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    中国通史で辿る名言・故事探訪(覆巣の下、完卵なし)

     「覆巣の下(もと)、完卵なし」

                  ◇ 後漢(東漢)時代 ◇

      親が罪に陥れば、その子もまた同罪となること。

      或いは、広く根本が滅べば、その枝葉も自ずと滅ぶこと。

      鳥の巣が覆れば、完全な卵はあろうはずがないの意。

      後漢末、北海の太守で朝廷の少府でもあった孔融は、独走する

     曹操をしばしば諌めた。

      建安十三年(紀元208年)、曹操はいよいよ南征の軍旅を動員

     して、荊州の牧(長官)の劉表とその傘下の新野(樊城)を守る客将・

     劉備を討伐しようと決意した。

      その出陣に先立ち、孔融は曹操を諌めて言った。

      「不仁を以て仁を討っても、勝てるわけがない」と。

      出陣を前にして、再三の諫言に怒り心頭に発した曹操は、、大逆

     不道を理由として、孔融のみならず、その二人の子まで捕縛させた。

      孔融の子は上が九歳、下が八歳であったが、二人の子はその時 

     双六に夢中で、捕縛されてもいささかも慌てなかったという。

      親子共々捕縛された後、孔融は処刑の使者に向かって、

      「願わくば、身(この我が身)に留めよ。

      二児 全(すべ)きを得ずや、否や」
    と訊ねた。

      (=二人の子は、何とか身を保つことは出来ないか。)

      ところが二人の子は自ら進んで言った、

      「大人(たいじん。父上というべき呼称)

      豈に覆巣の下、完卵あるを見んや」
    と。

                      「世説新語 言語篇」

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(老蚌生珠)

     「老蚌生珠(ろうぼうしょうじゅ)

                  ◇ 後漢(東漢)時代 ◇

      立派な子が生まれたことの喩え。

      老いたドブ貝が、美しい珠を生むの意。

      後漢時代の末期に、韋元将(名は康)と韋仲将(名は誕)と言う兄弟

     がいた。

      ある時、孔子の末孫である孔融は、彼らの父である韋端に書を与えて

     言った、

      「先日 元将 来たる。淵才亮茂(えんさいりょうも)、雅度弘毅、

     済世(せいせい)の器なり。

        ☞ 淵才亮茂とは、才能は奥深くかつ才徳は明らかなこと。

           雅度弘毅とは、雅やかな様子で度量が広くて意志堅固な

          こと。

           済世とは、世を救うこと。

      昨日 仲将 来たる。文敏篤誠(ぶんびんとくせい)、保家の主なり。

      意(おも)わざりき双珠、近く老蚌に出でんとは」と、賛辞を呈した。

        ☞ 文敏篤誠とは、文学に聡く極めて誠実なこと。 

          保家とは、恃みとする家。

                   宋・胡継宗 撰「書言故事」 

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(蜀は竜を得、)

     「蜀は竜を得、呉は虎を得、魏は狗を得たり」

                  ◇ 三国時代 ◇

      後漢末の臥龍と称せられた諸葛孔明は、三顧の礼で以て劉備に

     迎えられ、劉備の入蜀後に重きをなす。

      諸葛孔明の兄である諸葛瑾は、諸葛孔明が世に出るより先に、呉の

     孫権に仕えて重きをなす。

      諸葛孔明の従弟である諸葛誕は、魏の文帝及び明帝に仕えて重きを

     なす。

     》 琅邪(ろうや)郡陽都の諸葛一門 《

      後漢末、徐州琅邪郡陽都の諸葛一門は、山東の名門であった。

      前漢の元帝の時に、諸葛豊が司隷校尉に任ぜらてから、以来有能な

     人材を輩出して来た。

      時同じくして、徐州琅邪郡臨沂(りんき)の王一門も名門で知られ、

     三国時代の後には、「晋王朝」で一族が重きをなすに至る。

      諸葛一門の、諸葛瑾、その弟の亮(孔明)、その従弟の誕は、共に

     名声高く、後にはそれぞれ、別の国である呉、蜀、魏に仕えた。

      就中、諸葛亮は、臥龍と称せれれ、最も傑出していたが、後に蜀を

     建国する劉備(玄徳)が彼の草庵を訪れ、三顧の礼を以て迎え入れた。

      諸葛亮の兄である諸葛瑾は、亮より先に呉の孫権に仕えていたが、

     その人物・器量の大きさで日ごとに孫権の信任を篤くして重んぜられた。

      諸葛誕は魏の文帝、明帝に仕えて、夏侯玄と名声を等しくし、次第に

     栄達して重きをなしたが、その晩節は全う出来なかった。

      当時の人は彼らを称して、

      「蜀は竜を得、呉は虎を得、魏は狗を得たり」と。

                       「世説新語 品藻篇」

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(驥足を展ぶ)

     「驥足(きそく)を展(の)ぶ」

                   ◇ 後漢(東漢)時代 ◇

      豪傑や俊秀がその才能を十分に伸ばすこと。

      驥とは、駿馬である。驥は、大道を疾駆して、初めてその脚力を存分に

     発揮することが出来る。

      驥足は、その駿馬の足のことであり、転じて、優れた才能のある人物の

     喩え。

      劉備が未だ諸葛孔明を傘下に加えていなかった頃、鳳雛(ほうすう)と

     言われた俊秀の龐統(ほうとう。字は子元)を用いて、まずは耒陽

     (らいよう)の県令に任じていた。

      だが施政の効果は、余り芳しくなかった。

      そうした或る日のこと、呉の魯粛から劉備宛に書面が届いた。

      「士元は百里の才に非ず。

       治中(ちちゅう)、別駕(べつが)となさしめれば、乃ちその驥足を

      展ぶのみ」
    と。

         ※ 百里の才とは、百里四方の地を治める県令の官職であり、

          卑官である。

           治中(じちゅう)は、州刺史(長官)の副官。
       
           別駕は、州刺史の巡察時の随行者である。

      そこで劉備は魯粛の進言を受けて、之を用いることにした。

       この龐統は、後に劉備が蜀に触手を伸ばした時に、作戦参謀として

       活躍する。

                        「十八史略 東漢・孝献帝」 

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(鼠に体ありて、)

     「鼠に体ありて、人に礼無し」

                  ◇ 春秋時代 ◇

      鼠には手足があるのに、人であって礼儀の無い者もいる。

         ☆ 「詩経 国風・相鼠(そうそ)」より。

       鼠を相(み)るに皮有り、人にして儀無し。

       (=鼠はその身を覆っている表皮が目につくが、人であって大切な

        礼儀が身に付いていないという事もある。)

         ※ 鼠の表皮と人の礼儀を同等視しての揶揄。

       人にして儀無きは、死せずして何を為さん。

       (=人であって礼儀が無いというのは、死ぬにも等しい事なのだ。)

       鼠を相るに歯有り、人にして止(とどまる)無し。

       (=鼠には歯が有るのが分かるが、人であって能く止まる所を

        知らないという事もある。)

