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    中国通史で辿る名言・故事探訪(鰥寡孤独)

     「鰥寡孤独(かんかこどく)

                        晋時代

      寄る辺の無い人々のこと。

      年老いて妻の無い男性と夫のいない女性、父親の無い子と

     子の無い老人。

      「老いて妻無きを鰥(かん)と曰(い)い、老いて夫無きを寡と曰い、

     幼にして父無きを孤と曰い、老いて子無きを独と曰う。」

      ※ この四者は、いずれもこの世に身寄りの無い者を羅列したもの。

        一人で孤と独を併せて「孤独」は意味を為なすが、鰥と寡を併せた

        「鰥寡」は意味をなさない。

                         「孟子 梁惠王下」

                        

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    テーマ : 中国古典・名言
    ジャンル : 学問・文化・芸術

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(烏鳥の私情)

     「烏鳥(うちょう)の私情」

                         晋時代

      親に孝行を尽くしたいという心情を、謙遜して言う言葉。

      烏鳥は、乃ち烏(カラス)のことで、中国で烏は、親に養われた深い恩

     を返す孝行な鳥とされる。

      李密の「陳情表」の続いて、

      曰く、

      「臣、密は今 年四十有四歳(四十四歳)、祖母劉は今 九十有六

     (九十六)なり。

       これ臣が節を陛下に尽くす日は長くして、劉に報ずるの日は短き

     なり。

       (=臣たる私が、陛下に忠節を尽くせる年月は長くして、祖母劉の

        恩に報いることの出来る日は限られております。)

      烏鳥の私情、願わくば養を終えんことを乞う。

      (=親に孝養を尽くしたいという私の心情を汲んで戴きまして、

       どうか最期を看取らせて戴きたく、お願いいたします。)

      臣の辛苦は、一人蜀の人士及び二州の牧伯(州の長官)の明知せる

     所のみに非ず。皇天后土(天地の神)も実に共に鑒(かが)みる所なり。

       ※ 二州の牧伯

          晋に併合された旧蜀領の、乃ち当時の益州の太守・賈逵(かき)

         は李密を孝廉に推挙した。

           晋の粱州の刺史・顧栄は、李密を秀才に推挙した。

      願わくば陛下、愚誠を矜愍(きょうびん。哀れむこと)し、臣の微志を

     聴かれんことを。   

      臣 生きては当に首(こうべ)を隕(おと)すべく、死しては当に

     草を結ぶべし。

      (=生きている間は吾が命を掛けて陛下にお仕えし、死んでから

       後も陛下の危急に際しては、御恩に報じたい所存でございます。)  

       ※ 草を結ぶとは、恩返しの故事の引用。 

      臣 犬馬怖懼(けんばふく)の情に勝(た)えず。

      (=臣たるこの私 身分卑しき臣下として畏れ大きながら、私情には

       勝ちえません。)

      謹んで表を奉りて以て聞す。  

      武帝は、この李密の慈愛と心情溢れる「陳情表」を手にして、

      彼の誠の孝行を嘉して、奴婢二人を賜った。

                  「晋書 孝友伝」、「古文真宝 李密・陳情表」

    テーマ : 詩経・漢詩・詩賦等
    ジャンル : 学問・文化・芸術

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(形影相弔)

     「形影相弔(けいえいそうちょう)

                         晋代

      頼るべき人がおらず、非常に孤独で寂しい様。

      自分の体とその影が、互いに慰め合うの意。 

      陳情表は続いて、

      曰く、

      「既に伯叔無く、終(つい)に兄弟鮮(すく)なし。

      門は衰え祚(さいわ)
     薄く、

      晩に児息(吾が子)有り。


      外には期功強近の親(長い喪に服すべき近い親族)無く、内には

     応門五尺の僮なし。

         ☞ 応門五尺の僮(おうもんごせきのどう)とは、来客を接待

          する十二,三才の童の召使い。

      煢煢(けいけい)として孑立(けつりつ)し、形影相弔う。

      (=一人ぽっちで頼る所もなく余儀なく独り立ちしたが、影と形が

       お互いに慰め合うように、非常に孤独で頼りない有様であった。)

       ☞ 煢煢とは、孤独なさま。頼る所のない様。

         孑立とは、独り立ち。

      而して劉は夙に疾病に嬰(かか)り、常に牀蓐(しょうじょく。病床)

     在り。

      臣は薬湯に侍り(枕頭での薬の世話をし)、未だ嘗て廃離せず

      (少しの間も病床を離れなかった)

      今 臣は亡国の賤俘(せんぷ。賤しい捕虜)にして、至微至陋(しびしろ

     う)
    なり(至って微賤なる者)。過って抜擢を蒙り、寵命優渥(ちょうめい

     ゆうあく。天子の恩沢の
     手厚いこと)なり。

     豈敢えて盤桓して希冀(きき)する所に有らんや。

     (=より一層の名誉を請い願って、ぐずぐずして意を決しかねている

      というのではございません。)

        ☞ 盤桓は、ぐずぐずしてためらうの意。

          希冀は、請い願うの意。

      但だ以(おも)えらく、

      劉、日は西山に薄(せ)まりて、気息奄奄(きそくえんえん)たり。 

      (=祖母の劉は、日が西に沈まんとするように余命幾ばくもなく、

       当に息も絶え絶えであります。)

      人命は危浅にして、朝(あした)に夕(ゆうべ)を慮(はか)られず。

      (=人の命というものは儚くて、その日の朝に夕べの事さえ予測

       することは出来ません。)

      臣、祖母無くんば、以って今日に至るなく、祖母も、臣無くんば、

     以って余年を終うる無し。

      母孫二人、こもごも相 命を為す(共に命を大事と思っている)

      是を以って区区として、廃遠する能わず。

      (=それ故にくよくよ迷ってしまい、祖母の元を遠く離れる事が出来

       ないのです。)

      ※ 臣は亡国の賤俘とは、李密はその昔 三国時代の蜀朝に仕えて

       尚書の官を歴任してきたが、正統王朝を自認する魏朝及びその

       後継王朝たる晋朝からすれば、偽朝に宮仕えしていたので、憚って

       かく謂うのである。

    テーマ : 中国古典・名言
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    中国通史で辿る名言・故事探訪(零丁孤苦)

     「零丁孤苦(れいていこく)

                        晋時代

      幼少の頃に親を亡くして、非常な苦労をすること。

        ☞ 零丁とは、落ちぶれて孤独な様。

           孤苦とは、幼くして親を亡くし、非常に苦労すること。

     《 李密の陳情表 》

       晋の武帝の御代、泰始三年(267年)に任官を請われた李密(令伯)

