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    中国通史で辿る名言・故事探訪(菖蒲で生まれて、)

     「菖蒲で生まれて、蓮を望んで死す」

                        南北朝時代

      南朝梁の武帝の出生譚によると、母の張氏がある時 庭先で菖蒲の花が

     咲くのを目撃したが、他の誰も気づいた者はいなかったという。

      だが張氏は、目にした菖蒲の花を摘んで飲んだところ、

     やがて蕭衍(しょうえん。後の武帝)が生まれたという。

      その武帝の晩年は、東魏の降将である侯景の入貢を許したばかりに、

     背かれて幽閉の身となり、碌な食事も与えられなかった。

      武帝は憤激の余り寝ついてしまったが、そして熱から来る喉の渇きを

     癒やす為に、蜂蜜を求めたが遂にそれさえ叶えられず、うわ言に

      「荷(か) 荷(か)と、繰り返して息を引き取った。

         ☞ 荷は「蓮」のこと。

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(金甌無欠)

     「金甌無欠(きんおうむけつ)

                         南北朝時代

      物事が完全で欠点の無いことの喩え。

      傷が一つとて無い黄金の鉢(口が大きく平べったい器)の意。

     》 東魏の侯景 反す 《   紀元548年

       東魏は、紀元544年から国家草創期の勲功者に対する弾圧策を取り、

      その一方では高氏一族の権威を高め、やがては東魏朝廷を廃そうと

      画策した。

       その舵取り役は、高歓の世継ぎの高澄であり、漢人貴族であった。

       紀元547年、高歓が死ぬと東魏の最大の勲功者であり実力者でも

      あった河南大将軍兼司徒の侯景は東魏に反旗を翻した。

       しかし、準備万端の高澄の征討軍に敗れて、反乱は鎮圧された。

       ところが侯景は、彼の支配下にあった十三州を手土産として、南朝・梁

      の武帝(高祖)の下に入貢した。

       武帝は驚くものの、改めて侯景を河南王に封じた。

       武帝は、侯景の入貢に先立ち使者が訪れた時、誰一人として賛同する

      者はいなかったし、自信も判断に苦しんで、

       「我が国家は、金甌の一傷欠無きが如し。

        恐らく景を納るれば、よりて以って事を生ぜん」と危惧していた。

       ただ武帝の権臣・朱异(しゅい)だけが積極的に受け入れを主張した

      が、遂に武帝はその意見を受け入れてしまった。

       後々の事になるが、その挙句に武帝は憤死することになる。

                       「十八史略 宋」、「南史 朱异」

      

       

      

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(西魏の六条尚書)

     「西魏の六条尚書(りくじょうしょうしょ)

                        南北朝時代

      西魏の蘇綽(そしゃく。字は令綽)は、武功のある人であったが、宇文泰

     に仕えて、戸籍の法を改訂したり、軍事力の増強に大いに力量を発揮した。

      また富国強兵の実を挙げようとする宇文泰の意を受けて、蘇綽は

     「六条(りくじょう)尚書」を上奏し、施行されることになった。

      其の一  心を治むるを先(せん)ず。

          群卿百官に対する官吏心得を情理を尽くして具体的に説いたもの

         であり、法により律するというよりも、官吏の個々の心に在るべき

         法を明らかにした。

      其の二  教化を敦(あつ)くす。

          天地の性、唯 人を貴しと為す。

          明らかな其の中和の心を持し、仁恕の行を為し、以って和睦すれ

         ば、則ち人に怨み無し。

      其の三  地利を尽くす

          人生の天地の間、衣食を以って命と為す。

      其の四  賢良を擢(あぐ)る。

          真に賢良なるを抜擢せよ。

      其の五  獄訟を卹(あわれ)む。

          人には善悪の行いがあり賞罰がこれに伴うが、その賞罰が当を

         得れば、悪を止め善を勧めることが出来るが、誤れば民は手足の

         置くところがなく、怨み叛く心が生じるばかりである。

      其の六  賦役を均(ひとし)くす。

          徴税は不可欠なことではあるが、如何なる場合も民を哀れむ心

         がなければ、皆 王の政の罪人なり。

                       「周書 蘇綽伝」


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    中国通史で辿る名言・故事探訪(北魏の分裂)

     「北魏、東西に分裂」

                        南北朝時代

      北魏朝廷を操縦した高歓の擁立により、永興元年(532年)に魏帝と

     なった孝武帝は、永熙元年(534年)になると高歓を恐れて彼の幕府の

     ある晋陽で討とうとしたが、逆に北魏朝廷のある洛陽を攻められたので、

     長安に逃れて関西の大都督である宇文泰(字は黒獺)を頼って、彼を

     大丞相に任じた。

      西魏はここに始まる。

      西魏は函谷関の西側に在り、関中方面を支配下に置いた。

      高歓は孝武帝を追及したが、それ以上は思いに任せず、そこで清河王の

     世継ぎである元(拓跋)善見を洛陽において即位させ、都を鄴に遷した。

      これが孝静帝であり、東魏の建国となる。

      東魏は函谷関の東側に在り、中原方面を支配下に置いた。

      ここに至り魏は分裂して、東西に並立することになった。

      だが国名はお互いに魏の正統を任じたので、それぞれが魏と称した。

      東魏・西魏と云うのは、後世の史家の呼び方である。

     》 両魏の激闘 《   紀元537年~543年

       両国は数次にわたり、互いの討伐の名の下に激闘を繰り返した。

       関中に進攻した高歓が、沙苑で大敗を喫することもあった。

       しかし、543年 洛陽郊外の邙山(ぼうざん)の決戦では、今度は

      宇文泰が高歓に痛打を浴びせられ、関中に敗走した。

       この時、高歓の東魏も連年の戦争で国力は疲弊しており、追撃する

      余力を残していなかった。

       かくして両国は。洛陽の西、先週の東を境界として休戦状態に入り、

      それぞれ国内の統治に専念するようになった。

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(虜もまた天象に応ずるか)

     「虜もまた天象に応ずるか」


                         南北朝時代

      天体現象が夷荻にまで反応するとはな。

      北朝・北魏が、東西に分裂する以前の事である。

      熒惑星(火星)が南斗の星座に侵入するという現象が起きた。

        ※ 南斗は、南斗六星のことで、いて座の上半身と弓の一部

          からなる六つの明るい星の集まり。

           位置とその形から、北斗七星に対してこの名が付いた。

      粱の武帝は、この現象を見て、《天子が宮殿を棄てて逃げる前兆》と

     いう言い伝えを信じて、厄払いの為に自ら裸足になって庭に降り、逃げ

     出す真似をした。

      その後、北魏の孝武帝(13代)が、丞相の高歓と争って敗れ、鄴の都城

     を脱出して、長安の宇文泰に頼ったという報せに接した。

      武帝は流石に、以前にした自分の厄払いが気恥ずかしくなり、

     弁解して曰く、「虜もまた天象に応ずるか」と。

                     「十八史略 南朝梁」

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(画竜点睛)

     「画竜点睛(がりょうてんせい)

                        南北朝時代

      最も大事な所に手を加えて、事物を完全に成し遂げること。

      転じて、物事の最も大切な部分をいう。

      竜を画いて瞳(=睛)を点ずるの意。

      南朝・粱の武帝の時代、御用画家である張僧繇(そうよう)は、命により

     金陵の安楽寺という寺の壁に四匹の竜の絵を描いた。

      ところが、描いた竜には、いずれも眼睛を点ぜず。

      そして毎(つね。常)に言う、

      「睛を点ぜば、即ち飛び去らん」と。

      其れを聞いた人々は、もちろん出鱈目だと決めつけて、

     熱心に睛を入れるように懇請した。

      そこで張僧繇は、二匹の竜に睛を描き入れた。

      すると何処からともなく雷鳴が響き、稲妻が走り、睛を描いた竜は壁を

     砕いて踊り出し、雲に乗って昇天した。

      それに対して、睛を入れなかった二匹の竜は、そのまま壁に残っていた

     という。

         ※ 粱の武帝の大通元年の頃の逸話として伝わる。

      この逸話から、「画竜点睛を缺(欠)く」、 という成語ができる。

      その意味は、良く出来てはいるが、最後の仕上げが不十分なため、

     出来ばえが物足りないことを言う。

                        張彦遠 「歴代名画記」

      

