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    中国通史で辿る名言・故事探訪(我は君を知るも、)

     「我は君を知るも、矢は君を知らず」


                        三国時代

      説得されても、決意は変わらないという事の表明。

     》 陳倉城の攻防戦 《   紀元228年

      蜀の諸葛孔明は、蜀の建興六年十一月 後出師の表を奉り、

     第二次北伐を再開した。

      漢中に出撃した蜀軍は、斜谷道へ出るルートの散関から出撃し、

     陳倉を包囲した。

      陳倉城を守備するのは、郝昭(かくしょう)を将とする千余の軍勢

     である。

      孔明は一気に押しつぶそうと、大軍で猛攻を仕掛けたが、陳倉城

     は容易に落ちなかった。

      そこで孔明は作戦を変えて、郝昭の同郷人の靳詳(きんしょう)を

     遣わして、城壁の外から説得して降伏の勧告をさせた。

      郝昭は櫓の上から応えて、

      「魏の軍法は君をよく承知のはずだし、私の性格もまた君のよく

     知る通りだ。

      私は魏の王室から、多大な恩顧を受けて位も高い。私は死を賭し

     て戦うだけだ。
      
      君は直ちに帰陣して報告し、直ぐに攻撃せよと伝えてくれ」、と。

      靳詳の報告に孔明は、再度 彼を遣わして、

      「軍勢の数も武器も及ばないのだから、無駄に自滅することは

     ない」と言わせた。

      郝昭は靳詳に云う、

      「先に言ったことはもう変わらない。

      我は君を知るも、矢は君を知らず」、と決意の程を伝えた。

      郝昭は魏軍の中でも名だる猛将であり、陳倉城は小なりとはいえ

     堅城であった。

      結局、降伏の勧告は失敗し、即戦速攻策が採られた。

      陳倉城の守備兵に数十倍する蜀軍であったが、陳倉城は要害

     堅固で守備兵の士気も至って高く、当に死守するの態であった。

      昼夜を分かたず激しい攻防が繰り広げられ、両軍ともに戦術の

     限りを尽くして戦ったが、決着は付かなかった。かくして、攻防は

     二十日に及ぼうとした。

      そして、遂に魏の援軍が大挙して押し寄せて来た。

      蜀軍には、魏の大軍を迎え撃つだけの軍勢はなく、兵糧も乏し

     かったので、万策尽きた孔明は撤退を決意した。

      退却する蜀軍に、魏の王双の指揮する騎兵隊が猛追したので

     白兵戦となった。

      蜀軍は善く応戦して、王双を仕留めて追撃退を敗走させた。

      だが蜀軍には最早 余力はなく、空しく成都に帰還した。 

      

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(鞠躬尽瘁)

     「鞠躬尽瘁(きくきゅうじんすい)

                         三国時代

      心身を労して、国事に尽力して奔走すること。

        ☞ 鞠躬とは、身を屈め敬い慎むの意。
           転じて、骨折ることを云う。

          尽瘁は、全力を尽くして苦労すること。

     《 後出師の表 》   

       紀元228年、蜀に呉の陸遜が、魏の曹休を破ったとの報が

      もたらされた。即ち石亭の会戦の勝敗である。

       当然のこととして、漢中に近い魏の国都・長安周辺から大兵力が

      呉に備えて東に移動した。

       諸葛孔明は漢中に再度 出兵すべく、出師の表を奉った。

       これを、「(こう)出師の表」 と言う。

       其の第一段は、先帝の言葉として、正統蜀と賊国魏とは両立

      出来ないと云う事を大上段に掲げ、魏と蜀の置かれた状況を述べ、

      北伐の必要性と方策を敷衍し、前回の北伐を追懐し、反省の辞を

      述べる。

       第二段以下、第一次北伐に先立ち、後顧の憂いを絶ち兵力増強を

      図るため困難な南征を決行した当時の自らの胸中を述べ、北伐に

      反対する者がいたことを吐露する。

        中段以下 省略

       そして最後の段に於いて、

       「然る後、呉 更に盟に違い、関羽 毀敗(敗北)す。

       秭帰(しき) 蹉跌(さてつ)して、曹丕 帝と称す。

          ☞ 秭帰 蹉跌してとは、

             蜀の秭帰県が、思いがけなくも劉章に奪回されて、

            躓いたこと。
      
        凡そ事 是の如くなれば逆(あらかじ)め見るべきこと難し。 

        臣 鞠躬して尽瘁し、死して後 已まん。

        成敗利鈍に至りては、臣の明の能く逆(あらかじ)め視る所に

       非ざるなり」。

          ☞ 成敗利鈍とは、成功と失敗、手際の良し悪しを云う。

        ※ 蜀の追い詰められた苦しい状況を述べ、事の結果の

         予測不可能を神ならぬ身の正直な告白である。  

          ところで、「三国志 蜀・諸葛亮伝」では、蜀の建興五年

         (227年)に出師の表を劉禅に奉ると記すが、後出師の表に

        ついては採録していない。

          正史に非ざる「三国志演義」では、第九十七回で、蜀の

         建興六年(228年)、第一次北伐の翌年に諸葛孔明が再び

         上表文を奉り、北伐の軍をは進めたと語る。

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(吾が心 秤の如し、)

     「吾が心 秤(はかり)の如し、

      人の為に軽重を為す能わず」


                        三国時代

      私の心は秤のようなもので、いつも公平無私であり、人の為に

     重いものを軽くしたり、軽いものを重くしたりすることは出来ない。

                 西晋時代 陳寿 「諸葛孔明遺文集」

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(泣斬馬謖)

     「泣斬馬謖(きゅうざんばしょく)

