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    中国通史で辿る名言・故事探訪(吾が道 東せん)

     「吾が道 東せん」

                 ◇ 後漢(東漢)時代 ◇

      第一番の門弟が、門下を辞し去ること。

      後漢末、馬融の多くの門弟の中に鄭玄(じょうげん)と言う俊秀

      がいた。

      その鄭玄が学問も成就したので、師の下を辞し去ろうとした。

      その時 師は他の門人達に、

      「鄭玄 今去る。吾が道 東せん」と言って嘆息した。

     》 後漢末の大学者・鄭玄 《

       鄭玄、字は康成。生没年は、紀元127年~200年。

       鄭玄は「ていげん」と読むが、通称は「じょうげん」と呼ぶ。

       前漢時代にも同姓名の「鄭玄」がいたので、後漢末の鄭玄は、

      「じょうげん」と呼ばれる。 

       青洲・北海郡高密県の貧しい士人の家に生まれ、邑の下級

      官吏となるも、二十歳の頃には都の太学に留学し、第五元や

      馬融に師事した。

       以後は郷里で著述と子弟の教育に務め、出仕はしなかった。

       鄭玄は儒学の集大成を行い、後世の経典解釈の基礎を成した。

       当時の儒学の傾向は、古典の字句解釈や注釈校訂を主とする

      学問であり、所謂 「訓詁学(くんこがく)」と称される

      ものであった。

       鄭玄の師たる馬融に代表される学問であったが、鄭玄はそれを

      集大成した。

       周礼・礼記・儀礼の「三礼定本」を完成させ、また「毛詩鄭箋」

      を著す。

       この毛詩鄭箋は、今に伝わる「詩経三百編」の模範本となる。

       

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(郭泰折角)

     「郭泰折角(かくたいせっかく)

                  ◇ 後漢(東漢)時代 ◇

      郭泰(字は林宗)は、その豊かな学識と共に大らかな人格で

     人々から敬慕されていた。

      ある日のこと、彼が街に出た時に、被っていた頭巾の角が雨に

     打たれて折れてしまった。

      ところが、之を見た人々は、感ずるところがあって、それぞれが

     自らの頭巾の角を折って被るようになった。

      ※ 前漢、元帝の御代の朱雲の「折角」の故事に倣って、

        「後漢書」は孤高の名士である郭泰の「折角」を記す。

     》竜門を登った郭泰《

      郭泰は、并州・太原の人。字は林宗。

      代々貧しい家の出で、早く父を亡くす。その為 母は早くから

     彼を県の給仕として働かせようとしたが、林宗は母に言った、

      「大丈夫たる者が、斗筲(とそう)の役など出来ましょうか」と。

        ☞ 大丈夫とは、一人前の男。

          斗筲は、容量を量る小さな器。転じて小人物。

      彼はそのまま家を飛び出し、成皐(せいこう)に出向いた。

      そして屈伯彦(くつはくげん)に学び、3年にして学を終了し、

     広く古典に通暁することとなった。

      加えて彼は弁舌にも才能を発揮して、人々を大いに魅了した。

      その後、洛陽に遊学し、河南尹(洛陽の特別行政区の長官)の

     李膺に邂逅したが、李膺に一角の人物と評価され、親交を結ぶ

     ことになった。

      その結果、郭泰の名は国都洛陽に知れ渡るようになった。

      即ち、李膺の登竜門(魚跳竜門)である、その竜門を登った

     代表的人物となったのである。

                          「後漢書 郭泰伝」

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(壺中之天)

     「壺中之天(こちゅうのてん)

                  ◇ 後漢(東漢)時代 ◇

      別天地とか別世界のこと。

      壺の中の天地の意。

      後漢の時代、汝南の出の人・費長房は市場の下役人をしていた。

      或る日のこと、市場の中で薬の商いをしていた一人の翁がいた。

      翁は壺を一つ、店のほとりに立て置き、市が止むと、その度に

     踊っては壺の中に入った。

      人の出入りの多い市場であるのに、これを見たと言う人は全く

     いなかったのである。

      ところが一人 費長房だけは、楼閣の上から之を見ていて、大いに

     怪しんだ。

      費長房は、因って訪ねて行き、翁に再拝して懇願した。

      翁はそこで、共に壺の中に入ることにした。

      壺の中は、ただ玉堂が厳かに麗しいのを見るだけであった。

      うまい酒とうまい肴がその中に満ち溢れていて、共に飲み食い

     して、終わるや外に出た。

                      「後漢書 方術伝・費長房」

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(兄為り難く、)

     「兄(けい)(た)り難く、弟(てい)(た)り難し」

                  ◇ 後漢(東漢)時代 ◇

      才能や人格に甲乙を付け難いことの喩え。

      孰れが兄であり、弟であるかを決めるのが難しいの意。

     
      後漢末に、その崇高な徳行で人々の尊敬を集めた陳寔には、

     元方(名は紀)と季方(名は諶)と言う二人の息子がいた。

      そして、その二人の息子にも、それぞれ

     陳羣(ちんぐん。=群)と陳孝先と言う息子がいた。

      或る日のこと、陳寔のその二人の孫が、自分たちの親の孰れが

     優れているか論争をして決着がつかず、結局 祖父の陳寔の所へ

     意見を求めに行った。

      陳寔は孫たちに教え諭して、

      「元方は兄為り難く、季方は弟為り難し」、と。

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(梁上之君主)

     「梁上之君主(りょうじょうのくんしゅ)

                  ◇ 後漢(東漢)時代 ◇

      盗賊は泥棒のこと。また鼠の別称。
      
      屋根下の梁の上の君子の意。

        ☞ 梁は、家屋の支柱の上部に組み込まれた材木であり、

          天井の下に在って且つ屋根を支える大きな横木である。 

      陳寔(ちんしょく)、字は仲弓と言う。若くして許県の官吏と

     なったが、学問への志は止みがたく、常住坐臥、書に没頭した。

      時の県令は、これを尋常ただならぬ人物と見込み、彼の願いを

     聞き入れて、都の太学に学ばせた。

      太学で学問を修めた後に、陳寔は太丘県の県令に任ぜられた。

      陳寔は学の造詣が深いばかりでなく、その修めた徳も清廉で

     あったので、県民は安らかな生活を営むことが出来た。

      だがある年、不運にも不作に見舞われ、生活に窮する民も少な

     からず出てきた。

      そんなある日の夜のこと、泥棒が陳寔の家に侵入して、彼の部屋の

     梁の上に潜んで物色していた。

      陳寔は逸早くそれと察して、子や孫を部屋に呼びつけ、顔色を

     正して諭して言った。

      「人はそれ自ら勉めざる可からず。

       (=人と言うものは、自分で努力しなくてはならないものだ。)

