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    中国通史で辿る名言・故事探訪(赤松子に従って遊ばんのみ)

     「赤松子に従って遊ばんのみ」

                  前漢(西漢)時代

      仙人(隠遁者)にでもなって、俗世界から離れたところで悠々と

     暮らしたいの意。 

     》 帷幄の将・張良の賢 《 

      高祖二年(前201年)、高祖は功臣たちの爵位襲封に際して、

     帷幄の将として活躍した張良には大封を与えようとしたが、張良は、

     「留」という小さな土地しか希望しなかった。

      王朝創建直後も、各諸侯の統御やら次代の後継者問題でも適切な助言

     をして、高祖や呂后の信頼を高めた。

      そして高祖の晩年になると、猜疑心の強かった高祖を安心させるため、

     また自分の健康にも勝れなかった故もあり、高祖に骸骨を請うた

     (引退を懇願した)。

      曰く、「赤松子に従って遊ばんのみ」と。

        ☞ 赤松子(せきしょうし)は、上古の神話による仙人の名。

          神農時代、雨を司り、後に崑崙山に入って仙人となる。 

      その為 高祖は言うに及ばず、呂太后の時代にも粛清に逢うこともなく、

     その余生を全うした数少ない大功臣の一人である。 

      前168年に卒す。 

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(地は国の本)

     「地は国の本」

                 前漢(西漢)時代

      大地は国家の根本となる大事な前提条件である。

     》 草原の帝王の誕生 《

      冒頓(ぼくとつ)が北方遊牧民族・匈奴の大族長 乃ち単于(ぜんう)

     の位について間もなく、匈奴の東方にある強勢な国の東湖王から使者

     が派遣されて、横暴な申し入れが為された。

      「千里の馬を献上せよ」と。

      冒頓の臣下は口をそろえて言う、

      「千里の馬は、我が匈奴の宝だから断るべきです」と。

      だが冒頓は、一頭の馬を惜しんで隣国との誼を損なう訳にはいかぬと、

     臣下の意見を抑えてその要求に応じた。

      それからしばらくして、東湖王は再び使者を送って来た。

      今度は、「冒頓の妃を一人寄こせ」、と申し入れて来た。

      冒頓の側近連中はいきり立って、東湖の無道は最早忍耐の限界を超え

     るものであると言って、東湖攻撃の命令を冒頓に催促した。

      だが、冒頓はそれでもいきり立つ側近連中を抑えて、寵愛する妃の一人

     を贈ることにした。

      匈奴と東湖は、その中間に千余里に亘り、人家ひとつない不毛の荒れ地

     が両国の境界として存在していた。

      すっかり増長した東湖は、三度 使者を送って来て、

      「その千余里に亘る不毛の荒れ地を我が東湖が支配する」

      と申し入れて来た。

      冒頓は側近に諮った。

      すると何人かは、

      「どうせ何の使い道も無い荒地ですから、くれて遣っても差し支えないで

     しょう」と。

      冒頓は激怒した。

      「土地は国の本なり。東湖にくれて遣る訳には行かぬ」と言って、

      賛成した者を一人残さず斬り捨て、直ちに軍を率いて東湖を逆襲した。

      東湖は匈奴を馬鹿にして軽んじていたので、何の備えもしていなかった

     ので、あっという間に壊滅してしまった。

                             「史記 匈奴列伝」

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(季布の一諾)

     「季布の一諾(いちだく)

                  前漢(西漢)時代

      一度した約束や承諾は、必ず守る事の譬え。

      「黄金百斤を得るは、季布の一諾に如かず」が典拠。

     》 遊侠の士・季布 《

      西楚・漢の抗争時代、楚の国には季布と言う遊侠の士がいた。

      彼は普段はなかなか、「諾(=OK)」とは言わない人であったが、

     一度 引き受けると、約束は必ず守ったと言う。

      それで季布が一諾すれば、百斤に勝る、と言われた訳である。

        ☞ 前漢時代までは、百斤は約25・72キログラム。

      季布は戦争中は項羽の武将として活躍し、漢の劉邦を度々苦しめた

     ので、戦後はその首に多額の懸賞金を掛けて追及される身上となった。

      季布を匿う者は、一族連座の府令まで出された。

      季布は追手を逃れて、濮陽の周氏を頼って、彼の下に身を隠すことに

     なった。

      だが季布追及の手は日ごとに厳しく、迫り来る危機感から、ある日 

     周氏は季布に一計を提示して言う、

      「ただに、お聞き入れ下さるまいか。さもなければ、残された道はご自害

     しかありません」と。

      ところが、季布は即座に、「」と言った。

      周氏は季布の髪を剃り、粗末な服に着替えさせて、奴隷に仕立てた。

      そして、義侠の士として知られる魯の朱家(しゅか)に売り払った。

      朱家もその奴隷が季布である事を承知の上で引き取り、季布に農作業

     をやらせ、その身の安全を図った。

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(狡兎良狗)

     「狡兎良狗(こうとりょうく)

