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    中国通史で辿る名言・故事探訪(詠雪の才)

     「詠雪の才」

                        東晋時代

      女性に文才のあることを称して言う成語。

      雪を詠む才能の意。

      東晋の謝安が、曽て 身内だけの集まりを持ったことがある。

      其の時 俄に雪が降りだしてきたので、謝安は誰ともなしに、

      「何に似ているかな」と言った。

      謝安の兄の子・郎が、

      「塩を空中に散ずる、やや擬すべし」、と対えた。

      (=塩を空中に散らす、之やや中《あた》るでしょうか。)

      するとすかさず、謝安の姪で王凝之(ぎょうし)の妻となっていた謝道韞

     (どううん)が言った、

      「未だ柳絮(りゅうじょ)の風に因って起こるに如かず」と。

      (=柳の綿が風によって舞い降りるのには及びません。)

        ☞ 柳絮とは柳の綿を謂い、晩春の頃 柳は実が熟すると、

         其れに付く白い毛が綿のように周辺に乱れ飛んだ。

        ※ 謝道韞は、謝安の兄・謝奕の娘で、聰明で才能も有り、

          また弁舌も達者であったという。道韞と言うのは、字である。

                  「晋書 列女伝」、「蒙求 謝女解囲」

    テーマ : 中国古典・名言
    ジャンル : 学問・文化・芸術

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(桃源郷)

     「桃源郷(境)」

                        東晋時代

      一般的には、俗世間を離れた別世界。また仙郷、武陵桃源とも。

     《 仮託の夢物語 》 

       東晋の太元年間(紀元376年~398年)、武陵の人で魚を獲ること

      を生業とする人がいた。

       或る日のこと、谷川を遡り、どれくらい来たか分からなかった。

       辿り着いた所の、谷の両岸数百歩の間は、その中に他の樹木はなく、

      香しい草が鮮やかで美しく、桃木だけが茂り、ひらひらと桃の花が落ちて

      いた。

       猟師は甚だ怪しみ、もっと山奥まで行って見ようと、舟をさらに先に

      進めた。

       やがて林が尽きると水源があって、そこには大きな洞窟があた。

       洞窟には小さな入口があり、中から光が微かに漏れていた。

       猟師は早速 舟を捨てて、入口から中に入ったが、中はやっと人 

      ひとりが通れるだけであったが、数十歩も進むと、前方が青空の下に

      大きく開けて、土地は平らで広く、家屋も立派であり、よく畑は耕され、

      池もあり、その周囲は桑や竹が林立し、畦道は東西南北に通じていて、

      犬や鳥の鳴き声まで聞こえてきた。

       猟師がその別世界に入ると、老若男女の畑仕事が目につき、彼らの

      服装はすっかり別世界の人のもののようであった。

       彼らは猟師を見て驚き、猟師を質問攻めにした。

       更に彼らは猟師を迎えて家に連れて帰り、酒宴を開いて歓待した。

       その間に、多くの村人が異郷の人の話を聞きに集まった。

       その内 彼らは問われる事なく自ら語ったものである。

       「遠い先の世、秦の動乱を避けて、妻子や村人を率いてこの絶境に

      至り、二度と外に出ず、遂に他の国の人と隔たってしまったのです」と。

       そして問うに、

       「今は何という時代ですか」と。

       猟師は、一々村人の為に問われるままに、詳しく答えたものである。

       そうやって数日間は迎えられて村人の家を転々として、彼らの質問に

      答えてやり酒宴のもてなしを受けたが、遂にこの地を辞退することに

      した。

       猟師が去るに際して、村人は念を押して頼んだ、

       「他の国の人には言わないでくれ」と。  

       猟師は援けられて船を探し出し、帰路に就いたが、道々目印を付して

      帰り着いた。

       そして、郡の太守に自分の体験したことを具に報告した。

       太守は、早速 猟師に先導させて部下を派遣したが、遂に仙境を発見

      するに至らなかった。

                    東晋 陶淵明 「桃花源記」より

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(風声鶴唳)

     「風声鶴唳(ふうせいかくれい)