                        三国時代

     「涙を揮(ふる)って馬謖を斬る」とも。

      泣いて馬謖を斬るの意。

      軍陣における法度(軍令)違反に対しては、私情を許さずの喩え。

      たとえ信頼している優秀な部下であろうとも、軍令違反に対しては、

     全軍の規律維持の為に、私情を棄てて厳正に処分すること。

     》蜀の第1回の北伐《   紀元227年から228年

      蜀の建興五年三月、丞相・諸葛亮は出師の表を奉り、魏の北伐に

     出陣した。

     「序盤戦」

        諸葛孔明に従うは、趙雲、魏延、王平、鄧芝、馬謖、楊儀らで

       ある。

        率いる兵団は、約五万であった。

        やがて北伐の前進拠点となる漢中に進出し、布陣した。

        陣の北方には秦嶺山脈が聳え、その山脈を越えれば魏の本拠で

       ある関中(洛陽や長安の地)があった。

        だが孔明はすぐには動かなかった。魏の擁する大軍をまともに

       受けては一たまりもなく、そこで先ずは東西からの挟撃作戦を

       立てた。

        蜀の領域と接する魏の荊州新城郡の上庸城を守る太守孟達は、

       反復常無き人物であった。

        彼は蜀を寝返って、今は魏に臣従していたのである。

        孔明は北伐に先立ち、孟達の再度の寝返りの策を密に回らし、

       そして、この孟達の誘降は成功したかに見えた。

        だがこの時期、孟達が行動を起こすより前に、逸早く情報を察知

       した荊州方面総督の司馬懿(い)は、将に電光石火の如く上庸を

       急襲し、孟達を討ち滅ぼしてしまった。

        かくして、孔明の隠密作戦は画餅に帰してしまった。

     「無難な正攻法」

       漢中布陣中に年は替り、建興六年(228年)春となり、今や西方

      からの攻撃のみが選択肢となった。

       北面にある秦嶺山脈には、関中に通ずる五つの道があった。

       軍議の席上、ルート選択で意見が分かれたが、孔明は長期的な

      戦略上、比較的平坦なルートを選び、天水郡などの漢中西部一帯

      の制圧作戦を選んだ。

       孔明はここで陽動作戦を執り、

       駱谷道の西よりの斜谷(やこく)道より進攻して長安の西の守りと

      なっている郿(び)を奪取すると扇動し、趙雲と鄧芝の部隊を偽装し

      て進軍させた。

       この陽動作戦に魏の大都督(総司令官)曹真がまんまと嵌まり、

      魏の主力軍は迎撃態勢を整えるべく郿に終結してしまった。

       曹真は反撃に転じたが、先鋒二人を失ってしまった。 

        曹真は如何ともし難く、明帝に救援を要請した。

       その間隙を縫って孔明指揮する部隊は、漢中西部の天水、安定、

      南安の三郡を平定した。

       この時の戦いで、魏に在って味方に疑われた姜維が、進退窮まり

      蜀に降伏して来た。

     「明帝の出馬」

       魏は三郡の陥落を知り、驚愕した。漢中の西部を制圧されれば、

      渭水沿いに長安の背後を衝かれる恐れがあったのである。

       慌てた明帝は、自ら出馬した。明帝は先鋒に張郃(ちょうこう)を

      命じ、関中西部に送り込んで、蜀軍の本隊迎撃に向かわせた。

       蜀軍の守りは当然のことながら、魏から奪った三郡を守る拠点

      となる街亭に在った。

     「街亭の戦い」

       魏軍の動きに対して、孔明は先鋒軍の指揮官には、日ごろから

      目に付けていた馬謖(ばしょく)を抜擢した。

       そして任ずる際して、重大命令として、

       「山上に陣を執らず、麓の街道を押さえよ」と、厳命した。

       かくして馬謖率いる二万の先鋒軍は街亭に進撃した。

       ところが馬謖は、その地形を見てから、敵を引き付けて撃滅する

      には絶好の地形だと判断し、孔明の厳命があったにもかかわらず、

      山上に陣取ろうとした。

       先鋒軍の副将である王平は之を強く諌めたが、聞かず遂に山上に

      陣取ってしまった。

       遂に戦いは始まり、雲霞の如く集結した魏軍は山麓を完全包囲し、

      麓で五千の兵を指揮して守っていた王平の軍を蹴散らし、馬謖の

      主力軍を孤立させてしまった。

       魏軍の指揮官張郃は、完全包囲するも、山上の蜀軍に対して

      攻撃命令を出さず、水を遮断する策に出た。

       馬謖軍は、たちまち飢えと渇きに悩まされ、投降者が続出した。

       時をおかず張郃は、攻撃命令を発した。馬謖の指揮する軍は

      算を乱して潰走し、犠牲者を多く出してしまった。

       蜀には、先鋒部隊が壊滅した今は、もはや撤退あるのみで、

      折角 奪い取った三郡も放棄して、急ぎ帰還の途についた。

       街亭で壊滅した蜀軍であったが、その混乱のさ中、副将王平は、

      慌てず騒がず、冷静に敗残の千人の兵を山林に隠して、一気に

      鬨の声を挙げさせて救援の大軍の如く装い、張郃の迎撃を躱して、

      敗残兵を無事収容した。

       諸葛孔明は、馬謖の武将としての成長を強く期待していたが、

      戦陣に於いての命令違反は許せるはずもなく、成都に帰還後、

      改めて軍令の厳しさを示すためにも、泣く泣く馬謖を始め随行した

     将軍の張休、李盛を処罰した。

      だが馬謖を諫言したり、敗残兵を収容した王平の功は称し、彼を

     将軍に任じた。

                     「三国志 蜀志・諸葛亮伝」

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(危急存亡の秋)

     「危急存亡の秋(とき)

                         三国時代

      危機がさし迫り、一時の猶予もならない生死存亡の瀬戸際にある

     ことの喩え。

      ☞ 四季の秋は、穀物の実りの「とき」と言って、大切な時期である。

     》 出師の表 冒頭文 《

      臣 亮、言(もう)す。

      先帝、業を創(はじ)むるに未だ半ばならずして、中道にして崩殂す。 

     (=蜀の建国者である先の昭烈帝は、王朝を創めたものの未だ

      未完成の内に崩御なされてしまった。)

     今 天下は三分して、益州 疲弊す。

     (=ところが今、天下は魏・呉・蜀の三国に分割統治されているが、

      この蜀の益州《漢中を含む蜀の支配する全領域》は、困窮の極み

      にあります。)

        ※ 魏と呉の支配領域は、魏は十二州、呉は三州であった。

     此れ誠に危急存亡の秋なり。

     (=かくなる事態は、蜀にとっては当に猶予ならぬ国家存亡の瀬戸際

      にあると言えます。)

      然れども侍衛の臣 内に懈(おこた)らず、忠臣の士 身を外に

     忘るるは蓋し、

      先帝の殊遇を追いて、之を陛下に報いんと欲すればなり。


     (=しかしながら、天子の身近にあって護衛する側近らが、朝廷内に

      於いて慎ましく相務め、忠誠なる将士が、出征して従軍に励むのは、

      つまりは先帝の恩寵を思い出して、それを陛下に報いんと思うから

      なのです。)

      誠に宜しく聖聴を開帳して、以って先帝の遺徳を光(あきらか)にし、

     士師の気を恢弘(かいこう)にすべし。

      (=そこで陛下におかれましては聡明なる耳目を開いて、忠義の臣の

       言葉をよくお聞きになられ、由って先帝の遺された聖徳を輝かしい

       ものにし、志士たちの意気を広く大きく為さるべきです。)

      宜しく妄りに非薄なりとし、喩を引き義を失いて、以って忠諫の路を

     塞ぐべからず。


      (=妄りに自身を卑下なさって、筋道の通らない喩を引いて、忠臣の

       諫言する道を閉ざしてななりません。)

                    

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(竜驤虎視)

     「竜驤虎視(りゅうじょうこし)

                         三国時代

      竜が躍り上がり、虎が鋭い目付きで獲物を睨むこと。

      威勢がすこぶる盛んで、世の中を睥睨(へいげい)する喩え。

                     「三国志 蜀志・諸葛亮」

    》諸葛孔明の「出師(すいし)の表」《    紀元227年

      蜀の先帝(魏書では先主と記す)である昭烈帝(劉備)が長江を

     望む白帝城で崩じてから、丞相諸葛亮は至って凡庸な皇帝

     (魏書では後主と記す)・劉禅を補佐して来た。

      蜀の章武三年(紀元223年)四月、先帝が崩じた後 諸葛孔明は

     翌年に、敵対していた呉に鄧芝を和平交渉の使者として呉に派遣し、

     呉との再度の同盟関係を締結した。

      さらに先帝が呉と夷陵で戦い、疲弊した国力の回復に努め、また反乱

     などで治安の悪化した南方の南蛮を討伐し、蜀の背後における後顧の

     憂いを絶った。

      ところが蜀の建興四年五月、魏では文帝(曹丕)が崩じて、これも

     凡庸な明帝(曹叡)が即位した。

      この頃、蜀もようやく国力を回復して来たので、当に好機到来と

     判断した諸葛孔明は、漢(後漢王朝)を再興すべく、大軍事行動の

     準備に取り掛かった。

      かくして建興五年三月、諸葛孔明は中原に鹿を追うべく挙兵した。

      そして出陣に際し、皇帝劉禅に上奏文を奉呈した。

      此れが孔明の「出師の表」である。

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(宗子は惟れ城なり)

     「宗子は惟れ城なり」

                            三国時代

      宗家にとり、同族の子弟は頼りになる城郭にも比すべきものである。

        ☞ 宗子は、本来は宗家の嫡子を言うが、ここでは同族の子の意。

     》魏、藩王国制を制度化《    紀元232年

      魏の太和六年二月、明帝は詔を出した。

      「古代の帝王が諸王に領地を与えて治めさせたのは、王室を守り

     援けるためであった。

      詩(詩経)に云う、

          徳に懐(なご)み惟れを寧(やす)んぜよ、

          宗子は惟れ城なり。

       (=徳に親しみ行いを正して、風が草をなびかせるが如く、

        徳を以って人民を感化せよ。

         同族の子弟は、城郭にも比すべきものなのだ。) 

      漢は周の封建制を踏襲したが、藩国(藩屏となる国)が強すぎたり

     弱すぎたりして、中正を失っていた。

      大いなる魏が建国されるや、諸王はそれぞれ藩国を開いたが、 

     これは定まった制度ではなく、末永く後代の規範となるものでは

     なかった。

      よって、今 改めてに告ぐ。

      「諸王侯には、魏の制として領地を与え、すべて一郡を以って領国と

     させるものなり」。

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(七縦七擒)

     「七縦七擒(しちしょうしちきん)