                 前漢(西漢)時代

      ものの役に立つ間は使役されるが、不用になると捨てられることの譬え。

      すばしこい兎と働きの良い猟犬の意。

     》 楚王韓信、謀反逡巡す 《   前201年

      漢王朝の大功臣で諸侯でもある楚王韓信は、今は亡き項羽の幕僚で

     あった鍾離眛(しょうりばつ)を言う者を密に匿っていた。

      今や韓信の封地となっている楚は元は項羽の支配地でもあったが、

     鍾離眛と韓信は以前から親しかったので、項羽亡き後 鍾離眛は韓信を

     頼って来たのである。

      だが鍾離眛は、項羽の全盛期には、しばしば劉邦を苦しめたと言う経緯

     があり、高祖(劉邦)は勅令を発して、鍾離眛の捕縛を命じていた。

      また韓信は楚王に封ぜられてから、領地を軍隊を連ねて視察するという

     物々しさであった。

      そして遂に、鍾離眛の所在と共に韓信の動向が見咎められるようになり、

      「韓信が謀反を企てている」と言う風評が立った。

      高祖は陳平に謀り、雲夢湖に巡狩し、諸侯と陳で参会するという触れを

     出した。

      韓信は大いに迷った。

      この際 兵を挙げて謀反を実行しようか、いや罪に問われる謂れは無い、

     兎に角 謁見に応じようか、しかし捕えられては万事休すと大いに悩んだ。

      そんな韓信に助言する者が現れた。

      「鍾離眛を斬り、上(皇帝)に謁せよ。

      上 必ず歓び、患いなからん」と。

      韓信は鍾離眛を呼び、事の経緯を語り、彼に因果を含めようとした。

      韓信を信じ切っていた鍾離眛は、韓信を罵りながら、

      「若し吾を捕え、以って自ら漢に媚びんと欲せば、吾、今日 死せん。

     公もまた手に随いて亡びん。公は長者に非ず」と言って、自刎した。

      参会の日、韓信は鍾離眛の首を持参して、疑うことなく高祖に拝謁した。

      だが高祖は、直ちに待機する武装兵に命じて、韓信を捕縛させた。

      韓信は自嘲気味に、己の不運を嘆いて、独り言つ。

      「果たして人の言の如し。

      狡兎死して良狗烹(に)られ、高鳥尽きて良弓蔵(しま)われ、

      敵国敗れて謀臣滅び、天下既に定まる。

      臣もとよりまさに烹らるべし」と。

      (=すばしこい兎を獲り尽くしてしまうと、飼い主に忠実な猟犬は不用

       となり、畜肉として食用にされてしまう。空高く飛ぶ鳥も獲り尽くして

       しまうと、それを射る弓矢は不要となり倉庫に納められてしまうもの。

        それらと同じように、敵対国が亡びて天下が定まると、それまで武略

       を回らしてきた戦功の或る臣下は不要となり、結局は始末される運命

       となるのだ。

        この吾も当然のこととして、煮殺されるはずなのだ。)



     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(右に出ずる者なし)

     「右に出ずる者なし」

                 前漢(西漢)時代

      その者より優れた人物は他にいない、と言うほどの意味。

     》 趙王張敖の宰相らの高祖殺害計画 《  前200年

      韓王信が匈奴と気脈を通じて謀反を起こしたので、高祖は兵を率いて

     討伐に向かった。

      だがこの時、趙王張敖(ちょうごう)の宰相・貫高や趙午は、趙王に内密

     で高祖(劉邦)の殺害を計画していた。

      ところが計らずも露見してしまい、趙王は事件の首謀者として捕えられ、

     貫高らの殺害を企んだ者は全て捕縛され誅殺された。

      高祖は趙王を都の長安に押送するにあたり、

      「趙王に同行する者は、一族ことごとく処罰する」と布告した。

      だが、田叔、孟舒らの気骨ある士の十人余りは、処罰を覚悟で趙王に

     随従した。

      高祖は趙での措置を終わった後、韓王信の鎮圧に向かったが大いに

     苦戦したので、態勢を整えるべく、一旦は長安に帰朝した。

      そして先の趙王の謀反については、趙王自身は全く関係していなかった

     と裁定し、王位は剥奪して宣平侯に降格した。

      そして勅命に反して趙王に随従した田叔、孟舒の二人は、宣平侯の取り

     成しで高祖にお目通りが許された。 

      その謁見の席で、言葉を交わした高祖は、田叔、孟舒の二人の人格・

     識見に驚き漢の朝廷に臣下の中でも、

     “彼らの右に出ずる者なし“、とさえ思ったのである。

      高祖はその後、二人については郡の太守や有力諸侯の宰相に任じた。

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(浮石沈木)

     「浮石沈木」

                  前漢(西漢)時代

      物事が真理や道理とは、真逆になっている様。

      物事の譬えで、その真偽は別にして時の世論となって、しばしば引用

     されるものもある。

      重い石が水面に浮かんだり、逆に浮力の強い樹木が沈むなどと言う事

     はあり得ない事だが、時と場合により、そのような真理や道理に反する

     無責任な世論が支配的な意見となることもある。

                              陸賈「新語 弁惑」

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(馬上に居りて得たらんも、)

     「馬上に居りて得たらんも、

      馬上を以て治むべけんや」


                  前漢(西漢)時代

      たとえ武力を以て天下を取ったとしても、その後、それを治めるのに

     武力だけに頼ることは出来ない。

      天下を取った劉邦・高祖には、陸賈(りくか)と言う儒者が臣従して

     いて、その弁舌を以て天下統一に参画した。

      その功により漢王朝の建国後は、宮中顧問官に取り立てられ、皇帝の

     謂わばご意見番となった。

      儒者である彼は、皇帝に進講の度にこれからの政治にとって、「詩経」

     や「書」が如何に大切であるかを説き続けた。

       ※ 漢の初期までは、「書経」のことを、たんに「書」と

        言い習わしていた。

      或る日、高祖はとうとう煩わしくなり、罵りながら怒鳴りつけて言った。

      「わしは馬上に居りて之を得たり。いずくんぞ詩・書を事とせん」と。

      だが陸賈は、

      「馬上に居りて得たらんも、馬上を以て治べけんや」と反論し、

      「周の武王、商(殷)の湯王を御覧下さい。

      確かにそれぞれの前王朝の紂王(殷王)、桀王(夏王)を武力で

     討伐しましたが、天下を取ってからは文の力で治められました。

      文と武を併用すること、これが天下を保持してゆく秘訣なのです」、

     と諌めた。

      だが話はさらに呉王夫差や晋の知伯に言及し、秦が仁義の道を歩み、

     先聖の政治を学んだならば、陛下の天下掌握への道は無かったのです、

     とまで極言した。

      さすがに高祖も鼻白む思いであったが、彼の意図するところはよく

     理解して、

      「一つ儂の為に、秦が天下を失ったのは何故か、儂が天下を取った理由

     は何故か、またそれに古の国々の興亡について記した書をくれまいか」

     と依頼した。

      この高祖の要望に応えてできた書が、陸賈の「新語」である。

                      「十八史略 西漢・高祖」

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(我の天下を得たる所以は何ぞ)

