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    中国通史で辿る名言・故事探訪(五日京兆)

     「五日京兆(ごじつけいちょう)

                ◇ 前漢(西漢)時代 ◇

      官職に在任する期間が、残り僅かな事の譬え。

      ☞ 京兆とは「京兆尹(けいちょういん)」のことで、漢の城都で

       ある長安を管轄する最も有力な行政府の長官。

        その他、長安周辺の郡部を管轄する左馮翊(さひょうよく)、

       右扶風(うふふう)があり、京兆尹とを併せて、「三輔」と称した。

      ある時、宣帝は楊惲(よううん)を誅罰した。

      そんな状況下に、善かれとして上奏する公卿がいて、

      「京兆尹の張敞(ちょうしょう)は楊惲の党友なり。

      其の位に在るべからず」と。

      ところが、その上奏がまだ決裁が下りていない年末、

      張敞は、部下である賊捕掾(警吏)の絮舜(じょしゅん)に事件の

     取り調べを命じた。

      ところが絮舜は、張敞が弾劾上奏されており、当然 免職になるはず

     だとして、張敞の命令を聞かず、任務を果たそうとはしなかった。

      そのようは不義理な絮舜に対して諌める者がいたが、絮舜曰く、

      「吾、この公の為に力を尽くすこと多かりき。

      今や五日京兆のみ。安んぞ能く復た事を安ぜん」と嘯いた。

      (=私はこれまで、この公の為に力の限りを尽くしてきた。

        だが今では、わずかに残り五日だけの京兆尹である。

        どうして彼の為に、あれこれ苦労せねばならないのか。)

      その言葉を聞いた張敞は、その吏を捕え、処刑できる期限である

     新年までの数日間、夜を徹して調べさせ、その吏を死罪にした。

      各地を巡察して冤罪を調べる使者がこの件を上奏したため、また先の

     楊惲の件と併せて罷免され、庶人に落された。

      だが後に、宣帝は彼を召し出し、治安の悪い冀州刺史に任じて鎮圧

     させた。

      その後、太原太守に移る。

                        「漢書 張敞伝」

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(于公高門)

     「于公高門(うこうこうもん)

                 ◇ 前漢(西漢)時代 ◇

      「于公、門閭を高大にす」より。

      陰徳ある家の子孫が繁栄することの譬え。

      于公という人が、邑里(里の居住区)の門構えを高く且つ大きくした

     の意。

      于公は、東海郯の人。県の獄吏を経て、郡の決曹(司法官)となり、

     獄(判決)を決することが実に公平であった。

      その為 于公の裁きに対して、恨んだり、不平を言う者はいなかった。

      郡中では、彼の徳を顕彰し祠を建てる程であった。

      或る日のこと、邑里の門閭が壊れたことがあった。

      そこで父老たちは、寄り集まり共に修築しようとした。

      ところが于公は言う、

      「少し門閭を高大にし、駟馬(しば。4頭立て馬車)、高蓋車

     (屋根付き馬車)を容れしめよ。

      我 獄を治めて陰徳多く、未だかって冤するところ(冤罪)有らず。

      子孫必ず興る者有らん」と。

      果たして後、その子・于定国に至り、宣帝の時 丞相となり西平侯に

     封ぜられ、そのまた子の于永は御史大夫となり、侯に封ぜられた。

                          「漢書 于定国伝」

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(売剣買牛)

     「売剣買牛」

                  ◇ 前漢(西漢)時代 ◇

      また「売刀買犢」とも。

        ☞ 犢(とく)は子牛。

      武器を売り払って牛を買い、帰農すること。

     》 循吏の龔遂(きょうすい) 

      宣帝の御代、渤海郡は度々の飢饉に見舞われ、野盗が出没し、治安

     状態は酷く悪くなった。

      宣帝は渤海郡の長官に龔遂を抜擢し、彼を引見して其の対策を下問

     した。

      龔遂は対えて、

      「渤海郡は、陛下の威徳を受けていない僻遠の地であります。

      人民が飢え寒さに苦しんでも、役人は暖かい手を差し伸べようとも

     しなかったので、人民を野盗化させたのです。

      つまり、こういう事でございます。

      陛下の赤子(せきし)が武器という玩具を持ち出して、

     水溜り(渤海)で悪さをしているようなものです。

      陛下は臣をして、これに勝たしめんと望まれますか、それともこれを

     安定させることを望まれますか」、と陛下の意向を確かめた。

      宣帝は、「もちろん安定に在る」と。

      龔遂は、

      「では、お願いがございます。

       乱民を治むるは乱縄を治むるが如し。急にすべからざるなり

      と申します。

       その為には、法で拘束するのではなく、私の一存で執り計ることを

     特にお許し願いたく存じます」と懇願した。

      宣帝は彼の願い出を許した。


     》 なんすれぞ牛を帯び犢を佩(お)ぶるや 《

      武器を棄て帰農することを勧めた循吏・龔遂の言葉。

      一体どういう心算だお前たちは、腰に牛や子牛をぶら下げているでは

     ないか。

      人民がいつまでも農耕に従事せず、殺戮用の刀剣を腰に帯びている事

     を、強く揶揄して戒めたもの。

      龔遂は駅伝を乗り継いで単身、渤海郡の境界に至った。

      新任の太守を出迎えるための兵士が差し向けられたが、龔遂は全員を

     引き取らせ新たな布告を伝達した。

      その布告とは、

      【当面、野盗の捕縛は中止する。だが今後、農具を持っている者は良民

     とし、武器を持っているものは野盗と見做す】と云うものであった。

      かくして龔遂は護衛無しで役所に伝車を乗りつけた。

      布告を知った者は、即座に野盗の群れから離脱する者が出てきた。

      だが相変わらず刀剣を棄てきれない農民に対しては、

      「なんすれぞ牛を帯び犢を佩ぶるや」と諌めた。

      かくして龔遂は、次々と苦労しながら郡内を熱心に巡察した。

      そうした努力が実って、その内 郡内の農民も農作業に精を出すように

     なり、だんだん貯えも出来るようになり、闘争による裁判沙汰も無く

     なった。

                「十八史略 西漢」、「漢書 循吏・龔遂」 

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(百聞は一見に如かず)

     「百聞は一見に如(し)かず」

                 ◇ 前漢(西漢)時代 ◇

      多くの噂や伝聞を当てにするより、一度 我が目で見る方が確実に

     事実を知ることが出来るもの。

     》 趙充国の上奏 《

      宣帝の御代、チベット系の異民族・羌族(きょうぞく)が反乱を

     起こした。

      憂慮した宣帝は、その昔 匈奴討伐戦で活躍したことのある老将軍

     の趙充国に、誰を討伐軍の司令官にすべきかを諮問した。

      趙は諮問に応えて、上奏文を奉った。

      「犬馬の齢(よわい) 七十六、詔(みことのり)を受けて出陣し、

     溪谷に死骨を曝して帰らぬ身となりましょうとも、思い残すことは

     ございません」
    と。

      (=この私めは歳こそ七十六歳と老いておりますが、若し討伐軍の

       将を拝命するならば、仮令(たとえ) 戦場に散ろうとも悔いは

       無く、この老骨を陛下に捧げる所存でございます。)