      は、養育を受けて来た恩ある高齢の病身の祖母を一人残して赴任

      することは出来ないとして、上書(陳情表を奉って)して任官を辞退し

      ようとした。

       ※ その上書たる陳情表は、中国の「三絶文」と言われ、当に涙を

        そそる名文である。

          絶文は、優れた文の意で、「三絶文」には、李密の他に、

        蜀の諸葛亮「出師の表」、唐の韓愈「祭十二郎文」がある。 

       絶文に曰く、

       「臣 険釁(けんきん)を以って、夙に閔凶(びんきょう)に遭う。

       生孩(せいがい。乳呑み児)六月にして、慈父に背かれ(亡くなった

      こと)、行年(こうねん)四歳にして、舅(きゅう。母方の叔父)は、

      母の志を奪う(母の意に沿わぬ事を言い、再婚させられたこと)

       祖母の劉、臣の孤弱なるを愍(あわ)れみ、躬親(みずか)ら撫養す。

       臣 少(わか)くして、疾病多く、九歳にして行(あゆ)まず《出歩き

      もままならなかった》、零丁孤苦にして成立(せいりつ。成長するの意)

      に至る。

      ☞  険釁とは、険しい苦難災禍の事で、耐えがたい不幸を言う。

         閔凶とは、父母に死別する不幸。
     
         閔は憂える、凶は禍々しいこと。

         行年とは、経過した齢、取った年数。

         ※ 日本では、「ぎょうねん」といい、生き永らえた年数、

          すなわち享年(きょうねん)のこと。

       

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(陸抗嘗薬)

     「陸抗嘗薬(りくこうしょうやく)

                        魏晋時代

      呉の陸抗(りくこう)は、敵将である晋の羊祜(ようこ)から贈られた

     薬を疑うことなく服用した。

     》 羊祜と陸抗 《

      晋の武帝は呉を攻略する布石として、荊州の都督に羊祜を任命した。

      羊祜は後漢の名士蔡邕(さいよう)の外孫であり、司馬師の義弟でも

     あった。

      方や呉の孫皓も之に対抗して、陸抗を司令官とした。

      陸抗は、呉の名将として名高い今は亡き陸遜の子である。

      ところがこの二人は、それぞれ皇帝の思惑とは裏腹に、国境を挟んで

     対峙しながらも、互いに誼を通じ合っていた。

      羊祜は陸抗から贈られる酒を疑いもせずにに飲むし、陸抗も病気の

     際、羊祜から贈られてきた薬草を躊躇わずに服用するといった具合で

     あった。

      また相戦う羽目になっても、羊祜は事前に呉側に侵攻の日時を通告

     して、奇襲を掛けるようなことはしなかった。

      また陸抗も侵攻があっても、敵を撃退するに留め、積極的に戦闘を

     拡大するようなっ事はしなかった。

      やがて陸抗は、呉の将来を案じながら世を去った。

      羊祜は当に時至れりと、呉討伐を奏請した。

      だが評議に参加した重臣連中は、その意見に反対であった。

      羊祜の奏請に同調したのは、杜預と張華の二人だけであった。

      羊祜は嘆じて言う、

      「天下、意の如くならざるもの、恒に十に七,八に居る」と。 

      其の後 羊祜は、病に罹るも、病をおして直接 武帝に訴えた。

      武帝は羊祜の意見を取り上げ、車に寝たままでもよいから指揮を

     執れと望んだが、羊祜は程なく死んでしまった。

      その後任として杜預が鎮南大将軍二任命され、荊州に赴いた。

                   「十八史略 晋」 、「晋書 羊祜伝」

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(天禄永えに終わり、)

     「天禄 永(とこし)えに終わり、暦数 晋にあり」

                        晋(西晋)時代

      魏の天子たる地位資格は永遠に去り、天命は晋に下った。

        ☞ 暦数とは、天命を受けて帝位に就く運命。

     魏の景元元年(265年)八月、晋王・司馬昭が没して、子の司馬炎が

     全権を継承した。

      司馬昭は、司馬炎の同母弟・司馬攸(ゆう)が司馬昭の兄・司馬師

     の養子となっていたので、当初は司馬家の正嫡の関係を重視して、

     その司馬攸を大子に立てようと考えていた。

      だが、重臣の反対もあり、司馬炎を正式に大子にするという経緯が

     あった。

      そしてその十二月、司馬炎は魏の元帝から禅譲を受けて、晋王朝を

     創建することになった。

      司馬炎は、洛陽に遷都し、元号は「泰始」と定めた。

      司馬炎、乃ち晋の武帝は、在位中に呉を滅ぼし全国を統一した。

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    テーマ : 神話伝説逸話
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    中国通史で辿る名言・故事探訪(死生 命無し、)

     「死生 命(めい)無し、富貴 錢(せん)に有り」

                        三国時代

      人の生と死は天命によることなく、富貴は当に金銭に有る。

      魏晋時代の王戎と同時代に生きた魯褒(ろほう)という学者がいた。

      彼は王戎とは対照的に清貧に甘んじて、而もいささかも屈託が

     無かったと言われる。

      その彼が、王戎の拝金の守銭奴で、錢万能主義に対して、自らの

     論著「銭神論」の中で、

      「死生 命無し、富貴 錢に有り。」

      と論語の一節を故意に曲げて引用して、揶揄批判した。

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(李を売りて、)

     「李(すもも)を売りて、核を鑚(き)る」

                         三国時代

      吝嗇(りんしょく。物惜しみをすること)の喩え。

      李を売るが、売る前にその実の中の核に傷を付けておくの意。

      竹林の七賢の一人、王充の故事。

      「王充、好李有り。常に之を売る。

       人の其の種を得るを恐れ、恒に其の核を鑚る。」

       (=王充は、美味しい李の木を育てていたが、果実を人に売って

        いた。 

         しかし、李を買った人が其の種を植えて育てることを心配して、

        売る前に予め核に穴を開けておき、芽がよく出ないようにして

        おいた。

                           「世説新語 倹嗇」

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(思旧の賦)

      向秀 「文選・思旧の賦」

                       三国時代

         嵆康広く技芸を綜(す)べ、糸竹に於いて特に妙なり。

           ※ 綜べるは、通じるの意。

              糸竹は、音楽。

         当に命(めい)に就くべき時に臨み、

              命に就くとは、刑の執行を受けること。

         顧みて日影を視、琴を索(もと)めてこれを弾ず。 

         逝きて将に西に邁(ゆ)かんとし、

         其の旧蘆(きゅうろ)を経たり。

         時に日は虞泉に薄(せま)りて、寒氷凄然(せいぜん)たり。

             凄然は、寒々としている様。

         隣人 笛を吹く者あり、声を発して寥亮(りょうりょう)たり、

             寥亮は、非常に寂しい様。 

         曩昔(のうせき) 遊宴の好みを追想し、音に感じて歎ず。

             曩昔は、かつて との意。

         故に賦を作る。 

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(一飲一斛、)

