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    中国通史で辿る名言・故事探訪(家徒四壁)

     「家徒四壁(かとしへき)

                  ◇ 前漢(西漢)時代 ◇

      極めて貧しいことの譬え。

      転じて、あばら屋のこと。

      家 ただ四壁のみの意。

      前漢の司馬相如の家の中はがらんどうで何もなく、建物自体もあばら屋

     であり、四方に壁が張られているだけの粗末な家であった事に由来する

     逸話から。

      司馬相如は、蜀の成都の生まれ。字は長卿。

      名の相如は、戦国時代の趙の上卿・ 藺相如(りんしょうじょ)の人柄に

     憧れて改名したもの。

      彼は文武に才のある稀に見る好男子であったと云う。

      若かりし頃は野望もあり、買官によって景帝の侍従武官に任ぜられたが、

     景帝は文学には興味を示さなかったので、職務に精励する事は無かった。

      そんな折、景帝の弟の梁王(孝王)が参朝してきたげ、その伴の連中

     の錚々たる士にすっかり魅了されてしまった。

      そこで病を理由に職を辞し、梁王を訪ね、王の計らいで学者や弁舌の

     士と共に同じ宿舎で寝起きするようになった。

      そして、ようやく「子虚の賦」を作ったが、大いに評判を得ることに

     なった。

      その後 梁王が亡くなり、一旦 故郷の成都へ帰ったが、親しくして

     いた臨邛県(りんきょうけん)の県令の王吉から招待を受けた。

      相如は早速出かけ、県令が用意した宿舎に入ったが、ここで二人は

     世人の耳目を集めようと画策した。

      その本当の目的は、その地の名望家で大資産家の卓王孫の

     出戻りの孫娘・卓文君に在った。

      県令は、さも重要な賓客が来県したかの如く装い、相如は如何にも

     尊大に構え、県令は殊更に恭しい態度を誇示した。

      やがて卓王孫の邸宅で歓迎の酒宴が開催されることになったが、

     県令が着いた時、既に百以上の客が集まっていた。

      昼過ぎになっても相如が現れなかったので、使いが出された。

      だが、相如は具合が悪くて行くことが出来ないと謝した。

      そこで県令は食事に手も出さず、自ら行って迎えて来た。

      酒酣にして、相如は請われるままに徐に琴を弾いた。

      この時、音楽を非常に好む卓王孫の十七歳になる孫娘・文君が、

     密かに隠れて聞き耳を立てていた。

      県令と相如の企みは、見事に成功した。

      才能だけでは世に出られないとして、己の存在を世間に演出する必要

     があるとの思いから、打算で大資産家の出戻りの孫娘・卓文君に近づい

     て、得意の音曲で恋の虜にしようとしたのである。 

      宴の後、相如は人を遣り、文君の召使いに多大な贈り物をして、

     首尾よく文君と慇懃を通ずることが出来た。

      その夜、文君は邸宅を抜け出して、相如の下に奔った。

     相如は直ちに文君を馬に乗せて、郷里の成都へ駆け落ちした。

      ところが相如の家に着くや、その住まいたるや、

      「家居四壁立つのみ」と謂う「あばら屋」の状態であった。

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(公孫布被)

     「公孫布被(こうそんふひ)

                   ◇ 前漢(西漢)時代 ◇

      偽善的倹約の譬え。

        ☞ 布被とは、麻の夜具(布団)。

     》 公孫弘、三公となる 《   前126年

      武帝の元朔3年、御史大夫の張欧が罷免され、後任に公孫弘が任ぜ

     られた。

      やがて、普段から折りの良くない汲黯が、公孫弘に対して痛烈な誹謗を

     浴びせた。

      「公、位 三公に在り、俸禄 甚だ多し。

       然るに布被を為(つく)る。これ詐(いつわり)なり」
    と。

      (=あなたは国家の最重要職に在って、多くの禄を食みながら、

       人民の着る麻の寝具しか用いないのは、これは全く以って偽善という

       ものですぞ。)

      汲黯は彼の巷の風評を捉えて、それは偽善であると批評したのである。

       やがて、武帝はその事について、彼に問い質した。

       公孫弘は恐縮して、己の考えを釈明しつつも汲黯を弁護して語った。

       「其の通りでございます。 

       九卿で臣と善き者は、汲黯に過ぎる者はございません。

       それ三公にして布被を為す、真に偽りを飾りて以って名を挙げようと

      する者と言えます。

       また、臣の知る所、管仲は斉に相として、驕って君の真似を致しました

      が、桓公を覇者に押し上げました。

       これは、上は君に僭越するものと言えます。

       また同じく斉の景公の相であった晏嬰は、食に肉を重ねず庶民と同等

      の衣食に甘んじて、斉国の統治に功を挙げた者もいました。

       これは、下は民に比するものと言えます。

       今 吾は位は御史大夫となりて、布被を着る。

       九卿より以下 小吏に至るまで、差別無しとなりますと、真に汲黯の言

      の如くでございます。

       かつまた汲黯の忠が無ければ、陛下はどうして、この言をお聞きになる

      ことが出来ましょうや」と。

       武帝は之を以って、いよいよ公孫弘を信頼し、後には彼を丞相に任ずる

      ことになる。

                     「史記 平津侯主父列伝」 

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(要領を得ず)

     「要領を得ず」

                  ◇ 前漢(西漢)時代 ◇

      肝心なことが分からない、と云うこと。

      要は腰、領は首筋のことで、どちらも体の根幹であるところから、

     「要領」という言葉が生まれた。

     》 張騫の帰還 《   前126年

      漢王朝・武帝の使者として、張騫(ちょうけん)は匈奴の西にある

     「月氏(げつし)」と云う国へ派遣された。

      張騫は苦難の末、大苑や唐居の援助もあって、十余年にして、ようやく

     大月氏国に辿り着いた。

      ところが、この大月氏国では先に国王が匈奴に殺され、その大子が

     新たに新王として立っていた。

      そしてこの新王の下に勢いを増し、「大夏」を服属させて宗主国となり、

     肥沃な地に恵まれ且つ外敵の侵攻もなく平穏な日々を送っていた。

      従って、いくら張騫が説得しても、漢と協力して匈奴を討とうとする気概

     は全く無かった。

      張騫はその後、さらに大夏に行き、あれこれと画策した。

      だが結局 大月氏国を動かすことは出来なかった。

      司馬遷の「史記」では、

      「遂に月氏の要領を得ること能わず」と、記す。

      一年余り滞在した後、帰路は天山南路を選び、羌族の地を経て帰ろうと

     したが、再び匈奴に捕えられてしまった。

      ところが匈奴に捕えられていた一年の間に、単于は死に、左翼蠡王が

     大子を攻めて自立したため、国内は混乱に陥った。

      張騫はこの時とばかりに、匈奴人の妻と従者の甘父を連れて漢に逃げ

     帰ることが出来た。

      武帝は彼を宮中顧問官に任じ、甘父には奉使君という称号を与えた。

                         「史記 大苑列伝」

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(曲学阿世)

