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    中国通史で辿る名言・故事探訪(安んぞ能く久しく、)

      「安(いず)んぞ能く久しく、筆硯(ひっけん)の間を

      事とせんや」


                   ◇ 後漢(東漢)時代 ◇

      「投筆」とも。

      いつまでも、筆墨の仕事をする役人でいられようか。

      文亊に従っていた者が、その職を変えようとして筆を投げ出して しまう

     の意。

     》 班超の匈奴での活躍 《  紀元74年~103年

      班超は建武8年、平陵の生まれ。

      班超の父は、光武帝の命を受けて、司馬遷の「史記」の未完部分以下

     を補い、「史記後伝」を撰述。

      「漢書」を完成させた班固や班昭は、彼の兄と妹である。

      兄の班固が朝廷に召されて、校書郎(宮中書庫の管理官)となった

     ので、班超も宮廷の筆耕に任ぜられ、下級の官吏に甘んじていた。

      だが彼の心内では、かつて西域で活躍した張騫を思って悶々とし、

     いつか自分も西域で活躍したいと念じていた。

      その内 段々とその想いは高じて、いつの間にか筆を投げ捨て、

      嘆息して左右の者に言った。

      「大丈夫 他に志略なし、猶 当に傅介子(ふかいし)、張騫の功を

     異域に立て、以って封侯を取りしを効(なら)うべし。

      安んぞ能く久しく筆硯の間を事とせんや」と。


      《班超の決断》

      班超は大いに悩んだ。

      家業の筆を執るか、家を飛び出して軍人の道を選ぶか、と。

      班超は筆を投げ出して、西域都護に従って出征する道を選ぶことに

     なった。

      永平十六年、明帝は北匈奴討伐の遠征軍を起し、朔北方面と西域

     遠征軍を派遣した。

      西域遠征軍の司令官は、竇固(とうこ)が任命され、班超は仮司馬

     という中堅将校に任ぜられた。 

      そして竇固の命により、班超らの一行は、西域回廊の入り口に当たる

     鄯善国に派遣されることになった。

                        「後漢書 班超列伝」  

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(雲台二十八将)

     「雲台二十八将」

                 ◇ 後漢(東漢)時代 ◇

      後漢の明帝の永平年間、先代の光武帝に仕えた功臣たちに感じて、

     明帝が洛陽の南宮の雲台に、「二十八将」の肖像画を描かせたことから、

     「雲台二十八将」と称せられるようになる。

      後には、王常、李通、竇融(とうゆう)、卓茂が加えられ、

     「雲台三十二将」と称されることもある。

        ☞ 雲台とは、物を載せる台の事で、特に美術工芸品や

         仏像を載せる台の事を言う。

      「主たる雲台二十八将の序列」

       一位  太傅・高密侯・鄧禹   二位  大司馬・広平侯・呉漢 

       三位  左将軍・膠東侯・賈復  四位  建威大将軍・好畤侯・

                                 耿弇

       五位  執金吾・雍奴侯・寇恂  六位  征南大将軍・舞陽侯・

                                 岑彭

       七位  征西大将軍・陽夏侯・馮異  

       八位  建義大将軍・鬲侯(れきこう)朱祜(しゅこ)

       九位  征虜将軍・潁陽侯(えいようこう)・祭遵(さいじゅん)

       十位  驃騎大将軍・櫟陽侯・景丹

       ※   後漢建国の大功臣である馬援は、その娘が二代皇帝

          の明帝の皇后となったので、別格として取り扱われ、

          二十八将には含まれない。

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(糟糠の妻)

     「糟糠(そうこう)の妻」

                   ◇ 後漢(東漢)時代 ◇

      貧しい頃から、共に苦労を重ねてきた妻。

      酒のしぼり糟(かす)や糠(ぬか)のような粗末な食事にも耐え、

     長年にわたり貧乏暮らしに耐え、苦労を共にしてきた妻の意。

      光武帝には、寡婦となっていた姉の湖陽公主がいた。

      彼女は大司空を務める宋弘を密かに愛するようになり、

     それと察した光武帝は、出来るものならば何とかその望みを

     叶えさせてやろうと、改めて宋弘を宮殿に召し寄せた。

      そして姉を襖の陰に隠して、光武帝は徐に宋弘に問うた。

      「俚諺に謂う、

      『貴(たっと)ければ交(友)を易(か)え、富ならば妻を易う』と。

       これ人情ならん乎(か)」と。

      その問いに対えて宋弘は、

      「臣 聞く、

      『貧賤の知(友)は忘れざるべからず。糟糠の妻は堂より

     下さず』と。」 

         ☞ 堂とは、邸宅の表屋敷をいい、来客などの接待される

          建物。

           室は、奥屋敷で家人の住居である。

      かくして光武帝は、潔く姉の想いを断ち切らせたのである。

                         「後漢書 宋弘伝」

      ※ 宋弘は、前漢及び新に仕えたが、後に緑林軍に擁立され

       た更始帝からも召集されたが、潔しとせず使者の隙を窺って

       入水自殺を図った。

        だが辛うじて家人に救出され、そのまま死を仮装して難を

       逃れた。

        後漢王朝からは、彼の清廉な品行が高く買われて、

       大中大夫として迎えられた。後に、王梁に代わって大司空に

       任ぜられ、宣平侯に封じられた。

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(隠然)

     「隠然(いんぜん)

                  ◇ 後漢(東漢)時代 ◇

      重みのある様。

      表面には表れないが、陰では強い影響力を有する様を言う。

      後漢王朝の草創期、呉漢は光武帝の天下統一を進める中に

     在って、信頼の篤い将軍であった。

      後漢は戦闘中に、仮令 自軍が形勢不利となったり、敗色が

     濃くなっても、泰然自若として少しも慌てず、常と変わらない

     冷静沈着な態度を保持して、劣勢の自軍を叱咤激励しながら

     毅然と指揮を執ったと謂われる。

      そのような呉漢に、光武帝も感心して、

      「呉漢、あたかも隠として一敵国の如し」と、

     称賛したと言う。

        ☞ 一敵国とは、自国と勢力が匹敵する一つの国をいう。

          転じて、自分と肩を並べる競争相手。

                         「後漢書 光武紀」

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(天下を理るに、)