     「一飲一斛(こく)、五斗 酲(てい)を解く」

                         三国時代

      一度(ひとたび)、酒を飲めば一石、その酔いを醒ますには、五斗の

     酒がいる。

      竹林の七賢の一人である劉伶、字は伯倫。

      妻はしばしば夫の酒量に苦言を呈するが、聞く耳を持たず。

      或る日 妻が祭祀の用意をして、酒肉を神前に供えると、劉伶は

     跪いてから祈った。

      「天、劉伶を生じ、酒を以って名を成さしめる。

      一飲一斛、五斗 酲を解く。

      婦人の言は、慎んで聞く可からず 」と。

         ☞ 斛=石

            1石=10斗

                     「世説新語 任誕篇」


      

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(山公啓事)

     「山公啓事」

                        晋時代

      魏の山濤は、人材の登用に優れていたので、山濤公の啓事と

     通称された。

      山濤は司馬師や司馬昭とは、また従兄弟の関係にあって、人脈が

     無かった訳ではなかったが、出仕は歳四十になってからであった。

      その役職も中央からではなく、郡の主簿(文書担当官)が振り出し

     である。

      そのご司馬仲達と曹爽の確執があって、一時公職から身を退くが、

     司馬仲達が実権を掌握してから復職し、司馬昭からは非常な信頼を

     受け、その後 司馬炎(武帝)が晋王朝を開いた時には、初代の

     大鴻臚(外務大臣)に任命された。

      彼は朝廷に在っては、特に人材の登用に優れていたので、

      人々から、「山公啓事」と称賛された。

      またその人物の度量が非常に大きかったので、「山濤識量」とも

     言われた。

      彼は竹林の賢人とも言われるが、山濤は晩年に至るまで公職を離れ

     ず、吏部尚書に任ぜられた時には、再三に亘り、武帝に「封禅の儀式」を

     執り行うよう進言すなど、俗物ぶりを露呈している。

      山濤は、阮籍・嵆康とは断金の如き交わりを結んだが、山濤の妻は

     彼らの交際が普通でないのを知り、山濤に言う、

      「私も二人の人物を知りたいので、自宅に招いてほしいものです」と。

      後日 二人がやって来たので、妻は酒食を整え、別室から穴を通して

     観察したが、朝になるまで彼らが帰るのを忘れていた。

      その後、山濤は妻に尋ねた。

      「二人はどうであったか」と。

      妻は言ったものである。

      「あなたは才能では、あの二人にとても及びません。だから見識と

     度量でお付き合いなさいませ」と。

      山濤は応じて言う、

      「彼らも、いつも私の度量が優れていると言っているよ」と。

                        「晋書 山濤伝」

    テーマ : 神話伝説逸話
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    中国通史で辿る名言・故事探訪(鳳字を題す)

     「鳳字を題す」

                        三国時代

      人を愚弄すること。

      鳳の字を書き付けるの意で、鳳の字は分解すると、凡と鳥になる。

      即ち「凡鳥」である。

      魏の嵆康と呂安(りょあん)は、その仲がとても良かった。

      一度 互いに思い出すと、千里離れていても馬車の用意を命じた。

      だが、安が遅れて来て、康の不在に出くわした。

      康の兄の喜が戸を出て、安を家に招じ入れようとした。

      ところが、安は入らず、門の上に「鳳」の字を題してから去った。

      喜は其の意が分からず、安は喜んで帰ったものと思っていた。

      しかしこの「鳳」の字は、分解すると「凡と鳥」となるのであり、

     実の所 安は、喜を愚弄して帰ったのであった。

                    「世説新語 簡傲(かんごう)」



      
     
      

    テーマ : 中国古典・名言
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    中国通史で辿る名言・故事探訪(白眼視)

     「白眼視」

                        三国時代~

      他人を卑しみ、冷たくあしらう事。

      魏の阮籍は、世俗的な礼節を好まなかったので、そればかり気に

     するような人を軽蔑していた。

      そして、仕方なくそういう人に会う時には、相手と目を合わさず、

     意識的に白眼で見たという。

      また逆に好意を抱く人と会う時には、相手の目を直視したので、

     青眼(黒目)で見たという。

      この阮籍の故事から、白眼・青眼の成語が出来たと言われる。

                        「晋書 阮籍伝」

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(竹林の七賢)

     「竹林の七賢」

                        三国時代~

      三国時代の魏から晋の時代にかけての三世紀後半、世俗を避けて

     竹林に集い、酒と琴などを楽しみつつ、所謂 「清談」に耽った七人の

     賢人をいう。

      時にめまぐるしい政治社会の変転、不安定、汚濁の世に、欺瞞的な

     儒教の束縛を嫌悪し、超俗的な老荘思想に心酔して、世俗を軽蔑して

     竹林に集い、酒に酔いしれての奇矯・放埓の言動をした、所謂 「清談」

     をした者たちがいた。

      だがこうした奇矯の数々は皆、政治的韜晦の手段であり、清談にしても

     哲学上の問題が中心であって、政治論議は避けて、其の他の俗事に関わ

     らないものであった。

         ☞ 韜晦とは、才智や学問を包み隠して外に表さないこと。

      この竹林の七賢の行状を、興趣深く紹介したのは、南朝・宋の高祖・

     劉裕の甥に当たる劉義慶が、その著の「世説(後に世説新語と)」に於い

     てである。

      魏から晋にかけて生きた彼らの行状は、当時の書には何も記されて

     いなかったが、東晋時代になってから、急に人々の膾炙に上るように

     なったと言われる。

      だから、七人が竹林に集うて、清談を交わしたというのは、後世の

     作り事であると言われる所以でもある。

      竹林の代表的人物は、阮籍(げんせき)である。字は嗣宗。

      曹操の時代に、「建安七子」の一人であった阮瑀(げんう)の子。

      「永懐詩」などの著がある。 

      「其の他の賢人」

      嵆(稽)康。字は叔夜。魏の曹操の曽孫を妻にする。

      山濤(さんとう)。字は巨源。司馬懿の親戚筋の人。

      劉伶。字は伯倫。

      阮咸(げんかん)。字は仲容。阮籍の甥。

      向秀(しょうしゅう)。字は子期。

      王充。字は濬仲(しゅんちゅう)。名門の琅邪臨沂の王氏の一族。

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(孟宗寄鮓)

     「孟宗寄鮓(もうそうきさ)

