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    中国通史で辿る名言・故事探訪(祖生之鞭)

     「祖生之鞭(そせいのべん)

                        東晋時代

      「先鞭を著(つ)ける」とも。

      他人に先じて着手する事、人を出し抜くことを云う。

      人より先に馬に鞭打って、先駆けの功名を争う事。

      「常に祖生の我に先んじて鞭を著けんことを恐る。」からの成語。

     》 劉琨(こん)と祖逖(てき) 《

       晋王朝の末期から東晋王朝の初期にかけて、弱体化した王朝を必死

      に支えようとして誓いあって奮闘した武将がいた。

       その名を劉琨(字は越石)と祖逖(字は祖生また、士稚とも)という。

       劉琨は晋王朝の時には、大将軍として文武両道に秀でた将であった。

       その劉琨と祖逖とは、若い時からの友であり、劉琨は常に祖逖の

      気宇壮大な気性を意識して、常々人に次の如く漏らしていたと言う。

       「常に祖生の我に先んじて、鞭を著けんことを恐る」と。

       祖逖は東晋王朝の元帝に仕え、北伐を請願して後趙と戦い、少ない

      兵力で以って黄河以南の地を東晋の領土に回復した功績は大きかった。

       かの石勒も、祖逖と連戦しては敗れたので、祖逖をとても恐れた

      と言われる。

       更に東晋王朝を軍事面で支えたと言われる王敦でさえも、祖逖が

      目の上のたん瘤であったと言われる程、祖逖はその存在感を示した。

                        「十八史略 東晋」 

    テーマ : 中国古典・名言
    ジャンル : 学問・文化・芸術

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(王と馬と天下を共にす)

     「王と馬と天下を共にす」

                        東晋時代

      王氏と司馬氏が一緒になって天下を治めた。

      司馬睿が建業に東晋王朝を開いてから、政治は王導が軍事は王敦が

     それぞれ輔佐した。

      だがこの頃、長江中流域で隠然たる軍事力を保有していたのは陶侃で

     あった。

      王敦はこの陶侃の軍事力を取り込むことが急務であったので、陶侃とは

     縁戚関係にあった周訪らの南方人を先ず取り込み、遂には陶侃も利用しな

     がら、いつしか己の支配下に組み込むことに成功した。

      かくして広大な長江中流域の諸州における軍事支配権を握ることに

     なった王敦と、長江の下流域の諸勢力を押さえた王導、この二人の王氏

     の活躍が、晋王朝の伝統的権威を継承する司馬氏」と組んで、共に天下を

     取ったのだ、と、当時の人々は、しばし口さがなかった。

      この陶侃の軍事力を基幹として王敦が作り上げた軍事組織が、後には

     「西府軍」と称せられるようになる。

    テーマ : 神話伝説逸話
    ジャンル : 学問・文化・芸術

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(元帝の百六掾)

     「元帝の百六掾(えん)

                        晋時代

      後に東晋王朝を開く元帝(司馬睿)が、安東将軍兼揚州総都督の際に

     これを援けた百六人の掾佐(えんさ。高級属官)のこと。

      司馬睿(後の東晋王朝の元帝)は、晋王朝の懐帝の時代には琅邪王で

     あったが、安東将軍に任ぜられ揚州の総都督兼務となり、建鄴に駐屯し

     ていた。

       ※ 兼務とは、民政と軍事の統括を任されていたということ。

       しかし王朝内における司馬睿の地位は低く、その為 揚州の人々は

       彼を信頼することはなかった。

       時に司馬睿は、琅邪臨沂における南朝の名門貴族と謳われた王導

      (字は茂弘)を招いて何事によらず師事していたが、彼の献策に基づい

      て、旧呉国の名族の顧栄や賀循らを任用し、また新旧の別なく民衆を

      慰撫したので、ようやく江東の民衆を惹きつけることが出来るように

      なった。

      ※ 新旧の別なくとは、中原の乱を避けて江東の地に流れ込んできた

       民衆を「新」といい、江東土着の民衆を「旧」というが、彼らを差別し

       ないことを言う 。

       司馬睿はさらに、庾亮(ゆりょう)、卞壺(べんこ)らを招聘し、

      幕下の名士は百余名に上った。

       之が世に謂う、「元帝の百六掾」である。

       王導は政務を補佐したが、王導の従弟・王敦(おうとん)は軍事を

      掌握し、この二人は一体となって安東将軍兼楊朱烏巣都督の司馬睿を

      援けた。

      

    テーマ : 中国古典・名言
    ジャンル : 学問・文化・芸術

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(阿堵物)

     「阿堵物(あとぶつ)