     「天下を理(おさむ)るに、柔の道を以ってす」

                  ◇ 後漢(東漢)時代 ◇

      国家の統治というものは、不必要な武力などに拠らず、柔軟に

     対応すべし。

      光武帝は全国の平定が終わると、黄石公の兵法書「三略」の

      「柔よく剛を制し、弱よく強を制す」、という信念のもとに、

      「吾、天下を理るに、亦た柔の道を以って之を行わんと欲す」と

     表明した。

      そして以後は、武力行使を厳に戒める策に出た。

      ある時、将軍の馬武等が匈奴討伐を勧めるが、許可する事は

     無かった。

      かくして、遂に玉門関を閉じて、西域との交渉まで絶ってしまった。

      光武帝は、戦争で苦労を共にしてきた武将・功臣の身の安全を

     第一に考え、以後 軍事には従わせず、それぞれを列侯に封じて

     大邸宅に住まわせた。

      そして内政上の事は三公らに任せ、功臣らを執政官の地位に

     就けることはしなかった。

      かくして功臣の諸将は、何れも名誉を全うして、その生涯を終え

     たのである。

                          「十八史略 東漢」

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(画虎類狗)

     「画虎類狗(がこるいく)

                  ◇ 後漢(東漢)時代 ◇

      手本を真似ようとしても、似てもに非なるものに成ってしまう

     という喩え。

      虎を画いて上手く画けない場合は、虎とは似ても似つかない犬に

     類するものと成ってしまうの意。

      後漢の馬援の、甥たちに対する訓戒の言葉である「刻鵠類鶩

     に対比される言葉。

      馬援のもう一人の友人で英雄豪傑肌で義を好む杜季良

     虎に比したもの。

      「虎を画きて成らずんば、反(かえ)りて狗(いぬ)に類する

     ものなり。」


      虎と成らずんば、狗となる、

      即ち、若し英雄豪傑肌の人に学んで失敗すると、全くの軽薄者と

     なって、世間の笑い者となろう。

      だから杜季良に学んではいけないのだ、と馬援は念を押して戒めた。

      また馬援は続けて言う、

      「人の過ちを口にしてはならない。

       人の長短や、政治の是非はあまり議論すべきではない」、

      とも戒めた。

                          「後漢書 馬援伝」

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(刻鵠類鶩)

     「刻鵠類鶩(こくこくるいぼく)

                  ◇ 後漢(東漢)時代 ◇

      「鵠(こく)を刻みて成らざるも、猶 鶩(ぼく)に類するもの

      なり。」


      立派な人を手本にして学べば、同じような人には成れなくても、

     それに近い人にはなれるもの。

      白鳥を彫刻すれば、失敗してもアヒルには似るの意。

        ☞ 鵠は、白鳥とか大きな水鳥。

          鶩は、アヒル。

      刻鵠類鶩と同じ様に、謹直な人に学べば、同等の謹直な人に

     成れなくても、兎に角 間違いの少ない人には成れるであろう、

     という意に解される。

      後漢の大功臣である馬援が、南方方面に於いて賊徒を征討中、

     兄の子である馬厳と馬敦に親書を送り、馬援の親しい友人である

     謹直な竜伯高と豪傑肌の義を好む杜季良

     を引き合いに出して、

      自分の器量以上には高望みせず、堅実に生きることを諭した訓戒

     の言葉である。

      ここでは、竜伯高を「鵠」に見立てて謹直な人とし、「鶩」は

     それと同等でなくても間違いの少ない人だと見做している。

                        「後漢書 馬援伝」

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(死中求活)

     「死中求活」

                  ◇ 後漢(東漢)時代 ◇

      死ぬべき所で、猶も活路を求めること。

      絶体絶命の窮地にあっても、猶も切り抜ける何らかの手段方法を

     模索するの意。

      光武帝の蜀討伐の命を受けて、進発した水軍の将・岑彭は、軍船を

     連ねて、連戦連勝で勝ち進んだ。

      蜀の帝王・公孫述は、陸路からは呉漢の大軍が、水路からは岑彭の

     水軍が怒涛の如く来襲して来たので、

      「男子 当に死中に生を求むべし、坐して窮すべけんや」と言って、

      選りすぐりの刺客を送り込んで、遂に敵将の岑彭を暗殺する事に

     成功した。

      しかし、呉漢の陸路からの大軍が成都に進軍して来て、公孫述を急襲

     して、遂に成都を攻略した。

      ここに光武帝の全国平定の征戦は終わりを告げ、後漢王朝は基礎を

     固めることが出来た。

                「後漢書 光武紀」、「後漢書 公孫述伝」、

                「十八史略 東漢」 

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(隴を得て蜀を望む)

     「隴(ろう)を得て蜀(しょく)を望む」

                  ◇ 後漢(東漢)時代 ◇

      「望蜀」とも言う。

      人の欲望に際限のないことの喩え。

      一つの望みを達っしても、さらに大きな望みを懐くの意。

      既に隴を手中にし得たのに、すぐまたその先の蜀に食指が動くの意。

      “人は足るを知らざるに苦しむ。既に隴を平らぐれば、復た蜀を望む。

       一度(ひとたび) 兵を発する毎(たび)に、頭髪白し“。


      隴を攻めている武将の岑彭(しんほう)に贈った光武帝の書中の言葉

     である。

      光武帝の述懐から二年後、いよいよその機は熟したと見て、

     光武帝は出師を決断した。

      大司馬の呉漢に主力軍を与え、既に征南大将軍として南方に派遣して

     いた岑彭(しんほう)を側面援助として協力させつつ、蜀の征討に向かわ

     せた。

      これは水戦の不得手な呉漢の為に、光武帝が水戦の得意な岑彭を

     側面援助の形で付け、彼に荊州から蜀に至る水路の作戦計画を任せた

     のである。

                         「後漢書 岑彭伝」

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(辺幅修飾)