     「我の天下を得たる所以(ゆえん)は何ぞ」

                  前漢(西漢)時代

      前二〇二年、いわゆる「漢」の五年二月、諸侯は定陶に於いて、一致して

     漢王劉邦を皇帝に推戴した。

        ※ 前206年に、楚仮王から劉邦は漢中王に封ぜられていたので、

         その年の年号を漢の元年と称していた。

      中国国内を統一して、漢王朝を建国し、皇帝に即位したこの年を以って、

     改めて高祖元年と称する。

      天下を平定した後、高祖は群臣を一堂に集めて、下問した。

      「我の天下を得たる所以は何ぞ。また項氏(項羽のこと)の天下を

     失えし所以は何ぞ」と。

      王陵と高起が下問に対えて曰く、
      
      「陛下は慢(傲慢)にして人を侮(あなど)る。

       項羽は仁にして人を愛す。

      然れども、陛下は人をして城を攻め地を略せしむるに、

     降下(降伏)する所の者は、因って以って之に予(あた)え、天下と利を

     同じくするなり。

      項羽は賢を妬(ねた)み、能を嫉(そね)み、

     功ある者は之を害(そこな)い、賢者は之を疑う。

      戦い勝ちて而も人に功を予えず、地を得れども而も人に利を

     予えず。

      此れ天下を失えし所以なり」と。

        ☞ 高起なる人物については、楚漢当時には実在せず、

          何かの手違いで文献に紛れ込んだものとされる。

      だが高祖は彼らの意見に同調せず、反って自らの信念と見解を披歴

     した。

     》 籌策を帷帳の中に運(めぐ)らし、勝ちを千里の外に決す 《 

      其の身は参謀本部で作戦を練り、遥か彼方の戦場では、実戦部隊が

     戦略通りに働いて勝利を収めると言う事。

        ☞ 籌策とは計略・策略の意。

          帷帳とは、上方四方に幕を張り巡らした参謀等の列座する作戦

         の本営である。

      高祖は言う、

      「公らは其の一を知りて、未だその二を知らず。

      籌策を帷幄の中に運らし勝ちを千里の外に決するは、

     吾 子房(張良)に如かず。

      国家を鎮め百姓を撫し、餽饟(きじょう)を給し、糧道を絶たざるは、

     吾 蕭何(しょうか)に如かず。

        ☞ 饟餽とは、食物などを供給する事。

          糧道とは食料の輸送。

      百万の軍を連ね、戦えば必ず勝ち、攻めれば必ず取るは、

     吾 韓信に如かず。

      この三者は、皆 人傑なり。吾、能く之を用う。

      此れ、吾の天下を取りし所以なり。項羽は一范増有れども、

     而も用うる能わず。

      此れ其の吾の擒と為りし所以なり」と。

                             「史記 高祖本紀」

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(隠公左伝)

     「隠公左伝(いんこうさでん)

                 ◇春秋時代◇

      読書や勉強などの長続きしないことの例え。

      「春秋左史伝」を略して「左伝」と言うが、孔子が編纂したという

     魯国年代記である「春秋経」は簡潔過ぎて、その義の解釈は、

     時代の経過と共に困難であったので、各種の経伝(注釈)が著される

     ようになったが、「春秋左氏伝」はその内の一つである。

      この春秋左氏伝は、魯の第14代君主・隠公元年から

     第25代・哀公27年までの12代に亘る国史「春秋」の全30巻に及ぶ

     春秋経の注釈書である。

      ところが、この春秋左氏伝を読み始めて、最初の経文条解である

     「隠公」の所で、早々と止めてしまうという勉学の根気の無さを評して、

     “隠公左伝“と揶揄した。

      だがもう少し根気があって、第18代・僖公まで読み続ければ、

     “僖公左伝“と言われた。

      いずれにしても、中途半端の例えではある。

      

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(嗟来之食)

     「嗟来之食(さらいのし)

                  春秋時代

      敬意の伴わない飲食の勧め。

      さあ食え、と言って出される食べ物の意。

      嗟来は、「さあ」という意の発語。

      「食」の漢字は、食べ物の意の時は、「し」と訓読。

      春秋時代の斉の国に大飢饉があった時、黔敖(けんごう)は食べ物を

     路端で作り、飢えた者を待って、彼らに食させた。

      ここに一人の飢えた者が、みすぼらしい姿で、かつ間の抜けた様子で

     遣って来た。

      黔敖は左手に食べ物を捧げ、右手に飲み物を取って言った。

      「嗟来(さあ)、食え」と。

      飢えた者はその目を吊り上げて、其れをじっと見つめて言った。

      「吾はこれまで、嗟来之食を食べなかったばかりに、このような

     為体(ていたらく)となったのです」と。

      黔敖は、己の無礼を恥じ入り、彼に謝罪した。

      だが飢えた者は、遂に口にすることなく死んでしまった。

      後、曾子(曾参)はこのことを聞いて言った。

      「なんと気の小さい事か。

      『さあ、食え』ならば、去るもよし。謝れば、食せばよいものを」と。

                            「礼記 壇弓下」

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(君子豹変)

     「君子豹変」

                 春秋時代

      節義も自己主張もなく、他人に迎合するのが巧みで、素早い変わり身

     を言う。

      「大人(たいじん)は虎変し、君子(くんし)は豹変し、

       小人(しょうじん)は面(おもて)を革(あらた)む。」


      大人も君子もそれに小人も、それぞれ本来の面目を一新するの意

     である。

      虎変とは、季節の移り変わりに応じて虎の毛が抜け代わり、美しい

     縞の斑紋を一層鮮やかにして、変化の妙を加える事。

      豹変とは、虎と同様の変化に富むが、虎の変化に及ばずと雖も、

     四季に従って、それなりの妙を加えるものである。

      小人は変化の妙も自在さも無く、ただその顔色を変えるだけである。

                        「易経 革象」

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(惟れ天地は万物の父母たり、)

     「維(これ)、天地は万物の父母たり、

      維、人は万物の霊たり」

                   春秋時代

      それ天地は万物を成育する父母であり、

      人は万物の霊長、即ち霊妙な力を持った者の内で一番の者なのである。

      ☞ 維は、口調を整える発語の辞。

                             「書経 泰誓上」

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(方は類を以って聚まり、)

     「方は類を以て聚(あつ)まり、

      物は群を以って分かれ、吉凶を生ず」

                       「春秋時代」

      善人は善人と悪人は悪人と、一緒にそれぞれが仲間を作るように、

     同類の者は自然に寄り集まるものである。

      生き物というのは種を問わず、それぞれが適宜に群れになって

     分かれるものである。

      そしてこのように、吉凶乃ち善悪の区別が生ずるのである。

        ☞ 方も類も仲間の意であるが、ここでは善悪の区別を

         意味する。

          物は天地間にある一切の物を言うが、ここでは生き物の意。

                          「易経 繋辞上」

       「荀子 観学」より。

         「類は友を呼ぶ」

          似通った傾向を持つ者は、自然と寄り集まるもの。

          ここで傾向とは、その性質や趣味などを言う。

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(蓼莪の詩)

     「蓼莪(りくが)の詩」

                 春秋時代  

      古代の周の御代、労役に駆り出された若者が、父母の生前に孝行

     できなかったことを悔やんで、その死を嘆く歌である。

      「詩経 小雅・蓼莪」より。

        「第1節」
         
         蓼蓼(りくりく)たる莪(が)

           柔らかく長く伸びた蓬の若葉よ

           ☞ 蓬が「莪」と言われる頃には、その葉は食用に供された。

         莪に匪(あ)らず伊(こ)れ蒿(こう)

           峩がいつしか変じて、ただの草になってしまった。

         哀哀たる父母

           いたわしきわが父母よ

         我を生んで劬労(くろう)す

           私のような出来の悪い子を産んで、散々苦労の末、死んで

           しまわれた。

       ※ 莪として産み育んでくれたのに、いつしか蒿になってしまった

         自分の親不孝を詫び悔やむ歌である。

        「第2節」

         蓼蓼たる莪、

           やわらかなる蓬の若葉、

         莪に匪ず伊れ蔚(い)