      そこで改めて、皇帝は彼を召し出し、その軍略と動員すべき兵力に

     ついて問うた。

      趙充国曰く、

      「百聞は一見に如かず。兵は隃(はる)かに度(はか)り難し。

       臣、願わくは、馳せて金城に至り、図して方略を上(たてまつ)

      らん」
    と。

         ☞ 金城とは、本義は難攻不落の堅城のことであるが、

          賢明な皇帝の下には反乱等はあり得ないという深慮から、

          反乱地を憚って、このように金城と言う。

      (=百回報告を聞くより、一度でもこの目で見た方が確かで

       ございます。

        軍略は、陣地を離れた遠方では謀れません。

        どうか取り急ぎ、この私を金城へ向かわせてください。

        たちどころに、軍略を立ててご覧に入れましょう。)

       宣帝の許しを得た趙充国は、反乱地に至り、それが容易ならざる規模

      であることを見抜き、屯田の軍略を立て補給体制を確立してから、一年

      を要して、見事反乱軍を鎮圧した。

                          「漢書 趙充国伝」

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(曲突徙薪)

     「曲突徙薪(きょくとつししん)

                 ◇ 前漢(西漢)時代 ◇

      火事などの禍を未然に防ぐこと。

      竈の煙突を外側へ曲げ、また傍らに積み上げららた薪を他に移して、

     火事になるのを未然に防ぐの意。

     》 徐福の上書 《

      宣帝には許氏という皇后がいた。

      ところが、時の権力者である霍光の夫人は、自分の娘を皇后にする為、

     許皇后を殺害してしまった。

      これを知った霍光は夫人を罰しようとしたものの、結局 黙殺して

     しまった。

      だが自責の念から間もなく病没した。(前68年)

      霍光の死後、婦人の娘は皇后に納まり、霍光一族の専横が始まった。

      だが宣帝は霍氏以外の者と画策し、じわじわと霍一族を実権から

     遠避け、兵権を奪い亡き許皇后の遺児・王子奭を大子に立てた。

      追い詰められた霍一族は、猛然と巻き返しを狙ったが、その反乱も

     一日で鎮圧されてしまった。

      この霍一族の反乱の前、その一族の驕慢ぶりに、見るに見かねて

     茂陵の徐福という者が、将来を憂いて上書した。

      「昔、ある家の前を通りかかった人が、その家の竈の煙突が真直ぐに

     なっており、またその傍らに積み上げられた薪があるのを見て、其の家

     の主人に忠告した。

      【突を曲げて薪を徙(うつ)すべし】と。

      (=火事になるから、改めて曲がった煙突に作り直し、早くその側の

       薪を他に移しなさい。)

      だが主人は、忠告に応じなかった。

      ところがある日のこと、にわかに出火した。

      村人が総出になって消火したので、幸いにも消し止めることが出来、

     大事には至らなかった。

      そこで、後日 主人は消火に協力してくれた村人を招いて、牛を捌き

     酒肴を設けて感謝の意を示しました。


       「燋(焦)頭爛額を上客となす」

         根本より末端を重視することの譬え。

         曲突徙薪の助言者を等閑にして、火事になるや実際に消火活動

        に当たり、頭を焦がし額が火で爛(ただ)れた者が、最も重んじ

        られるの意。


      ところがである、

      その主人の感謝の酒宴に異議を唱えた者が、謂うには

      「先に親切な通行人の忠告を聞いていたら、牛や酒も費やさず、

     いつまでも火の心配はなかったのです。

      この度、霍氏の乱の鎮定の論功行賞に及びて、煙突を外へ曲げ反らせ、

     薪を他へ移すこと、則ち「曲突徙薪」を勧めた者には恩沢が無く、頭を

     焦がし額が火で爛れた者、則ち「焦頭爛額(しょうとうらんがく)」が、

     最も大切な客となるのですか」 と。

      即ち禍乱を未然に防ぐ策を講じた者は顧みられず、直接に鎮定の功を

     挙げた者が重賞を受けることを難じたのである。

      宣帝は、成程と認めて、改めて徐福に絹を与え、郎官に任じた。

                 「十八史略 西漢」、「漢書 霍光伝」

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(問牛知馬)

     「問牛知馬」

                ◇ 前漢(西漢)時代 ◇

      物事を迂遠な方法により、間接的に側面から類推して事実を知ること。

      事実を知りたい時や、犯罪の容疑者を尋問したりする時に、いきなり

     核心には入らず、無関係な事から尋ねていき、徐々に本題に迫っていく

     追求方法を言う。

     》 京兆尹の趙広漢 《

      宣帝の御世、趙広漢は若くして清廉潔白で優秀であった。

      秀才に推挙され、更に孝廉にも推挙されて、各地の令を歴任した。

      潁川太守の時には、郡内は麻の如く乱れていたが良く治安を回復し、

     また其の厳しい仕事ぶりは、全国にその名を知られた。

      彼は事実関係の掌握に際して、直接に尋問することはせず、話を上手く

     聞きだす術に特別に長けていたと謂われる。

      例えば、趙広漢は、馬の値段を問い正そうとするのに、先ず犬の値段

     を尋ね、次に羊、牛と質問を進めてから、最後に馬の値段を問うたと

     云う。

      このように他の値段と共に類推して、馬の流通値段を確実に察知した

     のである。

                          「漢書 趙広漢伝」

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(賢にして財多ければ、)

     「賢にして財多ければ、則ちその志を損し、

      愚にして財多ければ、則その過ちを益す」


                 ◇ 前漢(西漢)時代 ◇

      賢い子孫であったとしても多くの遺産があると、折角の高い志を持って

     いても、その志は駄目になってしまうだろう。

      また愚か者に多くの遺産を持たせると、その過ちを重ねるだけとなる。

     》 疏広(そこう)と疏受 《

      宣帝の皇子奭(せき)が皇太子に立てられた時、太傅には中散大夫の

     疏広が、少傅には彼の甥の疏受が任ぜられた。

      彼らの謹直な務め振りは、朝廷では大いに尊崇され、宣帝の信頼にも

     篤いものがあった。

      やがて幾年かして、疏広は疏受に言う、

      「吾聞く、

      【足るを知るは辱められず、止まるを知るは即ち殆(あや)うからず。

      この時に去らねば必ず後悔す】と。

      今、仕官すること、二千石に至り、務めを果たし名声を得ている。

      名声を得れば身を退くのが天道であり、自然の原理である。

      どうだろう、故郷に帰って歳を重ね、生涯を終えるに越した事はある

     まい」、と。

      かくして彼らは骸骨を請い(辞職願い)、宣帝の止めるのも聞かず、

     上訴してから帰郷した。

      蘭陵に帰郷するや、二人は日々酒宴の宴席を設けては、一族旧友を

     招き、下賜された多くの金品でその費用を賄った。

      そんな彼らに或る人は言う、

      「田地を買い、大きな邸宅を造っては如何か」と。

      疏広は言う、

      「この金はわれ等の身を按ぜられて下賜されたものなので、我らの

     余生が終わるまで楽しむべきものです」と。

      かくして、一年余で下賜金は尽き果てた。

      彼らの子供たちは心配になり、節約するよう願い出た。

      疏広は、
     
      「もちろん、子のことを思わないことはない。

      しかし我が家には、田地も必要なだけはある。

      働けば、そこから衣食を賄うには十分あるはずだ。

      賢にして財 多ければ、,則ち其の志を損し、

      愚にして財 多ければ、則ち其の過ちを益す」と。

                          「十八史略 西漢・宣帝」 

       