         ※ 絶えず伸び続ける鼠の歯と、人の自制心の無さを対比して

          揶揄したもの。 

       人にして止無きは、死せずして何をか俟(ま)たん。

       (=その能く止まる所を知らない人は、死を選ぶ以外に何事も

        守ることは出来ない。)

       鼠を相るに體(体)有り、人にして禮(礼)無し。

       (=鼠には手足が有るが、人であって礼儀が無い者もいる。)

         ※ 鼠の体と、人の礼が一体不可分なものと見做した揶揄。

       人にして禮無きは、胡(なん)ぞ遄(すみ)やかに死なざる。

       (=人であって礼を知らない者は、どうして早く死なないのか。)

             

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(君臣水魚の交わり)

     「君臣水魚の交わり」

                  ◇ 後漢(東漢)時代 ◇

      君臣の間の離れ難い非常に親密なことの喩え。

      魚は水があってこそ生きられるという事の例を以て、欠くことの

     出来ない友の存在を喩えたもの。

      劉備(玄徳)が、荊州の劉表に寄寓中に三顧の礼を尽くして軍師

     として迎えた諸葛亮(孔明)との格別に親密な関係を、義兄弟の関羽と

     張飛が嫉んで劉備を非難した時、

      劉備は、

      「孤の孔明あるは猶、魚の水あるが如し。

     願わくば復(また)、言うこと勿れ」


     と言って、股肱の臣たる二人を宥めた。

         ☞ 孤とは、貴人の自称。

                      「三国志 蜀志・諸葛亮伝」

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(三顧の礼)

     「三顧の礼」

                  ◇ 後漢(東漢)時代 ◇

     「草廬(そうろ)三顧」、とも言う。 

      三度 草廬を訪ねること。

      転じて、君主などから礼を尽くして招かれること。

      また、優秀な人を礼を尽くして迎え入れることを云う。

      諸葛孔明の「出師の表」に由来する故事成語。

      後漢末、野に在った諸葛孔明の草廬を劉備が三度訪れて、三度目に

     やっと面会を果たして、天下を取る策を問うたという故事。

      中国に於いて、「三」と言う数字は、古来から尊崇されてきた数字で

     あって、 「三」と称えても、必ずしもその数に限定されるものではなく、

     縁起の良い数字として認識されてきた。

      建安十二年(紀元207年)、劉備は関羽と張飛を伴い、遥々襄陽の

     山麓に諸葛亮を訪ねてきたが、生憎 不在であった。

      そこでまた日を改めて訪れたが、またもや留守であった。

      だが劉備は三度、諸葛亮の草廬を訪れようとした。

      お供の関羽や張飛は、かくまでして孔明を訪れる劉備に対して、

     文句の一くさりも言ったが、劉備は彼らを宥めて、尚も諦めずに草廬を

     訪れた。

      遂に孔明は、劉備の篤い想いに感激し、草廬に招じ入れ、天下の事に

     ついて語り合い、此処に孔明は劉備に臣従することとなった。

      
    》 出師の表 第五段(先帝との出会いの回想)

      臣は本(もと) 布衣(ふい)にして、南陽に自ら耕す。

      苟(いやしく)も性命を乱世に全うし、聞達(ぶんたつ)を諸侯に

     求めず。

        ※ 布衣とは、無位無官の身上を云う。

           耕すは、田を耕すこと。

           性命は、生命に同じ。

           聞達とは、名声が広まり伝わること。

      先帝 臣の卑鄙(ひひ)なるを以ってせず、猥(みだ)りに自ら

     枉屈(おうくつ)し、三度 臣を草廬の中(うち)に顧みて、

     臣を諮(はか)るに当世の事を以ってす。 

         ※ 卑鄙とは、卑しい田舎者。

            枉屈は、身を折り曲げて屈むこと。

            草廬の中に顧みるとは、粗末な吾が庵をお訪ねになること。

            当世の事とは、時世についての対策。

      後 傾覆に値(あ)い、任を敗軍の際に受け、命(めい)を危難の間

     に奉じ、爾来二十有一年なり。

        ※ 傾覆に値うとは、

          建安十三年(紀元208年)、逃走する劉備がなおも猛追

         して来た曹操の精鋭軍と長阪坡で戦って惨敗を喫し、命辛々

         僅かばかりの伴廻りに護衛されて逃走した敗北を云う。

          任を敗軍の際に受けとは、

          その敗走途中、別働隊を指揮する関羽と漢津で出会い、

         さらに江夏太守の劉琦(亡き荊州の牧・劉表の子)の軍勢と

         合流して夏口に集結したが、その折に呉の孫権と盟約を結ぶ

         大役を引き受けたことを云う。

          命を危難の間に受けとは、

          後 諸葛孔明の働き劉備と呉の孫権との盟約が成り、所謂

         曹操軍の南進を呉と共に「赤壁」で押し止めたことを云う。

          

                  「三国志 蜀志・諸葛亮伝」、

                  「出師の表」

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(伏竜鳳趨)

     「伏竜鳳趨(ふくりょうほうすう)

                  ◇ 後漢(東漢)時代 ◇

      才能がありながら機会に恵まれず、その天与の才を発揮できない者

     の喩え。

      また、その将来が期待される有望な若者の喩え。

      伏竜は、想像上の瑞兆の動物である竜が、身を隠しているとの意であり、

     優れた人物に喩えられる。

      鳳雛は、想像上の瑞兆の大鳥である鳳凰の雛を意味し、偉大な人物の

     成長前の過程に喩えられる。

     》 伏竜・諸葛孔明の登場 《   紀元207年

      一時期ではあるが、劉備の参謀役を務めた徐庶(じょしょ)が、事情が

     あって劉備の元を離れる際に、劉備に助言したことがあった。

      「隆中山麓に諸葛孔明と言う隠士がいますが、彼は所謂 眠れる竜

     です。一度お会いになられたら宜しゅうございます」と。

      徐庶が去った後のある日、劉備は荊州の名士と言われる司馬徽(き)

     を襄陽に訪ねた。

      劉備は、司馬徽に当代の人物について問うた。

      司馬徽は言う、

      「時務を知る者は駿傑に在り。この間 自ずから伏竜・鳳雛有り。

      即ち諸葛孔明、龐士元なり」と。

        ☞ 諸葛孔明、名は亮。龐士元、名は統。

      その頃、同じ襄陽の西方の隆中山麓に、琅邪(ろうや)出身の諸葛亮が

     寓居していたが、心の内では常に、自らを古の管仲や楽毅(がっき)に

     比しながら、書を読み策を練りつつ身を地に伏して隠棲していた。

      そこで劉備は日を改めて、関羽と張飛を伴い道程を遠きとせず、

     孔明に会うべく隆中山麓の草廬を訪れた。 

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(髀肉の嘆)

     「髀肉の嘆(ひにくのたん)