           変じて、唯の草になってしまった。

           ☞ 蔚は、おとこ蓬ともいい、食用には適さない

             だだの草である。

         哀哀たる父母

         我を生んで劬労す  

        「第3節」

         缾(へい)の罄(つ)くるは、維(こ)れ罍(らい)の恥 

           徳利の酒が空になるのは、酒樽の恥だという。

           ☞ 缾は小さな酒器で、罍は大きな酒器。

              それぞれを子と親に喩える。

         鮮民の生くるは、死の久しきに如かず

           一人貧しく生きるより、早く死んでしまった方が益しだ。

           ☞ 鮮民とは、孤独で貧しい人民をいう。

         父無ければ何をか怙(たの)まん、

         母無ければ何をか恃(たの)まん。

           父がいなければ何を頼み、母もいなければ何を頼みとして

          生きていこうか。

         出でては則ち恤(うれ)いを銜(ふく)み、

         入りては則ち至る靡(な)し。

           外へ出れば哀しみがこみ上げてくるし、家に帰れば帰るで

          寄る辺とてないのだ。

        「第4節」

         父や我を生み、母や我を鞠(やしな)う。

           父母は私を生み育てて下さった。

         我を拊(な)で我を蓄(やしな)い、我を長じ我を育て

           私を撫でるように可愛がり、育んでくれ、

           ☞ 鞠とは鞠育の意で、養い育てること。

             蓄とは蓄育の意で、飼い養うこと。

             この句で「蓄」というのは、自分の事を家畜に見立てて、

            卑下しての表現である。

         我を顧みて我を復(まも)り、出入に我を腹(いだ)く

           私を見ては良く守り、いつ何処に行くにも私を抱いて

          下さった。

         之が徳に報いんと欲するも、昊天(こうてん)極まり罔(な)し

           その御恩に報いようと思っても、天は広大で果てしが

          無いように、その高い恩には報いようも無い。

           ☞ 昊天とは、はるかに高く広大な天空。

        「第5節」

         南山 烈烈たり、飄風(ひょうふう) 発発たり

           南山は寒気厳しく、風は激しく吹き募る。

           ☞ 南山は別名 泰山(東嶽)ともいう。

         民 穀(よ)からざるは莫(な)きに、

         我独り何ぞ害(そこな)える

           人は皆親子で幸せそうに暮らしているのに、私だけが

          どうして、それが出来ないのだろうか。

        「第6節」

         南山 律律たり、飄風 沸沸たり

           南山にはヒューヒューと、つむじ風が吹きすさぶ。

         民 穀からざるは莫きに、

         我独り卒(お)えず

           人は親子で幸せそうに暮らしているのに、私だけが親に

          対して、子としての務めを果たすことが出来ない。

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(戦戦兢兢)

     「戦戦兢兢(戦々恐々)

      畏れ慎む様。

      現代表記では、「戦々恐々」。

      ☞ 戦も競も、その字義は争い競うの意。

                  春秋時代

      「詩経 小雅・小旻」より。


       戦戦兢兢として深淵に臨むが如く、

       薄冰(氷)を履(踏)むが如し 



          誰でも深い淵に近づけば、墜ちることを恐れ、

          薄い氷上を踏むときには、割れることを恐れて、

         能く自らを戒めるものである。

        そのように、人は常に身をよく慎まなければならない。

      
       ☆ この詩文から、

         「戦々恐々」「深淵に臨む」「薄氷を踏む」が断章されて、

        独立した故事成語となる。 

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(鹿鳴)

     「鹿鳴(ろくめい)

      鹿鳴とは、天子が臣下や諸侯を宮廷に招いてご馳走する時の詩題。

      詩 本来の意は、祖霊の降臨したことを意味する使者たる鹿を迎えて、

     祖霊に供え物を捧げ、音曲を奏でて、一族の歓待の意を表明するもの

     である。

                  春秋時代            
           

      「詩経 小雅・鹿鳴の什」より。


         呦呦(ゆうゆう)として鹿の鳴くあり

         野の苹(よもぎ。蓬)を食らう

           草原では、群れの鹿がお互いに鳴いて呼び合い、一緒に

          なって楽しそうに地の蓬を食べている。

         我に嘉賓(かひん)あり

         瑟(しつ)を鼓し笙(しょう)を吹く

           我が家では賓客(祖霊のこと)が訪れたので、大琴や笛の

          音曲を奏して、相 与に楽しむ。

         笙を吹き簧(こう)を鼓(ひ)き

         筐(きょう)を承(ささ)げて是(ここ)に将(すす)む

           笙を吹き簧を弾いて、
      
           籠を捧げてお供を奉ろう。

           ☞ 簧は笛で、笙や竽の類。

             筐は竹製の四角な籠。

         人の我を好(よみ)し、我に周行を示せ

           我を愛でて、最上の道を示し給え

           ☞ 周行とは、最上の道の意。


         この詩は、別義の解釈として、

         人々が賓客と相集まって、管弦舞踊などを楽しみながら飲食して

        いる様子でもある、と。

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(一日 見ざれば、)

     「一日見(あわ)ざれば、三月(さんげつ)の如し」

      一日逢わなければ、三カ月(長い間の意)も逢わないような気がする。

                 春秋時代

       「詩経 国風 王風・采葛」より


          彼(か)の葛(かつ)を采(と)らん

          一日見わざれば

          三月の如し
      
           (=あそこに行って、葛(くず)を採って来ます。

              たった一日逢わないだけなのに、

              まるで三カ月のように感じられる。) 

           ※ 「葛」は山野に自生する蔓草のクズ。

              茎の繊維は布に織られ、根はくず粉となる。

          彼の蕭(しょう)を采らん

          一日見ざれば

          三秋の如し

           (=あそこへ行ってカワラ蓬を採って来ます。

              たった一日逢わないだけなのに

              一日が秋を三度重ねたように感じられる。)

           ※ 「蕭」は、キク科の多年草のカワラ蓬。 

          彼の艾(がい)を采らん

          一日見ざれば

          三歳の如し

           (=あそこへ行ってモチ草を採ってきます。

             たった一日逢わないだけなのに

             まるで三年のように感じられる。)

           ※ 「艾」は、ここではモチ草だが、モグサの意もある。  

        この詩は、男女の相思の愛情を語るものだが、時に師弟関係の親密

        さを語ることもあり、また世の悪者どもが、ちょっと見ない間に

        悪いことを企んでいる、という意にも用いられた。 

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(桑梓の歌)