                         三国時代

      孟宗が鮓(さ)を作って母に贈る。

        ☞ 鮓とは、塩と米を併せて漬けた魚料理。

      「呉録」に言う、孟宗は少時に李粛について学ぶ、と。

      遊学に際して、彼の母は厚い綿の敷布団と大きな夜着を作ってやり、

      「子供は徳がなければ、益友とは交われない。学生の多くは貧しい

     から、今こうゆう厚い敷布団を持って行けば、貧しくて良い敷布団を持た

     ないが、同じく志のある友と交わることが出来るだろう」と言って、

     持たせてやった。

      彼の勉強ぶりは、朝早くから夜遅くまで努めて、怠ることはなかった。

      そんな彼を見て、師の李粛は誉めて、

      「お前は将来きっと、宰相になる器だ」と言った。

      学業は成り、彼は池魚を司る役人になった。

      そして元来が親孝行であったので、自分で網を編み、手ずから魚を

     獲って鮓を作り母に贈った。

      すると母はこれを受け取らずに戻して、

      「お前は魚を管理する役人となりながら、自分で魚を獲り鮓を作って、

     私に贈ってくるとは、人から嫌疑を蒙らぬわけにはゆくまい」と言って、

     厳しく戒めた。

      後に彼は県令に上ったが、当時の禄の少ない役人は家族を連れて任地

     に赴任することは出来なかったが、彼も同様であった。

      そこで已む無く母と別居していたが、任地で時季の物が手に入ると、

     先ず母に贈らなければ自分で先に食べることはなかった。

      また『楚国先賢伝』という書では、

      彼の母は、日ごろ筍が好物であった。

      ある冬の、これから寒さに向かおうとする時、孟宗は竹藪に入ったが、

     まだ時期も早く筍は生えていなかった。

      分ってはいたが孟宗は、竹藪に入り嘆き悲しんだ。

      ところが不思議なことに、筍が生えてきたのである。

      彼は掘って持ち帰り、母に食べさせることが出来た。

      世の人は皆  至孝が天地に感応した結果だと、大いに感服した。

      後に、彼はついに司空にまで昇進した。

                           「蒙求 孟宗寄鮓」

      ※ 「呉録」も「楚国先賢伝」も既に佚書となっていたが、

       「三国志 呉志・孫皓伝」に基づく。

         説話後半の部分は、「孝子二十四孝」の一つに数えられ、

        「孟宗竹」の由来となる。

     

      

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(呉国の末路)

     「呉国の末路」

                        三国時代

      呉の元興元年(264年)二月に、三代皇帝景帝(孫休)が崩じた時、

     大子はまだ幼く、この難局を乗り切るためには成人の皇帝を立てるべき

     であるとして、丞相濮陽興は左将軍の張布らに諮って、元の廃大子で

     ある孫和の子・孫皓(こう)を迎えて帝位に就けた。

      ところがこの孫皓、帝位に就くや途端に暴君振りを発揮するように

     なった。其の内 孫皓を皇帝に推した二人は、孫皓に誅殺され、以後

     彼の暴走は止まるところを知らず、悪逆無道、遊興淫楽を事とする

     ようになった。

      人民の心は孫皓から離れ、もはや身命を擲って国を守ろうとする者は

     いなくなってしまった。

      結局 呉・天紀四年(280年)、呉は晋の武帝に滅ぼされたが、呉の

     最後の王(末帝)となった孫皓は、自ら進んで降伏したと云う事で、晋に

     迎え入れられ、帰命侯に封じられて存命したが、晋・太康元年

     (284年)に没した。

      

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(領袖)

     「領袖(りょうしゅう)

                        三国時代

      人や組織団体を率いて、その棟梁(統率者)となる人。

        ☞ 領袖の領は衣服の襟(えり)、袖は袖(そで)。

          いずれも衣服の中で最も目立つ部分である。

      襟や袖をつかんで引き上げると、着衣がずり上がるところから、

     領袖と言えば、人や組織団体の統率者を云うようになった。 

      三国時代の末、魏の魏舒(ぎじょ)は名門貴族の出身であったが、

     父を早く亡くして母方の一族に育てられた。

      長ずるに及んで、体格・容貌も衆に優れていたが、性格は至って

     茫洋としていた。そんな訳で、一族からは大きな期待は持たれて

     いなかった。

      彼がようやく四十歳を過ぎた頃、官吏登用の九品官人法により、

     尚書省の衛郎になった。だが彼は期する所があって職を辞し、魏王朝

     最大の実力者であった司馬昭に迎えられ、彼の個人的相談役となった。

      やがて司馬昭が、魏国元帝から九錫(きゅうしゃく)を進めて「晋王」

     に封ぜられると、司馬昭 即ち晋王の魏舒に対する信任は日ごとに増し、

     魏舒は遂に晋王の封地の丞相となって、よく治めた。

      晋王はしばしば、魏舒が宮殿から下がる後姿を見送りながら、

      「魏舒の容貌態度は、実に堂々たるものだ。

      当に人の領袖たるべき士大夫だ」、と述懐したと云う。

                       「晋書 魏舒伝」

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(充閭の慶)

     「充閭(じゅうりょ)の慶」

                         三国時代

      生まれてきた子が将来、出世して家門が繁栄することを願う言葉。

      客が訪れて閭門が充ちる喜びの意。 

        ☞ 閭は、邑里の入り口にある門。

      賈充(かじゅう)の父・賈逵(かき)は、魏王の曹操及び魏朝の曹丕

     (文帝)に仕えて功を立て、豫(予)州刺史となり関内侯に封ぜられた。

      賈逵は晩年になってから、ようやく初めて男子を授かったが、その喜び

     たるや筆舌に尽くし難く、「充閭の慶」がありますようにと念じて、その

     子に「充」という名と「公閭」という字を付けた。

      そしてこの賈充は、後の晋王朝の時代、武帝に仕えて司空となり、魯公

     に封ぜられた。

                         「晋書 賈充伝」

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(鳳や鳳や、)

     「鳳や鳳や、故(もと)より是れ一鳳なり」

                        三国時代

     鳳、鳳と言っても、それ乃ち一羽の鳳に過ぎない。

     魏の鄧艾(とうがい)は、後に蜀を滅ぼす大功を立てるが、彼は生来、

    言葉が吃音(きつおん)であった。

     その為に話をする時は、口癖で

     「艾(がい)、 艾(がい)、 ‥ ‥ ‥ 」,と言った。

     即ち聞く人にとっては、それが自分の名前を二回繰り返すように聞えた

    のである。

     司馬師(後に晋朝を開く武帝から 文帝の諡号を贈られる)は、これを

    戯れて言う、

     「卿は艾艾と言う、定めて是れ幾艾なるか」と。

     鄧艾の名前が「艾」であったので、それにひっかけて何人乂がいるのか、

    と揶揄して言ったのである。

     ところがこの鄧艾は、当に文武両道の秀でた人であったので、論語の

    一句をもじって答えた。

     「鳳や鳳や、故より是れ一鳳なり」、と。 

              南朝・宋の劉義慶編 「世説新語・言語編」


      「論語 微子篇第十八」

        楚の狂接與 歌うて孔子を過ぎて曰はく、

        「鳳や鳳や、何ぞ徳の衰えたる。往く者は諌むべからず。来たる者

        は猶追うべし。已みなん已みなん。今の政に従ふ者は殆し。」

        ※ 鳳は霊鳥であり、世の中 道があれば現れ、道が無ければ

         隠れて姿を現さない。

           狂接與は、鳳を以って孔子に比し、孔子がかかる無道の世

          から隠れることを欲したのである。

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(死して魏の鬼となる)