                        東晋時代

      怖気づいた人は、些細な物音やかすかな声にも驚き怖がることの喩え。

      風の音や鶴の鳴き声に怖がるの意。

      或いは、臆病神に憑りつかれることをいう。

     》 淝水の戦いにまつわる秘話 《

       淝水の戦いにおいて、圧倒的軍事力を有した前秦の敗北は、歴史上

      の謎とされている。

       その謎の背景に、一つの秘話がある。

       前秦軍の勇力武将に、朱序という東晋からの降将がいた。

       彼は東晋の襄陽を堅く守って、前秦軍十万を寄せ付けなかったが、

      部下の内応により城塞は陥落してしまった。

       前秦の符堅は、朱序の襄陽での奮戦を高く評価して、彼の降伏後に、

      自分の有力武将に取り立て、朱序からは敬服もされ且つ前秦の為に

      尽力してくれるだろうと確信もしていた。

       その内 いよいよ淝水の戦いが始まったが、朱序は符堅の厚遇を想い

      ながらも、思いはいつの日か功を立てて、故国に還りたいとの一念が

      あった。

       淝水が淮河に合流する辺りで、両軍は対峙したが、朱序は作戦会議で、

      己の作戦を提言し主張した。

       乃ち対陣後、徐々に自軍を後退させて敵軍に付け入る隙を与えるべく

      偽装し、自軍の堅陣内に誘い込む作戦を立て、而も兵卒には作戦を

      知らせずに、隠密裏に事を運ぶというものであった。

       朱序の作戦は、了承され採用されることになった。

       その一方 東晋軍の方でも淝水の岸に整然たる布陣を完了した。

       だが対岸に繰り広げられる前秦軍の堅陣を見て、渡河することの

      不可能を知り、軍使を派遣して言わしめた、

       「陣を少しく退き、我が兵をして渉るを得さしめよ。以って勝負を

      決せん。可ならんか」と。

       前秦軍にとって、この東晋からの申出は、当に望む所であった。

       自軍の主力となる兵を渡らせ、半ば渡ったところで一気呵成に攻撃

      をかけようと目論み、直ちに了承した。

       以下は晋書による、戦況の叙述である。

       「符堅の衆 百万と号す。陣を列(つら)ねて泗水に臨む。

      幼度(謝玄)精鋭八千を以って水を渉る。堅の衆 奔潰す。

      甲を棄て、宵遁(のが)れる。

       風声鶴唳を聞くも、皆 以って王師と為す。」

         ☞ 王師とは、東晋側から見ての表現であり、東晋王朝軍のこと。

       前秦軍は、徐々に後退し始めた。

       前秦軍に身を置いていた朱序は、自軍が退きはじめると兵の間を走り

      回り、

       「退け、退け、急げ急げ、逃げよ逃げよ、大負けだ」と大声で叫び

      続けた。

       その内部隊は収拾のつかないほど混乱したのを確かめた後、東晋軍

      との事前の内応通りに、機を見て追撃態勢に入った東晋軍に合流して

      復役した。

       東晋軍の勝利のもう一つに理由は、敵は圧倒的大軍であったが、その

      多くは前秦に降った漢族の将兵であり、東晋軍に対する戦意は無く、

      ましてや本家筋を打倒することに腰が引けていたので、見せかけの退却

      命令に飛びついたのだと言われる。

                          「十八史略 東晋」、「晋書 謝玄伝」

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(屐歯折るるを覚えず)

     「屐歯(げきし)折るるを覚えず」

                        東晋時代

       喜びの余り、自分の履物の歯が折れても、それと気づく事は無かった

      という、浮ついた喩え。

         ☞ 屐歯とは、履物の地に接する部分の歯のこと。

     》 淝水(ひすい)の戦い 《   紀元383年

       異民族の前秦は華北を制すると、383年 天下統一の号令のもとに、

      百万と称する大軍を動員して南征軍を興した。

       之を迎え撃つ東晋軍は、八万にも満たない動員力であったが、この時

      に宰相を務めたのが名門貴族の謝安である。

     1 開戦準備 

       謝安は既にこの事態の来たることを見抜き、弟の謝石を最高司令官

      に任命し、兵を鍛えながら万端の準備を整えていた。

       後は冷静に処理するだけだとの思いで、決戦の時を待っていた。

       前秦軍の動きに対して、防衛軍の態勢は完了していたが、謝安から

      は改めての指示が一向にないので、前鋒都督(前線司令官)の謝玄

      (謝安の兄の子)ら将校たちが指示を仰ぎに来ること再三ならず。  

       だが謝安は泰然自若として全く動かず、彼らを見守るだけであった。

       謝安と謂えども、確たる勝算があった訳ではなかったが、いざという時

      に動じないその態度が、部下を 惹いては兵士の士気の阻喪を防いだ

      のである。

       一方 前秦の符堅は、いよいよ全面対決の時期が来たと判断し、

      幕営で朝議を開いた。

       席上、晋には長江と言う天嶮があり、甘く見てはならないという者も

      あり、出陣そのものを諌める者もいて、反対する者も多かった。

       だが符堅は、出陣した手前もあり強気になっていた。その強きに

      賛同したのが、亡命の将の慕容垂と姚萇であった。

       彼らは、前秦の内部分裂を期待していたのである。

     2 会戦

       遂に来るべきその夜、謝安は公邸に将軍連中を招集し、最終的な

      命令を与えた。

       謝石を最高司令官に、其の下に前線司令官として謝玄が、八万の兵

      の采配を揮う事となった。

       謝玄は、幕僚の劉牢之(ろうし)に五千の精鋭を与え、別働隊として

      布陣させた。

       さらに、西府の桓沖をして、十万の兵を率いさせて襄陽方面に配備

      させた。

       兵力に於いて劣勢に立つ東晋は、一気呵成の先制攻撃に命脈を

      懸けていたのである。

       結局 淝水を挟んでの両軍の対峙の形となったが、前秦軍は未だ

      後続部隊の集結を待つという形勢であった。

       やがて戦機至るとみるや、劉牢之は精鋭を率いて洛澗に向かい、

      一気に川を押し渡って前秦の先鋒・梁成の陣を押し潰した。

       前秦軍は圧倒的大軍を擁していたので、敵を誘い込んで包囲殲滅

      するという戦略であった。

       そこにやや受け身の動きもあったので、其れを戦機と見た謝玄らは、

      本隊を率いて、勇躍して淮河の支流である淝水を渡り始めた。

       前秦軍は、東晋軍がまだ渡河の途中に反転して之を撃つつもりで

      あったが、どうした訳か、陣を少し後退させてしまった。

       この動きが後方の前秦軍に伝わり、次から次へと後退する連鎖反応

      を起こした。

       前秦軍は、東晋軍が渡河の半ばに達した時に、反転攻撃命令を出す

      という戦略であったが、その命令を出すより先に大きく後退する軍中で、

      ありうべからざる事態となった。

       後退する軍中から、「逃げろ、負けたぞ」と連呼する怒声が響き渡り、

      反転命令は空しくかき消されてしまった。

       かくして後退する部隊の声は、前線で集結するために前進中の部隊に

      過って伝わり、まるで将棋倒しのようになって潰走することとなった。

       この敗走中に符堅は流れ矢を身に受け、長安に逃げ帰った。

       百万と称した前秦軍も、今や十万を従えるだけとなっていた。

       謝安の採用した速戦即決、奇襲戦法、反間策が功を奏し、大勝利と

      なったのである。

     3 戦勝報告

       この奇跡的な勝利は、すぐさま謝安の公邸にもたらされたが、謝安は

      勝利の報告文書をちらっと目を通すだけで、そのまま何事もなかった

      かのように客と囲碁を打ち続けたという。

       しかし実のところ、彼の心中は穏やかではなかったのである。

       ようやくにして客が退出した後、謝安は初めて、

       「安、戸に入り、喜ぶこと甚だし。屐歯折るるを覚えず」と、

       独りごちたのである。

                        「十八史略 東晋」

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(四体の妍蚩は、)

     「四体の妍蚩(けんし)は、本(もと) 妙処に関するなし」

                        東晋時代

      姿形の美醜は、もともと絵の真髄に関係するものではない。

        ☞ 妍は美しい。蚩は醜い。

      東晋末の画家・顧愷之(こがいし)は、南北朝時代の梁の張僧繇

     (ちょうそうよう)、宋の陸探微と共に画家の三祖と称される。

      顧愷之は人を描いても、数年間は瞳を描き入れる事は無かったという。

      ある人がその訳を尋ねると、

      「四体の妍蚩は、本 妙所に関する無し。

      伝神写照は、正に阿堵(あと)の中に在り」と。

      (=神髄を伝えて写し出すことこそ、この中に在るのだ。)