     「桑梓(そうし)の歌」

                  春秋時代   

       「詩経 小雅・小弁」より

       桑と梓は両親の

       樹(う)えたものとて恭うもの

       仰ぐは父上、すがる母上



       ※ 
          古代中国では、五畝の田に桑(くわ)と梓(あずさ)を植えて

         子孫に遺し、暮らしの援けとする慣習があったと言われる。

          桑は蚕を飼うため、梓は人が亡くなった時の棺材を用意する

         ための必需品であった。

          その桑と梓、乃ち桑梓(そうし)が転じて、

         敬老を意味するようになり、さらには故郷の家、また故郷そのもの

         を指すようになった。

          詩経の出来た頃の周代の五畝の田といえば、

         約九アール(1畝=1・82a)。

          今日の日本の単位面積では、約500平方メートル。

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪 (成竹を胸中に得)

     「成竹を胸中に得」

                  「楚(西楚)漢の抗争時代」

      事を為すに当たっては、先ず胸中に前もって成算が無かればならない。 

      竹を描くには、必ず成竹を胸中に得て、然る後に筆を執りて熟視す、

     すなわち其の描かんと欲するものを見る。

      (=竹を描くに先立って、必ず胸中には既に描きあがった竹の姿が

       無ければならず、ようやく絵筆を手にするも、描こうとするものを

       よくよく観察しなければならない。)

      同様に事に処するに際しては、その胸中に前もって成算が無ければ

     ならない。

      項羽は戦には圧倒的に強かったので、その強さを以てすれば、孰れは

     天下国家を築くことも十分に可能であった。

      ところがその意に反する結果となったのは、項羽は天の命にしているが、

     やはり事前に十分な成竹を胸中に得ていなかった、としか言いようがない。

               南宋 蘇軾「篔簹公偃記(うんとうこうえんき)」

     

    テーマ : 慣用句・ことわざ・四字熟語辞典
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    中国通史で辿る名言・故事探訪(虞美人伝説)

     「虞美人伝説」

                 ◇ 楚(西楚)・漢の抗争時代 ◇

      垓下の戦いの後、項羽の歌に合わせて愛妾の虞美人が唱和した

     という歌が残っている。

      「抜山蓋世」の故事で紹介した項羽の歌の、「垓下の歌」に対する

     虞美人の答歌は、後世に於ける添え歌ではあるのだが、いつしか

     合わせて唱和されるようになった。

      この項羽の愛妾虞美人について、司馬遷は史記・項羽本紀では、

      「美人あり、名は虞。常に幸せられて従う」と記すのみである。

      また司馬遷より後代の人で、後漢の和帝の時の史官・班固らの著した

     「後漢書・項籍伝」では、

      「美人あり、姓は虞、常に幸せられて従う」と記す。

      即ち、虞は姓なのか名なのか両書にくい違いがある。

      そして実際のところ、歴史的資料が無いので、決着は不可能と言われて

     いる。

      さらに項羽に唱和したとされる歌についても、両書とも唱和したと記す

     のみで、その歌詞については一字の記録も無い。

      漢文の注釈本や元代初めの「十八史略」などでは、虞美人がこの時に

     唱和した歌として紹介するが、現実にはそれより早く、唐代の張主節の

     「史記正義」に突然に記された詩歌であるとされる。

      そしてこの史記正義は、漢代の陸賈の撰「楚漢春秋」を典拠としている

     とされるが、その書は散逸書であり、断片しか残っていないので信は置け

     ないとされる。

     》 その後の虞美人 《 

      虞美人は、その後どうなったか。

      「史記辞典」では、唱和した後、自殺したと為すが、史記、漢書とも、

     その後の虞についての記録は無い。

      虞が自殺したとするのは、宋代以後のことである。

      それより以前に於いては、項羽亡き後、虞美人は生きていて、生涯 

     項羽を想い続けていた、と見做されていた。

      ところが、道徳人倫の喧しく言われ出した趙氏の宋代に至り、虞美人は

     項羽の後を追って自殺し、その貞節をよく全うした、と云う風に順風美化

     されるようになった。

     》 虞美人草の逸話 《

      宋代 沈栝の「夢溪筆談」に、古い言い伝えとして、虞美人草は人が

     虞美人草の曲を弾くと枝葉を揺り動かすが、他の曲では全く動じないと

     記す。

      虞美人草は一応、「ヒナゲシ」と見做されているが、明代に李時珍が

     編纂した「本草綱目」には、虞美人の項目はないとも。

      だから虞美人草の実態は、不明と言われる所以である。

     

    テーマ : 神話伝説逸話
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    中国通史で辿る名言・故事探訪(捲土重来)

     「捲(巻)土重来(けんどちょうらい)

                 ◇ 楚(西楚)・漢の抗争時代 ◇

      「土を巻き上げて重ねて来たる」と訓読。

      戦いで敗れた者が再び勢いを盛り返し、意気込んで攻めてくること。

      砂塵を巻き上げて再び来るの意。 


      唐代の詩人 杜牧 

      「烏江亭に題するの詩

          
       勝敗は兵家(へいか) 事 帰せず

       (=戦の勝ち負けというものは、名将と言えども予測し難いもの。)

       (しゅう)を包み恥を忍ぶ 是れ男児

       (=たとい戦に敗れても、目をつむり恥を忍んよく耐えるのが、本当の

        男たる者の真骨頂である。)

       江東の子弟 俊才多し

       (=江東の地には、未だ俊秀無きにしも非ず。) 

       土を巻き重ね来たらば 知るべからず

       (=勢いを盛り返して再挙を図ることも、不可能ではありません。) 


     》 覇王項羽の敗残記 《

      垓下に敗れた後、生き残った項羽の一団は猶も漢の大追跡部隊に

     追われ、誤って陰陵付近の大湿地地帯に紛れ込み、漸くの事 脱出は

     したものの追跡部隊に急追されることとなった。

      時に項羽に付き従う者は二十八騎となっていた。

      覚悟を決めた項羽は、二十八騎を四隊に分けて、包囲網の突破を

     試みた。

      そして迫り来る漢の追跡包囲網を搔い潜り、撃ち破り、幾百人もの

     敵兵を血祭りに挙げて、手筈通りの場所に集結した。

      この戦いで喪ったのは、二騎だけであった。

      次に項羽は、長江の畔の烏江を目指すことにした。そこから長江を渡り、

     故郷を目指す予定であった。

      渡し場に着くと、烏江の亭長が舟を準備して待っていた。

      亭長は言う、

      「江東は小なりと謂えども、方 千里あり、衆徒は数十万、また王として

     再起出来ましょう。

      王様 速やかにお渡りください。舟はこの一隻だけです」、と。

      ところが項羽は、笑いながら、

      「天の我を亡ぼすなり。我 何ぞ渡るをなさん。

      かつて秦を打倒する為、江東の子弟八千を率いて長江を渡ったが、

     今や帰る者は一人とていない。

      たとい江東の父兄、憐れみて我を王と為すも、我 何の面目ありてか

     之に見えん。

      たとい彼 言わずとも、籍(項羽の諱は籍)独り心に愧じざらんや」

     と言い、亭長には愛馬の騅(すい)を与えて別れた。

      そして生き残った部下とともに最後の反撃に出て、獅子奮迅の戦いを

     して、最後に自刎した。

      項羽の死骸には、追跡に加わった者が己が手柄にしようとして、幾人と

     なく馳せ参じて、それぞれが遺骸を分断して陣営に持ち帰った。

                     「史記 項羽本紀」

     