       不善の人、未だ必ずしも本(もと) 悪ならず。

       (=善からぬ人も、必ずしも初めから悪い訳ではない。)

       習いて以て性と成り、遂に此に至る。

       (=悪い習慣が身に付いて性癖となり、終いには

        そうなるものなのだ。)

       梁上の君主 是(これ)なり」と。

       (=梁の上に入る君子がそれだ。)

      泥棒はこれを聞いて大いに驚き、梁から飛び降りて、頓首して

     其の罪を詫びた。

       陳寔は、

       「君の容貌を見るに、悪人には似ていない。

       当に貧困の故であろうよ」、と言い、

       家人に命じて絹二匹を彼に与えた。

       それから後、県内にはもう泥棒は出なくなったという。

                           「後漢書 陳寔伝」

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(生年百に満たず)

      「生年百に満たず」

                             後漢(東漢)時代

        「古詩十九首・無名氏 其の十五」 

        生年は百に満たず

        常に千載(せんざい)の憂いを懐く

          人の寿命は長くても百年である。
      
          それなのに、常に千年先のことまで心配している。

        昼は短く夜の長きに苦しむ

        何ぞ燭を秉(と)りて遊ばざる

          昼は短く夜は長いと言っては嫌がるけれども、

          それならば灯を灯して夜通し遊べばよいではないか。

        楽しみを為すは当に時に及ぶべし

        何ぞ能く来玆(らいじ)を待たん

          楽しみを尽くすには、今という時を逃してはならない。

          来年の事など待っていられるものではない。

        愚者は費(つい)えを哀惜し

        但(た)だ後世の嗤(わら)いと為るのみ

          愚か者は費用を惜しんで貯めこむだけであり、

          ただ後の世の人に笑われるだけだ。

        仙人王子喬とは与(とも)に期を等しゅうす可きこと難し

          仙人となった王子喬は不老長寿を得たと伝えれるが、

          常人には、その喬と同じように長生きできるわけではない

         のだ。


        ※ 王子喬

          周王朝の霊王の王子で、名は晋と言い、笙を好んで吹き、

         道士に導かれて仙人となり、永遠の命を得たとの伝説がある。

      

    テーマ : 詩経・漢詩・詩賦等
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    中国通史で辿る名言・故事探訪(亢竜有悔)

     「亢竜有悔(こうりゅうゆうかい)

                  ◇ 後漢(東漢)時代 ◇

     「亢竜 悔い有り」と訓読。

      尊貴を極め、栄耀栄華の頂点に達した者は、その身をよく慎み戒め

     なければ、いつしか敗亡して転落の憂き目を見る羽目となり、後悔する

     ことになるという喩え。

      有頂天になる事を戒める言葉でもある。

      天頂に登り詰めた竜は、最早 それ以上は登ることが出来ず、後は

     下に落ちるしかない。

      そんなことなら、天頂を極めるのではなかったと、後悔しても遅い

     のである。

      「亢の言たる、進を知って退くを知らず。

       存するを知って亡ぶを知らず。」


      (=竜の高ぶった言葉というものは、前に出ることだけを知って、

       後ろに退くことを知らない暴勇であり、

        今 在るのみを知って、滅亡する事を知らない傲慢な蒙昧さ

       を言う。)

        ☞ 亢の字義は、極める・たかぶる。

                             「詩経 乾初」

       亢竜の反対語は、「潜竜(せんりょう)と言い、

        潜んでいる竜のことである。

        未だ世の中に現れていない才幹(有能な人材)を言う。

      

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(枳棘は鸞鳳の棲む所に非ず、)

     「枳棘(ききょく)は鸞鳳(らんぽう)の棲む所に非ず、

      百里は豈に大賢の路ならんや」  

                   ◇ 後漢(東漢)時代 ◇

      枳殻(きこく)や棘(きょく)のような悪木には、鸞や鳳などの神鳥の

     棲みつく所ではない。

      また百里のような狭い地を治める官職は、優れた人物の就くべき

     役職ではない。

      転じて、優れた人物は賤しい場所や地位には己が身を置かない

     ことの喩えとなる。

        ☞ 枳殻は、カラタチ。棘は、イバラ。

          共に代表的な悪木である。

          鸞は鳳凰の一種。

          百里の地というのは、卑官たる県令の治めるべき地であった。

                          「後漢書 循吏伝」

      ※ 「百里の才」

         小さな県の県令程度の行政手腕・才能を意味する成語である。

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(登竜門)

     「登竜門(とうりゅうもん)

