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    中国通史で辿る名言・故事探訪(滄桑之変)

     「滄桑之変」

                        唐代

      正しくは、「滄海桑田之変」という。

      世の中の遷り変りの激しいことの喩え。

      桑畑が海になったり、海が干上がって桑畑になるような

     大きな変化のこと。 

      ☞ 滄桑は、滄海桑田の略で、滄海は大海原。

      麻姑という女仙人が王方平に向かって言った。

      「この前にお会いしてから、東海 三度変じて桑畑と為るのを見ました。

     先に蓬莱山に行ったら、水の浅さは以前の半分になっていましたわ。

      また陸に為るのではないでしょうか」と。

      方平はそこで言った、

      「東海は行く行く、また塵を揚げるだけだよ」と。 

                   東晋・葛洪 「神仙伝 麻姑」

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(年年歳歳)

     「年年歳歳」

                        唐代

      来る歳も来る歳も、毎年毎年の意。

      中唐の詩人・劉廷芝の「白頭を悲しむ翁に代わって」が出典。


        洛陽城東 桃李の花

         飛び来たり飛び去って誰(た)が家にか落つ。

         (=洛陽城都の東の地に咲き誇る桃や李の花は、

          風に飛び散ったり、飛んで来るが、何処の家に落ちる

          ことやら。)

         洛陽の女児 顔色を惜しみ

         行々(ゆくゆく)落花に遭って長く嘆息す。

         (=洛陽の乙女たちは自分たちの容色の移ろい易さを思い、

          落ち往く花を眺めては、深いため息をつく。)

         今年(こんねん) 花落ちて顔色改まり

         明年(みょうねん) 花開いて復た誰か在る。

         (=今年 花が散って春が過ぎ去るとともに人の容色も衰えた

          が、来年 花の咲く頃には誰が生き残っている事だろう。)

         既に見る 松柏の摧(くだ)かれて薪(たきぎ)と為り

         更に聞く 桑田の変じて海と為るを。

         (=昔からの言い伝えで、常緑樹の松柏が切り倒されて薪と

          なり、また聞くに、青々としていた桑畑がいつしか海に

          変わったとも。)

         古人 洛城の東に復(かえ)る無く

         今人 環(ま)た落花の風に対す。

         (=洛城の東で落花を嘆いた昔の人は、再び帰ることはなく、

          今また 同じように花を散らす無常の風に人は向き合って

          いる。)

         年年歳歳 花相似たり

         歳歳年年 人同じからず。

         (=来る年も来る年も、花は同じように咲くが、

          毎年毎年 それを見る人は違っているのだ、)

         人は変われど 花変わらず。

         (=このように、毎年 人は変わっていくが、

          花は何ら変わることはない。)

         言を寄す 全盛の紅顔の子

         応(まこと)に憐れむべし 半死の白頭翁。

         (=今が盛りの若者たち、よ。

          この半ば死にかけた白髪の老人を憐れんで欲しいものだ。)

         ☞ 「言を寄す」とは、人に対する呼びかけの語。 

          

      

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(暗中模索)

     「暗中模索」

                         唐代

      手掛かりが全くない状況下で、当てもなく探し求めること。

      転じて、何も分からない状態で、あれやこれやと試行することを言う。

      》 佞臣宰相・許敬宗 《

       唐の高宗が王皇后を廃して、武昭儀(後の則天武后)を皇后に

      据えたいと考えて臣下に諮ったところ、重臣達の大反対に遭った。

         ※ 昭儀は、前漢時代(元帝)における後宮の女官の称号。

           皇后に次ぐ地位であったが、後漢では廃止。

       ところが武昭儀派の佞臣であった許敬宗は、朝廷の重鎮である李勣

      (りせき)の無関心発言に力を得て、高宗に阿ねた。

       そして曰くに、

       「田翁(百姓オヤジ)も十斛(こく)麦が多く取れると、婦を

      易(か)えたがります。ましてや天子が皇后を立てようとするのに、

      人に相談してあれこれ言わせる必要はありません」と。

       ようやく高宗は意を決し、反対派の急先鋒である褚遂亮を地方官に

      出し、武昭儀を皇后に冊立した。時に武后は三十一歳であった。

       皇后となった武后は、謀略を仕組んで先の王皇后、蕭淑妃を亡き者

      にし、次に宰相の長孫無忌、于志寧を左遷させ、代わって武后派の重臣

      である李義府と許敬宗を宰相に任じた。

       この許敬宗は、武后が後に則天武后として「周王朝」を開いても、

      引き続き宰相として権勢を揮った。

       許敬宗は日増しに傲慢になり、一度人に会っても、その人の顔を

      覚えようともしなかったと云う。

       それで、ある人が忠告した。

       「あなたは普段は碌に人の顔を覚えようとしないが、もし何晏の

      ような有名人に会ったとしたら、

      《暗中模索するも亦 識る可し》」と

      忠告した。

       即ち、喩え 暗闇の中で手探りしてでも、相手を見つけようとする

      だろう、ということ。

       平素からそのようにすれば、もう少し物覚えが良くなるだろう、

      という意を含ませての忠告である。

                        「十八史略 唐」



                 

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(国清三隠)