    テーマ : 詩経・漢詩・詩賦等
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    中国通史で辿る名言・故事探訪(抜山蓋世)

     「抜山蓋世(ばつざんがいせい) 
          
                ◇ 楚(西楚)・漢の抗争時代 ◇

      「山を抜き世を蓋う」と訓読。

      勢いのある様の例え。

      其の力は山を抜き取り、その気力は世を蓋うほどに、勇壮この上もない

     こと。

      
       「垓下の歌(四面楚歌) 項羽と虞姫(虞美人)」

         力 山を抜き、気 世を蓋う

         (=我が力は山をも引き抜き、吾が気迫は天下を圧するに

          足る。)

         時 利あらず、騅(すい) 逝(ゆ)かず

         (=だが時世は我に味方せず、愛馬の騅も進もうとしない。)

         騅の逝かざる、奈何(いかん)すべき

         (=騅よ お前が進まねば、さて我はどうしたらよいものか。)

         虞や虞や 汝を奈何せん

         (=虞よ、愛しい虞よ、果たしてお前をどうすればよいものか。)

                            「項羽」

         
         漢兵 已(すで)に地を略す 

         (=西楚の支配地は既に攻略され、この最後の城塞も

          漢の兵に厚く包囲されてしまった。) 

         四面楚歌の声

         (=味方であった楚の兵も漢に降伏してしまい、既に見渡す限り

          漢の軍の四面から、我ら故郷の楚の歌声が聞こえてきます。)

         大王 意気尽きぬ

         (=西楚覇王(項羽)の気迫も最早 尽きてしまわれた。)

         賤妾(せんしょう) 何ぞ生に聊(やす)んぜん 

         (=私のような卑しい女の生きる道は、最早ございません。)

                             「虞姫」 

                     「史記 項羽本紀」

    テーマ : 中国古典・名言
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    中国通史で辿る名言・故事探訪(四面楚歌)

     「四面楚歌」

                 ◇ 楚(西楚)・漢の抗争時代 ◇

      孤立無援のこと。

      周囲には敵や反対者が多くて、孤立している状況を言う。

     》 垓下の戦い 《   前202年

      広武山の休戦協定を破棄して、直ちに項羽軍を追撃することを張良らに

     勧められた劉邦であったが、援軍を当てにしていた斉の韓信らの軍の来援

     が無いまま固陵において楚軍の反撃に遭い、大敗して逆に包囲されて

     しまった。

      そこで張良の進言を入れて、彭越らの諸侯に使者を派遣し、先に韓信を

     斉王に封じた如く叙任の約束をすると、果たして彼らは重い腰を上げて、

     一斉に動き出した。

      それを期に劉邦の連合軍は、三十万と圧倒的に優位に立つことに

     なった。

      漢軍では、韓信率いる三軍(中軍・左翼軍・右翼軍)を先鋒とし、劉邦は

     中軍を率い、周勃らの軍は後詰という布陣である。

      さらに漢の謀略により、西楚の大司馬の周殷も項羽に背き、同じく項羽

     を裏切った黥布と共に北上を開始し、加えて彭越軍も参陣した。

      一方、項羽は自ら九万の軍勢を率いて、垓下に布陣した。

      戦いは韓信率いる中軍が楚軍に向かって突撃し、これを項羽軍が

     迎え撃つことによって戦端が開かれた。

      だが少し経つと、またしても韓信軍は退却を始め、楚軍がこれを追撃

     する形勢となった。

      すると楚の追撃軍の後方に、韓信軍の伏兵となっていた左翼軍と右翼軍

     が立ち現われ、示し合わせた如く韓信の中央軍も反撃に転じ、楚軍は

     瞬く間に三方向から攻めたてられて潰滅的な打撃を蒙り、已む無く城塞に

     立て籠もってしまった。

      項王の軍 垓下に璧す。兵少なく食尽く。

      漢軍及び諸侯の兵 之を囲むこと数重(すうちょう)なり。

      夜、漢軍の四面皆 楚歌するを聞き、項王乃ち大いに驚いて曰く、

      「漢皆 已(すで)に楚を得たるか。是れ何ぞ楚人の多きや」と。

      項羽はこのままでは埒があかないと、八百騎を従え、夜陰に乗じて幾重

     もの包囲網を突破し、南を目指して疾走した。

      明け方近くになって、漢軍ではようやく項羽の脱出を知り、灌嬰

     (かんえい)を隊長にして五千騎が追跡した。

      淮水(淮河)を渡った頃には、項羽に追従する者は百騎余りと

     なっていた。

      さらに進んで陰陵付近に着いた時、道を見失い、近くにいた農夫に

     道を尋ねたが、農夫は偽って道を左と教えた。

      項羽らが教えられたとおりに行くと、何と大湿地帯に迷い込んで

     しまった。

      その為に灌嬰らの追跡部隊に急追される羽目となる。

      一行は道を退き返して、進路を東にとり東城に着いた。

      この頃には、付き随う者は二十八騎になっていた。

      肉薄する追跡軍は五千騎であり、最早脱出の可能性は無く、遂に項羽

     は覚悟を決めた。

      ここで、項羽は二十八騎を四隊に分け、四方に撃って出ることにした。

                       「史記 項羽本紀」

    テーマ : 中国古典・名言
    ジャンル : 学問・文化・芸術

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(虎を養いて自ら患いを遺す)

