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    中国通史で辿る名言・故事探訪(背水之陣)

     「背水之陣」

                  ◇ 楚(西楚)・漢の抗争時代 ◇

      湖沼や河川などを背にしての陣構えであり、前進あるのみで退却しない

      という決死の覚悟の敵対。

      転じて、死ぬ覚悟で全力を尽くして戦うこと。

     》 井陘の戦い 《   前204年

      漢王劉邦の命を受けて、大将韓信と副将張耳は趙を討つため趙の

     井陘(せいけい)に向かったが、迎え撃つ趙は二十万の軍を擁していた。

      韓信に従う将兵は凡そ三万と言われるが、其れまで韓信に従っていた

     精兵は、劉邦の麾下に組み入れられたので、寄せ集めの軍団であった。

      対する趙軍の総司令官は儒者上がりの陳余であり、漢軍の副将張耳

     とは仲違いするまでは刎頚之友でもあった。

      陳余の幕僚には名将の広武君李左車が控えていた。

      趙の陣営では、李左車が進言した。

      「井陘は狭い道が数百里も続いており、ここを通過するはずの漢軍は

     隊列が伸び過ぎ、輜重隊は遥か後方になりましょう。

      私は三万の兵を以て、この輜重隊を本隊から分断して参ります。

      司令官は専らに城壁を守り、漢軍との合戦は避けて下さい。

      さすれば、漢軍は押すことも出来なければ、退くことも出来なくなり、

     立ち往生するはずです。十日と経たずに、韓信の首をお届けします」と。

      だが陳余は儒者をもって自認しており、正道に悖る彼の献策を受け容れ

     ることはなかった。

      一方、趙軍の動向を探っていた韓信は、その情報を入手するや、

     勇躍して井陘へ軍を進めた。

      そして井陘口の手前で、全軍に命令を下して徹底させた。

      軽騎兵には趙軍の背後の山陰に潜めさせ、二千の別働隊には漢の

     赤い旗を携行させ、

      「敵が城塞から出撃して空になったら、遮二無二に突入し、

     趙の幟(のぼり)を抜き取り漢の幟を急遽 立てよ」と。

      そして自らは一万の兵を率いて前進させ、川を背にして布陣した。

      趙軍はそれを望見して、その無謀さ、蛮勇を嘲笑した。

      漢軍は大将旗を押し立て、太鼓を打って進軍を開始した。

      城塞の趙軍は、漢軍与し易しとみて一軍は雪崩を打って出撃し、漢軍と

     相見えた。

      両軍は、しばし激闘を繰り返したが、漢軍は突如 大将旗を棄てて敗走し

     始め、川渕の自陣営に逃げ込んだ。

      趙軍は決戦の潮時とみて、城塞を空にして我先にと漢軍に殺到して来た。

      しかし川を背にした漢軍の必死の防戦に遭って突き崩せず、而もこの時 

     城塞からは漢軍の赤い幟が立ち込め、喚声が揚がった。

      その情報はたちまち、後陣からもたらされ、趙軍は最早 収拾できない

     ほど混乱して潰滅した。

                     「史記 淮陰侯列伝」

     

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    テーマ : 中国古典・名言
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    中国通史で辿る名言・故事探訪(漢王劉邦)

     「漢王・劉邦、漢中に進出」

                 ◇ 楚(西楚)・漢の抗争時代 ◇

      劉邦は韓信の策により、漢中遠征軍を編成した。

      特に丞相の蕭何には関中に残留させて、根拠地たる巴蜀の治安維持

     と遠征軍の兵站支援を命じた。

      漢王に従う大将軍韓信は、故道県から出撃して、先ずは雍王・章邯を

     討ち、次いで塞王・司馬欣、翟王・竇嬰(とうえい)を降伏させ、瞬く間に

     全漢中を制圧した。

      ここに至って、ようやく劉邦は名実ともに漢中王に納まったことになる。

      その後、西楚覇王・項羽の論功行賞に不満を持った斉の田栄が反旗を

     翻した。

      項羽は斉を分割して、斉王であった田市を膠東王に封じ、斉の将軍

     であった

     田都を斉王に封じ、戦国時代の最後の斉王であった田建の孫である

     田安を済北王に封じた。

      田市を擁立していた一族の田栄は、封に漏れたのである。

      田栄は、田市の膠東移封を阻み、国を挙げて反旗を翻した。

      そして田都を撃退し、田市を殺して自ら即位し、その後 済北王田安

     を攻め殺し、斉の全域を支配下に置いた。

      この田栄と軍事同盟を結んだのが、趙の将軍・陳余である。

      また田栄は、梁(旧魏)で跋扈していた彭越を抱き込んで、反乱を

     起こさせた。

      かくして西楚が支配下に置いた東方では政情治まらず、西楚覇王項羽

     はその鎮圧に東奔西走する羽目に陥った。

     》 彭城の戦い 《   前205年

      劉邦はその後、項羽の義帝弑殺を知るところとなり、項羽討伐の

     大義名分を掲げて諸侯に檄を飛ばし討伐連合軍を結集した。

      檄に応じた五諸侯の軍を併せると、五十万の大軍に膨れ上がった。

      連合軍は、項羽が斉に遠征して不在の彭城を包囲攻撃し、いとも簡単

     に制圧した。

      為に城中はたちまち祝宴の場と化した。

      漢の連合軍は五十万の大軍である、彭城に入城できなかった兵は、

     その周辺に分散して野営し、それぞらが勝利の美酒に酔い淫楽に耽った。

      彭城から急報を受けた項羽は、反乱鎮圧中の斉から、精鋭三万を

     率いて電撃の如く取って返した。

      油断しきっていた連合軍は、当に寝込みを急襲され収拾のつかない

     大混乱に陥り、二十数万将兵は睢水(すいすい)付近で撃滅され、劉邦は

     わずかな従者と共に、ようやくのこと虎口を脱することが出来た。

      だがこのどさくさに紛れて、彭城目指していた劉邦の父と夫人呂氏は

     楚軍に囚われの身となった。

                     「十八史略 西漢高祖」

     

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    テーマ : 歴史
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    中国通史で辿る名言・故事探訪(韓信の股くぐり)

     「韓信の股(また)くぐり」
                  ◇ 楚(西楚)・漢の抗争時代 ◇

      将来に大望を持つ者は、一時の不運や絶え難い屈辱に遭っても、

     能くそれに耐え忍ぶこと(忍耐心)の例え。

      後に漢建国の大功臣となる韓信の故事。

      韓信が未だ名も無き放浪者の如き存在の時、淮陰(わいいん)の街中

     にある屠場(牛馬等の解体場)を通りかかると、無頼の徒で日頃から

     韓信を侮っていた者が、衆を恃んで韓信を辱めようとした。

      「若(なんじ)、長大にして好んで剣を帯ぶと雖も、

     中情(ちゅうじょう) 怯なるのみ。

      能(よ)く死せば吾を刺せ。能(あた)わずんば、吾が股下(こか)より

     出でよ」、と、難題を吹っかけてきた。

      (=おい お前、でっかい図体をして、いつも剣を腰にぶら下げて

       いるが、本当のところは、臆病なだけだ。

        本当に殺せるものならば、この儂を刺してみよ。出来なければ、

       儂の股下を潜れ。)

      韓信はじっと相手を見据えたが、やがて地べたに這いつくばって、

     その男の股を潜った。

      多くの見物人は、何という臆病者よと、韓信を嘲り笑った。

                     「十八史略 楚漢」

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(国士無双)

     「国士無双」

                   ◇ 楚(西楚)・漢の抗争時代 ◇

      国中で並ぶ者が無い程に傑出した人物。

     》 韓信、巴蜀より逃亡す 《   前206年

      漢王・劉邦はその僻遠の領国・巴蜀へ出立したが、西楚覇王・項羽は

     漢王に三万の兵の随行を認めた。

      関中から巴蜀への主な道は、険しい山脈の岩肌に桟道が設けられて

     いたが、劉邦は再び関中に出る意志のない事を証して、その桟道を焼き

     払って成都に入った。

      ところがその道程に於いて、劉邦の将来に見切りをつけた武将らは、

     次々と逃亡を計った。

      劉邦の配下に韓信と言う名も無き者がいたが、韓信は丞相の蕭何

     (しょうか)と話し合う機会があり、蕭何にその稀有の才能を高く評価

     され、推されて任に就いたものの、その才能を発揮する機会に恵まれず

     鬱々としていた。

      そのような状況下で、争いごとに巻き込まれ、危うく刑死に陥る所を、

     夏侯嬰に救われると言う事もあった。

      劉邦が巴蜀に入植するのに治粟都尉(兵糧管理官)の韓信も随行した

     が、劉邦がこのまま僻遠の地に逼塞するようでは最早 先の見込みは無い

     と見切りをつけて逃亡した。

      ところが彼の才能を高く買っていた丞相の蕭何は、漢王劉邦の許しも

     得ずに、彼の後を追った。

      信頼すること絶大な蕭何の逃亡の報に、劉邦は怒り且つ落胆した。

      ところが、それから二日後、蕭何が帰って来たので劉邦がその訳を

     聞くと、

      韓信を追って連れ戻ったとの事であったが、劉邦は信用しようとは

     しなかった。

      蕭何はその理由を改めて釈明し、韓信を強く推薦して言った。

      「諸将は得やすきのみ。

      信の如きに至りては、国の士に双(ふた)つと無きなり。

      王 必ず長く漢中に王たらんと欲せば、信を事とするところ無し。

      (=王が必ず辺境の地の漢中だけの王で良いと思われるならば、

       韓信を任用する必要はございまうせん。)