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(慧可断臂)

     「慧可断臂(えかだんぴ)

                        南北朝時代

     「雪中断臂」とも言う。

      尋常ならざる求道精神の喩え。

      南北朝時代の南朝梁の時代、後の禅宗第二祖となる慧可は嵩山の

     少林寺を訪れて、インドからの渡来僧・達磨大師からの直の教えを請い

     願った。

      しかし達磨は壁に向かって坐禅するばかりで、振り返ろうとも

     しなかった。

      二祖(慧可) 雪に立つ、臂(肘)を断ちて曰く、 

      (=慧可は或る雪の日、思い余って自らの腕を切り落として、己の求道

       の思いが世俗的心情や世知によるものではない事を師に示そうと

       した。) 

      「弟子(ていし)は心 未だ安からず。

       乞う、師 安心(あんじん)せしめよ」、と。

      (=この私の心は、未だ不安でどうしようもありません。

        願わくば、安心の境地を授けて下さい。)

      磨(達磨)曰く、

      「心を将(も。持)ち来たれ、汝が為に安ぜん」と。
     
      (=お前の心を此処に出してみなさい。お前の為に安心させてやろう。)

      祖曰く、

      「心を覓(もと。求)むるに了(つい)に不可得なり」と。

      (=心を探してはみましたが、どうにも見つかりませんでした。)

      磨曰く、

      「汝が為に安心し竟(おわ。終)りぬ」と。

      (=それお前の為に、安心の境地にしてやったぞ。)

      ※ 心というものは、本来 捉えどころの無いものである。

         不安と云うのも、実は在って無いようなものと言える。

         在るのは、自分は不安だという思い込みだけなのである。

      ここにおいて、慧可は己の肘と引き換えに、豁然として大悟した

     のである。

      そのような事があってから、達磨は慧可の弟子入りを許したという。

      後に慧可は、達磨から禅の奥儀を受けて、禅宗第二祖となった。

                   無門慧開 「無門関 達磨安心」

       ★  慧可の俗名は、姫神光という。諡号は正宗晋覚大師。

          慧可断臂の故事は喩え話であり、その真実は慧可には元々、

         肘が無かったと言われる。 

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    テーマ : 神話伝説逸話
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    中国通史で辿る名言・故事探訪(面壁)

     「面壁」

                        南北朝時代

      壁に向かって坐禅すること。

      達磨大師(だるまたいし)の嵩山に在る少林寺での、“面壁九年”の坐禅

     修業の故事に由来する言葉である。

      転じて、のんびり暮らすことの喩えとなる。

     》 梁の武帝と達磨大師の禅問答 《

       梁の武帝の国姓名は蕭衍(しょうえん)。武帝は諡号であり、

      廟号は高祖。

       南朝の斉の七代和帝から九錫の栄誉を受けた後に、

      形式的に禅譲を受けて「粱」を建国する。

       しかし禅譲された翌々日に、武帝も南朝の各先王朝の例に倣って、

      無情にも和帝を殺害した。

       尊称たる達磨大師は、菩提達磨と訳され、その生まれは南インド

      であり、さる国の王子として生まれる。

       般若多羅に仏の教えを受け、中国に渡って禅宗を伝え、中国禅宗の祖

      となる。

       なお達磨大師については、宗門上の伝説と歴史上の事跡とは必ずしも

      一致するものではない。

       また達磨大師の教えは、依拠すべき経典の類は無く、「心印」と

      言って、心から心へ、即ち「以心伝心」の印を以ってするものである。

       武帝が、インドから来た名僧・達磨に非常な期待を以って尋ねた。

       「朕 即位して已来(=以来)、寺を造営し、経を写し、僧を度す

      こと、勝(あげ)て紀(=記)す可からず。何の功徳有や」と。

         ☞ 僧を度すとは、僧伽(そうぎゃ)や教団を作って、得度させる

          こと。

            なお、僧伽とは仏教修業者の集団。

            勝て紀す可からずとは、数え切れないほどの尽力を言う。

       これに対して師は、

       「並びに功徳無し」と。

       (=すべからず功徳なんて有りません。)

       己の期待に反して、余りの厳しさに驚いた武帝は、更に問う、

       「何を以って功徳無しや」と。

       師曰く、

       「此れ但だ人天の小果にして、有漏の因なり。影の形に随うが如く、

      有と雖も実に非ず」と。

       (=それはただに人間界や天上界における些細な出来事であって、

        煩悩の因縁を作っているに過ぎない。

         影が形に付き随うように見えるだけで、実像ではない。)

       武帝はそれでも功徳の意味を解しかねて、反問した。

       「如何なるか、是れ真の功徳なるや」と。

       (=その仏教の究極の功徳や教理とは、一体如何なるものなのか。)

       師 答えて曰く、

       「浄智は妙円にして、体 自ずから空寂なり。

        是の如き功徳は世を以って求まらず。」

       (=悟りの智慧は奥深くて、形体も虚ろであり掴みどころが無い。

         そのような功徳は、この世で求められるものではない。)

       武帝はまた問う、

       「如何なるか是れ聖諦(しょうたい)の第一義なるや」と。

       (=この根本の真理なるものの第一義とは、どのようなことなのか。)


       師 曰く、

       「廓然 無聖なり。」

       (=がらんとして、根本の真理はなし。)

       全く分からなくなった武帝は言う、

       「朕に対する者は誰ぞ」と。

       (=それでは、この我に相対して話しているのは、一体誰なのか。)

       師 曰く、

       「不識。」

       (=認識できず。)

       武帝は驚き且つ分からなくなって、結局 匙を投げてしまい、達磨は

      達磨で退き下がって江北へ行き、少林寺に入ったと云う。

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    テーマ : 中国古典・名言
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    中国通史で辿る名言・故事探訪(皇帝菩薩)

     「皇帝菩薩」

                        南北朝時代

      南朝・梁の武帝の別称。

      武帝は天監三年(紀元504年)、仏教を国教とした。

      武帝は篤く仏教を保護して、自らも深く帰依し、その生涯においては、

     建康の同泰寺で四度も捨身の行を行った。

      武帝は建興を始め、各地に多くの仏寺を建立し、僧尼の数は十万を超え

     たと言われる。

      同じく北朝・魏の孝文帝も、仏教を尊崇し篤い仏教政策で以って知られ、

     「皇帝即如来」と称された。

      それに対して、南朝・梁の武帝は、「皇帝菩薩」と称された。

       ※ 「捨身の行」とは、在家信者である皇帝がその服を脱いで

        法衣を纏い、自分の体は言うに及ばず多くの財物など一切を仏寺

        に寄進して、我が身を「三宝の奴(やっこ)」として、寺院で

        雑役奉仕する行を言う。

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(金蓮歩)

     「歩歩(ほほ) 蓮花(れんか)を生ず」

                         南北朝時代

      「金蓮歩」とも言う。

      美しい女性のしなやかな歩みの喩え。

      南朝・斉の第6代東昏侯(廃帝)は、愚かでしかも淫乱凶暴であったが、

     潘妃(はんき)という愛妾は殊のほかお気に入りであった。

      彼女の美しさを愛でるために、黄金の蓮の花を造り、其れを床に敷き

     詰めてはその上を歩かせたという。

      そして臣下や側近に大いに得意がったものである。

      “ 此れ歩歩 蓮花を生ず ”と。

      (=潘妃の歩みの跡には、一足ごとに蓮の花が生まれる。)