     「国清三隠」

                        唐代

      天台山国清寺に住した豊干と隠者寒山及び風狂の士拾得を謂う。

     《 寒山(かんざん)と拾得(じっとく)縁起 》

       唐の貞観時代に、蘇州(現江蘇省)の西、楓橋の近くに楓橋寺が

      あったが、いつの頃からか、その寺は寒山寺と言われていた。

       隠者の寒山が、その寺にある時期 住まいをしていたという。

       寒山は後に台州(現浙江省)の天台山に行き、そこの国清寺近くの

      翠屏(すいへい)山の寒巌(かんがん)という洞窟の中で風変わりな乞食

      のような風体で僧侶生活をしていたと謂われる。

       拾得は国清寺の僧侶たちの賄い(食事)を受け持つ風狂の士で

      あったが、いつしか寒山と意気投合して交遊を始め、共に久しく人々の

      膾炙に上るようになった。

       「寒山詩」の序文を著した朝議太夫の台州刺史の閭丘胤

      (りゅきゅういん)なる人物の、彼ら二人の言動を目撃したところに

      よると、寒山は寒巌で棲隠していて、時々国清寺にやって来ては、そこで

      賄いをしていた拾得から残飯を貰っていたという。

       その身なりはみすぼらしかったが、豊干(ぶかん)という放浪の禅師

      から、寒山は文殊菩薩の化身、拾得は普賢菩薩の仮の姿であると教え

      られた。

          ※ 豊干の実在性は不明であるが、寒山を拾い出して親交を

            結んだとも。

       ある時 閭丘胤が国清寺を訪ねたが、二人は厨(くりや)で火を囲み

      ながら談笑していた。

       閭丘胤は改めて、乞食のような二人に恭しく拝礼した。

       その有様を見た国清寺の僧たちは大層驚いた風であったが、それと

      知った寒山と拾得は、自分たちの正体がばれてしまったと合点し、

       「豊干の奴、しゃべりおったな」と口走って、そのまま姿を消して

      しまった。

       そこで閭丘胤は、寺僧に頼んで彼らの為に部屋を用意させ、使いの者

      に衣類や薬などを持たせて寒巌の洞窟まで遣ったが、二人の消息は杳と

      して知れなかった。

       後に付近の邑(町)の家々を調べ廻った所、家の壁やあちこちの樹木に

      書き付けられた詩や偈文が残されていたので、それらを集めて出来た

      のが「寒山詩」であるという。

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(意馬心猿)

     「意馬心猿」

                        唐代

      煩悩の為に心が狂い、騒ぎまわること。

      人が煩悩の為に欲情が動いて理性を押さえ難い事を、馬や猿の本性に

     喩えて、則ち 馬の思いは疾走することであり、猿の思いは騒ぐことにある

     と称した仏教の言葉。

      《 玄奘三蔵 大唐西域記 六 》より

           願わくば慮を禅門に託し

              ☞ 慮は、思い巡らすこと。

           心を定水に澄ませ

              ☞ 定水とは、静かな水面。

           情猿の逸踪を制し

              ☞ 逸踪とは、勝手に騒ぎまわること。

           意馬の奔馳を繋がん。

              ☞ 奔馳とは、全力で駆け回ること。

        

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(天上天下唯我独尊)

     「天上天下(てんじょうてんげ)唯我独尊」

                        唐代

      この広い天地の間で、この自分より尊い者いはいない。

      お釈迦さんが生まれた時、自ら十歩 歩んで言ったとされる言葉。

      玄奘三蔵法師 「大唐西域記 六」より。

       》 玄奘三蔵の帰国 《   紀元645年

      玄奘三蔵は河南の人で、その俗姓は陳、諱は褘(い)。

      玄奘は法名である。後には、法相宗の始祖と称えられる。

      3世紀にインドの竜樹らにより興った「空の思想」を受容した大乗教学

     は、4世紀後半には鳩麾羅什らにより中国にも伝来した。

      そして5世紀になると、インドのグプタ王朝の無著、世親兄弟を開祖と

     して、「心識」を中心とする精緻な「唯識の教学」が確立した。

      ※ 心識とは、竜樹の空の思想に対して、一切は空であるとしても、

        その空を認識する心が存在しなければんらないとする思想。

      この新大乗の教学は、6世紀になると中国にも伝わった。

      そして7世紀になると、中国では竜樹系の教学に拮抗して、新大乗教学

     の研究が盛んになってきた。

      ところが、同一の経論であっても、人により解釈が異なるという、当に

     暗中模索の状況下にあった。

      当時二十三歳の若年ながら、既にその名の知られた玄奘三蔵は苦衷

     の末、自らインドに赴き疑問を正したいと決心し、時の朝廷にその意向を

     上奏した。

      だが唐王朝は未だ国家草創期に在り、異国との交通は途絶していた

     ので許されるはずもなかった。

      貞観三年(629年)秋、玄奘は二十八歳の時 国禁を犯して長安を

     出発し、インドを目ざした。

      天山南路から高昌国、西突厥、トルキスタン、アフガニスタンを経て、

     苦難の末にインド入りを果たした。その要した月日は、三年余であった。

      インドでは最大の支配領域を持つヴァルナダ朝のハルシャ・ヴァルナダ

     王の厚遇を受け、マガタ国のナーランダ(那爛陀)寺のシーラバトラ

     (戒賢)に五年間 師事した。

      かくして大乗教学の奥義を極めた玄奘は、大乗の唯識(楡伽唯識)論

     を中心に研究し、遂にインドにおける十賢の一人に数えられるように

     なる。

      インドには滞在すること十数年に及んだが、その官位インドの各地を

     巡り、聖地や仏跡を遥拝しつつ、仏典・仏像・仏具などを収集した。

      貞観十九年(645年)、玄奘四十四歳の時、惜しまれつつ帰国した。

      玄奘は帰国後、太宗の手厚い保護を受け、多くの仏僧を指導しながら

     本格的に訳経事業を行った。

      「楡伽(ゆいか)唯識論」以下、「大般(だいはつ)涅槃経」、

     「倶舎論」、などの多数の仏典を次々に翻訳した。

      これらの訳典は、古来のもの(旧約)に対して、「新約」と称される。



      

      

      

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(三鑑の戒め)

     「三鑑の戒め」

                        唐代

      唐の太宗の三つの戒め。

     》 魏懲の死 《 

       太宗の貞観十七年(紀元六四三年)に魏懲が死んだ。

       太宗は朝(朝廷)に臨んで、嘆じて曰く、

       「銅を以って鑑となさば、

      衣冠を正すべく、

       (いにしえ)を以って鑑となさば、

      興替(王朝の交替)を見るべく、

       人を以って鑑となさば、

      得失を知るべし。

       朕 常にこの三鑑を保ちて内己が過ちを防ぐ。

       今 魏懲逝く、一鑑亡びぬ。」
       
       と言ってその死を悲しみ、自ら魏懲の墓碑に碑文を書いた。

       ※ 得失を知るべしの「得失」とは、己の言動による得失の意。

       之が世に言う、太宗の「三鑑の戒め」である。

                       「十八史略 唐」



          

      

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(形無きを視て、)