      必ず天下を争わんと欲せば、信に非ずんば与に事を計るべき者無し」

     と。

      ようやく納得した劉邦は、

      「吾、公の為に以ってと為さん」と言った。

      だが蕭何は言う、

      「それでも韓信は留まらないでしょう」と。

      劉邦曰く、

      「以て大将と為さん」と。

      蕭何は言う、

      「幸甚なり。王 素より(平素から)慢(傲慢)にして礼無し。

      大将を拝すること小児(しょうじ)を呼ぶが如し。

      此れ信(韓信)の去る所以なり」と。

      そこで漢王劉邦は、典礼に基づき壇を設けてその身は潔斎して、遂に

     韓信に大将軍の地位を授けた。

      大将軍叙任の典礼の際、諸将は皆歓び、我こそ選ばれるのだと喜んで

     いたが、いざ蓋を開けると韓信であったので、一軍 皆驚きを以って之を

     見守った。

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(富貴にして故郷に帰らざる)

     「富貴にして故郷に帰らざる、

        (しゅう)を着て夜 行くが如きのみ」

                ◇ 楚(西楚)・漢の抗争時代 ◇

      出世や栄達をしても、故郷に帰らなければ意味は無い。

      それでは、まるで夜になって錦を着飾って歩くようなもの。

     》 西楚の建国 《  前206年

      鴻門之会を終えると、項羽は使者を立てて懐王に関中平定の報告を

     した。

      その報告に懐王は、「では最初の約束通りにせよ」と命じた。

      即ち、関中一番乗りを果たした劉邦を「関中の王」にせよ、という訳

     である。

      項羽はそれを聞いて、

      「懐王は我々一族が王に祭り上げただけの存在である」

     と激怒し、取り敢えずは懐王を「義帝」として祭り上げておき、その都を

     江南に遷させた。

      そして自らの意志で以て、諸将の論功行賞を行った。

      項羽自身は、楚の地を中心に九郡を統治することにし、彭城に国都を

     置き、国号を「西楚」と名付け、自らを覇王と称した。

      そして残りの地を分割して、それぞれの功に応じて諸侯を各地に

     分封した。

      劉邦には、義帝の約に背いて、巴蜀と関中から三郡を与え、本来の関中

     は秦の降将である章邯ら三人に分割して与え、漢中王たる劉邦に備え

     させた。 

      鴻門之会の数日後、項羽は兵を進めて咸陽に入城し、大虐殺を展開し、

     秦王子嬰を殺し、宮殿(世に謂う阿房宮)に火を放った。

      さらに始皇帝の陵墓を暴き、宮廷の財宝と宮女を奪い尽くして、故郷に

     引き揚げた。

      その引き際に、韓生という者が進言した。

      「関中は天下の要害の地であり、而も土地は肥沃です。都をおいて

     天下に号令するには、この地を置いて他にありません」、と。

      だが項羽には、廃墟と化した咸陽には未練はなく、それ以上に故郷が

     懐かしかったので、

      「富貴にして故郷に帰らざる、繍を着て夜 行くが如きのみ」と、

     言って取り合わなかった。

                     「史記 項羽本紀」

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(鴻門之会)

      「鴻門之会(こうもんのかい)

                         ◇ 秦代 ◇

      紀元前206年、秦を滅ぼした後、秦の国都・咸陽近くの鴻門で開かれた

     西楚王・項羽と漢王・劉邦との和平会談。

        ☞ 鴻門は、現在の陝西省臨潼県(りんどうけん)の東に所在し、

         項王営という。 

     》 范増、劉邦に天子の気を読む 《

      秦の国都咸陽を攻略した劉邦は、項羽が一か月遅れて、四十万の大軍

     を率いて函谷関に到着すると、配下の或る者の進言を受けて、函谷関の

     守備を固めて入関を阻止しようとした。 

      項羽は激怒して関門の守備兵を蹴散らし、咸陽を望む鴻門に布陣した。

      項羽の軍師范増は、項羽をけし掛けて言う、

      「沛公(劉邦)は山東に居るとき、財貨を貪り美姫を好む。

      ところが,今 咸陽に通ずる函谷関に入りて、財貨 取る所無く、婦女 

     幸する所無し。これ、その志、小に非ざるなり。」

      占い師にその気を占わした所、五色に彩られた竜虎の形を成している

     という。

      「これは即ち、天子の気であります。

      一気に劉邦を討滅せねばなりません」と。 

      項羽は翌日を期して、総攻撃を仕掛ける事にした。


     》 項伯の義侠 《

      西楚の左尹・項伯は、劉邦陣営の張良と親交があった。

      項伯はその夜、馬を走らせて劉邦陣営の張良に面談し、事の急を

     告げて張良に陣営からの離脱を勧めた。

      だが張良は義を重んじて、事態を主に告げねばならないと言って、劉邦

     の寝所に急行し、事の一部始終を報告した。

      ここでしばし、劉邦と張良の個人的なやり取りがあったが、結局 張良の

     意見を容れて項伯を陣屋に招じ入れ、劉邦は彼に己の意中と今回の

     取った措置を説明し、項羽の到着を待っていたのだと心情を伝え、項羽

     への助言を依頼した。

      項伯は承知したが、
     
      「明日になれば、ご自身で項王の陣営に参上して謝罪すべきである」、

     と言って帰陣した。

     
      「鴻門玉斗(こうもんぎょくと)

       鴻門で漢王・劉邦と西楚王・項羽が会見した時、劉邦が項羽の

      軍師・范増に贈った玉。

         ☞ ここで玉とは、玉製の酒器。

       范増は、項羽が自分の進言を容れずに劉邦を討ち洩らすと、激怒して

      剣でこの玉を打ち砕き、項羽のもとを去る。


     》 范増の陰謀 《

      翌日、劉邦はわずか騎兵百騎と側近を従えて項羽の本営である鴻門

     を訪れ、項羽に他意の無かったことを訴え且つ侘びを入れた。

      ようやく酒宴となり項羽は劉邦を赦す気になっていたが、軍師の范増は

     劉邦殺害の算段をし、余興の剣舞にことよせて、舞手の項荘

     (項羽の従弟)に隙を見て殺害させようと謀った。

      ところが殺気を覚えた項伯は、旧恩ある張良の為に一肌脱ぎ、自ら

     項荘の剣の舞の相手となり、攻撃をかわして劉邦の窮地を救った。

      張良もこの危地を察して、急遽 幕舎外に待機していた豪傑樊噲

     (はんかい)に連絡を取り、樊噲は強引に警備の兵を押しのけて幕舎に

     侵入した。

      幕舎内では、樊噲の闖入に驚いた項羽は激怒したが、張良に紹介されて

     一応納得し、

      「壮士なり。これに斗卮酒を賜え」と言って、

     大杯に酒を並々と注がせた。

      樊噲がそれを一気に飲み干すと、項羽はさらに勧めて、

      「どうだ、もう一杯飲めるか」と。

      樊噲は応えて、

      「臣、死すら且つ避けず、卮酒(ししゅ)いずくんぞ辞するに足らん

     と言って、これも一気に飲んでしまった。

      この樊噲、劉邦の為に正論を以て堂々と弁明した。

      項羽は其の言に聞き入った後、樊噲の在陣を認めて、張良の次に坐ら

     せた。

      その後酒宴 酣(たけなわ)の頃、劉邦は樊噲を伴って廁(かわや。

     便所)に直行し、項羽に報せることなく灞上の陣屋に帰還したが、項王には

     張良から侘びを言わせることにし、先に宴席で出しそびれた項王と范増

     への献上品を託して、自ら馬に跨り二十里の道程を突っ走った。

      付き随う者は樊噲・紀信・夏侯嬰・靳彊(きんきょう)らであった。
       
                     「史記 項羽本紀」

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(秦を属する者は秦なり、)