                        晋時代

      銭・貨幣の別称。

      阿堵の「堵」は、物を指していう語で、「この」の意であり、

     「阿」は接頭語。

      晋の王衍は、妻の郭氏の聚斂(税の取立て)の貪欲さを憎み、銭なる

     ものを極端に嫌うようになった。

      その必然の結果として、彼は「銭」と言う言葉を使うのも嫌悪して、

     それを言うに、「阿堵物」と言った。

       以来 彼の口からは、未だ嘗て「銭」と言う言葉は出なくなった。

       ある日のこと、妻の郭氏はその事をひとつ試してみようと、婢に命じ

      て、夫の寝床の周辺に銭をばら撒かせておいた。

       王衍は朝起きて、身の回りにばら撒かれた銭を目にした。

       王衍は婢を呼び付けてから、散らかった銭を片付けさせようとして、

      婢に命じた、

       「阿堵物を上げて去れ」と。

       (=阿堵物を拾い上げて持ち去れ。)

      王衍の口からは、遂に「銭」なる言葉は出なかったのである。

                    「世説新語 規箴」、「晋書 王衍伝」 

    テーマ : 中国古典・名言
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    中国通史で辿る名言・故事探訪(少くして宦情無く、)

     「少(わか)くして宦情無く、世事に予(あずか)らず」

                         晋時代

      命乞いをするための方便或いは釈明。

      若くして宮仕えしたものの、自ら望んでなった訳ではなく、況や政治的な

     野心や関心は無く、実際の政治にも深くは携わって来なかった、との意。

        ☞ 宦情(かんじょう)とは、官吏になりたいと望む心。

           宦の字義は、仕える。

       王衍の国都防衛総司令官としての自覚の片鱗さえも無い、己の命乞い

      をする為の情けない戦争責任回避の釈明である。

     》 劉淵、洛陽を占拠す 《   紀元309年

       劉淵は、配下の石勒(せきろく)を将として洛陽へ進撃させた。

       晋の太傅で東海王の司馬越は、軍を洛陽に派遣し、諸国に援軍を

      要請し、自らもよく戦ったが、陣没した。

       一方では、大尉・王衍(おうえん)の指揮する国都防衛軍も為す術

      もなく敗走した。

       石勒らは、晋王朝の国都防衛の大尉の王衍らを苦県の寧平城で捕縛

      した。

       捕虜となった王衍は、石勒にその責任を問われた。

       王衍はその戦い至った経緯を述べたが、「計は己に非ず」と言い、

       「少きより宦情無く、世事に予らず」、と言って助命嘆願するに

      及んで、石勒は開いた口が塞がらなかったという。

       石勒は難詰して、

       「君は少壮にして朝(朝廷)に登り、名は四海を蓋い,身は重任に

      居る。何ぞ宦情無しと言うを得んや。
        
       天下を破壊せしは、君に非ずして誰ぞや」と。

       王衍は結局 殺されることになったが、処刑するに剣の使用を禁じられ

      たので、夜中に城外へ連れ出されて、土塀を押し倒して瓦礫の下敷きに

      されて圧殺された。

                          「十八史略 晋」

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(口中雌黄)

     「口中雌黄(こうちゅうしおう)

                        東晋時代

      「雌黄の如し」とも。

      一度 口にした論説や発表した詩文に誤りや不適切なところがあれば、

     無反省に直ぐに改めることの喩え。

      雌黄を口の中に含んでいて、何時でも直せるようにしているの意。

      転じて、口から出まかせを言って、真相を覆い隠すこと。

        ※ 雌黄とは、硫黄とヒ素の混合物であり、当時は顔料や薬用とし

         て用いられた。

           昔 中国では、書き物には黄色の紙が使われたが、漢字など

          に誤りがあると、同色の雌黄で訂正された。

                        「晋書 王衍伝」

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(人中之竜)

     「人中之竜(じんちゅうのりょう)

                        晋時代

      非凡にして計るべからざる人物のこと。

      人間の中の竜の意。

      晋の宋繊(そうせん)は遠大な操(みさお)があり、酒泉太守の馬笈

     (きゅう)が訪れても、拒んで会うことはしなかった。

      馬笈はため息をして、

      「吾、今 然る後に先生を知る。人中の竜なり」と言って、

      彼を竜に譬えて、

      【その名は聞くことが出来るが、体は見ることが出来ない。

       その徳は仰ぐことが出来るが、形は見ることが出来ない。】

      と言うものだ。

       そしてその心情を詠って、石壁に彫り付けた。

        馬笈「人中之竜」

             丹崖百丈、青壁万丈。

        (=赤い断崖は高さは百丈もあり、青い絶壁は万丈もあろうか。)

             奇木蓊鬱(おううつ)、蔚(うつ)として鄧林の如し。

        (=奇木が鬱蒼と茂っており、まるで密生した橙の樹林のようだ。)

             これ国の琛(ちん。宝物)、室 邇(近)く 人 遠く

        (=丹崖青壁や奇木鄧林は宝玉のよう存在であり、気高くして

         近寄り難いものであるが、彼もまたかくの如しか。)

             実に我が心を労す。

        (=彼に会おうとすれば、本当に気苦労が絶えない。)

