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    中国通史で辿る名言・故事探訪(破天荒)

     「破天荒(はてんこう)

                         唐代

      「破天荒解」とも言う。

      今まで誰も成し遂げられなかったことを実現することを云う。

      或いは、型破りな事を云う。 

      天荒とは、天地未開の混沌としたあり様の事で、不毛・未開の意で

     あり、破天荒とは、それを打ち破り開くことを云う。

      その意を受けて、人材の出ない土地(地域)から、始めて有為の

     人材を輩出することを云った。

      唐の末期、荊州は昔から子弟の教育が盛んであった。

      また教養のある文化人も多かったという。

      ところが、科挙の一次予備試験である「解試」の合格者、即ち「解元」

     は、しばしば送り出したが、朝廷の礼部所管の科挙の二次試験の

     最終合格者である「挙人」を生み出すことが出来なかった。

      その為 人々は、「天荒」と言って、大いに嘆いていたものである。

      ところが、ある歳 劉蛻舎人(りゅうぜいしゃじん)が、荊州の解元

     から、遂に挙人に選ばれるという快挙を成し遂げたのである。

      事ここに至り、天荒を破ったとして、破天荒なる言葉が生まれた。

                      宋代の孫光憲「北夢瑣言」  


    テーマ : 中国古典・名言
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    中国通史で辿る名言・故事探訪(階前万里)

     「階前万里(かいぜんばんり)

                        唐代

      天子が地方の政治の実情をよく心得ていて、臣下がそれを誤魔化せ

     ないことの喩え。

      例え遠く離れた場所の事であっても、宮殿の階段の前の出来事の如く

     知ることが出来るという、天子の恫喝でもある。

     》 宣宗の即位 《   紀元846年

       武宗⑮の崩御の後、憲宗⑪の第二子の忱(しん)が即位した。

       穆宗⑫の弟でもあったが、これが第16代宣宗である。

       武宗の病が重くなると、その子はまだ幼すぎるという理由で、

      宦官たちは後継者選びの結果、武宗の叔父に当たる忱(しん)を

      皇太叔に立て、武宗の崩御後に即位させた。

       宣宗は頭脳明晰にして博覧強記であったと云われるが、即位するまで

      は馬鹿者を装っていた。

       生前の武宗などは、彼を呼ぶのに「光王」の称号で呼ぶ事は無く、

      叔父に当たるので、「光叔」と呼び捨てにしたものである。

       宣宗自身は「小太宗」と言われるほどの名君であったが、もはやこ

      の時期に至っては王朝を立て直すという状況ではなかった。

       宰相府と北司(宦官府)の対立は、溝を深めるばかりで収拾は

      付かなかった。

       宣宗は令狐綯(れいことう)を宰相に任じて李徳裕を罷免し、

      牛僧孺や李宗閔等は罪一等を減じて北に遷した。

       李徳裕に至っては三度 役を落とされ、崖州の司戸の時に没した。

       結果として、牛李の党争は牛党の勝利に終わった事にはなる。

      《 宣宗の虎の巻 》

        宣宗の名君たる所以を裏付けるものとして、「処分語」なる物が

       あったと云う。

        即位以来、翰林学士の韋澳に命じて、全国の州県の地理、風俗を

       はじめ、その治安状態に至るまで秘密裏に調査させ、その結果を

       編纂して書物にしていた。

        その書物を称して、「処分語」と名付けていた。

        建州の刺史に任ぜられた或る者が、赴任の挨拶に参内した時、

       宣宗は、「建州は京師(国都の長安)を去ること幾許ぞ」と訊ねた。

        刺史は、「八千里はございましょう」、と。

        宣宗 曰く、

        「卿、彼(建州)に至るも善悪(政治の善し悪し)は朕 皆知る。

        その遠きを謂う勿れ、この階前すなわち万里なり」
    と。

        (=任地が遠いと謂うてはならぬぞ。今 卿がいるこの階前は、

         万里の隔たりと同じだと思え。)

                         「資治通鑑 唐」


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    中国通史で辿る名言・故事探訪(三武一宗の法難 三)

     「三武一宗(さんぶいっそう)の法難(その三)