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(芒刺、背に在り)

     「芒刺(ぼうし)、背(はい)に在り」

                  ◇ 前漢(西漢)時代 ◇

      畏れることがあって、身心の安らかでないことの譬え。

      背中に刺が刺さっているの意。

        ☞ 芒とは、「のぎ」のことで、穀粒の先端の細い毛をいう。

          芒刺では、刺をいう。

      宣帝は即位したものの、武勲赫赫で謹厳実直な大将軍の霍光は、当に

     まことに煙たい存在でもあった。

      宣帝が初めて高祖の御廟に参拝した時、宰相の霍光が天子の御車に

     陪乗した。

      宣帝はその時の心境を、後になって述懐したことがあった。

      「内に厳憚(げんたん)す。芒刺の背に在るが如し」と。

      (=内心は酷く憚り、まるで刺が背中に刺さっているような感覚で

       あった。)

      後に、車騎将軍の張安世が陪乗した時には、帝は従容と落ち着き、甚だ

     安らかであったと云う。

              「漢書 霍光伝」、宋の時代の胡継宗「書言故事」

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(先に光に関り白すべし)

     「先に光(こう)に関(あずか)り白(もう)すべし」

                  ◇ 前漢(西漢)時代 ◇

      政(まつりごと)などの諸亊万端のことは、総べて先ずは霍光に相談し、

     その後に奏上せよ、と云う事。

      前74年、十八才の太子病已(へいい)が霍光らに推挙されて即位した。

      これが宣帝である。病已は武帝の皇太子で無念の死を遂げた劉拠の孫

     であるが、幼気な幼児であったので命だけは助けられ、後に宗籍に加え

     られ後宮に移り教育を受けた。

      宣帝が即位すると、霍光は頓首して政を皇帝に奉還する事を願い出た。

      だが宣帝はまだその時に非ずとして、許さなかった。

      宣帝は朝議の席に於いて、百卿を前にして命じた、

      「諸事は皆、先に光に関り白し、然る後に奉御すべし」と。

      霍光が従前通りに、政務に遺憾なく専念出来るように、先ずは霍光が

     政務全般を見て、然る後に奉御すべしとして、霍光に対して十分に敬意を

     払い、その存念を示したのである。

                         「漢書 霍光伝」

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(伊霍の故事)

     「伊霍(いかく)の故事」

                  ◇ 前漢(西漢)時代 ◇

      伊尹(いいん)と霍光(かくこう)の天子廃立の故事を言う。

      伊尹は商(殷)王朝を開いた湯王を補佐した名宰相であったが、

     湯王亡き後、後を継いだ天子が不肖の子であったので、一時期ではある

     が天子を廃位し、その素行が改まった後に、復位させると言う事を敢えて

     行った。

      また漢の柱石であった霍光は、武帝の孫の昌邑王・賀の廃立を行った。

      この伊尹、霍光の二人の宰相は、臣下の身でありながら、敢えて天子を

     廃立するという悖逆行為を行ったが、それは天下国家の為であったので、

     これを後世の人は、 「伊霍の故事」と称した。

      元平元年(前74年)、漢の昭帝が二十一歳の若さで崩じた後、昭帝

     には子が無かったので、霍光は武帝の孫である昌邑王賀を帝位に

     即けた。

      賀は武帝の李夫人が産んだ劉髆(りゅうはく)の子であるが、彼は武帝

     が崩ずる直前に亡くなっていたので、賀が昌邑王となっていた。

      昌邑王は宮廷に入ってから無道の行いが絶えず、という理由で霍光ら

     により廃位され、「幻の皇帝」となった。

      即ち皇帝に即位しても、高祖の御廟に親拝を終えなければ、即位の

     大典は完了しないので、未だ正式には皇帝となっていなかったのである。

      霍光の天子廃立の根拠となった理由は、昭帝の皇后である上官氏

     (霍光の孫である)は、皇太后として、慣例上 我が子となった昌邑王賀

     を廃立できるというものであった。

      皇太后は、未央宮に昌邑王が一人を呼び、天子廃位の旨を告げた。

      この昌邑王の廃位に伴い、未央宮の門外に待機していた昌邑王の臣下

      二百余人は車騎将軍の指揮する兵に逮捕され、投獄後、ほお全員が

     殺害された。

      ただ昌邑王賀をしばしば諫言したことのあった、王吉(おうきつ)と龔

     遂(きょうすい)らは処刑を免れた。

                         「十八史略 西漢」

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(河梁の別れ)