                  ◇ 後漢(東漢)時代 ◇

      「魚跳竜門(ぎょちょうりゅうもん)とも。

       名士の知遇を得ることを云う。

       魚、竜門を登るの意。

       黄河の中流に「竜門」と呼ばれる急流があるが、そこを跳ね登る

      ことの出来る鯉は、羽化して竜になるという伝説があったが、それが

      諺の由来となる。

         ※ この鯉については、古くはチョウザメとの説もある。

           竜門は、現在の山西省河津県と陝西省韓城県との境に

          位置する。

           昔、黄河はここに至ると、滝のような急流となり、魚も登る

           ことが出来ないと謂われていた。

     》 李膺(りよう)、司隷校尉となる 《

       人望高き楊秉(ようへい)に代わり、太学生に絶大な人気のあった

      陳蕃が大尉に任ぜられた。

       この陳蕃はしばしば李膺を推薦していたが、遂に彼を司隷校尉

      に任じた。

       ところがそれまで我がもの顔で恣意私欲に耽っていた宦官連中

      は、李膺を恐れて、宮城内の省庁を出るのを憚るようになった。

         ※ 司隷校尉とは、州の上位に置かれた国都洛陽の大行政区

          である「司隷」の監察兼警察の長官である。

       李膺は特別に風格優れ、自ら高く矜持し、天下の明経を明らか

      にして、その是非を正すことを己の務めとしていた。

       李膺は孝廉に推されて出仕し、地方長官になった時には、

      腐敗した官吏や土着の豪族を粛清し、時には軍隊を率いて

      鮮卑族と戦ったりもした。

       河南尹(かなんいん)の時には、羊元群と言う大豪族を相手に

      その不正を取り調べようとしたが、賄賂漬けになっていた皇帝側近

      の宦官により逆に処罰を受けるという事もあった。

       だが彼を擁護する者もいて、赦免されたが、その後、宦官の

      大ボス・張譲の弟の張朔が不正を働いたので、李膺は厳しい

      取り調べの後、死刑に処し、宦官連中を震え上がらせるという

      一幕もあった。

       その時の朝廷の状況に対処する李膺の有様は、

       「是の時、朝廷 日に乱れ、綱紀は頽陁(たいた。=弛緩)す。

        李膺 独り風裁(風態)を持し以って声明(=名声) 自ら高し。

        士にしてその容接(=知遇)を被る者有らば、

        名付けて登竜門と為す
    」と。

        ※ 李膺の元を訪れた後輩の士が、その堂上(客室)に

         通されると、人は皆、その士を「竜門に登った」、即ち知遇を

         得たと見做したのである。

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(氷炭相容れず)

     「氷炭 相(あい)容れず」

                  ◇ 後漢(東漢)時代 ◇

      その性質が全く異なっていて、絶対に調和・一致しないことの喩え。

      氷と炭火とでは、その性質は一方は寒冷で他方は炎熱、互いに

     一緒にすることは出来ないの意。

      それを人に喩えてみれば、共存することの出来ない君子と小人に

     比定される。

      「夫れ邪正の人、宜しく国を共にすべからず、
     
       亦(また)なお氷炭の器(き)を同じくすべからざるが如し」


         ☞ 邪正の人とは、邪悪な人と正義の人。

                    「後漢書 傳燮(でんしょう)伝」

      ☆「薫蕕(くんゆう)は器を同じくせず」

       性質が異なり、互いに受け入れないの意。

       薫は香り、 蕕は臭み。

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(麻姑掻痒)

     「麻姑掻痒(まこそうよう)

                  ◇ 後漢(東漢)時代 ◇

      物事が自分の思い通りになること。

      古の仙女である麻姑が、痒い処を自在に掻くの意。

      桓帝の御代、仙女の麻姑が蔡経の家に来た。

      この麻姑の手の爪は、人の爪のようなものではなく、

      その形は鳥の爪のように長かった。

      そのような訳もあって、蔡経は心中密に思ったものである。

      「若し背中が痒い時、麻姑に掻かせたらいいだろうな」と。

      時同じくして仙人の王遠は、既に蔡経の心中を見透かしていて、

     人に命じて蔡経を連行させ、鞭打たせて咎める如く言った。

      「麻姑は仙人である。汝はどうして、麻姑の爪で背中を掻くなど

     と思っているのか」 と。

                   東晋 葛洪「神仙伝・麻姑」 

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(秉去三惑)

     「秉去三惑(へいきょさんわく)

                  ◇ 後漢(東漢)時代 ◇

      後漢の楊秉(ようへい)が、常に「三つの誘惑」を絶ったという故事。

      この楊秉は、「楊震の四知」の故事で有名な楊震の子である。

      楊秉は仕える天子こそ違ったが、桓帝の御世に、父と同様に

     三公の一つである大尉に任ぜられた。

      朝廷に変事があると、君に忠を尽くして正しく諌め、その多くは

     受け入れられたと謂われる。

      彼は酒を嗜まず、また妻を早く亡くしたが、後添えを貰おうとは

     しなかった。

      そのような彼の清廉潔白な人柄は、高潔にして有徳の人として

     人々に尊崇された。

      彼自身は、“常に三つの不惑を有す”と、人にも語り、己が戒め

     ともしていた。

      その不惑とは、「酒・女色・財」であり、彼自身は当にその通りの

     有言実行であったと言われる

                     「蒙求 秉去三惑」

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(師に因りて印を獲たるは、)

     「師に因りて印を獲(え)たるは、周仲道」

                 ◇ 後漢(東漢)時代 ◇

      天子の学問の師であったことにより、周仲道(名は福)が尚書の印綬

      を受けたの意。

      桓帝は即位する前は、蠡吾侯(れいごこう)と言う列侯の身分であった

     が、その時には、甘陵の周仲道を師として学問を学んだ。

      その蠡吾侯が天子に即位するに及び、周仲道を抜擢して尚書に

      任じた。

        ※ この尚書、後漢末に在っても九卿並みの権威があった。

      ところが同じ甘陵出身で、在野の名士・学者として房植と言う者が

     いて、彼の方が周仲道より評判が高かった。

      周仲道が尚書となるに及んで、郷士の人々は詠った。


         “天下の規矩(きく)は房伯武

         師に因りて印を獲たるは周仲道”


        (=天下を取り仕切れる人は房伯武さま、
     
          ところが天子さまの師弟愛に因りて、周仲道さまが尚書の

          印綬をお受けになってしまった。

          ☞ 規矩とは、準則。

            房植の字は伯武。

      かくして周と房の両家の師弟や食客は、以来 互いに事ある毎に

     反目し合い、派閥争いを繰り返すようになり、後漢末期における

     一大潮流となる。

      ※ 後漢末における「党人の争い」の発端となる契機でもある。

             「後漢書 党錮列伝序」、

             「十八史略 東漢桓帝」

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(矯角殺牛)

     「矯角殺牛(きょうかくさつぎゅう)