     「秦を属する者は秦なり、天下に非ず」

                         ◇ 秦代 ◇

      秦の一族を滅ばしたのは天下の人だと言うが、秦自身によるもので

     他に理由は無い。

      「文章軌範」所収の 杜牧之(とぼくし)「阿房宮賦」が典拠。

         ☞ 属するとは、一族皆殺しを言う。

      「六国を滅ぼすものは六国なり、秦に非ず。

       秦を属する者は秦なり、天下に非ず。」


       戦国時代の戦国七強で、秦を除いた他の斉・燕・趙・魏・韓・楚の

      六ヶ国を滅ぼした者は秦だと言うが、実は滅びる原因が六ヶ国自身

      に有ったのだから、六ヶ国自身が滅ぼしてと言ってもよい。

       同様に、秦についても同じことが言える。

       このように、すべての国の興亡の根本的原因は、自らの内にある

      と言える。  


     》 秦の滅亡 《   前206年

      秦の実質的滅亡は、秦王子嬰が咸陽で劉邦の軍門に下った時である。

      だがその後、項羽が劉邦との鴻門之会を終えた後に、

     西楚王となった項羽は降伏した秦王子嬰を殺害して、咸陽の豪華絢爛

     たる大都城を焼き払った。その時の噴煙は一月余り立ち昇ったと言う。

     

    テーマ : 中国古典・名言
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    中国通史で辿る名言・故事探訪(法は三章のみ)

     「法は三章のみ」

                         ◇ 楚漢時代 ◇

      これから制定する法律は三カ条、即ち殺人・傷害・窃盗の罪のみ。

      秦の過酷な法に代わって、新たに制定する法は、而今 人民を束縛する

     煩瑣な条項は一切廃止するという寛容政策の一つ。

      劉邦は関中を攻略して、咸陽に入洛した後、部下の将兵に一切の

     略奪行為を禁じ、降伏してきた秦王子嬰を寛大に扱い、さらに国内の長老

     や有力者を集めて約束した。

      「皆は長い間、秦の過酷な法に苦しめられてきた。

      この私は関中の王になることを約束されているが、此処で諸兄に約束

     する。

      法は三章だけとする。

      即ち、人を殺したる者は死刑、人を傷つけたる者及び盗みを働いた者

     は処罰するが、秦の定めた諸々の法は廃止する」と。

      この劉邦の約束に人民は歓呼の声を挙げて歓迎し、我先にと飲食物

     を陣中に持ち込んだが、これも劉邦は辞退した。

      かくして劉邦の人気は一気に高まった。

                     「史記 高祖本紀」

     ※ 関中とは、西の隴関・北の蕭関・南の武関に囲まれた

      地域で、古来から中国の中心地となる。

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(毒薬は口に苦けれども)

     「毒薬は口に苦けれども、病に利あり」

                         ◇ 秦代 ◇

      きつい薬は口には辛く苦いけれども、病気にはよく効くものである。

     》 色・物に迷う劉邦 《   前207年

      関中攻略に向かった劉邦は、各地で秦軍を破り、関中一番乗りの一歩

     手前まで進んだ。

      この時、鉅鹿で項羽が秦の主力軍を撃破した事を知った。

      さらに時を同じくして、二世皇帝(胡亥)を弑殺した趙高が、劉邦の下に

     使者を遣わし、漢中を二分しようと持ちかけてきた。

        ※ 漢中とは、漢水(現在の陝西省の南部)の上流域の

          地帯をいう。

      だが劉邦はこの申し入れを謀略であると睨んで、張良の策に従って、

     酈食其と陸賈を秦に送り込んで、秦の多くの武将の帰順買収工作に専従

     させた。

      そして頃合いを見て、武漢を急襲して抜き、一気に漢中に突入して藍田

     で秦軍を撃破。かくして劉邦は、咸陽近くの灞上(はじょう)にまで

     進出した。

      この頃、秦では趙高一族は滅び、本来は三世皇帝たるべき子嬰が秦王

     を称していたが、礼式に則り降伏して来た。

      ここに於いて初めての統一王朝の秦王朝は滅んだ。 

      劉邦は項羽との咸陽先陣争いで、先に咸陽入城を果たすことになった。

      劉邦は、宮殿の金銀財宝の夥しさに目を奪われ、また後宮の美女に

     幻惑されてしまい、そのままこの宮城に居座ろうとした。

      そのような劉邦に対して、先ず樊噲(はんかい)が諌めたが、劉邦は一向

     に聞き入れようとはしなかった。

      物欲と美女の色香に迷う劉邦を推し止めたのが、帷幄の将と言われる

     張良である。 

      張良は説く、

      「秦が非道を働いたからこそ、公はここまで来られたのです。

      天下の為に残賊を除こうとすれば、粗衣粗食に甘んじなければなり

     ません。

      咸陽と陥としたからと言って、贅沢三昧に過ごしたのでは、桀王の暴虐

     に輪をかけた振舞をやったと思われても仕方ありますまい。

      巷間、『忠言は耳に逆らえども行いに利あり、

         (=忠義心から発する言葉は耳障りで聞きにくいものだが、

          何がしかの役には立つもの。)

      毒薬は口に苦けれども病に利あり』とも申します。

      ここは一つ思い止まって下さいますように」と。

                     「史記 高祖本紀」

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(武経七書)

     「武経七書(ぶきょうしちしょ)

                         南北朝時代 

      趙氏創建の南朝の宋朝では、制度として武学(宋代の学校の名)

     において、武生(兵学を学ぶ学生)に兵学を習わせた。

      古来中国では兵略や兵学を論じた書はいくつかあった。

      事の真偽は別にして、周初の太公望呂尚の作という「六韜(りくとう)」

     に始まり、戦国時代の「孫子」、「呉子」、「司馬法」、「尉繚子

     (うつりょうし)」、秦末の「三略」、唐初の「李衛公問対」を以って

     「武経七書」となし、宋朝では武生に必須教科として受講せしめた。

      ※ 司馬法とは、古来から司馬法というものはあったが、斉の

       司馬職に在った田穣苴(じょうしょ)が之を敷衍して明確にした

       と言われる。

        呉子は戦国時代の衛国生まれの呉起の著。

        尉繚子は、秦王政に仕えた正体不祥の策士・尉繚子の著。

        三略は、秦末の伝説的な兵法家の黄石公の著と言われる。

        李衛公問対は、唐初の太宗・李世民を援けて大功のあった李靖

       (りせい)が衛国公に封じられた後、彼の用兵談が後の人により

       質疑形式で収録されたものである。

        なお「六韜」は後に秦漢時代以後の偽作であると論断されたが、

       1972年、漢の武帝造営の銀雀山漢墓群の発掘から出土した竹簡

       の中から、六韜の内の「文韜」、「武韜」、「虎韜」の残簡の53枚が

       検出され、偽作とはいえ既に戦国時代には成立していたと言われる

       ようになった。


     「虎の巻」

        秘伝中の秘伝を言う。

        「六韜」は全六巻あり、六つの武器を入れる革袋に仕舞い込まれて

       いた。

        その内容は、文・武・竜・虎・豹・犬の六つの韜に分類される。

        中でも四番目の「虎韜(ことう)」は特に難しく、秘伝中の秘伝

       とされていた。

        後世、この秘伝書のことを「虎の巻」と称するようになった。

                     「六韜 虎韜篇」

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(烏合之衆)

     「烏合之衆(うごうのしゅう)

