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    中国通史で辿る名言・故事探訪(一挙一投足)

     「一挙手一投足」

                        唐代

      「一挙一動」とも。

      費やすべきわずかな労力、或いはわずかの動作をいう。

      ちょっと手を挙げたり、ちょっと足を動かすくらいのこと。 

      唐の韓愈は、「唐宋八大家」の筆頭に名を連ねる著名な文章家である

     が、科挙の任用試験では大いに苦労したと言われる。

      或る日、遂に意を決して任用の試験官に自薦の売り込み工作をした。

      所謂 自推薦状の上申である。

      「海や大河の辺りに怪物がいます。凡庸な魚介と違い、水を得れば風雨

     を操り、昇天することも出来ます。

      ところが水が及ばないと、譬え届かないのが一寸であっても、間に

     高山や深谷がなくても自ら水を得ることが出来ません。

      すると、獺(かわうそ)にも笑われてしまいます。

      この怪物とは、私の事でございます。

      もし、貴方のような有力者が私の窮状を汲んで戴き、私を水の元に

     運んでやろうと思って下さるなら、手を一度挙げて、足を一歩進める程の

     労力しかかかりません。 以下 略」

     と。

      ※ 韓愈は自分を水を得られない竜に喩えて、出身母体となる

       門閥の無い己の窮状を訴えたのである。

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    テーマ : 中国古典・名言
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    中国通史で辿る名言・故事探訪(芭蕉の葉を紙と為す)

     「芭蕉の葉を紙と為す」

                        唐代

       芭蕉の葉を紙として日々 書の練習に励んだ若き日の懐素の故事。

     《 草聖・張旭の書風を受け継ぐ懐素 》

       仏僧の懐素は安史の乱の頃から、伝統的で固定化した書風に飽き

      たらず、新たな表現を模索していた。

       そして何時しか、従来の踏襲的規範に拘ることのない新境地を開き、

      躍動感に溢れる独自の書風の「草書」を完成した。

       懐素の号は、緑天庵といい、生没年は、725年~785年。

       貧しい家に生れた懐素は、食い口減らしで幼くして仏門に入れられ

      たが、修業の傍ら書の稽古に励んだ。

       懐素の逸話によると、入門当初は、雑用を事とする若年の見習僧の

      身上であったという。

       ところが、その内 殊のほか書に興味を覚えるようになり、暇を

      見つけては練習を繰り返した。

       ところが、書の練習のために紙を買う事など叶う筈も無かった。

       そこで寺周辺の空き地に、せっせと芭蕉を植え続け、大きく成長した

      芭蕉の葉を以って紙と為し、書の練習に打ち込んだという。

       彼の修業時代に植えられた芭蕉は、一万本に上るとも言われる。

       後に長安に移り、玄奘三蔵の弟子となる。

        

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    テーマ : 神話伝説逸話
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    中国通史で辿る名言・故事探訪(蜀犬吠日)

     「蜀犬吠日(しょくけんはいじつ)

                        唐代

      訓読して、「蜀犬、日に吠ゆ」とも。

      見識のない愚かな人が、他人の優れた言動を無闇に疑って非難する

     こと。

      また無知な人は、当たり前の事柄にも、珍しがったり驚いたりする

     こと。

      唐の時代、古文復古運動を主唱する韓愈らに対する、旧守派からの

     非難は囂囂たるものであった。

      そのような状況下にあって、韓愈は韋中立という人に、己の信念を書状

     で披露した。

      「蜀中の山高く、霧重く、日(陽)を見る時少なし。

      日出ずるに至る毎に、則ち群犬疑いて之に吠ゆ」
    と。

      そして四六駢儷体に拘る旧守派の者たちを蜀犬に見立てて、古文復古

     運動を展開する自分たちを日(太陽)に喩えて揶揄した。

      この蜀の地(現在の四川省)は当に重畳たる山岳地帯で、何時も霧が

     重く立ち籠もり、滅多に太陽を見ることはないと謂われた。

      だがそんな所でも、たまには太陽が昇ることもあるが、昇れば昇るで

     あちこちの多くの犬が、怪しんで一斉に吠えたてるものである、と。

                      

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(韓愈の古文復古運動)

     「科挙官僚・韓愈の苦衷と古文復古運動」

                         唐代

      韓愈、字は退之(たいし)。生没年は紀元768年~824年。

      幼少にして両親を亡くし、長兄の韓会に育てられたが、その兄も韓愈が

     十四歳の時に亡くなり、天蓋孤独の身となる。

      その後は一族の荘園で暮らしたが、十九歳で上京し科挙受験に挑む。

      都の長安では、今は亡き従兄弟の縁で馬燧に頼り、その一家で面倒を

     見てもらっていた。

      貞元八年(792年)、二十五歳の時にようやく科挙の進士科に合格は

     したものの(礼部所管)、その後の任用試験(吏部所管の銓選)では

     非常な苦心惨憺を経験した。

      ※  銓選では、科挙の合格者たる進士の才能や技量の他に、

        学科試験とは全く関係の無い人物像や出自、経歴が重視され、

        適当な官職への任用が決定した。

      進士合格の後、三年連続して博学宏詞科の任用試験を受けたが失敗し、

     その年の夏から帰郷したり、東遊したという。

      その後、ようやく彼の文章家としての才が認められ、汴州を会府とする

     宣武藩鎮節度使の辟招(へきしょう)により、幕職官(ばくしきかん)