     「曲学阿世(きょくがくあせい)

                  ◇前漢(西漢)時代◇

      学問の真理に背いてまで、主や世間に阿(おもね)るような説を称える

     こと。

      或いは、その時々の権力者や時代の風潮に迎合するような言動をする

     こと。

      武帝の初期、既に九十歳になろうとする硬骨の儒学者・轅固生

     (えんこせい)が武帝に召されたが、その席には斉の薛(せつ)の出身の

     儒学者・公孫弘も同席していた。

      公孫弘は、その時 絶えず上目遣いに轅固生の立居振舞を窺っていた。

      そのような公孫弘に向かって、轅固生は忠告した。

      「公孫子、正学(せいがく)に務めて以って言い、

       曲学を以って世に阿(おもね)るなかれ
    」と。

      (=世に受け入れられ易いからと言って、正しきを曲げ、主上や

       民の人気取りをするようなことをしてはなりませんぞ。)

      このような事があってから後、「斉の詩」を言う者は皆 轅固生に

     基づく。

      諸々の斉人の詩を以って顕貴(著名)なる者は、皆、 固(轅固生)

     の弟子なり、と。  

                          「史記 儒林列伝」

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(桃李成蹊)

     「桃李成蹊(とうりせいけい)
                             ◇前漢(西漢)時代◇

     
      「桃李 言(ものい)わずして 下(した)自ずから蹊(みち)を成す」

      という喩えから、四字熟語として。

       高徳の人の周りには、人が自ずと集まってくることの譬え。

       “漢の飛将軍”と匈奴から恐れられた李広は、朴訥無口であったが

      私欲なく、部下の扱いは公平で且つ人間的な深い愛情に溢れて

     いたので、彼の為には死をも厭わないという強い軍団が形成されていた。

       桃や李(すもも)の木は何も言わないが、時期が来ると美しい花を

      咲かせ、果実を実らせる。

       だから桃李の下には、人が自然に集まり蹊(みち)が出来るのだと、

      時の人は李広を評した。

                     「史記 李広将軍列伝」

      ☆ 「蒙求」では、「李広成蹊」という。

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(陛下 内は多欲にして、)

     「陛下 内は多欲にして、外に仁義を施す」

                  ◇ 前漢(西漢)時代 ◇

      中国に於ける古今を通じての、直諫の極め付きである。

      陛下御自身は、その心の内では欲望が多いのに、こと外面的には、

     古の聖人君子ぶって仁義を大盤振る舞いなされる。

     》 社稷の臣・汲黯(きゅうあん) 《 

      汲黯の先祖は衛の大夫の家柄であった。汲黯の父は、景帝の重臣で

     あったので、「無条件任用」の特典により、皇太子(後の武帝)の侍従に

     任用された。

      汲黯は「黄老の学」を学んだので、無為自然を政治理念としていた。

      武帝の時代になり、ようやく儒学が盛んになってきたが、それは汲黯の

     信念には相反するものであった。

      武帝が親政を始めるようになると、武帝を恐れて群臣の中には敢えて

     諫言しようとする者は少なくなった。 

      ある時、武帝は学者の任用を思い立った。

      朝議に臨席して、その方針を説明した。

      そして、汲黯に発言を求めた。

      ところが、汲黯は武帝の話の腰を折るような厳しい注文を付けた。

      「陛下、内は多欲にして、外に仁義を施す。

       如何ぞ唐・虞の治に効(なら)わんと欲するか」
    と。

         ☞ 唐・虞の治とは、神話時代の陶唐氏の堯帝と有虞氏の舜帝

          の無為自然な政治を言う。

      陛下は黙然として、怒り、色を変じて朝議を中止した。

      朝議の席で、かほどの事を言えば、当に命懸けの発言と言える。

      朝議に列席した他の連中は皆、汲黯の為に大いに畏怖した。

      陛下は朝堂を退いた後、側近に投げやりに言ったものである。

      「甚だしきかな、汲黯の戇(とう)なるや」と。

      (=汲黯の愚かさにも程があるぞ。)

      ※ 汲黯の直言に対する、武帝の畏敬と怒りの入り混じった複雑な

        感情から発した捨て鉢な嘆き節か。

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(抱薪救火)

     「抱薪救火(ほうしんきゅうか)

                  ◇ 前漢(西漢)時代 ◇

      「薪を抱きて火を救う」と訓読す。

      危害の原因を取り除こうとして、反って危害を助長することの譬え。

      家の火災に際して、吾が身に薪を抱えて火事を消し止めようとするの

     意で、逆効果になることを云う。

      

      「法 出でて姦 生じ、令 下りて詐 起る。

      湯を以って沸くを止め、薪を抱いて火を救うが如し。

      愈々(いよいよ) 甚だしくして益無きなり。」


      (=世に法が発布されるようになってから、悪事が行われるように

       なり、禁令が施行されるようになってから、偽りごとが多く為される

       ようになった。

        お湯で以って沸騰するのを抑え、薪を抱いて火を消すようなもの。

        反って煽るようなもので、甚だしくも有害である。
        

                          「漢書 董仲舒伝」

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(歯を予うれば其の角を去る、)

    「歯を予(あた)うれば其の角(つの)を去る、
      
      其の翼を傅(ふ)すれば其の足を両(ふた)つにす」

                   前漢(西漢)時代

      天は二物を与えないということ。
      
      牙を与えたものには角は与えず、翼を与えたものには手は与えず、

     足の二本しか与えない。 

      董仲舒の言葉である。

                         「漢書 董仲舒伝」

     》 儒教、国教となる 《   前136年

      董仲舒の献策により、武帝は儒教を国教と定め、「五経博士」を置く。

      そしてこの頃には、国家としての統一理念も形成されるようになり、

     官僚組織も一応は整備された。

      だがさらに優秀な官僚養成のための最高の教育機関として、

     「太学」が設置されることになった。

      太学は当初は、五十人ほどの定員であった。

      その後は次第に増員されて、前漢末には千人にも及んだという。

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(天地の常経)

     「天地の常経(じょうけい)、古今の通誼(つうぎ)

                  ◇ 前漢(西漢)時代 ◇

      世界の永久不変の道、昔から今に至る人の踏襲すべき正道をいう。

     》 武帝の人材登用 《   前136年

      やがて武帝の親政が始まった。

      武帝は、魯の老儒者である申公を招聘した。

      武帝は参内した申公に、国家の治乱を巡る問題について質疑したが、

     申公は忌憚なく次のように対えた。

      「治を為すには、多言に在らず。

      力行(りょっこう) 如何を顧みるのみ
    」と。

      (=天下をよく治める要諦は、議論に終始するのではなく、只々 

       実行あるのみです。)