     「死して魏の鬼(き)となる」

                        三国時代

     この身は死しても、霊魂は魏の守り神となろう。

     救援軍要請の使命を帯びて呉の攻城包囲網を突破たものの、運拙く

    敵の哨戒兵に捕まった魏の劉整の慙愧の言葉。

     》合肥の新城攻防戦《   紀元253年

      呉の建興二年(魏の嘉平五年)五月、呉の太傅・諸葛恪は、魏の張特

     の守る合肥の新城を包囲した。

      守る張特の軍勢は、全軍合せても三千であったが、今や兵卒は病気や

     戦死で過半に激減していた。

      魏は大尉の司馬孚(ふ)に詔勅を下し、救援軍を赴かせた。

      ところが、その間隙を縫って蜀の姜維がまたも出撃して狄道を包囲した

     ので、魏は両面作戦を余儀なくされ、将兵は意気が衰えかけ、司馬師も

     弱音を吐くこともあった。

      司馬師は、虞松の進言を良しとして受け入れ、郭淮と陳泰の両将に

     命じて、関中の軍勢を率いて昼夜兼行で発向させ、狄道を攻める蜀軍の

     包囲を牽制させた。

      一方では新城救援軍の毌(かん)丘倹らに命じて、自軍の積極攻勢を

     禁じ、周辺の守りを徹底し、呉軍の挑発に乗ることなく専守防衛せよと

     命じた。

      その内、狄道を包囲する蜀軍は、予想外の魏の救援軍の急派に驚き、

     兵糧の備えも僅かであったので急遽、撤退した。

      新城に於いては、呉の諸葛恪は土山を築いて、連日猛攻をかけるが

     容易に陥すことは出来なかった。

      かくして新城の攻防は進展のないまま、三カ月に及んだが、この頃に

     なると 流石に城方にも守ることの不可能な状況を呈してきた。

      張特は呉の陣営に使者を出して、答礼の使者に口上を述べた。

      「私はこれ以上戦う気持ちはないが、魏の軍法では、敵の攻撃を

     受けて百日以上経過しても救援軍がなければ、投降したとしても家族

     は連座しないことになっております。

      今 私が敵襲を受けてから、九十日以上経過しております。

      この城中には元四千の将兵がおりましたが、既に過半は戦死して

     しまいました。この城が陥落したとしても、まだその半ばの者たちは投降

     を望まないでしょう。

      私はこれらの者と話し合い、投降に応ずる者と応じない者との名簿を

     作り、明朝 早く贈りましょう。

      暫くの間は、私の印綬を証拠としてお持ち帰りください」と告げた。

      呉の使者はその言葉を聞くと、印綬は受け取らなかった。

      呉の使者が帰陣すると、攻撃は直ちに中止された。

      夜になると、張特は全将兵を督励して、家屋を解体して柵を補強

     したり、戦闘で損壊した城壁を補修した。

      そして明くる朝、呉の使者に対して、

      「我には、ただ戦闘による死あるのみ」と告げた。

      呉は激怒して、直ちに猛攻撃をかけたが、城方の守備軍はよく耐え

     忍んだ。

      その後も攻防は繰り返されたが、結局 呉は新城を陥落させることが

     出来ず、長期の遠征で将兵は疲弊し、七月 已む無く全軍帰還した。

     》新城の二人の勇士秘話《

      呉軍の長期に亘る包囲猛攻に窮した新城では、城中から二人の勇士

     を選んで「特命密使」として城外に放たれた。

      包囲網を突破して城外に出でた劉整は、運悪く敵の哨戒兵に捕捉され、

     城方の情報について厳しい追求を受けた。

      取り調べに当たった者は、劉整に向かって、

      「諸葛公(呉の諸葛恪)は、勇敢なお前を生かしてやりたいと思って

     おられる。だから在りのままの事を話せ」と。

      劉政は、

      「何を言うか。我は死して魏国の鬼となるのだ。

      仮初めにも生き永らえるつもりはない。鬼となって、お前らを追い

     払ってくれようぞ。

      殺そうと思う奴は、さっさと殺せ」、と罵倒して押し黙ってしまった。

      もう一人の密使である鄭像は、敵軍の重囲の中をかいくぐって逃れ、

     首尾よく特命を果たしたが、帰城して報告を果たす前に、呉の哨戒網に

     捕捉されてしまった。

      呉軍の命を受けた四,五人の士卒は、彼の頭に馬の羈(オモガイ)を

     括り付け、後手に縛り上げてから、城に正面する所へ連行し、鄭像に

     対して強要した。

      即ち、城中に向かって、

      「救援の大軍は、既に洛陽に帰還したぞ。早く投降するがよいぞ」と。

      鄭像は城中に向かって、張り裂けんばかりの大声で叫んだ。

      「味方の大軍は、間近まで来て 囲みの外側にいるぞ。勇士たちよ、

     勉めよ励めよ」と。

      彼を取り巻いていた士卒は、刀で彼の口を塞ぎ、再び言わせまいと

     したが、鄭像は構わず大声で叫び城中に援軍到来を知らせたのである。

      この二人の勇士は、将や士と異なる「兵籍」の者であったが、戦後 

     鎮東将軍毌丘倹の進言により、関内侯の爵位が追贈され、兵士の

     名簿から除外され、その子に爵位を継がせた。

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(王褒これに在り)

     「王褒(おうほう)これに在り」

                         三国時代

      魏の王褒の母は、平生ひどく雷を懼れる人であった。

      その母が亡くなった後にも、王褒は電車(雷のこと)のしける時には、

     急ぎ母の墓所へ行って、「褒はこれに在り」と言っては、墓の周囲を

     廻り、死んだ母に力を添えたと謂う。

      人は言う、

      「このように死して後まで孝行を続ける王褒の、生前の親に対する孝行

     や推して知るべし」と。

      王褒は、舜や曾参などの古今の孝子を総称する「二十四孝」の一人に

     数えられる。

      祖父の王脩(しゅう)は後漢末、渤海の太守・孔融の主簿(文書帳簿

     の管理官)となり、高密県の令を務め、孔融の死後は袁譚に仕えて、

     その忠節ぶりが謳われた。後 曹操に仕えて、魏郡太守となり、大司農

     や郎中令となった。

      王脩の子である王儀は、気品ある誠実な人柄であったので、安東将軍

     の司馬昭(後の晋の元帝)は、王儀を自らの司馬に任じた。

      魏・嘉平四年(252年)、魏は呉に対して討伐軍を発向したが、

     事実上 負け戦となって虚しく帰還した。

      司馬昭は、司馬の王儀に言った、

      「この責任は誰が負うのか」と。

      王儀は、

      「軍の責任は統帥にございます」と。

      言わずもがなの王儀は、激怒した司馬昭に誅殺されてしまった。

      この王儀の子が、王褒である。

      字は偉元と言い、若年より品行高く、礼に外れた行動は取らなかった。

      罪無くして断罪された父の無念を思い、一期の間は、其の方に

     向かって座る事は無かった。

      そして世間との交渉を絶ち、父の墓の側に廬を建て、来る日も来る日も 

     朝夕は頠づいては祈りを捧げたが、悲しみの余り、側に植えられた柏の木

     に取りすがって哭礼した。

      彼の涙がその木に降りかかり、やがて柏の木が枯れてしまった。

      やがて王褒は、教育こそが己の天職とし、遂に官に就く事は無かった。

      彼の晩年、国都の洛陽は崩壊したので、王褒の親族を含め多くの者

     たちが南方に向かって避難して行ったが、王褒は先祖の墳墓に執着し

     て決心がつかなかった。

      賊徒は次第に強勢となり、流石に王褒も墳墓を後にして泰山郡まで来た

     が、郷土を懐かしんで進むことを承知せず、其の内賊徒に捕まり殺害され

     てしまった。

                         東晋時代 干宝「捜神記」

      