                              後漢(東漢)時代

      「髀裏(ひり) 肉を生ず」とも。

      好機に恵まれず、持てる実力や才能を発揮することが出来ないことを

     嘆くこと。

      脾肉は股の肉であり、人は乗馬の習慣がつくと、股の内肉はすり減って

     身が締るものだが、反対に馬に乗る機会が減ると、股の内側の肉が肥え

     てしまうのである。

     》  劉備の不遇時代 《

      劉備(字は玄徳)は中平元年(紀元184年)に黄巾の乱の際、

     義勇兵に応募してから、関羽、張飛らを率いて各地の豪族に寄食し

     ながら変転極まりない生き様をしてきた。

      だがその内、それなりに将の器としての名を高めていった。

      建安四年(紀元199年)には、小沛で一時自立したものの、呂布に

     敗れ、曹操にも敗れ、袁紹を頼ったりした。

      その後 建安六年には、荊州の劉表を頼る事になった。

      劉備が劉表を頼った頃、曹操は既に華北を制圧し、呉の孫権も勢力を

     固めつつあった。

      劉備はと言うと、天下雄飛の野望の無い劉表の下で、新野と言う小城を

     預かる客将に過ぎなかった。歳は既に、五十歳になろうとしていた。

      関羽や張飛と言う剛の者はいるが、帷幄の臣と為るべき参謀はおらず、

     未だに拠るべき地盤も軍勢もなかった。

      いつになったら馬上で天下に覇を称えられるか、切歯扼腕しての日々を

     送っていたのである。

      そうした或る日のこと、劉表と酒を酌み交わした際、つと廁に用を

     足しに行ったが、いつの間にか自分の腿に贅肉が付いているのに

     気付いて愕然とした。

      劉備は宴席に戻ると、思わず涙がこぼれ落ちた。

      劉表が怪しんで、その訳を尋ねると、劉備は、

      「常時、身 鞍を離れず、脾肉 皆消す。

      今 また騎(の)らず、脾裏、肉を生ず。

      日月 流るるが如く、老いの当に至らんとするに、功業建たず。

      ここを以って悲しむのみ」、と詠嘆した。

                          「三国志 蜀志・先主」 

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(蔡琰の悲劇)

     「蔡琰の悲劇」

                 ◇ 後漢(東漢)時代 ◇

      後漢末、漢の名士として知られた蔡邕(さいよう)には、文才豊かな

     蔡琰(えん。字は文姫)と言う娘がいた。

      蔡琰は一度は結婚したが夫に死に別れ、子供も無かったので実家に

     帰っていた。

      時に後漢末は、戦乱に明け暮れる激動の時代であった。

      或る日のこと、彼女は運悪く異民族の匈奴に略奪され、その地の王の

     妻にされて、既に子供を二人生んでいた。

      だが望郷の想いは忘れ難く、悶々とした日々を送っていた。

      この文姫は父の学を受け継いでおり、博学で而も音楽も能くし、文筆

     にも長じていたので、後に至り魏の曹操は命により、身代金を匈奴の王

     に払って彼女を帰国させた。

      だが彼女にとっては、愛する二人の我が子を匈奴の地に残さねば

     ならないという無念さと、果てることのない望郷の念と言うジレンマに

     悩まされた上での辛く悲しい帰国でもあった。

      この匈奴の王との間にできた二人の子供との別れを惜しむ五言の

     長詩は、千古の絶唱であると謂われる。


     ♪ 蔡琰 「悲憤の詩二首 其の一」
      
        漢季 権柄を失い、董卓 天常を乱す 。

        (=漢の末期、天子や朝廷はその実権を失い、群雄割拠の

         時代を迎えたが、董卓はその機に乗じて、天の摂理に悖る

         行いをした。)

        志 簒弑(さんし)を図らんと欲して、先ず諸賢良を害す。

        逼迫して旧邦に遷(うつ)らしめ、王を擁して以って自らを

       強うす。

        (=天子に迫って洛陽から旧都の長安に遷都させ、王を擁して

         自分の権勢を強化しようとした。)

        海内 義師を興し、共に不祥を討たんと欲す。

        卓が衆 来たって東下し、金甲 日光に輝く。
     
        (=董卓の大部隊が東下し、その兵士の鉄製甲冑は光に輝き、

         勢いも盛んであった。)

        平土の人 脆弱なるに、来たりし兵は皆 胡羌なり。

        (=中原の人々はひ弱なのに、来た軍勢たるや屈強の胡羌の

         兵たちであった。)

        野に猟して城邑を囲む、向う所 悉く破亡す。

        (=原野で猟をするかの如く城下を包囲して、向うところ敵なし

         の凶暴さで、尽く破却してしまった。)

        斬截(ざんせつ)せられて孑遣(げつい)なく、

       尸骸(しがい) 相(あい)撐拒(とうきょ)す。

       (=城下の人々は尽く切り裂かれて生き残った者は無く、その

        死骸が互いに重なり合うという有様であった。)

         ☞ 孑遣は、生き残りの人。

            撐拒は、折り重なる事。

        馬辺に男頭を懸け、馬後に婦女を載(の)せ、

        長躯して西の方 関(かん)に入る、迥路(けいろ)険にして

       且つ阻なり。

          ☞ 迥路は、遥かなる道。

      かくして、蔡文姫は他の多くの婦女と共に遠い異国の胡地に連行され

     たが、胡人の妾にされて、子を二人生(な)した。

      しかし胡地は人情風俗ともに中華とは異なり、人倫に欠けており、

     且つ極寒の地であり雪や霜も多く、凌ぎやすいものでは無かった。

      そんな訳で折に触れては、 故郷と親を思い悲嘆に暮れる毎日で

     あった。

      それから何年かが過ぎて、彼女に思いがけない幸運が舞い込んだ

     のである。

      彼女の文才を惜しんでいた魏の曹操が、彼女に救いの手を差し

     伸べたのである。 

      だが胡国の決まり事として、吾が腹を痛めた子であっても、子供を

     連れて帰国することは許されなかった。

      今 帰国すれば、それは永遠の母子の別れでもあった。

      それを思うと、子供たちとの別れの挨拶など出来るものでは

     なかった。

       児は前(すす)んで我が頸を抱き、

       問う、

       「母は何(いずく)に之(ゆ)かんと欲する、

       人は言う、

       “母は当に去るべし、豈に復た帰る時 有らんや”

      と。

       阿母(あぼ)常(かっ)て仁惻なるに、今 何ぞ更に慈ならざる。

       我 未だ人と成らず、奈何(いかん)ぞ顧思せざるや」と。

       (=僕らはまだ一人前でないのに、どうしてもう一度考え直して

        くれないの。)

         ☞ 仁惻(じんそく)とは、愛しみ悼むことで、

           とても優しいの意。

       此れを見て五内(ごだい)崩れ、恍惚として狂癡(きょうぎ)を

      生ず。

       号泣して手もて撫摩し、発するに当たって復た回(かえ)り疑う。

       (=これを見て我が手を撫でこすって声を挙げて哭き、

        頭はボーとしてしまい常態を失ってしまった。

         涙を噛みしめながら確りと抱きしめ、心を鬼にして出立しよう

        としたが、再び逡巡するばかりであった。)

         ☞ 狂癡は、常軌を逸すること。 

       

       
        

      

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    テーマ : 詩経・漢詩・詩賦等
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    中国通史で辿る名言・故事探訪(悪を悪むは其の身の止まる、)

     「悪を悪(にく)むは其の身に止(とど)まる、

      何ぞ乃ち上(のぼ)って祖父に及ぶ邪(や)