      やがて武帝は、四方の郡県の命じて、賢良・方正・直言・極諫の士を

     推薦させて、自ら策問を行い、慣例に捉われず材幹を重視し、異例の

     人材を抜擢して任用した。

      今回の策問で、武帝は董仲舒(とうちゅうじょ)や東方朔

     (とうほうさく)を見出した。

      董仲舒は、その対策に於いて曰く、

      「士を養うは太学より大なるは無し。

       太学は賢士の関わる所なり。教化の本源なり。

       願わくは、太学を起し明師を置きて、以って天下の士を養わん」と。

      董仲舒は、さらに諸侯や地方の郡守をして、それぞれ優秀な人材を

     選んで、毎年それぞれ三人を朝廷へ推薦することを提言した。

      そして最後に、孔子が著した「春秋」を世の中の通則とすべきだとして、

      「春秋、一統を大(とうと)ぶは、

       (=春秋は、天下一統を尊ぶところにして、)

       天地の常経、古今の通誼なり。

       (=これぞまさしく世の中の永久不変の道であり、古今の人の履み

        行うべき正しい道である。) 

       今、師ごとに道を異にし、人ごとに論を異にす。

       臣愚、以為(おもえ)えらく、諸々の六芸(漢以後は、六経の

      別名となる)の科、孔子の術に在らざるものは皆その道を絶ち、

      然る後に統紀 一にすべく、法度明らかにすべく、而して民、

      従う所を知らん」と。

      (=儒教の経典は、六芸のみを残して、孔子の教えでないものは

       廃絶すべきであり、その後に、国家統治の規律を一まとめにし、

       拠るべき礼儀を明らかにすれば、民も従うべき所を知るでしょう。)

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(首鼠両端)

     「首鼠両端(しゅそりょうたん)

                  ◇前漢(西漢)時代◇

      状況や形勢を窺って、どちらに味方するか迷っている様。

      日和見な立場を言うこともある。

      鼠は疑い深く、穴から首を出したり、引っ込めたりするところから生じた

     譬え。

     》 竇嬰と田蚡の私憤の裁定 《

      犬猿の仲の二人の争いに武帝は判断に困り、御史大夫・韓安国に、

     どちらが正しいのか下問した。

      韓安国は、

      「どちらも一理あり、判断がつきませんので、この上は陛下のご裁断を

     仰ぐばかりです」、と。

      同席していた内史(だいし)の鄭も、初めは竇嬰の肩を持っていたが、

     形勢不利と見て意見を述べなかったので、皇帝は𠮟りつけた。

      田蚡は帝の心を悩ませた事を恥じ入り、後に御史大夫を呼んで𠮟り

     つけた。

      「お前は穴から首だけ出して、出ようか出まいかとウロウロしている鼠

     だな。何故、首鼠両端を為す。理非曲直は明らかなのに、」と。

                           「史記 武安侯列伝」

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(引縄批根)

     「引縄批根(いんじょうへいこん)

                  ◇前漢(西漢)時代◇

      力を合わせて、敵対者や他人を徹底的に排斥すること。

      また、始めはすり寄っていたが、後に背を向けるようになった者たちに

     対して、報復して恨みを晴らすこと。

      「縄を引きて根を批(おしの)く」と訓読する。

     》 竇太后の死 《   前135年

      建言六年、武帝の祖母で大の道家ビイキノの竇太后が亡くなった。

      その影響は早速、人事面に現れた。

      竇嬰は次第に権能を失い、田蚡が念願の丞相となった。

      賓客や官吏も次第に竇嬰の下を離れ、田蚡の下に奔った。

      だがそのような趨勢下、呉楚七国の乱の際の勇士であった中郎将の

     灌夫だけは、竇嬰との旧情を忘れなかった。

      灌夫はその性、剛直で貴人への諂いを嫌い、好んで遊侠の士と交友

     した。だが、酒癖は悪く、それが元でこの頃は隠居していた。

      だが隠居したとは言え、隠然たる名声まで失うものではなかったので、

     田蚡とは互いに反感を募らせるようになり、事ごとにいがみ合うように

     なっていた。

      その後、田蚡が燕王の娘を夫人にし、祝賀の宴を開いたので、竇嬰と

     灌夫も参列した。

      ところが灌夫は、田蚡や参列者が謂れのない無礼を働いたので、腹を

     立てて満座の中で怒鳴り散らして、座を白けさせるという事件を起こした。

      怒った田蚡は、灌夫を捕らえて別の罪を着せて、棄死の刑(公開処刑の

     死罪)に処そうとした。

      それに対して、竇嬰は八方手を尽くして灌夫を救おうとしたが、上手く

     ゆかず、遂に武帝に直訴し、田蚡も今度はそん二人の罪を訴えるという

     私憤の争いに発展した。

      事の決着は、次回のブログにて。

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(彊弩の極矢は、)

     「彊弩(きょうど)の極矢(きょくし)は、

      魯縞(ろこう)をも穿(うが)つ能わず」


                   ◇前漢(西漢)時代◇

      どんなに強い弓から発射された極め付きの矢でも、遠くへ飛ぶほど勢い

     は弱まり、魯国の白絹でさえも貫き通すことは出来ない。

      外征(異国遠征)することの不利を説く比喩として、使用された言葉。

        ☞ 彊弩(きょうど)は、強力な弩弓。

          魯縞(ろこう)は、魯で織られた白絹。

     》 武帝の匈奴討伐の諮問 《

      武帝の初年、匈奴討伐の可否についての諮問が為された。

      時に御史大夫を務めていた韓安国は、時期いまだ早尚として和親策を

     主張した。

       「匈奴の極矢、魯縞をも穿つ能わず。

       衝風(しょうふう)の末力、鴻風(こうふう)を漂わす能わず。

       初め勁(つよ)からざるに非ず、末力(まつりょく) 衰うれば

      なり」と、大遠征の不利を説いた。

         ☞ 衝風はつむじ風とか突風。

           鴻風は大きく強い風。
      
       乃ち千余里の彼方まで遠征すれば、必ず勢いは弱まって、結局 匈奴

      にしてやられると云う主張である。

       この韓安国の主張で遠征は一旦沙汰止みとなったが、武帝は後に至り

      大規模な匈奴討伐の遠征を繰り返すようになり、国家財政の窮乏を招く

      ようになる。

                        「史記 韓長孺需列伝」

    テーマ : 中国古典・名言
    ジャンル : 学問・文化・芸術

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(武帝の即位)

     「専制皇帝・武帝の即位」

                 ◇ 前漢(西漢)時代 ◇

      前141年、大子・徹が即位した。

      母は先代・景帝の王皇后である。武帝の即位の後は王太后という。

      王太后の異父弟の田蚡(でんぷん)と田勝も列侯となり、王太后の実母

     である臧児(ぞうじ)は平原君に取り立てられた。

      また王太后の妹は、曽ては共に景帝の後宮に入り、景帝の子を四人も

     儲けていたが早死にしていた。だがその四人の遺児も王となった。

      武帝が即位したのは十八歳であったが、その当初は叔母の館陶大長公主

     や叔母の竇(とう)太后の支援で即位できたという事情もあって、独自の

     親政は今しばらく時を待たねばならなかった。

      王太后が摂政となり、丞相には文帝の皇后(竇氏)の従弟の子・竇嬰が、

     大尉には王太后の義弟・田蚡(でんぷん)が収まった。

      さらに武帝の背後には、祖母になる竇太后が睨みをきかせていた。

      武帝は元号を創始し、即位年の元号を「建元」と定めた。

      武帝の在位期間は、五十五年に及んだが、改元すること十一回に及んだ。

                      「史記 平準書・封禅書」

     

