水路の建設は秦には

     如何に重要であるかを説き続けた。

      国益優先策を採る秦王は、遂に鄭国の罪を許し、工事を続行させ完成

     にこぎつけた。

      用水路の完成により、関中は塩の吹く不毛の地から沃野と化し、凶年の

     年が無くなったのである。秦の国力は大いに増大することとなった。

      秦はこの用水路を、鄭国渠と名付けた。

      先に鄭国が間諜であることが発覚するや、王族や旧来の重臣連中は、

     一斉に次の如く上奏した。

      「諸侯の人で来たりて秦に事(つか)える者は、大抵その主の為に

     秦に遊間するのみ。請う、一切 客を逐わん
    」と。

      他国出身者は秦に仕えても、その目的は自国の君主の為に便宜で

     仕えているに過ぎず、一時的な滞在に過ぎない。

      従ってこの際、他国者は全て逐客すべし」、と。

     》 李斯の上申書 《 

      李斯は楚国の出身であり、秦にとっては他国者である。

      外国人である李斯にしてみれば、ようやく築いた地位から孰れは追放

     の憂き目に遭うことは必定であり、必死に秦王に反論の上申をした。

      「泰山は土壌を譲らず、故によくその大を成し、河海(黄河や北海)は

     細流を択(えら)ばず、故によくその深を成し、王者は衆庶(多くの人)を

     斥けず、故によくその徳を明らかにす。」と前置きして、

      「然るに今回の方針は他国者であると言うだけで、有為の人材まで

     追放しようとしている。これでは人材をみすみす他国に追いやるばかりか、

     今後 天下の人材が秦に来る道を閉ざしてしまうことになる。

      これこそまさしく、(こう)に兵を藉(か)して、

     盗に糧(かて)を齎(もたら)すものなり。
     

     (=寇讎、乃ち仇や敵に武器を貸してやり、盗賊に食糧を与えてやる

       ものなり。

       ※ 誤った策で、味方を不利にすることを訴えている。

      それ物、秦に産せざれども、宝とすべき物 多く、

      士、秦に産せざれども、忠を願う者 衆(おお)し。

      今 客を逐(お)いて以って敵国を資(たす)け、

      民を損ないて以て讎(あだ)を増し、

      内は自ら虚にして、外は怨みを諸侯に樹(か)う。

      国の危うきこと無きを求むとも、得べからざるり」と。

      この上申により、秦王は直ちにその「逐客令」を廃案にしたと言われる。

                     「史記 河渠書」、「史記 李斯列伝」

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(一字千金)

     「一字千金」

                            ◇ 戦国時代 ◇

      極めて貴重な文献のこと、或いは価値ある優れた詩文をいう。

      戦国時代末期、秦の相国(しょうこく)・呂不韋は、戦国時代に多くの

     食客を抱えて名声を馳せた孟嘗君らの戦国四君に倣い、自らも食客

     三千人を擁した。

      そして彼らの内から賓客を選び、その英知を絞って天地万物・古今の

     事績を網羅する歴史や思想を、所謂 万般書とも言うべき「呂氏春秋」

     全二十六巻を編纂させた。

      呂不韋はその出来栄えに自己満足して、呂氏春秋に、一字でも追加

     したり削除したり出来る者には、褒美として千金を与えんと、自慢した。

      呂氏春秋は別名「呂覧」とも言われ、当時の諸々の思想を網羅したと

     言われるが、道家思想の影響の強い書である。

      諸子百家では、雑家に属する。

      書の構成は、主たる十二紀と八覧・六論から成る。

      十二紀は、一年を春夏秋冬の四季に分け、さらにそれぞれを孟・仲・季

     の三旬に分けて論じられるので、「呂氏春秋」と名付けられる。

      また八覧を中心として見れば、「呂覧」と別称する。

      八覧は、有始覧・孝行覧・慎大覧・先識覧・審分覧・審応覧・離俗覧・

     恃君覧に類別される。

      六論は、開春論・慎行論・貴直論・不苟論・似順論・士容論に類別され

     る。

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(呑舟之魚)

     「呑舟之魚(どんしゅうのうお)

                         ◇ 戦国時代 ◇

      舟を丸呑みするほどの大きな魚。

      転じて、優れた大人物のこと。

      
     》 魏・信陵君の末路 《

      魏の信陵君は、二度にわたって秦の攻略を防ぐ大活躍をしたが、

     前247年の河外の戦い(秦対魏・趙・燕・韓・楚の連合軍)の後、秦は

     魏に間諜を放ち、難敵となった信陵君の追い落としを謀った。

      魏の安釐王は、信陵君の名声が日ごと高まるのを快しとしていなかった

     事もあり、間諜の中傷誹謗を真に受けるようになった。

      王に疑われるようになった信陵君は、自ら野に下った。

      そして以来四年間、酒と女に耽溺して、前244年に病死した

     と言われる。

      だが奇しくも、同年に安釐王も信陵君を追うようにしてこの世を去った。

      秦は信陵君の死を知ると、躊躇することなく侵略を開始し、

     城邑二十を奪い、これを東郡に編入した。

     ☆ 「荘子 内篇・庚桑楚」

      「呑舟之魚も蕩(とう)して水を失えば、

       螻蟻(ろうぎ)に制せらるるは、その居を離るればなり。」


      舟を呑みこむほどの大きな魚でも、一旦 水を失えば、ケラや蟻の

     ような微小な者にもその自由を抑えられるのは、その住処を離れるから

     である。

      暗に賢者といえども、その地位を失えば、つまらない者にも辱められる

     事をいう。

        ☞ 蕩してとは、しまりなく溢れるの意。

          螻蟻の螻は、ケラ(微小な虫の名)で、螻蟻はつまらない者

         の例え。

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(人に鑒する者は、)

     「人に鑒(かがみ)する者は、吉と凶を知る」

                         ◇ 戦国時代 ◇

      歴史上の先人の運命の前例・結末を今に照らし合せて考えてみれば、

     自分の将来の吉凶禍福が分かるものである。

     》 説客・蔡沢、秦の宰相范雎に辞任を勧告す 《

      或る日、野望に燃える燕の説客・蔡沢が、今や全盛期にあった秦の

     宰相・范雎の下を訪れた。

      范雎は蔡沢の弁才を認めて、そのまま説客として遇した。

      その内、今や何かと心配事が多く、范雎に当に亢竜の悔いがあると見て、

     蔡沢は范雎に忠告をした。

      「(太陽) 中すれば則ち昃(かたむ)き 、月 盈(み)つれば則ち

     食(か)く。

      物 盛んなれば則ち衰う。天地の常数なり。


      (=太陽が中天に昇った思うと次第に西に傾き、月が満ちたと思うと

       やがては徐々に欠けてゆく。

        このように物が盛んになれば、次には衰えるという理は、天然自然

       の現象である。)