                        「晋書 宋繊伝」

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(竹頭木屑)

     「竹頭木屑(ちくとうぼくせつ)

                        東晋時代

      一見役に立ちそうにない物でも、何時か役に立つことがあるあるかも

     知れないから、疎かにしてはならないという戒め。

      また、将来の準備や計画が、用意周到であることを云う。

      竹の切れ端と木くずの意。

      陶侃の普段の仕事の差配ぶりの一例がある。

      本来ならば、捨ててしまうはずの「木屑」や「竹の切れ端」まで帳簿に

     記録を残し保管させたという逸話が残る。

      ある年の正月元旦、宮城での新年の拝賀があったが、降雪は止み晴れ

     てきたものの地面はぬかるんでいた。

      この時 陶侃は部下を指揮して、急遽 普段から貯蔵していた「木屑」を

     廷前一面に敷き詰めさせた。

      参賀してきた重臣連中をして、大いに感心させたという。

      更に後年の事になるが、桓温が蜀の討伐に赴いた時、陶侃は貯めこん

     でいた残り物の竹片で竹釘を急いで作り、動員される多くの軍船を見事に

     補修したという。

               「十八史略 東晋・明帝」、「世説新語 政事」



      

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(分陰を惜しむ)

     「分陰(ふんいん)を惜しむ」


                        晋時代

      極めて短い時間をも惜しむの意。

      晋の陶侃の「新語」とされる。

      陶侃は頭の回転も速く、而も仕事熱心でもあった。

      彼は常々言っていた。

      「大禹は聖人なるに、乃ち寸陰を惜しめり。

      衆人に至りては、当に分陰を惜しむべし」と。

      (=彼の聖人と謂われる禹王でさえも、寸陰を惜しんで努力したので

       あるから、まして況や凡人などは、一層 時を大切にして、分陰を惜し

       み努力しなければならない。)

       ※ 寸陰とは、一寸の光陰のことで、わずかな時間をいう。

          分陰とは、一分の光陰で、極めて短い時間をいう。

          長さの単位としては、1分=1/10寸

                       「十八史略 東晋・明帝」

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(髪を截ち酒を易う)

     「髪を截(た)ち酒を易(か)う」


                        晋時代

      自分の長い髪を断ち切って酒代に代え、客人をもてなすこと。

      晋の陶侃(とうかん)の母親・湛氏(たんし)の故事。

     》 陶侃の出世譚 《

       陶侃は幼児の時に、呉の武将であった父・陶丹を失い、家は極めて

      貧しかった。

       ある時、鄱陽(はよう)の人で孝廉に推された范逵(はんき)が都に

      赴く途中、陶侃の家を訪れたことがあった。

       この時 陶侃の母親は貧しかったが、自分の長髪を切って金に換え、

      客の酒食をよく整えたという。

       さて范逵が去る時、陶侃は彼を百里先まで見送った。

       別れの時、范逵は陶侃に言った、「郡で仕えたいとは思わないか」と。

       陶侃曰く、「仕えたくても、その伝手が無いのです」と。

       それから後、范逵は盧江太守の張夔(ちょうき)を訪問し、陶侃の

      母親から受けた思いがけない厚遇を謝して、陶侃を推薦した。

       かくして、陶侃は盧江太守に召し出され、督郵に任ぜられ、樅県

      (しょうけん)の県令を兼任することになった。

       陶侃は盧江太守には忠実に仕え、漸くその名も広く世に知られる

      ようになった。

       陶侃はその後、荊州の刺史で軍司令官劉弘の武将となり、異民族の

      張昌の乱の平定で頭角を現し、さらに江東の反将・陳敏の軍を破ると

      いう軍功を重ねた。

       そして劉弘の死後は、湘州を中心とする反乱軍を覆滅し、江夏の知事

      から荊州の長官に昇進した。

       だが時の権勢家である王敦には睨まれ、一時期 広州の長官に左遷

      させられた。

                        「晋書 陶侃伝」

                        

        

      、

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    テーマ : 神話伝説逸話
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    中国通史で辿る名言・故事探訪(悪木盗泉)

     「悪木盗泉」

                        晋時代

      「渇すれども盗泉の水は飲まず」、

      「熱すれども悪木の陰に息(いこ)わず」から生まれた成語。

      志のある人は、如何なる困難に遭っても、決して不義不正な事は

     しないという事。

      喉が渇いても盗泉という名の付いた川の水は飲まず、

      暑くとも悪い木の陰には休まないの意。

      転じて、不正の手段によって得られる利益を言うこともある。

       陸機 楽府「猛虎行」より

           ※ 楽府とは、宮中の音楽を司る役所を言うが、この役所に

             採録された詩賦をまた楽府と言う。

          渇すれども盗泉の水は飲まず

          熱すれども悪木の陰に息わず

              中略

          人生は誠に未だ易(やす)からず

        (=人は節義を守り通そうとすればするほど、人生の困難は増す

         ものと言える。)