                             三国時代

      敵を七度放ち(逃がしてやり)、七度虜(とりこ。捕虜)にすること。

      転じて、敵を縦横無尽に弄ぶ喩えとなる。

      諸葛孔明が、南蛮の孟獲を虜にした故事から。

     》 諸葛孔明、孟獲を翻弄す 《

      孟獲は、蜀の南中地区の各種族を通じて、極めて人望の高いかつ

     勇猛な族長であった。

      もともとは雍闓(ようがい)と行動を共にしていたが、雍闓の死後、

     益州に逃げ戻ろうとして李恢の中路軍に行く手を阻まれ、引き返した

     所で諸葛孔明の主力軍に遭遇して捕獲された。

      孔明は彼が評判の高い人物であったので、先に配下に対して、

     孟獲の捕獲に懸賞金を懸けて督励していた。

      孔明は捕獲された孟獲に蜀軍の陣営を隈なく見せて、

      「どうかな、この陣立ては」と尋ねた。

      孟獲はそれに対して、

      「この度は、状況が分からなかったので敗北したが、今 陣営を

     見せてもらって分かった。

      この程度のものと分かっておれば、間違いなく勝っていただろう」と。

      孔明は、彼を釈放した。

      だがその後も、孟獲は果敢に戦いを挑み捕虜となるが、釈放された。

      このように戦いを挑むこと、前後七回、繰り返した。

      孟獲はその都度 七度、釈放されたが、今回は遂に去ろうとは

     しないで、孔明に向かって、

      「公 天威あるなり。南人、復(ふたた)びは反(そむ)かず」

     と言って、服従を誓った。

      かくして、蜀の建興三年秋、南中征定は完了した。

      出兵期間は、わずか半年であった。

      ※ 諸葛孔明が、南蛮の異民族を幾度となく討伐したのは、蜀軍の

       物資と兵力不足を補うべく計画されたものであった。

         そしてこの精悍な異民族を蜀軍に編入することにより、ほぼ十万

        の軍団を創出することが出来た。


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    中国通史で辿る名言・故事探訪(用兵の道は)、」

     「用兵の道は、心を攻めるを上策となし、

      城を攻めるを下策となす」

                              三国時代

      戦略戦術の要諦は、敵の城を強攻して落とすより、出来る限りの

     策を施して、敵将の心中を攻めて心服させるように取り計らい、自軍に

     誘い込むのが、労少なくして功の大きい上策である。

     》諸葛孔明の南征《    紀元225年

      蜀の建興3年春、孔明は南方の反乱鎮圧を兼ねて南蛮討伐の軍を

     起こした。

      蜀の南方に広がる南中地区(夷越の地)は、広大且つ肥沃な地で、

     漢民族と共に多くの異民族が雑居していた。

      後漢王朝が乱れるようになると、これらの異民族の首長や在地の

     豪族は、しばしば反乱を繰り返した。

      だが劉備が蜀全域を治めるようになると、これらの南中地区に対して

     は、宥和策を以て対処したので、ようやく情勢も安定したものとなって

     いた。

      ところが、劉備が夷陵の戦いで呉に敗北を喫した後、病没するや、

     再び蠢動するようになり、越嶲郡(えつけいぐん)の羌族の高定が反乱

     を起こした。

      また益州郡では、土着豪族の雍闓(ようがい)が、郡太守を殺害し、

     さらに後任として送り込まれた張裔(ちょうえい)まで捕えて呉に

     移送し、呉と好を通じようと謀った。

      この頃 孔明は、魏の文帝が呉に出兵するという情報を得た。

      事ここに至り、孔明は遂に南征に踏み切った。

      孔明は行軍の途次、国都の成都から数十里も孔明を見送って来た

     馬謖(ばしょく)に、南征についての意見を求めた。

      馬謖は対えて、

      「南中は要害の地ではあるが、僻地であることを理由に、しばしば

     朝廷に反抗してきました。

      今日 武力によって彼らを従えたとしても、我らの大軍が撤退すれば、

     明日はまた背かないという保証はありません。

      彼らは将来 北伐が開始されるや、再び反旗を翻すでありましょう。

      かと言って、今回彼らを根絶することは、仁者の軍として為すべきこと

     ではなく、而も短期間で果たせるものではありません。

      そもそも用兵の道は、心を攻めるを上策と為し、城を攻めるを下策

     とし、心を屈服させる戦いを上策とし、武器による戦いを下策と

     致します。

      願わくは、公には彼らの心を屈服させられんことを」と。

      孔明は、その策を良しとして容れることにした。

                         「三国志 蜀志・馬良伝」

    テーマ : 中国古典・名言
    ジャンル : 学問・文化・芸術

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(落筆点蠅)

     「落筆点蠅(らくひつてんよう)

                          三国時代

      「落筆、蠅(はえ)を点ず」と訓読。

      誤まって画上に落した絵筆の跡に、蠅を描き足すの意。

      画家の妙技、優れた才能を云う。

      また、間違いを巧みに処理する事の喩え。

      呉の曹不興(そうふこう)は、絵を描くことが巧みであった。

      そこで呉の大帝である孫権は、彼に屏風絵を描かせた。

      絵はよく仕上がったが、その直後に曹不興は、誤って絵筆を画上

     に落してしまった。

      その為に画の余白部に、色のついた点を付けてしまった。

      ところが曹不興は、躊躇することなくその点を繕って、蠅にして

     しまった。

      やがて、その屏風絵は御前に進められた。

      大帝はその絵を見て、何と本当の蠅が止まっていると錯覚して、

     自らの手を挙げてこれを弾いたと謂う。

              「三国志 呉志・趙達」、裴松之の引用文献「呉録」

    テーマ : 神話伝説逸話
    ジャンル : 学問・文化・芸術

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(刮目相待)

     「刮目相待(かつもくそうたい)

                                 三国時代

      注目したり、期待して人の将来の結果を待つこと。

      目をこすって、将来を待つの意。

      呉の重鎮・魯粛の呂蒙に対する認識不足とも思える自戒の発言に

     接して、呂蒙は応えて言った。

      「士、別れて三日(さんじつ)なれば、まさに括目して相待つべし」

     と。

      (=士たる者は、別れてから三日も経つと、もはや以前の自分では

       ない。目を凝らして、その成長や進歩を待ち望むべきである。)

      即ち、今までとは違った目で、よく見て欲しいとの存念である。

                        「三国志 呉志・呂蒙伝」

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    テーマ : 中国古典・名言
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    中国通史で辿る名言・故事探訪(呉下の阿蒙)

     「呉下の阿蒙」

                                  三国時代

      相変わらずの無学者、いつまで経っても学問の進歩しない人の喩え。

      昔のままの呉の辺りの蒙ちゃんの意。

      「阿」は、親しみを込めた接頭語。

      蒙ちゃん即ち呂蒙は、呉の孫権に仕える武事一辺倒の武将であった。

      呂蒙のその戦いぶりは、勇猛にして機敏かつ果敢であった。

      だが彼の経歴は、一兵卒からの出世であり、家は貧しくて学問を身に

     付けることが出来なかった。

      ところが、今や孫権配下の有力な武将となっていた。

      武将たる者は戦いに強いだけではなく、その知識や教養も必要とされる

     のが、中国における古来からの考え方であり且つ人物考でもあった。

      それを心配した孫権は、ある時 呂蒙を呼んで自己啓発を勧めた。

      しかし呂蒙は、

      「いや軍務が多忙で、そんな暇はござらぬ」と応えた。

      だが孫権はさらに勧めて言う、

      「学者になれと言うのではない、歴史を勉強せよと言っているのだ。

     忙しいというのは理由にならん。お前より私はもっと忙しいが、歴史や

     古典を読んで教えられることは多いものだ。

      昔 後漢の光武帝も、また魏の曹操も、戦時にあっても書物を手から

     離さなかったと言われておる。

      此れからでも遅くはないぞ」と。

      そこまで言われて、呂蒙は一念発起し、日夜勉学に励んだ。

      それから後のことになるが、ある時、

      呉の重鎮であった周瑜(しゅうゆ)亡き後、代わってその重責を担った

     魯粛に言わしめたものである。

      「吾 想えらく、大弟(たいてい)ただに武略あるのみと。

      今に至らば、学識英博なり。また呉下の阿蒙に非ず」
    と。

      (=その昔 私は思ったものである。貴君は無学無教養で武辺の男

       に過ぎないと。

         ところが、今や豊かな学識を備えた英才である。もはやその昔、

        呉の都にいた頃の蒙君ではない。)

                          

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(一夫 関に当たれば、)

     「一夫(いっぷ) 関(かん)に当たれば、

       万夫(ばんぷ)も開く莫し」


                                  三国時代

      極めて堅固な関所(自然の要塞)の喩え。

      たった一人の兵士でも、関所の守りに就けば、万余の兵が攻め寄せ

     ても、押し開くことは出来るものでは無い。

      
       唐代 李白 「蜀道難」

        嗚吁(ああ。=嗚呼)、戯(ああ。=嗚呼)、危ういかな、

        高いかな

        蜀道の難(かた)きは天に上(のぼ)るよりも難し。

        (=ああ危いことよ、高いことよ、蜀への道は青天に上るよりも

         困難な事だ。)

        蚕叢(さんそう)と魚鳧(ぎょふ)と

        国を開く、何ぞ茫然たる。

        (=昔 蚕叢と魚鳧が国を開いたというが、今や知りようも

         ない。)

          ☞ 蚕叢と魚鳧は、ともに太古の蜀の伝説上の国王。

             茫然は、はっきりしない様。

       爾来 四万八千歳、

       秦塞と人煙を通ぜず。

       (=以来 4万8千年、境を接する秦とこの塞外の地は、

        人の往き来さえもない。)

         ☞ 人煙は、人家から立ち上る煙であるが、転じて、

          人や人家をいう。

       西の方 太白に当たって鳥道有り

       以って蛾眉の嶺(いただき)を横絶すべし。

       (=ただ西方にある関中の太(泰)伯山(秦嶺山脈の高峰)には、

        鳥の通う道があるので、鳥だけは蛾眉山の頂上に往き来する

        ことが出来た。)

         ☞ 蛾眉山は、蜀の高山であり、その峰の形が蛾の眉に似て

          いたのでかく言う。

        地は崩れ山は摧(くだ)けて壮士 死し

        然る後 天梯石桟 相 鉤連(こうれん)す。

        (=その後、蜀の勇敢な士が山崩れで遭難死してから、天にも届く

         ような桟道が岩肌を縫うように作られたが、まるで鉤で互いに

         引っ掛けるように相連なった。)