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    テーマ : 歴史
    ジャンル : 学問・文化・芸術

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(死灰復燃)

     「死灰復燃(しかいふくねん)

                 ◇前漢(西漢)時代◇

      火の気が無くなった灰が、再び燃え始めること。

      転じて、一度失った勢力を盛り返すことの譬えとなる。

      呉楚七国の乱で大きな武功のあった梁の韓安国が、後に他国に

     使いして、その重責を果たしたものの罪に触れて蒙県の獄に繋がれる

     という事件が生じた。

      獄吏の田何某(名は不明)は、この時とばかりに韓安国に侮辱を

     加えた。

      口惜しさの余り、韓安国は獄吏を責めて言った。

      「死灰、ひとり復(また) 燃えざらんや」と。

      それにたして、獄吏は嘯いて、

      「燃えたら、小便でもひっかけて遣るまでだ」と。

      時に梁国では、大官の内史職に欠員が生じたので、朝廷では呉楚七国

     の乱の際に勇名を馳せた韓安国を指名したので、安国は囚人の境遇から、

     一躍2千石の高官となった。

      韓安国が任に就くや、獄吏は遁走してしまった。

      韓安国は布令を出して、呼びかけた。

      「田よ、若し職務に復帰しなければ、

      お前の一族を誅滅してしまうぞ」と。

      獄吏は已む無く韓安国の元に出頭し、肉袒して(肌脱ぎ)謝罪した。

      安国は恨みに報ずるに、田に対しては、

      「取るに足りない奴だな」と言いつつも、

      以後は、その男を厚く遇してやった。

                 「蒙求」、「史記 韓長儒列伝」
     

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    テーマ : 中国古典・名言
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    中国通史で辿る名言・故事探訪(貫朽ちて校うべからず)

     「貫 朽(く)ちて校(あがな)うべからず」

                 ◇前漢(西漢)時代◇

      国家の備蓄(財貨)が豊富な状態の譬え。

      乃ち国家の金蔵に貯えられている貫錢の束の紐(錢差し)が朽ち果て

     て、錢の勘定が出来ない状態をいう。

        ☞ 貫とは、穴開きの硬貨を貫いて、一まとめに繋ぎ合せる紐、

         即ち錢差しのことで、貫は貨幣単位。1貫は1000銭。

     》 内政を重視した文帝・景帝 《 

      呂太后の後も、文帝・景帝は内政重視の穏やかな政治を志向したので、

     国力は当に漲るようになって来た。

      高祖の時代は、まだ対外戦争とか功臣の反乱もあったが、文帝・景帝の

     時代になると、それまでの緊縮財政が功を奏し、国家の倉庫には物資が

     溢れ、人民もようやく消費生活を送れるようになってきた。 

      また国家の財政は豊かになり、国都の錢倉に貯えられた錢は何億にも

     なり、「貫 朽ちて校うべからず」と言った有様で、

     政庁の穀物倉庫には粟が年々積み重ねられたため、納めきれなくなって、

     倉庫の外に野積みされる状態となり、ついには腐敗して食べられなくなる

     ほどであった。

                 「史記 平準書」、「十八史略 西漢」

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(安危は令を出だすに在り、)

     「安危は令を出だすに在り

      存亡は任ずるところに在り


                 ◇ 前漢(西漢)時代◇

      平時ならば、国の安全と危機はその出す法令によるが、危急存亡の

     時に至ると、最早 法令ではなく、その防衛の任務を遂行する人物次第

     によるものである。

      「史記」を著した司馬遷は、呉楚七国の乱について、反乱した劉氏一族

     の諸侯が人物の任用を誤ったと評している。

      「国の将に亡びんとするや、賢人隠れ、乱臣貴(とうと)ばる」とも。

      国家の危急存亡に際して、適切な助言や采配の出来る忠臣・賢者が

     排されて、迎合的愚臣、邪悪の臣下がしばしば用いられると言う事を評した

     言葉である。

      呉楚七国の乱に先(魁)がけて、呉・楚、其の他の同盟国は、

     それぞれの国内で反乱の決起に諫言したり反対する臣下は誅殺し、

     同調する者だけを糾合して立ち上がった。

      だがその足並みはそろわず、結局 反乱はいとも簡単に鎮圧され、

     加担した諸王は皆 自殺して乱は終結した。

                      「史記 楚元王世家」

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(舐糠及米)

     「舐糠及米(しこうきゅうまい)