          曷(いず)くにか此の襟を開かん 

        (=どうして我が胸の内を打ち明けられようか。)

          我が耿介(こうかい)の懐いを眷(かえり)みて

        (=節操を堅く守るという我が明らかな胸中を振り返るなら。)

          俯仰して古今に愧(は)ず

        (=今も昔も心にやましい所は無く、仰いでは天の神に、伏しては

         地の神に、愧じる所は無い。)

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    テーマ : 詩経・漢詩・詩賦等
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    中国通史で辿る名言・故事探訪(水鏡)

     「水鏡(すいきょう)

                         晋時代

      水がありのままに物の姿を映すように、行い正しく、人の模範となる

     こと。

      また、単に人柄に曇りなく清らか人をいうこともある。

      晋の衛瓘(えいかん。字は伯玉)が商書令(宰相)となった。

      衛瓘がある時、楽広と朝廷の名士が談笑するのを見て、これを奇として

     言った。

      「昔の諸人 没してより、嘗て微言(含蓄のある言葉)の当に絶えんと

     するを恐る。

      今 乃ち復た君に其の言を聞くかな」と。

      そして、子弟に命じて之を尋ねさせて、言った。

      「此の人 人之水鏡なり。

      之を見れば、雲霧を払い青天を観るが如し」と。

                         「世説新語 賞誉」

    テーマ : 中国古典・名言
    ジャンル : 学問・文化・芸術

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(広客蛇影)

     「広客蛇影(こうかくだえい)

                        晋時代

      「杯蛇の厄」、「杯中蛇影」ともいう。

      一度 疑念が生じると、何でもない事にも怯えて疑い深くなり、悩みの種

     となることの喩え。

      また、病は気から起こるとも言われることから、余り深く心配しない方が

     良いと言う意にも解される。

      晋の楽広(がくこう。字は彦輔)の酒宴に招かれた客が、手にした酒杯に

     映った蛇の影に怯えたという「蒙求」の四字成語から。

      楽広が河南の尹(長官)であった時、親しい客人の杜宣(とせん)が楽広

      の酒宴の席に招かれ、饗応を受けている時、自分の杯中の酒に蛇の

      よう な物が浮かんでいるのに気付いた。

      だが辞することもままならず、飲み干してしまった。

      それからというもの、病にとり憑かれてしまったという。

      楽広は、常日頃親しい杜宣が無沙汰して来なくなってしまったので、

      見舞いを兼ねて訪れ、そして話している内に杜宣の病の原因が分かった。

      河南の役所の応接間の長押(なげし)には、角の弓が掲げてあって、

     その弓には漆で蛇の絵が描いてあった。楽広は心の中で思った。

      即ち酒杯に映ったという蛇は、弓の蛇の絵だ、と。

      楽広はその後、再び杜宣を役所の応接間に招待して、酒盛りを始めた。

      そして徐に杜宣に言った。

      「杯の中に何か見えますか」と。

      杜宣は、

      「見えます。前の時と同じものが」と。

      楽広はそこで改めて、杜宣に告げた。

      「この室の長押に掲げてある弓の蛇の絵が、以前と同じように手にした

     貴方の杯に映っているのです」と。

      説明を受けて、杜宣はそれまでの心のわだかまりが解消し、たちまち

     にして病気が治ったという。

      ※ 晋の名士・楽広の最終の官職は、商書令である。

                 「晋書 楽広伝」、唐・李澣「蒙求 広客蛇影」

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(炙を欲するの色)

     「炙(しゃ)を欲するの色」

                        晋時代

      物を欲しがる顔色。

      炙とは、あぶり肉を意味し、その炙り肉を欲しがる者の顔色の意。 

      晋の名士・顧栄が、酒宴の席で客に炙り肉を配って回る者に、炙り肉

     を欲しそうな顔色があるのを見て取り、自分の肉を分け与えて之を食べ

     させた。

      其れを同座していた他の連中は、ことごとく笑ったものである。

      だが顧栄は言った、

      「どうして、一日中 これを手にしていながら、その味を知らないで

     良かろうか」、と。

      後に、司馬倫が天子の位を簒奪した時、顧栄は危機に陥った。

      其の時、一人の者が彼を救った。

      即ち、去りし日の宴席で、顧栄に炙り肉を与えられた者であった。

                        「晋書 顧栄伝」

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(狗尾続貂)

     「狗尾続貂(くびぞくちょう)