     「河梁の別れ」

                  ◇ 前漢(西漢)時代 ◇

      友人との悲しい別れの譬え。

      蘓武と李陵が、匈奴の地の河梁(河に架かる橋)に於いて、永遠の別れ

     をした故事から。

      苦節十九年にして蘓武は願い叶い、ようやく晴れて帰国できることに

     なった。

      その一方では、李陵にとっては匈奴に投降した罪が許される筈も無く、

     これからの生涯もずっと匈奴の地に留まらねばならなかった。

      二人はしばしの時を、河梁に於いて相語り、惜別の別れをした。

     ♪  伝・李陵 「蘓武に与える詩」

       「李陵」

          手を携えて河梁に上(のぼ)る

            親しい我ら二人は、今別れに際して、手を取り合って橋の

           上に立った。

          游氏、暮れに何れにか之(ゆ)く

            君は旅人として、この夕暮に何れへ行くというのか。

              ☞ 游氏とは、さすらいの旅人。

          蹊路(けいろ)の側(かたわら)に徘徊し 

            私は別れの悲しさに、小道の側を彷徨い

          恨恨(こんこん)として辞するを得ず

            恨みがましくも、辞去する事が出来ない。

          晨風(しんぷう) 北林に鳴き 

            この匈奴の地に留まるこの私は、朝に吹く風が、

           あたかも鷹となって北方の林で鳴くようなものだ。

          熠燿(ようよう)として東南に飛ぶ

            祖国へ帰れる君は、嬉々として南の国を目指して飛ぶ

           ようなものだ。

          浮雲(ふうん) 日に千里

            だが私は、日々、浮雲が千里にかかるのを見るだけだ。 

          安(いず)くんぞ我が心の悲しみを知らん

            心無い浮雲が、どうして私の心の悲しみが分かろうか。

     ♪  「文選 蘓武の詩四首・其の四(知人との別れ)」

       「蘓武」

          双鳧(そうふ) 俱(とも)に北に飛び

            二羽の鳧(ケリ)が北の空に飛んでゆくように、

            私たち二人は北の匈奴に抑留されていた。

          一鳧 独り南に翔(かけ)る

            ところが今、その一羽が南に逃げ去り、

          子(し)は当にこの館に留まるべし
          
            もう一羽は、やはりそのままこの館に留まらねば

           ならない。

          我は当に故郷に帰るべし

            だが私は、故郷の漢に帰れることになった。

          別(わかれ) 秦胡の如く

            一度別れれば、ちょうど秦と胡との隔たりのように、

           遠ざかってしまい、再び逢うことも叶わない。

          会見 何ぞ渠(にわか)に央(つく)る

            その為 少しでも長く逢っておきたいのだが、どうして

           かくも時が尽きるのが早いのだろうか。

          愴恨(そうこん) 中懐に切なり

            哀しみやら恨みの想いで、我が胸中はやりきれない物

           がある。

          覚えず涙 裳を霑(うるお)す

            思わず涙が流れ、我が衣服を濡らしてしまう。

          願わくば 子 長く努力し
         
            願わくば、君よ末永く努力して、

          言笑 相忘るること莫れ

            二人で楽しく語った友情を、共に忘れないで貰いたい

           ものだ。

     ★  李陵の作と伝わる「蘓武に与える詩」と、それに応える

       「蘓武の詩 四首・其の四」については、後世に至り、偽作である

       との疑いがもたれるようになった。

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(蘇武持節)

     「蘇武持節」

                 ◇ 前漢(西漢)時代 ◇

      変わることのない信念の強さを言う。

      蘓武は、匈奴に漢の使節として赴いたが、時の情勢の変化により不運

     にして不毛極寒の地に抑留されることになった。

      我が身を匈奴に帰順すれば、厚遇されることも保障されたが拒絶し、

     食に窮しながらも最後まで漢の節符を守り通したという故事。

      漢の全盛時代を築いた武帝の天漢元年(前100年)、中郎将の

     蘓武は漢の外交使節として、北の彼方の匈奴の地へと赴いた。

      しかし匈奴の内紛に巻き込まれて、使節団は全員が拘束され匈奴に

     帰順するか死ぬかの選択を迫られた。

      他の者たちは最早これまでと諦めて、降伏し帰順してしまったが、

     蘓武だけは 「漢の節符」を懐き漢に忠節を

     尽くそうとして頑として応じなかった。

      そこで山腹の穴倉に幽閉され、食を絶たれてしまった。

      だが彼は、毛氈(もうせん)を噛み、雪を溶かして飲んで飢えを

     凌いだ。

      蘓武が何日経っても死なないので、見張りの者は彼が神かと驚き、

     単于に報告した。

         ☞ 節符とは、天子から外交使節の印として授けられる

          割符のこと。

      匈奴の単于は、そこで彼を北海の人跡未踏とも言うべき未開地に押し

     込め、羝(おひつじ。牡の羊)を飼わせる事にして、

      「羝、乳せば乃ち帰るを得ん」と申し聞かせた。

      厳しい自然環境と監視の中、蘓武は寸時も漢節を身から離さず、野鼠

     を捕え、草木の実を集めては蓄えて露命を凌いだ。

      そんなある日のこと、先に匈奴に降り、今は富貴な暮らしをしていた

     李陵や衛律が、蘓武に降伏を勧めるために訪れて来た。

      李陵は蘓武に言う、

      「人生、朝露の如し。何ぞ苦しむこと斯くの如き」と。

      殊に衛律は、しばしば蘓武を訪れては、盛んに降伏を勧めた。

      だが蘓武は、彼らの意見を無視し続けた。

      それから十九年に及ぶ長い長い苦難の幽閉生活が始まった。

      幽閉中には彼の武帝も崩じ、後を継いだ昭帝の時代になって、

     漢の人質救出の使節団が匈奴の地に派遣された。

      そして長らく消息を絶っていた蘓武の件を持ち出して、帰国を要求

     した。

      だが、匈奴は、「蘓武は既に死んだ」と言い張るばかりで、

     その真偽を確かめる術は漢の使者にはなかった。

      その夜である、蘓武と共に匈奴に捕らわれ、匈奴に降っていた常恵と

     いう者が密かに使節団の幕舎を訪れ、何事かを告げた。

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(三革と改元)

     「三革と改元」

      中国では、「三革(さんかく)」と称する暦法がある。

      それらの歳には、治安が大いに乱れ、また縁起が良くないとして、

     しばしば元号が改められて来た。

      その一   「革令」と称し、甲子(かっし。きのえね)に当たる。

      その二   「革運」と称し、戊午(ぼご。つちのえうま)に当たる。

      その三   「革命」と称し、辛酉(しんゆう。かのととり)に

           当たる。

      この三者は、それぞれ順に忌み嫌われてきた。

      中でも「革命」は最悪であり、

      例えば歴史的出来事では、清末の1921年の「辛酉革命」は良く知ら

     れるところである。この年に中国共産党も結成された。

      ※ 元号の制定される以前では、前180年に、漢の呂太后の

       専横を絶ち、劉氏の復権を果たした周勃・陳平らの決起は、

       革命ではなかったが辛酉年のことであった。

        後漢の霊帝の中平元年(西暦184年)は甲子の歳であり、

       この歳に張角等の「黄巾の乱」が起こり、群雄割拠の様相を

      呈するようになった。

       西晋の恵帝の永安元年(西暦304年)は甲子の歳で、

      この歳に所謂 五胡十六国の乱が起った。

                               

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(猶予)

     「猶予(ゆうよ)

                 ◇ 前漢(西漢)時代 ◇

      思い切りが悪く、ぐずぐずしたり、ためらうこと。

      「猶(ゆう)」は猿の一種で疑い深く、人の声を聞くと急いで木に

     登り、人がいなくなると再び地上に下りてきたりして、常に木を上下

     して、ためらった(躊躇)と言う。

      「予(よ)」、もまた疑い深い獣であったと言う。

      そこから、人の考えや図りごとが、未だ決しないことを「猶予」と

     言うようになった。

                      「漢書・注釈」

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(義は泰山より重く、)