          ☞ 天梯石桟とは、険しくて高い岩山の横腹を掘削して、

           縫うが如く木を架け渡した橋で「桟道」といい

           「蜀の桟道」
     として夙に知られる。

             また壮士の死の伝説によれば、戦国時代の初期、秦の

            惠王は蜀王に五人の美女を贈った。

             王命により彼女らを迎えに行った蜀の五人の勇士は、

            梓潼(しどう)まで戻ってくると、大蛇が山の洞穴に首を

           突っ込んでいた。 

             彼ら五人が力を合わせて、大蛇の尻尾を牽くと、山は

            崩れて五つの峰に分かれ、彼らは生き埋めになって

            しまった、と。

        中略

        
        連峰 天を去ること尺に盈(み)たず

        枯松 倒(さかさま)に挂(か)かって絶壁に倚(よ)る。 

        (=連なる峰は、天の高さにわずかに一尺及ばないだけで、

         枯れ果てた松の木が、絶壁に逆さまに寄りかかっている。)

        飛湍 瀑流 争って喧豗(けんかい)

        崖を砅(う)ち石を転じて万壑(ばんがく)雷(とどろ)く。

        (=急流の水しぶき、滝から落下する激流がうるさく

         ぶっつかり合い、水は岩肌を打ちしごき岩石を転がしては、

         多くの谷川に轟き渡る。)

          ☞ 喧豗は、煩くぶっつかい合うさま。

            万壑は、多くの谷川。

        その険なるや此(かく)の如し。

        
         剣閣 崢嶸(そうこう)として崔嵬(さいかい)

           ☞ 剣閣とは、蜀の大剣・小剣の二山に挟まれた桟道を

            いい、中原の長安から蜀に入る道の最大の難所。

              崢嶸は、高く険しい様。

              崔嵬は、山などが高く聳える様。 

         一夫 関に当たれば

         万夫も開く莫し。

         (=剣閣は高く且つ険しく、一兵が守りに就けば、万兵を以って

          しても、押し開くことは出来ない。)

         守る所 或いは親(しん)に匪(あら)ざれば

         化して為(な)らん狼(ろう)と犲(さい)に。

         (=ここを守る者は、よほど信頼できる武将でなければ、

          いつ何時、狼や山犬に変じて、牙を抜かれぬとは限らない

          のだ。)   

       

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    テーマ : 詩経・漢詩・詩賦等
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    中国通史で辿る名言・故事探訪(画餅)

     「画餅(がべい)

                               三国時代

      実用にならないことを云う。

      絵に描いた餅が元の意。

      魏の文帝は、盧毓(ろいく)を吏部尚書(宰相職)に任じた。

      そして彼に自らの代理も選べと命じたが、その代理は、

      「卿の如きを選べば、それで好し」と。

      盧毓の任命に先立ち、魏では諸葛誕や鄭颶(ていぐ)が名誉を

     馳せていたが、四窓八達(博覧強記の意)の誹謗があって、 文帝は

     彼らを好ましく思ってはいなかったのである。

      そこで詔して曰く、

      「選挙には、名ある者を取る勿れ。地に画きて餅を作るが如し、

     餤(たん)すべからざるなり」
    と。

      (=官吏登用の準拠たる九品官人法に基づく、各地方の中正官

       からの推挙があっても、名有る者は採るべきではない。

        そのような者は、絵に描いた餅のようなもので、喰えた代物では

       ないのだ。)

       ※ 名有る者とは、所謂 名門貴族出身の俊秀な子弟を言う。

      

    テーマ : 中国古典・名言
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    中国通史で辿る名言・故事探訪(経国の大業)

     「蓋し文章は経国の大業にして、

         不朽の盛亊なり。」

                              三国時代

      文章は、国家を治める上で、大いに政治的有効性が認められる

     事業であり、未来永劫 朽ちることのな顕学である。

        ☞  経国とは、国家統治。

        ※  普通には、「経国の大業」と言えば、文章のことを云う。

      魏の文帝曹丕の言葉である。

       文帝は優れた文学者でもあった。

       「七言詩」の先駆といわれる「燕歌行」や、また文芸評論の先駆とも

     言われる「典論」の著者でもある。

      「文章は経国の大業なり」は、典論の「文章について」の冒頭文である。

      続いて、

      年寿(人の寿命)は時 有りて尽き、栄楽(栄耀栄華)は其の身に

     止まる。

      二者は、必至の常期(必ず来るべきもの)なり。

      未だ文章の無窮(極まりない、乃ち永久の意)なるに若かず

     (及ばない)。
     
            

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(君が客游を念えば、)

     「君が客游を念(おも)えば、思い腸(はらわた)を絶つ」

                             三国時代

      それにつけても、旅に出たきり帰らない貴方のことを想えば、

     わたしの心は千々に乱れてしまいます。

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(浮沈各々勢を異にし、)

     「浮沈、各々勢を異にし、

        会合 何れの時にか諧(かな)わん」


                                三国時代

      元は同じものでも、浮くと沈むではその行き着く先は異なり、

     いつ復た会えるものやら。

      魏 曹植 「七哀詩」より。

         名月 高楼を照らし、流光 正に徘徊す。

         (=明るい月は高楼を照らし、澄み切った光がゆったりと

          凝滞しているようだ。)

         上に愁思の婦あり、悲嘆して余哀あり。

         (=高殿の上に一人の物憂げな女ありて、その悲しそうな

         嘆きは、果てそうもない。)

         借問す、「嘆ずるは誰ぞ」

         (=試みに、その歎いている女の身の上を問うてみた。)

         自ら云う、「宕子(とうし)の妻なり」と。

         (=女の言うには、流離の旅人の妻です、と。)

           ☞ 宕子とは、気ままに旅に出て、久しく帰らない人。

         「君 行きて十年を踰(こ)え、狐妾 常に独り棲む。

         (=貴方が旅立たれてから十年余というもの、私はずっと

          独り暮らしをしてきました。)

           ☞ 狐妾とは、独り身の寂しい身上を強調しての自称。

         君は清路の塵の如く、妾は濁水の泥の若し。

         (=謂わば、貴方という人は掃き清められた路上の塵の

          ようで、この私は濁った長江の底の泥のようなものです。)

         浮沈 各々勢を異にし、会合 何れの時にか諧(かな)わん。

         (=元は同じものでも、浮くと沈むではその行き着く先は

          異なり、いつ復た会えるものやら。)

         願わくば西南の風となり、長く逝(ゆ)きて君が懐に入らん。

         (=出来るものならば西南の風となって、遠くにいる貴方の懐に

          飛び込みたいものです。)

         君が懐 良(まこと)に開かずば、賤妾 正に何れに依るべき」

         (=もし貴方が懐を広げて下さらなかったら、この私は一体

          誰を頼りにしたらよいのでしょうか。)


      ☆  この詩は、曹植が密かに思いを寄せていたと云う、実兄

        である文帝(曹丕)の今は亡き甄(しん)皇后にこと寄せて、

        己の心情を謳ったものだと謂われる。

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(魏文帝と曹植の確執)

     「魏の文帝(曹丕)と曹植の確執」

                                三国時代

      後漢末期の魏王・曹操には、男子が二十五人いたと謂われるが、

    戦場で曹操の身代わりとなって死んだ長男の曹昻(そうこう)を除いて、

    卞(べん)皇后の生んだ次男の曹丕、三男の陳留王・曹植、四男の

    燕王・曹宇が主な子であった。

     曹操は一時期ではあるが、曹昻亡き後、次男の丕を差し置き、三男の

    植を皇太子に立てようとする動きがあった。

     後の兄弟不仲の遠因は、此処にあったとも言われる。

     曹操が崩じた後、皇太子であった二男・曹丕が後継者となり、後漢王朝

    の献帝から禅譲を受けて魏を建国し、皇帝となった。これが 文帝である。

     魏の建国後、 文帝は弟の植を鄄城侯(けんじょうこう)に封じた。

     だが 文帝は、彼には監国謁者(公族親藩に対する動静監視官)を派遣

    し、特別に厳しく監視させ、流罪に等しい処遇をした。

     その後、 文帝が先に崩じたが、曹植の境遇に変化はなく、亡くなるまで

    の十一年間に、三度 封地を遷されるという悲運に泣いた。

     晩年には、陳国に封じられ、その地で亡くなった(紀元232年)ので、

    一般的は陳留王とか陳思王と呼ばれる。

     曹兄弟と曹操は、他に抜きんでた詩才に富み、いずれも秀逸な作品を

    残している。

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(煮豆燃萁)

     「煮豆燃萁(しゃとうねんき)