        ※ 「阿堵」と言う語は、東晋時代に流行った指示代名詞であり、

          「これ」とか「この」と言う意。

                         「世説新語 巧芸篇」 

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(漸入蔗境)

     「漸入蔗境(ぜんにゅうしょきょう)

                         東晋時代

      「佳境に入る」とも。

      談話や文章或いは事件などの面白いところ。

      所謂 佳境のこと。

      次第に感興の高まる境地、乃ち甘蔗(サトウキビ)の最も美味いところに

     食べ進んでゆくの意。

        ☞ 甘蔗は、「甘藷」とも。

      東晋の画家である顧愷之(こがいし)は、甘蔗をかじる時、常に根元の方

     から食べ始めて、次第に甘い先端に及んだ。

      これを見て、人が怪しんでその理由を尋ねると、

      顧愷之は、徐に答えて、

      「漸(ようや)く蔗境に入る」と。 

      乃ち、そうすることにより、甘蔗が段々と美味しくなるという訳である。

                       「晋書 文苑・顧愷之伝」

      ※ この故事から、談話などが次第に面白くなることを

        「佳境に入る」
    と言うようになる。

      

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(幕賓)

     「幕賓(ばくひん)

                         東晋時代

      軍の幕僚を云う。また親しい客人のこと。

      軍陣に於いては将軍の居所は天幕が張り巡らされており、機密に参画

     できる参謀などのみが幕舎に出入りを許された。

      そこから幕の内部に入る者のことを「幕客」と呼び、謀計に参画する者

     のことを「幕賓」と呼んだ。 

     》 桓温、九錫の栄誉を画策す 《    紀元373年

       孝武帝が即位した翌年、桓温が兵を連ねて入京して来た。

       朝廷では、勅命により謝安と王坦之が責任者として桓温を迎えた。

       桓温は、事前に手を回しておいたので、頃は良しとばかりに九錫を

       要求して来たのである。

       当時、入京して来る桓温は、謝安と王坦之を殺してから、帝位を簒奪

      するに違いないとの流言が、巷間でしきりにあった。

       王坦之は戦々恐々としていたが、謝安は何ら臆するところは無く、

      堂々と桓温に対応した。

       さて桓温は、物々しい武装兵を従えて入京し、出迎えた高官たちを

      引見した。

       王坦之は戦々恐々として、杓を逆さに持つという失態を演じたが、

      謝安は何ら臆する所はなく堂々と桓温に対し、廊下にまで護衛の兵を

      配した桓温に言った、

       「諸侯 道 有れば、守り 四隣にありと聞く。

       明公なんぞ壁後(廊下の意)に人を置くを須(もち)いんや」と。

       桓温は苦笑いして、即刻兵を引き払わせ、謝安と時の経つのも忘れ

      て談笑した。

       時に この席の背後では、桓温の腹心で髭の参軍のあだ名のある

      郗超(ちちょう)が帳(とばり)に隠れて会談の様子に聞き耳を立てて

      いたが、たまたま風が一吹きして、帳をまくり上げてしまった。

       謝安は、

       「なるほど、郗生は入幕(にゅうばく)の賓と謂うべし」と言った。

       だが桓温は、またしても謝安の笑いを買ってしまったのである。  

                         「十八史略 東晋」

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(吾輩が之を耕し、)

     「吾輩が之を耕し、君、之を食うか」

                         東晋時代

      自分は先王を援けて、国家の建設に向かってひたすら苦労しながら

     地ならしをして耕し、漸くにして政権を作り上げたのに、君は之を無為に

     して、その出来上がったものを横取りするだけか。

     》 符堅、王猛を宰相に任ず 《   紀元372年

       東晋の咸安二年のこと、前秦の符堅は漢人の王猛を中書侍郎(宰相並)

      に任じ、何事によらず彼に相談するようになった。

       符堅は都を長安に遷し、中原に根を張った国家を建設しようと努めた。

       その為にも、王猛は符堅にとり、今や無くてはならない人物となって

      いた。

       ところが、氐族の勇力首長の一人で、前秦建国の大功臣である樊世

      (はんせい)は、符堅が漢人の王猛を余りにも重用するので、いつしか

      王猛を憎むようになっていた。

        そして遂に王猛に対して、

        「吾輩が之を耕し、君、之を喰うか」と鬱憤を晴らして言った。

       それに対して王猛は、

       「徒(た)だ君をして之を耕(こう)しむるに非ず、又た将に君をして

      之を炊(すい)しむ」と、

       (=ただに耕すだけでなく、ついでに貴方に炊事までしてもらいま

        しょう。)

      人を喰った返答をしたのである。

       樊世は怒り心頭に発して、

       「当に汝の頭を長安城門に懸くるを要す。

       然らずんば、吾 世に処(お)らじ」と恫喝した。

       かくして両者の確執は、ついに避けがたきものとなり、王猛を討とうと

      意気込む樊世を符堅は怒って殺してしまった。

                         「十八史略 東晋」 

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(魯魚の誤り)

     「魯魚の誤り」

                         東晋時代

      よく似た字は、写し間違いしたり書き間違いしたりして、間違いやすい

     ということの喩え。

      魯と魚の字の誤まりの意。

      「書は三書するに、魯は魚となり、虚は虎となり、烏は馬となる。」

                 東晋の葛洪 「抱朴子 内篇・遐覧」

        同じ意味で、

         「焉烏之謬(えんうのあやまり)」、

         「亥豕之誤(がいしのあやまり)」とも言う。



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    中国通史で辿る名言・故事探訪(遺臭万載)

     「遺臭万載(いしゅうばんさい)

                        東晋時代

      悪名でもよいから、其の名を後世に遺したいという強烈な野望を云う。

      悪臭を万載(万年)の後まで遺すの意。

      後世に至り、悪逆無道の大悪人を蔑視したり、罵倒する常套語となる。

     》 桓温、枋頭(ほうとう)に惨敗す 《 

       桓温は密かに、王朝を簒奪していつの日か天子となるべく野望を燃や

       していた。

       そうした或る日の夜中に、寝付かれずに嘆息して言葉を漏らした。

       「男子、芳(ほう)を百世に流すこと能わずんば、

       また当に臭(しゅう)を万載に遺すべし」と。

       (=男子たる者、美名を死後まで残せなければ、逆に悪名を

        永遠に残してやろう。)