     「辺幅(へんぷく)修飾」

                  ◇ 後漢(東漢)時代 ◇

      外面だけを飾り立て、体裁を繕ったり、見栄や虚勢を張ること。

        ☞ 辺幅は布地の縁の部分。転じて、外見を言う。

     》 隴西を平定 《    紀元34年

      この年、光武帝は隗囂(かいごう)を滅ぼして隴西(甘粛)地方を

     平定した。

      隗囂は更始帝の初年に挙兵して、隴右の天水郡に割拠し、西州の

     上将軍を称していた。

      隗囂には馬援という賢臣がいたが、ある時 隗囂は馬援が蜀の

     公孫述とは幼馴染である事を知り、彼を蜀の成都へ派遣して、その国情

     やら公孫述の人物を探らせた。

      馬援は蜀に赴いたが、公孫述が昔馴染みの事でもあり、歓迎して

     くれるものと期待していた。

      だが公孫述は既に四年前、帝王を称しており、全く王様気取りであった。

      馬援が到着しても、実によそよそしい迎え方をしたので、最早 

     旧知の懐かしさも消し飛んでしまった。

      馬援は随行して来た者に言った、

      「天下の雌雄(=覇権)は未だ定まらざるに、公孫、哺を吐きて国士を

     迎えず。

      反って辺幅を修飾すること、偶人(人形)の如し。

      此れ何ぞ久しく天下の士を稽(とど。=留)むるに足らんや」と。

        ※ 哺を吐くとは、口に含んだものを吐き出すの意で、

         周王朝の聖人と称された周公旦の故事によるもの。

          有能な人材を求めていた周公旦は、例え食事中であって

         も、面会を求めて来た士があると、哺を吐きだして直ちに
      
         面謁したと謂われる。

          そこから、人材を求めるのに格別に熱心な様を言う

         ようになった。

      馬援は直ちに帰国して、隗囂に報告した。

      「子陽(公孫述の字)は井底の蛙のみ。而して妄りに自ら尊大す。

       意を東方(東の光武帝)に専らにするに如かず」と。

        ☞ 井底の蛙とは、井戸の底に棲むカエルの意で、

          見識も無く世間知らずの事。

      そこで隗囂は、親書を馬援に託して、洛陽の光武帝の下に遣わした。

      洛陽について暫らくしてから、馬援は許されて参内したところ、

     思いがけなく光武帝が自ら回廊を渡って、出迎えてくれたのである。

      見れば、冠もしないで笑いながら声をかけてくれた。

      「卿、二帝(蜀帝の公孫述と光武帝)の間に遨遊(ごうゆう)す。

         ☞ 遨遊とは、気ままに行き来すること。

       今 卿を見るに、人(光武帝のこと)をして大いに愧じしむ」と。

      馬援は、公孫述と異なり光武帝の人物の大きさに改めて驚倒した。

      馬援が帰国した後の報告により、隗囂は取り敢えずは、我が子を人質

     として差し出したが、結局 その後直ぐに反逆の行動に出た。

      馬援は、最早 迷うことなく光武帝の陣営に馳せ参じた。

        ※ 馬援は、戦国時代の趙の名将・趙奢の末孫である。

          この趙奢は、当時において馬服君と称していた。

          また馬援の後裔に、後漢末に活躍する馬騰・馬超親子

         がいる。

      その後、光武帝はもう一度 馬援を使者として隗囂の説得にかからせた

     が、隗囂は逆に公孫述に誼を通じ臣従してしまった。

      愈々 隗囂討伐という段になって、馬援は光武帝の御前に於いて、

     隴西攻略の戦略を米粒により教示した。

      即ち米粒を使って、敵国の地形の模型を作り、作戦を献策した。

      光武帝は、

      「虜(捕虜)は吾が目の中に在り」と言って喜び、結局 漢軍は難なく

     隴西の攻略を果たす事が出来た。

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(遼東の豕)

     「遼東の豕(いのこ)

                  ◇ 後漢(東漢)時代 ◇

      他から見れば当たり前のことを、自ら奇異だと誇ること。

      また異とするに足りない功を誇ることの喩え。

      遼東地方の豚の意。

      赤眉軍の投降して来た頃、漁陽の太守・彭寵(ほうちょう)は、光武帝

     から上京を促されたが普段の言動から誅殺されるのではないかと疑い、

     反逆しようとした。

      ところが、事を起こす前に部下の手で殺され、その部下が投降して

     来た。

      彭寵は曽て劉秀(光武帝)が王郎討伐に苦心していた際に、漁陽の

     太守であった彼は、劉秀に味方して劉秀軍の兵站を引き受けて大きな

     功を立てたことがあった。

      以来 彼はその功績を恃んで、意気甚だ高く、恩賞を受けても満足する

     事を知らなかった。

      大将軍で幽州の牧(長官)の朱浮は、治める諸郡の多くで穀倉を開き、

     戦力になる賢士を集めようとした事があった。

      ところが彭寵は、

      「天下未だ安定せず、軍の食糧保持すべし。」という理由で、濫りに

     倉庫を開くことを禁じた。

      彼はその一方では、密かに自立することを目論んでいた。
     
      朱浮は倉庫開放の禁止命令は大いに不満で、彭寵の不穏な動静を

     洛陽に報告した。

      之は彭寵の知る所となり、怒りを発して兵を挙げて朱浮を討とうとした。

      朱浮は一書を贈り、彭寵の非を責めた。

      「貴下は郡守の地位にありて、ただに軍食を惜しんでいる。

      吾が朝敵討滅の為に賢士を必要としているが、これは国家のことなり。

      我が貴下を讒言したと疑うなら、自ら天子の下に赴き奏上すべし。

      伯通(彭寵)自ら伐(誇)りて思えらく、功 天下に高し、と。

      『往時 遼東に豕あり。子を産む。白頭なり。

       異としてこれを献ぜんとし、行きて河東に至る。


       群豕(あちらこちらの多くの豕)の皆 白きを見て、慙(はじ)

      懐きて還りぬ。』


      もし子の功を以って、朝廷に論ぜば、すなわち遼東の豕ならん」

     と輸した。

      しかし驕り昂った彭寵は、自ら燕王を称して背き、二年後に討伐

     された。

              「後漢書 朱浮伝」、「十八史略 東漢」

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(鉄中の錚々、庸中の佼々)

     「鉄中の錚々(そうそう)、庸中の佼々(こうこう)