                  ◇前漢(西漢)時代◇

      浸食が進むことの譬え。

      小さかった害が、次第に大きくなり中枢部にまで及ぶこと。

      米の周りに付く糠(ぬか)を舐(な)めていた者が、米粒そのものまで

     舐め始めたの意。

     》 呉楚七国の乱の背景 《   前154年

      後に呉楚七国の乱の首謀者となる呉王劉濞(りゅうび)は、

     高祖(劉邦)の兄・劉仲の子である。

      文帝の時、入朝した呉王の大子が王朝の皇太子(後の景帝)に

     侍して共に酒を飲み、その後に賭け事遊びをしたが、そのもつれから

     皇太子の不興を買うことになり、怒りに任せた皇太子の投げつけた局盤が、

     呉の大子に当たって死亡させるという事件が生じた。

      それ以来、呉王劉濞は病と称して入朝しなくなってしまった。

      やがて景帝が即位し、御史大夫晁錯の献策で、各王国の領地削減策を

     打ち出した。

      ようやく事の重大さを知った呉王(劉濞)は、自分の所の領地削減は

     諸王国の比ではないことを覚り、ならばと思い切って、天下取りに野心を

     燃やし出した。

      そして気骨のある膠西王劉卬(りゅうごう)と共に事を起そうと密かに

     説得の使者として中大夫・応高を派遣した。

      膠西王に見えた応高は、

      「我が王は年来の心配事がございまして、この度 何方にも漏らしたこと

     はございませんが、他ならぬ信義篤き膠西王のことゆえ、是非伝えて参れ

     との命で参上いたしました」と切り出した。

      膠西王は、

      「それは如何なることや」と。

      応高は、

      「帝は聊か正道を踏み外され、姦臣に取り巻かれて目先の利に捉われ、

     すぐに讒言を真にお受けになられます。

      法は無闇に変更し、些細な事で諸侯の領地を召上げ、良臣を誅罰する。

      而もそれは、日増しに激しさを増しております。

      俗に、『糠に舐りて米に及ぶ』 と申します。

      呉も膠西も天下に聞こえた大諸侯ですが、一度 取り調べを受けるや、

     とても無事には済みません。

      聞き及びますに、大王様は売爵の一件で罪に問われたとのこと。

      それしきのことが領地削減の罪に当たりましょうや。

      その内段々と領地削減されて亡国の運命に至るやもしれません。

      我が呉王は、大王様が我が呉王と同じ憂いを抱いておられるものと

     確信し、共に身命を賭して、天下の厄災を取り除きたいと思念されて

     おるわけです」と。 

     》 同盟なる 《

      それでも決心のつきかねる膠西王に、叛旗の盟主は膠西王であり、

     呉王はそれに従い、お互いに成功の暁には、天下を二分して支配しよう

     という提案がなされ、膠西王は遂に承諾した。

      呉王はそれでも安心が出来ず、自ら膠西王を訪問し、お互いに盟約を

     確かめ合った。

      ほぼ同じ時期に、朝廷から呉の会稽郡・豫章の二郡を削減すると言う

     詔勅がもたらされた。

      遂に呉王は行動を起こした。

      景帝三年(前154)、呉王は、【佞臣晁錯、漢の社稷を危うくす】と、

     各地の王に檄を飛ばし、劉氏の諸王である、楚・越・済南・膠東・

     葘川(しせん)の王たちを糾合し、呉と膠西を合わせて挙兵した。

      呉と楚が楚の中心となったので、「呉楚七国の乱」と呼ばれる。

                       「史記 呉王濞」

     
     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(履は新なりといえども、)

     「履(くつ)は新なりといえども、必ず足に関わる」

                ◇前漢(西漢)時代◇

      履は新品だからと言って、足以外に着けるものではない、

     必ず足に着けるもののである。

     》 黄老学と儒学の放伐論争 《

      清河王の太傅であった轅固生(えんこせい)が詩に通暁していたので、

     景帝の時に経学博士に任ぜられた。

      ある時 景帝の御前で、黄老学者の黄生と儒学者の轅固生が

     論争をした。 

      黄生曰く、

      「湯・武は命を受けるに非ず、即ち弑せるなり」と。

         ☞ 湯・武は、殷王朝を創設した湯王と周王朝を創設した武王。

      即ち天子天命説(受命説)を否定して、放伐説を説いたのである。

      それに対して轅固生は、

      「桀紂の虐乱に際して、天下の心は皆 湯・武に帰し、湯・武は天下の

     心に与して桀紂を誅したのである。

      湯・武は已む無く天子として立ったのであり、命を受けないと言う事が

     どうして出来ようか」、と反論した。

        ☞ 桀は夏王朝最後の天子、紂は殷王朝最後の天子。

      黄生曰く、

      「冠は敝(へい。やぶれてぼろぼろ。)なりと謂えども、必ず首に

      加える。履は新なりと謂えども、必ず足に関わる。


       何となれば、上下の分なり。

       今 桀・紂、道を失うと謂えども、然も君上なり。

       湯・武、聖なりと謂えども、臣下なり。

       主上に失行ありて、臣下 正言して過ちを質して、以って天子を尊ぶ

      こと能わずして、反って過ちによりこれ誅し、代わりて天子として立つ。

       弑逆(虐)に非ずして何ぞや」と。

       反論に窮した轅固生は、

       「あなたの言う通りだとすれば、高帝(漢王朝の建国者・劉邦)の秦に

      代わりて天子の位に即けるは、非か」と言って、黄生の反論を封じた。

       ここに於いて景帝は、孰れの説にも加担せず、

       「肉を食らうに馬肝を食らわずとも、味を知らずとなさず。

        学を言う者、湯武の受命を言うこと無くも、愚となさず」と言い、

       互いに遺恨を遺させないように裁定した。

       以後に於いて、学者連中は敢えて、受命論・放伐論を明らかにしよう

      とする者はいなくなった。

                        「史記 儒林列伝」

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(骨肉別疏)

     「骨肉別疏(こつにくべっそ)

                 ◇前漢(西漢)時代◇

      他人の仲を裂くこと。

        ☞ 骨肉とは親子・兄弟などの血族。

          別疏とは、別離疎遠をいう。

     》 景帝、晁錯を任用す 《 

       文帝の後を継いだ景帝は、内史(だいし。国都長安の行政上の長官)

      に晁錯(ちょうそ)を任用した。

       時の丞相は申屠嘉と言ったが、晁錯は意見を上申する時は、何時も

      人払いを請うてから奏上し、また帝は、九卿(朝廷の重臣連中)を差し

      置いてでも晁錯の意見を採用するようになった。

       やがて申屠嘉は病に伏せるようになり、あっけなく亡くなって

      しまった。

       晁錯は御史大夫に取り立てられ、遂に諸侯の領地削減策を奏上する

      ようになった。

       事が重大なだけに流石に景帝は、重臣・列侯・宗室を集めて会議を

      開いた。

       反対意見がほとんどであったが、晁錯ただ一人、異議を唱えた。

       反対意見を押し切って、景帝は晁錯の意見を採用した。

       改正法令は三十章にもなった。

       晁錯の意図たるや、帝王権の強化と諸侯の力の削減であった。

       いよいよ罪や失政のある諸侯の封地が削減されるようになった。

       越王、膠西王、楚王と削減が続き、朝廷では密かに呉王の領地削減を

      画策し始めた。

       やがて、諸侯の間で轟々たる非難の声が上がり始めた。そしてその

      非難は晁錯一人に集中した。

       晁錯の故郷にいる父親は、見るに見かねて上京して我が子を戒めた。

       「公(お前)、政を為すに事を用い諸侯を侵削し、人の骨肉を

      別疏する。人、口議して公を怨む者多し。なんぞや」
    と。

       晁錯は、
     
       「しかし、こうしなければ天子の尊厳が保てず、祖廟・社稷が安泰に

      ならないのです」と、答えた。

       父は、

       「劉氏が安泰なら、晁氏は危うからん。わしはお前のもとを去り

      帰らんか」、と言って、後に遂に薬物で自殺してしまった。

       その父の死から十日の後、“晁錯誅殺”を旗印として呉楚七国の乱が発生

      した。

                      「史記 袁盎・晁錯列伝」

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(死は天地の理にして、)

     「死は天地の理にして、物の自然なるものなり」

                  前漢(西漢)時代

      温厚で且つ誠実、よく臣下の意見を受け容れて、善政に努めた文帝の

     遺詔である。 

         けだし天下万物の崩生するもの、、死 非ざるなし

         死は天地の理にして物の自然なるものなり

         何ぞ甚だしく哀しむべけんや 


       (=およそ天下万物の生ある物で、滅びないという物はない。

         死というものは、天地の摂理であって、自然の姿なのである。

         従って、ひどく嘆き悲しむに当たらないのだ。

      文帝の遺詔は最後に、

      世間の厚葬の風を改め、自分の葬儀も軽くせよ、と。

      そして、葬儀を薄くさせるために、細かい指示まで残した。

                        「史記 孝文本紀」

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(不疑誣金)

     「不疑誣金(ふぎふきん)