     「義は泰山より重く、命は鴻毛(こうもう)より軽し」

                  ◇ 前漢(西漢)時代 ◇

      国家や君父の為に、即ち忠義忠孝の為には、命を捨てることを少しも

     惜しまないと言うこと。

      義は重く命は軽し、という忠君愛国思想の譬えでもある。

      だが本来の意味は、人はその置かれた際の状況や立場からする思い

     もあり、また其の動機も異なり、自ずと人の死生観も普遍一元的なもの

     ではない、と解されていた。

      ところが、司馬遷の汚辱に満ちた宮刑を受けるに際しての死生観が、

     いつしか曲解されて伝わったのである。

      司馬遷は父の遺命により、「太史公書(後に史記と称される)」を完成

     させるという宿願を抱えていたが、その際に屈辱の罪を受けることに

     なったのである。

      彼にしてみれば、それを果たさずには死ぬわけにいかなかった。

      如何なる屈辱の境遇にも、耐え忍ばねばならなかったのである。

      「人 固(もと)より一死有り。

       或いは泰山より重く、或いは鴻毛より軽し。

       用の趣く所 異なればなり。

        (=人として生まれたからには、必ず死はあるもの。

          だが、その死が泰山より重いか、鴻毛より軽いかは、

          人それぞれの、その動機の違いによると言える。)

       太上は先を辱めず。その次は身を辱めず。その次は理色を辱めず。

       その次は辞令を辱めず。

        (=最上のものは、祖先の名誉を守る為の死であった。

          次は、己の士大夫としての節義を全うするための死である。

          次は、体面を汚さない死である。

          次に、李陵擁護の応対をした己の言葉の責任を取ること

         である。)

       続いて、司馬遷の体罰による屈辱の具体的説明は続く。
      
       そして最後に、

       最下は腐刑、極まれり」と。

         (=最悪は、命を惜しんで受ける宮刑に尽きる。)

       司馬遷が名誉の死を選ばず、敢えて最悪の「腐刑」という汚辱を甘受

      した理由は、当に胸中の宿願を果たすという義務感にあったのである。

       そして即ち、泰山よりも我が命を重しと為したのである。
     
            司馬遷「任安に報ずるの書」・「文選 報任少卿書」

       ※ 任安は司馬遷の友人で、時にその任安も皇太子・劉拠の

         謀反に連座して、刑の執行を獄中で待つ身であった。

         司馬遷は、同じ境遇の友人に己が宮刑を甘受した心境を書き

        送ったのである。

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(西王母伝説)

     「西王母(せいおうぼ)伝説」

                  ◇ 周~戦国時代 ◇

      中国の西周時代、第五代天子・穆王(ぼくおう)と西王母との瑶地での

     出会いと別れが初出。

      「朝雲暮雨」

      「巫山の夢」、「雲雨巫山」ともいう。

      時代は戦国時代となり、戦国七雄の一人である楚の王が高唐に遊び、

     夢の中で巫山の仙女に邂逅し、情を交わした、という故事。

      そしていよいよ別れる時に、その仙女は言った。
      
      “われは巫山の陽(みなみ。南)高丘の岨(そ。険しい所)に在り。

       晨(あした。明日)には朝雲となり、暮れには行雨(にわか雨)と

      なり、
     
       朝雲暮暮、陽台の下に在り“、と。

         ☞ 陽台は、南面する住まいの高殿。

                     楚の宋玉「高唐賦」

      ※ 巫山の仙女とは、古来から知られた西王母のことである。

        楚の楚王とは、襄王(39代 前298~263)のことだと

       言われるが、襄王の先代の懐王(38代 前328~299)

       との説もある。

      さらに時代は下がって、漢の武帝の時代、武帝が不老長生を願って

     いた時、西王母は天上から降りてきて、武帝に仙桃七顆

     (仙界の仙人が食するという七個の桃)を与えたという伝説もある。

      その桃は、「三千歳(みちとせ)の桃」と言われるようになる。

                    「唐詩撰 劉廷芝・公子行」

    テーマ : 神話伝説逸話
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    中国通史で辿る名言・故事探訪(天馬伝説)

     「天馬(てんば)伝説」

                  ◇ 前漢(西漢)時代 ◇

      天馬とは、天帝が乗って空を飛翔する馬を言う。

      転じて、名馬のことを天馬と言うが、とりわけ大苑国産の馬を言う。

      漢の時代の伝説によれば、大苑国には峻険な高山があり、そこでは

     天馬が棲んでいるが、捕えることは出来ないと言われていた。

      そこで大苑国では、その麓に五色の美しい牝馬を繋いでおいて、

     天馬をおびき寄せて交合させ、天馬の仔馬を得たという。

      この仔馬は長じるに及んで、一日千里を走り、血の汗を流すという。

     》 張騫の帰朝報告 《 

      武帝の御世、張騫(ちょうけん)が十三年ぶりに苦しい西域の旅から

     帰還した。

      張騫は、武帝に其の詳細な報告書を提出した。

      時に武帝は、匈奴との戦いで良馬を渇望していたが、張騫の報告書に

     大苑国の汗血馬の報告があった。

      それから後、西域諸国との交通が頻繁になり、使節として派遣された

     随行者が報告した。
     
      「苑に善馬あり。弐師城にあり。

      匿(かく)して漢の使いに与うるを肯んぜず」、と。

      武帝は張騫の報告もあり、この度は何としても手に入れたいと、千金と

     金銀の馬を携えさせ、使節を派遣した。

      だが大苑国王は、その申し出を拒絶し、剰え帰国の途についた使節一行

     から財物を強奪してしまった。

      かくして太初元年(前104年)、武帝は、愛妾李夫人の兄・李広利を

     弍師将軍に任じて、数万の軍団をかき集めて遠征させた。

      だが遠征軍は食糧不足やらで大苑国に至る前に、反撃に会って敦煌に

     辿り着いた。

      かくして第一次遠征は失敗に帰したが、武帝はそのまま放置すれば、

     大苑国ごときに侮られ、また大夏からも侮られるとして、1年ほどの

     期間をおいて第2次遠征に備えた。
     
      そして遠征が再開されたが、今度は準備も万端であり、大苑軍の反撃

     に会っても射撃戦で圧倒し、遂に講和の盟は成った。

      漢軍は多大の犠牲を払ってようやく、汗血馬を数十頭、中等以下の

     牡三千頭を手に入れて帰還した。

      この汗血馬を「天馬」と呼び、それより先に手に入れた烏孫の駿馬は、

     「西極(さいきょく)」と呼び名を変えた。

                       「史記 大苑列伝」

     

    テーマ : 神話伝説逸話
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    中国通史で辿る名言・故事探訪(夜郎自大)

     「夜郎自大(やろうじだい)