      貴方はこれまで秦の為に功業を極めました。

      だがここで古を顧みますと、大功を立てながら悲惨な最期を遂げた商鞅

     (公孫鞅)や白起、また楚の悼王に仕えた呉起、越王勾践に仕えた

     大夫・文種らの幾多の先例がございます。

      昔からの言葉に、次のような自省の言葉があります。

      【水に鑒する者は面(おもて)の容(かたち)を見て、

     人に鑒する者は吉と凶を知る
    】と。

      今や、公も凶を去り吉を知らねばなりません」と説得した。

      暗に宰相の辞任を促したのである。

                     「史記 范雎・蔡沢列伝」

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(我 天に何の罪ありてか、)

     「我 天に何の罪ありてか、此(ここ)に至る」

                         ◇ 戦国時代 ◇

      死に臨んでの、秦の名将・白起のこの世に対する恨み節。

      前257年(秦の昭王50年)、白起が杜郵で自裁した。

     》 邯鄲包囲戦の結末 《

      秦軍は趙都・邯鄲を包囲して攻勢をかけていたが、やがて趙を救援

     する魏と楚の救援軍が参戦した。

      それまで趙都攻略まであと一息という時に、趙救援軍が駆けつけたので、

     秦軍の総司令官・王齕は不安を覚えて、昭王の元に増援要請の急使を

     派遣した。

      だが救援軍の軍事行動は迅速で、猛反撃が始まった。

      その内 疲弊と戦意の衰えかけた秦軍は包囲を持続できず、剰え邯鄲

     城中から平原君の率いる決死隊の猛攻を受ける羽目になった。

      王齕は堪らず兵を纏めて引き揚げたが、急派されてきた鄭安平の増援

     軍は魏・楚の救援軍に完全包囲され、二万の秦兵は投降した。

      さらに汾城まで逃れた秦軍は、魏楚連合軍に追撃され、敗北を重ね

     ながら黄河の西まで撤兵した。

      秦は、この戦いで河東の占領地をすべて失ってしまった。

     》 白起、杜郵に死す 《

      邯鄲包囲戦で秦軍が苦境に立つとの報は、野に下っていた白起の

     耳にも届いた。 

      白起は自問して言う、

      「秦、臣の計を聞かず。今 如何」と。

      その言葉を聞き知った昭王は、怒り、強いて白起を戦場に立たせよう

     とした。

      だが白起は、「遂に病 篤し」と称するが、昭王はそれを信ぜず、范雎を

     使者に立てて懇請させた。だが白起は、立とうとはしなかった。

      事ここに至り、白起は武安君を免じられ、一兵卒に落され、隠密裏に

     遷されることになった。だが病のため移住は、延び延びになっていた。

      それからも趙救援の連合軍の反撃は日ごとに激しさを増し、反戦を

     唱える白起をそのまま咸陽に留めておくのは不都合として、昭王は即刻

     の移住を厳命した。

      白起が杜郵という邑に着いた時、昭王は范雎らと相談して、使者を

     遣わして白起に剣を下賜した。

      白起は其の剣を抜き、呟いた。

      「我、天に何の罪ありてか此に至る」と。

      そして、やや久しくして、

      「私はもとより死すべき人間だ。

      長平で投降してきた趙兵 数十万を偽って阬殺したのだから、

     死ぬのは当然だ
    」と。

                     「史記 白起列伝」

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(侯嬴一言を重んず)