                前漢(西漢)時代

      降りかかった濡れ衣。

      直不疑は人に盗みの疑いをもたれたが、自らは無実であったのに弁明

     することもせず、金を工面して相手に支払い謝罪した。

        ☞ 誣の字義は、欺く、また事実を枉げて言うの意。
      
      直不疑は郎官(宿衛官)となり、文帝に仕えていた。

      宮廷内宿舎で同宿している者で、休暇で故郷に帰る者がいたが、

     間違って同宿の者の金を持ち帰ってしまった。

      その後、同宿の者が金の紛失に気づき、偶々 同宿した直不疑を疑った。

      直不疑は疑いを懸けられても、その黒白を争わず、「そうですか」

     言って、侘びを入れ、自分の物を売りさばいて改めて金の工面をして

     償った。

      ところが、後日の事 休暇を終えて帰任した者が、間違って持ち帰った

     金を持ち主に返したので、いとも簡単に不義を疑った者は、己の軽率さに

     大いに恥じ入った。

      その事があってから、直不疑は徳ある人として、「長者」と褒め称えられ

     るようになり、朝廷に於いても認められる事となり、次第に昇進を重ねた。

      ところが好事魔多しで、彼の出世を嫉む者が、朝廷で多くの者が集まる

     席で、

      「不疑は容貌 甚だ美にして然れども独りそのよく嫂(兄嫁)を盗むを

     如何ともするなし」と、誹謗中傷した。

      直不疑はこの中傷に対しても、進んで弁解しようとはせず、

      「我 すなわち兄なし」と、言っただけであった。

      その後、景帝の末には、遂に御史大夫(大司法官兼副丞相)にまで栄達

     したが、次の武帝からは、疎まれるようになり、過去の失政が問われて

     免職となった。

      彼は老子の学を信奉していたので、その仕事ぶりが旧来の仕来りを

     重んじ、己の仕事ぶりは務めて目立たないようにしたのが禍したのである。

           「蒙求 不疑誣金」、「史記 万石張叔列伝」

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(恙無きや)

     「恙(つつが)無きや」

                 前漢(西漢)時代

      憂いが無い、或いは平安無事であることを言う。

      安否を問う挨拶文では、お変りございませんか、の意。

     》 匈奴と和親条約を更新する 《   前176年

      漢と匈奴の間には、高祖及び呂太后と冒頓単于との間で、和親条約

     が締結されていた。

      誇り高い中華帝国の漢にとっては、屈辱的かつ不名誉な条約内容で

     あったが、建国の創業期でもあり、隠忍自重して無難な外交を選択して

     いた。

      しかしながら匈奴は、そん後も漢の北辺を脅かし、容易に条約の実効は

     上がらなかった。

       文帝が即位して五年が過ぎた。

       その年 匈奴の単于から、突然 漢朝に書簡が届けられた。

       「天帝の立てたまいし匈奴の大単于、謹んで皇帝にお伺い申す、

       恙無きや」、
    と。

       (=天命を受けた匈奴の大単于から、謹んで皇帝にお伺い致します。

        恙なくお過ごしでしょうか。)

       この書簡が届くや朝廷では、和・戦 いずれの策を採るべきかが論議

      された。

       重臣の多くは、こぞって申し入れを受けるべきだと主張した。

       文帝もせ積極拡大策は望まず、ここに匈奴との間に改めて、和親条約

      を結び直すことにした。

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(華を務めて根を絶つ)

     「華(か)を務めて根を絶つ」

                 前漢(西漢)時代

      花を美しく咲かせようと努力しても、反って根を駄目にしてしまうこと。

      転じて、栄耀栄華を求めるあまり、その命を失ってしまうことの譬え

     となる。

      漢王朝の初期、官界で努力しながらも、旧主勢力の反抗に逢って挫折

     した賈誼を司馬遷が詠嘆して言った言葉。

                       「史記 日者列伝」

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(前車覆轍)

     「前車覆轍(ぜんしゃふくてつ)

                 前漢(西漢)時代

      「前車の轍の覆るは後車の戒め」とも言う。

      教訓とすべき先人の失敗の譬え。

      前を行く車の転倒した轍(わだち)の跡は、後から行く車にとっては良い

     戒めとなるもの意。

      呂氏一族は一掃されたが、新しい朝廷ではまだ大きな問題を抱えて

     いた。

      それは各地の王侯が漢室を脅かしかねない広大な封土と強大な勢力

     を保持していたからである。

      文帝の即位した当時は、呉王・劉濞(りゅうび)などは既に壮年に達し

     ていたが、その他の王侯はほとんどは幼年であり、朝廷から諸王国へ

     宰相や太傅(たいふ)が任命されて派遣されていた。

      その王侯対策について、 文帝に献言したのが賈誼(かぎ)である。

      その内 幼年であった王が成長し、自ら朝廷から派遣された官僚を

     自在に動かすようになれば、当に独立王国を形成しかねません。

      そのような事態となれば、この時に治安をなさんと欲するも、堯舜と

     いえども治まりません。

       そこで、諸王の国の襲封をできるだけ削減し、分割するに如かず。

       『俗に、前車の覆るは後者の戒め』と申します。

       夏・殷・周が長い治世を実現できたのは、良い例に従ったからです。

       秦はあっという間に亡びてしまいましたが、如何にして亡びたかは、

      その轍から判断できます。

       之を避けなければ、後車も亦 覆ってしまいます。

       国の存亡の要は、ここに在りますと熱心に奏上した。

                          「漢書 賈誼伝」

     

    テーマ : 中国古典・名言
    ジャンル : 学問・文化・芸術

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(社稷の臣か功臣か)