                 ◇ 前漢(西漢)時代 ◇

      世間知らずで、自分の力量を過大に評価する事。

      また自信過剰な世間知らずを言う。

      漢の西南に位置する蜀、その更に南方には雑多な民族が、それぞれ

     小さな国家を成していた。

      それらの小さな国の中でも、「夜郎」や「滇(てん)」は比較的大きな

     国家であったという。

      漢の使節が身毒国(インド)への回廊の調査の途次に、漢の西南方面

     の奥地の辺境にある異民族の「滇国」に立ち寄った時のことである。

      滇国王は、漢が進んだ文化を誇る、強大かつ広大な国家であることを

     知らず、使節に質問した。

      「我が国と漢では、どちらが大きいか」と。

      そして次に、「夜郎国」に至った時も、夜郎国王から同じ質問が

     為された。

      その当時は、両国から漢への道は通じておらなかったので、両国王は

     ともに国際情勢には疎く、漢という未曽有の大帝国がある事を知らな

     かったのである。

      その後、漢の中郎将の唐蒙が、千の兵を率いて夜郎国に攻め入るや、

     すぐに降伏して、その国は漢の犍為郡となった。

                    「史記 西南夷列伝」

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(睹ざる所を以って人を信ぜざるは、)

     「睹(み)ざる所を以って人を信ぜざるは、

      蝉の雪を知らざるが如し」


                  ◇ 前漢(西漢)時代 ◇

      見聞や了見の狭い事を言う。

      蝉は夏の極めて短い間しか生きられないので、冬に降る雪を知らない。

      同じく、自分が知らないから(見聞していない)と言って、人の言を

     信用しないのは、了見が狭いというものである。


     ☆ 「蟪蛄(けいこ)は春秋を知らず」

        夏ゼミは、春も秋も知らない、夏だけの短い寿命である。

        同様に人生も、かくの如く短いものなのだ。

                   「荘子 内篇・逍遥遊」


      

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(君なんぞ分を知らざる)

     「君、なんぞ分を知らざる」
                 ◇ 前漢(西漢)時代 ◇

      何と往生際の悪い奴だ。

     》 酷吏・張湯(ちょうとう)の最後 《

      武帝の時代に、張湯という酷吏が朝廷に於いて一時代を築いたことが

     あった。

      外征を重ねた武帝にとって、その財源確保上、彼は大いに役に立つ官僚

     でもあった。

      しかし、好事魔多しの譬えで、彼には多く反感者や敵対する者が後を

     絶たなかった。

      その内、確証は無ないものの、趙王が製鉄業に絡む朝廷の派遣監督官

     の不正を告発したが、御史大夫たる張湯は却下した。

      また頃を同じくして、 文帝の御陵の埋葬銭の盗難事件があり、その

     責任を丞相の青翟(せいてき)と御史大夫の張湯が連帯して、武帝に

     謝罪することになった。

      だが、いざ御前に伺候すると、張湯は御陵を警護するのは丞相の責任

     であるとして約に反して謝罪しなかった。

      武帝は、事件究明を御史大夫たる張湯に命じた。

      その時 窮地に立たされた丞相を援けようと、丞相府の三人の長吏

     (副官)が立ち上がった。朱買臣、王朝それに辺通である。

      彼らは曽ては張湯の上位にあったが、今は左遷されて下位に甘んじて

     いた。

      丞相は三人の協力を得て、張湯の不正の生き証人となるべき田信らを

     捕吏に命じて取り調べさせた。

      その結果、張湯の商人への財政政策上の情報の漏えい、張湯に結託

     した商人の物資買占めと売り捌きの実態が暴露された。

      かくして張湯を裁く証拠はそろい上奏された。
     
      武帝は監察官に罪状を追及させたが、張湯は反証を挙げて罪を認め

     なかった。

      そこで武帝は、張湯が曾て義兄弟の契りを結んだという趙禹に取り調べ

     を命じた。

      趙は張湯に言う、

      「君、なんぞ分を知らざる。

       君が治して夷滅せしところの者、いくばく人ぞ。

       今、人 君を言う、皆状あり。

      天子、君を獄に致すを憚り、君をして自ら刑をなさしめんと欲す。

      何ぞ多く対簿を以ってなさん」と。

      (=君が裁いて一家誅滅させた者が、幾人いるか考えても見よ。 

        既に人は皆、君の悪しき行状をすべて認めているのだ。

        然るのに陛下は、君を処刑するに忍びず、君が自裁する事を

       望んでおられるのだ。

        最早 あれこれ反証を挙げて弁解すべきではない。)

        ☞ 対簿とは、取り調べに対抗すること。

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(呑舟之魚)

     「呑舟之魚(どんしゅうのうお)

                  ◇ 戦国時代 ◇

      舟を丸呑みするほどの大魚。

      転じて、優れた大人物を言う。

      夫れ函車の獣も、介して山を離るれば、則ち罔罟(もうこ)の患いを

     免れず。

      (=車を咥える程の獣でも、単独で山を離れたならば、捕獲用の網の

       厄災を免れることは出来ない。)

      呑舟之魚も、碭(おど)りて水を失えば、則ち蟻 能く之を苦しむ。

      (=舟を丸呑みするほどの大魚でも、跳ね上がって水を失ってしまって

       は、蟻にさえ苦しめられる。)

      故に鳥獣は高きを厭(いと)わず、魚鼈(ぎょべつ。魚とスッポン)は

      深きを厭わず。

      夫れ其の形成を全うするの人は、其の身を蔵(かく)すや、

     深眇(しんびょう)を厭(いと)わざるのみ。

        ☞ 形成とは、肉体や生命のこと。

          深眇は、深くて遠い所。

                        「荘子 雑篇・庚桑楚」

     

    テーマ : 中国古典・名言
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    中国通史で辿る名言・故事探訪(法は治の具にして、)

     「法は治の具にして、

      清濁を統治するの源に非ざるなり」


                 ◇ 前漢(西漢)時代 ◇

      法令というのは政治の道具に過ぎないのであって、社会の清濁を統治

     する根源ではない。 

      司馬遷の「史記 酷吏列伝」での評である。

      老子の、「法令、愈々 明らかにして、盗賊あること多し」を引用

     して、

      法と取り締まりと脱法の堂々巡りを指摘し、政治の要諦は先ず国民の

     道徳意識を高めることが先決問題であり、法律を厳しくすることは末節に

     過ぎないと断言。

                        「史記 酷吏列伝」

     「網、呑舟の魚を漏らす」

      法網(法体系)が緩やかで、大悪人を見逃すことの譬え。 

      網の目が粗い為に、舟をも呑み込むほどの大きな魚を取り逃がすの意。

      法令が完備して、厳正な法の執行が行われる社会では、反って法の裏

     を掻こうとする輩が続出し、結局、正義が正義でなくなるというジレンマ

     が生ずるものである。

      だが法が緩やかであると、一部の大悪人が跋扈はするが、役人たち

     は次第に善に進んで悪事を行わなくなり、世の中がよく治まるもので

     ある、と。

                       「史記 酷吏列伝」

     ※ 如上の意は、冷酷無情ないわゆる〈酷吏〉の弊害を批判し、

      且つ強調して言わんとするものであり、現実のこととして、

      法が緩やかになると役人が善に進み、世の中が良くなると謂う

      ものではない。

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(朱買臣が五十の富貴)