     として招かれて、官界への一歩を踏み出した。

      ※ 使職の辟招とは、科挙に拠らずに令外の官吏任用により

       現に重要な官職に任ずる者が、自分の意に適った者を自分の属官

       として招く権利を云う。

      ようやくにして手に入れた官職ではあったが、韓愈は自らの正論を憚る

     ことなく率直に行動に移すという性分から、再三左遷された。

      魏晋南北朝時代から隋唐の時代にかけては、後の元の時代とともに、

     儒学の最も振るわなかった時代であった。

      儒学の泰斗と言われる韓愈は、皇帝に楯突いてまで仏教を廃して、

     古の儒学を復興すべしと進言したりしたが、一方では柳宗元と共に

     「古文復古運動」を唱えた。

      この二人は、後の宋の時代には、「唐宋八大家」と

     称せられ、唐代における二人である。

      後漢時代から六朝時代(魏晋南北朝時代)にかけて流行し、本筋と

     されてきたのが、「四六駢儷体(しろくべんれいたい)」という文体で

     ある。

      この文体は四字か六字で区切られ、対句を用い、韻を含み、故事成句

     を多用し、美麗な修辞に拘るというように、その語法には決まり事が多く

     て内容の伴わないものであった。

      決まり事が多くて形式的と言う事は、必然的にその習熟は困難であり、

     益々 閉鎖的・独占的となり、難しい教養を誇る貴族連中向きのものと

     なっていた。

      韓愈らは、このような独占的な形式主義・技巧主義を批判し、漢代

     以前の形式や決まりごとに拘らない古文を模範として、自由な表現を

     主唱した。

                  

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(李晟を生むは社稷の為なり)

     「李晟を生むは社稷の為なり」


                        唐代

     李晟(りせい)の忠を称えた唐朝の徳宗の言葉。

     “ 天、李晟を生むは以って社稷の為にす、朕の為に非ず。 ”

     (=天が李晟将軍を生んだのは、国家の為であって朕の為ではない。)

     》 建中の乱 《    紀元784年

       唐朝は藩鎮の抑圧策を打ち出した。

       慮龍節度使・李懐仙が768年、部下に殺害された。

       773年には、昭義節度使・薛嵩(せつしゅう)が、779年には、

      天雄節度使・田承嗣が死に、次に成徳節度使・李宝臣が相次いで

      死んだ。

       朝廷では今こそ藩鎮の力を削ぐ好機として、それらの藩鎮の後継者

      を認めようとしなかった。

       かくなる上はと、危機感に煽られた各地の藩鎮実力者は、互いに

      連合して唐朝への反抗を鮮明化、781年から六年間にわたり、華北・

      華中を戦乱に巻き込み内乱は拡大した。

       河南の淮西藩鎮節度使・李希烈が反旗を翻して、襄城に侵攻した。

       李希烈は河南淄青(しせい)藩鎮の平盧軍の出で、安史の乱に際し

      ては、淮西節度使・李忠臣に従って転戦し将軍となった。

       その後、779年には横暴化した李忠臣を放逐し、自ら節度使を

      名乗り、表面的には朝廷に従順の態を装っていたが、今に至って

      その本性を露呈した。

       朝廷は、諸軍に襄城救援に向かうよう下命した。

       之に、涇原(けいげん)節度使・姚令言が応じ、征討軍を率いて都を

      通過しようとした。

       ところが朝廷側では、彼ら兵士の接待が不十分であったので、

      怒り出した将兵はたちまち反乱軍と化して、城内に乱入した。

       徳宗は、当に命 辛々の態で逃げ出す羽目になった。

       反乱軍は、慮龍節度使の兄で朝廷で大尉の官に在った朱泚

      (しゅせい)を首領に担ぎ上げた。

       その内 朱泚は、主だった者を呼び出して、己の天子即位を審議

      させたが、その席上で司農卿(農務大臣)・段秀実が朱泚の顔に唾を

      吐きかけ、笏(しゃく)でその額を激しく打ち罵った。

       「狂賊、吾 汝を斬りて万段にせざるを恨む、

      豈に汝に従いて反せんや
    」と。

       だが朱泚は秀実をその場で殺害し、国号を秦として、「大秦皇帝」を

      僭称した。

       徳宗は窮地を打開すべく吐蕃勢力を利用しようとし、両国の国境を

      賀蘭山とすることで盟約を結んで味方につけ、反撃に転じた。

       するとその直後、李晟将軍か救援に駆けつけ、金吾将軍の渾醎

      (こんかん)も城を撃って出て、朱泚を討ち破った。

       徳宗は一息ついたところで、李晟の忠を称えて曰く、

       「天、李晟を生むは以って社稷の為にす、朕の為に非ず」と。

       やっと包囲が解けたところへ、朔方節度使・李懐光も救援に駆け

      つけた。

       李懐光は救援にかこつけて、宰相の盧杞の背任の数々を言上する

      つもりであったが、盧杞の妨害に在って参内は叶わなかった。

       そこで、今度は上奏文を奉り、盧杞の背任を厳しく暴き出した。

       更に朝臣たちも、これぞとばかり一斉に盧杞の責任を追及し始めた

      ので、徳宗も盧杞をかばい切れず、地方官に転出させた。

               「十八史略 唐・徳宗」

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(郢書燕説)

      「郢書燕説(えいしょえんせつ)



                        唐代

      道理に合わないことを牽強付会して、道理らしく言う事。

      時は戦国時代の事である。

      楚の国都である郢(えい)の人の書いた書面を受け取った燕の人が、

     字句を誤解して自分に都合よく解釈したことに由来する諺。

      楚の都・郢の人で、燕の宰相に書面を送った者があった。

      彼はその書を夜の時間に書いたが、灯りが余り明るくなかったので、

     燭を持って翳(かざ)している者に向かって、

      「燭を挙げよ」、と言った。

      そのため彼は無意識の裡に、書面に「挙燭」と書いてしまった。

      即ち彼の真意で書いたものではなかったのだが、書面はそのまま

     見直さずに送られてしまった。

      書面を受け取った燕の宰相は、燕王に書面の意を説明した。

      “ 「挙燭」とは明を尊ぶことであり、明を尊ぶとは賢人を挙げて之を

       任用することでございます ”、と。

      説明を受けた燕王は以後、賢臣を多く任用し、為に国はよく治まった、

     という。

      