       洛陽が燕軍に奪われてから四年後、桓温は大軍を動員して燕討伐

      に乗り出したが、燕王の伯父の慕容垂の采配する軍を敗れず、枋頭

      で惨敗を喫して逃げ帰った。

       だが後に、慕容垂は燕王の憎しみを買い、逆に晋に亡命するという

      運命の悪戯に遭う。

       桓温は軍事上の大功を盾にして、九錫の栄誉を受けようと画策した

      のであったが、枋頭の敗戦以来その声望はにわかに衰え始めていた。

       その彼に髭の参軍との異名のある股肱の臣・郗超(ちちょう)が進言

      した。

       「伊霍の故事を行い、以って大権威を立てよ」と。

       桓温は遂に、入京して皇太后に迫り、帝奕を退位させた。

       ※ 伊霍の故事を行うとは、殷王朝の創業の功臣である宰相伊尹

         が跡継ぎとなった太甲王の不行跡を理由に王位を追放した

         故事、また漢の武帝亡き後、宰相霍光が帝賀を廃した故事。

                   「晋書 桓温伝」、「世説新語 尤悔」



       

    テーマ : 中国古典・名言
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    中国通史で辿る名言・故事探訪(玉石混淆)

     「玉石混淆ぎょくせきこんこう)

                        東晋時代

      良いものと悪いもの、また賢者と愚者が入り混じっていることの喩え。

      貴い玉と只の石が混じり合っているの意。

      「真贋顚倒し、玉石混淆す」が原文。

       ☞ 真贋顚倒とは、本物と偽物がひっくり返って

        入れ替わること。

                  東晋 葛洪「抱朴子 外篇・尚博」

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(東山の再起)

     「東山(とうざん)の再起」

                        東晋時代

      引退した者が、再び世に出ることを云う。

      或いは、失敗した者が勢いを盛り返すことを云う。

     》 謝安の任官 《    紀元360年

       謝安は曽て会稽郡の刺史に望まれて已む無く官吏となったことが

      あった。

       だがすぐに野に下り政治の社会とは決別し、東山(現浙江省)に隠棲

      した。 

       謝安は東山に隠棲してから自由な生活を送っていたが、その名望の

      故に朝廷からはしばしば出仕の命令があっても、俗塵を避けて動か

      なかった。

       それから年月は経ち、謝安が四十歳を過ぎてから、再び時の権力者で

      ある桓温から望まれて仕官するようになり、後には遂に宰相にまで栄達

      した。

       彼の晩年には、当に弱体東晋王朝は危急存亡に遭遇したが、謝安の

      起死回生策が功を奏し大勲功を立てた故事に因む諺である。

     安石出でずんば、蒼生を如何せん

      謝安(字は安石)が政界に立たねば、人民の将来はどうなるのか、

     と言う当時の人民や有識者の心配と安石に寄せられた全幅に信頼を云う。

      後に転じて、良い政治家が出なければ、人民の生活が立ち行かない、

     と言う意味となる。

      謝安は若い頃から才能、識見ともに衆に優れ、名声が高かった。

      特にその書は秀逸で、書聖と言われた王羲之らと交わり、会稽郡の東山

     に遊んでは、共に酒を飲んで詩を作ったりして楽しんだという。

      そんな彼の評判を耳にして、揚州の刺史・庾永(ゆえい)は、腰を低くし

     て、彼に官に就くことを要請した。

      謝安は仕方なく、その顔を立てて宮仕えをしたが、一ケ月余りで辞任し

     郷里に帰ってしまった。
      

       

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(長安は咫尺なれども、)

     「長安は咫尺(しせき)なれども、而も灞水を度(わた)らず

                         東晋時代

      折角 長安の近くまで攻め込みながら、其の勢いを駆って灞水を渡ろう

     とはしない。

     》 桓温、第一回北伐 《   紀元354年

       永和十年、」桓温は前秦の討伐を開始した。

       先ずは藍田に於いて前秦軍に大打撃を与え、転戦して灞水に軍を

      進めた。

       之に対して、秦王符健は長城に立て籠もり守勢を固めた。

       桓温は秦軍の守りに対して、積極果敢に攻めようとせず白麓原に

      於いて秦と小競り合いをしたが、戦況は芳しくなかった。

       桓温にしてみれば、北伐を敢行して大きな功績を挙げておき、後に

      東晋に取って代わるという国家簒奪の野望の大いなる布石にして

      おきたかったのであるが… … …。

       この時 北海郡出身の王猛という者が桓温に面会を求めて来た。

       桓温は王猛の気概に打たれて、時局を語らせようと考えた。

       そして自ら質問した。

       「吾は勅命を奉じて賊どもを討ち払ったのに、三秦(長安一帯
     
      の総称)の豪族どもは、まだ馳せ参じて来ないのはどうしたことか」

      と。

       王猛は答ええ、

       「公、数千里を遠しとせず、深く敵境に入る。

       今 長安は咫尺なれども灞水を度らず、百姓いまだ公の心を知らず。

       (=ところが今や、長安を目前にしながら、敢えて灞水を越えて

        進もうとなさいませんので、土地の者どもは将軍のお考えが那辺

        に在るのか計りかねているのです。)

       至らざる所以なり」と。

       桓温は王猛に、己の心中を見透かされたようなので、押し黙って

      しまった。

       その後、前秦軍は畑の作物を尽く刈り取る策に出たため、東晋軍は

      兵糧に窮するようになり已む無く撤退した。

         ※ 灞水は、秦嶺山脈に源流があり、北東に流れて長安の

          北方で渭水に合流する。

         ☞ 咫尺(しせき)は、咫と尺の複合語。

            極めて近い距離のこと。

            咫尺は長さの単位であり、古代の周尺では、

            咫は女性の親指と中指を最大限に開いた長さであり、

           八寸(18㎝)。

            尺は同じく男性の長さであり、十寸(22・5㎝)。

            ただし異説もある。

                         「十八史略 東晋

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(管中窺豹)

     「管中窺豹(かんちゅうきひょう)