                   ◇ 後漢(東漢)時代 ◇

     人を悪人として憎むのは、其の本人 一代限りの事である。

     どうして悪に手を染めていない先祖にまで憎しみが及ぶのか。

     》 官渡の布陣 《

      荊州の北方の南陽郡の張繍を自らの陣営に組み込んだ曹操は、

     建安四年十二月 二万の軍勢を率いて、河南北方の要衝である官渡

     に陣取った。

      ※ 曹操のこの二万の軍勢に付いては、三国志の補注者

       である裴松之(はいしょうし)は、軍馬も含めて兵員の数が

       極端に少な過ぎると批判する。

      建安五年二月、遂に袁紹は軍を発して自ら華北南方の黎陽

      (れいよう)に出陣し、黄河を挟んで曹操軍と対峙することになった。

      袁紹率いる軍団は、精兵十万と騎兵一万に及んだ。

      この出陣に際して、袁紹配下の陳琳(ちんりん)が檄文を書いた。

      その文中には、曹操本人に限らず、その父や祖父に至るまで手厳し

     く罵倒し、侮蔑した文言があった。

     ☆ 「後日譚」 

        陳琳は、袁紹が曹操と雌雄を決する官渡の戦いで敗れた後、

       曹操が魏王となった時、その文才を見込まれて魏に迎え入れられ、

       さらに後には、「建安七子」の一人として詩文で活躍するように

       なった。

        ここでも曹操は、人の才能を重んじて己の私怨を棄て去るという、

       前向きな良い面をさらけ出した好例でもあった。

        その陳琳を迎え入れるに際して、曹操はそれでも、「春秋公羊伝」

       の文言を引用して、己の心中をさりげなく言っただけであった。

        「悪を悪むは其の身に止まる、何ぞ乃ち上って祖父に及ぶ邪」と。

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    テーマ : 中国古典・名言
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    中国通史で辿る名言・故事探訪(弱い方に付かば、)

     「弱い方に付かば、出世 早し」

                  ◇ 後漢(東漢)時代 ◇

      敵対する勢力同士では、その劣勢な方に味方して万が一に勝利

     でもすれば、功績も大きく栄達も早い。

     》 官渡の戦い 《   紀元後200年

      河南の曹操と河北の袁紹が、雌雄を決すべく官渡に於いて戦った。

      建安四年(199年)、袁紹は幽州の公孫瓉を攻略して、今や冀州・

     青洲・并州・幽州の四州を治め、河北平原をほぼ掌握し、その兵力は

     十万余となっていた。

      一方、曹操は許を中心に河南を部分的に治めてはいたが、その動員

     兵力は二 万に過ぎなかった。

      しかし曹操には、後漢王朝の献帝を擁する強みがあった。

      「前哨戦」
     
      八月人ると、曹操は黎陽(れいよう)に軍を進め、臧覇(ぞうは)

     らを青洲に侵入させて、斉・北海・・東安を撃破し、于禁を黄河の河岸

     に駐屯させ、九月には自らは一旦帰国したが、兵を分けて官渡を守ら

     せた。

      十一月になると、袁紹は曹操と敵対感情を持っている荊州南陽郡の

     張繍(しゅう)を自軍に招くべく、張繍の元へ使者を派遣した。

      この張繍は袁紹の使者と会見するまでに、使者の口上を聞くまで

     もなく、同意するつもりであった。

      ところが、公式の会見の席上で、張繍の参謀・賈詡(かく)がそれと

     なく張繍に目くばせし、使者に対して公然と言い放った。

      「袁本初(紹)にお伝えください。

       兄弟でさえ受け入れることが出来ない者が、どうして天下の国士を

     受け入れられましょうか」と。

      即ち、最も身近な身内にある従弟の袁術との不仲を揶揄して、

     断りの口上としたのである。

      張繍にしても、この時 即座に賈詡の発言を否定する強い信念は

     無かったのである。

      使者との会見の後、張繍は賈詡に言った。

      「どうして、そこまでハッキリ言ったのか。今後は誰に付けばよい

     かな」、と。

      賈詡は、そこで曹操に従うのが最善である、と言上した。

      張繍は言う、

      「袁氏は強く曹氏は弱し、しかも、この曹氏とは我は仇敵の間柄に

     ある。彼に従うというのは如何なものか」と。

      賈詡は張繍の疑念に応えて、

      「そもそも曹公は、天子を奉じて天下に号令しております。これが従う

     べき第一の理由です。

      袁紹の勢力は他を圧するほど強大だから、我が方が少数の軍勢を

     率いて従ったとしても、思うほど我らを尊重しないに相違ありません。

      それに比べて、曹公の方は勢力が弱小ですから、我らが味方に

     付けば大いに喜ぶに相違ありません。これ従うべき第二の理由です。

      また天下支配の志を持つ程の者は、当然に個人的な怨みごとを

     忘れ、徳義を四海に及ぼそうとするものです。これが第三の理由です。

      どうか御大将には、躊躇なさることの無きよう、ご熟考なさって

     下さい 」、と。

      賈詡の同盟選びの信念は、

      所謂 「弱い方に付かば、出世早し」と言う、功利・打算的な

     ものであった。

      張繍は、賈詡の進言に従って、過去の拘り、恩讐を一切棄て去り、

     曹操陣営に加わった。

      曹操もこの時期、当に雌雄を決する時でもあり、過去の経緯は忘れ、

     喜んで彼を迎え入れた。

                    「三国志 魏書」、「十八史略」

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(江東を保つは、)

     「江東を保つは、我 卿に如かず」

                  ◇ 後漢(東漢)時代 ◇

     》 孫策の死 《  紀元後200年

      呉の孫策は建安5年、配下の呉郡太守・許貢が曹操に通じたので

     処刑した。

      そして孫策は次なる戦略として、曹操の根拠地の許を襲って、献帝を

     奪う計略を回らしていた。

      ところが出陣前に行った狩猟中に、先に処刑した許貢の配下に

     待ち伏せされて狙撃された。

      その後、この時に受けた傷が悪化して、無念の死を遂げた。

      孫策 享年二十六歳であった。

      孫策は死に臨んで、弟の孫権を枕元に呼び寄せ、呉の将来を

     託した。

      孫策は、まだ年若い弟を教導すべく語り聞かせた。

      「江東の衆を挙げて、機を両陣の間に決し、天下と衡を争うは、

     卿 我に如かず。

      (=江東の多くの将士を率いて、戦機を物にし、天下を相手に

       勝敗を争うのは、弟よ、お前は我に及ばない。)

      しかれども、賢を任じ能を使い、各々其の心を尽くさしめて、以って

     江東を保つは、我、卿に如かず」と。 

      (=しかし、部下の的確な任用と効率的人事を行い、人心掌握に

       遺憾無きを発揮して、江東の地を墨守することでは、我はお前に

       及ばない。) 

      そのように語った後、孫策は次の如く遺命し、後事を託した。

      「三江の要害を頼みにして形勢を見守れ、国政のことは張昭に、

     外交軍事のことは周瑜(しゅうゆ)に相談せよ」、と。

      時に孫堅は、十九歳であった。だが、孫策が父・孫堅の跡を

     引き継いだ時には、十七歳であった。

                               