                  ◇ 後漢(東漢)時代 ◇

      「角を矯(た)めて牛を殺す」と訓読す。

      少しばかりの欠点を矯正しようとして、反って元も子もなくす

     ことの喩え。

      牛が曲がった角で人に危害を加えることを畏れ、角を真直ぐに

      矯正しようとして、結局 牛を殺してしまう羽目になること。

      曽て桓帝が出游した時のこと、若い牛が河(黄河)の中から現れて、

     河の畔で止まった。

      天子に随行していた側近連中は、只々 慌てふためくばかりで

     あった。

      天子の側を離れて警衛していた中尉将軍の何公は、人並み

     はずれた勇力の持ち主であったので、すわっとばかりに馳せ参じ、

     牛に立ち向かった。

      牛はそんな何公を見て、再び河中に戻ろうとした。

      だが何公は牛に立ち向かい、左手で牛の足を牽き、右手に持った

     斧で牛の頭を撃って、これを殺してしまった。

                 東晋の郭璞(かくはく) 「玄中記」

       この玄中記では、若い牛は、樹齢何千年にも及ぼうとする

       木の精が化身したものであり、いわば瑞兆とも言えるものであった。

        それを思い違いからか、或いは先入観念からか、凶暴なる

       生き物として恐れ、逃げようとする牛の頭を斧で撃ち、そして

       殺してしまったのである。

        その話の内容が、いつしか牛の曲がれる角は、人に危害を

       及ぼす虞があり危険なので、角を矯正しようとしたところ、反って

       牛を死なせる羽目になった、というように変容した。



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    中国通史で辿る名言・故事探訪(孫寿折腰)

     「孫寿折腰(そんじゅせつよう)

                  ◇ 後漢(東漢)時代 ◇

      年増女性が意識的に、細い腰をなよなよさせてに歩く妖艶な姿態。

      桓帝の時代に於いても梁冀(りょうき)は、天子擁立の功により

     大将軍に任ぜられた。

      梁冀の妻である孫寿も、それに伴い数々の優遇を受けたが、

     烈侯並の待遇と赤紱(せきふつ)の着用が認められた。

      これは皇后のみに許された、「服制」によるものでもあった。

        ☞ 赤紱とは、朱色の印綬用の紐。

      孫寿の容色はとみに美しかったが、それにも増して自己顕示欲が

     とても強かった。

      そして己の存在感を誇示しようとして、艶めかしく肢体を作り、

     しばしば洛陽の街中を徘徊しては人々を幻惑した。

      そのような時の彼女の様子としては、次の如き媚態の記録が

     残っている。

        愁眉(しゅうび)    憂い顔にして見せる眉。

        折腰歩(せつようほ)  柳腰でなよなよと歩く様。

        堕馬髻(だばけい)   頭の片側に傾けて結う髪。

        顰笑い(ひそみわらい)   苦しそうに眉をひそめた笑い。

      このように華やかな彼女であったが、その性質たるや鉗忌(かんき)

     だとの評があった。

      鉗忌の鉗は金挟みの意であり、それで人を締め付けるように酷い

     憎み方をする事を言ったものである。

      孫寿の実家の孫氏一族は、梁冀が天子の外戚である如く、

     梁氏のミニ外戚として横暴の限りを尽くした。

      梁冀に関しては、その後 桓帝を蔑ろにすること甚だしく、遂に

     桓帝は堪忍袋の緒を斬って、宦官連中を引き込んで、梁冀誅殺を

     計画し実行した。(159年)

      梁冀を亡くした孫寿は、彼の後を追って自殺して果てた。

                     「蒙求 孫寿折腰」

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(梁冀跋扈)

     「梁冀跋扈(りょうきばっこ)

                 ◇ 後漢(東漢)時代 ◇

      簡単に「跋扈」という。

      強く且つ我がままに振舞うこと。

      臣下にある者が権勢を欲しい侭にして、君主の大権を冒すこと。

      竹籠は魚を獲るために水中に仕掛けられるが、大きな魚はそれを

      躍り越えて逃げ去るの意。

      ここでは、後漢の梁冀という権勢並び無き臣下を、大きな魚に

     比したもの。

        ☞ 跋は、越える。
     
          扈は、魚を獲るために水中に仕掛ける竹篭。

      或る日のこと、梁冀が威風堂々と参内してきた時に、質帝は

     冗談めかしに言った。

      「之は跋扈将軍なり」と。

      この言葉は、幼いながらも聡明であったと言われる質帝が、梁冀の

     横暴な態度や政治を壟断する事に対する憎しみで付けた「あだ名」

     でもあった。

      ところが梁冀は、質帝の戯言を真に受けて、質帝が今はまだ幼いが、

     その内 成長すれば、「お前の跋扈を許さないぞ」と言う風に受け取り、

     将来の危険を察知した。

      その後 梁冀は、質帝の即位二年目に、腹心に命じて、質帝に

     毒入りうどんを勧めて殺害した。

                   「後漢書 梁冀伝」、

                   「蒙求 梁冀跋扈」



     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(犲狼当路)

     「犲狼当路(さいろうとうろ)

                  ◇ 後漢(東漢)時代 ◇

      悪人が我がもの顔でのさばっている様。

      また、姦人が要路要職に就いて、その権力を専断していること。

      山犬や狼が街道筋にいて、人の行く手を遮っているの意。

        ☞ 犲は、山犬。

     》 正義の硬骨漢・張綱 《

      陽嘉元年(132年)、人望の厚い梁商の娘が順帝の皇后に冊立

      された。

      梁商は執金吾となり、皇后の兄・梁冀(りょうき)は列侯に

     封ぜられた。

      だが梁冀はその直後に、商書令・左雄の帝に対する諫言により、

     辞任の憂き目を見た。

      左雄の諫言の真意は、別の処に在った。

      順帝の乳母である宋娥が、帝の意向により、ただ乳母であると

     言うだけの理由で、列侯に封ぜられようとしたのを阻止しようと

     したのであった。

      順帝は翌年五月、強引に宋娥を山陽侯に封じてしまった。

      だが封爵については、その後の天変地異の自然現象を慮り、

     沙汰止みとなった。

      その後、順帝は梁商を大将軍に任じ一層信頼を厚くし、梁冀も

     父に次いで執金吾に任ぜられた。

      永和六年(141年)に梁商が死ぬと、梁冀は当然のごとく大将軍

     となり、弟の梁不疑は河南の尹(いん。地方長官)となった。

      時に朝廷では、八人の巡察使を派遣して、各郡州を巡察する

     ことにした。

      其の使者の一人に張綱(ちょうこう)が任命された。

      彼は出発に際して、洛陽の宿場近くで巡察使の乗る馬車の轍を

     外して、それを土中に埋めてしまい、嘆息して曰く、

      「犲狼、路に当たる。いずくんぞ狐狸を問わん」と。

      (=山犬や狼のような大悪が中央の要路にのさばっているのに、

       地方の小悪党の狐や狸を調べたところで、どうなるものでも

       あるまい。)