                        晋時代

      「狗尾 貂に続く」と訓読。

      身分の尊い者の後に、卑しい者が連なること。

      犬の尾が貂(てん)の尾に続くの意。

      転じて、他人の遣り残した仕事を引き継いで行うことを謙遜して

     言う譬え。 

      当時において、貂(てん)の尾と蝉(せみ)の羽根飾り、乃ち

     貂蝉(ちょうせん)の冠は、皇帝側近の顕官の象徴であった。

      趙王司馬倫は、帝位を簒奪して皇帝となり、寵臣の孫秀は侍中中書監

     となり、張林らの諸党は皆 卿将(大夫と将軍)となり、その余の共謀者

     もことごとく昇進して、その数は書き記すことが出来ないほどであった。

      何と兵卒や召使に至るまで爵位が与えられたという。

      大夫顕官の粗製乱造であり、貂の尾の入手が困難となり、狗(犬)の

     をの代用するようになったので、時の人は、

      「貂(ちょう) 足らず、狗尾(くび)続く」、と風刺した。

                        「晋書 趙王倫伝」

    テーマ : 中国古典・名言
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    中国通史で辿る名言・故事探訪(怒りを蟹に移す)

     「怒りを蟹に移す」

                        晋時代

      ある人に対する怒りの感情を、他の似た人に転嫁すること。

      趙王司馬倫は晋朝の相国となったが、寵臣の孫秀と図って、

     予てから怨みに思っていた大将軍の解系を兄弟ともに捕えた。

      王室の一族である梁王肜(ゆう)が解系兄弟を救おうとしたが、

     司馬倫は怒りを満面に湛えて、言い放った。

      「我、水中で蟹(かに)を見てすらこれを悪(にく)む。

      況やこの人、解兄弟の我を軽んずるにおいてをや。

      之を忍ぶべくんば、焉んぞ忍ぶべけんや」と。

      (=我は解系を憎むの余り、「解」と同音の「蟹」を水中に見てすら

       之を憎むようになった。況やこの人の我を軽んずるにおいては、

       尚更の事だ。

        之を耐えることが出来るなら、どんな事でも我慢出来るだろう。)

      梁王肜は、倫を厳しく諌めて争ったが敵わず、司馬倫は遂に解系兄弟

     を殺し、併せて彼らの妻子をも殺してしまった。

                       「晋書 解系伝」

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(後塵を拝す)

     「後塵を拝す」

                        晋時代

      権勢家に媚び諂う事。また、人に後れることを云う。

      権勢家の乗る馬車の巻き上げる土煙や塵を吾が身に浴びても、拝礼

     するの意。

        ☞ この拝礼は、君子に対する礼をいう。

      石崇は、字は季倫といい、渤海南皮の人である。

      荊州刺史となった時、商人と結託して貿易を保護して、巨利を得る。

      其の財力を以って、洛陽に贅を尽くした「金谷園」を設けて、当時

     の知名人を集めては、詩歌や管弦に興じた。

      そんな彼も、晋朝の廣成君が街中に出る度に、石崇は車を降りて

     道の左に避けては見送り、廣成君の馬車の巻き上げる塵を拝んだ。

      その卑しく、人に媚び諂う様は、かくの如しと評された。

                        「晋書 石崇伝」

      
        杜甫 「奉贈韋左丞二十二韻」

            朝に富児の門を扣(叩)き

            暮れに肥馬の塵に随う。

            残杯と冷炙(れいしゃ) 

            処に至りて悲幸に潜む。

        ※  何時も富貴の人に追従しては、その余録にありつくが、

          場合によっては、その陰に見えない幸不幸の種が潜むもの

          である。



     

      

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(何ぞ肉糜を食わざる)

     「何ぞ肉糜(にくび)を食わざる」

                        晋時代

      天子が民の困窮を解せないという一例。

      ならば、どうして肉粥を食べないのかの意。

     《楊氏一族の専横 始まる》

      太子(皇太子)・衷が三十二歳で即位した。

      二代恵帝は、生まれつき知的障害を持つと言われる。

      武帝が崩ずると、皇后であった恵帝の実母である楊太后が父の

     楊駿と共に実権を掌握して、楊氏一族の専横が始まった。 

      恵帝が即位して後の事、大飢饉が全国的に起こり、人民は食べ物が

     無くて次々と倒れていった。

      大臣がその実情を、参内して報告した。

      曰く、「天下大いに飢えております」と。

      すると恵帝は、その意味が分からない。不思議そうな顔をして、

      「何ぞ肉糜を食わざる」と、言ったという。

                        「十八史略 西晋」

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(孫楚と王済)

     「孫楚と王済(おうさい)

                         魏晋時代

      孫楚は、字は子荊。太原の人。

      祖父の孫賀は、魏の重臣であり、父の孫宏は、魏の南郡太守であった。 

      孫楚は、若い時から抜群の才覚の持ち主であったという。

      しかし自分の才覚を誇るところがあり、周囲の評判は芳しくなかった。

      だが、同郷の王済とは、昵懇な間柄であった。

      時に 孫楚は年も四十余歳になって初めて出仕し、呉との最前線で

     ある揚州の鎮東将軍・石苞(せきほう)の参軍となった。

      魏から晋王朝となってからは、著作郎となり、またしばらくして再度、

     鎮東将軍石苞のお参軍となった。

      だがこの頃から、石苞と対立するようになり、間に立った武帝を煩わす

     ようになった。

      その後は、粱の令となり、晩年には馮翊(ふうよく)太守となり、

     元康三年(紀元295年)に没した。

        