                          三国時代

      「豆を煮るに萁(豆殻)を燃やす」と訓読。 

      兄弟が相争うことの喩え。

      豆も萁も同じ根から育った仲なのに、萁は燃料となり、豆は釜の中で

     煮られるの意。

                 「世説新語 文学」

      ※ この「煮豆燃萁」は、魏の曹植(東阿王)の「七歩の詩」

        に基づいて生まれた成語である。

      「七歩の才」

      七歩を歩く間に、というような極めて短い時間内に、詩を作ることが

     出来る鋭敏な才能をいう。

      転じて、非常に優れた詩作の才能を言う。

      魏の文帝(曹丕)は或る日のこと、宮廷の庭で近臣らと遊んでいたが、

     同席していた実弟の東阿王(曹植)に対して、

     ‘’七歩 歩く間に詩を作れ‘’、と命じた。 

      彼らは同母兄弟であったが、普段から仲が悪かったので、 文帝は

     出来なければ処罰する、と宣言した。

      だが東阿王は、とり急ぎ、「豆」を主題に選んで、七歩歩く間に即興詩

     を作った。


          豆を煮て以って羹(あつもの)となし、
     
          豉(し)を漉(こ)して以って汁と為す。

          萁(まめがら)は釜下に在って燃え、

          豆は釜中(ふちゅう)に在って泣く。

          本(もと) 同根より生じたるに、

          相(あい)煎ること何ぞ太(はなは)だ急なる。

          ☞ 羹は、肉に野菜を混ぜて作った吸い物。

             豉は、味噌。

             萁は、豆の実を取り除いた後に残る茎や枝葉の総称。

      自らの心情を豆に託して詠ったものであるが、その場はさすがに

     文帝も恥じ入ったと言われる。

                    「古文真宝」所収。

      

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(舐犢の愛)

     「舐犢(しとく)の愛」

                                 三国時代

      「老牛、犢を舐る」とも。

      親牛が、子牛をまるで舐めるようにして可愛がるの意。

      転じて、親が子を溺愛することの喩え。

     》楊彪(ようひょう)親子《

       後漢の末期、楊彪は其の位は、大尉にまで栄達した。

       だがその頃の後漢王朝は、当に風前の灯火とも言える状況に

      在った。

       楊彪はそのような状況から判断して、もはや如何ともし難いとして、

       自ら健康上の理由を挙げて、官を辞した。

       それから、幾星霜が過ぎ去った。

       この楊彪には、息子の脩(しゅう。修とも)がいたが、幼い頃から

      その才知の故に、ひたすら可愛がって養育してきた。

       脩も父の期待に応えて能く勉学に励み、その内 俊秀にして判断

      力に優ぐるとの評が立つようになり、いつしか魏の曹操に仕える身と

      なった。

       曹操も機知に富む彼を身辺に置いて重用したが、楊脩は慣れるに

      従い、持ち前の性格から不用意な言動が目立つようになり、曹操の

      他の側近との折り合いも悪く確執が生じるようになり、また遠慮のない

      言動が禍して、遂に曹操からしを命ぜられた。

       後日、息子を亡くした楊彪のやつれた姿に接した曹操は、慰めよう

      として問いて曰く、

       「公、何ぞ痩せたるの甚だしきや  」と。

       楊彪は其れに対えて、

       「悔ゆらくは、日(じってい)が先見之明無くして、

       なお老牛、舐犢の愛を懐くのみ」と。

       (=悔しい事に、私には金日⦅きんじってい⦆のように将来を

        見通す賢明さはなく、将来 君を害するであろう我が子を予見して、

        事前にこの世から葬り去ることが出来ず、まるで老牛が子牛を

        舐めるように我が子を可愛がり過ぎたことです。)

       曹操はその理由を聞いて、流石に居住まいを正さざるを得なかった。

        ※ 金日は、漢の武帝に仕えて忠誠無比と言われた異邦人

         である。

           我が子も亦 武帝の稚児となったが、謹みに欠き、宮中の

          女人と戯れた。偶々 之を見た金日は、我が子の将来の

          不忠を危惧して、自らの手で始末した。

                        「事類全書」、「世説・注」

    テーマ : 中国古典・名言
    ジャンル : 学問・文化・芸術

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(鶏肋)

     「鶏肋(けいろく)

                          三国時代

      大して役には立たないが、さりとて捨てるには惜しい物の喩え。

         ☞鶏肋は、鶏のガラ。

     》 曹操 軍を退く 《

      この頃 蜀の劉備は、国のほぼ総力を挙げて魏との攻防戦に

     かけていた。

      だから流石に魏の曹操も、攻め倦(あぐ)んでいた。

      そうこうする内に、魏軍内部では敵側の砦の不気味さに動揺を

     来し、不安に駆られて脱走兵が出始めた。

      魏の将兵は国を出てから既に半年に及び、彼らは長期の遠征に

     疲れ且つ厭戦気分が浸潤し始めていた。

      季節は夏になったので、曹操も形勢不利と判断するようになり、

     ようやく、「撤退」すべき頃合いかと、思うようになってきた。

      ある日 曹操は幕僚を集めた軍議の席で、何気なく言った。

      「そろそろ、鶏肋だな」と。

      幕僚たちはその意味が分からず、狐に包まれたような顔をして

     いたが、軍主簿の楊脩(修)だけは、その命令を聞くや、独りそそくさ

     と帰還の準備に取り掛かった。

      その楊脩の様子を見た幕僚が、その訳を聞くと、

      「鶏肋とは、鶏(にわとり)のガラのことで、それを捨てるには惜しい

     が、食べようとしても肉はほとんどない。

      言ってみれば、この漢中の地とは、そのようなものであると思料

     されたので、王は帰還することに決められたのです」、と説明した。

         しかしながら、漢中の地はそのような程度の地ではなく、

         魏にとっても防衛上 極めて重要な地域であり、これは曹操

         の負け惜しみに過ぎない。

           また楊脩は、この出過ぎた言動などが後に禍となり、我が

          身を滅ぼす因と成る。

                      「後漢書 楊脩伝」

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(山鶏、鏡に舞う)

     「山鶏(さんけい)、鏡に舞う」

                          三国時代

      姿ばかりが美しくて、何の能もない人を嘲笑する喩え。

      ヤマドリが己の姿を、鏡に映して舞う、の意。

      山鶏はその羽毛を愛して、姿形が水に映ずると忽ち舞ったと

      謂う。

      魏の武帝(曹操)の時、南方より之(山鶏)を献ずる者有り。

      帝はその鳴舞(めいぶ)を見たいと欲したが、その方法が

     分からなかった。

      公子の蒼舒(そうじょ)が、大鏡をその山鶏の前に置かせた。

      すると、山鶏は自分の姿を鏡に映して舞い始め、止めることを

     知らず、遂に死んでしまった。

                     宋代の劉敬叔 撰「異苑」

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(合肥の戦い 2)