                        東晋時代

      見聞の甚だ狭いことを云う。

      物事の一部を見て、全体を推量するの意。

      管の穴から豹を覗いても、豹の斑点模様の一部が見えるだけで、豹の

     全体の姿が見えないことの喩え。

      また、豹の皮の斑紋の一つを見て、その豹の毛皮全体の良し悪しを

     品評すること。

      王子敬(字は献之がほんの子供の頃のある日、父である王羲之の

     門人たちの興ずる樗蒲(ちょぼ。博奕)を見物していた。

      その内、子敬は勝負があったのを見てとり、

      「南風 競わず」、と言った。

      門人たちは彼が子供であると軽んじて、言ったものである。

      「この郎(坊や)、管中から豹を窺い、たまたま一斑を見る」と。

      すると、子敬は眼をむいて言った。

      「遠くは荀奉倩(じゅんほうせん)に恥じ、近くは劉真長に羞じよ」と

     言うや、遂に衣服を払って去った。

       王子敬(字は献之)は、書聖と言われた父の王羲之の第七子であり、

        父の才能を最もよく受け継いだ早熟児であった。

        長じるに及び父と共に「書の二王」と称された。

      ※ 荀奉倩と劉真長は、その生きた時代は違うが、いずれも早熟

       で知られた天才であり、殊に劉真長は王羲之の友でもあり、

       曽ては桓温の悪逆を樗蒲で見抜いたと言われる人である。

                 「世説新語 方正篇」、「晋書 王羲之伝」

       

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(流觴曲水)

     「流觴曲水(りゅうしょうきょくすい)の宴(うたげ)

                        東晋時代

      東晋時代の貴族趣味の園遊会。

      風流を解する士大夫連中が集い、庭園内の屈曲した水流に

     觴(しょう。=杯)を浮かべて流し、下方にいる者の所にその觴が来ない内

     に詩を作り上げるという趣向の貴族遊びの故事。

      この時の名士たちに詠まれた詩は、「蘭亭集」という詩集に

     纏められたが、王羲之は、自らその序文をしたためた。

      これが後世、「蘭亭序」として知られるもので、その真筆の是非は

     別にしても今日に至るも「書の至宝」と絶賛されてきたものである。

     以下 古文真宝収録から、王羲之「蘭亭の記」を記す。

      「永和九年 歳は己丑(きちゅう)に在り。暮春の初め、会稽山陰の蘭亭

     に会す。

      禊事(けいじ)修むるなり。

      群賢畢(ことごと)く至り、少長 咸(みな)集まる。

      此の地に嵩山峻嶺(すうざんしゅんれい)、

      茂林脩竹(もりんしゅうちく)有り。

      また清流激湍(せいりゅうげきたん)有りて、左右に映帯す。

      引きて以って流觴の曲水と為し、其の次に列座す。

      糸竹管弦の成無しと雖も、一觴一詠(いっしょういちえい)、亦た

     以って幽情を暢叙(ちょうじょ)するに足れり」  

      ※ 禊事とは、年中行事の一つで、水辺で身を洗い清めて、

       悪を払い除ける祭り。
        
         春の禊は、陰暦三月上巳(月の初めの巳)の日に行ったが、

        後には三日となる。

         秋の禊は、七月十四日。

      ☞  少長は、老いも若きも。

         嵩山は中国の四嶽の一つ。

         茂林脩竹は、鬱蒼とした林と長い竹。

         激湍は、激しい急流。

         糸竹管弦は、笛と琴。

         一觴一詠は、一杯の杯を流すたびに、詩を一句作り

        朗読すること。

         暢叙は、十分に述べる事。

       舞台となった所は、現在の浙江省紹興市(会稽山の南十五里の地)

      に在る風光明美な地の蘭亭であり、当時の名士ばかりが集まり、

      流觴曲水の宴に興じて詩を吟ずるという、風流な遊びを叙したもの。

       この会では四十人の参集者の内、十五名は詩を作れず罰杯を

      飲んだとされる。

      

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    テーマ : 神話伝説逸話
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    中国通史で辿る名言・故事探訪(咄咄怪事)

     「咄咄怪事(とつとつかいじ)

                         東晋時代

      おやおや怪しからぬ事だ、というほどの意味。

      咄は、驚き怪しんだ時に発する語。

      流謫の身となった殷浩は、無念やるかたない思いであったが、其れを

     顔には出さず指先を空中に突き出して、「咄咄怪亊」 と書いては、気を

     紛らわせていた。

      その内 桓温は腹心の勧めもあって、殷浩を尚書僕射(副宰相)に任命

     しようとして、殷浩に書面で以って彼の意向を問うた。

      果たして殷浩の喜びぶりたるや、当に手放しの有様であり、返事の手紙

     に手落ちがあってはならぬと心配して、文箱に入れては 又 出して確か

     め、それを繰り返すこと十数回、挙句の果てに空の文箱を送り届けて

     しまうという失態を演じてしまった。

      その為 桓温からはすっかり見捨てられ、結局 流謫の配所でこの世を

     去ってしまった

                          「十八史略 東晋」


      

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(竹馬の好)

     「竹馬の好(よしみ)

                         東晋時代

      「竹馬の友」とも。

      竹馬は、竹を切ってこしらえた子供の遊び用具である。

      そこから、子供時代の遊び仲間のことを云う。

      東晋の殷浩が敗北の責任を取らされて、僻遠の地に流された後のこと、

     桓温は人に語ったものである。

      「私は子供の頃、殷浩と一緒に竹馬に跨って遊んだものだが、私が竹馬

     を捨て去ると、浩はいつも拾い取るというように、先ず私が先で、彼が後に

     なっていたものだ。

      だからあれが、私の下に出るのが当然なのだ。」と得意然とした。

                        「晋書 殷浩伝」

      ※ 中国の竹馬遊びは、竹の上部を馬の頭に見たてて「タテガミ」を

        飾り付け手にした竹馬を股にはさんで地面を引きずり回すという

        遊びであり、日本のものとは趣が違っている。

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(窮猨投林)

     「窮猨投林(きゅうえんとうりん)

                         東晋時代

      困窮した時には、選り好みできないことの喩え。

      追い詰められた猿は、逃げ込む木を択ぶ余裕はなく、取り敢えずは

     林の中に身を投じて危難を避けるものである。

      東晋の北伐軍司令官の褚裒(ちょほう)が、或る時 李充の才知や人柄

      を見込んで、自軍の参謀に抜擢しようとした。

      ところで軍参謀と言えば顕官であり、出世・栄達の絶好の機会であった

      が、李充はその官職を断り、格下の地方長官を希望した。

      褚裒がその訳を尋ねると、李充は、

      「窮猨、林に投ずるに、豈に木を選ぶに暇あらんや」

     と答えた。

      当時の李充は、極度の貧困に喘いでおり、取り敢えずはその窮乏から

      脱するために、より実入りの良い地方官を願望したのである。

                          「晋書 文苑伝」

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(断腸の思い)