     「朱買臣が五十の富貴」

                  ◇ 前漢(西漢)時代 ◇

      漢の時代、呉の人・朱買臣は若い頃から学問を志し、散々 苦労を

     重ねた後に富貴の身分となった。

     》 薪を負い行々(ゆくゆく)歌う 《

      朱買臣は、家は貧しくても書を好んだ。

      薪を売り、以って食を給し、行々(ゆくゆく)書を誦す。

      (=朱買臣は薪を売ることを以って生活の糧としていたが、束ねた薪を

       背負って、山径と里の間を行き来する間も時間を惜しんで書物を

       読誦していた。)

      妻も亦 負戴し、相随う。

      (=彼の妻もまた薪を担いで、彼の後に従った。) 

      しばし買臣を止めて、歌うことを毋(なか)らしむ。

      (=度々夫を止めては、道中 歌わせまいとした。) 

      朱買臣 愈々(いよいよ) 疾(と)く歌う。

      (=すると、朱買臣はいよいよ益々口早に歌った。)

      妻 これを羞じ、去らんことを求む。

      朱買臣曰く、

      「我 歳五十ならば、当に富貴なるべし。今 既に四十なり」

     と言って、慰撫した。

      妻 曰く、

      「公等(あなたのような人)の如きは、終に当に溝壑(こうがく)の

     中に餓死すべし。何ぞ富貴ならん」と、

         ☞ 溝壑とは溝や谷。

      遂に去ってしまった。

      妻が去って幾許も無くして、朱買臣に幸運がもたらされる事になった。

      会稽郡の朱買臣が、「春秋」に精通しているという評判を知った

     荘助という者がその筋の人物に依頼して、朱買臣を武帝に推挙した

     のである。

      後に運良く武帝の呼び出しがあり、拝謁が適った。

      朱買臣は、「春秋」を説き、更に「楚辞」を詠った。

      かくして、朱買臣は荘助と共に大中大夫(宮中顧問官)に任用

     され、武帝の側近くで仕えるようになった。

      その後、その才を買われて、会稽郡太守に任ぜられた。

                            「史記 朱買臣伝」

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(門前雀羅)

     「門前雀羅(もんぜんじゃくら)

                  ◇ 前漢(西漢)時代 ◇

      家運の零落の譬え。

      家門の前に、雀獲りの網を張るの意。

      武帝の時代に、二度まで廷尉を務めたことのある翟公が、司馬遷に

     話したと言われる言葉。

        ☞ 廷尉とは、当時の刑罰を司る最高司法官。

      廷尉の在任中は、訪問者が邸宅の門に溢れていた。

      だが解任されると、門の外に雀獲りの網を張れる程に、人の往来が

     止まってしまった。

      そして翟公が再度、廷尉に就任すると、再び大勢の人が往き来するよう

     になった。

      ※ この翟公という人物の実在性や事績に付いては、

       全く不明であり、一説には、司馬遷が己の感懐を翟公に仮託して

       の言だとも言われる。

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(傾城傾国)

     「傾城傾国(けいせいけいこく)

                  ◇ 前漢(西漢)時代 ◇

      所謂 絶世の美女をいう。

      漢の武帝は晩年に李氏を夫人に迎えるが、それより以前のこととして、

     当時の宮廷にあって李延年という詩歌をよくする者がいた。

      その李延年は、自分の妹を宮中に入れるため色々と画策した。

      その手段方法の一つが、武帝の気を引こうとして、自分の妹の美しさを

     称える次のような詩を献上した。

         李延年 「歌」

            北方に佳人有り、

            絶世にして独り立つ。

            一顧すれば人の城を傾け、

            再顧すれば人の国を傾く。

            寧(いずく)んぞ傾城と傾国を知らんや、

            佳人は再び得難し。

              ☞ 再顧とは、美人の媚びる様の形容を言う。

      此れが乃ち、“傾城傾国の美人がいますぞ“と吹き込んだのである。

      一度 振り返って見るだけで、城主の心を惑わせて城を滅ぼさせる

     ことになり、二度 振り返って流し目で見ると、媚びに惑わされて、

     君王といえども国を忘れて破滅に至らしむるのである。

      李延年の画策は見事に成功した。

      宮中に入った李延年の妹は、武帝の夫人となり、やがて男児を生んだ。

      その子が、昌邑王髆(はく)である。

      李延年自身も、協律都尉(宮廷音楽師の長)となり、李夫人の

     もう一人の兄・李広利も重用されるようになった。

     ★ だが李延年の一族の末路は、哀れである。

       李夫人が死ぬと、一族に対する武帝の恩寵も緩み、李延年及び

      兄弟や宗族は誅殺された。

       昌邑王髆も武帝と同年にして亡くなってしまった。

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(豈に能く須臾も忘れんや)