       言外に、これこそ当に天女の歩みだ、とご満悦であったのである。

     》南朝・斉の東昏侯(とうこんこう)《   紀元498年~501年

       先代の5代明帝は、極めて猜疑心の強い天子であった。

       明帝は、輔佐していた3代昭業を廃立殺害し、昭文(廃帝・海陵王)

      を擁立したが、昭業と同じ道を辿らせた。

       そして、高帝の直系子孫を絶滅させてから即位した。

       更に即位の後、反対していた他のすべての公族を誅滅してしまった。

       身に危険を察知した一部の功臣などは反旗を翻したが、王朝軍の

      態勢が整うと、あえなく鎮圧されてしまった。

       処が即位四年にして明帝は病に罹り、そのまま崩じてしまった。

       明帝の長子・蕭宝巻(字は智蔵)が即位した。

       宝巻は大子の時から学問嫌いで、遊びに現を抜かしていた。

       即位した後も、その傾向は収まることなく、政務には見向きも

      しなかった。

       しかも明帝の遺命により皇帝の輔佐に任じていた六人の重臣を殺害し

      てしまい、奸臣を重用し民を収奪して、豪華な宮殿を次々建造して、享楽

      的な生き様をして国家財政を破綻させた。

       一方では、市中に於いては、通行人を馬蹄で踏みつけるという奇行が

      あり、妊婦さえもその犠牲となるという事件を起こす悪逆非道の暴君でも

      あった。

       悪行を諫言する忠臣もいたが、全く耳を貸さず誅殺を以ってした。

       そして遂に反乱が発生した。

       一時的には鎮圧されたが、反乱を鎮圧した蕭懿(い)の弟である

      蕭衍(えん)は、荊州刺史・蕭宝融を奉じて挙兵した。

       そのような事態に至っても皇帝の享楽的行いは改まらず、遂に衛兵に

      弑殺されてしまった。

       その首は蝋で固められて、蕭衍の元に贈られてきた。

       皇帝は、死後に於いて侯(諸侯)に落されたが、愚かな東の侯という

      意味で、東昏侯と称される。

       なお廃帝となったので、諡号はない。

                        「南史 斉・東昏侯」

       時代は下がって、「金蓮歩」に由来すると言われる女性の纏足

        (てんそく)が流行るようになる。

        そして、纏足した女性の足の美しさを称えて、「金蓮」と言いはやす

       ようになる。

     

       

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(天下を治めること十年ならしめば、)

     「天下を治めること十年ならしめば」

                      南北朝時代

      》 南朝・斉の建国 《   紀元479年

        南朝・宋の末期 蕭道成は、内乱や権力争いを制して、順帝から定式

       の如く相国・斉公に任ぜられ、更に九錫を賜い斉王となった。

        かくして最後の詰めとして、蕭道成は宋王朝・順帝(8代)から禅譲

       を受けて、斉王朝を創建した。

        順帝が蕭道成に禅譲の詔勅を下したその翌日、早くも捕吏が宮中に

       押し入って来たので、十八才になったばかりであった順帝は、それと

       察して命乞いをすると、捕吏は素っ気なく対えた。

        「ご先祖様(宋王朝を開いた劉裕のこと)も司馬家(晋王朝の皇帝)

       に対して同じ事をなさいました」と。

        順帝は無念やるかたなく、

        「願わくば、後身 世世(よよ。未来永劫)、また天王の家に

       生まるることなからんことを」と、嘆きつつ、死に赴いた。

        蕭道成 乃ち高祖が南朝で覇を称えたのは、わずかに四年であった

       が、彼の質は、もともと清廉にして質実と言われていて、彼は常々次の

       如く言っていた。

       「我をして天下を治めること十年ならしめば、

        当に黄金をして土の価に同じからしむべし」と。

       (=若し十年間、私が天下を治めることが出来たならば、黄金などには

        見向きもしないような世の中にして見せるのだが。)

                        「十八史略 南朝宋」
       

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(木蘭の詩)

     「木蘭(もくらん)の詩(うた)

                        南北朝時代

       戦乱の世に、戦役に駆り出されようとした年老いた父に代わって、木蘭

      と言う少女が男装して凛々しく出征した。

       それから十余年 従軍中に大功を立てた後、晴れやかに故郷に錦を

      飾ったという伝説に基づいて作られた北魏の詩歌である。

       
       「古詩 無名氏」より

       「第一節」

          喞喞(そくそく)、また喞喞、木蘭 戸に当たりて織る。

            ☞ 喞喞とは、織機の小さな音のしきりに聞こえる様。

          機杼(きちょ)の声を聞かず、唯だ娘の嘆息を聞くのみ。

            ☞ 機杼の機は縦糸を、杼は横糸を編む器具。 

          女(むすめ)に問う、

          「何の思う所ぞ」、

          女に問う、

          「何の憶う所ぞ」。

            ☞ 思うは人を思い、憶うは何かを思うの意。

          「女 亦た思う所無く、女 亦た憶う所無し。

          (=女は誰を思うでも無く、何を思い出した訳でもない。)

          昨夜、軍帖を見るに、可汗大いに兵を点じ、

          (=昨夜、徴兵名簿を見たが、国王は徴兵の詔を発し、)

          軍書十二巻、巻巻に爺の名あり。

          (=軍事記録書十二巻の どの巻にも父の名があった。)

          阿爺(あや)に大児無く、木蘭に長兄無し。

          (=お父ちゃんには兵隊になれるような大きな子供はなく、

           木蘭には年かさの兄もいなかった。)

          願わくは為に鞍馬を市(か)い、此れより爺に替って征(い)

         かん。」 

          (=出来るものならば、市場で馬と馬具一式を買って軍装を

           整え、此れから父に代わって出征しよう。)       

      「第二節」

          東市に駿馬を買い、西市に鞍韉(あんせい。下鞍)を買い、

          南市に轡頭(ひとう。くつわ)を買い、北市に長鞭(馬を御す

         鞭)を買う。

          旦(朝)に爺嬢(父母)を辞し去って、暮れに黄河の辺

         (ほとり)に宿る。

          聞かず爺嬢の女(むすめ)を喚(よ)ぶ声を、但だ聞く黄河の

         流水の鳴くこと濺濺(せんせん。流水の激する音)たるを。

          旦に黄河を辞し去り、暮れに黒山の頭(ほとり)に至る。

             ※ 黒山は、蒙古の殺虎山のこと。

          聞かず爺嬢の女(むすめ)を喚(よ)ぶ声を、唯だ聞く燕山の

         胡騎の鳴くこと啾啾(もの悲しそうになく声)たるを。

             ※ 燕山は蒙古の燕然山。

       「第三節」

          万里戎機に赴き、関山(かんざん)渡ること飛ぶが若し。

             ☞ 万里戎機とは、万里の彼方の戦役。

          朔気 金柝(きんたく)を伝え、寒光 鉄衣(甲冑)を照らす。

             ☞ 朔気は北の冷たい風。

                金柝は戦時の合図用の銅鑼(どら)と太鼓のバチ。

          将軍は百戦して死し、壮士(木蘭のこと)は十年にして帰る。

       「第四節」

          帰り来たって天子に見(まみ)ゆるに、天子 明堂に座す。

             ☞ 明堂は天子の大廟で、国家の重要儀式はここで

               行われた。

          策勲は十二転し、賞賜は百千強なり。

          (=勲功は十二階級特進し、賞賜は千を遙かに越えた。)  

          可汗 欲するところを問う、

            ※ ここで可汗と表現するのは、本来は天子と呼ぶべき

              であるが、北方異民族国家であったので、皮肉を込めて

              語調を変えたもの。

          「木蘭は尚書郎を用いず、願わくは千里の足を馳せ、児を送って

         故郷に還(かえ)さんことを。」

          (=この木蘭は、天子の詔書を扱うような高官は望みません。

           それよりも、一日に千里を走るような駿馬を駆って、私を少し

           でも早く故郷に還して戴きたいのです。)