                         唐代

      唐の会昌五年(845年)、十五代皇帝武宗は廃仏を断行した。

      これを「会昌の廃(排)仏」と云う。

      ※ 古代中国に於いては、四度仏教の弾圧が行われた。

         (1) 北魏・太帝の太平神君年間の廃仏

         (2) 北周・帝の建徳年間の廃仏

         (3) 唐・宗の会昌年間の廃仏

         (4) 五代の後の周・世の顕徳年間の廃仏

      この時代には、仏教寺院は非常に隆盛となり、広大な荘園を抱えて、

     その蓄積した財貨は巨額に上った。

      この会昌の廃仏が断行される三年前、罪を犯したり修業に不熱心な

     僧尼など三千五百余人が還俗させられ、その財産を没収されるという

     仏教界の堕落があった。

       ☞ 還俗とは、僧籍を離脱して一般人(俗人)となること。

      また社会の裏面では、国の税負担を忌避すべく私度僧(しどそう)

     となる者が急増した。

      正規の手続きを踏んで税を逃れようと、「度牒」を買う尼僧が急増した

     のである。

         ☞ 度牒とは、新たに僧や尼となった人に朝廷から与えられる

           許可証である。

      その一方では、宮廷は楽人や踊り子、宮女、更に官僚の人数も膨大と

     なり、財政が極度に逼迫していたので、ここに於いて仏教の大弾圧が断行

     されることとなった。

      取り壊された寺院は四千六百を超え、二十六万人以上の僧尼が還俗させ

     られ、寺院に隷属していた奴婢十五万を解放し、寺院の広大な荘園は

     没収、仏像や仏具は銅銭鋳造に転用された。

      その結果、長安と洛陽には四寺院、各州には一寺院を残すだけと

     なった。

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(一生の幽闇 又た如何)

     「一生の幽闇 又た如何」

                        唐代

      己の生涯を暗闇の中で送ると云うことは、果たしてそれが結構なもの

     と言えるや否や。

     》 牛李の党争から逃れた白居易 《

      長年に渡る牛李の党争は、中級以上の官吏にとってはその何れに

     属するかにより、己の役人としての死生が制せられた。

      だが現実の問題として、党争の外に出る事もまた至難のようであった。

      詩人として有名な白居易(白楽天)は、杭州や蘇州の刺史を歴任し、

     太和二年(828年)には刑部侍郎(法務次官)として中央に復帰し、

     やがて河南尹となり洛陽に居を構えることになった。

      だがそれ以後は、もはや人事異動があっても意に介せず、病と称して

     洛陽から動かなくなった。

      国都の長安における牛李の党争から、身を退いた。

     ♪  白居易 「洞中の蝙蝠」

         千年の鼠は白き蝙蝠と化す

         (=長生きした鼠が、霊験により変じて白い蝙蝠となった。)

         黒洞に深く蔵(かく。=隠)れて網羅を避く

         (=洞窟の奥深くて暗い所に身を隠しているので、

          人間の仕掛ける網に掛かると云うこともない。)

         害から遠ざかり身を全うし誠に計を得たるも

         (=害から遠ざかり我が身を全う出来て、

          思惑通りの事ではあったが、)

         一生の幽闇 又た如何

         (=己の生涯を暗闇の中で送ったという事であり、

          それが果たして結構なものと言えるや否や。)



         
          

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(出将入相)

     「出将入相(しゅっしょうにゅうしょう)

                          唐代

      戦時においても平時においても、重責を担って国家の為に尽くすことの

     出来る人物。

      出でては将となり、入りては相となるの意。

      平時においては、朝廷に在って宰相として国家のために尽力し、戦乱

     の生じた時には、戦場に於いて総司令官としての働きの出来る文武両道

     の才を兼備した人物をいう。

      唐の宰相であった李徳裕(紀元784年~849年)の人物評価で

     ある。

      李徳裕は字は文饒といい、唐朝の屈指の名門貴族の出自であり、父は

     宰相を務めた李吉甫という。

      幼にして学問研鑽に励んでいたが、有力な名門貴族の故に科挙受験を

     潔しとせず、恩陰により官僚の道を進む。

      ※ 恩陰とは、唐朝にあって、父の官位に応じて任官できる制度を

       いう。何かに付けて優遇されたもの。

      李徳裕は、穆宗時代の紀元820年 翰林学士となり、後には

     父の李吉甫を誹謗する牛僧孺や李宗閔らと政争を繰り返し、時には

     左遷されたり、また逆に武宗の時 宰相に任ぜられて巻き返すという

     「牛李の党争」の当事者となる。

       