     「豈(あに)、能く須臾(しゅゆ)も忘れんや」

                  ◇ 前漢(西漢)時代 ◇

      どうして、この怨みを一時も忘れられようか。

     》 淮南王三代の悲劇 《

      高祖(劉邦)の末子は、謀反の嫌疑を懸けられた趙王の宮女に一時の

     気まぐれから産ませた劉長である。

      高祖は趙王に対する怒りから、彼女はそのままにして置かれ、彼女は

     劉長を生んでから、悶々の内に自殺してしまった。

      乃ち淮南王家の母の悲劇である。

      高祖亡き後 恵帝が即位したが、呂太后は生母を失った劉長を

     可愛がり、2年後には幼いながらも淮南王に封じた。

      ※ 彼の所領は、九江・盧江・衡山・豫章である。

      これが淮南の厲王(れいおう)である。

      厲王は長ずるに及び、亡き母の非業の死の契機を呂太后への取次ぎ

     を等閑に した辟陽侯酈食其(へきようこう・れきいき)への怨みを

     次第に増幅させ、怨念と化していった。

      文帝の3年、厲王 は初めて入朝した。

      彼の態度は極めて不遜であったが、文帝は彼を寛大に遇した。

      或る日のこと、厲王は辟陽侯を訪ねて、有無を言わせず鉄槌で辟陽侯

     を撲殺し、積年の怨みを晴らした。

      その後直ちに 文帝の下に駆けつけ謝罪したが、己の行為の正当性

     を述べてから、罪に服する旨申し述べた。

      だが文帝は、この時は何ら罪を加えることはしなかったので、厲王を

     増長させることとなった。

      淮南に帰った厲王は、以前にも増して独断専行するようになった。

      即ち漢の法を用いず、独自の制を称したり、自国の重臣を自ら任命

     するようになり、さらには他国の亡命者まで匿うようになった。

      そして 文帝6年、遂に謀反の決意を固め、匈奴や閩越にも使いを

     派遣して決起を促した。

      しかし陰謀の露見は早かった。結局 厲王は長安に収容され、

     朝廷では厲王を棄死(市中で処刑の後、死骸を曝す刑)に当たると

     評決した。

      だが文帝は殺すに忍びず、庶人に落して蜀の地に流すことにしたが、

     護送の途中に餓死してしまった。淮南王の第2の悲劇である。

      厲王には、4人の子が残されていたが、文帝16年、若死した劉良を

     除いて、他の3人はそれぞれは列侯に封じられた。

      長子の劉安は淮南王、劉勃は衡山王、劉賜は盧江となった。

      淮南王劉安は、学問に狩猟にと励んだが、唯 父の怨みは忘れること

     が出来ず、密かに政治的野心を持ち続けていた。

      所謂 呉楚七国の乱に際して、反乱に加わろうとしたこともあったが、

     淮南の宰相の采配宜しきを得て、難を避けることが出来た。

      武帝の時代となるや、武帝の儒学振興に対して、独自に道学を

     信奉した。

      そんな劉安の下には、多くの食客や学者連中が集まり、淮南独特の

     文化の華が開いた。

      やがてその存在は、武帝にとり邪魔な存在となり、

      元狩元年(前122年)、淮南王は謀反の廉で罪を受けることに

     なった。

     「将にせんとすれば誅すべし」 

      思うだけなら罪にはならないが、謀議に至れば当に処罰すべきである。

      武帝の下に淮南王の罪が詮議された。

      列座した王侯らの評議の結果、

      「淮南王の罪は、大逆無道にして謀反せること明らかなり。

       将にせんとすれば誅すべし」
    と衆議一決した。

      やがて、朝廷の使者が淮南に向けて発向した。だが使者が着く前に、

     淮南王は自ら首を切って自殺した。淮南王、最後の悲劇である。

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(曠日持久)

     「曠日持久(こうじつじきゅう)

                   ◇ 前漢(西漢)時代 ◇

      何もしないで虚しく日々を積み重ねる事。

      また長い間、もちこたえるという意もある。

     》  武帝に仕えた異才の人、東方朔  《

      東方朔は、武帝に仕えては当代随一の学識の持ち主と言われたが、

     それよりも奇抜な言行で知られた。

      ある時、学者連中の集まりの席で、東方朔を皮肉った者がいた。

      「先生ほどの豊かな学識がありながら、精励して忠を尽くし、陛下に

     お仕えして曠日持久すること数十年。たかだか侍郎 止まり。

      思うに何か失態でもあったのですか。

      その理由とは如何なるものですか」と。

      之に対して東方朔は、

      「乱世にあっては、国の存亡は人材の得失により決せられ、能力のある

     者が高い地位に迎えられる機会も多いと言える。

      だが現在のように天下の隅々まで平定していると、賢者も愚者も識別

     する事さえ難いものである。

      昔の人も、【天下災害無き、聖人ありと雖も、その才を施す所なし】

     と言っております。

      だからと言って、修養を怠ってよいという訳ではありませんが、自身が

     充実しておれば、外見上の出世などは問題ではありますまい」と。

      学者連中は、答える術もなく黙り込んでしまった。

                   「史記 滑稽列伝」

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(睚眦を以って人を殺す)

     「睚眦(がいし)を以って人を殺す」

                  ◇ 前漢(西漢)時代 ◇

      怒った眼付きで人を見るだけで、部下をして人を殺させること。

        ☞ 睚眦は、いずれも「まなじり」の意。

           「睚眥(がいさい)」と同義。

     》 遊侠の徒・郭解 《 

      前漢の初期、郭解という遊侠の大親分がいた。親子二代に亘る遊侠の

     徒であった。

      郭解は若い時は手のつけられない乱暴者で、強盗もやり貨幣の私鋳や

     墳墓荒らしと、数えられないほどの悪行の限りを尽くしてきた。

      だが仲間内では義理堅く、身内の者がやられると体を張って復讐し、

     頼って来た者には、喩え お上に逆らっても喜んで受け入れるという風で

     あった。

      その内 郭解も歳をとるにつれ、人が変わり片意地を張ることも無く、

     放埓な行いも影を潜めた。

     当に怨みに報いるに徳を以ってし、人に多くの恩恵を与えても、その

     見返りなどは期待しなかった。

      所謂 男伊達を以って自他ともに認め、人の命を救ってもそれを自慢

     することは無かった。

      そんな彼も、ただ気に入らぬ者が眼前に現れると、昔ながらの物凄い

     眼つきに変わったという。

      そんな時、郭解を尊崇して止まない若い者が、郭解の心中の意を察して、

     内密に相手を始末してしまったと謂われる。

      時は移り、武帝の時に郭解は資産家と認定され、国都の近郊の茂陵に

     移住を命ぜられた。

        ☞ 茂陵は武帝の御陵造営地。

      移住した後、郭解はその名声の故に殺人事件の冤罪を蒙るようになり、

     遂に勅令が発せられ、郭解は数年間 逃亡生活をしたが、捕らわれの身と

     なった。

      厳しい取り調べがあったが、幸運にも恩赦の栄に浴して有罪とは

     ならなかった。

      だがその後も、郭解を罵倒する儒者の殺人事件に関して、司直の者は

     郭解が関与するとして、彼を責めたてたが、結局 事件は迷宮入りと

     なった。

      だが、時の御史大夫・公孫弘は、

      「解、布被にして任侠を為し、権(持てる勢力)を行い、

     睚眦を以って人を殺す。

      解、知らずと雖もこの罪、解がこれを殺せしよりも甚だし。大逆無道に

     当たる」と断じた。

      かくして、郭解の一族は誅滅された。

                          「史記 遊侠列伝」

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(烏有)

     「烏有(うゆう)

                  ◇ 前漢(西漢)時代 ◇

      全く何もない事。

      烏(う)は「何ぞ」の意の疑問詞。

      烏有は、“なんぞ有らんや”、と訓読し、全くの無を意味する。

      司馬相如の作った「子虚の賦」の作中に、「烏有先生」、「無是公」

     という、世の中に存在しない二人の架空人物が登場する。

      「烏有先生は、烏(なん)ぞ此の事あらんやなり」、とあるのが出典。

     ※ 「烏有に帰す」と言えば、火災などに遭って、

       家屋や家財道具一式が無くなることを云う。

     

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    tyouseimaru

    Author:tyouseimaru
    出身地は四国八十八か所参りの発心の阿波、大阪を終の棲家とする。
    歴史好きで、城郭・神社仏閣・歴史遺跡巡りが趣味となる。
    歴史小説や時代小説を好み、往年の著名な時代小説の類は概ね完読と、自負している。

    自薦
    自著「中国通史で辿る名言・故事探訪」の 上・中・下の3巻を、 近い内に「電子書籍」での出版を予定しています。 今年一年間は、さらに工夫を加えるなどして、補記訂正などの校正を第一義としています。       
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