                  ◇ 後漢(東漢)時代 ◇

      金属類の中では比較的に良い音がする方であり、凡庸な人間の

     中では比較的に良い方である、という本来の意味を限定的に解した

     もの。

        ☞ 錚々とは、金鉄の奏でる音。転じて、優れた人物の形容。

          佼々とは、美しいさま。人格・才能の優れているさま。

        ※ なおこの時代は、鉄は下等な金属と見做されていたと

         いう背景もある。

     》 赤眉軍、完全投降 《   紀元27年

      後漢王朝は創建されたものの、未だ関中は平定されていなかった。

      そこで光武帝(劉秀)は、鄧禹に大軍を与えて討伐に向かわせた。

      鄧禹が長安に入った頃、赤眉軍は再び兵を返して鄧禹軍を攻め、

     一時的に之を敗走させるという余力もあった。

      後にこの鄧禹軍に馮異の軍が合流したが敗北を喫し、それ以後は

     守りを固める作戦に出てから、ようやくにして殽山(こうざん)の麓で

     赤眉軍を撃破することが出来た。

      赤眉軍の残党が東方に逃れて宣陽を目指したので、光武帝は

     主力軍を整然と配置して迎撃態勢を執り、満を持していた。

      すると、赤眉軍は総帥の樊崇が、丞相の徐宣、皇帝の劉盆子を

     引き連れて、兵十万と共に降伏して来た 。

      彼らは光武帝の面前で、片肌脱ぎとなり自らを罰する姿を見せた。

      光武帝は同族の劉盆子には言葉で責め、総帥・樊崇、丞相・徐宣

     に対しては、降伏を悔いているのではないかと詰問した。

      丞相の徐宣は、樊崇を抑えて平身低頭して言った。

      「虎口を去りて慈母に帰す。誠歓誠喜限り莫し」と。

      光武帝はやや嘲りの表情で、

      「其の方たちは、いわゆる鉄中の錚々、庸中の佼々たる者なり」

     評した。

      光武帝の心情としては、時世を察するの賢ならば既に帰順していた

     だろうし、胡乱(うろん。=烏乱)な者ならば、なおも敵対していただろ

     うというもので、帰順するのに早くもなく遅くもない、いわゆる凡庸な

     者共というほどの意味であった。

     

    テーマ : 中国古典・名言
    ジャンル : 学問・文化・芸術

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(攀竜附鳳)

     攀竜附鳳(はんりゅうふほう)

                  ◇ 新~更始帝時代 ◇

      「攀竜附驥(はんりゅうふき)とも言う。

      優れた人物に付き従って、出世すること。

      竜に縋り付いたり鳳凰の翼に取り付くの意。

        ☞ 竜も鳳凰も共に、古来からの中国における想像上の

         偉大な動物であり、犯し難い権威や瑞兆の象徴でもある。

          驥は、一日に千里を走るという名馬。

     》 群臣、劉秀を皇帝に推戴す 《    紀元25年

      紀元24年、更始帝は一族功臣を王侯に封じて、王朝の体制を固めよう

     としたが、勝利に酔いしれて、初めから其の秩序は大いに乱れた。

      その在り様を見て、赤眉軍の樊崇(はんすう)、徐宣らは長安を攻める

     自信を持った。

      この赤眉軍、今や三十万という離農した農民軍を擁するようになって

     いた。

      赤眉軍の指導者は、彼ら離農農民を鼓舞して、長安での略奪を鼓舞

     しながら進軍した。

      更始帝は将軍蘇茂らを派遣したが大敗を喫し、その後も迎撃軍を

     次々と派遣したが、もはや如何ともし難く、赤眉軍の長安入城を許して

     しまった。

      更始帝の手勢は全て降伏し、更始帝は単騎で脱出した。

      だが、すぐに舞い戻って降伏したものの、葬り去られた。

      赤眉軍は長安に入城はしたものの、その時には既に奪うべき財宝は

     残っておらず、しかも入城三カ月にして、城内の食料は食い尽くして

     しまった。

      自暴自棄となった赤眉軍は再び流賊となり、全軍西へ転じ、道々

     略奪放火を重ねて行軍した。

      赤眉軍は西へ向かう途中、隗囂(かいごう)の軍に撃退され、

     再び東に転じたが、多くの兵を失った。

      再び長安に戻ったが、最早 何もないという惨状であったので、

     遂に東の故郷を目指そうとした。

      この時、蕭王は将軍鄧禹を長安救援に差し向け、寇恂(こうじゅん)に

     河内の守備を命じて、自らは北方の燕、趙の討伐に向かった。

      愈々 蕭王が乱の平定後、中山に着いた時、諸将は蕭王に「皇帝」の

     尊号を奉ったが、蕭王は受け入れようとしなかった。

      その後も再三、諸将は懇願したが、受け入れなかったので、

     耿純(こうじゅん)が進言した。

      「士大夫、親戚を捐(す)て土壌を棄てて、大王に矢石の間

     (しせきのま)に従う。

     もとより竜麟を攀(よ)じ鳳翼に付き、以ってその志す所を成さんと望む

     のみ。


      今、時を留め衆に逆らう。恐らくは望 絶え、計 窮まらば、

     即ち帰去の思いあらん。

      大衆 一度散ぜば、また合すべきこと難し」と。 

        ☞ 矢石の間とは、戦争中の意。

          矢石は、矢と石弓のことで、転じて戦争のこと。

      (=諸将は親戚を捨て郷里を捨てて、大王(劉秀)の征戦に従って

       います。

        それは竜の鱗に摑まり、鳳凰の翼に付き従って、己が志す所を

       成さんと望むからなのです。

        今この機会を逃して、諸将の期待に背くならば、彼らは失望して

       故郷へ帰るようになります。

        そして一度 離散すれば、最早二度と呼び集めることは出来

       ないでしょう。 ここは、衆議に従うべきです。)

      傍らに控えていた馮異将軍もまた賛同して、

      「宜しく衆議に従うべし」と進言した。

      その時丁度、強華という儒者が赤符を奉じて遣って来て曰く、

      「劉秀、兵を発して不道を補う。

       四夷、雲集し、竜 野に戦う。 

       (=中国の周辺の異民族が立ち上がって相戦い、竜も野で

        戦っている。)

       四七(しひち)の際、火は主となるべし」と。 

       (=四・七の卦が出た時は、火徳にある者が天子となるべし。)

       ※ 劉氏の漢王朝は、陰陽五行説では火徳に当てられた。

      其の言を聞いて、群臣は再び懇願した。ここに至り劉秀もついに意を

     決して、鄗南(こうなん)で即位し、元号を建武と改めた。

                  曽先之 「十八史略 東漢」 

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(赤心を推して、)

     「赤心(せきしん)を推して、人の腹中に置く」

                 ◇ 新~更始帝時代 ◇

      人を深く信用することの喩え。

      自分の真心から推量して、人も真心を持っているものと考えて、

     少しも人を疑わないことを謂う。

        ☞ 赤心とは真心のことで、丹心とも言う。

     》 劉秀、蕭王となる 《

      劉秀が王郎軍を撃滅させた後、更始帝は劉秀の元に使者を派遣し、

     劉秀を蕭王に任じると共に、ここは一旦 征戦を中止して、帰還する

     ように命じた。

      だが劉秀は耿弇(こうかん)の進言を入れて、河北の地が未だ平定

     されていないという口実で以って、命令に応じようとしなかった。

      そして征戦を続行し、銅馬の賊を討って降伏させた。

      ところが味方の諸将の中には、投降者に疑いの目を向ける者が多く

     いて、またそれと察した投降者も不安に駆られて動揺していた。

      蕭王たる劉秀が執った措置は、投降した者たちを従前の所属部隊に

     復帰させた後、兵団を一まとめにした。

      それから蕭王は軽装のまま、少人数の護衛を引率して彼らの部隊を

     閲兵して回った。

      その様子に感動した投降者たちは、相語り合った。

      「蕭王、赤心を推して人の腹中に置く。

       安(いず)んぞ死を効(いた)さざるを得んや」と。

      即ち、そこまで我らを信用してくれたからには、どうして死なずに

     いられようか。

      今後は王の為ならば、死んでも厭わないという気持ちを表明した

     のである。

      そして彼らの信用を得た後、蕭王は改めて投降者たちを諸将の下に

     編成替えをし、河内地方を討伐すべく南下した。

            「後漢書 光武紀上」、

            「十八史略 東漢・世祖光武帝」

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(大樹将軍)