                        「旧唐書 李徳裕」

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(正人は邪人を指して邪となし、)

     「正人は、邪人を指して邪となし、

        邪人も正人を指して邪と為す」


                         唐代

     》 牛李の党争の終焉 《

       武宗が即位してから、牛僧孺は罷免され李宗閔もその職を去った。  

       李徳裕は宰相に復帰し、早速 天子に忠言を呈した。

       「正人は、邪人を指して邪となし、邪人も正人を指して邪と為す。

       人主の此れを弁ずるに在り」と。

       即ち、天子たる者は、側に仕える者の正邪をはっきりと見極める

      ことが大切なのです、とうことである。

                          「十八史略 唐」   

       

      

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(粒粒皆辛苦)

     「粒粒(りゅうりゅう) 皆 辛苦」

                        唐代

      我々の食べるご飯の一粒一粒は、尽く農夫の苦労して作ったもの

     なのである。

     》 中唐の三俊 《

       李徳裕、元稹(げんしん)と共に李紳は、「中唐の三俊」と

      称せられた。

       李紳は翰林学士に抜擢されたが、「短李」と称せられて、

      詩に於いて名声が高かった。

       ※ 元稹は白居易(白楽天)と併称して、「元白」とも称せられた。

       ♪  唐代の李紳 「憫農(びんのう)」

          禾(か)を鋤いて日午(ひご)に当たる

          (=農民は夏の昼日向に太陽の暑い熱を其の身に受けて、

           稲を鋤き育てているのだ。)

              ☞ 禾は稲とか粟。

          汗は滴る禾下(かか)の土

          (=流れ出る汗は、鋤いている稲の下の土に滴り落ちる。)

          誰か知らん盤中の飧(そん)

          (=この世間で、食器に盛られた夕食のご飯を知らない者が、

           おるだろうか。)

              ☞ 盤は食器。飧は晩飯。

          粒粒 皆辛苦

          (=ご飯の一粒一粒は、尽く農夫が苦労して作った結晶だと

           云うことを。)



      

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(河北の賊を去るは易く、)

     「河北の賊を去るは易く、

        朝廷の朋党を去るは難し」


                        唐代

      河北の賊とは、朝廷の実権の及ばない半ば独立勢力の河北三鎮の

     節度使のことであり、朝廷の朋党とは、牛李の朋党のことである。

     》 その後の牛李の党争 《

       李徳裕はその後、文宗の時代に元老の裴度(はいたく」)の推薦を

      受けて、宰相職に今 一歩の所にいたが、宦官と結託した李宗閔に先を

      越され、その身は西川(四川)の節度使に追いやられ、李徳裕の

      一統は、李宗閔が抱き込んだ牛僧孺らにより憂き目を見るように

      なった。

       李徳裕自身は西川節度使として、国威を発揚するという抜群の功績を

      挙げたが、朝廷では牛僧孺が対外紛争の種になるとして、折角の国家的

      利益を放棄してしまった。

       その後、太和七年(紀元833年)には、今度は牛僧孺が罷免され、

      その後任宰相に李徳裕が任ぜられた。

       ところが、次には牛僧孺が返り咲き、李徳裕は去った。

       文宗はこのような朝廷の有様に、

       「河北の賊を去るは易く、朝廷の朋党を去るは難し」と、

       その都度 嘆いていたが、解決の糸口は見つけられなかった。

       また文宗は、先に「甘露の変」で宦官の粛清に失敗し、宦官連中

      からは危険視されるようになっていた。

       その一挙手一投足まで監視の目が光り、現実的には最早 天子として

      の権威や尊厳は無く、曽ては当に帝室の雑用をする奴隷であった家奴の

      機嫌を窺わねばならないという有様となった。

       病で宮殿の奥深くに籠るようになった文宗は、ある日 「思政殿」に

      出て、当直学士の周墀(しゅうち)を召し出して尋ねた。

       「朕は歴史上のどの天子に似ているか」と。

       周墀は当然のように、殊更 美化して、

       「堯舜の如し」と対えた。

       だが文宗は、

       「朕は周の赧王(たんおう)や後漢の献帝の如し」と、うな垂れた。

       周墀は驚き慌てて、

       「彼らは亡国の主であって、陛下の御聖徳に比べることは出来ま

      せん」と宥めた。

       だが文宗は、更にその襟を濡らして言った。

       「赧王、献帝は強き諸侯に制を受け、今 朕は家奴に制を受く。 

       此れを以って之を言う、朕は殆ど如かざるなり」と。

         ☞ 諸侯と家奴の制に比して言うならば、

          朕は赧王や献帝には遙かに及ばないのだ。  

       この事があってから後、文宗は最早 朝廷に出なくなり、

      翌年(839年)正月、三十三歳で崩じた。



       