     「合肥の戦い 其の2」

                          三国時代

      呉は緒戦で大敗したものの、主力軍は健在であった。

      孫権は合肥の南方、濡須(じゅしゅ)に退却して陣を立て直した。

      この濡須から合肥までは、辺り一帯に大きな巣湖があり、接続

     する水路が開けていた。その為 呉の得意とする水上戦が展開

     できる利点があった。

      一方では張遼は、己の力量もこれまでと覚悟して、遂に曹操に

     救援の要請をした。

      要請を受けた曹操は定軍山の守備を夏侯淵に命じておき、

     自らは大軍を率いて濡須に向かった。

      事ここに至って、ようやく蜀の孔明の戦略が実現したのである。

     》 恩讐の彼方に 《

       呉の猛将である甘寧と孫権を命がけで護った凌統は、俱に

      天を戴かぬ仇敵同志であった。

       甘寧は遊侠を好み、永らく長江沿岸で海賊を稼業としていて、

      その名を轟かせていた。ところが其れも二十年ほどで足を洗い、

      一念発起して学問に励み、後には部下の連中 八百人ほどを

      率いて、荊州の劉表に仕えた。

       だが劉表には重用されることも無かったので、呉の孫策を頼ろ

      うとしたが、途中で劉表の部下の黄祖に足止めされ、以後は彼に

      従っていた。

       その頃の出来事であるが、孫策が劉表討伐の軍を率いて侵攻し

      て来たので、甘寧は呉の武将である凌操と戦って、遂に彼を討ち

      取った。この凌操が、凌統の父であった。

       甘寧はその戦功を黄祖が評価しようとしなかったので、もはや

      荊州に留まらず江東に向かった。

       江東に到るや、甘寧は周瑜や呂蒙の推挙を受けて、孫権に仕え

      るようになったが、呉の旧臣たちと同等の待遇が与えられるように

      なった。

       感激した甘寧は、以後 常に先鋒として働き、孫権の期待に

      十分に応えた。

       一方、凌統は若年の頃、酒席で父を侮辱した者がいたことを

      知り、その者を惨殺したことがあった。

       そんな父思いの凌統であったが、彼が十五の時に、父は甘寧

      に討ち取られたのである。

       その時には彼も戦陣に加わっていたが、奮戦して父の遺骸を

      奪い返すという働きをした。

       ところが後に、怨み骨髄の甘寧が孫権に認められて呉の陣営に

      加わったが、凌統の怨念は消えることはなかった。

       或るときなど、酒席で泣きながら甘寧に斬りかかったこともあり、

      孫権の執り成しがあっても、なおも咸寧を睨み続けたという。

       この度の皖城攻略の後、ささやかな酒宴があったが、その席上

      で凌統は甘寧を見かけると、剣舞にかこつけて甘寧に迫った。

       殺気を覚えた甘寧も二本の戟をつかんで応戦したが、それと

      察した呂蒙が中に入って、二人を押し分けた。

       孫権は凌統を諭すが、凌統は悔しさに泣き伏した。

       凌統の行動は、明らかに陣営の秩序を乱す不埒な行為であった

      が、孫権は今回も凌統を罰することはなかった。

       濡須で布陣した孫権は、迫りくる曹操の大軍に、その出鼻を

      挫く者は居らぬか、と諸将に声をかけた。

       ようやく傷の癒えた凌統が名乗り出て、三千の軍団を率いて

      先駆けした。

       魏の先鋒は張遼である。両者は激突したが、その日は決着が

      つかず、お互いに帰陣した。

       その夜、甘寧は魏軍をかき回してくると言って、百騎を率いて

      出撃し、敵陣で暴れまわって無傷で帰還した。

       翌日、凌統は甘寧の活躍を悔しがり、張遼の首を必ず取って

      来ると孫権に約束して、五千の兵を率いて出撃した。

       張遼は楽進を凌統に当たらせたが、激闘が続き容易に決着が

      つかなかった。その内 曹操の命を受けた曹休が、張遼の側から

      一矢を放った。

       矢は凌統の乗馬に当たり、棒立ちになった馬から凌統は振り落

      とされた。その凌統めがけて、楽進が槍で突きかかろうとした。

       その瞬間に、呉の陣営から矢が飛来して、楽進の顔に命中した

      ので楽進は落馬した。間一髪で、凌統はまたもや命拾いした。

       帰陣した凌統は、矢を放って自分を救ってくれたのが甘寧で

      あったことを知り、遂に積年の恨みを忘れて、固い交わりをし、

      お互いに助け合うことを誓った。

                  「三国志演義 第68回」他

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(合肥の戦い 1)

     「合肥の戦い 其の1」

                          三国時代

    》 三国争乱の発端 《

     赤壁の戦いの後 紀元215年、魏の曹操は呉と蜀への備えとして、

    合肥(がっぴ)に前線基地を置いていた。

     曹操は、次に懸案となっていた漢中の張魯を降して、後顧の憂い

    となる恐れのあった漢中を確保し、進んでは蜀攻略への前進基地と

    すべく大軍を投入しようとした。

     曹操は散関から武都に出て、張魯討伐に向かい陽平関に達した。

     時に張魯は、漢中挙げて降伏しようとしたが、弟の張衛に反対され、

    張衛は数万の軍勢を率いて、陽平関を防御しようとした。

     だが曹操は之を撃ち破り、遂に蜀の入り口に侵攻した。

     張魯は最早これまでと、降伏を決意し、宝物財貨を保管する倉庫を

    封印して立ち去った。

     曹操は南鄭に入城すると、張魯の取った措置に大層感心し、使者を

    立てて彼を慰撫し説得に当たらせさせ、出頭してきた彼や一族全員に

    賓客の礼を以て待遇した。

     その一方では、諸葛孔明は、曹操の動きに対する軍議の席で、

    劉備に進言した。

     「敵の矛先をかわすに如かず。呉の孫権を動かして、合肥を攻め

    させれば、呉を畏れる曹操のこと、必ずや大軍をそちらに移しましょう。

     そこで使者を遣り、孫権には荊州の三郡、長沙・桂陽・零陵の譲渡を

    ちらつかせて、孫権の心を動かしましょう」と。

    》 荊州分割案で、呉・蜀の和議成る 《

     劉備は、諸葛孔明を使者として、呉に派遣した。

     呉では、諸葛孔明の兄である諸葛瑾が使者として会談に応じた。

     孔明は呉に対して、呉の合肥への出撃と荊州の長沙・桂陽の二郡

    返還の件が伝えられた。

     この提案に対して呉は、荊州の南郡を交換条件として蜀に領有を認め

    る代わりに、長沙・桂陽の二郡を領有すると謂う事で合意に達した。

     かくして、蜀は荊州の西部の南郡・武陵・零陵を、呉は同じく江夏・

    長沙・桂陽を領有することとなった。

     かくして劉表の遺領は、呉と蜀に二分割支配されることとなった。

     呉はいよいよ、知将・呂蒙(りょもう)と猛将と恐れられた咸寧

    (かんねい)が先鋒となり、孫権は中軍を率いて長江北岸の皖城を

    目指した。

     魏の皖城は、合肥の南方にあり、屯田を行いつつ呉に備える最前線

    にあった。

     この皖城攻略は、呂蒙の策に拠るものであり、魏の名将・張遼が守る

    合肥に先んじて魏の手足をもごうとするものであった。

     呂蒙の進言は入れられ、速戦即決となり、数時間の激闘で決着が

    ついた。余りにも速い皖城の陥落に、応援途中にあった張遼は取り

    敢えずは合肥に帰城して策を練り直した。

      ☆ 賊至らば開くべし ☆

     張遼が戦略を練って苦悩していた時、曹操から使者が派遣されてた。

     使者は張遼に小箱を差し出した。其の蓋には、曹操直筆で

    「賊至らば開くべし」と。

     そこで張遼は早速 小箱を開くと、書簡には、

    「孫権至らば、李・楽将軍と力を合わせて戦うべし」と記されていた。

     張遼は、李典と楽進を呼んで軍議を開き、軍略を練った。

     李典も楽進も、初めは張遼の決意と腹中が分からなかったんで、

    等閑の意見しか言わなかった。

     すると張遼は憮然として言い放った、

    「ならば我 独りでも戦って見せる。お主らは己の保身を考えれば

    よかろう」と。

     事ここに及んで、ようやく二人の猛将は張遼に心服し、その采配を

    受ける覚悟を示した。

     先ず李典は、一足先に一軍を率いて進発した。

     そして軍を逍遥津の北に埋伏し、呉軍が小師橋を渡り終えた後、

    橋を破壊する奇計を受け持った。

     李典に後れて、張遼は楽進と共に主力軍を率いて呉軍の迎撃に

    向かった。

     呂蒙と甘寧を先鋒とする呉軍は、合肥に向けて進軍して来た。

     呉軍の先鋒に対して、魏の楽進が一軍を率いて突撃して来た。

     これを呉の甘寧が迎え撃ち、しばしば激闘が続いたが、何を思った

    か楽進は急に軍を退かせた。

     甘寧は当に勝機と見て、呂蒙を誘って追撃した。

     中軍の孫権は先鋒の勝利を知り、余裕たっぷりに中軍の凌統隊

    三百のみを率いて、逍遥津に先行した。

     そして逍遥津の北に差し掛かった時、轟音の合図と共に左翼からは

    張遼、右翼からは李典の軍が襲い掛かって来た。

     ☆ 孫権の小師橋飛び ☆

     孫権は直ちに呂蒙・甘寧に伝令を飛ばした。

     だが孫権の守りは凌統の三百のみであったので、とても戦える

    戦力ではなかった。

     そこで凌統は、前方の小師橋を指して孫権を急ぎ脱出させよう

    とした。 

     そして自らは配下を率いて、張遼の奇襲隊二千に敢然と立ち

    向かった。

     孫権は凌統に詫びつつ、小師橋に向かって馬を走らせた。

    だがそこで孫権が目にしたものは、橋の残骸であった。

     橋の向こう際までは丈余はあり、橋板一枚とて残ってはいなかった。

     愛馬と共に右往左往する孫権に、側近の谷利(こくり)が大声で

     叫んだ。

     「一先ず馬を後退させて、間合いを取って一気にお跳びください」と。

     孫権は馬を後退させること三丈、運を天に任せて馬に鞭打ち跳んだ。

     ところが着地するかと思いきや、向こうの岸辺近くに馬ごと着水して

    しまった。

     だが待ち受けていた後詰の董襲と徐盛が、小舟を出して救出した

    ので事なきを得た。

     一方では、孫権脱出の盾となって迎撃した凌統隊三百は、多勢に

    無勢で奮闘虚しく全滅してしまった。ただ凌統だけは、満身創痍に

    なりながらも、橋の袂までたどり着いていた。

     対岸から心配していた孫権が、董襲に命じて小舟を出して救出

    させたので、何とか一命を取り留めることが出来た。

     方や先鋒の呂蒙・甘寧軍は反転したものの、迫り来る楽進軍と

    勢いに乗る張遼・李典軍に追撃される羽目となり、大いに苦戦した

    が何とか撤収することが出来た。

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(白眉最上)

     「白眉最上」

                         三国時代

     「馬良白眉」とも。

      同類中の最良のものを言う。

      蜀の劉備の武将に、馬氏の五人兄弟がいた。

      この五人兄弟はいずれも出来が良くて、「馬氏五常」と言われて

     評判も高かった。

       ☞ 馬氏兄弟の五人とも、その字に「常」の漢字が付けられて

        いたので、五常と称された。因みに長兄の馬良の字は、

        季常という。

      五人兄弟の中でも、兄の良は、「馬氏の五常、白眉最も善し」

     と近県で評判が高かった。

      馬良の眉毛に白い物が混じっていたから、かく謂われたのである。

      馬良は、劉備入蜀の後、国内の統一に大いに貢献し、噂に違わ

     ない働きをしたが、関羽の弔い合戦である夷陵の戦いの最中に

     戦死した。

      馬良の弟に馬謖(がしょく。字は幼常)がいたが、諸葛孔明に

     見いだされて将来を大いに嘱望されたが、魏との戦いにおける

     「街亭の戦い」における敗戦の責任を問われて、処刑された。

      ここに孔明が、軍律により「泣いて馬謖を斬る」という故事が

     生まれる。

             「三国志 蜀 馬良伝」、「蒙求 馬良白眉」

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(有知無知、)