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(人に狂薬を飲ませて、)

     「人に狂薬を飲ませて、正礼を責む」

                        晋時代

      自分から人に狂い薬といわれる酒を勧めておいて、傲慢無礼があった

     からと言って、其れを責めるのは道理に合う事ではない。

      晋の時代、石苞(字は仲容)の子・石季倫(諱は崇)は、嘗て長水校尉

     の孫季舒と酒宴を持った。

      その席上で、酒に酔った孫は、大いに礼を失して傲慢な態度を取った。

      後になってから、季倫はその事を道に背くものとして、表沙汰にして

     孫を免職にしたいと思っていた。

      裴(はい)叔則という者が、その事を知る所となり、石季倫を責めて

     言った。

      「季舒の酒狂いは、四海(全国)の知る所なり。

      足下(そっか。貴君) 人に狂薬を飲ませて、人に正礼を責むる、

      亦 背かずや」と。

      ※ 石崇は荊州刺史の時代に、商人に貿易を奨励し支援もしたこと

       により、巨利を手にしたとも言われる人である、彼はまた詩文を

       良くした風流な文人でもあった。

                        「世説新語 簡傲」 

      

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(桂林の一枝 崑崙の片玉)

     「桂林の一枝 崑崙の片玉」

                        晋時代

      少しばかり出世したこと。

      または、自分に与えられた官職に満足しないことの喩え。

      桂の林の中の一枝、崑崙山の玉の中の一片をいい、ほんのわずか、

     であると言う事。 

      郤詵(げきせん)、字は広基。斉陰単父(せいいんぜんぽ)の人で、

     博学多才であった。

      泰始(武帝の最初の元号)の頃、賢良に挙げられ、対策

     (官吏登用試験の解答)天下第一を以って、議郎に任ぜられ、後に

     雍州刺史(長官)に遷ることになった。

      そして任地に旅立つに先立ち、武帝は東堂に於いて、郤詵を

     会送した。

      其の時 武帝は、先に賢良に挙げられ、対策天下第一となったこと

     について、

      「卿 自ら以って如何と為す」と尋ねた。

      (=あなたは自身は、どう思うか。)

      郤詵は対えて言った。

      「臣、賢良に挙げられ、対策 天下第一となる。

       これは猶 桂林の一枝 崑崙の片玉なるのみ」と。

       ※ その対えには、いずれは多くの枝を折り、大きな玉を得る時が

         来るものと確信しております、との自信に溢れた言外の意図が

         隠されている。

       帝は郤詵の思いを察して、お笑いになった。

          ※ 中国では、「桂」は秋に芳香を放つ木犀のことをいう。
       

                   「晋書 郤詵伝」、「蒙求 郤詵一枝」

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(屋下屋を架す)

    「屋下屋(おくかおく)を架す」

                        晋時代

      同じことの繰り返しで、無意味とか無駄の喩え。

      屋根の下にまた同じく屋根を造るの意。

      晋の都・洛陽の詩人である庾仲(ゆちゅう)の、国都の絢爛たる賑わい

     と風景を讃える詩が大評判となった。

      ところが、三公の一人である謝大夫にはけなされた。

        ※ 三公は、晋の時代に大尉・司徒・司空をいうが、後漢以後は

          実権を伴わず空名化していた。

       庾仲に阿る連中は、左思の「三都賦」にも匹敵する名作だと称えた

      のに対し、謝大夫は、その詩はまるで、「屋下屋を架す」ものだと、

      言って批判した。

       即ち 屋根の下に更に屋根を造るということであり、人の真似を

      して、新味の無い何の値打もない事の喩えとなる。

                    「世説新語 文学・顔氏家訓」

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(上品に寒門なく、)

     「上品に寒門なく、下品に勢族なし」

                        晋時代

      門閥貴族の官僚としての全盛を表現する喩え。

      魏・晋の時代、郷品を選定する中正官が上品に推薦する人には

     貧しい家柄の出身者は無く、下品に推薦した人には有力な家柄の者

     はいないと言う、貴族制社会における現実の厳然たる身分の厳しさを

     指す言葉でもある。

      この寒門は、もちろん「庶民」ではなく、「士」の身分に在る下級者

     をいう。

      晋の時代に至り、魏の時代に制定された「九品官人法」は、もはや

     名のみの形骸法となり、その出身門地により郷品(きょうひん)は確定

     していた。

      晋の名臣と言われた劉毅は、その廃止を求めて上疏したが、その疏文

     の中で、

      「上品に寒門なく、下品に勢族なし」と、当時の官吏任用の実態を吐露

     している。

      以後 この言葉は、魏晋南北朝時代を通じての門閥貴族全盛の表現

     となる。

      