     「侯嬴(こうえい) 一言を重んず」

                         ◇ 戦国時代 ◇

      隠士たる者の約束を遵守することに頑なな心意気の例え。

      魏懲(唐初の人)の「述懐」という詩賦の

      「季布に二諾なく、侯嬴 一言を重んず」より。

    》 魏・信陵君の兵符詐取と隠士・侯嬴 《 

      侯嬴は魏都・大梁の門番をしていたが、時に七十歳を過ぎても名声の

     高い隠士であった。

      魏の公子である信陵君は人望も厚く、多くの国からその名を慕って来た

     食客数千人も抱えていたが、侯嬴の名声を聞き及ぶや、辞を低くして彼を

     上客として迎え遇していた。

      それから幾年か経ち、魏の友好国・趙が秦に攻められ危難に陥った

     ので、魏王は援軍を派遣した。

      だが敵の秦軍は戦国最強であったので、魏王は名目だけの援軍として、

     前線の将軍晋鄙(しんぴ)には、秦軍の動向に気を配り、迎撃は控える

     ように指示していた。

      と言うのも、秦王から趙に手出しは無用との、牽制の使者の来訪が

     あったからである。

      趙の平原君からは、次々と使者がやって来て、信陵君に矢の催促

     をした。

      この前線の動きを知った信陵君は王に願い出て、自分の配下の者だけ

     を引き連れて前線に赴こうとしたが許されなかった。

      信陵君の姉は、趙の平原君の妻である。義に於いても趙を救援したい

     と思ったが、如何せん戦線の軍を動かすには、王の手元にある兵符が

     必要であった。

       ※ 兵符とは、戦に於いて軍を指揮命令するに必要な割符であり、

        銅や玉などで作り、これを二つに分割して、一方を王が他方を

        出陣する将軍が持ち、戦陣の大将に対して王からの命令を

        伝える時の証拠とした。

      だが魏王が、其れを許すはずも無かった。

      思い余った信陵君は、遂に決断した、“義は王命よりも重し”と。

      かくして手勢を率いての出動に取り掛かった。

      この信陵君の窮地を知った侯嬴は、かねての信陵君の厚誼に報いる

     ため、信陵君に兵符詐取の策を授けた。

      侯嬴は人を遠ざけて、

      「晋鄙の持つ兵符の一方は、何時も王の寝室に置いてあるとのこと。

      王の寵愛の深い如姫なら、王の寝室に自由に出入りできるはずです。

      聞けば、如姫は父親が殺されて三年も仇を探し求めたが、未だその

     手掛かりさえ掴めなかったので、如姫がその事を公子(あなた)に涙ながら

     語ったところ、公子はすぐさま食客たちに命じて仇を捜させ、その首を

     討ち取って如姫に差し出したとのこと。

      如姫は感激の余り、公子の為なら命を投げ出しても良いと言ったとか。

      それは決して口先だけのことではありますまい。其の機会が無かった

     だけと存じます。

      兵符の件は、公子が一言お頼みになれば、必ず引き受けてくれる

     でしょう」と。

      信陵君は侯嬴の助言に従ったところ、如姫は期待に応えて兵符を

     盗み出して、信陵君に手渡した。

      侯嬴は、ついで前線司令官・晋鄙の妨害を阻止するために同行すべし

     として勇士の朱亥(しゅがい)を推挙した。

      かくして信陵君は侯嬴の算段通りに事を進め、前線で疑問を抱く

     司令官・晋鄙を朱亥に殺害させ、魏軍十万を掌握し、楚軍とも連携して

     邯鄲を包囲する秦軍を撃退した。

      だが侯嬴は、信陵君を送り出した後、自ら首を刎ねた。

      また信陵君も魏軍は全員 魏へ帰国させ、自らは趙に食客として留まる

     ことになった。

        ☞ 侯嬴は、史記では「侯生」と記すが、

         便宜上 侯嬴で解説した。

                     「史記 魏公子列伝」

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(嚢中之錐)

     「嚢中之錐(のうちゅうのきり)

                         ◇ 戦国時代 ◇

      「穎脱(えいだつ)とも言う。

      才気が外に溢れ出ることの例え。

      錐を袋の中に入れても、その切っ先が突き出るように、優れた人は

     多くの人の中に混在していても、すぐにその才能を現すことの例え。

        ☞ 嚢中とは袋の中の意。

          穎脱とは、穂先とか錐の切っ先が外に出るの意。

      趙は長平の戦いで秦に惨敗を喫し、その二年後 またまた秦軍の猛攻

     に曝され、遂に国都・邯鄲に危機が及ぼうとしていた。

      趙の運命は当に風前の灯となり、趙王は平原君を呼び寄せ、楚に使い

     して救援を請うように命じた。

      平原君は直ちに出発の準備に取り掛かり、多くの食客の中から十九人

     を選び出したが、どうしても後一人が決まらなかった。

      この時、毛遂(もうすい)と言う者が自ら名乗り出て売り込んだ。

      平原君は問う、

      「貴公は、ここに来てから何年になるか」と。

      毛遂曰く、

      「三年にございます。」

      平原君曰く、

      「有能な人材は例えてみれば、錐の嚢中に処(お)るが如し、

     その末(切っ先)はたちまち現れよう。


      ところが貴公は、私の下に来て三年になると言うが、ついぞその名を

     聞いたことが無い。

      失礼だが、頼りになるとは思えぬ。お下がりくだされ」と。

      だが毛遂は退き下がらず、

      「遂をして蚤(と)く嚢中に処るを得しめば、乃ち穎脱して出でん。

     ただに其の末(すえ)(あらわ)るのみに非ず
    」と食い下がった。

      乃ち切っ先のみならず、錐全体が袋の外に飛び出していたはず、

     だと売り込んだ。

      平原君は遂に根負けして、毛遂を一行二十人に加え、錚々たる護衛団

     を組織した。

      やがて楚に着いた平原君は、趙楚同盟を成立させようと楚王に其の

     利害得失を繰り返した説いた。

      交渉は早朝から昼過ぎにまで及んだが、一向に進展しなかった。

      時に毛遂は、剣の柄に手をかけて一気に階(きざはし)を駆け昇り、

     平原君の傍らに着座するや、臆することなく、

      「盟約を結べば、趙 楚 共に有利であり、結ばねば不利。

     こんな簡単なことが、いつまでも決着しないとは如何なる訳ですか」と。

      楚王は此れを聞き咎めて、

      「その御人は何者か」と。

      平原君は、
      
      「私の従者です」と。

      楚王はすぐさま、毛遂を𠮟りつけた。だが毛遂は剣の柄を握りしめ、

     逆に王に詰め寄った。

      「王様が私を𠮟るのは、楚の力を恃んでのことですが、これだけ

     近づけば楚の力も頼りにならず、王の命は我が掌中にあるも同然

     ですぞ」と威圧し、この同盟は、絶対的に楚にとって有利であることを

     滔々と捲くし立てた。

      そして最後に、先年の楚と秦の戦いで、楚が屈辱的な敗北した事を

     持ち出し、同盟によりその屈辱を晴らすことの大義を解き、遂に同盟を

     成立させた。

      ※ 楚の屈辱的敗北とは、国都・郢と鄢を奪われ、祖廟を

        焼かれたことをいう。

      後、この趙と楚に魏を合せての軍事同盟により、結局 秦は邯鄲の

     包囲を解いて撤退した。

                     「史記 平原君・虞卿列伝」

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(奇貨居く可し)

     「奇貨居く可(べ)し」

                         ◇ 戦国時代 ◇

      絶好の機会は逃さないで、上手く利用すべきことの例え。

      珍品は蓄えておき、後日の値上がりを俟って売りに出すべしの意。

        ☞ 奇貨は、珍品。

          居くは、蓄えること。

      趙の都・邯鄲には、戦国時代最強の国である秦からの交換人質として、

     大子・安国君の庶子・子楚がヒッソリと住まわっていた。

        ☞ 子楚の実母は安国君の側妾であったが、身分の低い家柄

         の出自で、名は夏姫と言う。

      安国君には側妾の産んだ二十余人の子があったが、当時 安国君

     は子楚の母への愛は無く、為に子楚は捨て駒として趙に人質として

     出されていたのである。

      従って邯鄲における子楚の財政は逼迫し、交際費はおろか日々の生活

     にも窮する状態にあった。

      その上、秦は趙への人質を出しておきながら、しばしば趙を攻めたてる

     ので、趙の子楚に対する扱いは、推して知るべきものであった。

      ある時、韓の陽翟の豪商・呂不韋が商用で邯鄲に来たが、子楚の情報

     を知る所と為った。 

      子楚の境遇に憐れみを懐くともに、ふと閃きを得た。

      「奇貨居く可し」と。

                     「史記 呂不韋列伝」

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(其の言 一なれども、)