     「虎を養いて自ら患(うれ)いを遺(のこ)す」

                 ◇ 楚(西楚)・漢の抗争時代 ◇

      将来の禍根は、早めに取り除いておくべしという戒め。

      譬え虎の飼い主と雖も、獰猛な虎はいつ襲ってくるかもしれないので、

     自ら招き 寄せるような禍根は将来に遺すべきではないと言う意。

     》 広武山の戦い 《    前203年

      広武山を二分する峡谷の鴻溝(こうこう)を挟んで、西楚王項羽と

     漢王劉邦が対峙していた。

      中洲の滎陽を挟んで両軍は攻防を繰り返すが決着はつかず、

     遂に痺れを切らした漢王は、この時とばかりに項羽の犯した十カ条

     からなる罪状を誇大に論じて項羽を挑発した。

      満面に怒りを表した項羽が、城壁の上に姿を現す劉邦めがけて自慢

     の強弩を放つと、矢は劉邦の鎧ごしの胸に命中した。

      劉邦は一時 先陣を離れたものの、それ以後は強力に陣容を固めた

     ので、再び膠着状態が続いた。

      かくして両軍はどちらからともなく、和平の機運が持ち上がり、

     鴻溝より西を漢が、東を楚が領有するという盟約を結ぶことになった。

      その後 盟約がなった後、西楚王項羽は陣を引き払い、帰国の途に

     就こうとした。

      その時である、漢の陣営では、謀将陳平と帷幄の将張良が口裏を

     合わせて、漢王劉邦に進言した。

      「漢、天下の大半を有(たも)ち、楚の兵 饑疲(きひ)す。

       今 釈(ゆる)して撃たずんば、此れ所謂、虎を養いて自ら患いを

      遺すなり
    」と。

         ☞ 饑疲とは、飢えて疲れること。

      かくして劉邦は決着をつけるべく、帰心矢の如き項羽軍の追撃を

     開始した。 

                       「史記 漢高祖本紀」

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(猛虎の猶予するは、)

     「猛虎の猶予するは、

      峰蠍(ほうけつ)の螫(しゃく)を致すに如かず」

                 ◇ 楚(西楚)・漢の抗争時代 ◇

      猛虎と雖もぐずぐずしていると、毒のある蜂や蠍(サソリ)の刺す害にも

     及ばない。

        ☞ 螫とは、毒虫が刺すの意。

     》 自立を模索する韓信 《

      韓信は斉を平定後、広武山で西楚王項羽と対陣中の漢王劉邦の下に

     使者を送り、次の如く嘆願した。

      「斉は反復常無き国であり、之を良く鎮定するには斉王としての権威が

     必要です。

      そこで願わくば、この吾を仮の斉王と認めて欲しい」と。

      劉邦は例の如く、かっとなって、

      「吾、此(ここ)に苦しみ、旦暮(朝夕)に汝が来たりて吾を佐(たす)

     くるを望むに、乃ち自立して王たらんと欲するか」と罵った。

      だが漢王の傍らに控えていた張良と陳平が、ぐっと漢王の足を踏んで

     密に合図を送り、下座に差し控えていた使者に悟られないようにした。

      漢王もさすがにはっと気づき、今度は大声で、

      「大丈夫たる者、諸侯を伐り従えた以上は王となるのは当たり前である。

      仮の王などと遠慮しおって」、と言い、

      使者には斉王の印綬を授けて韓信に贈った。

      またその後、黥布に対しても、改めて淮南王に封じた。

     》 韓信と蒯通 (かいとう) 

      念願の斉王となった韓信は、豊穣の地である斉で格段に力を擁するよう

     になり、やがて、内心では少しばかり天下取りの野望を懐くようになった。

      そのような韓信を見て、彼の説客・蒯通は韓信にしばしば自立すること

     を焚き付けた。

      蒯通 勧めて曰く、

      「天下を三分し、鼎足(ていそく)して居るに若(し)くは無し」と。

         ☞ 鼎足とは三本足の鼎のこと。

      だが韓信には野望はあっても、其れを決断するだけの或る種の資質と

     強靭な独立独歩の精神力が不足していた。

      また長らく不遇を囲っていた自分を、一気に大将軍に抜擢してくれた

     と言う、劉邦の破格の恩義を忘れ去ることが出来なかった。

      そんな優柔不断な韓信に、蒯通は警告するつもりで、

      「勇略の主を震わす者は身 危うく、

      而して功の天下を蓋う者は 賞されず
    」という諺を聞かせた。

      (=主人を凌ぐような大略の持ち主は、主人を恐れさせ反って

       其の身が危険であり、また余りにも功績が大き過ぎると、誉められた

       ものではない。)

      言われてさすがに韓信も、その心は揺れ動いた。

      韓信は蒯通に決断の猶予を求めたが、数日経っても容易に決断は出来

     なかった。

      踏ん切りのつかない韓信に、蒯通は猶も説得して曰く、

      「猛虎の猶予するは、峰蠍の螫を致すに若かず」と。

      蒯通は様々な諺を引用したりして韓信を説得したが、結局 韓信は自立

     する決断は出来なかった。

                    「史記 淮陰侯列伝」
     

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    中国通史で辿る名言・事探訪(嚢沙の計)

     「嚢沙(のうさ)の計」

                 ◇ 楚(西楚)・漢の抗争時代 ◇

      河川を挟んで両軍が敵対する時、一方の軍が川の上流を土砂嚢で

     堰き止め、敵軍が渡河作戦を開始しようとする時を見計らって、一気に

     仮の堰を取り壊して放流し、敵の軍勢を殲滅しようとする戦略。

      漢の韓信が、斉との戦いに際して用いた戦略。

     》 濰水(しすい)の戦い 《    前203年

      韓信は漢王劉邦の命により、趙 次に燕と軍を進めてきたが、遂に

     沿岸部の斉に駒を進めた。

      秦末、陳渉・呉広の乱をきっかけに、戦国時代に戦国七雄として名を

     馳せた田氏斉の後胤である田儋(でんたん)が、前209年に自立して斉を

     建国した。

      だが自立の後、西楚の項羽に攻略され斉国は三分割され、斉に内紛の

     種を蒔いた。

      項羽はその鎮圧のため、東奔西走を余儀なくされる内、田儋の従弟の

     田栄が、さらにその子・田光が田栄の弟・田横に擁立されて建国していた。

      韓信は曾参・灌嬰らの別働隊と共に東進を続け、遂に斉王田光の拠る

     高密に迫った。

      この窮迫した斉軍に、龍且(りゅうしょ)率いる西楚の二十万の援軍が

     駆けつけ、韓信軍十万に立ち塞がった。

      十一月、両軍は濰水を挟み西に韓信軍、東に斉・楚連合軍が布陣した。

      この時、龍且に進言する者がいた、

      「遠征の韓信軍には、じっくりと長期戦に持ち込めば、兵糧が枯渇して

     戦わずして勝てます」と。

      だが敵に倍する兵力を有する龍且は、叩いて破ると言う目先の功名に

     眼が眩み、決戦に踏み切った。

      果たして、斉・楚連合軍は、一気に濰水を渡河しようと逸った。

      これに対して韓信軍は一応 迎撃態勢を執ったが、直ぐに川岸から退却

     を開始した。

      そして勢いに乗った連合軍の渡河の状況を見計らって、韓信軍は上流に

     仕掛けておいた仮の堰を断ち切ったので、激流が渡河途中の連合軍を

     寸断した。

      韓信軍は別働隊と共に三方向から、分断された斉・楚連合軍を包囲して

     潰滅させた。

      楚は、この潰滅的敗戦で、戦力の補充が追い付かなくなり、軍事力で漢に

     圧倒されるようになる。

                     「史記 淮陰侯列伝」

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(陳平多轍)