     「社稷の臣か功臣か」

                 前漢(後漢)時代

      社稷の臣とは、国家の重大事に際して、大任に当たる臣下をいう。

      事が成れば、国家の柱石ともなる人である。「礼記 壇弓下」

     》 重臣の秘密会議 《   前180年

      呂氏一族の誅滅が成功した後、空位となった趙と梁の後継者選定が

     終わると、重臣らは秘密会議を開いた。

      斉川・淮陽・常山の三王は何れも恵帝の実子ではなく、呂太后の思惑で

     取り立てられたものであり、少帝も恵帝の実子ではなかった。

      彼らをそのまま残しておいては、将来に禍根を残すことは明らかで
     
     あった。

      今この時こそ、劉氏直系の王の中から最もふさわしい人物を選定して、

     帝位に就けようとの趣旨で会議は持たれた。

      高祖の嫡孫である斉の哀王は、母方の外戚が問題になり、

     除外された。

      淮南王は若すぎることと、母方が悪いと言う事で見送りとなった。

      最後に、代王恒の名が挙がった。

      彼は高祖の実子では最年長であり、人柄も大層よく、母親に孝行を

     尽くしており、その母親も係累が少なく、いずれも慎ましいと言う事で

     衆議一決した。

      かくして重臣たちは、秘密裏に使者を出して、天子として招請した。

      これが漢朝第五代天子の文帝である。

      母親は、高祖劉邦の愛妾・薄姫である。

       文帝の意向を察した陳平は左丞相にまわり、直接 軍を率いて指揮

      した周勃は右丞相に任ぜられた。

       絳侯・周勃は当に得意の絶頂にあった。

       朝議を終えて退出する時、文帝は自ら彼を見送るという有様であった。

       このあり様を見た中郎の袁盎(えんおう)は、進み出て帝に伺った。

       「陛下、思うに丞相は如何なるお人ですか」と。

        文帝曰く、

       「社稷の臣である」

       袁盎は言う、

       「絳侯は所謂 功臣であって、社稷の臣ではございません。そもそも

      社稷の臣とは、君主と存亡を共にする者でございます。

       呂后の時代、劉氏は当に存亡の危機にありました。

       当時、絳侯は大尉として兵権を握りながら、之を正すことが出来ず、

      呂后が崩ずるに及んで、ようやくにして大臣たちが協力して立ち上がり

      ましたが、絳侯は兵権を握る大尉であったので、たまたま功績を上げる

      機会に恵まれたに過ぎません。

       ところが、今や丞相は主に対して驕る色があり、陛下はそれに御謙譲

      なさいます。

       これは、陛下の為にならぬことでございます」と。

      袁盎の進言があってから、文帝は絳侯に日増しに威厳を以って臨む

     ようになり、絳侯もようやくその意を察するようになった。

                         「史記 袁盎晁錯列伝」



     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(左袒)

     「左袒(さたん)

                 前漢(後漢)時代

      味方する、或いは同意すること。

        ☞ 「袒」とは、着物の袖を脱いで片肌を露出すること。 

      左の袖を脱いで、片肌になるの意。

     》 呂氏一族の誅滅戦 《

      呂太后の死後、大尉の周勃、右丞相の陳平らは、外戚を廃して政権を

     劉氏に戻そうと画策した。

      その謀議は成り、周勃は先ず兵権を奪取すべく帝都防衛の任に任ずる

     北軍司令官の印綬を呂禄から奪取した。

      そして周勃は逸早く北軍駐屯地の軍門に入り、軍中に於いて全将兵を

     集めて布告し、本営の将兵たちの漢王朝の正当氏族・劉氏へ帰属と

     一致団結を呼びかけた。

      「呂氏の為にする者は右袒せよ、劉氏の為にする者は左袒せよ」と。

      すると軍中の将兵は、一人残らず左袒して、劉氏の側に就いた。

      ところが、北軍を掌握したとはいえ、呂氏の南軍は未だ健在であった。

      右丞相の陳平は劉章を呼びつけ、大尉周勃の輔佐を命じた。

      周勃は劉章に軍門の監視を命じ、一方では平陽侯窋(ちゅつ)を衛尉

     の所に派遣して、相国兼南軍の総指揮官・呂産を殿門で阻止させよう

     とした。

      この時 呂産は呂禄が、北軍の印綬を外して本営を立ち去った事は

     知らなかった。

      その後に反呂の動きを知るに及び、いよいよ未央宮で態勢を立て直そう

     と画策したが、殿門が封鎖されて、辺り右往左往する有様であった。

      平陽侯窋も殿門を封鎖はしたものの、勝算は無かったので周勃の下に

     駆け戻り、状況を報告した。

      周勃にしても、正面から当たるには一抹の不安もあったので、呂氏誅滅

     の旗印は上げることなく、劉章に千の兵を与えて、

      「未央宮に入り、帝をお守りせよ」と命じた。

      それから日暮れ時になってから劉章は未央宮に入り、廷内で呂産を

     見つけたので、躊躇うことなく襲い掛かり、逃げる呂産を追い詰めて

     郎中府の便所で殺害した。

      呂産の手勢は、何一つ抵抗することもなく、敗れ去った。

      周勃は次いで、各所に兵を繰り出して呂氏一族を捕え、老若男女の

     別なく誅殺した。

      辛酉の日(二十八日)、呂禄を捕えて斬り、燕王呂通を誅し、魯王偃の

     王位を剥奪した。

                       「史記 呂后本紀」

       漢の時代に於いては、大尉は軍政上は全軍の最高指揮官であったが、

       実際に各軍団を指揮采配するには、その軍団指揮権を公に証する

       「上将軍印綬」を必要とした。 

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(面折廷諍)

     「面折廷諍(めんせつていそう)

                 前漢(西漢)時代

      朝廷内での言い争い。

      天子が出御する朝廷(外廷)において、臣下などが政治上の事などに

     ついて言い争い、相手方の過ちや欠点を強く諌めること。

        ☞ 面折とは、面と向かって人の過失や欠点を諌めること。

          廷諍(廷争)とは、朝廷における諌めをいう。

     》 呂太后、一族を王に立てる 《

      呂太后は新帝を即位させた後、自ら元号を唱え、天子の命令である

     「制」と「詔」を称するようになった。

      そして高后元年、朝議を開き、重臣に呂氏一族を王に立てることの可否

     を諮問した。

      先ず右丞相の王陵に問うた。

      だが王陵は反駁して、

      「かつて高帝(劉邦)、白馬を刑し(生贄にして)盟(ちか)いて曰く、

      『劉氏に非ずして王たらば、天下ともに之を撃て』と。

       今、呂氏を王とするは、約に非ざるなり」と。

       呂太后は不機嫌になり、今度は左丞相陳平と大尉周勃に問うた。

       ところが陳平らは、

       「高祖、天下を定めて子弟を王とせり。今、太后、「制」と称す。

        昆弟諸呂(太后の兄弟ら)を王とするは不可なる所なし」

      と賛同した。

       呂太后は大いに喜んで、かくして朝議は終わった。

       朝議が終わった後の事である。

       王陵は陳平らに詰め寄った。

       「始め高帝と血を啜りて誓いし時、諸君、在らざりしか

     (いなかったのか)。

      今、高帝崩じ、太后 女主にして、呂氏を王とせんと欲す。

       諸君、仮令 意に阿り約に背かんと欲するとも、何の面目ありて高帝に

      地下に見えんや」と。

       だが二人は、

       「今に於いて面折廷諍するは、臣 君に如かず。

        その社稷を全くし劉氏の後を定るは、君もまた臣に如かず」と

      反論した。

       以後は最早呂太后の一族優遇策に異を称える者はいなくなり、

      なお且つ政権を固めるべく、次兄・呂釈之(趙王)の子・呂禄を上将軍

      に任じて北軍を掌握させ、長兄(周呂侯)の子で相国である呂産を呂王

      に封じ且つ「南軍」の将軍とした。

       そしてこの二人には、任地に赴任させず、帝都防衛の為 常駐させた。

       やがて王陵は職を追われて、郷里に引きこもった。

       陳平も右丞相に移り、呂太后のお気に入りである審食其(しんいき)が

      左丞相に抜擢された。

               「史記 呂后本紀」、「十八史略 西漢」

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(人主に過挙なし)