     「形無きを視て、声無きに聴く」


                        唐代

      為政者という者は、目は覆われて良く視えなくても、形に現れないもの

     に向けなければならないし、またその耳は塞がれても、声なき声に耳を

     傾けなければならない。

      》 張薀古(うんこ)太宗に一篇を献ず 《

      その一篇とは、帝王の心すべきことを記したものであり、之を読んだ

     太宗は非常に喜んだという。

      その一節に曰く、

      没没として闇(くら)きことなかれ、察察として明らかなること

     なかれ。

      冕旒(べんりゅう)は目を蔽うといえども、而も無形を視よ。

      黈纊(とうこう)は耳を塞ぐと言えども、而も無声に聴け。

        ☞ 冕旒とは、冠の前後に垂れ下がる紐で綴った飾り玉。

          天子は12本以下、諸侯は9本以下、大夫は7本か5本まで。

          何れも礼式用である。

          黈纊とは、黄色の綿を丸め冠の両側に垂らして、

         耳の穴を塞ぐ耳当てである。
          
          これは天子が不要不急の言を聞かないための戒めとも

         言われる。

       (=天子たる者は物事に耽溺して、視野が狭くなってはならない、

        さりとて些細な事までいちいち目を付けるのも好くない。

         その目は冕旒で覆われていても、形に現れないものを視るように

        心掛けなければならない。

         また耳は黈纊をしていても、声なき声に耳を傾けるように

        しなければならない。

                       「十八史略 唐」

       ※ 張薀古は書伝に精通し、群書を渉猟してよく文を綴り、博覧強記

         であったと謂われる。

          皇帝の諍(争)臣として仕えたが、その晩年 権万紀の讒言

         により、或る事件に連座させられ誅される。

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(人生意気に感ず、)

     「人生 意気に感ず、

         功名 誰か復(ま)た論ぜん」


                        唐代

      人の人生とは、意気に感じて行動するものであり、その結果において、

     功名が得られるか否かなどは問題ではない。

      李密と共に唐の軍門に降った魏懲は、その後 李世民から国士として

     重用されるようになった。

      そして、山東方面に散在する李密の残存勢力を唐に帰順させる任務が

     与えられ、当に出発するに際してこの詩が作られた言われている。

      この詩には、古来以来の多くの故事が取り入れられているが、その詩句

     の中に己の思想と行動を投影している。

           「唐詩撰 魏懲の述懐」より。

      中原 還(ま)た鹿を逐い、筆を投じて戎軒(兵車)を事とす。

      ※ 西域で活躍した班超の故事。

      ☞ 中原に鹿を追うとは、鹿を天子の地位に喩え、天下を求めて

        相争うの意。

         筆を投じて戎軒を事とすとは、物書きの筆を捨てて剣を執るの意。

      縦横の計(はかりごと)は就(な)らざれども、慷慨の志は猶 存(あ)

     り。


      ※ 戦国時代の縦横家である蘇秦(合従策を)や張儀(連衡策を)

       の故事。

      ☞ 慷慨とは、意気が盛んで感激しやすいこと。 

      策に仗(よ)りて天子に謁し、馬を駆りて関門を出ず。
      ※ 後漢の光武帝に仕えて武勲赫赫たる鄧禹の故事。

      纓(えい)を請うて南粤(えつ。越)を繋ぎ、軾(しょく)に憑(よ)

     て東藩を下さん。


      ※ 漢の武帝の時代、南越討伐派遣の若き将軍・終軍の、出陣の

       閲兵式において武帝に帝王の冠の纓(紐)を請うた故事と、

         楚漢抗争時、漢の説客・酈食其(れきいき)の単なる弁舌によって

       斉を降した故事。 

      鬱紆(うつう)高岫(こうしゅう)に陟(のぼ)り、出没 平原を望む。

      古木 寒鳥鳴き、空山 夜猿啼く、

      既に千里の目を傷ましめ、還た九逝(きゅうせい)の魂を驚かす。 

      ※ 戦国時代、楚の屈原が政敵に陥れられ、国を追放されて放浪し

       ながらも、故国を想う愛惜の真情を詠った楚辞からの引用。 

      豈に艱険(かんけん)を憚らざらんや、

      ☞ 艱険は、険しい所。憚るは、たじろぐの意。

      深く国士の恩を懐(おも)う。

      季布に二諾なく、侯嬴(こうえい)は一言を重んず。

      ※ 季布は秦末から漢にかけての遊侠の士で、季布が「諾」

       と言えば、以後 如何なる事態になろうとも、約束は必ず守られた

       という故事。

        戦国時代 隠士の侯嬴が魏の信陵君の厚遇に応える為、己の命

       に代えて信陵君に義と信の道を立たせた故事。

      人生意気に感ず、功名 誰か復た論ぜん。


      

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(創業守成)

     「創業守成」

                         唐代

      国家を建設したり、国家を統治すること。

      現在では「創業」を事業の意に解し、事業を始めるのはた易いことだが、

     それを守り抜くのは困難だと解する。

      唐の太宗は、或る日 侍臣にこう下問した。

      「創業と守成と孰(いず)れか難(かた)き」と。

      (=国家を建設してその統治を始めて行くのと、それを将来に保持して

       行くのとでは、どちらがより困難であろうか。)

      房玄齢曰く、

      「草昧(そうまい)の始め、群雄並び起り、力を角して然る後

     之を臣とす。

      創業は難し」と。

      (=世の中の秩序が乱れ未だ天下の定まらぬ混沌とした時代に、

       群雄は並び起り、互いに武力を競い合いましたが、そうした後に漸く

       勝利して彼らを臣従させることが出来たのです。

        ですから、国家の統治を始める方が困難かと存じます。)

        ☞ 草昧とは、世の中が未開で、物事が混沌としている状態を言う。

      魏懲曰く、

      「古(いにしえ)より、帝王 之を艱難に得て、之を安逸に失わざる

     莫し。

      守成は難し」と。

      (=昔から、帝王は艱難の時に天下を得て、安逸を貪る内に之を

       失わなかった帝王はいません。

        一度 成ったものを保持して行く方が難しいものであります。)

      そこで太宗は結論を付けて曰く、

      「玄齢は吾と共に天下を取り、百死を出でて一生を得たり。

     故に創業の難きを知る。

      懲は吾と共に天下を按じ、常に驕奢の富貴に生じ(奢りや贅沢が富貴

     から生じ)、禍乱の忽ちにする(禍や世の乱れが物事を疎かにする)所

     に生ずる所を恐る。

      故に守成の難きを知る。

      然れども創業の難きは、往けり(去った)。

      守成の難きは、方に諸侯と之を慎まん」と。

                        「貞観提要 君道篇」



        

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(玄武門の変)