      「第五節」 

         爺嬢は女の来るを聞き、郭(城門)を出でて相扶将す。

            ☞ 相扶将すとは、共に手を取り合うこと。

         姉は妹の来るを聞き、戸に当たって(向かって)紅妝

        (こうしょう)を理(おさ)む。

            ☞ 紅妝を理むとは、化粧すること。

         小弟は姉の来るを聞き、刀を磨き霍霍(かくかく)として豬羊

        (ちょよう。猪と羊)に向かう。

         我が東閣の門を開き、我が西門の牀(しょう。ベッド兼腰掛)に

        座し、我が戦時の袍(ほう。軍装)を脱ぎ、我が旧時の裳

        (しょう。着物)を着け、

         窓に当たって雲鬢(うんぴん。髪型)を理め(整え)、

        鏡に対して花黄(白粉)を着け、

         門を出でて火伴(戦友)を見るに、火伴 皆 

        恐惶(びっくり仰天)す。

         同行すること十二年、知らず木蘭の是れ女郎なるを。

         雄兎は脚 撲朔(ぼくさく)たり、雌兎は眼(まなこ) 

        迷離たり。

         (=雄兎は脚がよく躓き、雌兎は眼がぼんやりしているという。)

         双兎、地に傍(そ)うて走れば、安んぞ能く我の是れ雄か雌かを

        弁ぜん。

         (=二匹の兎が並んで走っていると、どちらが雄か雌か、簡単には

          判別できるものではない。)

         木蘭の活躍は、中国の伝統芸能「京劇」の演目にもなって

          いる。

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(春燕帰りて材木に巣くう)

     「春燕 帰りて材木に巣くう」

                        南北朝時代

      戦災による惨状の喩え。

      江淮地方は戦火により街中は焼け野原になっており、春になって帰って

     きた燕が巣を作るべき人家の軒先が無くなっていたので、やむなく木々の

     梢に巣作りをした。

    》 瓜歩(かほ)の役 《   紀元450年

      北魏は漢人宰相の崔浩の意見により、南朝・宋との全面戦争を控えて

     いたが、その崔浩の刑死した後に、宋からの侵攻を受ける羽目になった。

      この時はまだ防禦に徹して、積極的に撃って出る事は無かった。

      宋の侵攻に北魏の太武帝は激怒したが、取り敢えずは夏を見過ごして、

     冬になるや大軍を動員して黄河を渉り、滑台の宋軍に攻めかかった。

      宋軍の総司令官王玄謨は、戦わずして兵を退いた。

      北魏軍は之を追撃して、一万余の宋兵を殺戮した。

      北魏軍は猶も追撃し、ついには先に落すことの出来なかった

     懸瓠(けんこ)城をも攻略し、次に宋の前線の拠点となる彭城

     (徐州)に迫り猛攻をかけた。

      だがこの時点では、既に宋軍も戒厳令下 防衛態勢を整えていたので、

     北魏軍もそれ以上は南進することは出来ず、その内 次第に兵站補給が

     行き詰まるようになり、北魏の太武帝は宋の文帝に講和を申し入れた。

      北魏・正平元年(451年)春、和睦が成るや、太武帝は大軍を率いて

     瓜歩より撤退した。

      しかし北魏軍は撤退の途中、前年侵寇して攻略できなかった

     肝胎(くい)城を攻めて包囲したので、再び両軍の間で死闘が展開された。

      この時の戦いで、両軍の兵士の死体が城壁の高さまで積み上げられた

     と謂われる。

      その内 北魏軍に疫病が流行するようになり、戦闘力が低下したので、

     太武帝は灰燼戦法で以って宋軍の包囲網を解き撤退した。

      その撤退の途次も、北魏軍は殺戮と略奪の限りを尽くし、彼らが通過し

     た跡の何処の街も、まるで焼跡のように一物も残らなかったのである。

      いつしか、人は其の惨状を譬えて言う 

      「春燕帰りて材木を巣くう」と。

                         「十八史略 南北朝」

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(畊は当に奴に問うべく、)

     「畊(こう)は当に奴(ど)に問うべく、

        織(しょく)は当に婢(ひ)に問うべし」


                         南北朝時代

      田畑を耕すことについては農奴に問うべきであり、機を織ることに

     ついては奴婢に問うのが事の筋であり物の道理というものだ。

         ☞ 畊は、耕の古字。

     》 崔浩の国史事件 《   紀元450年

       漢人の崔浩は、北魏において皇帝の絶大な信を得ていたが、何時しか

      北魏を東晋王朝のような貴族制国家にしようとする密かなる意図が

      あった。

       だが塞外異民族であった拓跋に属する多くの者は、崔浩に対する

      太武帝の絶大な信頼と彼の独断に対して、次第に反感を抱くように

      なっていた。

       そのような状況下で崔浩は勅命を受けて、北魏の国史編纂を着手

      した。

       崔浩は国史編纂の責任者として、国王の先祖の事績を記録するに

      当たり、中国古来の伝統に従って、「務めて実録に従う」という方針

      を堅持した。

       更に崔浩は儒学信奉者であったので、その立場上 北魏における

      数々の蛮行を在りのままに記録した。

       漸くにして国史編纂は完了したが、時に北魏系の編纂者の一人が

      提案した。

       「国史を石碑に刻して、都城内に立てましょう」と。

       その意図するところは、崔浩の名を後世に伝えようというものでは

      あったが、その実は多くの北魏の人に編纂なった国史の内容を知らせ

      ようとするものであった。

       崔浩は了承し、皇太子も賛成し、ここに大々的に国史の石碑が建立

      された。 

       北魏の支配民族である鮮卑系の人々も、この頃には既に漢文化の

      影響で、漢語を解し得る者も多くなっていた。

       果たして、鮮卑系の有識者連中はこの石碑を見て、殊更に国の恥を曝

      したとして、崔浩を非難攻撃した。

       その結果、信頼していた崔浩であったが、太武帝は激怒して崔浩を裁き

      にかけて、その一族皆殺しにしてしまた。

       またその縁者一族まで処刑し、更に国史事件の関係者と目された者は、

      百二十八人に及び、彼らの五族は皆 誅殺された。

     》 南朝宋の北魏侵攻 《

       宋の名門大貴族である汝陰太守の王玄謨(げんぼ)が、しばしば文帝

      に進言した。

       「今この際、魏の内紛に乗じて、魏を総がかりで攻めるべきである」

      と。

       すると武人の沈慶之(けいし)が、 文帝を諌めて言った。

       「畊は当に奴に問うべく、織は当に婢に問うべし。

       それと同様、こと軍事に関しては武将に問うべきです。

       ところが今、敵地を討とうとするのに、どうして白面の書生の玄謨に

      相談なさるのですか」と。

         ☞ 白面の書生とは、世間知らずの若者のこと。

            或いは、学問はあっても実社会の経験の無い学級の徒。

       元嘉二十七年(450年)、 文帝は聞く耳を持たず、王玄謨を将

      として北伐を敢行した。

       夏、王玄謨は北伐軍を率いて滑台を攻撃した。

       この時期、北方に住する漢人は魏の圧政下に苦しんでいたので、

      南朝の宋に微かな期待を寄せて、北進する宋軍に食料を供給したり、

      従軍を希望する者が続出した。

       しかし総指揮官たる王玄謨は、身勝手で貪欲にして冷酷でもあった。

       従って宋軍の戦意や士気は一向に揮わず、滑台を攻撃して数カ月が

      経っても攻め落とすことが出来なかった。

       このことが後に、瓜歩の難を招くことになりその責任を問われたが、

      沈慶之の擁護により死罪は免れる。

                        「宋書 沈慶之伝」



       

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(兵を僧衆の間に求め、)