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(左思十稔)

     「左思十稔(さしじゅうねん)

                         晋時代

      「十年構思」とも言う。

      多年に亘り詩文を工夫すること。

      左思が三都賦の構想を練り完成するまでに、十年を要したことを云う。 

      左思は斉国臨淄の出であるが、風采上がらず口は滑らかでないが、

     彼の詩文は壮麗なものであった。

      斉にいる時には、国都臨淄の賦を作るのに一年を要して出来上がった。

      そして次に、魏・呉・蜀の「三都賦」を作ろうと思い、

     先ずそれらの地の特徴をよく知ろうとして、魏の著作郎の張載(さい)

     を訪れて勉強した。

      それからというもの、門でも庭でも、垣根、しきみと至る所に筆を紙を

     備え置き、一句でも名文句が浮かべば、早速それらを記して忘れない

     ようにした。

      更に見聞を広めるため、願っては秘書郎(宮廷の図書を司る役人)

     となり、以来十年かけてようやく賦が出来上がった。

      ところがこの時代、既に」後漢の班固(字は孟堅)の「両都賦」や張衡 

     (字は平子)の「二京賦」が世に出て冠絶していた。

      そのような訳もあり、左思の苦心の作も余り重んじられなかった。

      そこで左思は、当時の名士として知られた皇甫謐(こうほひつ)

     を訪れ苦心の作を示して、評価を請うた。

        ☞ 皇甫謐、字は士安。

      皇甫謐は、至極結構と言って、その序文を引き受けてくれ、更に張載が

     魏都の賦に、劉逵(りゅうき)が呉都・蜀都の両賦に注を付けてくれて、

     ここに「三都賦」は完成した。

      ※ 劉逵の補注については、異説有り。

      完成した三都賦を詠んで、「博物志」を著した張華(字は茂先)は

     言った。

      「班固・張衡の流(仲間)だ」と。

      かくして諸大家の高い評価を得るや、人々は争って伝写するように

     なった。

      その為 洛陽では、紙の値段が高騰したのである。

                 「晋書 左思」、「蒙求 左思十稔」

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(洛陽の紙価貴し)

     「洛陽の紙価貴(たか)し」

                         晋時代

      晋の都・洛陽の紙の値段が高騰したと云う市井の驚きの声。

      また、「書写」が盛んに行われる事を言う。

      武帝から恵帝の時代、晋の著名な詩文家である左思(字は太沖)の

     「三都賦」が絶大な人気を博していた。

      その人気の沸騰ぶりは、

      「是に於いて、高貴の家、競って相(あい)伝写し、

       洛陽 之が為に紙 貴し」、という有様であった。 

      (=当時の貴族・富豪・貴族連中が好んで、この三都賦を伝写

       したので、紙が不足して洛陽の紙価が暴騰した。)

       この三都賦とは、蜀都賦・呉都賦・魏都賦をいい、三国時代の

      それぞれの国都を詠った壮麗美文の辞賦である。

                       「晋書 文苑伝・左思」



       
       

      

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(酒甕を覆う)

     「酒甕(しゅおう)を覆う」

                        晋時代

      不愉快なものの喩え。

      酒甕に蓋をするの意。

     》 晋の名士たち 《

       陸機(字は士衡)は、三国時代の呉の名門貴族である陸氏の後裔

      である。

       彼は幼にして異材ありと言われ、後に文章で一世を冠するようになる

      のだが、晋の都・洛陽にいた時の事である。

       彼が「三都賦」を作ろうとその想を練り始めると、既に左太沖

      (諱は思)がこれを作ったという事を聞いた。

          ※ 三都とは、魏の洛陽、呉の建鄴(業)、蜀の成都。

       士衡は、掌(たなごころ)を撫でて大笑いして、弟の陸雲

      (字は士龍)に次なる書を与えて言った。

       「こちらに一傖父(そうふ。田舎オヤジ)あり、三都の賦を

      作らんと欲す。

       その成るを俟(ま)ちて以って酒甕を覆わんのみ」
    と。

       即ち、左太沖を田舎オヤジに、その賦を酒に喩えて、出来上がるのは

      不味い酒だろうと、決めつけている。

       ところが後に至り、左太沖の賦が世に出ると、士衡は驚嘆して俯き、

      これ以上のものは作れぬとして、遂に筆を止めてしまった。

                        「世説新語 文学」

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(鶏群の一鶴)