     「大樹(だいじゅ)将軍」

                  ◇ 新~更始帝時代 ◇

      「馮異(ふうい)大樹」とも言う。

      大樹将軍とは、征西将軍の異名である。

      また、自分の功績を自慢しない指導者を言うこともある。 

      馮異は後に、後漢の功臣として、明帝から「雲台二十八将」

     の一人として 顕彰されるが、その序列は第七位にあり、

      「征西大将軍陽夏侯・馮異」と称された。

      劉秀は、目下の最大のライバルであった王郎軍を苦心の末に撃ち

     破った。

      そして王郎軍を解体した後、劉秀は現存部隊の編成替えをしよう

     とした。

      ところが、多くの将兵が大樹将軍の部隊に編入されることを懇願した。

      この大樹将軍とは、馮異将軍のことである。

      馮異は何事にも控えめな人であり、就中 自分の武功は全く誇らず、

     諸将がそれぞれの功績を争うような場面では、決まって大きな木の下に
     
     腰を下ろして、その仲間に加わろうとはしなかった。

      そこから何時しか、「大樹将軍」の称号が付けられた。

                 「後漢書 馮異伝」、
     
                 「蒙求 馮異大樹」

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(疾風に勁草を知る)

     「疾風に勁草(けいそう)を知る」

                 ◇ 新~更始帝時代 ◇

      自ら艱難に遭って、初めて人の節操の堅さが分かるものである、

     との喩え。

      激しい風に吹き曝されて、初めて風に倒れない強い草の存在が

     分かるという意。

      劉秀が初めて義兵を募った時、潁川の王覇は、賓客らを率いて

     劉秀軍に参入し大いに活躍した。

      しかし後、劉秀軍が河北に入って転戦した時、旗色が悪くなると、

     先に王覇と共に劉秀軍に投じた賓客どもは尽く逃亡してしまった。

      そのような状況下でも、最後まで劉秀を助けて戦ったのは、王覇

     だけであった。

      後の事になるが、劉秀が後漢王朝を創建して光武帝となった時、

     光武帝は彼に感謝して語った。

      「潁川(えいせん)の我に従いし者 皆逝(ゆ。去る)く

       而(しこう)して、子(し) 独り努力を留む。疾風に勁草を知る」

      と。

                     「後漢書 王覇伝」

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(妻を娶らば、)

     「妻を娶(めと)らば、陰麗華」

                  ◇ 新時代 ◇

      “仕官せば当に執金吾と作(な)るべし、

       妻を娶らば当に陰麗華を得べし。“


       (=宮仕えするなら、せめて執金吾になるべし、また妻にするなら

        陰麗華を貰うべし。)

       執金吾は、漢の都城・長安を守る市中警備の長官職である。

       そのきらびやかな服装で、大勢の騎馬隊を率いて市中警戒に当たるの

      で、見るからに陽の当たる顕官であり、華やかで且つ豪快な官職で

      あったと謂われる。
      
       陰麗華とは、南陽郡新野の豪族の陰氏の娘で、その当時は絶世の

      美女と謂われていた。

       見出しの言葉は、後に後漢王朝を創く劉秀(光武帝)の、若き日の

      夢と野望である。

     》 白水真人・劉秀の挙兵 《   紀元22年

      王莽が貨幣の改革をして、「貨泉」という貨幣を鋳造したことがある

     が、当時の或る人は、この「貨泉」は「白水真人」という四字に分解

     出来るとしてして、何かを期待していた。

        ☞ 白水真人とは、白水郷から出る聖天子という意。

          真人とは、元は道家の聖をいい、また仙人をも意味した。

      その後、果たして劉秀が、緑林の乱や赤眉の乱に触発されて、この

     白水郷から兄の劉縯(りゅうえん)と共に旗揚げをした。 

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(挂冠)

     「挂冠(けいかん)

                  ◇ 新時代 ◇

      官職を去り職を辞すること。

      官吏の象徴たる冠を脱いで、柱などに架けること。

      王莽の時代、蓬萌(ほうほう)は自分の子が故無くして罪を得て

     殺されたので、禍が我が身に及ぶことを畏れた。

      彼は遂に決心して、友人に自らの心中を語った。

      「三綱(君臣・父子・夫婦のそれぞれの道)絶ゆ。

       去らずんば(この職を)、禍 将に人に及ばんとす」と。

       即ち冠を解き、東都(洛陽)の城門に挂(かけ)て帰り、

       家属を率いて海に浮かび、遼東に客たり。

       (=家の子郎党を率いて、海の彼方にある遼東に旅立った 。)

                         「後漢書 蓬萌伝」

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(酒は百薬の長)

     「酒は百薬の長」

                   ◇ 新時代 ◇

      数ある薬の中でも、特別に優れた薬は「酒」である、という意味。

      後には、「百薬の長」と言えば、酒の別称となる。

      王莽はその経済政策として、塩・酒・鉄を専売制にした。

      前漢の武帝の時代にも、塩と鉄は専売制にしたこともあり、一時的

     には国家財政を潤したが、市場経済の秩序を混乱させるという問題が

     生じた。

      その後、賛否両論もあったが、結局 中止された。

      この度、王莽は専売制実施に先立ち、詔書を発布した。

      「其れ塩は食肴の、酒は百薬の 嘉会の好、鉄は田農のなり」

     と。

        ☞ 嘉会の好とは、めでたい会合などには相応しいというほど

         の意味。

          田農は、農業の意。

      ★ 中国古典などでは、酒のことを「忘憂物」と言う事もある。

     

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    テーマ : 詩経・漢詩・詩賦等
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    中国通史で辿る名言・故事探訪(しばしば更変じて、)