     「玄武門の変」

                         唐代

      唐王朝建国で大功を為した李世民の策謀。

      高祖(李淵)は、次子・李世民の建国の大功績を認めて、太子に立てよう

     としたが、世民が次子であることを理由にして固辞したので、長子の李建成

     を大子に立てた。

      ところが、李世民の声望は日増しに高まるばかりであった。

      それを嫉んだ太子・建成と弟の元吉(げんきつ)は、世民の失脚を狙って
     
     あれこれと画策していたが、武徳九年(紀元626年)六月のこと、太白星

     が昼天を過り、世民の封地である秦の方向に現れたのである。

      人々は天下が、秦王に帰する前兆であると言いそやした。

      その噂を耳にして、建成、元吉の兄弟はいよいよ世民殺害の行動を

     起そうと謀った。

      その計画を察知した世民の側近である杜如晦と房玄齢は、周公の故事

     に倣うことを進言した。

      李世民は容易に首を振らなかったが、彼らの必死の説得にようやく腰を

     上げて、高祖に上奏し、建成らの策謀を報せ、討ち果たすっことを了承

     させた。

      その翌日、李世民は前もって玄武門の守備隊長・常何を買収しておいた

     ので、私兵を率いて玄武門に臥せて、高祖から召喚を受けて参朝して来る

     二人を待ち伏せた。

      玄武門は、天子の日常起居する宮城の北側にある門であり、そこからは

     禁中となる場所であった。

      皇帝からお召を受けた二人は当然 入門できるが、二人の率いてきた

     武装兵は中に入ることは出来ない。

      建成と元吉は連れ立って門を入って来たが、だだならぬ気配を察して

     引き返そうとした。

      そうはさせじと、世民は追いすがって建成を射殺し、尉遅敬徳は元吉を

     射殺した。

      この後 高祖は直ちに世民を大子に立て、更に皇帝権を代行させるなど

     したが、更に詔を下して譲位した。ここに太宗・李世民の御世となる。

                         「十八史略 唐」

      

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(王佐の才)

     「王佐の才」

                        唐代

      帝王の輔佐たるべき大器を言う。

      唐王朝創建後、李世民の声望が世を圧するほどに高まると、兄の建成

     と弟の元吉は、世民排斥の策を立て、次々と実行した。

      その画策により、李世民配下の人材は次々に地方に転出させられた。

      そして遂には、杜如晦にまで転出命令が出されるに及んで、房玄齢は

     秦王李世民に進言した。

      「余人は惜しむに足らず。如晦は王佐の才なり。大王 四方を経営せんと

     欲せば、如晦にあらざれば不可なり」と。

      秦王は直ちに、高祖に奏して留め、以後は帷幄に参謀たらしめた。

      その杜如晦の手際たるや、さながら水の流れるが如く、如何なる問題も

     てきぱきと処理したという。

                        「十八史略 唐」


      

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(欧陽詢、紙筆を択ばず)

     「欧陽詢、紙筆を択(えら)ばず」

                        唐代

      書の名人たる欧陽詢は、紙や筆を選ばなくても立派に書することが出来

     るの意。

      この成語が出来た後、書であろうが絵画であろうが、本当の上手名人と

     言われる人は、道具や材料に拘らないと言われるようになる。

      唐初の能書家である褚遂亮は、筆や墨、また紙の良し悪しに拘りを

     持っていたが、ある時 虞世南に訊ねて云う、

      「吾と欧陽詢の書を比べて、孰れが優れる」と。

      虞世南は答えて云う、

      「欧陽詢、紙筆を択ばず。

      汝の拘りでは、遠く及ぶ所に非ず」と。

                        「唐書 欧陽詢伝」

      ※  欧陽詢は、四世紀後半の東晋時代に「書聖」と言われた王羲之

        の書風に学び、隋王朝では太常博士として仕え、唐王朝になって

        からも招かれて弘文博士に、晩年には渤海郡の太守に任ぜられる。

         欧陽詢は、子の欧陽通と共に親子で書の名人として名を馳せ、彼ら

        の書体を「大小欧陽体」と呼称して珍重された。   

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(登瀛州)

     「登瀛州(とうえいしゅう)

                        唐代

      この上ない名誉の地位に進む事を云う。

      瀛州(えいしゅう)は古来から、中国で神仙が棲むという伝説の三つの島

     の内の一つである。

         ※ この「島」という説に対して、或いは「山」との説もある。

      唐の高祖(李淵)は、我が子の秦王・世民の功に報いる為、特別に

     天策上将という王公より上の官職を設けて、秦王をその官に任じ、また

     彼の為の専用の役所を設けて属官を配した。

      秦王李世民は、その役所の中に学問所を設置し、多くの好学の士を

     招いた。

      その中から、杜如晦(じょかい。克明)、房玄齢(字は喬)、虞世南

     (せいなん。字は伯施)、褚遂亮(ちょすいりょう。褚亮ともいう)、

     姚思廉(ようしれん。簡之)、陸徳明、孔頴達(くえいたつ)、許敬宗

     などの十八人を文学館学士に任命し、三班に分けて館内で宿直させた。

      そして秦王は、暇さえあればそこで議論を戦わせたと云う。

      また後には、当時の絵画の上手と言われた閻立本(えんりっぽん)に

     学士たちの肖像画を描かせ、褚亮にその絵の賛を書かせ、、彼らを

     十八学士と称号した。

      当時の士大夫で、この十八学士の仲間入りが出来た人を、「登瀛州」と

     言って、この上ない名誉な事とされた。

                          「十八史略 唐」

      ※ 房玄齢は後には宰相にまで栄達し、また勅命により「晋書」を編纂。

        孔頴達は、孔子の三十二世の末裔。字は仲達。「五経正義」を著す。

        虞世南と褚遂亮は、欧陽詢と共に、「唐初三大家」と称される

       能書家。  

      

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(煬帝死して群雄割拠す)