      それから後のこと、彼は梁兄弟の天子を蔑ろにする十五ヶ条の

     弾劾書を上奏した。

      だが順帝は、尤もと思いながらも、裁断することは出来なかった。

      その内、梁冀は張綱の失脚を画策し、治安の状態の極めて悪い

     徐州の広陵太守に任じた。

      張綱は任地に赴くや賊の本拠地に出向き、賊将・張嬰(ちょうえい)

     に直談判して説き伏せ、何とその場で賊徒一万と共に降伏させた。

      すぐさまその場で祝宴が開かれ、歓談した後 張綱は彼らを釈放し、

     それぞれを国元に帰還させてしまった。

      かくして南方の治安は回復したが、張綱は張嬰らに見守られながら、

     その任地で没してしまった。

                     「十八史略 東漢順帝」

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(荊妻豚児)

     「荊妻豚児(けいさいとんじ)

                  ◇ 後漢(東漢)時代 ◇

      愚妻と愚息の意である。

      自分の妻と子のことを謙遜して用いる言葉であり、主に手紙の中

     などで用いられた。

        ☞ 荊は茨(いばら)のことで、刺のある低木。

      梁鴻の妻である孟光は、慎ましい身なりで夫に仕えた良妻で

     あったが、彼女の髪には荊の簪(かんざし)が挿されていたと云う。

      そこから後世になって、自分の妻のことを指して「荊妻」と言って

     謙遜するようになった。

                        皇甫謐「列女伝」

      また何時の頃からか、自分の子供のことは人には謙遜して、豚の子

     即ち「豚児」 と言った。

                        「通俗編 倫常・豚児犬子」

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(挙案斉眉)

     「挙案斉眉(きょあんせいび)

                  ◇ 後漢(東漢)時代 ◇

      妻が夫を深く敬愛することの喩え。

      足付きの食膳(案)を捧げ持つのに、持ち運ぶ者の吐く息が膳部に

     かからないように、食膳を眉の高さに等しくするの意。

      梁鴻は家は貧しかったが,節操は至って堅く、学業を好み、後に

     太学に学んだ。

      独立心は人一倍強かったので、学業を修めるや郷里に帰り、

     末節の学理は深く修めることはしないで、大義に通ずるを旨として、

     更なる学理を深めていった。

      郷里の権勢家や富豪は彼の高い節操を慕って、それぞれが娘を

     彼に娶わせようと望む者が多かった。

      だが、彼は全く耳を貸そうともしなかった。

      ところが、その頃 郷里の孟氏に、肥って醜く、然も色が黒くて

     且つ石臼を持ち上げる程の力持ちの娘がいた。

      彼女は既に嫁入りの年頃となっていたが、親が勧めても嫁に行こう

     とはしなかった。

      その彼女は言う、

      「梁伯鸞(梁鴻の諡)のような賢い人の所へ嫁に行きたい」と。

      その言葉を伝え聞いた梁鴻は、孟子の娘を招いて、彼女が徳に

     輝くという意味で「徳曜」という字を付け、名付けて孟光と呼ぶよう

     になった。

      梁鴻は、後に其の孟光を娶り、京兆の覇陵山に隠遁しようとした。

      そして後漢の城都・洛陽に立ち寄った時、都の情景を詠ったが、

     各語句の最後に「噫(ああ)」という語を付して己の感懐を表現した。

     》 梁鴻五噫(りょうこうごい) 《

          彼の北芒(ほくぼう)に陟(の)れば噫
            
            ☞ 北芒は洛陽の北にある山で、王侯貴族の集

              積墓地があった所。

          帝京を顧覧するに噫

            ☞ 帝京は、帝国の都。
               顧覧は、顧みる(振り返る)こと。

          宮室 崔嵬(さいかい)たり噫

            ☞ 宮室は王宮全体の意。

               崔嵬は建造物の雄大な様。

          人の劬労(くろう)する噫

            ☞ 劬労は努めて疲れてしまうの意。

          遼遼たる未央(びおう) 噫

            ☞ 遼遼たるとは、遥かなる彼方の意。

              未央とは、洛陽の城都にある王宮の一つの名。

       時の皇帝はその歌の噂を耳にするや、朝廷を誹謗するものとして、

      彼を探し出して罰しようとした。

       梁鴻は姓名を変え、斉、魯に隠れ住み、さらに呉に行き、その地の

      富豪・ 皐(こう)伯通の元に身を寄せ、仮住まいするようになった。

       そして梁鴻は、人に雇われて米搗(つ)きをし、賃金を得て暮らしを

      立てた。

       彼が仕事を終えて帰る度に、妻の孟光は彼の食事を備えるのに、

      決して彼の前では首を上げて仰ぎ見ようとはせず、食膳を恭しく

      眉の高さまで捧げるのであった。

       伯通はその有様を見て、日雇いのくせに妻の礼儀が余りにも

      正しいのを奇異に思い、梁鴻が定めし並の凡人ではあるまいと思う

      ようになり、あばら家から家中の客間に住まわせるようになった。

       彼はそこに隠れ住むようになってえから、十篇余の著述をもの

      にし、遂に呉の地で亡くなった。

                        「蒙求 挙案斉眉」

     ☆ 「礼記 内則」

         「礼は夫婦を謹むに始まる」

          夫婦は社会で最も親密な人間関係であり、それだけに

         最も礼を失いがちとなるものである。

          故に、夫婦間の日常の謹みを忘れないのが、礼の始まり

         なのである。

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(五里霧中)