                         ◇ 秦代 ◇

      烏の集まりのように、規律のない多くの人の寄せ集め。

     》  趙高の頓挫と二世皇帝胡亥の死  《   前207年

      趙高は、これまで二世皇帝に対して、関東に起こった盗賊は反乱を

     起こす力は無いと報告していた。

     ところが派遣した制圧軍が各地に於いて散々敗れるに及び、皇帝は

     趙高を責めるようになった。

      そのような状況下、秦軍の主力を投入した鉅鹿での攻防戦での敗北は、

     趙高を責める格好の目標ともなった。

      趙高はもはや言い逃れする手立てはなく、病と称して引き籠ったが、

     皇帝は使者を遣り、乱族を跋扈させたその責任を追及した。

      かくして恐れを抱いた趙高は、綿密な計画のもとに娘婿の閻楽

     (えんがく)と弟の趙成に謀り、宮門を守る郎中令を抱き込んだ後、兵を

     動員して皇帝を殺害した。

      二世皇帝(胡亥)の後釜には、人望の厚かった公子・子嬰を立てて、

     三世皇帝は称さず、秦王とした。

      だが、子嬰は即位の為の斎戒の五日目、宗廟への臨席を催促に来た

     趙高を待ち受けて、刺殺した。

     》 劉邦、関中一番乗り 《   前207年

      項羽が上将軍宋義らと鉅鹿に、劉邦が別働隊として関中方面に向かう

     に際して、楚の懐王は諸将を督励したが、その席上で、

      「関中に一番乗りを果たした将を関中の王とする」と約束した。

      関中方面に向かう劉邦指揮下の混成軍は、圧倒的な強さは無かった。

      軍団は先ず函谷関を目指したが、途中で彭越の軍も合流した。

      戦果は思わしくなかったが、とにかく高陽まで軍を進めた。 

      ここで、酈食其(れきいき)という梲(うだつ)の上がらない老儒者

     が劉邦を訪れた。

      劉邦は幕舎の床几に足を投げ出して、女二人に足を洗わせている所で

     あったが、そのままの格好で酈食其を引見した。

      ここで酈食其は劉邦に其の無作法を諌め、怯むことなく正道を説いた。

      さすがの劉邦もその非を覚り、立ち上がって彼を上座に招じて非礼を

     侘びた。

      その後、酈食其は合従連衡策の渦巻いた戦国時代について語った。

      「あなたは糾合の衆を起し、散乱の兵を収め、万に満たざるを以て強秦

     に入らんと欲す。これは所謂 虎口を探るようなものなり。

      陳留は秦の要衝であり、四通五達に道が通じております。

      漢軍は烏合之衆であり、どんなに苦労しても陥落させるのは

     容易ではありません。

      幸い私には陳留の県令と親交がありますので、私を使者として遣わして

     くだされば、県令を説得して帰順させてご覧に入れましょう。

      若し聞き容れなければ、攻めるも良し、その時は私も城内から呼応

     します」と。

      劉邦はその酈食其の提言を聞き容れて、易々と陳留を下し、多くの

     兵と共に糧食を手に入れることが出来、以後の関中侵攻に大いに弾み

     がついた。

      そして、項羽が鉅鹿で足止めされている内に、関中一番乗りを果たした。
     
                     「史記 酈生・陸賈列伝」

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(破釜沈船)

     「破釜沈船(はふちんせん)

                         ◇ 秦代 ◇

      決死の覚悟で決戦に臨むこと。

      軍隊の決戦に際して、渡河強行後は、兵食用の炊飯用釜を破壊し、その

     軍船を破棄水没し、二度と再び生きて帰還しないという強烈な意気込み。

     》 鉅鹿(きょろく)の戦い 《   前207年

      叔父の項梁の戦死後、魯公に封じられ次将となった項羽は、作戦方針

     を巡って上将軍の宋義と対立が生じた。

      項羽は宋義に抗議して言う、

      「秦軍は既に鉅鹿を包囲し、趙軍は糧食にも事欠くほど困窮している。

     此処は直ちに行動に移して黄河を渉り、我が軍が外から攻撃し、趙軍が

     内から呼応すれば、必ず秦軍を撃滅することが出来よう」と。

      だが儒者上がりの宋義は、彼の策を採り合おうとせず、

      「秦軍の疲れを待つべし。彼らに死闘させておいて、後 その虚に乗ず

     べし」と。

      そして我が子を斉の大臣とする手筈を整えて、糧食の乏しい中で、

     我が子の為に盛大な送別の宴会を開いた。

      項羽は、一挙に不満を爆発させ、その夜、項羽は密かに覚悟を決めた。

      「総力を挙げて秦を撃たねばならぬ今、兵糧は底をつき、兵は芋や豆で

     食い繋いでいるというのに、奴ときたら我が子の為に盛大な宴会騒ぎだ。

      この際何をおいても黄河を渉り、趙に兵糧を請うて与に協力して秦を

     討つべきであるのに、秦の疲れを衝くなどと戦略を知らないにも程がある。

      国家の安危はこの一挙に在り。今 士卒を憐れまずして、

     その私を営む。社稷の臣に非ず
    」と。

      翌朝、項羽は宋義の幕舎を訪れ、有無を言わさず一刀のもとに

     上将軍・宋義を斬り殺して、軍中に布告した。

      「宋義、斉と謀りて楚に背く。

      楚王 密に羽(項羽)をして之を誅せしむ」と。

      そして宋義の子を殺し、桓楚を使者に立てて懐王に事の顛末を報告

     させ、懐王は改めて項羽を上将に任じた。

      項羽は全軍を率いて直ちに秦軍に包囲されている趙を救うべく、黥布と

     蒲将軍に命じて、二万の兵で鉅鹿に向かわせた。

      だが戦況は好転せず、趙の陳余将軍からしばしば救援の要請が来た。

      項羽は全軍を率いて黄河を渉った。

      黄河を渉るや、皆 船を沈め、釜甑(ふそう)を破り、盧舎を焼き、

     三日分の糧食を持ち、以って士卒に死を必して、一の還心無きを示した。

      鉅鹿に至った楚軍は、王離の軍を包囲するとともに、章邯の軍とは

     九度にわたり激戦を繰り広げた。

      そして遂に章邯の指揮する糧食運搬用の軍用道路を遮断することに

     成功し、ここに大勢は決した。

      王離は捕獲され、蘇角は殺され、渉間は陣没した。

      鉅鹿に救援に駆けつけた諸侯は、それぞれ砦を築き、いずれも高みの

     見物と決め込んで、それぞれの砦からは一歩も出ようとはしなかった。

      そんな彼らの眼前で、項羽の兵は一を以って十に当たる奮戦ぶりで、

     その雄叫びは天を衝く勢いがあり、諸侯の兵はただ息をのんで見守る

     ばかりであった。

      かくして、項羽の軍は秦の包囲軍を撃破して、二十万を捕虜とした。
     
                     「史記 項羽本紀」

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(指鹿為馬)

     「指鹿為馬(しろくいば)

                         ◇ 秦代 ◇

      「鹿を指して馬と為す」と訓読する。

      無理強いすること。

      また、間違った事を強引に押し通す例え。

     》 趙高の専横始まる 《

      趙高は丞相李斯を罠にかけて、李斯一族を誅滅した。

      そして遂にその本性を露わにし、自ら帝位に就こうとする野望を持つ

     ようになった。

      今後、己に敵対する者を完全に排除すべく画策を巡らした。

      その手段の一つとして、皇帝に鹿を献上して、己に反対する者の動向を

     直ちに確認しようとした。

      或る日のこと、宮廷の庭園で群臣と共に遊んでいた皇帝の下に、趙高は

     鹿を連れてきて皇帝に厳かに言上した。

      「馬を献上致します」と。

      皇帝は笑って言う、

      「鹿ではないか」と。

      だが趙高は応じず、

      「鹿でございます」と。

      そこで皇帝は、側近やら群臣に下問した。

      「之は馬か鹿か」と。

      すると問われて、顔を伏せる者、趙高の顔色を窺う者、鹿と対える者

     とに分かれた。

      果たして趙高は、この日の側近や群臣の言動をよく覚えておき、後日 

     それぞれの言動に応じて、別な理由付けをして己の意に反する者たちを

     処罰してしまった。

                     「史記 趙高列伝」

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(金城湯池)

     「金城湯池(きんじょうとうち)

                         ◇ 秦代 ◇

      極めて堅固な城や砦。

      金属のような堅固な城壁と煮えたぎっている湯のような堀の意。

      転じて、守りの堅いことを云う。

      秦末の乱世期、反乱軍の陳渉の命を受けて、趙の地を平定した武信君

     という者がいた。

      この趙の平定前に、この武信君の説客である蒯通(かいとう。

     本名は蒯徹)が、武信君に次のように進言し且つ運動した。

      「先ずは趙に隣接する范陽の県令を説得して、当方に帰順させるべき

     である。

      若し相手が抵抗して戦闘にでもなれば、相手側は金城湯池

     となり、攻める側は大きな損害を被るのは必定である。


      従って利を以て帰服させることが上策であり、この帰順が成功すれば、

     以後 多くの県でも当方に帰順を希望して来るであろうことは間違いありま

     せん。

      ここは私が范陽に行って、徐公という県令を説得して参りましょう」と。

      かくして蒯通は范陽の県令に面談して説得し、難なく范陽の帰順を実現

     させた。

      武信君はこの蒯通のお蔭で、血を流すことなく、隣接地を帰服させる

     ことが出来た。

                     「史記 蒯通列伝」

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(壱敗、地に塗る)