     「しばしば更(こう) 変じて、信ならず」

                  ◇ 新時代 ◇

      しばしば貨幣制度を変更した上、更に変えるので人民の信頼を失って

     しまった。

     》 王莽の「新王朝」 《   紀元8年~23年

      王莽は自ら擁立した平帝(13代)が十四歳の時に、

     毒殺し(紀元五年)、公子嬰を後継者にしたが、自らは仮王として

     納まった。

      そして紀元8年、公子嬰を廃して漢王朝の血統を絶ち、

     ここに「新王朝」を開き、「大同の世」を創らんとした。

      大同の世とは、有徳の君主と小農民の国を招来し、持たざるを憂えず、

     斉しからざるを憂う世の中にするという理想社会であった。

      だが現実には、もはや時代錯誤も甚だしく、結局のところ何の成果も

     無く失敗に帰す。

      唯 王莽の制定した礼制、官制、学制などの諸制度は、後の各王朝に

     伝承される。

      王莽は帝位に就く前から、行政区画や田地制度を全面的にそれも再三

     変更を加えたことがあり、天下は騒然となったことがある。

      そして今回は、貨幣制度を全面的に改め、六形式二十八種の複雑な

     貨幣制度を制定した。

      さらに大銭と小銭を発行したが、変転極まりなかったので流通機構は

     ほぼ全面的に停滞してしまった。

      即ち、「しばしば更変じて、信ならず」、という事態を招来した。

      新政策のもたらしたものは、農民も商人も生活の道を閉ざされて

     しまい、食糧は出回らなくなり、全国各地で生活に泣く人民が溢れ

     出した。

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(王莽 謙恭す、)

     「王莽 謙恭す、未だ簒(さん)せざるの時」

                 ◇ 前漢(西漢)時代 ◇

     》 王莽の雌伏 《

      王莽は王曼の子であったが、父が若死した為、一族からは見放されて

     いた。その為、幼児の頃から惨めな環境に育った。

      他の従弟たちは列侯や将軍に任ぜられ、当に我が世の春とばかりに、

     贅沢三昧の日々を送っていた。

      だが王莽は、彼らを横目にじっと耐え、勉学にそして行いに勤しみ、

     ひたすら徳行を身に付けるべく努力をしていた。

      そんなある日のこと、世父・大将軍の王鳳が病床に伏した。 

      莽、疾して侍して 親ら薬を嘗む。

      (=王莽は、その病床に侍って、自ら煎薬の味見をした。)

      乱首垢面して、衣服を解かざること連月なり。

      (=髪は乱れ顔中垢だらけになって、着物の帯も解かずに不眠不休

       の看病をした。)

                          「漢書 王莽伝」

      ☆ 「昭昭冥冥、節行を惰(おこた)らず」 

      人が見ているかどうかによって、その自らの節操と行いを変えるべき

     でない。 

        ☞ 昭昭とは、人の見ている様を言う。
      
          冥冥とは、人の見ていない様を言う。

      王莽は、王一族の重鎮である王太皇太后に対しても、格別に恭順に

     して謙虚に振舞った。

      その有様たるや、

      昭昭の為に節を伸(述)べず。冥冥の為に、行を惰らず。

      という具合であった。

      やがてそれらの甲斐あって、ようやく新都侯に封じられるようになり、

     その爵位も上がったが、その節操にますます磨きをかけて、人をして

     尊崇の念を抱かせるようになった。

      そうする内に、遂に叔父や従弟たちの権勢を凌ぐようになり、国政の

     実権を握るようになった。

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(日月 明らかならんと欲すれば、)

     「日月(じつげつ)明らかならんと欲すれば、

      浮雲(ふうん) 之を蔽う。

                   ◇ 前漢(西漢)時代 ◇

      続いて、

      河水澄まんと欲すれば、沙石(させき)之を穢(けが)す。

      人生 平らかならんと欲すれば、嗜欲(しよく)之を害す。」


      太陽や月が明るく照らそうとすると、漂う雲が其れを遮るもの。

      黄河の水が澄もうとしても、石や黄砂が其れを妨げ濁すもの。

      同じように、人の場合も平穏な生活を望んでも、しばしば欲望に妨げ

      られるものである。

      ※ 自然界には清澄と汚濁の現象があり、汚濁により清澄が害される

        事があるように、人も抑えがたい欲望の為に、その善性や徳性が

       大きく晦まされる事があるもの。

        また視点を変えて、本論は、君側の姦臣が君の明を蔽うという

       喩えでもある。

                        劉安「淮南子」


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    中国通史で辿る名言・故事探訪(門前 市の如し)

     「門前 市の如し」

                 ◇ 前漢(西漢)時代 ◇
     
      権勢が盛んで、来訪する人で賑わうことの喩え。

      尚書僕射(宰相級)の鄭崇は、しばしば哀帝に諫言を呈した。

      哀帝も当初は諫言をよく受け入れたが、その内 次第に鄭崇

     を 煙たがるようになり始めた。

      ある時、哀帝が祖母の傅(ふ)太后の従弟・傅商を列侯に封じ

     ようとするのを、鄭崇は手厳しく諫言した。

      また哀帝が、宦官の董賢を過度に寵愛するのを厳しく諌めたり

     した ので、次第に鄭崇が疎ましくなっていた。

      そのような時期に、重臣の一人が帝に迎合しようとして、鄭崇を

     讒言 した。

      即ち商書令の趙昌は、佞諂(ねいてん。おもねりへつらう事。)に

     して、 普段から鄭崇を好からず思っていたので、彼に疎んぜられる

     ことを畏れ、 先手を打って讒訴したのである。

      「崇、宗族(皇帝の連枝を言う)と通ずる。疑うらくは、姦(陰謀)

     あらん。請う、治せん(お取り調べをお願いします)」と。

      果たして、鄭崇は御史台に呼び出された。

      上(しょう)、崇を責めて曰く、

      「君が門は市人の如し、何を以ってか主上を禁切せんと欲す」と。

      (=君の家門は大いに繁栄しているが、どうして我が宗族一門を

       切り離そうとするのか。)

      鄭崇曰く、

      「臣の門は市の如きも、臣の心は水の如し」と釈明し、再度の取り

      調べを望んだ。

      だが皇帝は、聞き入れる事は無く、獄に下した。

      その後、司隷の孫宝などが上書して、趙昌の讒言を非難し、鄭崇を

     弁護したが、皇帝は孫宝を庶人に落し、鄭崇は獄死した。

                          「漢書 鄭崇・孫宝伝」

      この鄭崇の8世の子孫が、後漢末の大儒学者・鄭玄

       (じょうげん、と通称する)である。

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(羊質虎皮)