     「五里霧中」

                  ◇ 後漢(東漢)時代 ◇

      霧が深くて、方角が分からないこと。

      転じて、心が迷って分別のつかないことの喩え。

      張楷がその道術によって、五里四方に亘るという深い霧を

      湧き起こした、という故事。

        ※ 張楷は、張覇の子。字は公超。

          学問 とりわけ古文にも通じた隠遁の道士である。

          その隠棲地は、「公超 市をなす」と言われた。

       張楷は、「能く五里霧を作る」と、後漢書に記されているように、

      道術や方術を能くした。

       後漢の時代の五里は、現在の日本の距離にして約二キロである。

        ※ 自然現象の霧が、当時にあっては人に作れる訳はなく、

         これは所謂 煙幕の事であろうと謂われる。

       五里霧で名を馳せた張楷の下に、ある時 自ら三里霧を作る術を

      編み出したと云う相貌の余り良くない裴優(はいゆう)という男が

      弟子入りを懇願して来た。

       だが張楷は相手が芳しからぬ男だと判断して、会おうとも

      しなかった。

       その後の事、裴優は其の三里霧を駆使して、窃盗の罪を犯して

      捕まった。

       その取り調べに際して、裴優は五里霧の術を教えてくれなかった

      張楷を逆恨みしていたので、窃盗の手段として用いた三里霧の術は

      張楷に教えてもらったのだと虚偽の供述をした。

       その為、張楷は連座して投獄の憂き目を見た。

       それから二年後に無実が証明され釈放されたが、獄中に

      在っても、泰然自若と して筆を持ち続け、「尚書注」を纏め上げた。

       その後、七十歳で没するまで、何度も朝廷から招聘されが、仮病を

      理由に応じなかった。

                          「後漢書 張楷伝」

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(楊震之四知)

     「楊震之四知(しち)

                  ◇ 後漢(東漢)時代 ◇

      良心に恥じるところの無い喩え。

      隠し事や秘密は必ず露見するという訓戒でもある。

      高徳で高潔の士である楊震は、茂才(もさい)に挙げられ、四度 

      荊州の刺史 (州の長官)となった。

        ☞ 茂才とは、後漢の官吏登用制度である「郷挙里選」に

         よる 最優秀の推薦科目。

          前漢では「秀才」と言われたが、後漢は光武帝の諱である

         〈秀〉を避けて、「茂才」と言われた。

      楊震が今般の人事で昇進して、東萊郡太守に遷る時、郡役所に

     至る直前に東萊郡下の荊州の昌邑に宿泊した。

      その夜の事である。以前に楊震が茂才として推薦したことのある

     王密が、荊州の昌邑の令(県令)となっており、彼は挨拶代りに懐に

     入れた金十斤を以て、楊震に贈ろうとした。

      楊震曰く、

      「故人 君を知る、君 故人を知らざるは何ぞや」と。

       (=この私は君の事を知る。君がこの私を知らないとは、何たる

        ことか。)

      王密曰く、

      「暮夜 知る者なし」と。

      楊震曰く、

      「天知る、神知る、子(し。=きみ)知る、我知る。

       何ぞ知る無きと謂(い)わんや」
    と。

      王密は大いに恥じえ出て行った。

                         「後漢書 楊震伝」

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(盤根錯節)

     「盤根錯節(ばんこんさくせつ)

                  ◇ 後漢(東漢)時代 ◇

      物事が非常に複雑に入り組んでいて、解決が困難な事情を 言う。

        ☞ 盤根とは、曲がりくねって地中を這う木の根っ子。

          錯節とは、入り組んだ枝節のこと。

      この時節、西北の涼州や汴州(へいしゅう)では、異民族の羌族に

     度々侵略され、朝廷の軍事面は極めて多忙であった。

      朝廷では時に、鄧隲(とうしつ)が大将軍であった。

      鄧隲は軍事予算と兵力の不足を理由にして、涼州を放棄して

     并州に全力を注ごうとした。

      その方針に反対したのは、郎中の職に在った虞詡(ぐく)である。

      虞詡は反論して言う、

      「函谷関の西は将軍を輩出し、東は宰相を出すと申します。

      また昔から烈士・武人には、関西(かんぜい)の涼州出身が多い

     ではありませんか。

      このような地を羌族に任すことは、断じてなりますまい」と。

      列座の者は皆 賛成したが、鄧隲はその為に虞詡を酷く怨むこと

     になった。

      その事があってから後の事になるが、偶々 朝歌県で大規模な

     騒乱が発生し、県長も殺害されるという暴威となった。

      鄧隲はこの時とばかりに、虞詡をその地の県長に任命した。

      その時、虞詡の友人や知人は彼にお悔やみを述べたと謂う。

      ところが虞詡は平然として、

      「盤根錯節に遭わずんば、以って利器を別(わか)つなし」と言って、

      (=刃物の切れ味は、曲がりくねった根っ子や入り組んだ枝節を

       切ってみなければ分かるものではない。

        人も非常な困難に出会わなければ、その能力や実力も計り

       知れないものだ。)

     進んで危難に飛び込み、自分の力量を試した。

      そして彼は様々な奇策を縦横に駆使して、騒乱を鎮圧した。

                 「後漢書 虞詡伝」、

                 「十八史略 東漢」



     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(反面の交わり)

     「反面の交わり」

                   ◇ 後漢(東漢)時代 ◇

      ほんのちょっと会っただけの間柄のこと。

        ☞ 反面は、一面とか別の面の意。

      応奉が二十歳の或る日のこと、彭城の牧(ぼく。地方の長官)の

     袁賀を訪ねたことがあった。

      ところが袁賀は、丁度 不在であり家門は閉まっていた。

      応奉が帰ろうとすると、その時 門が少し開いて、一人の男が

     顔をのぞかせて、応奉と一言二言交わして、またすぐに門を閉じて

     しまった。

      その事があってから、数十年の年月が過ぎ去った。

      と或る日のこと、応奉は路上で一人の車大工に出遭った。

      応奉には直ぐに、その男が数十年前に袁賀の家の門で逢った男

     であると分かった。

      そこでその男に声をかけてみるが、男に反応は聊かも無く、不審げ

     な顔つきを浮かべるので、応奉が昔の出逢いを詳しく語って聞かせ

     たところ、男はようやく、あの時の事を思い出して、共に語ったもので

     ある。

      車大工は、

      「あの時は、長官のお屋敷の馬車の修理に伺っていたものでして、

     仕事が一段落して一息入れた時に、誰かが見えたようであったので、

     一寸 門から顔を出しただけでした。

      それにしても、良くご記憶なされていたもので‥ ‥ ‥ 」と、

     驚愕したと謂う。

                         「後漢書 応奉伝」

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(前虎後狼)