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(藍田生玉)

     「藍田生玉(らんでんしょうぎょく)

                        三国時代

      「藍田 玉を生ず」と訓読。

      名門に賢い子が産まれたことを、父子ともに褒め称える言葉。

     》晩節を汚した孫権の死《   紀元252年

       呉の赤鳥十三年(250年)、孫権は大子問題に自ら断を下し、

      覇には賜死、和は大子を廃して流罪となし、和の子で孫になる

     亮を大子に立てた。

      ところが、その措置に諫言する者が続出したが、孫権の逆鱗に

     触れて、十数人が誅殺された。

      孫権はその後 間もなく崩じるが、大子となった孫亮は十歳と幼少で

     あったので、かつての大子党であった大将軍で太傅の諸葛恪(かく)に

     その後見を託していた。

      この諸葛恪は、蜀の丞相諸葛孔明の兄である諸葛瑾(きん)の長子

     である。

       諸葛恪が生まれた時、琅邪の名門でもあった諸葛家を祝して、

      人々は、「藍田、玉を生ず」と。

       ※ 藍田は、美玉の産地として知られた山名で、ここから出る玉は、

        「藍玉」と言われた。

         藍田は、現在の陝西省藍田県にある。

                         「三国志 呉志・諸葛恪伝」

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(老生常譚)

     「老生常譚(ろうせいじょうたん)

                        三国時代

      よく聞く決まりきった話。

       年老いた書生のありきたりの陳腐な話(たわごと)の意。

      魏の管輅(かんろ)は、易占いに長けていた。

      管輅は字は孔明と言い、冀州(きしゅう)平原の人である。

      管輅別伝に曰く、幼にし天文を好み、其の才知は並外れていた、と。

      成人するに及んで、果たして周易に明るく、天文占い、風角(風占い)、

     吉凶人相見など精通せぬものとて莫し、と。

      管輅をよく知る者が、冀州刺史の裴徽(はいき)に彼を熱心に推薦

     すると、刺史は彼を召し出し、文学従事の官に任じた。

      その後 刺史は、彼の英邁な才能を知るに及んで、友としての交わり

     を結び、自分の異動とともに彼を治中別駕に任じた。

      その後 正始九年(248年)には、秀才に推薦され、彼は初めて都に

     上った。

      同年十二月二十八日、吏部尚書・何晏は管輅を招待した。その席には

     もう一人の尚書・鄧颺(とうよう)も同席していた。

      何晏は管輅に言った、

      「あなたの卦は、聞くところによると神業の如し、と。どうか一度 卦を

     立てて、私の官位が「三公」にまで上るか見てくれないか」、と。

      管輅は、率直に何事も包み隠さず申し上げましょうと前置きをして、

      「その昔、八元・八愷(はちがい)という立派な臣下は、舜帝をよく輔佐

     し、ねんごろで和らいだ政を敷きました。

      また周公が成王を後見して政を行った時には、夜中に良い施策を思い

     浮かべば、まんじりともせず朝を待ち、すぐさま実行に移されました。

      さればこそ、輝かしさを世界に伝え、万の国々は安らいだのです。

      これらは正しい御政道を履み行った目出度い験(しるし)であって、

     卜筮などによって明らかに出来る事ではございません。

      ただ今の貴方様は、位は山岳よりも重く、御威勢は雷や稲妻のようで

     ございますが、恩徳に懐き寄る者は少なく、皆 御威勢を恐れるばかり

     です。

      また鼻と申しますものは、艮(こん。八卦の一つ)の卦に対応する

     もので、これこそ天中の山であって、高くとも危うからず… …、それが

     顕貴の地位を守ってゆくための道と言えます。

      ところが、青蠅という醜悪なものが、ここに寄って参りました。

      険しい所に位置を占める者は転がり落ち、他人を侮り驕る者は亡び

     ます。

      満ちては欠ける運命、盛んになれば衰える時の巡りに、思いを致さ

     ねばなりません。

      己を卑下すれば必ず其の力は大きくなり、道に外れたことを行えば

     必ず失敗するものでございます。

      どうか貴方様は、古の文王が六爻(りくこう)を演繹されたことを思い

     起こされ、降っては孔子様が作られた易の彖伝(たんでん)・象伝

     (しょうでん)の意味をご再考なさいますように。

      さすれば、三公の地位は確実なものとなり、青蠅も追い払うことが

     出来ましょう」、と警告した。

      其の言わんとするのは、易をもっと勉強して徳を深めないと危い、

     という意趣である。

      だが同席していた鄧颺は、意にも止めずに、

      「老生の常の譚(たん。言い草)なり」と言って取り合わなかった。

      管輅は言う、

      「老生と申す者は、生を越えたものを見ることが出来、常の譚の中に

     言葉を越えた深い意味が現れるものでございます」と。

      何晏は、

      「年が明けたら、もう一度会おう」、と言って話を打ち切った。

      管輅は宿舎に帰ってから、叔父に詳しくこの会見の模様を語った。

      叔父は余りにも明け透けに物語ったとして非難したが、
     
      管輅は、
      
      「死人と話しているのに、何の畏れ憚ることがありましょうや」、と

     淡々たる者であった。

      その事があった翌年の、十日余りの後 何晏・鄧颺の二人は、

     そろって断罪されてしまった。

                        「三国志 魏志・管輅伝」

    テーマ : 中国古典・名言
    ジャンル : 学問・文化・芸術

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(読書三余)

     「読書三余」

                        三国時代

      どんなに忙しい人でも、学問が出来る三つの余暇があることの喩え。

      其れは、一年の内では冬があり、一日の内では夜があり、時の内では

     雨降りがる、と。

      後漢末、その性 朴訥にして学を好む董遇(とうぐう)という者がいた。

      郡から「孝廉」に推され、次第に昇進し黄門侍郎となる。

      ところが建安二十二年(217年)、曹操殺害の謀議が発覚し、その

     一味は全て誅殺された。

      董遇自身は事件に関与していなかったが、取り調べを受けた後 

     閑職に転任させられた。

      だが後には、曹操に彼の儒学と見識が買われ、郡の太守に起用

     された。

      また更に魏の明帝の時代には、侍中・大司農を歴任した。

      そのような彼の下で、学ぼうとする者は後を絶たなかったが、敢て

     弟子を取るということはしなかった。

      弟子入りを希望する者に対して言う、

      「必ず当に先ず読むこと百遍すべし。俚諺に言えり、

     【読書百遍すれば義 自ずから見ゆ】と。

      学ぼうとする者 曰く、

      「日 無きを苦渇す」と。

      董遇曰く、

      「当に三余を以ってすべし。冬は歳の余り、夜は日の余り、陰雨は

     時の余りなり」と。

      (=暇がないという人でも、四季の内の冬、一日の内の夜、それに

       雨の降る日は暇なものである。これらは、当に勉学の最適と言える

       ではないか。)