     「断腸の思い」

                        東晋時代

      「母猿断腸」とも云う。

      非常に激しく苦しい気持ち。また悲しみの甚だ切なること。

      東晋の桓温が、蜀に攻め入り三峡(長江上流)までやってくると、

     部隊の兵卒で小猿を捕まえた者がいた。

      其の母ざるは、岸辺を伝いながら軍船を追っては、悲しげに鳴き叫び、

     百里余りを進んでも猶も去ろうとはしなかった。

      そして遂に小猿の捕らわれている船中に飛び込んできたが、そのまま

     息絶えてしまった。

      「その腹中を破り見れば、腸 皆寸寸に絶えたり。」

      (=兵士が其の母ざるの腹を裂いてみると、腸はズタズタに

       断ち切れていた。)

      後に、桓公(桓温)はその話を聞いて怒り、その兵士を罷免した。

       「断腸の思い」という成語の出典である。

          「世説新語 黜免(ちゅつめん)」、北宋・晏殊「再選集」

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(阿香)

     「阿香(あこう)

                        東晋時代

      「阿香車」とも。

      雷。雷神の別称。
      
      東晋の「香ちゃん」という女の子が、雷車を推したという伝説から

     生まれた成語。

      東晋・穆帝の永和年間、義興の人で姓を周という者が、郭門を出て

     歩いていた。

      未だ村里に至らずして日が暮れてきたが、道辺には新しい小さな草葺

     の家が見え、門から女の子が出てきてこちらを見ている姿が見えた。

      周は、そこで一夜の宿を求めた。

      女は周の為に火を燃やして、食事の用意をしてくれた。

      それから1更ほどして、外から声がして小児を「阿香」と呼び、 女は

     「はい」と応じた。

      そして外から声が聞こえてきた、

      「お役所があなたを呼んで、電車を推させるそうだよ」と。

      女は挨拶をして出て行った。

      その夜、遂に大雷雨となった。

      夜が明けてから、周が昨夜 泊まった所を見ると、一つの新しい墓塚

     があるだけであった。

              唐代 釈道世 「法苑珠林(ほうおんしゅりん)」 



       

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(蛍雪の功)

     「蛍雪の功」

                         東晋時代

      貧困の中で刻苦勉励し、後に成果を得ることの喩え。

      東晋の車胤(しゃいん)と孫康の二人の事績を併せて出来た故事成語。

     ◇ 車胤聚蛍(しゃいんしゅうけい) ◇

        車胤、字は武子。交州の南平の人。

        恭謹して倦まず、博覧多通であった。

        家は貧しく、常に油を得るという訳にはいかなかった。

        夏月(かげつ)は、即ち練嚢(練り絹の袋)に数十の蛍を入れて書を

       照らし、夜を以って日に継ぐというという風であった。

        月日は経ち、桓温が荊州の刺史(長官)の時、車胤は召されて、

       その属官となった。

        彼は義理をよく弁えているというので、桓温に大いに重んじられた。

        後に次第に昇進し、征西将軍の長吏(書記官長)となり、ようやく

       朝廷にその名を知られるようになった。

        その一方では、彼は呉隠之(ごいんし)と共に、貧困の中で勉強

       して、博学になったというので世に知られた。

        また彼は宴会の席などでは、面白く論談して人を楽しませた

       ので、宴席に在って、その席に武士(車胤)がいなければ、人は

       言ったものである、 「車公 無ければ楽しまず」と。

        彼は最後には、朝廷に於いて、吏部尚書まで昇進した。

           ※ 東晋時代の吏部尚書は、文官の選任を司る役所の

             長官。

                          「蒙求 車胤聚蛍」

     ◇ 孫康映雪 ◇

       孫康、家貧しくして油なく、冬は常に雪に映(て)らして書を

      読む。  

       少々より清介にして、交友雑ならず。

         ☞ 清介は、清廉狷介の略。

           清廉すぎて俗世間から孤立すること。

           交友雑ならずとは、志を同じくしない者とは交わらないこと。

       後に御史大夫に至る。

           ※ 御史大夫は、官吏弾劾の御史台の長官。

       尚 孫康については詳しい事績は不明であり、「孫氏世禄」が典拠

      となったが、今に伝わらない佚書である。

                        「蒙求 孫康映雪」

                   

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(高閣に束ぬ)

     「高閣に束(つか)ぬ」

                        東晋時代

      束ねて高い棚の上にでも置いておくの意。

      転じて、久しい間 物を使用しなかったり、立派な人物を打ち棄てて

     置き、任用しないこと。

     》 東晋の賢人・殷浩 《

       京兆(都)の杜乂(とがい。隠れた賢人)と言われた殷浩は、陳郡出身

      で、その才名は天下に鳴り響いていた。

       そのような彼に人々は、国家の進退を期する声が強かった。

       だが時の実力者である庾翼の思いは、軍事上の功を貴ぶが学識や

      弁論の才を蔑視していた。

       そして世評に構わず、殷浩の才を決めつけて言ったものである。

       「この輩よろしく、これを高閣に束ねて、

       天下の泰平を俟(ま)ちて、徐(おもむろ)にその任を議すべきのみ」

      と。

       (=今のような難しい世の中では、この手の人物は床にでも飾って

        置き、世の中が平和になってから任用を検討すべきである。)

       ところが、時の有識者たちは、殷浩を春秋時代の管仲や三国時代の

      諸葛孔明に議して、

       「淵源出でずんば、蒼生を如何せん。」

       (=根源となる人が出馬しなければ、人民の苦しみは救われない。)

       と言って、天下万民の為に、殷浩が出馬して朝廷で重用されることを

      期待したものである。

       そこで庾翼は、心ならずも殷浩を司馬として招聘しようとしたが、殷浩

      は応じなかった。

       庾翼は、殷浩を管仲どころか精々 王夷甫(王衍。夷甫は字 ) と

      言ったところだと見下して嘲笑した。

                   「晋書 庾翼伝」、「十八史略 東晋」

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(家鶏野雉)

     「家鶏野雉(かけいやち)