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(南華之悔)

     「南華之悔(なんかのくい)

                        唐代

      上司に逆らってその心証を害し、科挙に合格できなかったという後悔。

      また、「黄老の書」を学んだことへの後悔。

      南華とは「南華真経」のことで、黄老思想家である荘子(荘周)

     の著述である「荘子」の別名である。

      荘子は、名を周といい、字は子休。

      唐の玄宗皇帝の天宝元年(紀元742年)に、南華真人の諱を

     追贈される。

      唐の宰相・令狐綯(ことう)は或る日のこと、古い事を

     温庭筠(ていいん)に問うた。

      その問いに対して、温庭筠は言った。

      「其の事は南華経に出ております。

       南華経は世に知られない僻書(へきしょ)ではありません。

       宰相殿もお暇の内は、時よろしく古の書をご閲読下され」と。 

         ☞ 僻書とは、偏った書物をいう。

       その時 温庭筠は、科挙の最終試験を受ける身ではあったが、

      その故もあって、遂に及第することが出来なかった。

        温庭筠の詩にあり、

             この恨む人の積り多くあるを知りて、

             南華の第二篇を読むを悔ゆる。

                 ※ 荘子(南華経)は、内篇と外篇から成る。

                    宋代の計有功 「唐詩紀事」より

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(宮苑の石榴の木に甘露降り)