      董遇は、このように入門希望者に対して、無理に教えようとはしなかった

     ので、彼の下で学ぶ者は少なかったと言われる。

                        「三国志 魏志・王粛」

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(正始の音)

     「正始(せいし)の音(おん)

                        三国時代

      後の「清談」の模範となる老荘哲学的論断をいう。

      魏の王弼(おうひつ)、何晏(かあん)らは、老荘思想の新解釈を行う。

      この二人は後に、「清談の祖」と目されるようになる。

      何晏は後漢末の大将軍・何進の孫であり、父の早世後に若き母・

     尹(いん)氏は曹操の側室となった。その為 何晏は宮中で養育される

     ことになった。

      何晏は余りにも聡明であったので、曹操にはとても良く可愛がられた

     という。

      若い時から秀才として評判も高く、老荘思想を好み、詩・賦をよくした。

      後には曹操の娘の婿となった。

      ところが 文帝の御代となると、気兼ねや遠慮と云うものが無かった

     ので、次第に 文帝に嫌われるようになった。

      やがて明帝が即位するようになってから、曹爽に迎合して、ようやく

     日の目を見るようになり、侍中尚書に昇進し、曹爽と共に権勢を揮う

     ようになった。

       何晏が著した「論語集解(しっかい)」は、論語注釈書の最古の物と

      される。その一方では、老子に傾倒し、老子に関する道徳論を著した。

       その頃 若くして「周易の注」を著した王弼とともに、実在としての

      「道」や「無」について、儒学の中から形而上学としての「易学的」な

      ものを抽出し、老荘思想を交えながら高度な哲学的論議を交わし、

      究極的な「道」の学を模索した。

       後に、その論断は「正始の音」と呼ばれ、「清談」の模範とされる

      ようになる。

      

      

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(戢鱗潜翼)

     「戢鱗潜翼(しゅうりんせんよく)

                        三国時代

      志を抱いて、時節の到来を待つこと。

      魚が鱗を休め、鳥が翼を収めて静止するの意。

      転じて、官を辞めて隠居することの喩えとなる。

        ☞ 戢の字義は、武器の戈(か)を収める、安ずるの意。

           戢鱗は、魚や竜が鱗を仕舞い込んで、じっとしていること。

           潜翼は、鳥が翼を収めて飛ばないこと。

     》曹爽と司馬懿の確執《

       魏の明帝には実子がいなかった。そこで一門の斉王芳と秦王詢

      を養育していたが、明帝が重体に陥った時、斉王芳を大子に立てた。

       明帝の崩じた後、八歳の曹芳が即位した。 

       ※ 曹芳の出自については、「魏氏春秋」は任城王曹楷の子である

         とも記す。曹楷は、曹操の卞夫人の子・曹彰の子である。

       曹爽と司馬懿は、初めは協力して幼帝を補佐したが、次第に対立を

      深めていった。

       景初三年(239年)二月、司馬懿の名声は天下を覆うていたので、

      曹爽の一党は、優れた人物を優遇するため其の位を高くする必要が

      あるとして、司馬懿を大尉から「太傅(たいふ)」に祭り上げた。

       そして、節を持しての軍を統率することに関しては、従来通りとの

      詔勅が下されたが、大尉には改めて征東将軍の満寵(まんちょう)が

      任命された。

       曹爽は夏侯玄や何晏らと謀って、その後も司馬懿一族から実権と

      威勢を着実に減殺して行った。

       時の流れは抗し難きものである、司馬懿は敏感にそれを悟り、

      二人の息子の師と昭にも官職を退かせ、自らは屋敷に引き籠り

      病気と称して、ひたすら戢鱗潜翼の態を保持した。

       かくして曹爽は軍権を掌握して大将軍となり、朝廷の内外に権勢を

      揮うようになった。 

                         「晋書 宣帝」
     

           

    テーマ : 中国古典・名言
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    中国通史で辿る名言・故事探訪(老蚌生珠)

     老蚌生珠(ろうぼうしょうじゅ)

                          三国時代

      平凡な親から、賢い子が生まれることの喩え。

      また、歳を取ってから子の出来ることを云う。

        ☞ 老蚌は、老いたドブ貝。珠は、真珠のこと。

      アコヤ貝は、見た目は良くないが真珠を生むように、老いたドブ貝が

     きれいな真珠を生むの意。 

      魏の韋仲将(名は誕)は、若かりし頃 兄の韋元将(名は康)と共に、

     在りし日の大儒・孔融(孔子20世の孫)に激賞されたことがあった。

      後漢の末期、大儒として知られた孔融は、韋端の二人の息子の聡明さ

     を知り、彼らの父に文を贈ったが、その二人を文中で誉めて曰く、

      「思わざりき 老蚌 珠を生ず」と。

      韋仲将は、その官職・光禄大夫で引退し、七十五歳で没した。

    テーマ : 中国古典・名言
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    中国通史で辿る名言・故事探訪(韋仲将の白髪変化)

     「韋仲将の白髪変化」

                        三国時代

      魏の韋仲将(いちゅうしょう)は、名は誕と云う。

      太僕・韋端の次子で、書と文章に秀でていた。

      能書家として著名であったが、とりわけ彼の「楷書の法」は卓越して

     いた。

      明帝が、或る年にその名の如く雲を衝くような凌雲台を建造した時、

     榜(ぼう。掲示額)に題字を書かせるべく、長大な梯子をかけ終わって

     から、韋仲将に勅命が下った。

      韋仲将が復命の後に、地上に降り立った時、彼の頭髪も鬢も真っ白に

     変じていた。

      帰宅した後、彼は子供らを集めて訓戒した。

      「自今 書の稽古はするべからず」と。

                            「世説新語 技巧」

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    テーマ : 神話伝説逸話
    ジャンル : 学問・文化・芸術

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(内に余帛あり外に贏財ありて、)