     「其の言 一(いつ)なれども,

      言う者異なれば則ち人心変ず」


                            ◇ 戦国時代 ◇

      その言葉は同じであっても、立場の違う人の口から出ると、

     聞く人の心持ちは自ずと変わるものである。

     》 長平の戦い後の講和問題 《

      秦は長平の戦い後、凱旋帰国したが、その後 秦は趙に六城の割譲

     を要求してきた。

      だが趙は、未だ敗戦後の計策が定まっていなかった。

      やがて秦で重用されていた楼緩が帰国してきたので、考成王は楼緩

     に議した。

      「秦に城地を与えるのと、与えないのと何れが得策か」と。

      楼緩は気遣って、

      「臣のよく知り得るところではございません」と対えた。 

      だが趙王は、

      「そうは言っても、試みに思うところを言ってくれよ」と。

      楼緩はここで譬え話をした。

      「王には、彼の公甫文伯の母君のことを聞き及びでしょうか。

        ※ 公甫文伯とは、魯の三桓の季康子の従父兄弟(父方の従弟)。

      彼は魯で仕官しておりましたが、病死いたしました。するとその後を

     追って、閨房で自殺する婦人たちが十六人に及びました。

      しかし彼の母親は息子が死んだことを聞いても、哭そうとはしません

     でした。

      母親付きの婦人が、

      『お子さんが死んだというのに、哭さない母親がどこに居りましょうか』

     と言いますと、

      母親は、

      『孔子は賢人です。その孔子が魯を追い出された時、あの子は師に

     付き随いませんでした。今 あの子が死にますと、十六人もの婦人が後を

     追って死にました。

      こうなったのも、あの子が長者に対しては情が薄く、婦人に対して情が

     濃いと言う事なのです』

      と、申したそうです。

      つまり母親の口から言ったのですから、これこそは賢母と言えます。

      しかし若し、妻の口から言ったものならば、それこそ必ず、嫉妬深い妻

     だとの評判を免れないでしょう。

      則ち、【其の言一なれども、言う者異なれば則ち人心変ず】

     と言うものです。

      今 臣は秦から帰ったばかりで、“お与えなさい”と申せば、恐らく王は

     臣が秦の為に献策を採ると思われるでしょう。

      ですから、お対えしなかったのです。

      若し臣に王の為に計策を立てさせて頂けますなら、お与えなさるという事

     に尽きます。」

      趙王は、「分かった」と言った。

      そして、今度は虞卿に相談した。

         ※ 虞卿は遊説の士で、趙の考成王に謁見するや、その説に

          感動した王から一足飛びに上卿に任ぜられた。

      虞卿は楼緩の真意を見抜き、王に城地を与えないよう説得した。

      虞卿の理由とする所のものは、趙は大敗して疲労困憊しているが、

     秦としても再度侵攻してくる余力は残っていないと確信していたから

     である。

      趙王は、その後も何度か両人を呼び出し献策を確認したが、決断が

     つかず右往左往した。

      だが結局 秦に城地を割譲するより、秦に対抗できる斉に与して、

     その代わりに賂として城地を斉に譲り、因って斉・韓・魏と同盟する

     という虞卿の策に従おうとした。

      ところが王命により、斉に使いした虞卿が未だ帰国しない内に、秦から

     講和の使節が来訪した。

      楼緩は、事の成り行きを知り趙を去った。

                      「戦国策 趙策・考成王」

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(紙上談兵)