       郢書燕説(燭を挙げよ)の故事から、

       「燭を挙げよ」という言葉は、賢人を挙げて用いよ、との意で用い

      られるようになる。



      

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(怒る者は常の情なり)

     「怒る者は常の情なり、

       笑う者は測るべからざるなり」


                        唐代

      腹を立てて怒るのは普通の人情というものであり、そういう人は別に

     怖い存在ではない。

      しかし怒るべき時に笑うような人は、その腹の底を測ることが出来ない

     不気味なものである。

     》 宦官と武将の狭間に苦悩する皇帝 《

      安史の乱が平定された後、代宗は戦功のある武将を押さえて宦官を

     重用した。

      宦官ならば、王朝を覆すという心配が無かったからである。

      かくして前代の李輔国に代わって程元振が権限を掌握することに

     なった。

      宝応二年(763年)、安史の乱の平定のため精兵を東方に投入して

     其のまま滞陣していた時、西から吐蕃の侵攻があったが、軍権を握って

     いた程元振は皇帝に報告しなかった。

      彼は安史の乱の平定に戦功のあった武将を迫害することに専念し、

     吐蕃の対応に機を失してしまったのである。

      吐蕃の侵攻がある以前に、安史の乱の最大の功労者である郭子儀は、

     再三に亘り皇帝に吐蕃とタングートに対する備えを進言していた。

      ところが程元振は、将軍たちは軍備縮小を恐れて、有りもしないこと

     を進言しているだけだと、助言したので皇帝は取り上げなかった。

      吐蕃は無人の野を行くが如く東進し、長安近くまで侵攻して来た。

      さすがに皇帝も慌てて防衛軍を派遣することにし、雍王适

     (後の徳宗)を元帥に任じ、郭子儀を副元帥に任命して、各地に動員令

     を出した。

      ところが将兵は思うように参集して来なかった。

      その訳が分からない皇帝に対して、太常博士の柳伉がその李由を説明

     をした。

      ようやくにして、皇帝は程元振の過去の功労を考慮してその官爵を削り

     追放するのに留めた。

      しかしそれだけの処分でも兵は十分に集まったのである。

      代宗は陝州に避難していたが、郭子儀らの活躍により吐蕃軍は撃退

     された。

      その後、皇帝はまたもや近衛軍を統率していた宦官の魚朝恩に軍権

     全般の指揮を委ねた。

      次第に増長した魚朝恩は、宰相を蔑ろにしたり、また多くの政敵を

     作った。

      魚朝恩が、近衛軍を掌握した後、さらに国士監の長にまで昇った時の

     ことである。

      朝廷の会議の座中で、魚朝恩は自ら「易経」の一節を引用して講釈し、

     座中の歴々たる宰相たちを当てこすった。

      「鼎、足を折り、公の餗(そく)を覆す」と。

      即ち、国政の最高責任者たる三公らの協力が機能せず、国政が乱れて

     いると皮肉を交えて批判した。

      鼎は餗(神へ供える食べ物)を盛る祭器であり、三本の脚によって支え

     られている。

      ところが政治の場で協力関係にあるべき三公らが、自らその足を折って

     しまい政治の収拾がつかなくなったことを、魚朝恩は己の権謀術数は棚に

     上げて、足を折った鼎と散らばって餗に喩えて、現実の政治の乱れの原因

     を宰相や大臣連中に転嫁して、その彼らの無能を批判したのである。

      さすがに宰相の王瑨(おうしん)は思わず血相を変えたが、

     元載(げんさい)はニコニコしていたという。

      後になって魚朝恩 曰く、

      「怒る者は常の情なり、笑う者は測るべからざるなり」と。

      その後、魚朝恩はさらに増長し、自分が関与しなかった政務があると

     知ると、怒って言ったものである。

      「天下の事、我に由らざるもの有りや」と。

      その事を耳にした代宗の心中は、流石に穏やかではなかったと云う。

      皇帝の心中を察した元載は、頃は良しとばかりに、魚朝恩の横暴ぶりを

     書き連ね、謀反ありと上書するに及んで、遂に魚朝恩も誅殺されて

     しまった。

      代宗は次に宦官ではなく、科挙出身の元載を登用する。

      だが彼も魚朝恩と同じ轍を踏み、代宗の晩年の大暦二年(777年)、

     一家皆殺しの目に遭うことになるが、彼の場合は、人目も憚る収賄ぶりが

     指弾されたのである。

                   「十八史略 唐・代宗」

       

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(終身 路を譲るも百歩を枉げず)

     「終身 路を譲るも百歩を枉(ま)げず、

        終身 畦を譲るも一反を失わず」


                        唐代

      一生涯 人に路を譲り続けても、永い人生行路の内の百歩も曲がった

     状態にするというものでもない。

      同じく争いを避けて田畑の畦(あぜ)を譲っても、一反も失うものでは

     ない。

         ※ 「反(たん)」は地積の単位。

            日本では、古代・中世は360歩。

            太閤検地以後は、300歩(坪)=9・9174㌃。

      謙虚な精神を以って世に処すれば、失うところは少なく、逆に得る

     ことの方が多いもの。

      陰徳の教えを説いた唐の朱敬則の言葉。

                  「旧唐書 列伝第40 朱敬則伝」

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(南柯之夢)