     「陳平多轍(ちんぺいたてつ)

                  ◇ 楚(西楚)・漢の抗争時代 ◇

      陳平の家の前の道には、貴人の乗る車の轍(わだち)が多い。

      即ち陳平の交遊相手には偉い人が多いと言う仮装の例え。

     》 漢王劉邦の謀臣・陳平 《

      後に漢王朝建国の大功臣となる陳平は、魏の陽武に生まれた。

      家は貧しかったが学問を好み、両親亡き後は兄の陳伯に面倒を見て

     もらっていた。

      この兄は陳平の才を認め、陳平に自由に遊学させ何くれとなく支えた。

      兄は毎日 野良仕事に出るが、陳平は本ばかり読み、黄老の術も

     大いに好んだ。

      そのような陳平の有様に兄嫁は、度々 夫に苦言を呈したが、あくまで

     弟を信じる兄は、妻を離縁してしまった。

      陳平は長身で男前でもあったが、適齢期になっても生業に就かず

     ブラブラしていたので、村の良家で彼に娘を嫁がせる者は無く、

     彼としても、貧乏人の娘は恥じて貰おうとはしなかった。

      彼の郷里には金持ちの張負という者がいたが、彼の孫娘は夫運が無く、

     既に五回も縁付いていたが、皆死別してしまい実家に戻っていた。 

      そんな彼女に陳平は目を付けた。

      陳平は何とかして張負の孫娘を娶ろうと、一計を案じた。

      貧しい家に住みながらも、如何にも陳平が広く而も多くの君子や貴人と

     交際しているように、その門外には貴人の乗る馬車の轍の数を多く偽装

     した。

      そのような時期に、偶々 村で不幸があって、陳平は張負とその家で

     出会った。

      張負は彼を見て何か機縁を感じて、陳平と共に彼の家に赴いた。

      其の家はと言えば、城郭の外れにある貧乏長屋で、蓆を垂らして入口の

     戸にしたような粗末なものであったが、にも拘らず、家の前には車の轍が

     沢山付いていて、彼の交際ぶりが窺われ、彼の人物が凡そ推察出来ると、

     張負は確信した。


     》 貧なるの故を以て、人に仕えて謹まざること勿れ 《

      貧乏だからと言って人を疎かにしたり、粗末にしてはならない、

     ということ。

      やがて帰宅した張負は息子に、

      「孫娘を陳平に嫁がせようと思う」と言った。

      だが息子は首をひねって言った。

      「陳平は貧乏のくせに、その生業に励まず本ばかり読んでいるので、

     村人は彼の所業を笑っておりますぞ。どうして娘をやれましょうか」と。

      張負は言う、

      「いや、そうではない。私は彼の人物をこの目で見てきたのだ。

     彼のような美徳の持ち主が、いつまでも貧乏であるわけがない」と。

      張負は陳平の将来性に懸け,孫娘を遣ることにした。

      そして彼が貧乏なので、婚礼に必要な物を与えて嫁入りさせたが、

     張負は孫娘に向かって戒めた。

      「貧なるの故を以て、人に仕えて謹まざること勿れ」と。

                 「蒙求 陳平多轍」、「史記 陳丞相世家」

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(骸骨を請う)

     「骸骨を請う」

                  ◇ 楚(西楚)・漢の抗争時代 ◇

      辞職を願い出る際の常套語。

      自分の身柄を骸骨に例えて、一度は主君に捧げたこの身であるが、今や

     骸骨となって役に立たなくなったので、下げ渡して欲しいと願い出ることを

     謂う。

      項羽は先に劉邦の陣営に事の真偽を確かめるべく、派遣した使者から

     の報告を受けて、范増と劉邦との間に何か密約があるのではないかと

     疑惑を持つように なり、以後 范増の意見に耳を傾けなくなった。

      遂に居たたまれなくなった范増は、項羽に、
      
      「願わくば骸骨を請いて帰らん」

     と言って、辞任した。

      范増は故郷に向けて出立したが、途中、背中にできた腫物が元因で

     亡くなった。

     》 劉邦、滎陽から脱出 《

      かくして陳平は、機を見て陽動作戦を指揮して、先ず女どもを滎陽の

     東門から脱出させ、楚軍が之を攻撃する隙に、密に夜陰に乗じて西門から

     劉邦を脱出させ、函谷関に入ることが出来た。

                     「史記 陳丞相世家」

     

    テーマ : 中国古典・名言
    ジャンル : 学問・文化・芸術

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(敗軍の将は、)

     「敗軍の将は、以って勇を言うべからず」

                  ◇ 楚(西楚)・漢の抗争時代 ◇

      将たる者が、戦いに敗れて捕虜となった身では、軍略は語れない。

      漢の武将である韓信は、井陘の戦いで背水の陣を敷く前、趙攻略の

     成否は、趙への侵入路たる「井陘」を無事に通過できるかどうかにかかって

     いると考えていた。

      そして、とりわけ趙の名将軍李左車の動向が気がかりであった。 

      しかし趙軍の総司令官陳余が、李左車の策を採らなかったので、韓信は

     わずかな兵力で以って攻略することが出来たのである。

      韓信は戦いに先立って、李左車を捕えても格別丁重に取り扱うよう布告

     して置いた。

      そして戦い終えて捕虜となった李左車を、韓信は丁重に迎えて厚遇し、

     今後の戦略である燕、斉の攻略について助言を求めた。

      だが李左車は、

      「敗軍の将は以て勇を言うべからず、

     亡国の大夫は以て存するを図るべからず
    」と言って、

     韓信の厚遇を辞退しようとした。

      その後 韓信の再三にわたる説得と熱意に負けてようやく翻意して、

     韓信は燕攻略では労少なくして功の大きい戦果を挙げた。

                     「史記 淮陰侯列伝」

    テーマ : 中国古典・名言
    ジャンル : 学問・文化・芸術

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    tyouseimaru

    Author:tyouseimaru
    出身地は四国八十八か所参りの発心の阿波、大阪を終の棲家とする。
    歴史好きで、城郭・神社仏閣・歴史遺跡巡りが趣味となる。
    歴史小説や時代小説を好み、往年の著名な時代小説の類は概ね完読と、自負している。

    自薦
    自著「中国通史で辿る名言・故事探訪」の 上・中・下の3巻を、 近い内に「電子書籍」での出版を予定しています。 今年一年間は、さらに工夫を加えるなどして、補記訂正などの校正を第一義としています。       
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