     「前虎後狼」

                  ◇ 後漢(東漢)時代 ◇

     「前門に虎を拒(ふせ)ぎ、後門に狼を進む。」

      表門で虎の侵入を防げば、次には裏門から狼がやってくるの意。

      即ち一つの災難を逃れても、また次の災難が襲ってくるという喩え。

        ※ 前門と後門で、同時に危難に陥るという意味ではない。 

      後漢の中期以後、しばしば天子の外戚は前門の虎に、宦官は

     後門の狼に喩えられる。

      後漢王朝は時代が進むに従って、天子の権威は失墜し、実権も

     次第に喪失する。

      初期には外戚が、次に宦官が権柄を握り、さらにその両者による

     権力争いの暗闘が繰り広げられるようになる。

      宦官が重用されるようになったのは、外戚を排除する為、和帝が

     宦官を重用して以来の事である。

      和帝は十四歳で即位したが、竇太后(とうたいこう)一族の外戚の為、

     思い通りに事は運ばなかった。

      その内 竇太后の兄である竇憲は、やがて和帝の親政により、

     外戚の権勢が削がれる惧れを懐くようになり、皇帝を謀殺しようと

     謀るようになった。

      だがそれを事前に察知した和帝は、幼少の時から親しく接してきた

     宦官の鄭袖(ていしゅう)に竇一族の排除を相談した。

      この鄭袖は宦官ながら、人となりは機敏にして心機ありと評された

     人物であった。

     》 和帝の逆襲 《    紀元92年

      二人は先ず竇一族粛清の策を練った。

      その頃、班固の「漢書 外戚伝」は既に出来上がっており、前漢の

     文帝の外戚誅滅や、武帝の外戚誅殺の古例が記されていたので、

     それを参考にしようとして、和帝の異母兄である清河王・劉慶に頼ん

     で手に入れた。

      和帝は鄭袖に外戚伝を研究させた。

      粛清計画は、劉慶を仲介者として、外征の成功で涼州に出向いた

     竇憲が、外征将軍として洛陽に帰って来るのを待って実行された。

      竇憲が帰ってくると、和帝は直ちに戒厳令を発し、城門をすべて

     閉鎖した後、竇氏一族の主だった連中を尽く捕縛し、獄死させた。

      竇憲の元には使者を派遣し、大将軍の印綬を回収した上、竇憲の

     三兄弟をそれぞれの封地に帰還させ、その地で自殺させた。

      竇太后については、和帝の生母と言う事で粛清の対象外とした

     ものの、それから五年後に寂しく崩じた。

      この粛清の成功により、宦官・鄭袖は大長秋という大官の職に就き、

     宦官として始めて「列侯」に封ぜられた。

      世に謂う、

      「宦官の権を用いるは此れより始まる」と。

      ※ 大長秋とは、宦官の役職名で、皇后の身辺の世話役の長官。

     
     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(人死して鬼となり、)

     「人 死して鬼(き)となり、知 有りて能く人を害す」

                  ◇ 後漢(東漢)時代 ◇

      人は死ぬと鬼(霊魂)となり、鬼には知覚があって、ややもすると

     人に危害を加えようとするもの。

      とかく世間では、このような風評があるが、験(ため)しに万物の

     場合で検証してみると、人は鬼などにならないし、人に危害を加える

     などと言うことも出来ない。

      之を万物で証明してみよう。

      人は物であり、人以外の万物もやはり物である。

      物が滅びても鬼とはならないのに、人だけがどうして特に鬼など

     になれようか。

      世間では人も人以外の物も鬼となり得ないことは弁えているが、

     鬼となるか、ならないかは、それだけでは未だはっきりさせ難い。

      自然界の本性として、新たに火を起こすことは出来るが、消えた

     火を再び燃え上がらせることは出来ない。

      新たに人を生むことは出来るが、死者を再び生き返らせることは

     出来ない。

      火気が無くなった灰を新たに燃える火にさせられないから、死者が

     再び人の形をとることを私は怪しいと思う。

      思うに、一度消えた火が今や燃え上がらないことから推すと,

     死者がまた鬼になれないことも明らかである。

      また人の着衣には精神は無く、精神の現れだとする鬼が、衣服を

     付けて出現するというのは理に合わない。

      だから死して猶、知有りとするのは惑(まど)いなり。

      ※ 日本の鬼の概念とは本質的にやや異なり、古代中国では、

       鬼は死者の霊魂であると考えられていた。

                    王充「論衡 論死第六十三」

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(夏炉冬扇)

     「夏炉冬扇」     
                  ◇ 後漢(東漢)時代 ◇

      夏の囲炉裏(または火鉢)と冬の団扇(うちわ)のこと。

      時期外れで無用なもの又 無益とされる物の喩え。

      転じて、実社会で立たない才能や言論を言う。

      「益無きの能を作(な)し、補う無きの説を納(い)るるは、

       (=無益な才能を働かせて、君に何の足しにもならない意見を

        聞かせるのは、)

      猶 夏を以って炉を進め、冬を以って扇(せん)を奏(すす)むが

     如し。

      亦(また) 徒なるのみ(まったく無駄な事だ)。」

                    王充「論衡 逢遇」

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(五倫十起)

     「五倫十起(ごりんじっき)