     「南柯之夢」

                         唐代

      「槐安(かいあん)の夢」とも言う。

      儚(はかな)いことの喩え。

      南柯とは、南に差し出した枝の意。

      唐の淳于棼(うふん)が酒に酔って、とある古い槐(えんじゅ)の木

     の下で眠ったところ、何処からとも使者が現れ、大槐安国に招かれ、

     国王の姫君の婿に迎えられた。

      更に王命によって、南柯郡の太守に封じられ、いつの間にか二十年が

     経った。

      さまざまな波乱に満ちた人生を送った後、ようやく家に帰った所で

     夢から覚めた。 

      不思議に思って、庭の槐の木の根元を掘ってみると、そこには一つの

     穴があり蟻の巣があった。

      其の穴は自分が夢の中で過ごした国そのままに出来ており、また夢の中

     の出来事が、すべて地上の事実に符合していたのである。

      彼は現世の虚しさを悟り、ついには道門に入った。

      
                 陳翰の編集 「異聞集 南柯記」



       

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(馬頭娘神話)

     「馬頭娘(ばとうじょう)神話」

                        太古の神話時代

      高辛氏の時、蚕女(さんじょ)なる者の父は、隣村のために連れ

     去られ、父の馬が取り残された。

      蚕女の母は、多くの者に誓って言った。

      「父を得て還る者有らば、娘を以って之に嫁す」と。

      すると、父の馬はその言葉を聞くと、縛ってある絆(きずな)を断ち

     切って去った。

      それから数日が経って、父は馬に乗って帰って来た。

      母は、その経緯を夫に告げた。

      父は言う、

      「いずくんぞ人にして類に非ざるに、偶する有(あ)らんや」と。

      (=一体 人でありながら、人でないものに連れ添うことが出来

       ようぞ。)

      後、馬は娘を見る度に、猛り狂った。

      その為 父は怒り、射殺してその皮を庭に曝した。

      ところが娘がその傍らを過ぎた時、馬の皮はパッと立ち上がり、娘を

     包み込んで飛び去った。

      それから十日が経ち、娘は木の上で見つかった。

      娘は化して蚕となり、桑の葉を食べては糸を吐き、人間に衣類を

     着せるようになった。

      今、毎年 蚕を祈る者は、泥土で女子の像を作り、馬の皮を広げて、

     これを「馬頭娘」と謂った。

      そして、何時しか蚕の守り神となった。

                     唐・孫頠(そんぎ) 『神女伝』

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(盤瓠)

     「盤瓠(ばんこ)

                        太古神話時代

      高辛氏の時代、王宮の老婦人が久しく耳の病に罹り、医師の治療を

     受けた。

      すると、医師はその耳から大きな繭(まゆ)のような虫を取り出した。

      老婦人が去った後、匏(ひさご)の籬(まがき)で盤をかぶせて

     おくと、にわかに虫は変じて犬となった。

         ☞ 匏の籬は、竹木の低く粗い垣根。

      犬の毛には五色の文(あや)があると言うので、之を宮中で飼うことに

     し、瓢と盤とに因んで「盤瓠」と名づけた。

      その当時は、戎呉という胡(えびす)の勢力が盛んであり、しばしば

     国境を侵すので、征討を試みたが容易に討ち勝つことは出来なかった。

      そこで天下に触れを回して、

      「戎呉の将の首を取ってくる者があれば、千金を与え、万戸の邑

     (村)を与え、剰(あまつさ)え王の息女を賜るであろう」、と。

      やがて盤古は、一人の敵将の首を咥えて王宮に帰ってきた。

      それは紛うことなく敵の有力な武将であったので、王はその処遇に

     窮した。

      臣下は口をそろえて言った。

      「喩え敵の首を取って来たにしろ、盤古は畜生であるから、これに官禄

     を与え、姫君を賜る事もなりますまい」と。

      ところが姫君は王に申しあげた。

      「戎呉の首を取った者には、私を与えるという事は既に天下に公約

     されたこと。

      盤古がその首を取ってきて、国のために害を除いたのは天の命ずる

     ところであり、犬の知恵ばかりではございません。

      王者は言を重んじ、伯者は信を重んずると申します。

      女一人の命を惜しんで、天下に対する公約を破るのは、国家の禍と

     なりましょう」と説得した。

      王も結局は懼れをなし、その言葉に従うことになった。

      姫は犬の導くまま、南山に登り、人跡未踏の岩屋に住み着いた。

      王は哀れんで、時々その様子を視察させたが、その都度 俄かに

     暴風雨が起こり、岩谷に無事たどり着ける者はいなかった。

      それから三年の間に、姫君は男女それぞれ六人の子をなした。

      彼らは木の皮を以って衣服を織り、草の実を以って五色に染めたが、

     その衣服の裁ち方には、尻尾の形が残っていた。

      幾年か後には盤古が死んだので、姫君は王城に帰り、子供たちのこと

     を王に話した。

      すると王は南山へ使いを遣り、子供たちを引き取らせたが、その頃

     には暴風雨の祟りはもはや無かった。

      子供たちは服装は言うに及ばず、言葉も通ぜず、山に遊ぶことを好み、

     都を嫌ったので、王は彼らに良い山や広い沢地を与えて、自由に住まわ

     せることにした。

      人は彼らを呼んで、「蛮夷」と謂った。

                       東晋 干宝 「捜神記・盤瓠」

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    テーマ : 神話伝説逸話
    ジャンル : 学問・文化・芸術

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(国破れて山河在り)

     「国破れて山河在り」

                        唐代

      人及び人の作ったものは儚く、それに反して、自然は永久に変わらない

     ということの喩え。

      唐の詩人・杜甫の「望春」が典拠。

          国破れて山河在り

          城(しろ)春にして草木深し。

          (=戦乱で、国都の長安は荒れ果てて見るも無残であるが、

           自然の山河は何も変わらない。

            廃墟と化した都城も、何時しか春になり草木が芽を出して

           きた。)