     「紙上談兵」

                         ◇ 戦国時代 ◇

      机上の兵法談義の意で、机上の空論のこと。

      転じて、実際の役に立たない空論の例え。

     》 長平の戦い 《  前260年

      秦と趙の間で、戦国時代最大の決戦が行われた。

      この戦いの決戦における秦軍の総司令官は白起、趙の総司令官は

     若い趙括である。

     「緒戦」

      初め秦軍は洛陽方面から韓都へ兵を進め、韓と趙の連合を事前に

     絶ち切り、四月には王齕(おうこつ)を総司令官として上党郡へ発向した。

      一方 趙では、上党郡守備の総司令官に名将廉頗(れんぱ)を任命

     したが、廉頗は小競り合いの後、丹水上流の長平に堅陣を構えて、

     徹底的な防御策を講じた。

      秦軍は丹水を遡上して長平に迫るが、趙の設けた城塞を一気に攻略

     することは出来ず、各個撃破で二つの城塞を突破した。

      しかし長平上に至るには、さらに二つの堅城を攻略する必要があった。

      七月には西王山の堅城を落とし、長平まではより近くなった。

      だが廉頗は趙軍の前衛を退きながらも、次々と城塞を構築して守備に

     徹し、持久戦に持ち込もうとした。かくして戦線は膠着状態となった。

     「秦の謀略 范雎の離間の計」 

      廉頗は防御態勢を固めて秦軍に付け入る隙を与えなかったので、業を

     煮やした秦軍は、宰相范雎の策で趙軍に間諜を入れた。

     「秦の悪(にく)む所は,

     独り馬服君趙奢の子・趙括が将とならんことを畏るるのみ


      即ち秦は、「趙括が総司令官となることをひたすら畏れるのだ」、

     と流布させた。

      趙の考成王は、まんまとその策に嵌まった。

      それまで考成王は廉頗に再三 檄を飛ばし督戦を促がしていたが、

     廉頗が持久戦に徹したので、遂に痺れを切らして廉頗を更迭した。

     「趙括を国防総司令官に任ず」

      趙の考成王は趙括を総司令官に任じたが、趙括の母親は直ちに参内

     して趙王を諫言した。

      趙括は、趙の名将として名高い趙奢の子であった。

      趙奢の生前のことであるが、親子で図上演習したことがあった。

      だが息子の趙括は、その図上演習では実戦の名将である趙奢を

     何度も撃ち破り、其の事が趙国内では知れ渡り評判も高かった。

      ところが世間の評判とは裏腹に、趙奢は妻に趙括は我が家を亡ぼす

     であろうと常々危惧していた。

      そのような訳で、母親は急遽 参内したのである。

      母親は、

      「吾が夫は生前に、趙括は紙上で兵を談ずるには長じておりますが、

     実戦の裏付けが無い為 理論を過信し過ぎる嫌いがあると申しており

     ました。

      王様がどうしても、このような者を大将となさって、もし趙軍が敗れた

     としても我が家には罪を問わないとお約束してください」と懇願した。

      ところが趙王は、その諫言を謙遜と受け取り、その訴えを退けて

     事後の無事を約束をしたのである。

     「趙括の采配」

      趙括は廉頗と交代すると、直ちに軍令、軍律を改変し、意に沿わない

     将軍を戦列から引き離した。

      しかし彼ら将軍は、廉頗の意図をよく察していた実戦経験豊富な幕僚で

     あった。
      
      その一方 秦王は、名将白起を対韓陣営から離脱させ密かに総司令官

     に任命し、王齕は副司令官となった。

      だがこの人事は、秘密裏に行われ趙軍を警戒させないようにした。

      白起は趙軍を、長平の城塞から引きずり出そうと策を練った。

      廉頗ならこの策に乗らないが、若い趙括なら必ず罠にかかると読んだ

     のである。

      最初は適当に敗戦を繰り返しながら、陣を少しずつ後退させ、徐に趙軍

     を挑発した。

     「趙軍 長平城塞から出撃す」

      当初 秦軍は平野部に本営を置いていたが、前線であるで西王山の

     城塞を攻略してからは、本営の方に前線を引き下げ、騎兵を含む奇襲

     部隊を左右に配置した。

      乃ち西王山を踏み越えて進軍して来る趙軍に備えたのである。

      趙括は斥候からの情報により、秦軍の後退を判じてから、いよいよ

     長平城塞を出て秦軍追撃の命を発した。

     「趙軍の惨滅」

      趙軍の追撃が始まったが、白起は速やかな退却は不審を懐かせると

     して、多少の犠牲は払ってもそれらしく退却させねばと考え、退路には

     土塁を築きつつ、趙軍に抵抗しながら徐々に退却させた。

      かくして秦軍にも被害は生じたが、無理な進撃をする趙軍の損害も

     大きかった。

      だがその内、趙軍は秦軍の包囲網に嵌まってしまった。

      秦軍の左右に於いていた奇襲部隊二万五千の左軍は西王山を抜け、

     右軍は韓王山の南端から趙の背後に迫り、長平の城塞から離れすぎた

     趙の主力軍を攻撃した。

      この時 秦軍は、趙軍の後方攪乱と邯鄲と長上城塞からの救援軍を阻止

     するため、五千の騎兵部隊を投入していた。

      ようやく我に返った趙括は、長平城塞に帰って態勢を立て直すべく退却

     を命じた。

      西王山を越え丹水に向かったが、待ち受けていた秦軍の精鋭部隊が

     包囲した。

      進退窮まった趙括は、長平谷で車陣を組んで秦軍の攻勢に堪えようと

     したが、糧食を殆ど帯同していなかった。

      白起はここで持久戦に持ち込もうとし、幾重にも柵を構築した。

      趙括軍は孤立し、四十六日が経過した。趙の兵士は物を口にする

     ことも無く、骨と皮になった五万の兵士が錯乱し、活路を求めて必死

     の攻撃に出た。

      突撃は四度繰り返されて、遂に趙括と共に殲滅した。

      この時 趙にはまだ四十万の兵がいたが、当に餓死寸前の危機に

     あった。

     「戦後処理」

      戦いの後、秦では趙軍四十万の投降兵の扱いで迷った。

      本来ならば自軍に編入するのが戦国の世の習いであったが、如何せん

     元は韓の領土であった上党郡の民の兵が多く含まれていたので、

     白起は秦を嫌って趙に加わった連中のことだから、きっとまた背くに

     違いない、と判じて幼年者の二百四十名を除いて、全員の投降兵を

     阬殺(穴埋め)した。

                    「史記 廉頗・藺相如列伝」

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(漏甕に奉じて焦釜に沃ぐ)

     「漏甕(ろうおう)を奉じて焦釜に沃(そそ)ぐ」

                         ◇ 戦国時代 ◇

      事態が切迫し、急を要することの例え。

      ひび割れした甕(かめ)の水で以って、今にも焦げ付こうとしている

     釜 に注いで消し止めようとするの意。

     》 斉、趙を救援せず 《   前260年

      韓の上党郡の裏切りに対して、秦は濡れ手で栗のつかみ取りをした

     趙 を攻略しようとした。

      ※ 韓・桓惠王⑩は秦の圧力で上党郡を秦に割譲しようとしたが、

       上党郡の太守や住民はそれを潔しとせず、また更迭された太守

       に代わる新太守も国策に反して住民共々趙に帰服してしまった。

      秦では当初、斉と楚が趙を救援すれば兵を退き、救援しなければ侵攻

     を続行する手筈であった。

      趙では軍事面より先に兵站補給、とりわけ食糧問題で苦しみ、斉に

     緊急の援助を懇願した。

      だが斉王建は、その要請に応じようとしなかった。

      斉王の謀臣・周子は、王に国策を過たないように進言した。

      「趙の懇願に応じて一刻も早く救援し、秦兵を趙から引き揚げさせる

     べきです。

      若し趙の救援要請に応じなければ秦の攻勢は続き、それこそ秦の

     思惑通りに計略が成り、斉・楚の計略が誤ることになり由々しき事態と

     なりましょう。

      そもそも趙は、斉・楚にとって堀や石垣のようなもの、謂わば

     歯と唇の関係にあります。

      『唇亡ぶれば歯寒し』とも申します。

      今日 趙を亡ぼさば、明日 患(うれ)いは斉・楚に及ばん。

      且つ趙を救うの務めは、漏甕を奉じて焦釜に沃ぐが如くなるべし。


      それ趙を救うは、高義なり。

      秦兵を卻(しりぞ)くるは、顕明(明らかな名声)なり。

      義は亡国を救い、威は彊秦(強い秦)の兵を卻く。

      これを為すを務めずして、粟(食料)を愛(お)しむを務むるは、国の計

     を為すこと過(あやま)てり」と。

      だが、斉王憲は聞かなかった。

                    「史記 田敬仲完世家」

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(此れ烏 烏と為さず、)

     「此れ烏 烏と為さず、鵲 鵲と為さず」
                         ◇ 戦国時代 ◇

      それぞれが、その役職に相応しい働きをしないこと。

      烏や鵲(かささぎ)が、それぞれの本来すべき事をしないの意。

      史疾が韓の為に楚に使いした。

      楚の考烈王に見えた時、王は史疾に質問した。

      「客人は如何なる学を修められたか」と。

      史疾は対えて、

      「列子禦寇(ぎょこう)の学を修む」と。

      王 問う、

      「何を尊ぶや」と。

      対えて、「正」を尊びます」と。

      王は問う、「正もまた国を治めることが出来るのか」と。

      対えて、「出来ます」と。

      王 曰く、「楚国は盗賊が多いが、正を以って賊を防ぐことが出来るか」

     と。

      対えて、「出来ます」と。

      そうこうする内に、一羽の鵲が宮殿の屋根に止まった。

      史疾は頃合いを計って、王に尋ねた。

      「楚の人々は、あの鳥を何と呼ばれますか」と。

      王、「鵲という」と。

      史疾は言う、「之を烏と言っても宜しいでしょうか」と。

      王、「それは駄目だな」と。

      史疾は言う、

      「今 王の国には、柱国、令尹、司馬、典礼有り。その官に任じた吏を

     置くや、必ず、

      『廉潔にして任に勝(た)』と曰(い)う。

        (=清廉潔白であって、十分に任務を果たし得る。)