                         東晋時代

      身近にある物を嫌い、珍しい物や新しい物を好む喩え。

      家で飼う鶏を嫌って、反って野にいる雉を愛するの意。

      そこから意を転じて、良い筆跡を棄てて悪い筆跡を愛すること、

      また正妻を棄てて妾婦などを愛することを云う。

      東晋の庾翼(ゆよく)は若い頃、右軍(ゆうぐん)と名を等しくするほど

     書に通じていた。

         ※ 右軍とは、書聖と称せられた王羲之(おうぎし)である。

            彼の官は右軍将軍を務めたので、王右軍と通称される。

      だが右軍は、その後 更に書の道を極めて深く進んだが、その後の庾翼

     の技量は明らかではなかった。

      庾翼は兄の庾亮の死後、荊州の軍閥「西府」を引き継いだが、部下に書

     を与えて言った。

      「小児輩、家鶏を厭(あ)いて野薙を愛す。

      皆 逸少(いつしょう。王羲之の字)の書を学べり。  

      吾が都に帰るを待ちて、之(吾が書)とくらべよ」と、

     負けず嫌いを吐露した。 

                      「晋書 (九家) 中興書」  


       

    テーマ : 中国古典・名言
    ジャンル : 学問・文化・芸術

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(西施に唐突す)

     「西施(せいし)に唐突す」

                        東晋時代

      極めて優れた人に比べられることを云う。

      唐突とは、出し抜けに物事を行い始める様。

      周顗(しゅうぎ)は字は伯仁と言い、若くして重名があった。

      嘗てそんな彼に対して、庾亮(ゆりょう)が言った、

      「諸君 皆、君を以って楽広(がくこう)に方(くら)ぶ」と。

      周顗は言う、

      「何ぞ乃ち無塩を刻画(絵に描いて)して西施に唐突せしむるや。

      刻画は雕琢(ちょうたく。玉を刻み磨くこと)なり。

      無塩は斉の醜婦、西施は越の美女なり」と。

      乃ち周顗は自ら謙遜して、吾を以って楽広に比較するのは、醜婦の無塩

     を刻画して、美女の西施に対比するようなものだ、と。

                       宋・胡継宗「書言故事」

    テーマ : 中国古典・名言
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    中国通史で辿る名言・故事探訪(事を起さば、禍久しからず)

     「事を起こさば、禍久しからず」

                         東晋時代

      何か事件を惹起するようなことがあれば、お命は遠からず失いましょう。

     》 王敦の最後 《

        東晋王朝では元帝が崩じて、太子司馬紹が即位した。

        これが明帝であるが、東晋の重鎮・王敦は虎視眈々と王位を狙い、

       その軍司令部を国都・建康に近い姑孰に移し、自ら揚州の長官と

       なった。

        明帝は、王導を司徒兼大都督に任じて、全軍を指揮して王敦討伐に

       向かわせた。

        王敦も対抗して軍を率いて出陣したが、戦闘寸前になって病に倒れ

       てしまった。

        王敦は、そこで易占いでもさせようと、易の名人として知られた自軍

       の記室参軍(文種を起草する書記官)の郭璞(かくはく)を呼んで、

       卦を立てさせた。

        郭璞は、筮(竹筮)をして言った。

        「明公(王敦を尊称して)、事を起こさば禍 必ず久しからじ 」

       と。

        聞くや、王敦は激怒して言った。

        「卿の寿 幾何(いくばく)ぞ」と。

        郭璞は観念して言った。

        「命 今日の日中に尽きん」。

        王敦は、その日のうちに郭璞を斬らせた。

        明帝は王敦臥すとの報せに、自ら出陣し南皇堂に布陣した。

        そして陣頭指揮して王敦の兄・王含の軍を包囲殲滅した。

        王敦はこの敗報を聞いて嘆息し、無理に立ち上がろうとして力尽き

       てしまい陣没してしまった。

                        「十八史略 東晋」

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(鹿 誰の手に死す)

     「鹿、誰の手に死す」

                         東晋時代

      形勢は混沌としており、天下は当に誰の手に帰すべきか、という喩え。

      「中原に鹿を追う」といえば、天下争奪戦を意味する。

      鹿を射止めた者が覇者である。
     
      石勒は饗宴の酣に、笑って言った。

      「朕は若し高皇(前漢の高祖・劉邦)に会ったら、当に北面して之に仕え

     よう。韓彭(前漢の劉邦に仕えた韓信と彭越)とは鞭を競って先を争おう。

      若し光武(後漢の帝。劉秀)に会ったら、当に並んで中原に馬を疾駆させ

     よう。しかし、鹿は誰の手に死すか知れず」と。

                          「晋書 石勒載記」

      
     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(祖逖の誓い)

     「祖逖(そてき)の誓い」

                        東晋時代

      命懸けの悲壮な覚悟。

      長江以北の晋の旧領回復に込められた東晋の武将祖逖の悲壮な決意。

      司馬睿が江南(長江以南)で丞相府を開いてから、洛陽など華北(江北)

     からの流民は引きも切らなかった。

      華北の北部の豪族であった祖逖は、一族郎党数百家を率いて南下した。

      彼らの行路中における祖逖の采配振りを見て、同様に南下していた流人

     の多くが祖逖らの集団に加わり共に江南に至った。

      彼らは王導に歓迎され、江南の北端に在る京口という所に落ち着くことに

     なった。

      祖逖は失地回復の想い深く、、元帝に北伐の拠点作りに兵を請うたが、

     元帝には、そもそも失地回復の志は無かったので、千人ばかりの兵と

     わずかな兵器を授けて、祖逖を予州の刺史に任じた。

      紀元319年、祖逖は任に就くべく長江を渡って北上する際、誓いを

     立てた。

      若し中原を平定できず、再び長江を渡らねばならなくなった暁には、

     生きては還らじ、と。

      祖逖は先ず譙城(しょうじょう)を占領し、さらに雍丘に進んで根拠地を

     築いた。ここに河南の地はほぼ制圧した。

      すると境を接した後趙から、しきりに投降者があった。

      祖逖は次の戦略として、駐屯軍の支配領域で新たに編入した帰服者たち

     と共に産業を興した。

      ところが、元帝は尚書僕射の戴淵(字は若思)を征西将軍に任命した。

      さらには都督司兼六州諸軍事を統括させ、その上に司州刺史に任じ、

      剰え合肥の鎮守を命じた。

      祖逖にしてみれば、苦難の末に築き上げた河南の地である。何としても

     腹に据えかねた。

      折りしも、王導の従弟で大将軍の王敦が朝廷で対立して、内戦勃発の

     危機が生じていた。

      もはや中原の回復など到底見込みが無くなったと、祖逖は憤慨して病に

     伏すようになった。

      そして紀元321年、そのまま息を引き取ってしまった。

                         「十八史略 東晋」

    テーマ : 神話伝説逸話
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    中国通史で辿る名言・故事探訪(王承魚盗)