          時に感じては花にも涙を濺(そそ)ぎ

          別れを恨んでは鳥にも心を驚かす。

          (=乱れた御時世を傷み悲しむ心を以って見れば、春に咲く

           花を見ても涙がこぼれ落ちて、

            家族との離別を恨めしく思うと、鳥の鳴き声を聞いても

           胸騒ぎがしてならない。)

          烽火三月(さんげつ)に連なり

          家書万金(ばんきん)に抵(あた)る。

          (=安史の乱の戦火は三カ月も絶える事は無く、

            離れ離れになった家族の所在さえ分からない今、

           家郷からの便りがあれば、それは何よりも貴いもの

           である。)

          白頭掻けば更に短く

          すべて簪(しん)に勝(た)えざらんと欲す。

          (=戦乱の内に頭はすっかり白くなり、掻けば掻くほど抜け

           落ちて、髪も薄くなってしまった。

            その為、冠を留めるピンが、まったく髪に挿せなくなり

           そうである。)



          

      

    テーマ : 詩経・漢詩・詩賦等
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    中国通史で辿る名言・故事探訪(陽関曲)

     「陽関曲」

                        唐代

      唐の王維の「元二(げんじ)の安西(あんせい)に使いするを送る」

     という七言絶句詩は、「陽関曲」と言って、送別の時に

     よく歌われたという。

      またの名を「謂城曲」ともいう。

         謂城の朝雨 軽塵を浥(うるお)す

         (=謂城に降った朝の雨は、大地を舞い上がらんとする風塵を

          鎮めてくれた。)

         客舎青青 柳色新たなり。

         (=旅人の宿は緑の大地にあって、柳の木々は青々と茂って

          いた。)

         君に勧む 更に尽くせ一杯の酒

         (=最後の別れに君に勧めよう、飲めやもう一杯の酒を。)

         西の方 陽関を出ずれば 故人無からん。

         (=陽関を出て西へ進めば、もはや古くからの友人に会う事も

          ないだろう。)

       ※ 陽関は、玉門関と共に西域への関門であった。

         玉門関の南に在ったので、「陽関」と云われる。

         謂城は、咸陽の東北に在って、人を見送る時にはここで送別の宴

        を持ったという。

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(輞川の図)

     「輞川(もうせん)の図」

                        唐代

      唐の政治家にして画家でもある王維の描いた絵画。

      粛宗に仕えて尚書右丞(正四品下)となった王維(字は摩詰)は、

     詩・画を良くした。

      官名を取って王右丞とも言われる。その生没年は明らかではないが、

     紀元699年~761年との説もある。

      彼の「輞川の図」たるや、

      「山川 鬱盤(うつばん。塞がったり曲がりくねる)、雲水 飛動

     (飛ぶように動くこと)、

      意(画く心の) 塵外(浮世の外)に出でて、

     怪 筆端(絵筆の先)に生ず」、というものであったと。

      秦太虚という者が言う、

      「余は病に伏す」と。

      高符仲、輞川の図を携えて、余に示して曰く、

      「之を閲すれば、以って病を癒すべし」と。

      余 甚だ喜び、恍然として(ぼんやりと我を忘れて)、摩詰と輞川に

     いるが如し。

      数日にして病は癒ゆ。

                       唐の朱景玄の撰 「唐朝名画録」

      ※ 輞川は、陝西の藍田の西南にある谷川の名。

         王維はこの地に別荘を設けて、友の裴迪(はいてき)と詩を

        唱和したという。

         後の世になると、王維は、南宋時代から流行する「南画」の祖

        称されるようになる。



     

    テーマ : 中国古典・名言
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    中国通史で辿る名言・故事探訪(明眸皓歯)

     「明眸皓歯(めいぼうこうし)

                        唐代

      美人の喩え。

      涼しげな瞳と真っ白な歯をした女性の意。

      唐の詩人・杜甫が、七言律詩「哀江頭」で楊貴妃の美しさを

     形容した言葉。

      
      ♪  杜甫 「江頭を哀しむ」

         唐の至徳二年(757年)、杜甫が治安の乱れた時期に、

        曲江の辺を忍び歩きして、玄宗皇帝の盛時を忍びつつ、馬嵬駅

        における楊貴妃の悲劇を追想したもの。


          少陵の野老 声を呑んで哭し、

          春日(しゅんじつ) 潜行する曲江の曲(くま)。

          (=春の日、少陵の田父の私は、悲しみの声を押し殺し

           ては、賊軍の目を盗んで曲江の方隅に出た。)

             ☞ 曲江は、長安の南方にある園游地。
     

          江頭の宮殿 千門を鎖ざし、

          細柳、新穂 誰が為に緑なる。 

          (=江頭の宮殿の宮門はすべて閉ざされており、柳の糸

           や蒲の新芽は、誰に見せようとして、あのように緑を

           湛えているのだろうか。)

              
          憶う昔 霓旌(げいせい)の南苑に下り、

          苑中の万物 顔色を生ぜしを。 

          (=思えばその昔、天子の儀仗用のみ旗を先頭に天子が

           南苑に行幸されると、苑中の物すべてが一際 光彩を

           放ったものだ。)

          昭陽殿裏 第一の人、

          輦(さん)を同じくし君に随って君側に侍す。

          (=宮中の第一人者は、天子と車を同じくし、常にその側

           に仕えていた。)

          輦前の才人 弓箭(きゅうせん)を帯び、

          白馬 嚼齧(しゃくけつ)す、黄金の勒(くつわ。=轡)。

          (=天子のお車を先導する女官たちは弓矢を帯びて、

           白馬に黄金の轡を噛ませていた。)

             
          明眸皓歯 今 何(いずく)にかある、

          血に汚れたる遊魂 帰り得ず。

          (=あの涼しげな瞳と真っ白な歯をしたお方は、今は

           何処に居られるのだろうか。

            血に汚されたさ迷える魂は、帰る所とてあるまいに。)