      今 盗賊公行(横行)して、而も禁ずること能わざるなり。

      此れ烏 烏と為さず、鵲 鵲と為さざるなり」と。

      乃ち、各々の官職にある者がその役目に相応しい働きをしていない、

     と揶揄した譬えである。

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(母の賢は堯舜に過ぎず、)

     「母の賢は堯舜に過ぎず、

      母の大は天地に過ぎず」

                         ◇ 戦国時代 ◇

      母の賢明さは堯や舜に勝るとは言えず、また其の大きさも天や地に

     適うものではない。

     》 華陽の戦い 《

      前273年、華陽に於いて、魏(安釐王⑥)・趙(惠文王⑧)の連合軍と

     秦(昭王㉘)・韓(釐王⑨)の連合軍が戦端を開いた。

      この戦いに先立つ前276年、秦の昭王は白起に命じて魏を攻略させ、

     二城を落とし、さらに東へ転身して魏都・大梁に迫った。

      ところが、その窮地に隣国・韓が救援軍を繰り出したので、昭王は魏冉

     (ぎぜん)に大軍を与えて韓軍に当たらせ、韓軍四万を殲滅した。

      韓と魏は堪らず、それぞれ領地を割譲して秦に和を請うたが、魏冉は

     取り合わず、魏都・大梁を包囲した。

      この時 魏は、説客の須賈(しゅか)を魏冉の下へ派遣し、包囲を解か

     なければ趙と楚を巻き込んで反抗を続けると恫喝した。

      魏冉はもはや潮時と判断して、韓と魏から多大の地を割譲させて

     包囲を解いた。

      だがその翌年、魏は斉の兵を借りて再び秦に刃向ったので、秦は兵を

     出して大梁の西方面の四城を奪取し、魏兵四万を撃滅した。

      魏はもはや秦から奪われた地を取り戻すことは不可能となったので、

     前273年、趙と結んで隣国の韓を攻略しようと華陽に迫った。

      昨日の味方は今日の敵となった韓では窮余の策として、今度は秦へ

     救援依頼の使者を派遣した。

      ところが秦では、しばらくは様子見とばかりに傍観することにした。

      韓の使者は足繁く秦を訪れたが、秦は容易に腰を上げようとは

     しなかった。

      そこで韓王は、秦の魏冉と親交のある説客・陳筮(ちんぜい)を使者と

     して魏冉の下に派遣した。

      陳筮は毅然として、若し救援しなければ韓は趙・魏に屈して、再び

     趙・魏に連合することを示唆し、その弱みを見せまいとした。

      魏冉はここに来て、再び三国が手を結べば、東方への進出に歯止め

     がかかると判断して、気心の知れた白起と胡陽に命じて救援軍を出した。

     》 魏軍の潰滅 《

      秦の咸陽から韓の華陽までは、凡そ半月の行程であったが、白起は

     極めて迅速に軍を移動し、僅かに八日で華陽に達し、韓を包囲していた

     魏・趙の連合軍を急襲した。

      不意を衝かれた魏・趙連合軍は抗戦するも空しく、魏は十三万の兵が

     殲滅され、逃れた趙軍は黄河に二万の屍を浮かべた。

      この戦いで魏軍は、ほぼ壊滅に等しい状態となった。

      そして華陽に至るまでの地は、秦の手中に帰し、秦はその地に南陽郡

     を設置した。

      魏はこの度の敗北で、魏王は秦に入朝しようとした。

      その時、周訢(しゅうきん)が王に言った。

      「宋人で学問をしに出かけた者がいました。三年経って帰ってきました

     ところ、その母を呼ぶのに、名前で呼びました。

      ※ 近世以前の中国では、親は言うに及ばず長上者に対して、

        その名を呼ぶことはタブー視されていた。

      母は詰問した、

      『お前は三年も学問をしながら、帰ってくると私を名で呼ぶのは、

     如何したことか』と。

      すると子は母に向かって、

      『吾が賢とする所の者は、堯舜に過(す。=勝)ぐる無し。

      その堯舜にすら名を言う。

      吾が大とする所の者は、天地より大なるは無し。


      今 母の賢は堯舜に過ぎず、母の大は天地に過ぎず。

      是(ここ)を以て母の名を言うなり』と、こう申しました。

      母は言いました、

      『お前は学問については、何でも皆 実行しようと思っているのですね。

      それなら何か方法を考えて、母を呼ぶに名に代える適当はものを考え

     ておくれ。
     
      それとも学問について、実行に移さないことでもあるのなら、母を名で

     呼ぶのは、しばらく後回しにしておくれ』と。

      ところで、今 王が秦に入朝するにしても、それに代える手段方法が

     あるのではございませんか。

      何か是に代わる手段をお取りになって、入朝は後回しにされることが

     望ましく存じます」と。

      だが魏王は秦に入朝した後に、もし万一帰国できないような事態と

     なっても、許綰(きょわん)が己の首に懸けても寡人に殉じると言っている

     と言って、承知しなかった。

      周訢は言う、

      「臣のような卑しい者でも、底知れぬ淵に入って若し出られなければ、

     一匹の鼠の首に懸けて殉じようと言う者がいたとしても、臣は決して入り

     ません。

      ところで、秦はまるで底の知れない淵のような国です。そして許綰の

     首は、まるで鼠の首のようなものでございます。

      王を得体のしれない秦にお入れして、而も王に殉ずるのが鼠の首である

     なら、臣は密かに、王の為にならぬことと存じる次第です」と。

                     「戦国策 魏策・安釐王

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(解環)