     「壱敗、地に塗(まみ)る」

                         ◇ 秦代 ◇

      見る影もなく敗北し、再起不能となること。

      「地に塗る」とは、死体からはみ出した内臓や脳漿が、泥に塗れて

     散らばることを云う。

     》 劉邦の旗揚げ 《

      劉邦が泗上の亭長に命じられてから後のこと、咸陽の陵墓建設工事

     の為に囚人の酈山護送が命ぜられた。

      ところが護送の途中で次々と脱走者が続出し、最早その任を完遂

     できなくなってしまった。

      そこで、豊邑を過ぎたところで、囚人たちを解き放ってしまった。

      そんな劉邦の豪胆さに接して、囚人の血気盛んな者たちは劉邦に

     つき従い、彼の下から離れようとはしなかった。

      ちょうどその頃、陳渉呉広の反乱の報に接し、各地で蜂起が続いたが、

     遂に劉邦もそれに呼応して立ち上がった。

      故郷の沛県に至ると、県の掾(えん。助役)の蕭何(しょうか)、主吏

     (獄卒)の曾参(そうしん)、厩(うまや)の御者の夏侯淵、屠殺を生業と

     する樊噲、葬式の笛吹きの周勃(しゅうぼつ)らは、劉邦のために奔走して

     若者を集め、その数は三千に達した。

      時に、劉邦 四十八歳であった。

      劉邦の檄文に接した者たちは立ち上がり、県知事を斬り、城門を開いて

     劉邦たちを迎え入れて、劉邦を新しい知事に推そうとした。

      だが劉邦はいったんは辞退し、

      「天下は麻の如く乱れ、各地に諸侯が蜂起した今、

     将を置くこと善からずんば、壱敗、地に塗れん
    」、と言って

     身を退こうとした。

      だが結局、他になり手は無く劉邦は知事を引き受け、すなわち沛公と

     なり、その後は、漢王になるまでは沛公と呼ばれることになる。

                     「史記 高祖本紀」

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(ああ大丈夫、当にかくの如くなるべし)

     「ああ大丈夫、当にかくの如くなるべし」

                         ◇ 秦代 ◇

      後に漢を建国する劉邦が若かりし頃、庸役で国都の咸陽に行かされ

     た時、たまたま始皇帝の姿を垣間見ることがあった。

      その時、劉邦がため息混じりに言った言葉である。

      ※ この劉邦の言葉は、項羽の言葉である、「

        彼、取って代わるべきなり
    」と、しばしば対比される。

        この対比は、楚・漢のし烈な争いを繰り広げた両雄を、共に際立た

       せるために語られたものであろうが、項羽はさもありなんとしても、

       一介の農民くずれの不逞の輩に過ぎなかった頃の名も無き劉邦

       には、その存在性を傍証する何者も無いと言える。

     》 劉邦の出自 《   

      劉邦は、沛県の豊邑の中陽里に生まれる。姓は劉、名は邦、字は季とも。

      前漢の時代を通じて高祖・劉季には、名はあったとしてもその記録は

     無く、また人に知られるという事も無かった。

      漢建国以前は、沛公という呼び名で記録されている。

      字とされる季は、一般的には長幼の順序を示すものであり、いわゆる

     末弟の呼称である。

      また名とされる邦も、実は後漢以後につけられた名であるとも言われる。

      前漢初期の人である司馬遷の「史記」では、邦という諱(生前の名)は

     用いていない。

      そのような訳で、劉邦の父についてもその名を知るすべはなく、

     尊称で太公と呼ばれ、母も劉氏の老母という意で劉媼(りゅうおん)と

     言われる。

     》 劉邦、亭長となる 《

      沛公は生来、寛容で人付き合いも良く至って鷹揚であったという。

      だから家の仕事などは手伝わず、遊侠の徒に交わり、いつしか親分肌

     を発揮するようになった。

      単父県に呂公と謂う観相(人相見)に長けた長者がいたが、ある日 

     劉邦の人相を見て驚愕し、急いで自分の娘を彼に嫁がせた。

      この人こそ、後年の呂后である。

      劉邦には、不思議と何か雲気のようなものが漂っていたという。

      ある時、天子が東南に天子の気が感じられるとして東游した。

      其れを伝え聞いた劉邦は、自分の事ではないかと気に病み、妻にも

     知らせず山中に身を隠したことがあった。

      ところが、妻の呂氏はいとも簡単に彼を探し出した。

      彼女の言うには、夫には雲気が漂っていたと。

      この話が広がるにつれて、沛県では劉邦を慕ってくる者が急増した。

      その内、彼が三十歳になった頃、ようやく小役人に採用され、泗水の亭長

     となることになった。

        ☞ 亭長とは、宿駅の管理や治安維持の責任者。



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    中国通史で辿る名言・故事探訪(書は以って名姓を記するに足るのみ)

     
     「書は以って名姓を記するに足るのみ」

                            ◇ 秦代 ◇

      書 即ち文字(漢字)は、自分の姓名が書ければそれでよし。

      楚の名門の出の項籍(字は羽)は、子供の頃から叔父の項梁に扶養

     されていたが、学問を学んでも熱心ではなかった。

      やがて剣を学ぶようになったが、これもすぐ投げ出してしまった。

      そこで叔父の項梁は怒って説教するが、項籍は言う

      「書は以って名姓を記するに足るのみ。

       剣は一人の敵なり、学ぶに足りず。万人の敵を学ばん」

     と嘯(うそぶ)いた。

      (=文字は自分の姓名を書くのに役立つだけのことであり、

        剣はたった一人の敵を相手にするに過ぎないので、

       学ぶ価値が無い。

        出来るならば万人の敵に打ち勝つ術を学びたい。)

      そこで項梁は、今度は兵法を教えたという。

      だが狩猟には非常に興味を持ち、好きこそものの上手なれで、弩弓の

     腕前は大いに上達し、後には名人上手の域に達するとともに超絶した

     剛腕ぶりを発揮するようになる。

                     「史記 項羽本紀」

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(正正堂堂)

     「正正堂堂(せいせいどうどう)

                         ◇ 戦国時代 ◇

      威儀の整った形容。

      軍の陣容や人の態度などが良く整って立派な様を言う。

      転じて、懼れ怯えることなく、正しい態度で胸を張って立ち向かうこと。

      「正正の旗を邀(むか)うる無かれ。堂堂の陣を撃つ勿れ。」

      (=陣容・軍勢の良く整った軍を迎え撃ってはならない。

        戦意の旺盛な軍に攻撃を仕掛けてはならない。)

                     「孫子 軍事」

      日本では、スポーツ競技などの開会式などでは、しばしば選手宣誓

      の決まり文句として、「正々堂々」なる言葉が使われるが、本来の

      意味は、よく訓練された戦意のみなぎる軍を相手にして戦っては

      ならないという、不戦の意味であった。

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(彼、とって代わるべきなり)

     「彼、とって代わるべきなり」


                         ◇ 秦代 ◇

      彼 即ち始皇帝にとって代わろうという、若き日の項羽の恐れを知らぬ

     強烈な自我意識と野望。

     》 力は山を抜く項羽 《 

      項羽は前232年(楚・幽王㊶六年)の生まれで、名は籍、字は羽。

      先祖代々 楚国の将軍を務めた名門貴族の出身である。

      秦末の陳渉・呉広の乱に呼応し、伯父の項梁とともに会稽郡で蜂起する。

      その後、各地を転戦し、才気溢れる天下無双の豪傑として名を馳せるも、

     過激な気性と強烈な自負心の持ち主でもあった。

      そのような項籍が世に出る前の無名の青年であった頃、伯父の項梁に

     連れられて始皇帝の会稽郡の巡幸を見物したことがあった。

      始皇帝の御車が遥か彼方の浙江を渉ろうとする時、項籍は何を思ったか、

      「彼、とって代わるべきなり」という言葉がその口を衝いて出た。

      今にき奴にとって代わるぞ、と謂うので、叔父の項梁は慌てて其の口を

     抑えたという。

      だが項梁は、この時から項籍は並の男ではないと確信し、我が子よりも

     重要視するようになったという。

                     「史記 項羽本紀」

    テーマ : 中国古典・名言
    ジャンル : 学問・文化・芸術

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(先んずれば人を制し、)

     「先(さき)んずれば人を制し、

        (おく)るれば即ち人の制するところとなる」

                         ◇ 秦代 ◇

      先手を打てばよく人を制しうるが、逆に後れを取れば自然と人に制せられ

     るようになる。

     》 楚の項梁 立つ 《   前209年

      その昔、楚の名将として名を馳せた大将軍・項燕の末子である項梁が、

     遂に自立した。

      曽て項梁は、父・項燕の戦死及び楚の滅亡により、連座制で秦朝の

     捕吏に捕えられたが、時の獄吏・曹咎(そうきゅう)とその上司・司馬欣

     の計らいにより助命されるという過去があった。

      その後、彼はある事件で人を殺めたことがあり、官憲の追跡を逃れ、

     兄の子である項籍(字は羽)を連れて呉に身を潜めていた。

      だが彼は持ち前の剛毅さで以って、人々から既に確たる人望を博して

     いた。

      時に、発生した陳渉・呉広の反乱により、反秦の烽火は燎原の火の如く

     全国に波及した。

      会稽郡でも、郡守の殷通(いんとう)はその機運に便乗すべく、先ず土地

     の名望ある実力者の項梁を招聘して、軍の指揮を依頼しようとした。

      そしてその席上で項梁に向かって曰く、

      「先んずれば人を制し、後るれば即ち人の制するところとなる」

      ところが殷通の思惑はとは裏腹に、項梁は甥の項籍を呼び出して

     密かに打ち合わせをし、改めて項籍を殷通に紹介しようとした際に機を見て

     殷通を一刀の下に斬らせ、自ら殷通に先んじて制するところとなり、会稽郡

     の精兵八千を自ら掌握するところとなった。

                     「史記 項羽本紀」

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    テーマ : 中国古典・名言
    ジャンル : 学問・文化・芸術