          清渭は東流し 剣閣は深し、

          去住彼此(ひし) 消息無し。

          (=渭水の清らかな水は東に流れ、剣閣は深くて険しい。

            去る者と止まる者とは互いに遠く隔てられ、その消息は

           伝えようもない。)

             ☞ 剣閣とは、長安から蜀の成都に至る途中にある

              大剣山を主峰とする七十二峰からなる重畳たる山岳

              の名称。 

               名の謂れは、連綿たる断崖絶壁の岩肌を切り込み、

              縫うようにして閣道が掛けられた事による。

               剣閣 またの名を「蜀の桟道」とも言う。 

          人生 情有り 涙 臆(むね。胸)を沾(うるお)す、

          江水江花 豈に終(つい)に極まらんや。

          (=人としての感情がある限り、悲しみの涙は尽きないが、

            この曲がりくねった長江の水と花が織りなす春の光景は、

           永遠に変わる事は無いだろう。)

          黄昏(こうこん) 胡騎塵 城に満つ、

          城南に往かんと欲して、城北を望む。

          (=いつしか黄昏時となって、異民族の胡の騎兵が巻き

           起こす砂塵が城に充満した。

            かくして、私は城南に帰ろうとしたが、遂に方角を

           見失ってしまい、あ然として城北を眺め続けた。)

     

        

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(死して厲鬼となり賊を殺すべし)

     「死して厲鬼(れいき)となり賊を殺すべし」

                        唐代

      賊軍に包囲され、籠城して決死の戦いをする唐の守将・張巡の心意気。

     》 睢陽(すいよう)の戦い 《

      唐の安史の乱で、最も壮烈な攻防戦を展開したのは睢陽城での攻防

     である。

      唐の経済的基盤は、江南地方にあった。

      その要衝である雍糺を守備していたのは張巡である。 

      張巡は情勢の変化で寧陵に移り、しばしば安禄山の率いる賊軍を

     破ったが、その後 更に睢陽城に立って籠もっていた許遠と共に守りを

     固めた。

      そして頑強に抵抗して奮戦すれども、王朝軍の救援は無く、日ごとに

     兵糧も底を衝くようになった。

      その内 戦線離脱を訴える者も出始めたが、張巡と許遠は、互いに

     腹を括って話し合った。

      彼らの引き出した結論は、

      「この睢陽城こそは、長江、淮水(わいすい)一帯を防衛する要

     である。

      今この城を放棄すれば、もはや敵の進撃を阻止する戦略は成り立た

     ない。

      我々の取るべき道は、唯々援軍の到来まで城を死守するしかない」と。

      結論が出た後、張巡は将士を集めて、言った。

      「我は国恩を受けた者。守る者は、ただ正しく死ぬことだけが務めだ。

     しかし諸君は、身命を捨てて嚝野に散っても、それに報いる何の褒賞

     も与えられない。

      それを思うと、この胸が痛む」と。

      将士は皆 感激して、奮戦を誓った。

      張巡は、牛を殺して将士に大いに振る舞い、遂に出撃した。

      将士の覚悟が決まったので、張巡は敵の意表を衝くような様々な戦略を

     駆使して、包囲する敵の大軍を翻弄して、大いに手こずらせた。

      その後 将兵は、兵糧が尽きたので、軍馬を、それも無くなると雀や鼠

     を食べて飢えを凌いだ。

      かくして四万を数えた籠城兵は四百にまで激減したが、投降兵や

     脱走兵は一人も出なかった。

      兵糧に窮した張巡は、終にその愛妾を殺して兵士に食わせることまで

     した。

      やがて賊軍は城壁を登って、一斉攻撃をかけてきた。

      だが籠城の将兵は、極度の衰弱に喘いでいたので、戦闘能力は失って

     いた。

      張巡は都に向かって遥拝し、

      「臣 力尽きたり。生きては既に以って陛下に報ずる無し。

      死して当に厲(れい。=幽)鬼となり、以って賊を殺すべし」

     と言って、精根尽き果ててしまった。

      かくしておよそ二年間に及ぶ壮絶な死闘の後、張巡、許遠は捕えられ、

     他の三十六人ともども皆殺しにされた。

                         「十八史略 唐」

       

       

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(氷山)

     「氷山」

                         唐代

      権勢の尽きやすいことの喩え。

      ※ 氷山とは、南北の極圏周辺の海域に見られる高さが

        5メートル以上ある小山のような氷塊であり、氷河や

        棚氷から分離したもの。

       唐の楊国忠の権勢が盛んであった頃には、天下四方の士は、こぞって

      彼の門を詣でたものである。

       その頃、陝州の人で張彖(ちょうたん)という進士がいたが、

      自らよく努力して、ようやく名声を博するようになっていた。

       その彼の士気たるや高大で、未だかつて人に身を屈するという事は

      無かった。

       そんな彼が或る人に勧めて、

       「謁を国忠に修し、顕栄を図るべし」と助言した。

       (=楊国忠に拝謁を賜り、栄達を図れ。)

       張彖曰く、

       「爾(なんじ)が輩(やから) 以って楊公の勢、倚靠(いこう)す

      べきこと太山の如しと謂わん。

       吾が見る所を以ってせば、即ち氷山なり。

       或いは皎日(きょうじつ) 大いに明らかなるの際には、則ち

      この山、まさに人を誤るべきのみ」と。

       (=あなたち、楊公の権勢とは、その頼りになること太山の如しと

        おっしゃる。

          だが吾の見る所では、まるで氷山そのものです。

          曇りの無い明るい日と為れば、即ちその山は、人を誤らせる

         元凶となるだけです。)