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    テーマ : 中国古典・名言
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    中国通史で辿る名言・故事探訪(天下の英雄は、)

     「天下の英雄は、ただ使君(しくん)と操のみ」

                  ◇ 後漢(東漢)時代 ◇

     》 劉備、曹操に決別す 《   紀元後200年

      劉備が曹操陣営の客将となっていた時のこと、後漢王朝の車騎将軍・

     董承は、献帝の密勅と偽って、劉備を曹操殺害計画に加担させようと

     謀ったっ事があった。

      そのような状況下のある日、曹操は宴席に招いた劉備に対して、

     悠揚迫らぬ態度で劉備に語った。

      「今、天下の英雄は、ただ使君と操のみ」と。

         ☞ 使君とは、本来は天子の命を受けて使いする勅使のこと

          であるが、漢の時代には、州の長官たる刺史にも尊称として

          用いられた。

      劉備は、密かに董承の謀議に参画していたので、己の心中を

     見透かされたかと思って、驚きの余り手にしていた匕(さじ)と箸を

     取り落してしまった。

      だが当に天の援けというべきか、その時、偶然にも天を裂くばかり

     に雷鳴が轟いたので、劉備はこれ幸いとばかりに、

      「聖人(孔子の意)と謂えども、迅雷風烈には必ず変ず(動揺する),

     と言いますが、真に故ある事ですな」と理由をこじつけて説明し、

     その場は何事もなく収まった。

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    テーマ : 中国古典・名言
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    中国通史で辿る名言・故事探訪(陸績 賓客となりて、)

     「陸績 賓客となりて、橘を懐にす」

                  ◇ 後漢(東漢)時代 ◇

      親に孝行を尽くすことの寓話。
     
      後漢末、陸績(字は公紀)は、今は亡き揚州の盧江太守であった

     陸康の子で、 当年 六歳であったが揚州九江の寿春で袁術に

     見(まみ)えた。

      袁術は陸績が子供のこととて、茶菓子として橘(柑子蜜柑)を

     出したが、陸績はその内 三枚をそっと懐にした。

      そして、後 袁術の下を去る時、拝礼した際に懐の橘を下に

     落してしまった。

      袁術は、

      「陸郎、何ぞ即ち賓客となりて、橘を懐にするや」と。

        ※ 袁術にしてみれば、幼きながらも賓客として遇しているのに、

          どうして我欲を為すのかと、不審に思ったのである。

      陸績は、膝まづいて言った。
      
      「帰りて母に遣(や)らんと欲す」と。

      袁術はこれを奇として、幼き心にてそのような心づけは古今稀なり、

     と褒め称えた。

      陸績は後、長じては、博学多識、星暦算数など、通ぜざるもの無し

     と称えられるようになり、呉の孫権に仕え、直道を以って憚られた。


     ☆ 元の時代、郭居敬は、古から現在に至るまでの、儒教的

      親孝行な者、二十四名を選んで「二十四孝」を撰述。

       其の1に陸績を置く。 

            孫寿「三国志 呉書」、郭居敬「二十四孝 陸績」

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    テーマ : 神話伝説逸話
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    中国通史で辿る名言・故事探訪(望梅止渇)

     「望梅止渇(ぼうばいしかつ)

                  ◇ 後漢(東漢)時代 ◇

      喉の渇きを癒すこと。

      或いは、喉の渇きを一時的に凌ぐことの喩え。

      梅林を望みて渇きを止めるの意。

      ある時、曹操率いる軍団が、征旅の行軍中に水源を見失って、

     軍兵の多くが喉の渇きを訴えた。

      兵の士気に影響することで多大もあり、その訴えに対して曹操は、

     取り敢えずは急場を凌がせようと、詐言を以って彼らの喉の渇きを

     癒そうとした。

      「もう暫らく行くと、大きな梅林があり。

       実がたわわに実っているので、喉も癒せようぞ」、

     と鼓舞した。

                          「世説新語 仮譎篇」

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(清平の姦賊、)

     「清平(せいへい)の姦賊、乱世の英雄」

                  ◇ 後漢(東漢)時代 ◇

      天下泰平の世に在っては、人に嫌われる邪悪な賊徒となり、

      世が乱れれば、世の中を動かすほどの大人物になる、

      と言う人物占い。

        ☞ 清平とは、世の中が清らかに治まっていること。

      後漢末、黄巾の乱の鎮圧で功のあった曹操は、当時 汝南に

     おいて人物占いで評判の高かった許由(きょゆう)を訪れ、半ば

     威圧して占ってもらったところ、

      「清平の姦賊、乱世の英雄」と言う人物評価を得た。

      実の所、許由自身によるこの評価は、高いものではなかったと

     言われる。

      だが曹操は、気を良くして帰った。

      後漢の末期は、官吏登用のための孝廉などの制も廃れ、代わって

     人の噂や占いによる人物評価が盛んで、名士と言われる著名人に

     己の名を知られることは、世に出るための有力な手段でもあった。

      若き日の曹操も、当時において名士と言われた橋玄に勧められて、

     人物評価に長けた名門貴族出身の許劭(きょしょう)に会った。

      許劭は、従弟の許靖と一緒になって、郷党の人物について、

     毎月一日になると占いに批評を加えて人物評価をした。

      その人物評価は、郷里の人々の人気を博し、また高い評価を

     得ていた。

      そのような事情もあって、彼ら二人の占いは「月旦評

     (げったんひょう)」と言われるようになっていた。

                         「後漢書 列伝許劭・月旦」 

      

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(門を出ずれども見る所無く、)

     「門を出ずれども見る所無く、

      白骨は平原を蔽う。」


                  ◇ 後漢(東漢)時代 ◇

      一度、都城を出たけれども以前の光景は全く無く、ただ白骨ばかり

     が原野となった大地を蔽っているという惨状である。

        ☞ 門とは城郭都市の主要門であり、開門時間には、人馬や

         物資の出入りする入り口でもある。

        王仲宣(王粲) 「七哀詩二首」其の一

         西京は乱れて象(しょう)無く、

        犲虎(さいこ) 方(まさ)に患を遘(構)う。

         (=後漢の西の都・長安は戦乱に巻き込まれて無法状態

          となり、まさに山犬や虎のような者が次々と災難を

          もたらした。)

            ☞ 象は法度とか法律。

         復た中国を棄て去り、身を遠ざけて荊蛮に適(ゆ)く、

         (=そこで、またまた中原の地を見捨てて、南方の荊州を目指

          すことになった。)

           ☞ 荊蛮とは、中国文明の中心地と考える中原地方の

            人々の、南方の諸国に対する蔑称。

         親戚は我に対して悲しみ、朋友は相 追攀(ついはん)す。

         (=親戚の者は私のことを悲しみに思い、友は追いすがり

           別れを惜しんでくれた。)

         門を出ずれども見る所無く、白骨は平原を蔽う、

         (=都城は出たけれども以前の光景は無く、白骨ばかりが

          平原を蔽てていた。)