     「羊質虎皮」

                  ◇ 前漢(西漢)時代 ◇

      見かけ倒しの喩。

      外見だけは立派に見えるが、実質が伴っていないこと。

      その実態は羊でありながら、虎の皮を被っているだけの羊の意。

      前漢末期の大儒学者である揚雄に、或る人が疑問を打ち明けて

     質問した。

      「今 仮に、彼の聖人孔子と同姓同名の人がいたとします。

       その人が孔子の邸宅へ行き、表座敷に上がり、孔子の使っていた

     机に坐し且つ孔子の服を身に付けたなら、その人は聖人孔子と言える

     でしょうか」と。

      揚雄は言う、

      「見かけは孔子と同じであっても、その実質は似ても似つかない

     ものだ」と。

      するとその人は、

      「では、その実質とやらは如何なるものですか」と言って、疑念を
     
     持った。

      そこで揚雄は、

      「羊質にして虎皮ならば、草を見て喜び、

       犲(さい。山犬)を見て慄(おのの)く」
    と。

                       揚雄「揚子法言 吾子」

    テーマ : 中国古典・名言
    ジャンル : 学問・文化・芸術

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(百川学海)

     「百川学海(ひゃくせんがっかい)

                  ◇ 前漢(西漢)時代 ◇

      弛(たゆ)まず進めば、必ず道に到達する事は出来るもの。

      学問にしても、怠らなければ、いつかは大成することの喩え。

          百川は海を学びて、海に至り、

          丘陵は山を学びて、山に至らず。


      大となく小となく、あらゆる川は、昼夜 休むことなく流れて、

      遂には海に至る。

      ところが,丘陵は泰然と構えて動く事を知らないので、山岳を為す

      事が出来ない。

       学者も亦なお是の如し.

                     揚雄「揚子法言・注」

      ※ この川と丘の対比により、前者を強調する意図ではあるが、

        後者の丘陵の引用については、解りにくい例えだとの批判もある。 

      

    テーマ : 中国古典・名言
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    中国通史で辿る名言・故事探訪(伯兪、杖に泣く)

     「伯兪(はくゆ)、杖に泣く」

                ◇ 前漢(西漢)時代 ◇

      孝心の篤いことの喩え。

        ☞ 杖は、ここでは過ちを正すための笞の意。

      伯兪が、母親に打たれる愛の笞の痛みが感じられなくなり、年老いた

     母の体力が衰えたことを知って悲しんだことから、親を思う子の情の

     深いことに喩えられる。

      漢の時代、韓伯兪は、その性は至孝であり、母の愛の笞で育った。

      昔 白兪が過ちを犯した時には、母親は懲らしめに為に白兪を杖で

     打ったが、白兪は泣く事は無かった。

      ところがある時、母親は伯兪の過ちを見て、懲らしめの為に白兪を

     杖で打ったところ、伯兪は悲しそうに泣いたのである。

      その母 曰く、

      「他日 汝を杖(むちう)ちしに、汝 悦びて之を受けしに、今日 

     汝を杖つに何すれぞ悲泣す」と。

      対えて曰く、

      「往者(昔)、杖を受けしに、常に痛めり。

       因りに以って母の健康なるを知れり。

       今や痛まず、母の力の衰うるを知る。

       之を以って悲泣す」と。

             「漢書 韓伯兪伝」、「説苑 建本」

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(身代わり貞女)

     「身代わり貞女」

                  ◇ 前漢(西漢)時代 ◇

      漢の城都・長安に至って仲の良い夫婦がいた。

      ところが、その夫を仇と狙う男がいた。だがその男には、目的を果た

     す策略が見つからなかった。

      その男の苦衷が続く日々が続いたが、その内 其の仇の妻が仁義を

     よく心得る節女であると言う事を聞き知るに及び、彼女に敵討の手引きを

     させるべく、彼女の父親を拉致して人質とし、彼女に手引きするように

     強要した。

      彼女は大いに悩んだ。

      男の要求を拒絶して父親が殺されでもしたら、これは不孝の最たる

     ものとなる。

      さりながら要求を入れて夫を見殺しにするのは、不義になる。

      そこで彼女の決断は、自らの身を犠牲にするということに落ち着いた。

      彼女仇と狙う男に会って、申し入れをした。

      「今日 夜になれば、夫は洗ったばかりの髪を東に向けて二階で臥し

     ています。私は出入り口を開けておきます」と。

      そしてその夜、彼女は夫を別の場所に休ませ、自分は髪を洗って二階

     の部屋に入り、頭を東に向けて、入口は開放しておいて臥していた。

      その夜半、仇と狙う男はやって来て、二階に伏す者の首級を挙げて

     持ち帰った。

      ところが夜が明けてみると、その首は何と仇の妻のものであった。

      さすがに男も、仇の妻の義をかくまで重んずる行為に深く憐れみを

     覚えて、遂に怨みを解き敵討を諦めた。

                      劉向「列女伝 節義伝」

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(秋扇)

     「秋扇」

                 ◇ 前漢(西漢)時代 ◇

      君の寵愛を失った女性に喩えられる。

      夏に愛用される扇も、秋になれば無用となり打ち棄てられるの意。

      漢の成帝には班婕妤(はんしょうよ)という最愛の側妾がいたが、

      後に至り、趙飛燕とその妹に皇帝の寵愛は移った。

      そこで吾が身を秋の扇に喩えて、身の不遇を詩に託した。

     
        班婕妤「怨歌行」

         新たに斉の紈素(がんそ)を裂けば、皎潔(きょうけつ)にして

         霜雪の如し。

        (=新たに裂いた斉の白絹は、白く清らかでまるで霜や雪

         のよう。)

         裁(た)ちて合歓(ねむ)の扇(せん)と為せば、団々として

         明月に似たり。

        (=裁断して夫婦の扇を作れば、真ん丸として満月にも

         似ている。)

         君が鎧袖(がいしゅう)に出入し、動揺して微風発す。

        (=君の懐や袖に出入りして、動かすたびにそよ風が

         起こる。)

         常に恐る秋節の至りて、涼飈(りょうひょう) 炎熱を奪い、

         筺笥(きょうし)の中に弃捐(きえん)せられ、恩情 中道に

        絶えんことを。

         (=とは言うものの、心の中では何時も秋になれば、涼しい

         旋風が来て夏の炎暑を吹き去り、この我が身も秋の扇として

         箱の中に打ち棄てられ、君の恩寵の中途で無くなることを

         畏れる。)