     「解環」

                         ◇ 戦国時代 ◇

      難問を解くこと。

      秦の昭王は曽て使者を遣わし、斉の襄王の后に「連環の玉」を

     贈った。

      使者は昭王の言葉を代弁して曰く、

      「斉には智慧者が多いと聞く。よくこの連環の玉が解けるや否や」と。

      襄王の后は、この連環の玉を群臣の前に置いて解かせようとしたが、

     誰一人としてその解き方は分からなかった。

      そこで后は、臣下に命じて槌を用意させ、連環の玉を手元に引き寄せて、

     叩き割った。

      そして秦の使者に詫びて曰く、

      「謹んで解きました」と。

                    「戦国策 斉策」

      ※ 「蒙求」では、「斉后破環」という。

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(大怨を和すれば必ず余怨あり、)

     大怨を和すれば必ず余怨あり、

       安んぞ以って善と為すべけんや」

                         ◇ 戦国時代 ◇

      深刻な怨みごとを和解させると、必ず残りの怨みが後々まで尾を引く

     ものである。

      どうして、それが善いことだと言えようか。

     是を以って聖人は、左契を執りて、而も人を責めず。

     (=それ故に聖人は、怨みごとを起こさないように、割符の左半分

      だけを手にするが、自らは直接に指示したり関与することはしない。)

      ※ 契は符契とも割符ともいい、手形のこと。

        二つに分割した割符は、それぞれ左契・右契といい、

       契約を交わした双方が約束の証拠として手元に留めた。

        普通は左契を持つ者の請求を待って、右契を持つ者が

       割符を合わせてから現物を交付した。

      徳有る者は契を司り、徳無き者は徹を司る。

      (=恵み深い聖人は割符の管理をするだけで、情け容赦の無い者

       が税の取り立てを担当する。)

        徹とは、周王朝の時代の「税法」である。

      天道は親無し、常に善人に与(くみ)す。

      (=天道、乃ち自然界の動きには偏った依怙贔屓は無く、常に善人

       に味方する。)

                    「老子 七十九章」

     》范雎、秦の相となる《  前266年

      やがて秦の昭王の絶大な信を得るようになった范雎は、魏冉の専権

     を抑えるべく王と共に日夜策を練ってきたが、それから五年の後、

     遂に魏冉を失脚に追い込んだ。

      そして魏冉の追放が功を奏すると、王は范雎を宰相に任じた。

      宰相として秦の指導者となった范雎は、応の地に封ぜられたので、

     応侯と称される。

    》范雎、怨念を晴らす《

      或る日の事、その応の地に魏の使者として、曽ては范雎を貶めた

     ことのある大夫の須賈がやって来た。

      須賈の来訪を知った范雎は、己の復讐をする為に偽計を用いた。

      須賈が応の地を訪れて最初に目にしたのは、ボロボロの衣服を

     まとった見る影もない范雎の姿であった。

      驚いた須賈が范雎に問うに、

      「その日暮らしで、何とか夜露を忍んでおります」と。

      痛く同情した須賈は、范雎に厚い綿入れの服を与えた。

      その後 須賈は范雎に案内されて、宰相・応侯の張禄に面謁すること

     になった。

      やがて正装して現れた范雎を見て、須賈は仰天した。

      范雎は秦では張禄と呼ばれていたので、まさか宰相・張禄が范雎で

     あるとは全く知らなかったのである。

      慌ててひれ伏す須賈に、范雎は言い放った。

      「魏斉に不実を告げ、杖刑になるのを止めず、便所で辱めを受けた際

     にも放置した。

      この三つの罪は許し難いが、今日 厚絹の綿入れを恵んでくれたから

     死罪にはしない」と。

      そして、そのまま宴席を設えて、豆と刻み藁を混ぜた物を入れた桶に、

     須賈の膝まづいたままの首を突っ込んで食わせる、と言う罰を与えた。

      そうした後、「魏斉の首を持ってこい」と言い渡して帰国させた。

      帰国してきた須賈から范雎の事を知らされた魏斉は、恐れをなして

     趙の平原君を頼った。

      だが范雎の追及は厳しく、趙の考成王に圧力をかけたので、今度は魏

     の信陵君を頼ろうとしたが、不可能と知り、遂に自殺してしまった。

                    「史記 范雎列伝」

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(両虎相与に闘わば、)

     「両虎 相与(あいとも)に闘わば、

      駑犬(どけん)その幣を受く」


                         ◇ 戦国時代 ◇

      両雄が死闘を繰り広げれば、第三者たる弱者がその疲れに乗じて

     勢力を伸長すること。

      二頭の虎が死闘すれば、その疲弊の間隙を縫って、のろまな犬が

     利得するの意。

      秦・昭王四十年(前267年)、昭王は将軍白起に命じて、韓と魏を

     攻略させた。

      またその後に勢いに乗じて、降った韓・魏の兵を付随して、楚に攻め

     込もうとした。

      楚では黄歇(こうけつ)が情勢から判断して、まともに秦の攻撃を受け

     れば、ひとたまりもないと憂慮した。

        ※ 黄歇は、後に 戦国四君の一人となる春申君である。

      黄歇は秦の昭王に上書して、秦が楚を攻めることの不利を説いた。

      「天下、秦・楚より彊(つよ)きは無し。

      今聞く、大王(昭王を持ち上げての尊称)、楚を伐たんと欲す、と。

      此れ猶、両虎 相与に闘うが如し。

      両虎 相与に闘いて、駑犬 其の幣(つかれ)を受けん」と。

      (=この世で秦と楚は最強の国です。聞くところによれば、偉大な

       王様は吾が楚国を攻略せんと目論んでおられるとの由。

        これでは、二頭の虎が死闘を演じるようなものです。

        強国の両国の虎が闘えば、利する者は駄犬の韓と魏であり、

       両虎の得る所は虚しいものとなります。

        今は、両国が親善するのが最善の策ではないでしょうか。)

      秦の昭王は黄歇の説得に応じて、一時的に盟約は成った。

      そして楚の頃襄王はその証として、大子・完を人質として秦に送った

     が、黄歇がお付きとして帯同した。

                     「史記 春申君列伝」

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(遊説の士・范雎)