     「兵を僧衆の間に求め、

      地を搭廟の下に取る」 

                        南北朝時代

      廃仏令の発動により、僧侶や出家者を還俗させて兵士に徴用し、寺門の

     地は公用に収奪する。

     》 三武一宗の法難 (その一) 《  紀元446~452

      中国では厳しい仏教の排斥運動が、その歴史上 四回あった。

      南北朝の北魏から唐にかけて、時の皇帝の諡号の一字に「」の

     ある皇帝三人と「」のある皇帝一人による四回の仏教弾圧であり、

     世に之を「三武一宗の法難」と謂う。

      北魏の太武帝(武帝とも言う)は十六才で即位したので、

     政はほとんど漢人宰相の崔浩(字は白淵)に頼っていた。

      崔浩は先代の元帝に仕えて大功を立て、既にして帷幄の臣となって

     いた。

      そのような彼も何時の日か、南方の漢人朝廷と大同団結して、遍く漢の

     文明世界の開けることを夢見ていた。

      ところが北魏が華北全域を支配するようになると、いつの間にか異国

     から仏教が伝わり隆盛となっていた。

      崔浩の怨み嘆きは、誠に甚だしいものがあった。

      今のうちに邪教を禁じなければと杞憂するようになり、ようやく決心して

     五斗米道の寇謙之(こうけんし)を皇帝の側近くに仕えさせる

     ことにした。

      ようやく成人した皇帝に政治の献策は出来ても、宗教とりわけ仏教に

     ついての知識は皆無で自信がなかったのである。

      朝廷に上った寇謙之は、ことあるごとに半ば仏教者たる太武帝に廃仏の

     話を聞かせ、遂に反仏教者に変身させることに成功した。

      尤も仏教界にも、弾圧を受ける然るべき理由はあったと謂われる。

      当時 邪教的な要素を匂わせたり、僧侶たちも大いに堕落していた。

      僧侶になれば兵役を免除されていたので、市井や農家の多くの若者が

     出家して似非(えせ)僧侶となり、為に国土は荒廃しかけていた。

      これまでも経済上の理由から若年者の出家を禁じてはいたが、太武帝は

     寇謙之の思想的影響を受けるようになり、太平神君七年(446年)、

     遂に廃仏令を発動した。

      直接の理由は、長安の仏寺で僧侶が酒を飲み、兵器を寺院に隠匿して

     いたことが発覚したことによる。

      弾圧により廃された寺院は四千五百、五衆・釈門(いずれも出家者)

     の還俗は三百万と言われる。

      寺門地は王公に下賜され、出家者の多くは軍兵に徴用されたり、

     故郷に帰還させて「戸」に編入された。

      しかしこの時期は、当に仏教が最盛期を迎えようとしており、また太子の

     拓跋晃は熱心な仏教の信奉者であったので、太武帝の勅命といえども

     やや不完全な弾圧となった。


      ※ 三武一宗の法難(廃仏)

         (1) 北魏の太武帝

         (2) 北周の武帝

         (3) 唐の武宗  (会昌の廃仏とも称される)

         (4) 五代の後周の世宗 

        

      

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(折箭)

     「折箭(せつせん)

                     南北朝時代

      兄弟や親族の同心協力の大切なことの教え。

      語意は、矢(箭)を折る。

      南北朝時代、北魏の西隣に吐谷渾(吐谷渾)という鮮卑系山岳民族

     の広大な国があった。

      国王の本姓は慕容氏というが、九代の阿犲(あさい)王には二十人

     の子があり、緯代はその長子であった。

      王は、ある時 我が子のすべてと弟の慕利延を呼び集めて言った。

      「汝ら 各々 箭(矢)を一本捧げ持って参れ」と。

      そして時を置かず、弟に命じて言った。

      「汝 一本の箭を取って、これを折れ」と。

      慕利延は、これを難なく折った。

      王はまた言った、

      「汝 十九本の箭を取って、これを折れ」と。

      慕利延は、これを折ることが出来なかった。

      そこで、王は改めて言った、

      「汝ら分かったか。

      単なれば則ち折れ易く、衆なれば則ち摧(くじ)け難し」と。

      (=単一のものは折れ易いが、多ければ折れ難いものである。)

      そこで改めて訓戒した。

      兄弟は互いに力を合わせ、心を一つにすれば、然る後に国家は堅固で

     いられるのだ、と。

                         「北史 吐谷渾」

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(心 木石に非ず、)

     「心 木石に非ず、豈(あに) 感無からんや」

                        南北朝時代

      人の心は木や石とは違うぞ、どうして喜怒哀楽の心情が無いと

     言えようか。


       南朝宋 鮑照 「行路難に擬す」

          人生また命(めい)あり

          安(いずく)んぞ能く行きて嘆じ、また座して愁れうる 

          (=人にはそれぞれの運命がある。

            どうして行っては嘆き、座っては心配することが

           あろうか。)

          酒を酌みて以て自ら寛(ゆる)うす

          杯を挙げて断絶」せん、路は難しと歌うを

          (=酒でも飲んで自分自身で寛ごうではないか。

            人生は苦難の道だなどと歌い悲しむのは、酒でも酌み

           交わして止めようではないか。)

          心 木石に非ず、豈 感無からんや

          声を呑みて躑躅(てきちょく)し敢えて言わず

          (=とは言うものの、人の心は木や石ではないから、

           悲しみや嘆きは抑え難いもの、

            声となるのを呑みこんでは足踏みし、この胸の内に

           納めておこう。)

           ☞  躑躅とは、足踏みする。行きつ戻りつすること。

           ※  鮑照

               字は明遠。宋の臨海王の前軍参軍であったので、

              鮑参軍と言われる。

               その詩は、謝霊運と並び称せられた。

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(我も如何ともし難し)

     「吾も如何ともし難し」

                        南朝時代

      皇帝の威光を以ってして、もどうしようもない。

      南朝宋の 文帝の治世は三十年に及んだが、その前半はよく国も

     治まり、文帝の諡号が示すように文を尊んだ平和な時代が続いた。

      世にこの時代は、「元嘉(げんか)の治」と言われる。

      東晋に続くこの時代、大貴族や士人の既得特権を維持する体制は

     さらに拡充し、彼らと庶民(平民)の身分は厳然と区別され、其れは

     慣習法として敷衍し、皇帝権力を以ってしても改変することは出来

     なかった。

      文帝には、出自の余り良くなかった一人のお気に入りの主簿がいた。

      文帝は主簿の身分を引き上げてやろうとの軽い気持ちから、主簿に

     言ったものである、

       「士の身分に入れて欲しければ、大貴族の王球の所へ行き、

     その席に座らせてもらえれば決まるであろう。

      吾の言い付けだと言って、席に着けばよかろう」と助言した。

      主簿は早速 王球を訪ねて、皇帝に言われた通りにしようとした。

      ところが王球は、扇子を振って言ったものである、

      「君、それはならんぞ」、と。

      朝廷に帰ってきた主簿の報告を受けて、 文帝は言った、

      「では、吾も如何ともし難し」と。

                            「十八史略 南朝宋」

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(汝が万里の長城を壊る)