     「有知無知、校(くら)ぶれば三十里」

                        後漢(東漢)時代

      智慧(恵)の有る者と無い者との差が、甚だしいことの喩え。

     》 曹操と楊脩(修)との知恵比べ 《

      楊脩(修)は、曹操に仕えて軍守簿(文書記録官)となっていたが、

     己の才に恃んで放埓な振る舞いが多かった。

      この楊脩は、後漢の初期に大尉を務めた徳篤き楊震の後裔

     であった。

       ※ 楊震は、「楊震の四知」の故事で蚤に有名である。

      楊脩の父もまた、献帝の御世に大尉を務めた人である。

      曹操は、曽て江南にある曹娥の碑文の前を過る時、碑文の

     背面に、「黄絹幼婦外孫齎臼」と刻まれた八文字を目にしたが、

     その意味を解することが出来なかった。

      そこで帯同していた楊脩に、その碑文を解することが出来る

     かと質した。

      楊脩曰く、「解せり」と。

      魏武(曹操)曰く、
     
      「卿、未だ言うべからず、吾の之を思うを待て」と。

      それから、三十里ほど行ってから魏武は言った、

      「我 已に得たり」と。

      そこで、お互いにその解った処の意味を「書」に書き合う

     ことにした。

      楊脩の書には、

      黄絹(こうけん)は色糸なり、字に於いて「」と為す。

      幼婦は少女なり、字にいて「」と為す。

      外孫は女子なり、字に於いて「」と為す。

      齎臼(せいきゅう)は辛(しん)を受くるなり、字に於いて「」と

     為す。

        ※ 辛を受くるという字は、「辤」 であり、断るの意で別字

         であったが、いつしか「辞」と混用されるようになった。

      よってこの八字は、所謂 「絶妙好辞」の意です。

         (=絶妙にして好き辞かな。)

      曹操の書にも、同じことが書かれていた。

      だが曹操はため息をついて、言ったものである。
      
      「我が才 卿に及ばざること,乃ち三十里なるを覚ゆ」と。

        後に、「黄絹幼婦」は、絶妙の隠語となる。

                       「世説新語 捷悟」

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(盗嫂受金)

     「盗嫂受金(とうそうじゅきん)

                            後漢(東漢)時代

      兄嫁を盗んだり、賄賂を平然と受け取るような破廉恥な行いのこと。

     》 求賢令 《    紀元210年

       赤壁の戦いの2年後の建安15年、曹操は人材を求めて、

      「求賢令」を布告した。

       その令に曰く、

       「唯、才あれば是を挙げよ。吾 得て之を用いん」と。

       その布告で曹操は、たとえ盗嫂受金のような人格や徳義の

      欠如者の類と云えども、唯に才能さえあれば用いる、と公言

      したのである。即ち才能至上主義の宣言である。

       曹操の思いは、今なお天下は安定を見ないので、優れた賢者

      を求めて一日も早く天下統一を果たしたいという事にあった。

       乱世の世に、廉潔や仁徳に傑出した人物を探し求めても、戦乱

      を速やかに収束させるという事では、彼らはその輔翼とはならない。

       曹操の脳裏には、少なからぬ問題もあったが、斉の桓公を援け

      て彼を春秋の覇者に押し上げた名宰相の管仲のことが、また漢

      の劉邦に仕えた謀将・陳平の存在が過ったのである。

       管仲は桓公の命を狙ったこともある、謂わば憎んでも余りある

      人物であったが、桓公は鮑叔牙に勧められて、いきなり宰相に

      任じた。

       その管仲も晩年には、身に余る贅沢をして、 仁徳面では決して

      誉められたものではなかったのである。

       陳平はその行動には色々と問題があって、劉邦の臣となって

      からも、しばしば他の者から非難や中傷されることがあった。

       劉邦はそのことで、陳平を推薦した魏無知を呼び付けたことが

      あったが、魏無知は言った。

       「我は人物を推薦したのであって、彼が兄嫁を盗んだ云々の

      過去を問うた訳ではありません」と。

        

      

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(短歌行)

        魏・曹操 「短歌行」



      後漢末に魏王となった文才豊かな曹操の詩賦である「短歌行」の

     抜節を掲げる。


        酒に対しては当に歌うべし、人生は幾何(いくばく)ぞ

        (=酒を飲んだら大いに歌うべきだ。人生なんて短いものだ。)

        譬えば朝露の如し、去日 苦(はなはだ)だ多し

        (=あたかも朝露のように、唯に過ぎ去る日々のなんと多い事か。)

        概して当に以って慷すべし、憂思忘れ難し

        (=感情の昂るままに歌うべきだが、胸の内の憂いは忘れようも

         ないもの。)

        何を以て憂いを解かん、唯 杜康(とこう)有るのみ

        (=何によってこの憂いを忘れようか、唯々酒があるのみだ。)

           ☞ 杜康とは、酒の異称。

             初めて酒を造ったとされる伝説上の人物が杜康であり、

            黄帝に仕えたとも言われる。


           月明らかに星 稀に、烏鵲(うじゃく) 南へ飛ぶ

           (=月の光が明るいので、星がまばらにしか見えない。

             そしてカササギが南の方へ飛ぼうとしている。)

            ※ この月は曹操自身であり、星は各地に群雄する豪族

              連中を指し、烏鵲は劉備を指す。

              そして劉備は、今や曹操の下から離れて、南方の荊州

             を目指して逃げ出そうとしている状況にあった。    

           樹を繞(めぐ)ること三匝(さんそう)、何れの枝に依る可き

           (=グルグルと樹木の周りを三度巡り、宿るべき枝を

            探しあぐねている。)

            ※ この三匝は、魏・呉・蜀を意味する。

           山は高きを厭(いと)わず、海は深きを厭わず

           (=山はいかほどの土をも辞さず、その為に高さを保ち、

             海は同様に水を辞さず、その為に深さを保つもの。)

           周公は哺(ほ)を吐きて、天下は心を帰したり 

           (=周の武王を補佐した周公旦は、食べかけていた物を吐き

            出してまで、訪ねてくる士を応接したものである。

             そのような気遣いがあったればこそ、天下の人臣は

            周王朝に心服したのである。)

    テーマ : 詩経・漢詩・詩賦等
    ジャンル : 学問・文化・芸術

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(赤壁の戦い 2)

     「赤壁の戦い (2)」

                     後漢(東漢)時代

    《 緒戦 》

      魏呉両軍とも、赤壁の近くにある陸口の要衝を抑えることが最重要

     戦略とされた。

        ☞ 陸口の要衝とは、長江と陸路の交接する交通の要路にあった

         のが陸口である。

      江陵を本拠とする魏軍の戦略は、江陵から長江を下る本隊と襄陽から

     漢水を下る別働隊との二軍編成である。

      そして別働隊は、漢水と長江の合流地点である夏口を占領し、本隊は

     長江を下り赤壁近くの陸口に上陸して、敵の本営である柴桑(さいそう)