     「煬帝死して群雄割拠す」

                         唐代

      李淵が長安を占領した翌年(紀元618年)、江都に居た煬帝が重臣の

     宇文化及に弑殺された。

      時に李淵は、長安において恭帝(代王・楊侑)を擁立していたが、

     形式的な禅譲を受けて、ここに唐王朝を開いた。

      ※ 唐王朝より後、元朝までの皇帝の称号は、概ね廟号による。

         唐の李淵の廟号は、「高祖」という。

         諡号は、神堯大聖大光孝皇帝。

         なお、明朝以後は、「元号」による。

       その一方では、江都に居た宇文化及は、代王として擁立していた

      秦王・楊浩を葬り去り、遷都の後 今度は自ら許帝を称した。

       また河北では侠客の大親分である竇(とう)建徳が夏王を称し、

      洛陽救援軍を率いた王世充は、煬帝が死ぬや煬帝の孫の越王・楊侗

      (ようどう)を即位させて専権を揮った。

       さらに一度は唐に降った李密が、再び反旗を翻した。

     》 李密、王世充、宇文化及の三つ巴戦 《

       洛陽で即位した楊侗の旧臣は、王世充に実権を奪われたので、巻き

      返しを図るべく李密に接近して、彼の帰順工作に腐心した。

       李密は前方に王世充を、後方に宇文化及を相手にしなければならず、

      遂に意を決して隋国の大尉、尚書令、魏国公という仰々しい官職を受け

      ることにした。

       そしてその直後、朝廷から宇文化及を討って然る後、皇帝を補佐せよ

      という勅命を受けた。

       李密は徐世勣(せいせき)に黎陽を守らせ、自らは宇文化及の背後に

      回り込み、挟撃して敗走させた。

       宇文化及は魏県まで逃れてから皇帝楊浩を殺し、自ら皇帝を名乗った

      が、竇建徳に攻め滅ぼされてしまった。

       李密は宇文化及を敗走させた勅命を果たしたので、洛陽城に向かおう

      と軍を進めたが、時に王世充が既に反王世充派を粛清した後であった

      ので、油断していた李密軍に速攻をかけて圧勝した。

       李密は、結局 恥を忍んで部下の魏懲(字は玄成)と共に長安の李淵を

      頼った。

       李密は一旦は唐に降ったものの、処遇に不満を懐くようになり、山東

      方面で平定工作をしたいと願い出て、それが許されるや旧部下連中を

      呼び集めて自立しようと謀った。

       だが監視役として付けられていた張宝徳の報告により、李淵は急遽 

      李密を長安に呼び返す勅命を下した。

       李密にしてみれば、離反して再び許されることは無しと覚悟して、遂に

      桃林県を攻めて兵糧を奪い、北に向かって逃亡しようとした。

       そして熊州に着いた頃、これに追いついた討伐軍に打ち破られ、李密も

      誅殺されてしまった。

     》 太原の攻防戦 《   紀元620年

       李淵が長安を目ざした時、根拠地である并州(太原を含む地)には末子

      の李元吉に守備を命じておいた。

       ところが李淵不在を狙って、劉武周が突厥を結んで太原に兵を進めて

      来た。

       李元吉は大いに奮戦したが、支えきれずに長安まで逃げ帰ってきた。

       李淵は今 兵を割いて迎え撃つのは困難と考え、一時并州の放棄を

      考えたが、反対する李世民の説得で、ようやく并州に李世民の軍団を

      派遣することにした。

       李世民は自ら軍中で指揮し、劉武周・突厥軍に対して、間断なき猛攻

      を仕掛け、一気に攻め崩してしまった。

       四月には并州を完全に回復して、勇躍 長安に凱旋した。

       この戦いで、劉武周の同盟者で猛将の尉遅(うっち)敬徳(諱は恭)

      が唐に帰順した。

     》 洛陽の攻防戦 《

       李世民は并州を回復した後、同年七月には洛陽の王世充の討伐に

      出征した。

       王世充はこの時、鄭国皇帝を称していた。

       洛陽の攻防戦は熾烈を極めた。技術官僚で名を成した王世充では

      あったが、用兵の才にも恵まれていた。

       だが流石に苦戦は免れず、死中に活を求めるべく竇建徳に援軍を要請

      した。

       この二人は一戦も交えたことはなかったが、その仲は良くなかったと

      謂われていた。だが竇建徳にしても、洛陽が落ちると、我が身が危うく

      なるので援軍を派遣することにした。

       李世民は竇建徳軍が汜水(しすい)に接近すると、洛陽攻めの兵を

      最小に留め、動員できるすべての兵を竇建徳軍の迎撃に当てた。

       そして軍団を二つに分けて、竇建徳軍を挟撃する策を採った。

       背後を襲う軍団は、強引なまでの急襲作戦を取り、回り込みに成功する

      や、直ちに挟撃態勢に移り、一気呵成に襲い掛かり敵軍を壊滅した。

       王世充は、恃みの竇建徳軍が壊滅しては如何ともし難く、遂に李世民の

      軍門に降ってしまった。

       捕虜となった竇建徳は長安に連行され誅殺されたが、王世充は軍門に

      降る時の約束が守られて、助命された。

     》 劉黒闥(こくたつ)、突厥戦 《

       竇建徳の公開処刑は、唐朝を再び揺るがせることとなった。

       李淵の従弟である淮安王・李紳通と同安公主は、かつて竇建徳の捕虜

      となったことがあった。

       だが竇建徳はこの二人を手厚くもてなして、条件を付けることもなく

      送還したことがあった。

       さらに唐に帰順した後の徐世勣は、竇建徳に捕らえれたことがあった。

       徐世勣は何とか自力で脱出したものの、逃げ遅れた彼の父は竇建徳の

      監視下に在った。

       竇建徳の側近は言う、「父を捕えて誅殺すべきだ」と。

       だが竇建徳は、徐世勣の行為は忠義そのものであるとして、

       「彼の父に何の罪やあろう」と言って、取り合わなかった。

       竇建徳は、元々 任侠の士として名を馳せていたので、その彼を長安

      で公開処刑したことは大きな反響となって、再び群盗が動き出した。 

       竇建徳の盟友であった劉黒闥が、突厥と結んで蠢動しだした。

       唐朝は折角 手に入れた竇建徳の旧地を劉黒闥に奪われ、その制圧

      に出動した李世民も、一時は包囲され窮地に陥ると言う事もあった。

       だが李世民は、辛抱強く獅子奮迅の戦いを展開して危地を脱し、逆に

      劉黒闥は突厥に逃れる羽目となった。

       その後 しばしば劉黒闥は、突厥から南下して唐朝を苦しめたが、武徳

      六年(紀元623年)の初頭には完全に平定された。

       その他、各地に割拠していた群盗も、李世民の東奔西走の活躍により

      完全に制圧された。

                         「十八史略 唐」



      

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(死ぬ者相枕し、)