     「内に余帛あり外に贏財(えいざい)ありて、

      以って陛下に負(そむ)かしめず」

                         三国時代

      家の内に余分な絹織物があったり、また家の他には有り余る財産が

     あったりして、陛下の御心に背くようなことはありません。

      諸葛孔明の遺骸は、その遺言により漢中の定軍山に葬られた。

      孔明は出征する以前のある日、後主(劉禅)に対して、自分の家産

     (家屋や財産)を上表して言ったことがある。

      「成都には桑八百株、痩せた田が十五頃あり、家族の生活はそれで

     充分であります。

      臣が出征いたします時には特別の仕度も無く、我が身に必要な衣食は、

     尽くお上から頂戴いたしますので、その他に財産を作って、少しでも利益

     を得たいと思う事はありません。

      内に余帛あり、外に贏財ありて、以って陛下に負かしめず」、と。

      果たして孔明の死後、その言葉には些かの偽りも無かったという。

        ※ 田地の単位

           1頃(けい)=100畝(ほ)

           1畝は約5a(アール)であったので、

           孔明の田の15頃は、約7500a となる。

           現日本の面積に換算すると、9町強の田地である。

                       「三国志 蜀書」

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    テーマ : 中国古典・名言
    ジャンル : 学問・文化・芸術

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(食少なく事煩わし、)

     「食少なく事煩わし、

     其れ能く久しからんや」


                        三国時代 

      食事の量は少なくして、しかも仕事の量は嫌というほどある。

      もう寿命は永い事はあるまい。

      蜀の諸葛孔明は第五次北伐では、丘陵地帯の五丈原に布陣したが、

     魏の総司令官・司馬懿は睨み合ったまま容易に出撃しようとはしな

     かった。

      対陣のまま虚しく百余日が過ぎた頃、諸葛孔明の使者が外交辞令で

     司馬懿の元へ遣って来た。

      司馬懿は使者に対して軍事のことは一切触れないで、専ら諸葛孔明

     の日常のこと、即ち孔明の日常の寝食やら執務の繁簡の具合を問うた。

      使者は応えるに、

      「我が諸葛公は、朝は早く起きられ夜は遅く就寝されます。

      杖罪二十以上の軍律違反者は、すべてご自身で調べられます。

      お食事の量は少なくて、一日数升(日本の2~3合)に過ぎません」

     と。

      仲達はそれを聞いて、人に漏らした。

      「食少なく事煩わし。其れ能く久しからんや」と、既にして孔明の

     余命を察知したのである。

      五丈原に対陣中のその年(紀元234年)の八月、諸葛孔明は病に

     倒れ、そのまま陣没してしまった。時に五十四歳である。

                               「魏氏春秋」

     》 秋風五丈原 《    紀元223年

      蜀の諸葛孔明は、生涯に五度北伐を敢行したが、最後の北伐に

     際して、孔明は自ら輸送車を改良し、さらに屯田兵を充実させ、補給

     体制を万全にして臨んだ。

        ※ 改良した輸送車について、三国志・蜀志では、

          流馬(りゅうば)・木牛(もくぎゅう)という。

      蜀の建興十二年二月、雌伏すること三年、孔明は五度立ち上がった。

      動員兵力は総勢十万、蜀漢の総力を結集しての大作戦であった。

      出撃ルートは、第二回北伐と同様に斜谷道を選んだが、今回は万全

     を期して、兵站の輸送を人馬に代えて特殊輸送車(四輪手押し車)

     を以って行い、武功郡の渭水南岸に広がる丘陵地帯の五丈原に布陣

     した。

      魏軍の大都督(総司令官)は、第四回北伐時にも大都督であった

     司馬懿(字は仲達)である。

      司馬懿は三十万から成る迎撃軍を編成し、渭水を押し渡り、その南岸

     に布陣した。 

      司馬懿の幕僚たちは北岸に布陣することを進言したが、南岸には

     魏軍の兵站基地もあり、それを守りつつ将兵を鼓舞するという意味でも、

     司馬懿は敢えて南岸を選んだ。

      所謂 背水の陣の構えである。

      この度の北伐では補給体制に不安はなかったので、蜀軍は再三 

     魏軍に攻勢を仕掛けた。

      だが魏の大都督司馬懿は、過去の第四回北伐に際しては、側近幕僚

     に煽られて已むを得ず持久戦を棄てて、攻勢に出たばかりに、手痛い

     敗北を喫した苦い経験があったので、この度は頑として守勢態勢を変え

     ようとはしなかった。

      そこで孔明は、叩けど応じない仲達に嘲笑愚弄作戦を仕掛けた。

      改めて使者を立て、仲達に婦人用髪飾りと喪服を贈りつけ、仲達の

     臆病さを嘲笑し、それでも男かと揶揄した。

      その意図たるや、仲達や幕僚・将士を激怒させ、戦場に引き込もうと

     したのである。

      贈呈の使者が魏の陣営に至るや、果たして激怒した仲達は戦に応じ

     るため、兵を率いて陣を出ようとした。

      ところが、仲達の独走を抑えるために、明帝に遣わされた剛直で気骨

     の人と言われた司馬職の辛佐治が軍門に黄金の鉞(まさかり)を

     以って立ちはだかり、仲達を諌めた。

       ※ この鉞は、天子から出陣する将に授けられるもので、軍中に

        おける指揮権の淵源であるとともに、天子の象徴でもある。

     「死せる孔明、生ける仲達を走らす」

      その内、孔明死すとの情報を得た仲達は、それまでの守勢から

     転じて攻勢に出て、一気に蜀軍を壊滅させようとした。

      ところが蜀軍は孔明が遺した策略に従って、姜維が指揮を執り、

     楊儀に命じて軍旗を反し陣太鼓を打ち鳴らして、あたかも陣中に

     孔明がいて指揮を執っているように偽装し、戦闘態勢を敷いていた。

      これには仲達も度胆を抜かれて、攻撃態勢から撤収に転じた。

      かくして楊儀は堂々たる隊列を組んで引き揚げ、山峡に入ってから

     後に、諸葛孔明の喪を発表した。

      後に人は、司馬仲達が攻撃態勢から急遽、退却に変じたのは、

     死んだはずの諸葛孔明が生きていたと恐れたものだと揶揄して、

     「死せる孔明、生ける仲達を走らす」と噂し合った。 

      後に至り、此の事を有る者が仲達に、世間の噂として告げた。

      すると仲達は釈明して言った。

      「吾は能く生を科(はか)るも、死を科るに便(べん)ならざる

     なり」、と。

      (=生きている相手に対しては、いか様にも対処できるが、

       死んだ人が相手では如何ともし難い。)


     

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    テーマ : 中国古典・名言
    ジャンル : 学問・文化・芸術

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    tyouseimaru

    Author:tyouseimaru
    出身地は四国八十八か所参りの発心の阿波、大阪を終の棲家とする。
    歴史好きで、城郭・神社仏閣・歴史遺跡巡りが趣味となる。
    歴史小説や時代小説を好み、往年の著名な時代小説の類は概ね完読と、自負している。

    自薦
    自著「中国通史で辿る名言・故事探訪」の 上・中・下の3巻を、 近い内に「電子書籍」での出版を予定しています。 今年一年間は、さらに工夫を加えるなどして、補記訂正などの校正を第一義としています。       
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