     「鶏群の一鶴」

                        晋時代

      「鶴立鶏群」とも言う。

      「鶴の鶏群に立つが如し」と訓読。

      多くの凡人の中に、一人だけずば抜けた優れた者が混じっている

     ことの喩え。

      竹林の七賢の一人である嵆康(けいこう)が讒言に遭って処刑され

     た時、その子・嵆紹は十歳であった。

      その後 時代も魏から司馬氏の晋王朝」に代わったが、竹林の七賢の

     一人・山濤は、嵆紹の行く末を安じて、晋の武帝に嵆紹を推挙した。

      そのお蔭で、嵆紹は目出度く出仕が叶った。

      その嵆紹が都の洛陽に上京したばかりの頃、たまたま嵆紹の姿を

     見かけた或る人が、竹林の七賢の一人である王戎に語り掛けた。

      「嵆紹は稠人(ちゅうじん) 中に在り、

       昂昂然(こうこうぜん)として野鶴の群鶏に在るが若し」、と。

      (=嵆紹は大勢の中に在っても、其の志や行為は高く抜きん出て

       おり、まるで鶏の群れの中にいる鶴の如き有様である。) 

       固より竹林の七賢でもあった王戎は、その人に言って聞かせた。

       「汝は彼の父親を知らないだけのことだよ」と言って、

       言外に 「嵆(稽)康こそ鶏群の一鶴だ」と、其の意を含ませた。

                    「晋書 嵆紹伝」



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    中国通史で辿る名言・故事探訪(呉牛喘月)

     「呉牛喘月(ごぎゅうぜんげつ)

                        晋代

      思い過ごしや、取りこし苦労をすること。

      また過去の経験に懲りて、ひどく恐れることの喩え。

      晋の時代、満奮は武帝の御前に侍っていたが、彼は生来 風を

     酷く嫌っていた。

      晋朝の宮殿の北の窓側には、瑠璃(ガラス)の屏風が立てかけ

     られていたが、其れは密にして疎にも見えた。

      それを見て、満奮の顔には憚る気色が見え隠れした。

      そんな彼を見て、武帝は笑った。

      満奮はすかさず対えて曰く、

      「臣は猶 呉牛の月を見て、而して喘ぐが如し」と。

                        「世説新語 言語」

      ※ 「世説・注」に曰く、

         呉牛とは、今の水牛なり。ただ江淮(長江下流と)淮河の間に

        生ず。

         南方の地は暑熱多し、この牛 熱を恐れ、月を見てこれを太陽

        かと疑う。

         故に、月を見て則」ち喘ぐ。

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(挿竹灑塩)

     「挿竹灑塩(そうちくさいえん)

                         晋時代

      住居などの入り口に竹を挿し置いて、その葉に塩水を降り灑(そそ)ぐ

     と言う、一種の縁起担ぎ。

     》 晋の武帝、政治に厭く 《

       武帝は既に呉を攻略して併合し、三国並立時代を終息させた。

       武帝もようやくこの頃になると、すこぶる遊宴を事とするように

      なり、政治を怠るようになった。

       掖庭(えきてい。後宮の事)ほとんど万人にならんとし、常に

      羊車に乗り、其の之く所に恣(まか。=任)せ、至れば便ち宴寝す。

         ☞  宴寝とは、宴席を設けて就寝すること。

       乃ち、羊の移動によって、今宵の褥の宿泊先を決めたのである。

      【挿竹灑塩縁起】

        武帝の後宮には、胡国出身の胡貴賓(きひん)と言う女性がいた。

        彼女は自らの門前に、羊の好きな塩水を灑(そそ。=灌)いだ

       竹の葉を挿して置き、武帝の羊車を牽きつけ、一時期ではあるが

      武帝の寵愛を独り占めにした。

       宮人(後宮の女人)たちは、羊車の好みを知るや競って竹葉を以って

      各々の門前に挿し、以って帝の車を引き付けようとした。

                「晋書 胡貴賓伝」、「世説新語 晋武帝」  

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(高岸深谷)

     「高岸深谷」

                        晋時代

      高い岸(がけ。土地の切り立った所)が崩れて谷となり、深い谷が

     埋まって丘となること。

      地形のひどい移り変わりを以って、世の中の激しい移り変わりに

     喩える。

      呉を攻略した晋の杜預は、其の官は司隷校尉(国との治安維持と

     司法検察の長官)で終えたが、彼は以前から後世に名を残そうと

     心掛け、いつも口癖に「詩経 小雅・十月之交」を誦していた。

          高い岸(がけ)の崩れて谷となり、

          深い谷も埋もれて丘となる。 

          かくの如く時代は激変しても、後世まで名を残したいものだ、

         と。

                    「晋書 杜預伝」

          

    テーマ : 中国古典・名言
    ジャンル : 学問・文化・芸術

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    tyouseimaru

    Author:tyouseimaru
    出身地は四国八十八か所参りの発心の阿波、大阪を終の棲家とする。
    歴史好きで、城郭・神社仏閣・歴史遺跡巡りが趣味となる。
    歴史小説や時代小説を好み、往年の著名な時代小説の類は概ね完読と、自負している。

    自薦
    自著「中国通史で辿る名言・故事探訪」の 上・中・下の3巻を、 近い内に「電子書籍」での出版を予定しています。 今年一年間は、さらに工夫を加えるなどして、補記訂正などの校正を第一義としています。       
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