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(歯牙に懸くるに足らず)

     「歯牙に懸(か)くるに足らず」

                         ◇ 秦代 ◇

      議論の対象にすらならないと言う事。

      ※ 議論の対象とすることを、

        「歯牙に置く」或いは「歯牙に挂(か)ける」という。

     》 二世皇帝と叔孫通 《

      陳渉・呉広の反乱の報せが、二世皇帝(胡亥)胡亥の耳に入ることに

     なった。

      この事態を憂慮した胡亥は、側近を始めとする学者連中を呼び集めて、

      曰く、

      「楚の戌卒(じゅうそつ。辺境の守備兵)、蔪(き)を攻め陳に入る。

       公(皆の者)において如何」、と。

      即ち、彼らの見解を質したのである。 

      これに対して、三十人余りの博士や学者連中は、それぞれ進み出て

     言った。

      「人臣 将(しょう)なし、将すれば反す。罪は死、赦すこと無し。

      願わくば陛下、急に兵を発して之を撃て」と。

      (=この事態は人臣の将(まさ)に為すべきことではありません。

       将(まさ)にせんとするだけでも反逆罪になります。其の罪は死ある

       のみ、赦すべきではありません。

        陛下 どうか直ちに討伐なさらんことを。)

      だが、反逆という言葉を耳にした胡亥は、急に怒りだした。

      その時、博士候補の叔孫通(しゅくそんとう)が口を開いて、

      「皆さんの意見は間違っています。英明な君主を戴き、法は整備されて

     おり、四方の民は皆、秦に帰順しております。

      このような時に、誰が反逆など致しましょうや。

      これただ群盗、鼠窃狗盗(そせつくとう)なるのみ。

     何ぞ之を歯牙に懸くるに足らんや。郡の守尉、今 捉えて論ぜん。

     何ぞ憂うるに足らん
    」と言って、独り迎合的説明をした。

      (=彼らはただの盗賊で、鼠や犬のように隠れてこそこそ物を盗む

       コソ泥の類なるのみ。議論の対象にもならず、さっさと捕えて処罰

       すべきもの。

        間もなく官憲が捕えて、処罰するでしょうから御心配は無用です。)

      二世皇帝胡亥は満足そうにうなずき、さらに学者一人ひとりに意見を

     求めて、猶も反逆説を称える者は獄吏に引き渡し、叔孫は博士の官に任じ

     て多大な褒美を下した。

      だが叔孫通は、その後 官を辞してさっさと故郷に隠れ、その地を支配

     していた項梁に仕え、さらに後には懐王、そして劉邦を主とした。

                     「史記 劉敬・叔孫通列伝」

     

    テーマ : 中国古典・名言
    ジャンル : 学問・文化・芸術

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(幽谷より出でて、)

     「幽谷より出でて、喬木に遷(うつ)る」

                         東周時代

      たんに「遷喬」或いは「遷鶯」とも言う。

      春になって、鶯などが奥深い谷から出て来て、都や人里に近い高い木に

     遷り棲むこと。

      転じて、出世したり、栄転すること。

        ☞ 喬木とは高い木をいう。

      「詩経 小雅 鹿鳴之什・伐木」が出典である。

      
         木を伐(き)ること丁丁(ちょうちょう)たり

         鳥鳴くこと嚶嚶(おうおう)たり

         (=木を伐る音はカーンカーンと、

          鳥の鳴く声はチューンチューンと。)

             ☞ 丁丁は、斧で木を伐る音。物の音の形容。

               嚶嚶は、鳥が仲良く鳴き交わす声。

               転じて、友人が互いに励まし合う声。

         幽谷より出でて 

         喬木に遷る

         (=その鳥は奥深い谷間から出てきて、

          人里にある高い木に遷る。)

         嚶として其れ鳴くは

         其の友を求むる声

         (=鳥が仲良く鳴き交わすのは、

          その友を求めんとする為なのだ。)

         相(そ)れ彼(か)の鳥の

         猶 友を求むるの声

         (=そのように鳥ですら、

          友を求めて止まないのだ。)

         矧(=矤。いわ)んや伊(こ)れの人

         友生も求めざらんや

         (=ましてや人が、

          兄弟仲良くすることを神に求めないはずがないのだ。)

         神の之を聞き

         終(すで)に和し且つ平らかなり

         (=神が其れをお聞きになられたからこそ、

          我らに和平を下されたのだ。)

       ※ 鶯が谷間から喬木に遷っても、昔の友を忘れないように、

         祖霊より下された平安の下に、一族がさらに繁栄し且つ和合

         することを願っての歌である。

         そこから、いつしか人が出世したとしても、昔の仲間を見捨てる

        べきではないという戒めの意にも解される。

      自らの因により自滅した「夥し渉」の陳渉への懺悔

      および訓戒の言葉として、詩経から「遷喬(遷鶯)」を

      敷衍したと。

    テーマ : 詩・和歌(短歌・俳句・川柳)など
    ジャンル : 学問・文化・芸術

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(夥し渉)

     「夥(おびただ)し渉(しょう)

                         ◇ 秦代 ◇

      群雄割拠することの揶揄。

      夥しい数の渉(陳渉)が乱立するの意。

     》 大楚の建国 《   前209年

      流亡する農民の集団を率いて反乱に立ち上がった陳渉と呉広の二人

     は、衆望を担って、自らの思い付きでそれぞれ名を扶蘇と項燕と名乗る

     事にした。

      扶蘇は秦王政の長子であり、項燕は在りし頃の楚の名将である。

      そして楚国の風習に従って儀式を執り行い、国号を「大楚」と定め、

     陳渉は将軍となり、呉広は都尉となった。

      彼らは先ず大沢郷を占領し、武器と兵士を増やし、いよいよ蘄県

     (きけん)を攻略した。

      その後も次々と近辺を攻略し、進軍するにつれて次第に兵力も増大

     した。

      陳を攻略する頃には、兵車七百両・騎兵千騎・兵卒数万の大勢力と

     なっていた。

      陳を攻めた時、陳の郡守や県令は逃亡し、強い抵抗は受けずにこの地

     を攻略し根拠地とした。

      陳渉・呉広の反乱を契機として、反乱は全国規模で波及したが、その内 

     陳渉らの下に二人の人物が訪れた。

      隠れた賢者として知られ、魏の名士でもあった陳余と張耳である。

      陳渉らも、予てから彼ら二人の噂は知っていたので、大いに歓待した。

      その会見の席上で、陳の有力者たちは、陳渉に王位に就くように薦めた。

      そこで陳渉は、その二人に意見を求めた。

      ところが二人は進言して、

      「あなたは秦の無道を見かねて、万死に出でて一生を顧みず、天下の

     ために秦打倒を図っておられる。

      若しここで王を称したら、それは私心から発したものと天下に宣言する

     ようなもの、どうか王を称するのはお止めください」と。

      二人の意見は陳渉の反乱の意義を高く評価し、さらに大きな目標に

     向かって初志を貫くよう勧めたのであったが、陳渉にはそれが解るほどの

     人物ではなかった。

      やがて陳渉は王位に就き、陳で君臨するようになった。

      陳渉が絶頂期にあた頃、かつて雇われ農夫をしていた時の仲間の一人

     が、陳渉が王になったと伝え聞き、陳までやって来た。

      男は宮門で門衛に交渉するが、相手にされず叩き出された。

      すると次に、その男は陳王が外出するのを待ち構えて、陳王の車列を

     見るや、いきなり陳王の車馬に向かって、“渉”と叫んだ。

      陳渉はすぐに気づいて、男を招き寄せ、自分の車に同乗させて宮中に

     連れて帰った。

      男は宮殿の結構や帷の豪華さに肝を奪われて、叫んだものである。

      「夥し頤(い)。渉の王たること、沈沈(盛んな様)たるものなり」と。

         ☞ 頤の字は、夥しの語調を強める助字。

      この男の話は、たちまち世間に広まり、「夥し」なる語が流行った。

      当時は当に各地に群雄割拠の状態が続いていたが、

      以後 群雄の乱立を「夥し渉

     と言うようになる。

      その男は以後、宮殿で勝手気儘に振舞い、誰彼となく陳王の昔のことを

     得意げに喋りまくった。

      その内 陳王の側近で、その男の言動を忠告する者があって、陳王も

     止むを得ず、その男を殺させた。

      だが、その事があってから陳王の昔からの仲間は、すべて宮中から姿

     を消し去り、陳王に親しむ者は一人もいなくなってしまった。

      これが仇となって、わずかに半年後には陳渉も世を去ることになるが、

     その末路は自分の御者の手に掛かることとなる。

                     「史記 張耳・陳余列伝」

    テーマ : 中国古典・名言
    ジャンル : 学問・文化・芸術

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(鴻鵠の志)