        果たして、その言の如くなりき。

          ☞ 倚靠とは、人に頼ること。

            太山は、岱山とも泰山とも書き、また南山ともいう。

                     五代の王仁裕 「開元天宝遺事」

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(常山の舌 )

     「常山(じょうざん)の舌」

                        唐代

      節を守って、最後まで敵を罵ることの喩え。

      唐の玄宗皇帝の末期、安史の乱の初期に常山郡の太守である

     顔杲卿(がんこうけい)は賊軍と勇敢に戦ったが敢え無く捕らわれ

     の身となった。

      その後 洛陽に送られた顔杲卿に対して、安禄山は彼を威圧して

     罵った。

      「この反逆者め」、と。

      だが顔杲卿は怯(ひる)むことなく、安禄山を見据えて言い放った。

      「我 国の為に賊を討つ。汝を斬らざるを恨む。

      何ぞ反すると謂うや。

      臊羯狗(そうかつく)、何ぞ速やかに我を殺さざる」と。

        ☞ 臊羯狗とは、生臭い胡族の犬という意の、罵り言葉。

      禄山 大いに怒り、縛して之を冎(か)す。

        ☞ 冎すとは、ユックリと肉を刀でそぎ落として殺すこと。

      だが顔杲卿は、死に及ぶまで罵りて口を絶たず。

      (=顔杲卿は命絶えるまで、安禄山の罪を罵り続けた。)

      だが後世、彼のその忠節心と敵愾心を嘉(よみ)して

     「常山の舌」
    と、言われるようになる。



      

      
       

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(御史の雨)

     「御史の雨」

                        唐代

      民の喜びの声のこと。

      顔真卿(がんしんけい)は、玄宗皇帝から徳宗までの四代の皇帝に

     仕えたが、唐の時代を代表する書家となった。

      朝廷に在っては監察御史として在任中、五原の冤罪事件を的確に裁断し

     た時、不思議にもそれまで久しく続いていた日照りが止んだ。

      そして、なんと忽ち雨が降って来たので郡民は、

      “ 御史の雨が降った ”と言って大いに喜んだものである。

      後には、民の喜びの声の事を、「御史の雨」と云うようになる。

                         「唐書 顔真卿伝」

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(望郷の鬼)

     「望郷の鬼(き)

                        唐代

      異国の地で果てた霊魂が、故郷を望むこと。

      唐の詩人・白居易(楽天)の「新豊の臂を折りし翁」が出典。

      その前置きで曰く、

      「辺功(辺境における軍功)の戒むるなり」と。


         新豊(しんぽう)の老翁八十八

         頭鬢(とうひん) 眉鬚(びしゅ) 皆雪に似たり。

           ☞ 頭鬢は頭と左右の側頭の髪。

              眉鬚は眉毛とあごひげ。

         玄孫に扶けられて店(宿のこと)前に向かって行く

         左臂は肩(玄孫の)に憑(つ)き、右臂は折れたり。

         翁に問う、

         「腕の折れしより来(このかた) 幾年ぞ。」

         兼ねて問う、

         「折を到せしは何の因縁ぞ」と。

       翁云う、

       「貫(本籍の地)は新豊県に属し、生れて聖代に逢って征戦無し。

       梨園の歌管の声を聞くに慣れ、旗槍と弓箭とを知らず。

       何も無く、天宝(唐王朝の元号) 多いに兵を徴し、

      戸に三丁(三人の壮士)有れば、一丁を点す(徴兵する)。

       点し得て駆り将(も)て何処にか去(ゆ)く、

      五月 万里 雲南に行く。

         聞道(きくならく)、

           ※  聞道とは、聞くところによるとの意。  

        「雲南に濾水(ろすい)有りて、椒花(山椒)落つる時

        瘴煙起こり、大軍渡渉(渡河)するに、水は湯の如く、

        未だ過ぎざるに 十人に二 三は死す」と。

          ☞ 瘴煙とは、瘴気のことで、毒気を含んだ靄(もや)。

             中国南方では、河川や山岳地帯に多かったという。

        村南 村北 哭声哀し、

        児は爺嬢(父母)に別れ、夫は妻に別る。

        皆云う、

        「前後 蛮を征する者、千万行きて一の回(かえ)る者無し」と。 

      「是の時 翁は二十四、兵部の牒(徴兵名簿)中に名字有り。 

      夜更けて 敢えて人に知らしめず、

      偸(秘)かに大石を将(も)て鎚(う)って臂を折る。

      弓を張り旗を簸(ふ)ること俱に堪えず、

      茲(こ)れより始めて雲南に往くを免がる。

        「骨砕け筋傷(やぶ)るるは苦しからざるに非ず、

        且(しばら)く図る 揀(えら)び退けられて郷土に帰るを。

        この臂を折しより来(このかた) 六十年

        一肢は廃すと雖も 一身は全し。

        今に至も風雨陰寒の夜、

        直ちに天明に至るまで痛んで眠れず。」

      「痛んで眠らざれども、終に悔いず、

      且(しばら)く喜ぶ 老身の今 独り在るを。

      然らずんば 当時 濾水の頭(ほとり)、

      身は死して魂は孤にして 骨も納められず、

      応(まさ)に雲南の望郷の鬼と作(な)って、

      万人塚(ばんにんちょう)の上に哭すること呦呦(ゆうゆう)

     たるべし。」  

        ☞ 呦呦は哀しげな様。

      老人の言、君 聴取せよ。

      君聞かずや 開元の宰相宋開府

        ☞ 宋は、名宰相として知られた宋璟、

          開府は唐代の官名。

      辺功を賞せずして黷武(とくぶ)を防ぎしを

      又聞かずや 天宝の宰相楊国忠、

      恩幸を求めんと欲して辺功を立てんとせしを。

      辺功未だ立たざるに人の怨み生ず。
       

    テーマ : 詩経・漢詩・詩賦等
    ジャンル : 学問・文化・芸術

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(泰山北斗)