      ※ 班婕妤の名は不明であるが、騎校尉の班況の娘で、

       後に「漢書」を編纂した班固・班昭兄妹の父である班彪

       (はんぴょう)の叔母に当たる人である。

        婕妤と言う呼称は、後宮の宮女の階級を表わす。
     
      ☆  この「秋扇」に類する成語として、「夏炉冬扇」

        しばしば用いられる。 

    テーマ : 詩経・漢詩・詩賦等
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    中国通史で辿る名言・故事探訪(折檻諫言)

     「折檻諫言(せっかんかんげん)

                         ◇前漢(西漢)時代◇

      臣下が、主君に対して畏れ憚ることなく手厳しく諌めること。

      この折檻諫言は、後に「折檻」のみの成語となり、

     人を厳しく責め苛むという、教誨的行為を意味するようになる。

      成帝に仕える朱雲は、厳しい諫言をしたため帝の怒りを買い、皇帝の

     側近に朝堂から牽き去られようとした。

      だが朱雲はそれを潔しとせず、君前の欄干にしがみ付き猶も諫言を

     繰り返した。

      側近が無理やり朱雲を欄干から引き離そうとしたので、欄干は朱雲の

     腕によりへし折れてしまったという故事からの成語。

     》 外戚の横暴 《

      元帝の後を継いだ成帝は、政治に対する気構えは無く、元来 性格的

     にも放蕩であったため、王皇太后一族の専横が始まった。

      王皇太后は成帝の皇后であったが、成帝の晩年に皇太子であった我が

     子が皇帝からは顧みられず、また朝廷でも孤立していたが、八方手を

     尽くして最悪の皇太子の廃嫡は何とか回避させた。

      かくして、皇太子は元帝亡き後に即位したが、これが成帝である。

      ここに於いて、王一族の専横が始まった。

      王皇太后には兄弟が八人いたが、王曼を除いてすべてが諸侯、将軍に

     取り立てられた。

      一族の者は私腹を肥やすために、各地で重税を課し続け、その為 

     住民の不満が高まり反乱が起こるようになった。

      この王一族の専横と反乱のことが成帝の耳にも入ってきたので、

     皇太子時代の太傅・張兎(ちょうと)に諮問した。

      だが張兎は王一族の権勢を恐れて、王一族に非は無いと応えた。

      悪化するばかりの事態を憂慮して、地方長官の朱雲という者が

    「伐壇の嘆き」から、謁見を願い出た。

        ☞ 「伐壇の嘆き」とは、無能な者が栄え、有能な者が

         不遇を囲っている事を批判して、悲しみ嘆く事。

          ※ 「詩経 魏風・伐壇」が出典。

      謁見を許された朱雲は、御前で、
     
      「今、朝廷の大臣、上(かみ)は主を匡(ただ)すこと能わず、下

     (しも)は以て民を益する無し。皆 尸位素餐(しいそさん)なり。

        ☞ 「尸位素餐」とは、才能や功績が無いのに、

         分不相応の位に在ること。

          尸位とは、昔祖先を祀る時、その血筋の濃い者が仮に神の位

         に就いたことから生じた成語。

          素餐とは、何もしないで御馳走にありつくこと。

      どうか陛下秘蔵の斬馬剣を私にお貸しください。佞臣を斬って、他の

     者へのみせし目にしたいと存じます」と願い出た。

      皇帝は問う、

      「佞臣とは誰のことか」と。

      朱雲は、

      「張兎殿でございます」と対えた。

      これを聞いた皇帝は怒りだし、

      「我が師を侮辱するとは許し難し、誅罰せよ」と命じた。

      皇帝の意を受けて御史は、朱雲を殿上から引き摺り下ろそうとした。

      ところが、剛力の朱雲は欄干に縋り付き、

      「我が命は、どうなろうとも構いません。ただ、陛下の治世の行く

     末が思われて仕方ありません。ご明察を‥ ‥」と絶叫した。

      しかし御史が力を籠めて朱雲を引っ張ったため、欄干が折れて、

     二人はどっと階下に転落した。

      その時、その席にいた辛慶忌という将軍が、朱雲を弁護して取り成し

     た為、成帝も思い止まった。

      その後、或る者がその折れた欄干を直そうとすると、成帝は、

      「後世に範たる直言の士がいた記念に残して置け」と命じ、修理を

     させなかった。

              「漢書 朱雲伝」、「十八史略 西漢・孝成帝」

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(鑿璧偸光)

     「鑿璧偸光(さくへきとうこう)

                  ◇ 前漢(西漢)時代 ◇

      「匡衡(きょうこう)鑿璧」とも。

      苦学することの譬え。

      璧を穿って、隣家から灯を盗むの意。

      元帝の御代に丞相となった匡衡(字は稚圭)は、代々貧しい農家の出で

     あったので、学問を志して努めるも、夜には学ぶのに灯火が無かった。

      ところが隣の家には、灯火が戸外まで溢れていたが、匡衡の家の中まで

     は届かなかった。

      匡衡はそこで、自分の家の壁に鑿で穴を穿ち、隣家の灯火を引き込んで

     書を読み学門に励んだ。

      またある時、邑里の長者である文不識邸には蔵書が多くある事を知り、

     そこで匡衡は雇われ仕事をする事になったが、賃金は求めず、その代わ

     りに蔵書を全部読ませてほしいと願い出た。

      長者は彼の向学心に感嘆し、彼の望み通りに書を読ませる事にした。

      彼の勉学意欲は人を超絶し、その学業は著しく上達した。

      当時の儒学者たちは、互いに語り合って言った、

      「詩を説くこと勿れ、匡 鼎(まさ)に来たらん。

       匡 詩を説けば人の頤(おとがい)を解く」と。

      (=匡衡が詩経を講ずれば、甚だ巧妙であるので、聞く人は笑い過ぎ

       て顎が外れるであろう。)

      後に、官吏登用試験の射策(せきさく)甲科に及第して官の道を進み、

     元帝の時には丞相に進む。

              「漢書 匡衡伝」、「蒙求 匡衡鑿璧」

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    Author:tyouseimaru
    出身地は四国八十八か所参りの発心の阿波、大阪を終の棲家とする。
    歴史好きで、城郭・神社仏閣・歴史遺跡巡りが趣味となる。
    歴史小説や時代小説を好み、往年の著名な時代小説の類は概ね完読と、自負している。

    自薦
    自著「中国通史で辿る名言・故事探訪」の 上・中・下の3巻を、 近い内に「電子書籍」での出版を予定しています。 今年一年間は、さらに工夫を加えるなどして、補記訂正などの校正を第一義としています。       
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