     「宮苑の石榴(ざくろ)の木に甘露 降り」

                         唐代

      善政の瑞兆が現れたことの喩え。

       ☞ 宮苑は、唐王朝の金吾庁(衛府門)の裏庭。 

     》 甘露の変 《   紀元835年

       文宗は、天子の廃立は宦官の意思次第という最近の朝廷事情を憂慮

      し、親政の実を挙げるべく、自ら高級官吏登用試験を実施しようとした

      が、気骨のある秀才は、宦官の意向を踏まえた試験官により不採用と

      なる事がしばしばであった。

       文宗はその後も宦官制圧の機を窺って、策を練り実行したが思うに

      任せなかった。

       太和九年(835年)、今度は李訓、鄭注という人物を得て、密かに

      行動を始めた。

       ところが、この鄭注は宦官の大ボス・王守澄に恩顧があり、李訓は

      鄭注の口利きで王守澄に引き立てられたという旧恩の因果関係が

      あった。

       だが最近の李訓は、鄭注と肩を並べる所まで来ていたので、鄭注が

      目障りな存在となっていたのであるが‥ ‥ ‥。

       彼らは互いに内外で呼応して事を起こそうと持ちかけたが、そこで

      先ず李訓は詐言を用いて鄭注を鳳翔節度使に転出させておき、次に

      宦官の仇士良を中尉に抜擢して恩を着せておき、自らは体よく宰相に

      納まり、王守澄毒殺を謀った。

       かくして宮城内で執り行われるようになった宦官の大物・王守澄の

      本葬儀場で、事を起こす算段を準備しようとした。

       葬儀場周辺には宮中警備の金吾兵を派遣して警戒に当たらせ、次に

      李訓が文宗に願い出て、宦官全員に王守澄の遺骸の見送りをさせて

      おき、そして時を見計らって、かねて示し合わせた通り金吾兵を

      以って、見送りをしている宦官連中を一気に襲撃させるという手筈で

      あった。

       だが李訓は、手筈通りに事が運んだとしても、その功績が本葬儀で

      帰京中の鄭注に独り占めされる事を懸念して、この際 鄭注を出し抜く

      べく計画を変更して実行に移した。

       先ずは気心の知れた者を文宗の元に派遣して、奏上せしめた。

       「宮苑の石榴の木に、甘露 降り」と。

       すると他の宰相たちが百官を引き連れ、真に陛下の御仁政の瑞兆だ

      と言って祝賀を申し上げ、陛下にも拝観を勧めたが、陛下は先ず宰相

      らに確かめて来る事を命じた。

       李訓は陛下の元に帰ってきて、故意に 

       「あれは本物ではありませんでした」、と報告した。

       だが陛下は、宦官の仇士良を振り返って、宦官たちを引き連れて

      改めて見て来るように下命した。

       仇士良らが金吾庁の裏庭にやって来た時、にわかに風が吹き

      起こって、石榴の木の背後の垂れ幕がめくれた。

       その為 一瞬ではあったが、伏せておいた多くの武装した金吾兵の姿

      が見え隠れした。

       仇士良らは驚愕して逃げ帰り陛下に、

       「異変が出来しました」、と下命した。

       李訓は地団太を踏んで、急ぎ金吾兵を宮中に突入させたが、宦官の

      小者十数人を殺生したに過ぎなかった。

       仇士良は皇帝の親衛隊である神策軍を指揮して、金吾兵、金吾の役人

      を殺害し、更に宰相の舒元與らまで捕縛し、反逆罪として処刑して

      しまった。

       事 破れた李訓は、其の行方を晦ました。

                      「十八史略 唐」

         

        

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(夸父、日影を逐う)

     「夸父(こほ)、日影を逐(お)う」

                       唐代

    自分の力量を考えずに大事を企てることの喩え。

      成都載天という山に夸父という者が棲んでいた。

      彼は二匹の蛇を耳飾りにし、二匹の蛇を手に持っていたという。

      「夸父 力を量らず日影を追わんと欲し、

      之を隅谷(ぐうこく)の際(きわ)に逐(お)う。

        ☞ 日影は、太陽の影。

           隅谷は、太陽の没する地。

       渇して飲を得んと欲し、赴きて河渭(かい)に飲む。

        ☞ 飲は飲み物のこと。

          河渭とは、黄河と渭水。 

       河渭足らず、当に北に走り大沢(だいたく)に飲まんとす。

       未だ至らず道に渇して死す。

       その杖を棄て、尸膏肉(しこうにく)の侵(し)む所、鄧林生ず。

         ☞ 尸膏肉とは、屍の脂肉。

           鄧林は橙の林。

       鄧林 広きこと数千里に弥(わ)たる。

       ※ 夸父(かほ、とも云う)は古代の神人の名。

          夸の字義は、誇るとか驕るの意。



       

    テーマ : 神話伝説逸話
    ジャンル : 学問・文化・芸術

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(牛李の党争)

     「牛李の党争」

                         唐代

      晩唐における、科挙出身者の派閥対門閥貴族出身者の派閥による政争。

      それぞれの派閥の領袖の名 即ち科挙出身の牛僧孺と門閥出身の

     李吉甫の名を取って、これを「牛李の党争」という。

      李徳裕は、門閥貴族出身であり、科挙には馴染まなかった。

      穆宗の時代には翰林学士に取り立てられ、科挙出身の李宗閔を罪に

     陥れて、地方官に追い遣るということもあった。

      更には時代を遡ると、その昔 李宗閔が科挙(官吏登用試験)を受けた

     際、出題の解答で当時宰相職に在った李徳裕の父・李吉甫の失政を厳しく

     批判したり、また科挙出身者であり当時の若き牛僧孺は、歯に衣を着せぬ

     言動で以って、当時の為政者連中を手厳しく攻撃したことがあった。

      そのような事もあって、この両人は李吉甫に睨まれ、永いこと官職に

     就けずに不遇を囲ったことがあった。

      その後、李吉甫が退いた後、今度はその子の李徳裕が彼ら二人と対立

     して、政界を二分して相争い、互いに派閥を固めてけん制し合うように

     なり、四十年の後まで糸を引く様になる。

    テーマ : 中国古典・名言
    ジャンル : 学問・文化・芸術

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    Author:tyouseimaru
    出身地は四国八十八か所参りの発心の阿波、大阪を終の棲家とする。
    歴史好きで、城郭・神社仏閣・歴史遺跡巡りが趣味となる。
    歴史小説や時代小説を好み、往年の著名な時代小説の類は概ね完読と、自負している。

    自薦
    自著「中国通史で辿る名言・故事探訪」の 上・中・下の3巻を、 近い内に「電子書籍」での出版を予定しています。 今年一年間は、さらに工夫を加えるなどして、補記訂正などの校正を第一義としています。       
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