     「人主に過挙なし」

                   前漢(後漢)時代

      天子はその治政に於いて、その過ちや失政を数え挙げることは出来ない。

      即ち天子は無繆(むびゅう)であるということ。

      天子は人民の信頼を得てこそ天下を治めることが出来るものであり、

     その為には、一旦公表した計画などを変更してはならない。

      若しそんな事をすれば、天子が間違っていたと言う事を人民に知らせる

     ことになってしまう。

      この「人主に過挙なし」という言葉は、儒学により漢文化の基礎を築いた

     叔孫通が恵帝に対して言った言葉である。

      恵帝は呂太后の住む長楽宮に通ずる回廊を建設しようとしたが、その

     意図する所は、呂太后を訪れる度に、一般の通行が差し止められて人民

     らに不便をかけたからそれを回避しようとしたのである。

      ところがその回廊は、高祖(劉邦)の祖廟に通ずる道筋を横切らねば

     ならない設計であった。

      それと知った叔孫通は、その工事が先祖の霊に悖ることを進言した。

      恵帝は早速その工事を中止し、取り壊させようとした。

      だが、叔孫通はさらに助言して謂う、

      「それはなりません。人主は過挙なし。

      この計画は天下周知のことです。今さら中止すれば陛下に誤りが在った

     ことを天下に示すことになります」と。

      そこで恵帝はその工事は一応完成させ、新たに高祖廟にもう一つ

     建造して、孝行の道を一層尊びつつ、政策の過ちを正して、人主に過挙なし

     という法の明文を守った。

                      「史記 隆敬・叔孫通列伝」

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(中国の三大女傑・呂太后)

     「中国の三大女傑 呂后(呂太后)

                  前漢(西漢)時代

      王朝の政治権力を恣に独占した前漢の呂后(高祖劉邦の皇后)と

     唐の則天武后(高宗の皇后)及び清の西太后(咸豊帝の皇后)、

      この三人の女性を中国の三大女傑と謂う。

      呂后は高祖劉邦亡き後、政治の表舞台に登場し、中国の歴史始まって

     以来の政治を壟断した女傑の嚆矢である。

      劉邦は泗水の亭長であった頃、呂氏の強い勧めでその娘と結婚した。

      その娘が、後に皇帝となった劉邦の皇后である。

      結婚した頃の劉邦の歳は既に四十代であったが、結婚はしても相変わ

     らず遊侠の暮らしを続け、彼女は劉邦の兄夫婦の家に寄宿し、耐え難い

     日々を過ごした。

      秦時代の末期、劉邦の運命が大きく開けるようになっても、項羽との抗争

     で項羽の人質になったり、劉邦が皇帝になってからも我が子の後継者問題

     で紛糾したりと、苦労は絶え無かったと言われる。

     》 呂太后の凄惨な復讐劇 《

      劉邦の没後、呂太后は外戚として一族を束ね、それからようやく耐えて

     きた憎しみの復讐に取り掛かった。

      皇太子後継問題で紛糾させた劉邦の戚夫人に対する復讐劇が始まった。

      憎んでも余りある遺恨が爆発した。

      先ず戚夫人の手足を切断させ、目玉をえぐり、耳をつぶし、薬物で喋れ

     ない様にしてしまった。

      そのような事が果たして可能であったかどうかは別にして、それからも

     猶も生き永らえる戚夫人の人体を「人彘(じんてい)」と名付けて、

     便所の中に閉じ込めて凌辱した。

      呂太后は自分だけの満足では事足りず、我が子・恵帝を便所に案内し

     て、人彘を見せ、

      「之が誰だか分かりますか」と。

      もちろん恵帝に分かるはずも無かったが、

      「之が憎き戚夫人ですよ」と。

      恵帝は愕然として、激しいショックで気を失ってしまった。

      以来 恵帝は寝付いてしまい、一年余も病状は回復しなかったという。

      次に呂太后は、戚夫人の産んだ子である趙王如意を召喚すべく、趙に

     使者を送った。

      高祖劉邦は、自分の亡き後の、趙王如意の行く末を按じて、趙の宰相

     には呂后も一目置いている、忍耐強くて且つ実直な周章を付けていた。

      この周章は、曽て高祖が如意を大子に立てんとした時、張良らの策と

     は別に、直談判で激烈に反対したので、高祖も苦笑いしながら聞き止め、

     それからしばらくして、取り止めたとも言われる。

      その時の状況を呂后は、控えの間で聞き耳を立てていたのでよく

     知っており、後には周章には膝まづいて感謝したという。

      呂太后からの使者が来ても、周章は趙王の病を口実に応じさせなかった。

      以後 使者の遣り取りが三度続いたが、周章は頑として応じさせ

     なかった。

      呂太后は腹を据えかねて、今度は周章を召喚した。その一方では、

     すぐさま使者を送って趙王を召喚した。

      召喚に応じた周章に対して、呂太后は激しく怒りをぶっつけたという。

      趙王如意は召喚に応じて上京したが、王宮に入る前に、義理に当たる

     弟の身を按ずる恵帝に迎えられ、共に王宮内に起居することとなった。

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(四鳥別離)

     「四鳥別離(しちょうべつり)

                  前漢(西漢)時代

      親子の悲しい別れの譬え。

      羽翼既に成って巣立とうとす四羽のひな鳥とそれを見送る母鳥との

     最後の悲しい別れ。

      恒山の鳥は四羽の子を生んだが、四羽とも既に羽翼が成り、当に別れ

     んとするに際して、その再び逢うことの出来ない定めを母鳥が悲しんで、

     哭いたという説話から。

      春秋の昔、孔子師弟が衛の国にいた時のことである。

      孔子が朝 早く起きた時、遠くから大層悲しそうな声が聞こえてきた。

      傍らに侍していた弟子の顔回に向って、孔子は言った。

      「回よ、お前は之がどういう哭(なき)き声か分かるか」と。

      回 対えて曰く、

      「私は、この哭き声は単に死んだ者の為に哭いているだけでなく、

     これから更に生き別れする者がいるのだと思います」と。

      師は言う、

      「どうして分かるのか」と。

      回 対えて、

      「私は恒山の鳥が四羽の子を生んで、羽翼が既に出来上がり、

     其の四羽の子供たちが四方の海に旅立とうとした時、その母鳥は悲しん

     で哭いてこれを送ったと聞いております。

      聞こえてくるあの悲しそうな声は、この恒山の母鳥の哭き声に似て

     おります。

      これは生き別れする者が、行ったきり帰って来ない事を思うからです。

      私は、密かに哭き声が似ているので分かるのです」と。

      孔子は人を遣って、哭いている者に其の事情を聴かせた

      果たして、その者は言った。

      「夫が死んだが家が貧乏なので埋葬も出来ず、その為に子供を売って、

     それで父を葬ろうとしましたが、今 その子と永久に別れようとしておる

     のです」と。

      師は言った、

      「回は能く音を知るかな。」

                        「孔子家語 顔回」

     

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    Author:tyouseimaru
    出身地は四国八十八か所参りの発心の阿波、大阪を終の棲家とする。
    歴史好きで、城郭・神社仏閣・歴史遺跡巡りが趣味となる。
    歴史小説や時代小説を好み、往年の著名な時代小説の類は概ね完読と、自負している。

    自薦
    自著「中国通史で辿る名言・故事探訪」の 上・中・下の3巻を、 近い内に「電子書籍」での出版を予定しています。 今年一年間は、さらに工夫を加えるなどして、補記訂正などの校正を第一義としています。       
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