         路に飢えたる婦人あり、子を抱きて草間(そうかん)に棄つ。

         (=途中、飢えで痩せ細った婦人がいて、子を抱いていたが

          その子を草の間に棄てる姿が目に入った。)

         顧みて号泣の声を聴き、涙を揮(ふる)いて独り還らず、

         (=婦人は吾が子の泣き叫ぶ声を耳にして振り、涙を振り

          絞って立ち去り難そうであった。)

         未だ身の死処を知らず、何ぞ能く両(ふた)つながら

        相(あい)完(まった)からん。

         (=自分自身がどこで死ぬかも知れないというのに、

          どうして親子ともども無事に生き永らえようか。)

         馬を駆って之を棄て去り、此の言を聞くに忍びず。

         (=私はその言葉を聞くに堪えられず、馬を足早に走らせ

          て立ち去った。)

         南のかた覇陵の岸に登り、首(こうべ)を廻(めぐ)らして

        長安を望む。

         (=そのまま南に進んで覇陵の岸に登り、振り返っては

          長安の方を眺めた。)

         悟る彼の下泉(かせん)の人、喟然(きぜん)として心肝を

        傷ましむるを。

         (=この戦乱で亡くなった黄泉の人たちの、その心の痛みが

          どれ程のものであったか、痛いように分かるのである。)

             ☞ 喟然とは、感に堪えぬ様。

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(雲中白鶴)

     「雲中白鶴(うんちゅうはっかく)

                  ◇ 後漢(東漢)時代 ◇

      高潔な人の喩え。

      世俗を超脱した高尚な境地に入る人を言う。

      雲の中を飛翔する白鶴の意。

     》 邴原、遼東を去る 《

      邴原は遼東王の公孫度に礼遇されていたので、彼がいざ故郷に

     帰ろうとした時、公孫度は許そうとしなかった。

      その為 邴原は、密かに遼東を後にした。

      後に其れと知った公孫度は、最早 邴原を再び呼び戻すことは

     出来まいと断念し、邴原の人物像を評して言った。

      「所謂 雲中の白鶴なり。燕雀の網の能く網する所に非ざるなり」と。

      (=彼は言うならば、雲中の白鶴である。

        燕や雀のように網で捕えられるものではない。)

      故郷に帰ってからは、礼楽、詩経、尚書を講義し、吟誦した。

      そんな彼のもとには、多くの門下生が集まった。

      後に魏の曹操が司空になると、邴原を東閣祭酒に任じたが、実務に

     携わる事は無かった。

      だが、曹操を始め荀彧らの士に益々尊崇されるようになった。

                  「三国志 魏書・邴原伝 注・邴原伝」

    テーマ : 中国古典・名言
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    中国通史で辿る名言・故事探訪(東隣の丘)

     「東隣の丘(ひがしどなりのきゅう)
                  ◇ 後漢(東漢)時代 ◇

      「東家之丘」とも。

      人を知ることの明なきことの喩え。

      東隣にある孔子の家の意。

        ☞ 丘とは孔子の諱。

      孔子の家の西隣に住む愚か者は、ごく身近にいる孔子の偉大さに

     気付かず、単に東隣の丘だと思っていた。

      後漢末 邴原は若かりし頃のある日、遠くに遊学したいと思うように

     なり、意を決して安丘の孫崧(そんすう)の元を訪れた。

      ところが孫崧は、彼を受け入れられないと言いつつ、

      「君の故郷の鄭君(鄭玄のこと)を君は知っているかね」と尋ねた。

        ※ 鄭玄(じょうげん)⇒ 後漢末の大儒学者。
      
      邴原は、「はい」と答えた。

      孫崧は言う、

      「鄭君の学問は、古今を通覧し、博聞強記で、事物の奥底にある

     真理を探し出し、真に学者の師表と言える。

      君はその彼を差し置いて、千里を旅して来たわけだが、言って

     みれば、鄭君をただの「東隣の丘」扱いしていることになるのでは

     ないか。

      君はそれが分からずに、‘はい’と言ったようだが、如何かな」と。

      邴原は言った、

      「先生のお説は、実際 苦い薬・良い鍼とも言うべきものです。

     しかしながら、私のささやかな気持ちを理解なさっていないようです。

      人にはそれぞれ希望があり、求めることは同じではありません。

      山に登って玉を求める者もあれば、海に入って真珠を採る者もいる

     のです。

      山に登る者は海の深さが分からず、海にはいる者は山の高さが

     分からない、と言います。

      貴方は私が、鄭を「東隣の丘」扱いしていると言われましたが、

     貴方も, 私をその

     「西隣の愚者」と同様に思っておられるのでしょうか」と。

      そして結局、邴原は孫崧に受け入れてはもらえなかったが、孫崧は

     別れ際に、「私の知っている兗州・豫(予)州の人物では、君ほどの人は

     いなかった。君の援けになればと思い、書物を差し上げよう」と。

      邴原はその気持ちを尊重して、辞退し難かったので、書物を貰って

     別れた。

      だが帰郷してから、書物を孫崧に返し、書物を必要としない自分の

     気持ちを改めて説明した。

      邴原の思いには、師を求めて学問するのは、気高い思想を持って

     いる者と通じ合うためであって、分け合うというような交際とは同じに

     非ずと考えていたのである。

                         「三国志 魏書・邴原別伝」

       「東家之丘」と言うのは、顔之推「顔氏家訓」に拠る。

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    テーマ : 中国古典・名言
    ジャンル : 学問・文化・芸術

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(窮鳥入懐)

     「窮鳥入懐(きゅうちょうにゅうかい)
                  ◇ 後漢(東漢)時代 ◇

      困窮して頼って来る者があれば、頼られた者は憐れんで援けるべき

     ことの喩え。
      
      追い詰められた鳥が、逆に人の懐に飛び込んでくるの意。

     》 邴原、遼東に避難す 《   紀元190年

      董卓が朝政を牛耳っていた頃、遼東では襄平出身の公孫度が自立

     して、遂には社稷を建立して、遼東王を名乗っていた。

      時に、北海郡朱虚の名士・邴原(へいげん。字は根矩)は、黄巾の乱

     を避けて、遼東に避難していた。

      邴原は避難する前、北海郡で「有道」として推挙され、渤海の

     相・孔融からも説得されて、官僚として身を立てることを要請され

     ていた。

      だが時に天下は当に大混乱の様相を呈していたので、危難を

     避けようとした。

      その頃 遼東では公孫度(こうそんたく)の威令が国外にまで行き

     渡っていると聞き、咸寧や王烈と共に遼東に移住して来たのである。

      公孫度は大いに喜び、屋敷を用意して彼らを待ち受けていたが、

     邴原は公孫度に会った後、山谷に庵を結んだ。

      公孫度は、遼東王を名乗る前は、遼東の太守を務めていたが、

     郡内の劉政と云う者が武略勇気に富み、人々の尊崇と期待を担って

     いたので、それを嫉み罪に陥れようと画策したことがあった。

      そして、遂に彼の家族をすべて逮捕することが出来たが、劉政本人

     は取り逃がしてしまった。

      郡内諸県に布告が出され、妄りに劉政を匿う者は、彼と同罪とす、

     と。

      劉政は追いつめられて、名士の評判のある邴原に身を託した。

      劉政は、邴原を頼った時に彼に言ったものである。

      「窮鳥、懐に入る」と。

      邴原曰く、
     
      「安(いず)んぞ斯(こ)れ懐の入るべきを知らんや」と。

      (=どうしてこの懐に入れることが分かったのかね。)