     「汝が万里の長城を壊(やぶ)る」

                    南北朝時代

      国家を守護すべき重要人物を喪うことを、万里の長城の破壊に比喩

     した譬え。

     》 南朝・宋の文帝擁立劇 《   紀元422年

       東晋末期に権勢を誇った劉裕は、恭帝から禅譲を受けて宋を建国した。

       そして建国直後に恭帝を殺害したが、在位わずか二年にして劉裕こと

      武帝は崩じた。

       武帝は死に臨んで、檀道済(どうせい)、徐羨之(せんし)、

      傅亮(ふりょう)、謝晦(かい)の四人に後事を 託した。

       ところが後を継いだ滎陽王(けいようおう。廃帝③)は暗愚で

      あったので、四人は共謀して殺害し、その弟の劉義降を擁立した。

       これが三代文帝である。

       この文帝は次第に彼ら四人の専横を憎むようになり、先ずは檀道済

      を身内に呼び込み、他の三人を尽く誅殺させて皇帝の権威を確立した。

       檀道済はその後の北魏との局地戦で度々功を立て、宋朝の重鎮と

      して活躍した。

       彼の編纂した兵法書を「兵法三十六計」というが、とりわけ

      「走(にぐ)るを上計と為す」は、今に伝わる名言である。

       窮した時には、一目散に逃げるのが最上という意であり、

      戦術としてはいかに」謀りごとが多くても、逃げるべき時には逃げて、

      其の身を全うするのが最善策だとする。

       後には、卑怯者を誹る言葉ともなる。

       檀道済は武帝存命中から軍事を預かり、北方の大敵である北魏軍と

      しばしば戦い戦功を挙げた。

       彼は兵を用いるに実に老練であった。従ってえ彼の生存中は、宋の

      土地は余り失うことなく守り通したので、彼の名は次第に重きを成して

      いった。

       元嘉十三年(紀元436)、 文帝が病に罹った時、檀道済の政敵

      連中は、策謀を巡らして檀道済の反逆罪をでっち上げした。

       檀道済の皇帝への最後の釈明も聞き入れられず、遂に死罪の勅命

      が下った。

       其の時、檀道済の無念やるかたない思いは、皇帝に向かって

      眼光炬火(目をらんらんと光らせて)の如く、幘(さく。頭巾)を脱ぎ

      地に投じて曰く、

       「即ち、汝が万里の長城を壊る」と、恫喝した。

       (=この我が国に在ることは、あたかも万里の長城が北狄を防ぐ

        ようなものである。

         然るに今、我を誅するのは、汝自らの手で汝を守るべき万里の

        長城を壊すのと同然だ。)

       果たして北魏軍は、檀道済の死を知るや、怒涛の如く宋都に侵攻し、

      略奪・虐殺の限りを尽くした。

       皇帝は石頭城に登り、北望して嘆じて曰く、

       「檀道済 若しあらば、豈 胡馬をしてここに至らしめんや」と、

       (=道済さえいたならば、あの北狄の胡軍にかくまで踏みにじられる

        ことも無かっただろうに。)

       悲嘆に暮れた。

      
       

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(棺を蓋いて事 定まる)

     「棺(かん)を蓋(おお)いて事 定まる」

                   ◇ 東晋時代 ◇
     
      人は死んだ後に、始めてその評価が定まるものである。

      人の生存中は、妥当公平に判断することが出来ないと言う事である。 

     》 劉裕、政敵を討つ 《   紀元412年

       時に東晋王朝の最高権力者となった劉裕は、先の桓玄の乱の鎮圧で
     
      共に功のあった西府の将軍劉毅(字は希楽)の存在が目障りであり邪魔

      でもあった。

       劉毅は劉裕とは異なり、学問にも通じており、自ずと反対勢力の中心と

      なる虞があったので、劉毅を要衝の地である荊州一帯を治める長官に

      任じて、暫くは彼のやりたい放題にすることにした。

       すると劉裕の思惑通り、やがて反対派の動きが蠢動し始めたので、

      劉裕は、頃を見計らって劉毅らの一党を反逆の廉(かど)で糾弾し

      屠り去った。

       桓玄の乱を平定した一方の将である劉毅の、生前の深淵な言葉がある。

       「人は一日生きれば、一日なりの事はある。

       死後に棺の蓋をすれば、もはや事を為すことは不可能なので、

      これまでに為した事に基づいた最終的な評価が下るものだ」と。 

       しかし劉毅も、自分の事となると読みは甘く、結局 劉裕にうまく

      嵌められて、自ら命を落とす羽目になった。

                        「晋書 劉毅伝」



        

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(寸陰を惜しむ)

     「寸陰を惜しむ」

                  ◇ 東晋時代 ◇

      ほんのわずかな時間をも惜しむこと。

     ♪  東晋 陶淵明「雑詩」

         憶(おも)うに我少壮の時 楽しみ無きも自ら欣(よろこ)びに

        預かる

         (=思えば私は、若い頃は格別な楽しみは無くても、心は

          喜びに満ちていた。)

         猛志四海に逸(は)せ 翮(つばさ)を騫(あ)げて遠く

        翥(と)ばんと思えり

         (=我が強い志は名を天下に馳せ、いつの日か翼を広げて

          遠くへ羽ばたこうと考えていた。)

         荏苒(じんぜん)として年月頽(くず)れ 此の心 稍(や)や

        已に去れり

         (=ところが現実には、徒に年月は流れて、この志も萎えて

          きた。)

         歓に値(あ)うも復た娯(たの)しみ無く 毎毎(つねづね) 

        憂慮多し

         (=たまたま喜びがあっても心から喜べるものではなく、何時も

          憂いが尽きなかった。)

         気力 漸く衰損し 転(うた)た覚ゆ日日に如からざるを

         (=近頃では気力も衰えてきて、日々に及ばなくなって行く

          のが分かるようになった。)

         壑舟(がくしゅう)須臾無く 我を引きて住(とど)まるを

        得ざらしむ

         (=谷間に浮かぶ小舟は少しの間も無く、吾を乗せたまま

          流れ去るように、老いの深みに引き込もうとする。)

         前途 当に幾許(いきばく)ぞ 未だ止泊する処を知らず

         (=これから先、どれ程の歳月が残されているのだろうか。

          我は未だ何処に身を休めるべきかも分からないのだ。)

         古人は寸陰を惜しめり、 

        此れ念(おも)えば人をして懼(おそ)れしむ

         (=昔の人は一寸の光陰を惜しんだと云うが、

          そう思うと本当に怖ろしい様な気がする。)

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(歳月不待)

     「歳月不待」

                   東晋時代

      普通は、「歳月人を待たず」と云う。

      年月は速やかに過ぎ去って、人を待ってはいない。

      時間を大切にすべき事を云う。

        東晋 陶淵明 「雑詩」 

         ※ 雑詩とは、気ままに書いた無題詩をいう。

            全十二首あり。 

         人生根蔕(こんてい)無し 瓢として陌上(はくじょう)の

        塵の如し 

         (=人生とは拠り所も無く、漂う路上の塵のようなものである。)

           ☞ 根蔕は「こんたい」とも読み、根本と蔕のこと。

              また物事の拠り所、根拠の意。

              陌上の陌は、道とか市街。            

         分散して風を逐(お)いて転ず 此れ已に常の身に非ず

         (=塵は風の吹くままに飛び散り、既にして常ならぬ我が身

          ならん。)

         地に落ちて兄弟と為るは 何ぞ必ずしも骨肉の親(しん)

        のみならん

         (=この世に生れ落ちて兄弟となるのは、何も肉親のみとは

          限らない。)

         歓を得て得は当に楽しみを為すべし 斗酒 比隣を聚(あつ)む
        
         (=歓ぶことがあれば心から楽しむべきであり、少しの酒でも

          あれば、近在の者を呼び集めよう。)

           ☞ 斗酒とは、一斗の酒が原意であるが、実際の意味は

             多様で、少量の酒・多量の酒の意味もある。

         盛年は重ねて来たらず 一日(いちじつ)再び晨(しん)なり難し
     
         (=元気でいられる年は再び来るものではない、一日に

          朝が二度 訪れるという事は無いのだ。)

         時に及びては当に勉励すべし 歳月は人を待たず  

         (=機会があれば、逃がすことなく努めて励むべきである。

          年月というものは、人を待ってくれるものではない。)


         

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(心 遠ければ、)

     「心 遠ければ、地 自ずから偏なり」

                   東晋時代

      吾が心中には官途への思いが無いので、住んでいる場所も自ずから

     人里を遠く離れた辺鄙な所なのだ。

     《 陶淵明 「飲酒」 其の五 》

         廬を結んで人境にあり 而も車馬の喧(かまびす)しき無し

         (=騒がしい人里に廬を建ててひっそりと暮らしているが、街中の

          車馬の喧騒は無く静かなものだ。)