     「死ぬ者相枕(あいまくら)し、

       臭穢 路に盈(み)ち、天下騒乱す」


                        隋代

      無計画な無謀な遠征で、行旅の兵士や雑役夫は極度に疲れ果てて、

     横死する者が続出し、彼らの発する死臭が路に充満した。

      その為 全国各地で治安は大いに乱れた。

     》 大運河の建設と外征 《    紀元605年~613年

      隋の第二代皇帝である煬帝(ようだい)という諡号は、次に王朝を開いた

     唐の太宗からの追贈である。

      煬帝の「煬」という字義は、猛り狂う火を意味する。

      煬帝は大運河の建設に着手した。

      通済渠、永済渠などを掘削し、その総延長は千五百キロに及んだ。

      この破天荒とも言える大土木工事は、隋王朝にとり死活的理由があった。

      大土木工事については、様々な説もあるが、当時の現実的問題として、

     国都のある黄河周辺の大地は、その黄土の特質から米の生産には適さず、

     主として麦を生産していた。

      それに対して、長江流域の江南地方では米を主に生産していたのである。

      統一国家たる隋の国策としては、当然の帰結として、江南の米を国都を

     始めとして華北の地に移動させる必要性があった。

      だからその主目的は容認されるべきであるが、大運河建設に便乗して、

     運河に並行する御成り道の建設、水路途中における数多くの離宮建造、

     また人海戦術で以って江南の珍品・奇石・珍鳥獣を洛陽に建造中の豪壮

     華麗な顕仁宮(けんじんきゅう)に運び込ませたことが非難の対象と

     なった。

      煬帝はその後、領土拡張を目ざし、北は突厥王と結び、西は靑海省に

     吐谷渾を立て、新疆までその勢力を伸ばし、次に高句麗を討つべく百万を

     超える兵を派遣し、その輜重の輸送には六十万の農民を徴発した。

      しかしその軍需物資を運ぶ路は、遠く且つ厳しいものがあり、陸を行く

     兵にしても昼夜兼行の為 極度の疲労から横死する者が続出した。

      その悲惨な状況は、

      「死ぬ者相枕し、臭穢路に盈ち、天下騒乱す」と史書に記されている。

      従事させられた農民の不満は一挙に高まり、また徴用される懼れの

     ある者まで逃亡するようになり、集団となった流民や群盗による無秩序な

     社会を現出し、暴動や反乱が各地で頻発した。

      それに呼応すかの如く、各地の豪族や官吏が加わった小政権が成立し、

     やがて有力者に統合された軍閥政権へと発展して行くことになる。

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(家を破り身を亡ぼすも、)

     「家を破り、身を亡ぼすも汝に由らん」

                        隋代

      我が一族一門が破滅し、命を落とすのもお前次第だ。

     》 李淵の挙兵秘話 《   

       隋末の動乱期に於いて、李淵(字は淑徳)は当初 挙兵の覚悟は

      無かったと謂われる。

       それを煽ったのは、当時二十歳の次男・李世民である。

       李世民はその決断力、度量、識見ともに秀でていて、自らも天下平定

      の野望を持っていたが、そのような彼に己の希望を託する者が現れた。

       晋陽の宮監である裴寂(はいせき)と県令の劉文静である。

       その頃の事であるが、隋の領域に突厥が入寇してきたので、太原の

      李淵は命を受けて迎撃したが敗北を喫してしまった。

       その為 李淵は譴責を受けるのではないかと、大いに危惧していた。

       この機会を捉えて、李世民は父の説得に取り掛かった。

       李世民は言う、

       「民心に順いて義兵を興さば、禍を転じて福と為さん」と。

       李淵は、何と大胆不敵な事を云う奴かと驚愕し、

       「お前のような不届き者は、捕えて県官に引き渡してしまうぞ」と

      威嚇した。

       しかし世民は、

       「天の時、人の事を見るにかくの如し、故に敢えて発言しました。

       捕えて告げられようとも、敢えて死を辞せず」と。

       だがその日は李淵も覚悟はつかず、一応 世民を叱り飛ばした。

       ところが翌日も、世民から譬え話で脅かされたので、李淵をして斯く

      言わしめた。

       「我 一夕、汝の言を思うに、また大いに理あり。

       今日 家を破り身を亡ぼすもまた汝に由らん」
    と。 

       李淵の覚悟は、それでも未だ優柔不断の態であったので、裴寂が一計

      を案じた。

       或る日 酒宴を開いて李淵を招き、その席に美女を同席させたが、

      事もあろうに何とその女は、宮中の離宮に居るはずの煬帝の行幸時の

      宮女であった。

       そして宴 酣(たけなわ)の頃を見計らって、裴寂はその女の正体を

      李淵に打ち明け、半ば脅迫的に決起を促したのである。

       ※ 李淵の「挙兵秘話」と言われ、その中で語られている李世民の

        実話も、その事を証拠立てる「実録」は安禄山の乱の時に焼失し、

        後に民間伝承を集めて採録されたもの。


                         「十八史略 唐」

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(破鏡重円)

     「破鏡重円(はきょうちょうえん)

                        隋代

      離散した夫婦が再会すること。

      壊れた丸い鏡を、後になって再び重ね合わせるの意。

      時代は六朝から隋王朝の御世になった。

      だが陳国は、まだその命脈を辛うじて保っていた。

      陳の太子の舎人である徐徳言の妻は、国主である陳叔宝の妹で、

     楽昌公主に封ぜられていた。

      だが陳国内の政情は大いに乱れ、また隋王朝の威圧も日ごとに強まって

     いた。

      その応な状況下で、夫婦はお互いに安閑としていられない事を察し、夫の

     徐徳言は妻に語った。

      「君ほどの才能と容貌があれば、国は滅びても、必ず権勢の家に入ること

     が出来よう。

      だがもし夫婦の縁が向後とも絶えないものならば、再び会いたいものだ。

      私の言った事を信じてもらいたいな」と言って、離別することになった。

      そこで、丸い鏡を破って、各々其の半分を取り、約束して言った。

      「他日 必ず正月十五日に、市場で売ろう」と。

      やがて陳が亡びるに及んで、その妻は果たして越国公の楊素の家に

     入った。

      徐徳言は都に至り、遂に正月十五日に市場を訪れた。

      そして鏡の半分を売っている商人を見つけ出し、自分の鏡の半分を出し

     てこれに合せた。

      そして詩を作って歌った。

           鏡と人と共に去る

           鏡去りて人帰らず。

           二度と姮娥(こうが)の影は無く

           月の影のみ残るかな。

       ※ 姮娥は月に棲むと謂われる伝説上の仙女。

          弓の名手羿(げい)の妻であったが、羿が仙女の西王母から

         貰った不老不死の薬を夫に無断で飲み仙女となったが、再び人の世

         に帰ることが出来ず、月に留まったという。

       ある時 陳氏(徐徳言の元の妻)は、その詩を知るところとなり、

      涙を流して食を断った。

       夫の楊氏はこれを知り、直ちに徐徳言を召して、その妻を還した。

                    宋の勅命編纂  「太平廣記 楊素伝」

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(独狐、我を過てり)