      かくして、邴原は1カ月余り彼を匿ったが、ちょうどその頃、東萊の

     太史慈の帰郷する機会に巡り合い、邴原は劉政を太史慈に託した。

      その後、邴原は公孫度に会見し、

      「公が劉政を殺そうとなさったのは、彼が御自身の害になると

     お考えになられたからでしょう。

      今や劉政は既に逃れ、その知略が当に用いられようとしております。

      それなのにどうして、劉政の家族を拘留しておられるのですか。

      家族を許してやることこそ、今後の最善の対策と思われます。

      彼の怨みを深いものにしてはなりません」と助言した。

      公孫度はやっと彼らを釈放したので、邴原は彼らに旅費を

     工面して贈り、故郷に帰れるように計らってやった。

                     「三国志 魏書・邴原伝」

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(狼戻不仁、)

     「狼戻不仁(ろうれいふじん)、罪悪重責す」

                  ◇ 後漢(東漢)時代 ◇

      人倫に悖る野獣の如き者が、悪逆の限りを尽くして罪悪を積み

     重ねている。

        ☞ 狼戻とは、狼のように心がねじけて道理のもとること。

     》 曹操の挙兵 《   紀元189年

      董卓の恐怖政治が敷かれるや、董卓は新人事で、曹操を驍騎校尉

     に任命し、彼を政治に参画させようとした。

      だが曹操は、董卓の親政は必ず失敗するものと確信していたので、

     任命を受けずに直ちに逃亡を図った。

      追捕命令書が発布されたが、曹操は何とか逃げ帰ることが出来た。

      曹操は、故郷の陳留郡の譙(しょう)に帰りつくや、全財産を投入

     して、打倒董卓の義兵を募った。

      曹操の養父の曹嵩(そうすう)は、大長秋≪宦官の総元締め≫・

     曹騰(そうとう)の養子となり、その義父の政治力で大司馬や

     大鴻臚を歴任し、さらには1億銭を投じて「大尉」を買い取るほど

     の大資産家であった。

      曹操の実父である夏侯氏一族も、その筋の曳きで中央・地方の

     顕官となる者は多かった。

      曹操の旗揚げに、従弟の曹仁、曹洪はそれぞれ千の私兵を

     率いて馳せ参じた。

      また夏侯氏一族の夏侯惇、夏侯淵らが参集し、その他に楽進、

     陳球と言う面々が参集した。

      乗氏県の李典は、その一族及び配下の農民千余人を従えて

     呼応した。

      かくして小なりとはいえ、曹操は結束の極めて固い五千の兵団を

     有することとなった。

      さらに兗州陳留郡の太守・張邈(ちょうばく)の積極的支援もあり、

     曹操は奮武将軍を名乗るようになった。曹操、時に三十五歳であった。

      曹操は旗揚げの後、全国の有力諸侯に向けて、

      「董卓討つべし」の檄を飛ばした。

      「曹操ら謹んで大義を以て天下に告ぐ。

       董卓、天を欺き地を晦まし、君を弑し国を滅ぼす。

       宮禁(朝廷)、ために壊乱、狼戻不仁 罪悪重責す。


       今 天子の密勅を捧げて義兵を大集し、郡凶を剿滅(そうめつ)

      せんとす。

       願わくば仁義の師(軍団)を携え、来たって忠烈の盟陣に会し、

      上 王室を扶け、下 黎民(人民)を救われよ。

       檄文 至らんの日、それ速やかに奉行さるべし」と。

         ☞ 奉行とは、天子の命を受けて行うこと。

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(去る者は日々に以って疎し)

     「去る者は日々に以って疎し」

                   南北朝時代

      日本に於いて現在では、遠く離れてしまった者との交流が、段々

      疎遠となり、次第に忘れられてしまう、という風に解されるように

      なった。   

       文選「古詩十九首 無名氏・其の十四」

        
         去る者は日々に以って疎(うと)く

           (=世を去った者は、日ごとに忘れられる。)

         来る者は日々に以って親しむ。

           (=身近に生きている人は、日ごとに親しさを増す

            ものである。)

         郭門(かくもん)を出でて直視すれば

           (=城門を出てみて、周囲をよく見渡すと、)

         但(た)だ丘(きゅう)と墳を見るのみ

           (=目に入ってくるのは、丘陵と墳墓だけである。)

         古墓は犂(す)かれて田(でん)と為り

           (=「古くなった墳墓は、いつしか耕されて田畑となり、)

         松柏は摧(くだ)かれて薪(たきぎ)となる

           (=墓の側に植えられていた松柏(松やカエデ)は伐採

            されて薪になってしまう。)

         白楊 悲風多し

           (=柳の木に当たる風は、悲しみに満ちて、)

         蕭々(しょうしょう)として人を愁殺す

           (=寂しそうな音を出しては、人の心を愁い悩ます。)

         故(もと)の里閭(りりょ)に還らんと思い

          (=故郷に帰って、邑里の入り口の門をくぐろうと思うが、) 

         帰らんと欲するも道 因(よ)る無し

           (=帰ろうとしても、最早 帰るべき寄る辺も無いのだ。)

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    テーマ : 詩経・漢詩・詩賦等
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    中国通史で辿る名言・故事探訪(西園八校尉)

     「西園八校尉(さいえんはつこうい)

                  ◇ 後漢(東漢)時代 ◇

      後漢末、朝廷では天下騒然となって来たので、国都の軍備を増強

     する目的で、霊帝の直属部隊として八つの軍団の「西園(さいえん)

     が創設された。

      霊帝の信任する宦官で十常侍の筆頭である蹇碩(けんせき)は、

     八校尉の総司令官かつ「上軍校尉」として一軍を預かった。

        ☞ 十常侍とは、当時の朝廷内における主だった宦官十人

         の内廷官職名。
      
      その他の軍団の長には、当時の俊秀気鋭の官僚が任じられ、

     八人の校尉を「西園八校尉」と称した。

      蹇碩の上軍校尉の他には、虎賁中郎将(こほんちゅうろうしょう)の

     袁紹が「中軍校尉」に、屯騎校尉の鮑鴻(ほうこう)が「下軍校尉」に

     任ぜられた。

      議郎の曹操は「典軍校尉」に任ぜられ、趙融と馮芳(ふうほう)が

     「助軍校尉」、夏牟(かぼう)と淳于瓊(じゅんうけい)がそれぞれ

     「左・右校尉」に任ぜられた。 

    テーマ : 中国古典・名言
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    中国通史で辿る名言・故事探訪(桃園結義)