         君に問う何ぞよく爾(しか)るやと 心遠ければ地自ずと偏なり

         (=あなたにお尋ねするが、どうしてそんな風でいられるの

          ですか。

           吾が心には既に官途への思いはなく、住んでいる場所も

          自ずから人里を遠く離れた辺鄙な所だからです。)

         菊を採る東籬(とうり)の下(もと) 悠然として南山を見る

         (=東の垣根で菊を摘めば、目の前には南山が悠然と聳えて

          いる。)

         山気(さんき)は日夕に佳(よ)し 飛鳥は相与に還る

         (=山の佇まいは夕方が特によく、日が暮れると空を飛んでいる鳥

          たちも共々ねぐらに帰ってゆくではないか。)

         此の中に真意有り 弁ぜんと欲して已に言を忘る

         (=ここにこそ、人としてあるべき姿の真意があるといえる。

           説明しようと思っても感無量で、言葉すら忘れてしまった。)

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(五斗米に腰を屈せず)

     五斗米(ごとべい)に腰を屈せず」

                   ◇ 東晋時代 ◇

      わずかな俸禄を受けているからといって、卑しくなるまいという気概を

     いう。

      迎合してまで上役の機嫌は取らないという決意の表明でもある。

    》 田園の詩人 陶淵明 《

      東晋末の隠士で詩人の陶淵明は、名は潜。淵明は字である。

      号は五柳先生を称す。

      東晋初期に活躍した陶侃(とうかん)の曽孫である。

      陶氏一族は陶淵明の時代には没落し、下級士族となっていた。

      だが陶淵明は、若い頃は儒学を修め亦 高邁な精神の持ち主であった。

      経世済民の志を懐いてはいたが、貴族社会の門閥の壁は厚く立ち

     塞がり、さらに戦乱の絶える事は無く、時代に翻弄された鬱屈した

     青春時代を過ごした。

      二十九歳で初めて仕官し、江州の祭酒や鎮軍参謀の職に就き、

     十年ほど役人生活をしたが、生来の自然を愛する心情から官界の醜悪

     な人間関係を嫌悪し、四十一歳の時 官界に見切りをつけて郷里に

     帰った。

      役人としては、彭沢県の県令が最後の務めであった。

      その県令に就任後 未だ八十日余にして、たまたま上級官庁である

     郡の監察官が巡察に訪れるという。

      近侍の言うには、正装して出迎えなければならないという。

      陶淵明はつくづく嘆息して、

      「吾よく五斗米の為に、腰を折りて郷里の小児に向かわんや」と言い、

      即日 印綬を解いて去った。

      ※ 印綬を解くとは、辞任を意味する。

         印は官吏に授与される任命の証印であり、綬は印に通す紐をいい、

        官吏たる者は常に身に佩びていた。

      

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(沙門敬せず)

     「沙門(しゃもん)敬せず」

                 ◇ 東晋時代 ◇

      仏門に在る僧侶は、王朝に服従する者ではない。

        ☞ 沙門とは梵語で、出家した者、乃ち僧侶を意味する。

      東晋王朝の比類なき権勢家である桓玄は、宗門にある慧遠に対して

     王権への服従を強要した。

      其の強要に対して、慧遠は敢然と反論した。

      「出家は俗世間の外に在って、道を究める存在である。それ故に、

     関知せぬ俗世間の王者に礼を尽くす謂れ無し」と。

      そして宗教信仰の自主独立性について、「沙門不敬王者論」で

     以って堂々の論陣を張ったのである。

     《 慧遠という人 》 
       
       慧遠は、当初は洛陽に遊学して儒学と老荘学を学んだが、中原を

      舞台とする五胡の乱を逃れて大公山に至り、仏僧道安に師事して

      「般若」の教学を修めた。

       興寧三年(365年)、同門の四百人と共に道安に従って襄陽まで

      行ったが、そこで前秦の手の者により道安が連れ去られた。

       慧遠はそこで道安と袂を分かち、後には独立して廬山に東林寺を

      建立して、日日 教義の研究と修業に没頭し、その傍ら 弟子の指導

      に力を注いだ。

       元興元年(402年)、一門の僧侶ら百二十三名と共に「白蓮社」

      という宗教結社を作り、「般舟三昧経」に基づく禅観の修法を説き

      実践した。

       後世の「浄土三部経」に基づく専修念仏とは異なるが、慧遠の

      称える念仏行は、我が国で初めて専修念仏を称えた法然に強い影響

      を与えたとも言われる。

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(虎渓三笑)

     「虎渓三笑(こけいさんしょう)

                   東晋時代

      話に熱中するの余り、他の事をすべて忘れてしまうことの喩え。  

      虎の生息するという深い山の渓谷の橋上で、三人の知賢が大笑いした

     の意。

      古来から水墨画の格好の画題とされ、多くの画家の作品が残されて

     いる。

     》 三知賢の超時空対談 《 

      念仏の実践の祖とも言われる東晋の高僧・慧遠(えおん)は、廬山の

     東林寺に籠り、以来三十年間 死ぬまで下山しなかったと言われる。

      親しい客人が訪ねてきた時は、境内の下方にある虎渓と呼ばれる谷川

     に架かる橋の手前まで見送ることにしていたが、そこが俗界との境界と

     定めて、一歩も足を踏みだす事は無かった。

        ☞ 慧遠の俗姓は、「賈」氏。生没年は、紀元334年~416年。

      ところが、或る日のこと 親しい友で詩人の陶淵明と道士の陸修静を

     見送りした時、話が弾んで夢中となってしまい、ついうっかりして虎渓と

     言う名の橋を渡ってしまった。

      遠くから虎の遠吠えが聞こえて来て、辺りの様子がいつもと違う事に

     気付き、三人は思わず顔を見合わせて、呵々大笑したという。

        ☞  陶淵明は、字は潜。五柳先生と自称する。

             東晋時代の田園の詩人とも称される。

           陸修静は、字は元徳。簡寂先生とも言う。

             劉宋時代の道教の道士。道教の教理を整える。

      昔から廬山は、多くの詩や文をよくする人たちに詠い継がれてきたが、

     廬山そのものは神聖な信仰の山でもあった。

      虎渓における三人について、慧遠は仏教の高僧、陶淵明は儒教の徒で

     あると共に著名な詩人、陸修静は道教経典の大成者であり、後に廬山の

     東南の山麓に道教の寺・簡寂観を創建した大道士であった。

      この三人の、当に儒仏道の三者一体の超俗や洒脱ぶりが、水墨画の

     画題として話題性を大いに盛り上げてきたのである。

                        宋・陳舜兪 「盧山記」

      ※  この故事はあくまで作り話であり、

         慧遠が東晋時代の義熙十二年(414年)に八十三歳で没した時、

        陶淵明は五十二歳であり、陸修静に至っては十歳前後の少年である。

         陸修静の活躍した時代は、東晋時代より後の南朝の宋の時代で

        ある。

         廬山は、現在の江西省の北西部に在る名刹で、世界文化遺産と

        なっている。

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(一人 三度反す、)