     「鴻鵠(こうこく)の志」

                         ◇ 秦代 ◇

      英雄や豪傑といった大人物の志とか、遠大な志の例え。

      また小さい人物には、大人物の胸中は計り知れないと言うことの例え。

        ☞ 鴻はヒシクイ、鵠は白鳥で、共に大きな鳥である。

      中国史上初の農民反乱の魁(さきがけ)となった陳渉は、若い時には

     人に雇われて農作業に従事していた。

      時に仕事の農作業を休んで、畦道でしばらくの間 手を休めていたが、

     何を思ったかうんざりしたように溜め息をついてから、ふと言わずもがなの

     言を漏らした。

      「若し富貴なりとも、相忘るることなからん」と。

      (=若し将来、偉くなるようなことがあれば、お互いに助け合おうでは

       ないか。)

      彼の傍らにいたのか、同じ雇われ農夫の一人が、笑いながら言った。

      「汝 庸耕(ようこう)を為す。何ぞ富貴にならんや」と。

      (=お前は雇われのしがない身分だぞ。偉くなれる訳がないぞ。)

      陳渉は憤慨して言った。

      「嗚呼(ああ)、燕雀(えんじゃく) いずくんぞ鴻鵠の志を知らんや

     と。

      (=ああ情けない、小人物《燕や雀の如き小鳥》が、どうして大人物

       《鴻や鵠のような大きな鳥》の志が分かろうか。分かる訳がない。)

                  「史記 陳王世家」・「呂氏春秋 士容論」 

     

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    テーマ : 中国古典・名言
    ジャンル : 学問・文化・芸術

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(王侯将相、寧んぞ種あらんや)

     「王侯将相(おうこうしょうしょう)

        
    (いずく)んぞ種(しゅ)あらんや」


                         ◇ 秦代 ◇

      大人物の志、或いは、遠大な志を言う。

      君王は王朝の、諸侯は国家の要であり、将軍、宰相は国家の重鎮で

     ある。

      そのような非常に身分の高い人は、特別な人種なのだろうか。

      いや、そんな訳がない。

     》 陳渉、呉広の挙兵 《

      秦の二世皇帝(胡亥)元年(前209年)7月、朝廷は日ごとに賦役を

     免除されている極貧の人民まで狩り出して、遠く北方の漁陽での国境

     警備に動員しようとしていた。

      そのような一団で、総勢九百人が漁陽(現 北京の東北)に向かう

     途中、大沢郷という所で野営中、折りからの大雨に祟られ、道路は水没

     してしまった。

      一団は行旅の途中であったが、状況はもはや指示された到着の期限

     までに着くことは不可能となっていた。

      秦の法では、期限までの現地徴用を果たさなければ、理由のいかんを

     問わず、皆 斬刑として処罰された。

      そのような状況下、一団の頓長の陳渉と呉広は、引率責任者(尉官)に

     知れないようにして、密に相談した。

      「今 逃ぐるも亦 死せん。大計(反逆しての謀反)を挙ぐるも亦 

     死せん。等しく死するならば、国に死するが可ならん乎(か)
    」と。

      二人は、遂に結論を出した。

      呉広はもともと部下を可愛がっていたので、召集された雑卒たちの

     中には、呉広の為に役立とうとする者が多かった。

      ある時、引率の長が酒に酔っていたので、呉広はその長を怒らせよう

     として、聞こえよがしに、

      「自分は何度も逃亡しようと思っていた」と言って、長を激怒させ、

     大勢の前で吾が身が鞭打たれるように仕向けた。

      呉広は心中で、多くの召集された雑卒が其れを見て、反旗を翻すことを

     期待していたのである。

      果たして呉広は鞭打たれたが、長の剣が抜け落ちたのを見届け、

     起き上がりざま、其れを奪い取り長を殺害した。

      之を見た陳渉も呉広を加勢して、もう一人の長をも殺害した。

      かくして二人は、反旗に呼応した仲間を集めて宣言した。

      「吾等は長雨に遭ったため、皆もう期限には遅れてしまった。

      期限に遅れたら皆斬罪である。たとえ斬られることが無いとしても、

     辺境の警備に遣られれば、固より十人の内 六,七人は死ぬ。

      かつまた壮士たる者、死なずにおれるものなら、其れも良し。

      だがどうせ死ぬなら、名声を挙げて死ぬべきである。

      王侯将相 寧んぞ種あらんや」と言って、

      反抗の檄を飛ばした。

      かくして、陳渉・呉広の反乱は、燎原の火となり、全国で反乱、

     自立の旋風が巻き起こった。

                     「史記 陳王世家」

     

    テーマ : 中国古典・名言
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    中国通史で辿る名言・故事探訪(恬の罪は地脈を断ち切るや)

     「恬(てん)の罪は地脈を断ち切るや」

                         ◇ 秦代 ◇

      この恬(蒙恬)の罪は、この大地を分断して断ち切ったからなのか。

      咸陽から遥か西北方の臨洮(りんとう)にかけての直道と長城の建設を

     指揮した蒙恬将軍の嘆きと自戒の言葉。

     》 扶蘇と蒙恬の死 《

      始皇帝の命により、臨洮で長城建設の総指揮を採っていた将軍蒙恬

     と蒙恬の押えとして派遣されていた始皇帝の長子・扶蘇に対して、

     前210年、趙高らは策謀を回らして彼らに偽りの詔勅を発して、

     死を命じた。

      扶蘇は疑いつつも、

      「父にして子に死を賜う、尚いずくんぞ復(ふた)たび請わん」

      と言って命に服したが、蒙恬はこれを信ぜず反抗の構えを示した。

      だが時は既に遅く、勅命が偽りである事を知りつつ、差し迫った状況を

     打開する策は無く、ため息をついて曰く、

      「吾 恬の罪はもとより死に当たる。

     臨洮から遼東まで万余里を築いた時、地脈を絶ち切るや
    」と。

      結局 自ら毒を仰いで自殺した。

                    「史記 李斯列伝」

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(断じて行えば、鬼人も之を避く)

     「断じて行えば、鬼人も之を避く」

                         ◇ 秦代 ◇

      相手を励ます場合や、最後の決断を迫るような場合に使う言葉。

      遅疑逡巡せず決然と事を実行すれば、最早 何者も之を妨害することは

     出来ない。

     》 趙高の野望 《

      始皇帝が病没した際、玉璽と残された書簡(遺詔)は中車府令の趙高の

     手元にあった。

      趙高は、玉璽と遺詔を公子・胡亥に示して説得にかかった。

      ところが胡亥は、趙高の持ちかけた帝位簒奪に初めは同意しなかった。

      趙高は意を強くして、

      「小事に拘り大事を見失っては、反って禍を招き、狐疑逡巡すれば後悔

     するだけである。

      断じて敢えて行すれば鬼神も之を避け、

      後 功を成すなり
    」と決断を迫った。

      それでも胡亥は、

      「未だ喪を発せずして葬礼も執り行っていないのに、そんなことを丞相の

     李斯に切り出せるものではない」と嘆息した。

      だが趙高は畳みかけて、

      「今 この時だからこそ、この機会を見逃すべきでなく、馬を疾走

     させて、時を求めなくてはならないのです」と説得した。

      ここにおいて、遂に胡亥も同意した。

      次に、趙高は丞相・李斯の説得にかかった。

      李斯は始皇帝の死を秘して喪を発しなかったのは、あくまで治安維持上

     の理由によるものであった。

      だから趙高から大子のすげ替えを持ち出されても、同意しようとは

     しなかった。

      だが趙高の野望を阻止しようともしなかったので、趙高に付け入られる

     隙があったと言える。

      趙高は執拗に李斯に取り入り、硬軟を使い分けた説得をして、最後は

     半ば威嚇的な言辞を弄した。

      「今や天下の帰趨は胡亥様の出方にかかっているが、その胡亥様の

     お心は私が握っている。

      外廷の臣が宮中を制し、臣下が主上を制するのは惑と言い、賊と言う。

      上下和すれば長久なるべく、中外一の如くなれば、事 表裏なし。

      君 臣の計を聞かば長く封侯を保ち、世よ孤と称し必ず長寿の智あらん。

      今 之を釈(す)てて従わずば、禍 子孫に及び、以って寒心をなすに

     足らん。

      善者は禍に因りて福となす、君 いずくにか処(お)」と。

      李斯は天を仰いで嘆じ、涙を垂れ、ため息をして、

      「ああ、独り乱世に遭い、既にもって死すること能わず。

     いずくにか命を託さん」と言って、遂に同意した。

                     「史記 李斯列伝」

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(柩と咸陽に会して葬れ)