     「桃園結義」

                  ◇ 後漢(東漢)時代 ◇

      義兄弟になることの誓い。

      後漢末、張飛の家の庭の桃園に於いて、劉備(字は玄徳)を

     兄として、関羽(字は雲長)と張飛(字は益徳)が長幼の弟なり、

     お互いに死ぬときは同月同日に死ぬことにして義兄弟の約を結んだ

     故事。

      劉備と張飛は、同郷で涿(たく)県の人。関羽は解県の人。

                   羅貫中「三国志演義 桃園結義」」

      ※ この結義と言う言葉は、宋代に流行った「秘密結社」の血盟の

       儀式を反映したものと言われており、桃園結義は事実ではなく

       三国志演義の粉飾である。

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(蒼天已に死す、)

     「蒼天 已に死す、黄天 当に立つべし」

                  ◇ 後漢(東漢)時代 ◇

      後漢王朝は既に亡びかけている今こそ、我らの黄天の世を

     立ち上げるべし。

        ※ 蒼天は天の神、即ち天帝の意であり、ここでは天命を

         受けた後漢王朝のことである。

          黄巾の乱を引き起こした太平道は、すべての信者に黄老思想

         の象徴色である黄色の鉢巻を締めさせた。

          そして、彼らの目指す世が黄天であった。

     》 黄巾の乱 《   紀元184年

      農民を主体とした宗教団体の太平道は、黄老思想の流れと

     見做されて、当初は善道として容認されていたが、やがて被支配階級

     の農民の精神的支柱となり始めるや、体制破壊或いは国家転覆

     の危険性が大きくなるとして、朝廷による弾圧が加えられるように

     なった。

      その結果、太平道の信者を硬化させ、遂に暴発の導火線に火が

     付けられた。

      太平道の領袖である張角および彼の二人の弟である張宝と張梁は、

     先導に立ち上がった。

      この太平道は、鉅鹿を拠点にしていたが、張兄弟は、護符と神水

     を用いて病気を治すという妖術もどきを駆使して、貧しい人民に絶大

     な人気を博していた。

      評判が評判を呼んで、張角は当初 五百人を弟子として集め

     教祖となった。

      やがて瞬く間に、信徒は数万を数えるようになり、「太平道」と言う

     宗教集団を形成した。

      張角は弟や弟子を各地に派遣して布教に務め、十年ならずして

     その信徒は数十万に膨れ上がった。

      各地の布教支部を「方」と呼び、大きな支部は信徒数万、小さなもの

     で六~七千の組織となっていた。

      やがて朝廷の弾圧が日ごとに厳しくなると、張角兄弟は、搾取に

     泣く人民を救済して王朝の乱れを正すと称して、檄を飛ばした。

         「蒼天 已に死す、黄天 当に立つべし

         歳は甲子(きのえね)に在り、天下大吉ならん」


         (=漢王朝は既に亡びてしまった。今や太平道による新しい

          王朝を創るために立ち上がるべきである。

           歳は大異変を生ずると謂われれる、甲子の革令(かくれい)

          である。天下を鎮めて大吉と為ろう。)  

      張角は全信徒に黄色の鉢巻を締めさせたので、この農民反乱を

      「黄巾の乱」と言う。

       張角は漢王朝を「蒼天」と言うが、陰陽五行説によれば、漢王朝は

       火徳であるから、正しくは「赤(または朱)天」と言うべきで

       あろう。

        古来しばしば大異変が生じ、縁起悪しとされた歳を

       「三革(さんかく)」 と称された。

          1 甲子(きのえね。かっし)の革令

          2 戊午(つちのえうま。ぼご)の革運

          3 辛酉(かのととり。しんゆう)の革命  

      

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(銅臭)

     「銅臭」

                  ◇ 後漢(東漢)時代 ◇

      財貨を以って官爵を得た人を侮蔑する言葉。

      或いは、財貨を貪る人を嘲る言葉でもある。

      当時の流通貨幣である銅銭至上主義、即ち錢万能主義者に

     対する良識ある者の侮蔑の意思表現である。

      霊帝の時代、皇帝自ら鴻都門を開き、立札を立てて官爵を売買

     するという銅臭政治を行い、賄賂がまかり通る悪政を行った。

        ※ 鴻都門とは、紀元177年に霊帝が、書画に優れた者

         を集めて、鴻都門学と言った学問を興した事に由来する。

      崔烈と言う人がいたが、彼は天子の傅役に取り入り、錢五百万

     を以って、三公の一の「司徒」に任ぜられた。

      それから後の或る日、崔烈は子の崔鈞に問うて曰く、

      「私は三公になったが、それを議論する者の間では、如何であ

     ろうか」と。

      鈞は言う、

      「父上は若かりし頃は、才能も有り評判も上々で、後には大臣や

     太守を歴任されましたから、人々は父上が三公になるのは当然だ

     と思っておりました。

      しかしこの度、その位になられてから、天下の人々は失望して

     おります」。

      烈 曰く、

      「どうして、そうなのか」と。

      鈞は言う、

      「議論する者は、その銅銭の悪臭を嫌っております」と。

                 「後漢書 崔烈伝」、「蒙求 崔烈銅臭」

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(鄭家の奴は詩を歌う)

     「鄭家(ていか)の奴(ど)は詩を歌う」

                  ◇ 後漢(東漢)時代 ◇

      決意も新たに学ばなくても、常日頃に耳にする事であれば、
     
     誰でも知らず知らずの内に覚えることを云う。

      儒学の大家である鄭玄(じょうげん)家の奴婢は、よく詩経を

     歌うの意。

      大学者である鄭玄の家の召使いたちは、教えられたり、習った

     わけでもないのに、難しい詩経の句をよく暗誦し、日常の会話にも

     使っていたと云う。

      また鄭玄家の奴婢は、男女を問わず、皆 「書」を読んだ。

      ある時、鄭玄は一人の婢(はしため)に用を命じたところ、意に

     適わなかったので、これを鞭打とうとした。

      すると婢は申し開きをしようとしたので、鄭玄は怒って彼女を泥中

     に引き据えさせた。

      その直後、また別の一人の婢がやって来て、泥中の彼女に問うた。

      「胡(なに)をか泥中に為すや」と。

      (=どうして泥の中にいるのですか。)

         ※ 「詩経 邶風・式微」の1句である。

      泥中に引き据えられた婢は、其れに答えて、

      「薄(いささ)か言(われ) 往きて愬(うった)うれば、

      彼の怒りに逢いぬ」
    と。

      (=私が行って申し開きをしたところ、彼の怒りに遭ったのです。)

        ※ 「詩経 柏舟」の1句である。

        ☞ 「言」は、主として詩に用いられる一人称の漢語で、

         「我」の意。

                        「世説新語 文学」

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    Author:tyouseimaru
    出身地は四国八十八か所参りの発心の阿波、大阪を終の棲家とする。
    歴史好きで、城郭・神社仏閣・歴史遺跡巡りが趣味となる。
    歴史小説や時代小説を好み、往年の著名な時代小説の類は概ね完読と、自負している。

    自薦
    自著「中国通史で辿る名言・故事探訪」の 上・中・下の3巻を、 近い内に「電子書籍」での出版を予定しています。 今年一年間は、さらに工夫を加えるなどして、補記訂正などの校正を第一義としています。       
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