     「遊説の士・范雎、秦・昭王を説く」

                            ◇ 戦国時代 ◇

     》 范雎の履歴 《

      范雎(はんしょ)は魏の人。字は叔。

      各地を経巡り遊説して回ったが、其の意を得ることが出来ず、生国の

     魏で大夫の須賈(しゅか)に仕えた。

      その内、須賈が魏王の命を受けて斉に使いしたが、須賈は范雎を

     帯同した。

      交渉は難航して、斉での滞在は数カ月に及んだ。

      時に斉の襄王は、范雎の才を噂に聞き知っていたので、使いを立てて

     須賈を介することなく黄金・酒肉を范雎に贈与しようとした。

      范雎は辞退しようとしたが、聞き知った須賈は激怒した。

      范雎が魏国の秘密事項を売ったと勘違いしたのである。

      そして取り敢えずは酒肉だけを受け取らせ、黄金は返させその場は

     矛を収めた。

      その後 須賈は帰国してから宰相の魏斉(ぎせい)に、范雎が国の

     機密を斉に売ったと誣告した。

      魏斉は激怒して、范雎を笞打ちの刑に処し、蓆(むしろ)で簀巻

     (すまき)にして便所に投げ込ませた。

      范雎は、便所番を利罪で誘い込み、機を見ては便所から脱出する

     ことが出来、運よく鄭安平なる者に密かに 匿われ、其の後 たまたま

     魏を訪れた秦の使者・王稽に助けられて秦へ亡命した。

      秦では名も張禄と変え、王稽に寄寓した。

      時に秦では昭王の時代であり、魏冉(ぎぜん)が相国(宰相)で

     あった。

     》 秦いずくんぞ王あるを得ん 

      秦国では、一体どこに王様がいると言うのか。

      王稽は昭王に拝謁して復命の後、連れ来たった范雎の事を有為の

     人材であるとして推挙した。

      その際に、張禄(范雎の仮りの名)の言を伝えた。

      『秦王の国は累卵より危うし。

      臣を得ば安からん。然れども書を以て伝うべからず』と。

      だが昭王はすぐには信用せず、范雎に宿舎だけは与えて、下級の

     待遇をした。

      それから一年後、范雎は意を決して昭王に上書した。

      その甲斐あって、ようやく王に拝謁することが適うようになった。

      離宮で謁見が行われることになっていたが、范雎は一計を案じ、

     迷い込んだ振りをして、内廷(大奥)に闖入した。

      宦官が慌てふためいて范雎を追い立てながら「王のお出ましだ」と

     言うと、范雎はわめき散らして、

      「秦いずくんぞ王あるを得ん。秦にはひとり太后と穣侯あるのみ」と。

      即ち、昭王をわざと怒らせようとしたのである。

      だが昭王は宦官と范雎のやり取りを聞き流して、謁見の場に范雎を

     招じ入れた。 

      そして、范雎に対して賓主の礼を執り、教えを請わんとした。

     「韓盧(かんろ)を馳せて蹇兎(けんと)を搏(う)つが如し」

      容易に目的を達することが出来ることの例え。

      戦国時代の韓に産した名犬・韓盧を駆けさせて、足の悪い兎を追わ

     せるようなものの意。

      だが范雎は、大勢の臣下が居並んで范雎の言動を見守ろうとして

     いたので、ただ押し黙って平伏するのみであった。

      其の意を察した昭王は人払いを命じてから、

      「先生、何を以てか幸いに寡人に教うる」と。

      范雎はようやく口を開いて、

      「これから申し上げることは、君を匡(ただ)すの事にして、王の骨肉

     の間に処す問題となります」と。

      昭王は其の言に応じて、

      「願わくば、先生ことごとく以って寡人を教えよ。

     寡人を疑うこと勿れ」と。

      范雎は語るに、

      「大王の国は四方を自然の要害に囲まれ国境を固めています。

     奮撃の士(勇士)百万、戦車千乗あり。

      利なれば出でて攻め、利ならざれば入りて守る。これ王者の地なり。

      民は私闘に怯にして(おびえて)、公戦に勇む。これ王者の民なり。

      王はこの二者を併せ有す。

      それ秦卒の勇、車騎の多きを以って諸侯を治るは、

     譬えば、韓盧を馳せて蹇兎を搏つが如し。


      覇権を確立することは、た易いはずであります。

      ところが、王の臣下でその責を全うしようとする者は無く、今まで

     十五年の間と言うもの、敢えて函谷関を出ようとしなかった。

      是は国の最高責任者である相国・穣侯が、秦と言う国の為に謀ること

     忠ならずして、大王の計も失う所あればなり」と。

      これは、穣侯と昭王を共に責めての言である。 

      昭王曰く、
     
      「寡人、願わくば失計を聞かん」と頭を下げた。


     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(跖の狗、堯に吠ゆ)

     「跖(せき)の狗、堯に吠ゆ」

                         ◇ 戦国時代 ◇

      飼い犬は主人の命令とあれば、相手構わずに盛んに吠えまくるもの

     である。

      古の魯の大盗賊・盗跖の飼い犬は、古の聖天子・堯帝に向かても

     吠えるの意。

      戦国時代の斉では、貂勃(ちょうぼつ)がいつも田単を誹り、

      「安平君は小人なり」と言っていた。

      その事を耳にした安平君は、わざわざ席を設けて貂勃を招いた。

      そして曰く、

      「単、何を以て先生に罪を犯し、常に朝廷でお褒めに与るのですか」

     と皮肉を言った。

      貂勃は言う、

      「跖(盗跖)の狗、堯に吠ゆるは、跖を貴んで堯を賤しむに非ず。

      狗は固(もと)より、その主に非ざるに吠えるなり。

      (=犬は元来、飼ってくれる主人でない者に吠えつくもの。)

      ところで今、公孫子を賢者とし、徐子を不肖の者として、若し公孫子と

     徐子を戦わせたとするならば、徐子の狗は公孫子に飛び掛かり其の

     脹脛(ふくらはぎ)に噛みつくでしょう。

      しかしその犬も、不肖の者の下を去り、賢者のために働けるように

     なったならば、ただに脹脛を噛まないというだけでは済まないでしょう」

     と。

      安平君は、

      「謹んで命に従いましょう」言って、翌日 彼を王に推薦した。

                    「戦国策 斉策・襄王」

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    Author:tyouseimaru
    出身地は四国八十八か所参りの発心の阿波、大阪を終の棲家とする。
    歴史好きで、城郭・神社仏閣・歴史遺跡巡りが趣味となる。
    歴史小説や時代小説を好み、往年の著名な時代小説の類は概ね完読と、自負している。

    自薦
    自著「中国通史で辿る名言・故事探訪」の 上・中・下の3巻を、 近い内に「電子書籍」での出版を予定しています。 今年一年間は、さらに工夫を加えるなどして、補記訂正などの校正を第一義としています。       
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