     「喪(ひつぎ)と咸陽に会して葬れ」

                         ◇ 秦代 ◇

      始皇十三年(前210年)七月、始皇帝は第五回の巡幸の途中、沙丘で

     病死した。

      旅先のことであり、まだ正式な後継者も決まっていなかったので、その死

     は秘匿された。

      その死を知っている者は、同行していた公子・胡亥(こがい)、宰相の

     李斯、始皇帝のお気に入りの宦官の趙高、その他 始皇帝側近の宦官

     を含めても数人であった。

      公子の胡亥は、幼少時から趙高が傅(お付きの教育係)をしており、

     趙高の心中には、出来るものなら次期皇帝にと、野望の火が灯った。

      ところが、始皇帝は生前に自らの死を覚り、かねて辺境の地に遠ざけて

     いた長子の扶蘇宛の書簡を趙高に託していた。

      書簡の内容には、

      「兵を以て蒙恬に属(しょく」)し、

      喪(ひつぎ)と咸陽に会して葬れ
    」というものであった。

      即ち辺境の守備は蒙恬将軍に任せておき、汝は国都の咸陽に帰り、

     吾が遺骸を迎えて葬儀を執り行えとのことで、暗に扶蘇を許して吾が

     後継者とするという遺勅でもあった。

                      「史記 李斯列伝」

     

    テーマ : 中国古典・名言
    ジャンル : 学問・文化・芸術

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(焚書坑儒)

     「焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)

                         ◇ 秦代 ◇

      統一王朝・秦の始皇帝による思想弾圧。

      始皇九年(前213年)、「焚書令」により官庫及び博士の官の蔵する

     物を除いて、民間に於いて有する医薬・卜筮・種樹(農事関係)以外の

     すべての書を集めて、焼き捨てさせた。

      そして翌年、それに対して批判的な言論をする儒者や方士 数百人を

     捕えて阬(あな)に埋めて集団処刑した。

      世にこの焚書と儒者などの阬埋めを、焚書坑儒という。

     》 焚書令の経緯 《

      始皇九年、始皇帝は咸陽宮で酒宴を催うしたが、その席上 博士七十人

     が進み出て始皇帝の長寿を祝った。

      その時博士の一人の淳于越が次のように進諌した。

      「殷・周の王朝が千年余の長きに栄えたのは、子弟や功臣を諸侯に封じ、

     王室の枝輔(藩屏の意)としたからであります。

      今 陛下、海内を保つも、その子弟は匹夫に過ぎません。

      若し古の斉の大夫の田常や晋の六卿のような勢力を持つ悖逆の臣が

     現れて、天子の位を窺う事態となれば、輔弼無くして何を持って対応する

     ことが出来ましょうや。

      事、古を師とせずして能く長久なる者、聞くところに非ざるなり。

      今 然るに青臣(未熟な臣)また面諛(御前で侫う)して以って、陛下の

     過ちを重ぬるは忠臣に非ざるなり」と。

      始皇帝は、この問題の検討を群臣に命じた。

     》 丞相・李斯の進諌 《

      李斯は下問に対えて曰く、

      「五帝は同じ政治を繰り返した訳ではなく、夏・殷・周の三代も前代を

     踏襲することなく、それぞれの治世を実現しました。

      それは殊更に違った道を採ったのではなく、時代が変わったからなの

     です。

      今 陛下、大業を創め、万世の功を建つ。固より愚儒に知る所に非ず。

      かつ、越(淳于越)の言は、すなわち夏・殷・周の三代の事にして、遥か

     昔の事なり。何の模範となりましょうか。

      今 天下は既に定まり、法令はただ一途より出るだけです。

      百姓は農耕に努め、士は法令を学び禁令に触れないようにするだけの

     時代です。

      ところが今、諸生(諸々の儒者)、令(法令)を師とせずして、

     古(いにしえ。儒の古典籍)を学び以って当世を誹り、黔首(人民)を惑乱

     す。 

        ☞ 秦代は人民のことを、黒い頭髪をむき出しにして無冠で

          あったので、黔首と言う。

      また法令の下るや、各々其の学を以て論評し、心中では否定し、外に

     出ては巷で議論し、多くの門下生を率いて誹り合っております。

      臣 請う、

      史官の秦の記に非ざるもの(秦の国記以外のもの)は、皆 之を焼き、

     博士の官の職とする所に非ずして、天下の詩書(詩経と書経)・百家の語

     (諸子百家の記録した書)を蔵するもの有らば、皆 守尉(郡守と丞尉)

     に詣り(いたり。提出させること)、雑(まじ)えて之を焼かんことを。

      詩書を偶語(ぐうご。語り合う)する者 有らば棄市(処刑して屍を市に

     曝す刑)せんことを。

      古を以って今を誹る者は族(連座族滅)せんことを。

      去らざる所の者は(廃棄焼却しないもの)、医薬・卜筮・種樹の書のみ。

      若し法令を学ばんと欲する者有らば、吏を以って師と為さんことを」と。

     》 挟書の律 《

      始皇帝はこの李斯の建議を採択した。これより以後は、漢代の初期まで

     「挟書の律」と称される。

      令が下されてから、猶予期間は三十日と定められた。

     》 坑儒事件 《

      翌年、始皇帝に取り入って不老不死の仙薬探しを命じられていた方士の

     侯生と盧生が、万策尽き果てて、突然 悪態を残して行方を眩ますという

     事件があった。

      始皇帝は大いに怒り、方士・道士・儒者で咸陽に在る者 総て検察の手

     で調べ上げさせた。

      だが連中は、お互いにあれが悪い是が悪いと言って、自分を正当化する

     ばかりであったので、四百六十四人を妖言を成して人民を惑乱したという

     理由で、咸陽に於いて阬殺(穴埋め)した。

      この事件では一部の儒者なども絞殺されたが、主体となったのは方士

     などである。

      この焚書坑儒事件は、漢代になって儒教的な立場の歴史家が、漢朝と

     対比する上で、秦の始皇帝の暴虐性を必要以上に誇張して、漢の御代の

     また儒教を際立たせる材料にされたものだと解されるようになった。

                     「史記 李斯列伝」

    テーマ : 中国古典・名言
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    中国通史で辿る名言・故事探訪(長城秘話)

     「長城秘話」

                         ◇ 秦代 ◇

      東晋・葛洪(かつこう)「捜神記」より。

      秦のある所に若い夫婦が幸せに暮らしていたが、ある日 突然、

     夫が万里の長城建設工事の労役に駆り出されることになった。

      夫が出かけてから幾月経っても夫からの便りは無く、妻は不安に

     駆られて、遂に夫の行き先である山海関の深い山奥を訪ねる決心をした。

      目的の山海関までは幾千、幾万里もの道程である。

      下男下女の二人を連れて行ったが、途中で下男は下女を殺害し、

     剰え夫人にまで襲い掛かってきた。

      しかし彼女は必至の抵抗で下男を一刺しして絶命させ、辛うじて難を

     免れることが出来た。

      長い苦難の末、ようやく山海関に辿り着いたが、工事現場で聞いたのは

     悲しい夫の死の報せであった。

      夫は過労のためか、それとも飢えのためか、‥ ‥ 。

      長城建設に駆り出された者は、三人に一人は死んでしまうという過酷な

     労役であったので、夫人もうすうすは覚悟はしていたものの、いたたまれず

     長城の壁にもたれかかり、いつまでも泣き続けていた。

      その時、突然 空が曇り、どっと雨が降り出してきた。

      篠つく雨は長城の土を溶かし始め、轟音とともに長城が崩れ落ちた。

      すると崩れた土砂の中から、夫の遺骸が現れたではないか。

      夫人はその遺体を抱きしめると、何を思ったか、崖から海に飛び込み

     共々 消えてしまった。

     

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    テーマ : 神話伝説逸話
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    Author:tyouseimaru
    出身地は四国八十八か所参りの発心の阿波、大阪を終の棲家とする。
    歴史好きで、城郭・神社仏閣・歴史遺跡巡りが趣味となる。
    歴史小説や時代小説を好み、往年の著名な時代小説の類は概ね完読と、自負している。

    自薦
    自著「中国通史で辿る名言・故事探訪」の 上・中・下の3巻を、 近い内に「電子書籍」での出版を予定しています。 今年一年間は、さらに工夫を加えるなどして、補記訂正などの校正を第一義としています。       
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