     を目指すというもので、その頃には別働隊も夏口を落として、本隊に合流

     するというものであった。

      ところが、魏軍の各水軍が長江を下り始めた時、辺り一面に予期せぬ

     濃霧が生じたが、その深い霧の中を進軍するという愚を犯してしまった。

      そのため洞庭湖に迷い込み、二日間を徒に浪費してしまった。

      その間に、魏軍の別働隊より先に夏口に達した呉軍は、夏口から遡上し

     て、陸口を易々と押さえることができたのである。

      そこで已む無く、魏軍本隊の十三万は、長江北岸の烏林に集結しなけ

     ればならなかった。そして、戦略として冬を越して来春に態勢を立て直す

     べく持久戦の構えを見せた。

      だが魏軍は長期にわたる遠征でもあり、また馴れない気候と南方特有の

     風土のために、兵士は次々と病に倒れ、死者や病者が多数に上り曹操を

     大いに悩ませた。

    《 謀略戦 》

      謀略戦として、「苦肉の計」や『連環の計』はよく知られた戦略の

     一環ではあるが、これは三国志演義による虚構であり、事実とは言い難い

     けれども、魏と呉の間に熾烈な謀略や諜報戦が行われたことは事実である。

      正史たる三国志・魏書では、赤壁の戦いについての記述は、極めて簡略

     なものである。

     「苦肉の刑」

      苦し紛れに考え付いた手段や方法を言う。

      敵を欺く手段として、自分でわが身を傷つけ苦しめるの意。

      呉では、孫堅以来の武将の黄蓋(こうがい)が周瑜に進言した。

      「敵は戦艦同士連結しており船首と船尾が接しているので、焼き打ちに

     非常に都合がよろしい」と。

      その火責めの策に肯いた周瑜は、黄蓋と共に反間策の秘策を練ったが、

     黄蓋はさらに言う、

      「苦肉の計を用いずして、なんぞ能く曹操を欺瞞せしめんや」と。

      かくして二人の間で、計略は成った。

      まず黄蓋は、曹操宛に己の不遇を訴えて、降伏文書を送り付けた。

      それから、黄蓋は作戦会議の席で、総司令官の周瑜に対して、この度の

     戦いの不利を献言し、魏へ降伏するように説いた。

      この黄蓋の発言に対して、周瑜は激しく黄蓋を叱咤して憎み、公の場で

     ついに鞭打ちの刑を加え、見るも無残に黄蓋を凌辱した。

      この情報は直ちに呉軍の陣中に紛れ込んでいた魏軍の間者(スパイ)に

     より、曹操の陣営にもたらされた。

      曹操の幕僚でこの事実を疑う者もいたし、曹操自身も疑ってみたが、

     かって官渡の戦いの最中に、袁紹軍から寝返って重要な情報をもたらした

     許攸(きょゆう)の例もあったので、結局 黄蓋の無念やるかたない心情

     に信を置き、降伏を受け容れることになった。

      黄蓋はさっそく準備に取り掛かり、闘艦(覆い付き駆逐艦)と蒙衝艦

     (防壁に甲板室を設けた戦艦級)十数艘に枯草や枯れ芝を載せて油を

     注ぎその上に幕で覆いをかけさせた。

      いざ船上には旗を立て、船団の最後尾には密かに逃走用の軽快な

     小舟を繋いで出帆した。

                     
                      「三国志演義 第四十六回」

     「連環の計」

      停泊中の船を互いに金環で連結したり、そうさせたりする謀略。

      魏軍は遠征して既に数カ月、別働隊は論外としても、本隊十三万は、

     目下のところ、多くの兵士が気候風土の違いによる極度の疲労や病に

     罹っていた。

      そのため曹操は、兵が気力を取り戻す春を期して、一斉に総攻撃を

     しかけるという戦略を執っていた。

      そのため、長期対陣に耐えるべく、軍船全て相互に金環で連結し、船上

     に竹の筏を張り巡らせ、軍馬も自由に往来できるようにしていた。

      この陣法は通常の攻撃に対しては大いに威力を発揮するが、火攻め

     には弱いとされていた。

      魏軍にあっても、その防衛陣が火攻めに弱いことは承知していたが、

     季節は未だ秋口から初冬にかけてであり、まさか東南の風が吹くとは

     予測していなかったのである。

      さていよいよ、黄蓋の船団が曹操陣営に二里ほどに近づいた頃には、

     呉軍にとっては天佑とも言うべき、反対に魏軍にとっては悪魔の東南の

     風が吹き始めた。

      黄蓋は一斉に各船に点火させ、火の塊と化した火船は折からの風に

     煽られて、すさまじい速さで曹操軍の連環船団に突入した。

      油断していた曹操軍は為す術もなく算を乱して逃げ惑う兵と馬は、火炎

     で川に沈み、火炎はなおも陸の本営に燃え移った。

      黄蓋らの呉の突入兵は、頃合いを見て逃走用の小舟に乗り移り逃走

     した。

      この有り様を対岸から眺めていた周瑜指揮の呉軍は、全軍総攻撃に

     転じた。

      魏の軍船は次から次へと燃え移り、大混乱に陥り船団は壊滅した。

      陸上の本営の軍陣も、火炎の延焼により四分五裂状態となり、そこへ

     呉の別働隊が急襲したので、魏軍は抗することもできずに遁走した。

      周瑜指揮する精兵と劉備配下の兵は、遁走する曹操軍を撃破しつつ

     追撃した。曹操の幕営軍は今やほとんど壊滅し、曹操は僅かばかりの

     護衛に守られて辛うじて死地を脱した。

      その後 曹操は、荊州江陵の守備は行西南将軍曹仁と徐晃に命じ、

     襄陽の守備を楽進に委ねて帰還した。

      ※ この赤壁の戦いにおける魏の敗北により、魏・呉・蜀の

       三国時代を招来することになる。

     


         

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(赤壁の戦い 1)

     「赤壁の戦い (1)」

                        後漢(東漢)時代

      建安十三年(紀元208年)十二月夜半、長江の北岸の烏林で

     戦われた魏と呉・蜀連合軍の戦いである。

      「三国志・魏志 武帝記」では、この赤壁の戦いについては極めて

     簡潔に記す。

      「公(曹操)は赤壁に到着し、「劉備と戦ったが負け戦となった。

     その時 疫病が大流行し、官吏士卒の多数が死んだ。

      そこで軍を引き揚げて帰還した」と。

    《 前哨戦 》

      建安十三年七月、曹操は四海統一の野望に燃えて、大軍を率いて

     南征作戦に乗り出した。

      その緒戦に於いて、荊州の牧・劉表の亡き跡を継いだ劉琮は、曹操の

     大軍に出会うや、戦意を無くして、九月には州都の襄陽の近郊、新野で

     無血開城してしまった。

      時に今は亡き劉表に身を寄せて、樊城の守備に当たっていた劉備は、

     全くの予想外の事態に驚愕し、迎撃しても勝算なしとして、広陵を

     めざして退却を始めた。

      広陵は荊州の死命を制する軍事・戦略上の要衝で且つ物資の集積

     地でもあった。

      曹操は率いる大軍団の中から精鋭の騎兵五千騎を選抜し、劉備の

     後を追わせた。

      逃げる劉備軍には、途中で彼を慕う十数万の住民が付き従ったので、

     牛歩の行軍となった。

      かくして曹操の追跡軍に捕捉されるのは、もはや時間の問題で、遂に

     襄陽から凡そ三百里の南、当陽の長阪坡で劉備の後尾が捕捉された。

      劉備は奮戦するも敵すべきもなく、すさまじい白兵戦となり、劉備軍は

     四分五裂となり、劉備自身は妻子を見失い、わずかな手勢で戦線を

     離脱し、夏口を目指した。

      この乱戦の最中、劉備の股肱の臣・趙雲は行方不明となった劉備の

     妻子を救出。

      また豪勇無双の張飛は、殿となって長阪坡に留まり、孤軍奮闘した。

      曹操の次なる戦略は南方の呉の攻略であり、軍を江陵に進めた。

      時に諸葛孔明は、荊州の情勢視察と劉表の弔問を兼ねて荊州を

     訪れていた呉の魯粛に出会い、孫権と劉備との同盟を勧められた。

      孔明は自らも意図していたことでもあり、劉備にその旨を進言した。

      劉備は、ここは渡りに船であるとして、さっそく諸葛孔明を使節に

     任じて、呉の孫権の下に派遣した。

      呉の孫権は、諸葛孔明の理路整然とした利害得失論と敵味方の

     戦力分析や対策に非常に喜び、かくして呉蜀同盟は成った。

      ところが、その後 曹操から孫権宛に書簡が贈られてきた。

      「水軍八十万を率いて、江東を下り、呉の地で将軍とお会いして狩り

     をしたい」と。

      体の良い降伏勧告である。孫権が重臣会議を開きその書を示すと、

     宰相張昭を始めとして、皆 戦争回避を訴えた。

      だが魯粛一人が反対を唱え、孫権に周瑜を御前に召すよう進言した。

      この時、周瑜は来たるべき水戦に備えて、水軍の訓練をしていた。

      会議に呼び寄せられた周瑜は、不退転の決意を以て、

      「我に三万の水軍を任せてくだされば、夏口に出陣し曹操軍を破って

     御覧に入れましょう」と対えた。

      その自信の程は、敵は騎馬戦は得意であっても、水戦は不慣れで

     あり、且つ長途の遠征で兵は疲れている上、南方特有の疫病に悩まさ

     れ戦意は低いという読みから来ていた。

      かくして孫権は、重臣たちを半ば威圧して、十一月、周瑜を総司令官、

     程普を副司令官、そして魯粛を幕僚長に任じた。

      周瑜は三万の水軍を率いて長江の流れを遡り、赤壁で曹操軍と対峙

     することになった。

      周瑜軍は長江南岸の陸口に、曹操軍は北岸の烏林に軍陣を敷き、

     互いにその出方を窺った。

      劉備は、この時 余りにも呉軍の軍勢が少ないことを懸念し、

     関羽・張飛らの二千の軍を率いるのみで、自軍の全軍合流はしばらく

     見合わせることにした。

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    Author:tyouseimaru
    出身地は四国八十八か所参りの発心の阿波、大阪を終の棲家とする。
    歴史好きで、城郭・神社仏閣・歴史遺跡巡りが趣味となる。
    歴史小説や時代小説を好み、往年の著名な時代小説の類は概ね完読と、自負している。

    自薦
    自著「中国通史で辿る名言・故事探訪」の 上・中・下の3巻を、 近い内に「電子書籍」での出版を予定しています。 今年一年間は、さらに工夫を加えるなどして、補記訂正などの校正を第一義としています。       
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