     「王承魚盗」

                        東晋時代

      「蒙求」の人名と事績の四字標語。

      東晋の王承、魚盗を裁く。

      王承は字を安期と言い、汝南郡の内史・王湛(おうたん)の子で、後に

     東海郡の太守となった。

      彼の施政方針は、道家の無為を尊び煩わしさを避け、事細かに吟味

     するということはなかった。

      或るとき、小役人が池の魚を盗んだとして、刑の執行役人が法に照らし

     てこの者を詮議し、処分しようとした。

      事件の報告を受けた王承は、処分を中止させて言った。

      「昔、周の文王は庭園を開放して、衆民と共に楽しんだものである。

     池魚 何ぞ惜しむに足らんや」と。

      その後 更に、夜間遊歩の禁を犯した者があって、卒吏に捕まり拘束

     される事件があった。

      王承は、その者に訳を問い質した。

      その者の言うには、

      「師に従って書物の講義を受けていて、覚えず知らずして日が暮れて

     しまったのです」と。

      王承は、断を下して言った。

      「寗(甯)越を鞭撻して、以って威名を立つるは、政化の本(もと)に

     非ず」と。

      (=寗(甯)越のような勉強家を鞭打って、太守の威厳を示すのは、

       政治教化の根本ではない。)

      かくして下吏に命じて、其の者を家まで送らせた。

      王承は後には、鎮東府侍従中郎となり、元帝に忠節を尽くして優遇

     された。

      人々は彼を敬愛して、東晋初期の名臣と称えらfれた王導や庾亮なども

     彼の下風にあったとする。

                   「蒙求 王承魚盗」

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(卿は鬼の董狐と謂う可し)

     「卿(けい)は鬼(き)の董狐と謂う可(べ)し」

                         東晋時代

      貴方は幽界における董狐とも言うべき人である。

        ※ 董狐は、春秋時代の晋に仕えた職務に忠実かつ厳正な史官

         であった。

      東晋の史官でもあった干宝が、劉真長に向かって、自分が書き上げた

     特異な著書の「捜神記」について述べた。

      すると、劉真長は、

      「卿は鬼の董狐と謂う可し」と驚嘆して言った。

                        「世説新語 排調篇」

       ※ 劉真長は、名は惔(たん)。沛国譙の人。

          東晋の大功臣・王導に認められ、明帝の娘・廬陵公主を娶り、

          琅邪臨沂(ろうやりんき)の王氏一族に連なる王珣からは、

          王献之に勝ると評された当時の錚々たる名士。

     》 干宝と捜神記 《

        干宝は博識で知られ、王導の推薦により史官に任じられた。

        そして彼は、「晋書」十巻を編集した。

        しかし干宝の名を史官としてよりも、一層 高めたのは、「捜神記」

       を著述してからである。

        捜神記は仏教などの影響を受けて、所謂 見聞した怪奇事件を

       そのまま伝承して記述するという手法の志怪小説である。

        志怪小説は、取るに足りない小さな話と言われてきた「小説」のよう

       に創作・構成に配慮した作品ではないが、とにかく当時の知識人が

       意識的に小説を著そうとした最初であると言われる。

        捜神記は、仏教の因果応報を交えつつ、鬼神妖怪の説をあれこれと

       織り交ぜたものである。

        其れを著すに至った動機が伝承されている。

        干宝の父には溺愛していた侍女がいたが、母は彼女を深く嫉妬して

       恨んでいた。

        干宝の父の没後に、母は彼女を父の墓の中に生きながらにして閉じ

       込めてしまった。

        その事があってから十数年後に母が死んだので、父の墓に合葬する

       為に墓を開けると、父の愛した侍女は棺の上にうつ伏せになっていて、

       まるで生きているかのようであった。

        干宝が、改めて彼女を葬るつもりで家に連れて帰ると、翌日に彼女は

       息を吹き返し、意識を取り戻した。

        その後、彼女はよく吉凶を占うようになった。

        また今度は実の兄の事であるが、兄が病気で一旦は絶命したのに、

       後に至り意識を取り戻したが、死んだ際に見たという天地の鬼神の事

       を話し、自分が死んでいたことにはまるで知らぬかのようであった、

       と云う。

        こうした体験が、干宝をして「捜神記」の著述を思い立たせた

       と云う。

                            「晋書 干宝伝」

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(長安 日辺)

     「長安日辺(ちょうあんにっぺん)

                        東晋時代

      遠隔の地のことを云う。

      長安は、遠い所に在るの意。

      ☞ 日辺とは、太陽のあたり・天上。また遠い所。

      晋の司馬紹(後の明帝)が数歳の頃のこと、朝堂において父帝である

     元帝の膝の上に抱かれていた時、長安から訪れた者があった。

      元帝は晋王朝の前の都・洛陽の様子を尋ね、その内 はらはらと涙を

     流し始めた。

      そんな父を見て、紹はその訳を聞きたがった。

      元帝はそこで、江南の地に移らなければならなかった話をしてやった

     が、何気なく紹に聞いてみた。

      「長安近きか、日(太陽)近きか」と。

      紹は、

      「長安近し。ただ人の 長安より来るを聞くのみ。

      人の日辺(太陽のある辺り)より来るを聞かず」、と答えた。

      元帝は感心し、翌日 群臣を集めての宴席で、前日の問答を告げて

     から、再び、紹に尋ねた。

      ところが紹は、

      「日近くして、長安遠し」と答えた。

      元帝は色を失って、

      「どうして、先の言葉と違うのか」と聞き直した。

      紹は答えて、

      「頭を挙ぐれば日を見る。長安を見ず」と。

                  「十八史略 東晋」、「晋書 明帝紀」

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    Author:tyouseimaru
    出身地は四国八十八か所参りの発心の阿波、大阪を終の棲家とする。
    歴史好きで、城郭・神社仏閣・歴史遺跡巡りが趣味となる。
    歴史小説や時代小説を好み、往年の著名な時代小説の類は概ね完読と、自負している。

    自薦
    自著「中国通史で辿る名言・故事探訪」の 上・中・下の3巻を、 近い内に「電子書籍」での出版を予定しています。 今年一年間は、さらに工夫を加えるなどして、補記訂正などの校正を第一義としています。       
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