     「一人(いちにん) 三度(さんたび)反す、何ぞ自立せん」

                   東晋時代

      一人の身で以って、三度も人の信頼を裏切り寝返るなら、一層のこと自立

     すればよいのだ。

     》 桓玄の晋朝簒奪 《   紀元402年

       孫恩の乱で東晋の建興が危機に瀕した際、「西府軍」の最高司令官の

      桓玄も出動しようとしたが、孫恩が敗退した為 取り止めとなった。

       朝廷の司馬元顕は、政敵・桓玄の動向に冷や汗をかいたものだが、

      桓玄のいる限りは枕を高くして眠れないので、「北府」軍を以って討伐を

      謀ろうとした。

       元興元年(402年)正月、桓玄討伐の詔書が発布され、司馬元顕は

      自らの「北府軍」総司令官に加えて大都督を兼ね、劉牢之を前鋒都督に

      任命した。

       一方では桓玄も司馬元顕の動きに応じて、長江を下り建興を目指した。

       そして桓玄は密かに北府軍の実力者である劉牢之の元へ、劉牢之の

      同族を使者として派遣し、内応するように呼びかけた。

       事ここに至り、劉牢之は再び信念が揺らいで、寝返りに応じた。

       桓玄は北府軍の全く戦意の無いのに乗じて建康に駒を進め、司馬道子

      親子やその一統を粛清し、遂に九錫を手に入れた。

       桓玄は、論功として北府軍の劉牢之を会稽内史に任命した。

       だが生粋の軍人であった劉牢之は、北府軍を離れては己の死命が

      制せられる虞があったので、今度は桓玄を討つべく幕僚たちに其の意中

      を諮った。

       ところが、参軍の劉襲は、

       「一人 三度反す、何ぞ以って自立せん」、

      と言って、劉牢之の下を去り、其の他の幕僚連中も次々と去っていった。

       劉牢之はもはや如何ともし難く、軍の拠点を逃れて自ら命を絶った。

       桓玄は劉牢之を憎む余り、北府軍の残る幕僚を次々 責め殺した。

       この大粛清から辛うじて逃れることが出来たのは、劉裕のみであった。

       元興二年十二月、桓玄は大将軍、相国、楚王となり、

      次に安帝に譲位を迫り、ついに帝位に就いた。

       国号を「楚」と言い、改元して、「永始」とする。

       ※ 東晋王朝は、ここで一時幕を下ろすことになる。

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(王恭の挙兵と)

     「王恭の挙兵と孫恩の乱」

                  東晋時代

      淝水の戦いの二年後に大功臣謝安は亡くなり、孝武帝の弟で会稽王の

     司馬道子が司徒となり、主だった官職を兼任して政権を掌握したが、国は

     治めるべき天子の側から乱れ始めた。

      乃ち孝武帝は、紀元396年、自らの迂闊な口害で張貴人の恨みを買い、

     布団蒸しにして殺された。

      孝武帝の後は孝武帝の長子である徳宗が即位(第10代安帝) したが、

     全くの白痴であったので、前帝に引き続き司馬道子が政務を取り仕切った

     が、やがて自分の子・司馬元顕に任せきりとなり、晋の内政は大いに乱れ

     るようになる。

      司馬道士は、人材登用の基本法である「九品官人法」を無視した人事を

     行い,世の顰蹙を買った。

      その出鱈目を正すと言う名目で、紀元398年、北府軍の総司令官・

     王恭が挙兵した。

      朝廷では、司馬道子の子・元顕を征討都督に任命した。

      司馬元顕は、北府軍の事実上の実力者である劉牢之を説得し、

     寝返らせることに成功した。

      如何に名門の王一族の王恭といえども、北府軍に於いては名ばかりの

     存在であった。

      実力のある劉牢之に背かれては、王恭は最早 手も足も出せなかった。

      王恭は逃亡中に捕まり、建康に送られ誅殺されてしまった。
     
      劉牢之は、北府軍の最高司令官となった。

      その後 東晋の政治を動かしたのは、司馬元顕である。元顕は有能では

     あったが、その性格は酷薄であった。

      兵制改革を図るために、東海沿岸地方の小作人を徴兵するという命令を

     出した。

      この命令がきっかけとなり、孫恩と言う道教もどきの者の掛け声で、道教

     教団も立ち上がり、一気に数十万の軍勢となった。

      彼らは先ず会稽郡を襲撃し、その水軍は長江を遡り建康に迫る勢いを

     示した。

      この会稽の戦いでは、書聖・王羲之の第二子・王凝之が戦死した。

      北府軍は永らく実戦から遠ざかっていたので、鎮圧にてこずったが、

     建康の手前にある京口で孫恩軍を破り、迫撃戦を展開して海上に追い

     払った。

      この孫恩軍の撃退に、最も功のあったのが劉牢之の武将である劉裕で

     あった。

                    「十八史略 東晋」

    テーマ : 中国古典・名言
    ジャンル : 学問・文化・芸術

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(布団蒸し皇帝)

     「布団蒸しにされた皇帝」

                        東晋時代

      前秦符堅の淝水の戦いにおける敗北以来、東晋王朝では江東の地で

     平和が続いた。

      孝武帝は、政務を弟の会稽王司馬道子に任せて、日夜酒色に溺れて

     いた。

      たまたま箒星が天の一角に現れた。

      これは凶兆であるが、孝武帝は星に向かって、杯を掲げて言った、

      「汝に一杯の酒を勧む。一体 世の中、万年の天子などいるものか」と。

      また或る日のことである、

      後宮で最も寵愛を受けていたのは張貴人であるが、彼女の歳は三十に

     近かった。

      帝は酔いに任せて、彼女をからかって言った。

      「汝の歳を以てすれば、当に廃すべし」と。

      怒った張貴人は、お付きの女官に命じて、其の夜 皇帝を布団蒸し

     にして、窒息死させたのである。

                        「十八史略 東晋」

    テーマ : 中国古典・名言
    ジャンル : 学問・文化・芸術

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(往きて還らず)、

     「往きて還らず、関東の乱 此れより始まる」

      (慕容垂が)長安を去り燕に還ったままとなり、華北の地に

      再び戦乱が始まる。

     》 後燕の建国事情 《

       鮮卑族の「前燕」は、前秦の符堅に滅ぼされたが、皇帝の慕容暐等

      は赦されて長安に強制移住させられ臣従していた。

       ところが、この度の淝水の戦いで手痛い敗北を喫した前秦は、もはや

      昔日の勢いはなくなっていた。

       一方、慕容部の鮮卑軍団は戦力を削がれることも無く、前秦軍の

      十万余の敗残兵を取りまとめるという働きをし、一旦 洛陽に落ち着く

      事になった。

       慕容部では、この頃 慕容暐の叔父である慕容垂が仕切っていた。 

       時に慕容垂の子である慕容宝は、

       「今こそ好機だから、前秦から離脱すべきだ」と、父を説いた。

       だが慕容垂は躊躇した。

       慕容垂は、前燕時代に政敵の慕容評と意見が合わず、その内 

      命の危険を感じて前秦に亡命したが、符堅からは国士として礼遇された

      経緯があった。

       更に符堅の知恵袋と言われた王猛からは、前秦の将来を危惧して、

      我が身に危害が加えられようとしたが、符堅に助けられると言う重恩が

      あった。

       その内 符堅が国都の長安に帰還する日が来た。

       慕容垂は函谷関の手前に着いた時、符堅に対して治安対策を献じた。

       淝水の戦いが原因で、北府の地で政情が不安定になっているので、

      詔書を奉じての宣撫にこの吾を派遣して欲しい、と。

       またついでに祖先の墓参も果たして来たい、と懇願した。

       慕容垂の懇願に、前秦の尚書左僕射の権翼は、符堅に進言した。

       「陛下は小信を重んじて、社稷を軽んず。

       (=陛下は私事の小さな信義を重んじなさり、重かるべき国家の

        存立と言う事を軽んじていなさる。)

       臣は見る、其の往きて還らず、関東の乱 此れより始まる」、

       と言って翻意を促した。

       だが符堅は、慕容垂を信じて、之を赦したのである。

       慕容垂は権翼の予想通り、再び長安に還って来ることは無かった。

       慕容垂は燕を復興して、その二年後には皇帝を称して、華北東部を

      領域とする「後燕」を建国する。

      

    テーマ : 中国古典・名言
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    Author:tyouseimaru
    出身地は四国八十八か所参りの発心の阿波、大阪を終の棲家とする。
    歴史好きで、城郭・神社仏閣・歴史遺跡巡りが趣味となる。
    歴史小説や時代小説を好み、往年の著名な時代小説の類は概ね完読と、自負している。

    自薦
    自著「中国通史で辿る名言・故事探訪」の 上・中・下の3巻を、 近い内に「電子書籍」での出版を予定しています。 今年一年間は、さらに工夫を加えるなどして、補記訂正などの校正を第一義としています。       
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