                            後漢(東漢)時代

       どんなに清廉で公平な人でも、私心は有るということの喩え。

       五倫は通称であり、姓は第五で名は倫という。その五倫が十回

      立つの意。

       後漢の時代に、第五倫は清廉・公平で夙に知られた人である。

       彼の先祖は、「戦国時代の七雄」と謳われた斉の田氏である。

       漢の御代に、生き残った田氏一族は長安の御陵に移り住み、

      多くの同姓と区別する為、第二とか第五とかにそれぞれの姓を改めた。

       五倫は、若い時から狷介で義侠を謳われた。

       ある時 彼は郡の長官に見込まれて役人になり、郷の薔夫

      (しょうふ。裁判と徴税の官)を務めた。

       彼は賦役や税金を公平にし、冤罪に泣く者を正しく裁いて、郷民に

      は大いに感謝され悦ばれもした。

       だが、長く役人を務めても出世はできないとして、家族を引き連れて

      河東に移り、姓名を変えて塩の商いをした。

       太原と上党の間を往復しての商いであったが、彼は泊まる先々で、

      必ず掃除をしてから立ち去った。

       その為 街道筋の人々は、彼のことを、「道上」と尊称した。

       それから数年後、推薦されて再び京兆尹の閻興の下で書記となり、

      それまで市場で蔓延していた偽錢を締め出す働きをした。

       建武二十七年(紀元51年)には孝廉に挙げられ、光武帝に謁見を

      許された後、いきなり会稽郡の太守に任ぜられた。

       太守は二千石(せき)の大官であるが、五輪は自分で秣を切って

      馬を飼い、妻は自分で飯を炊いた。

       そのようにしては禄米の余りは安く売って、錢を貧民に与え続けた。

       また淫祀が盛んで卜筮が好まれた会稽郡では、民は農耕用の牛を

      殺し、神を祀ったのでひどく窮乏していた。

       歴代の太守は之を禁ずることが出来なかったが、五輪は布告して

      民の悪習を止めさせ、愚民を騙す巫祝に対しては、厳重な取り調べを

      行い、濫りに牛を殺す者があれば、必ず処罰することにした。

       やがてその悪習は止み、民は窮乏から脱することが出来た。

       だがその後、永平五年に五倫は、法に触れるとの事で都に召喚

      されたが、人民は老いも若きも泣き叫んで後を追い、宮門に押しかけ

      て上書する者が千人にも達し、明帝は上訴を禁ずるほどであった。

       それから間もなく、明帝は廷尉に出向くことがあり、第五倫を赦免

      した。

       倫はそれから二,三の太守を務めた後、大司農(財務担当大臣)に

      栄進、さらに章帝の時には、三公の司空にまで昇った。

       倫は、しばしば帝に上奏文を呈して諫言したが、人情の機微をよく

      心得たものであったので、帝を激怒させたりする事は無かった。

       そんな彼にある時、或る人が尋ねた。

       「あなたのような清廉で公平なお方でも、所謂 私心というものは

      有りますか」 と。

       倫は言う、

       「昔、私に千里の馬をくれるという官吏を望む人がいたが、私は受け

      取ることはなかった。

       だが以来、三公の役所で官吏を採用する度に思うのだが、心の中で

      はその馬が忘れられなかったものです。

       しかし結局、その人を採用する事は無かった。

       またある時、兄の子供が病気になったが、私は一晩に十回見舞った

      が、帰るとぐっすり寝込んでしまった。

       吾が子の場合は、見舞いに行かなくても、一晩中 眠れなかった

      ものです。

       この様では、どうして私心がないなどと言えましょうか」と。

                     「後漢書 第五倫伝」

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(忠臣孝子)

     「忠臣孝子」

                  ◇ 後漢(東漢)時代 ◇

      君主に対して忠誠を尽くす臣下と親に孝行な子供。

      後漢は、「礼教至上主義」の時代と言われるようになり、礼と孝を

     中心とする社会規範が最も重んじられた。

      官吏の任用に際しては、

      「忠臣を求むるは、必ず孝子の門に於いてす」という不文律があった。

      親に孝なる者は、君主にも忠誠を尽くすものである。

      そもそも、忠と孝とは一であり、孝なる者は、必然として忠でも

     あった。

      従って、忠臣を得ようと思えば、必ず孝子の門に於いて求める

     べきである。

      孝子であって不忠の者はあり得ないからである。

     》 韋彪(いひょう)の進言 《

      韋彪が大鴻臚(外交担当の長官)となった頃、地方から朝廷に

     推薦されて来る者の多くに、その実像に余りにも大きな懸隔が

     認められ、才能と品行は全く乖離していたのである。

      従って、州や郡などの職務の遂行上、各種の弊害が生じていた。

      その改善を求める上書は、しばしば奏上されていた。

      そこで章帝は、ある日 官吏登用試験である〈貢挙〉の実施方法

     について、臣下に討議させた。

      その席で、韋彪(字は孟達)が問題を提起した。

      詔の御心を思いますに、陛下が民をお按じなさり、恩賜を人の

     登用にとなされますのは、当に誠の人物を得んが為であります。

      その登用の根本について、孔子はこのように言っております。

      「国は賢を選ぶを以て其の務めとし、

      賢は孝行を以って首(はじめ)となす。

       忠臣を求むるは、必ず孝子の門に於いてす」
    と。

      章帝は、その意見を良しとして裁可した。

      ここに於いて、後漢の時代は礼教主義万能の時代となった。

      とりわけ、「孝」の徳目が第一位に挙げられるようになった。

             「後漢書 韋彪伝」、

             「十八史略 東漢・章帝」



     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(虎穴虎子)

     「虎穴虎子」

                  ◇ 後漢(東漢)時代 ◇

      「虎穴に入らずんば虎子を得ず」とも。

      何事も危険を冒さなければ、大利や功名は得ることが出来ない

      と言うことの喩え。

      永平十七年(紀元74年)、班超を使節とする後漢王朝の外交使節団

     が、オアシス国家の鄯善(ぜんえん)を訪問した。

      使節団の目的は、後漢王朝への帰順工作にあった。

      ところが滞在中に折り悪く、匈奴の使節団と鉢合わせに なって

     しまった。

      鄯善国王は、強勢な匈奴の威圧に屈しそうな気配であったので、

     それと察知した班超は、配下の連中と謀って、匈奴の使節団に

     決死の先制攻撃を仕掛けようと立ち上がった。

      その決起前、班超は三十六人の配下を前にして、勇気を盛んに

     鼓舞した。

       「虎穴に入らずんば、虎子を得ず」と。

      さて戦闘開始とともに、各自は作戦通りに勇敢に働き、匈奴の宿舎に

     夜襲をかけ、匈奴の使節団の百人超を全滅させることが出来た。

      鄯善国王は、もはや従うより他になく、以後 班超は、

     于闐(うてん)・疏勒(そろく)を平定し、西域南道は尽く後漢の

     支配権に組み込むことに成功した。

                     「後漢書 班超列伝」

     

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    Author:tyouseimaru
    出身地は四国八十八か所参りの発心の阿波、大阪を終の棲家とする。
    歴史好きで、城郭・神社仏閣・歴史遺跡巡りが趣味となる。
    歴史小説や時代小説を好み、往年の著名な時代小説の類は概ね完読と、自負している。

    自薦
    自著「中国通史で辿る名言・故事探訪」の 上・中・下の3巻を、 近い内に「電子書籍」での出版を予定しています。 今年一年間は、さらに工夫を加えるなどして、補記訂正などの校正を第一義としています。       
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