     「独狐、我を誤(あやま)てり」

                        隋代

      独狐皇后よ、お前の為に我は誤ってしまったぞ。

      隋の文帝(楊堅)が病に伏した。

      そこで、太子を宮中に起居させることにしたが、太子・廣(第二子)は

     文帝の崩御後の事を僕射(ぼくや。宰相)の楊素に書面にして送った。

      ところがその僕射からの返書が、使いに立った宮女の手違いから文帝

     の元に送られてしまった。

      その書を見た文帝は、かんかんに怒った。

      さらに悪いことに、 以前に文帝の愛妾(陳夫人)が、太子に犯され

     そうになったことがあったので、今になって「太子、無礼なり」と訴えるに

     及んだ。

      文帝は、「畜生 何ぞ大事に付するに足りん。独狐 我を誤てり」と、

     怒り心頭に発した。

      そして以前に、独狐皇后の意見によって太子廃嫡にしていた長子の勇

     を直ちに呼び付けようとした。

      ところが、 文帝に命じられた兵部尚書の柳述らは、太子廣の腹心の

     僕射・楊素に捕らわれてしまい、任務を果たすことが出来なくなっていた。

      太子廣は当に廃嫡になろうとするところであったが、楊素の機転により

     救われた。

      太子廣は、側近の張衡(こう)に言い付けて、文帝を弑殺させ、更には

     前の太子であった兄の勇まで殺害して即位した。

                         「十八史略 隋」

      ※  文帝の陳夫人は、独狐皇后の死後に迎えた愛妾であり、南朝・陳

        の第四代宣帝の娘で 文帝の寵愛を独占した。
      
          しかし、文帝の死後は、文帝の子である煬帝に望まれて後宮に

        入ったと云われる。

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(陰徳は耳鳴りの如し)

     「陰徳は耳鳴りの如し」

                         隋代

      陰徳は、人には分からない耳鳴りのようなものである。

        ☞ 陰徳とは、人に知れない善行をいう。

      李士謙(字は子約)は隋王朝に仕えたがその家は富み、開府参軍の

     時には、粟数千石を郷人に供出したことがあった。

      そしてその年、不運にも農作物の不作に見舞われた郷人に対して、

     彼らを呼び出しては酒を振る舞い、且つ取っておいた証文を眼前で

     焼き捨てて、償いを求めなかった。

      翌春には種籾を分け与えてやり、郷人の窮乏を救うこと甚だしかった。

      ある人曰く、

      「子の陰徳大なり」と。

      士謙は言う、

      「陰徳は耳鳴りの如し。已に自らこれを聞きて、人知る者なし。

      今 子、已に知る。何ぞ陰徳となさん」と。

      このように李士謙は、後 寿百歳に至り、子孫 皆、顕官となる。

               「隋書 列伝第四十二 隠逸・李士謙」

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(草、囹圄に満つ)

     「草、囹圄に満つ」

                        隋代

      犯罪人のいない、社会秩序の安定した状況を言う。

      善政が行われていることの喩えでもある。

      囹圄とは牢獄のことで、、その牢獄に入るべき罪人がおらず、獄舎が

     さびれて雑草が生え茂るほどという意。

      ※ 囹も圄も、ともに人屋のことであるが、囹は、ずばり監獄・牢獄を

       意味し、圄の本義は守り防ぐの意であるが、罪人を留置する人屋の

       意もある。

     》 循吏の劉曠 《

       隋の初期、劉曠(りゅうこう)はさる県の県令となった。

       彼がその任に就くや、裁判沙汰を起す者に対しては、直接 双方の者

      を自邸に呼び寄せ、共々よく諭して納得させ、訴訟を取り止めにさせた。

       その一方では、窮乏している者に対しては、自らの俸禄から割譲して

      救済するのが常であった。

       その様な彼が、県令として在任すこと既に七年が経ったが、県内には

      犯罪人も無くなり、その為 県の牢獄には雑草が生い茂るほどで、人々

      の人情も極めて篤いものとなったと言う。

                       「隋書 列伝三十八 循吏・劉曠」


      

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(一 衣帯水)

     「一 衣帯水(いち いたいすい)


                        隋代

      もともとは、一筋の衣服の帯のように細長い川のことを言った。

      転じて、川や海峡などの狭い境界を挟んで、土地が互いに近接して

     いることの喩え。

      或いは、二つの勢力が拮抗することを意味する。 

      北周を牛耳っていた楊堅は、やがて禅譲を受けて「隋」を建国したが、

     国内はまだ完全統治には至っていなかった。

      そこで、当初は南朝の残存勢力の陳とは事を構えないことにしていた。

      しかし将来に備えての陳攻略の為に、長江中流域に存在していた西魏

     以来の傀儡国家である後梁を併合した。

      だがこの併合を嫌った後梁の民十余万が、長江を渡って陳に亡命して

     しまった。

      ところが当の陳の君主の陳叔宝は酒に耽り、民は重税に喘ぎ、その治世

     は全く退廃していた。

      そこで楊堅は確信して言った、

      「我 百姓(ひゃくせい)の父母たり。豈に一 衣帯の水を限って、

     これを拯(すく)わざるべけんや」と。

      (=私は民の父母である。その民が陳で苦しむのに、一筋の衣服の帯

       のような川の水に遮られているからと言って、どうして救えないことが

       あろうか。)

      かくして、陳攻略を本格的に進めることにした。

      楊堅(文帝)は、準備万端の上 八方面から大軍を動員して陳を攻略し、

     ここに於いて、念願の中国全土を統一を果たした。

      ※ 「一 衣帯水」という成語は、楊堅の文言から生まれたもの。

                        「南史 陳後主」

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(騎虎之勢)