     「泰山北斗」

                        唐代

      特に学問の分野に於いて、優れた業績を残した最高の権威者を云う。

      諸々の学者は畏敬の念を以って、そのような最高の権威者を

     「泰山北斗」とか、略して「泰斗」と言う。

      ※ 泰山は中国屈指の名峰であり、測量技術の無い時代には、

        最も高い山と考えられていた。

         北斗は北極星のこと。

      泰山北斗と称される所以は、

      「愈(韓愈)没してより、其の言大いに行われ、

       学者 之を仰ぐこと泰山北斗の如し」
    と、あるに由る。

                        欧陽脩 「新唐書」

      唐代の韓愈は、柳宗元と共に「古文復古運動」を唱え、儒学を

     重んじて廃仏論を唱えた硬派の学者で、且つ高級官僚でもあった。

      韓愈は好んで難解な表現を使ったが、古今を通じて屈指の名文家

     と言われた。

      韓愈は、唐と宋の時代における八人の名文家 即ち「唐宋八大家」

     の一人でもある。

      

    テーマ : 中国古典・名言
    ジャンル : 学問・文化・芸術

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(光陰は百代の過客なり)

     「光陰は百代の過客(かかく)なり」

                        唐代

      月日というものは、永遠の旅人である。

        ※ 百代は、「ひゃくだい」とも「はくたい」ともいう。


        古文真宝 「李白 春夜桃李の園に宴する之序」

         夫れ天地は万物の逆旅(げきりょ)にして、

         光陰は百代(はくたい)の過客なり。

           ☞ 逆旅は、旅人を送り迎えする宿屋。

             光陰は、月日・年月。

              百代の過客とは、次々と過ぎ去って行き

             永遠に絶えることのない旅人。

         而(しか)して浮生(ふせい)は夢の如し、

         歓びを為すこと幾何(いくばく)ぞ。

           ☞ 浮生は、定めのない人生。

         古人 燭を秉(と)りて夜遊ぶ

         良(まこと)に以有(ゆえ)あるなり。

           ☞ 燭は,灯火。

         況や陽春 我を招くに煙景を以ってし

         大塊(たいかい) 我に仮すに文章を以ってするをや。

           ☞ 煙景は、霞たなびく景色。

              大塊は大地、天地、創造主の意。

              仮すとは、授けるの意。

              文章は、ここでは文才を云う。

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(馬耳東風)

     「馬耳東風」

                        唐代

      人の言葉(意見や批判)を少しも心に留めず、聞き流すこと。

      馬の耳には、心地よい春風が吹いても何も感じないの意。

      唐の詩人・李白の次の詩が出典。


        李白 「答王十二寒夜独酌有懐」

           詩を吟じ賦を作る北窓の裏

           萬言(ばんげん)直(あたい)せず一杯の水

              ☞ 水とは酒のこと。

           世人此れを聞きて皆 頭(かしら)を掉(ふ)る

           東風の馬耳を射るが如き有り

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(端倪すべからず)

     「端倪(たんげい)すべからず」

                      唐代

      物事の始めから終りまで、測り知ることが出来ない。

      端は、物事の糸口。倪は、田の境界の意で、田圃の終わるところ。

      「唐宋八大家」の一人に数えられる唐の韓愈(かんゆ)は、

      その著『高閑上人を送るの序』において、草聖と崇められた

     唐の書家・張旭を次のように評した。

      「張旭之書は、変動して猶 鬼神の如く、端倪すべからず」と。

      (=張旭の草書の字は、自由奔放にして動くが如く、ちょうど霊魂や

       神の存在のようであり、初めから終わりまで、その変化を測り知る

       ことが出来ない。)

       この「端倪」という成語については、戦国時代の荘子の

        「荘子 内編・大宗師」が典拠となる。

       唐の杜甫の「飲中八仙歌」

         その第七句で、「臨池」の故事で有名な後漢の張芝と与に、

        書においては、二人草聖と称された張旭に酒豪ぶりを詠う。


             張旭は三杯 草聖伝わる

             帽を脱ぎ頂(ちょう)を露(あら)わす王公の

             毫(ふで)を揮って紙に落とせば雲煙の如し

           (=張旭は何時も酒を三杯飲んでから、筆を以って書き、

            その書は「草書の聖」と世人に称せられた。

             彼の遨遊且つ放逸さは、喩え王公の御前であろうと、

            冠を脱ぎ捨て、頭をさらけ出すという塩梅であった。

             だが一度 筆を執って書くと、

            たちまち雲や霞が紙上に湧き起る観を呈した)、と。



             

                  

        

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(口蜜腹剣)

     「口蜜腹剣(こうみつふくけん)

                         唐代

      口は上手いが、心の中は邪悪なことの喩え。

      また外見は優しく親切そうに見えるが、内心は陰険な人の事を言う。

      旧唐書の李林甫伝に言う、

      李林甫は、その言うこと蜜の如く甘く且つ親切だが、その腹の中では

     剣を研ぎ澄ましているような、陰湿で残忍なところがある人である、と。



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    Author:tyouseimaru
    出身地は四国八十八か所参りの発心の阿波、大阪を終の棲家とする。
    歴史好きで、城郭・神社仏閣・歴史遺跡巡りが趣味となる。
    歴史小説や時代小説を好み、往年の著名な時代小説の類は概ね完読と、自負している。

    自薦
    自著「中国通史で辿る名言・故事探訪」の 上・中・下の3巻を、 近い内に「電子書籍」での出版を予定しています。 今年一年間は、さらに工夫を加えるなどして、補記訂正などの校正を第一義としています。       
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