     「騎虎之勢」

                        北周

      物事を遣っていて(従事中)弾みが付き、途中で止めることの出来ない

     ことの喩え。

      虎に乗って走る者は、その勢いはすごいので、途中で虎から下りることが

     出来ない。

      また逆に下りれば、虎に喰われてしまう危険性が大きいとの説もある。

                        <魏書 司馬衍>

      楊堅が北周王朝から天下を奪うために、宮中内外で奔走画策している

     時に、独狐夫人が其の勢いで最後まで突っ走れとばかりに、夫を激励した

     言葉である。

      周王朝の先帝(第3代宣帝)が崩じた後、高祖(楊堅)は左大丞相

     となり実権を掌握し、禁中に在りて幼かった静帝を補佐し、百撥

     (ひゃっき。百官)を総(す)べていた。

      后(独狐皇后)、人をして高祖に謂わしめて曰く、

      「大事 已に然り、獣騎の勢 下(お)りるを得ず、これを勉めよ」と。

      (=北周王朝は当に瀬戸際にあるので、乗り掛かった舟は下りずに

       最後まで見届けよ。)

                        「隋書 独狐皇后伝」

      ※ 隋書では、 文帝(楊堅)の名に「虎」が含まれるので、虎の字は

       忌避して、「獣」と改められ、「獣騎之勢」と記す。

      

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(車に乗れば著作郎、)

     「車に乗れば著作郎、ご機嫌如何で秘書郎」

                         南北朝時代

      未だ子供であっても、車に乗って転落の心配がなければ著作郎に任ぜ

     られ、また朝廷に出仕して、何らかの交際の言葉を掛けることが出来れば

     秘書郎に任ぜられるという、南北朝時代の閉鎖的門閥貴族制に対する

     世間の風刺である。

      とりわけ南朝においては、門閥貴族の子弟は二十歳で官に就ける

     という制度が作られた。
     
      そして、先ずは著作郎か秘書郎に任ぜられたのである。

         ☞ 著作郎とは、古代の官制で、内記の別称とも言われるが、

          この時代においては、中書省に属して、皇帝の個人的な書記を

          務めた官職。

            秘書郎は、帝室書蔵庫で管理と記録を担当した官職。

      南朝では、魏晋以来の伝統である特権貴族連中の家柄自慢が盛んで、

     その一方では武事を卑しむ風潮に一層拍車がかかった。

      当然の如く政治社会は廃類堕落し、多くの無能な子弟を増やして衰退

     していった。

      その間隙を縫って、一般庶民とは区別されて、代々兵役義務を負わされ

     て来た兵戸(へいこ。下級の貧困層に甘んじてきた)の出身者が軍功を

     重ねて昇進し、次第に政治の実権を掌握するようになっていった。

      その代表的人物が朱异(しゅい。字は彦和)であり、粱の武帝に

     仕えて三十年、次第に政権の中枢に駆け上った。

      それに対して門閥貴族は、既に如何ともすることが出来なかったので

     ある。 

      皇帝や側近は、兵戸や寒賊出身者を重用し、権力の中枢部を握らせ、

     皇族は任じた地方の刺史に政治を任せていた。ところが、それでも心を

     許すことが出来ず、寒賊出身の官僚を派遣して監視の目を光らせると

     いう態勢を敷いた。

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(快刀乱麻)

     「快刀乱麻」

                         南北朝時代

      「快刀乱麻を断つ」ともいう。

      紛糾した問題や事態を、簡単にして見事に処理解決することを言う。  

      もつれた麻糸を鋭い刃物で断ち切るの意。

      傀儡国家となった東魏の実力者である高歓は、ある日の事、密かに

     我が後継者を選ぼうとした。

      そして数ある我が子の器量を確かめるべく、彼らを呼び集めた。

      高歓は、集まった我が子達にそれぞれ乱麻(もつれた糸玉)を与えて、

     解きほぐすように命じた。

      この時 多くの子供は何とか解きほぐそうと努力したが上手くいか

     なかった。

      ところが、この時 高歓の第二子である高洋は、いきなり刀を抜き放ち

      「秩序を乱すものは、斬るべきである」と言って、

     乱麻を断ち切ってしまった。

      高歓は果たして、この洋の行為を以って、将来を託するに足る器だと

     断じた。

                       「北斉書 文宣帝」

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(飛蛾の火に赴くが如し)

     「飛蛾の火に赴くが如し」

                        南北朝時代

      自ら滅亡を招くこと。

      それとは知らずに禍に身を投じて行くことに譬えられる。

      夏の夜、娥が灯りに釣られて飛んで来て、火に触れて焼け死ぬの意。

      南朝梁の武帝の時代、謹直且つ聡明な到漑(とうがい。字は茂灌)

     という者が武帝に仕えて、その篤き信任を受けていた。

      この到漑の息子は早逝していたが、到藎(とうじん)という孫がいて、

     とても才能に恵まれていたので、祖父同様に武帝に仕えて可愛がられて

     いた。

      ある時 武帝は到漑に対して、以前に到漑が高楼で自分の面前で作った

     詩を示して、冗談めかして言った。

      「藎は、なかなかの才子だ。そこで思うのだが、子(なんじ)の最近の

     文章は、どうも到藎の手を借りているのではないかな」と。

      そして、到漑に次のような文を下された。

      「硯に墨を磨りて文(ぶん。文字)を謄(うつ)し、筆は毫(穂先)を

     飛ばして信(手紙)を書するも、飛蛾の火に赴くが如くして、あに身を

     焚くを郄(とど)むべけんや。

        ☞ あに身を焚くを郄むべけんやとは、我が身の毀損を防げない

         ことを言う。

      必ず耄年(もうねん。耄碌した年齢)にそれ已に及ぶ。まことにこれを

     少藎に仮せ。」

        ☞ 少藎に仮せとは、若い到藎に譲ったらどうかということ。 

                        「梁書 到漑伝」

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    Author:tyouseimaru
    出身地は四国八十八か所参りの発心の阿波、大阪を終の棲家とする。
    歴史好きで、城郭・神社仏閣・歴史遺跡巡りが趣味となる。
    歴史小説や時代小説を好み、往年の著名な時代小説の類は概ね完読と、自負している。

    自薦
    自著「中国通史で辿る名言・故事探訪」の 上・中・下の3巻を、 近い内に「電子書籍」での出版を予定しています。 今年一年間は、さらに工夫を加えるなどして、補記訂正などの校正を第一義としています。       
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