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    中国通史で辿る名言・故事探訪(陳橋の変)

     「陳橋の変」

                        五代十国

    》 後周・世宗の契丹遠征と病没 《   紀元959年

      紀元958年、世宗は南唐を攻略し、翌年には契丹遠征の軍を発向した。

      そして瞬く間に、瀛(えい)・莫(ばく)を攻略し、易州を奪回し、

     瓦橋関以南の地を制圧した。

      ところが次に幽州進撃の策定中に、世宗が病に倒れた為 作戦は一旦

     中止され、占領地には守備隊を残して帰還した。

      だがこの一代の英傑・世宗の病状は、恢復することなく壮途半ばにして

     没してしまった。

      世宗の跡を継いだ子の梁王(柴宗訓)は、未だ十歳にも満たない七才

     の幼帝であった。

      そのような状況下で、先行きに不安を覚えた禁軍将校たちは、ここで

     大芝居を打った。

      時に国境を侵犯して来た遼(契丹を改称した)と北漢の連合軍に

     対して、迎撃準備中の殿前都点検(国防総司令官)・趙匡胤を担ぎ

     上げて、皇帝に即位させるという擁立劇を演出した。

      後周の国都・開封を出てから、一日の行程に陳橋という宿場があった。

      北伐軍は、その地に宿営していたのである。

      この擁立劇の首謀者は、趙匡胤の弟・趙匡義(きょうぎ)だという噂も

     あったが、巷間 真実に近かろうと謂われている。

      所謂 形式上は、趙匡胤が酩酊中に祭り上げられ、胡蝶の夢中の状態で

     受け入れたとされる。

      この擁立劇の真実を知る者は、禁軍のごく一部の者だけであり、数万の

     将兵の知り得る所ではなかったのである。

      しかし形式上は、厳粛にして禁軍全体に推戴されたように歴史は

     作られた。

                        

      

     

    テーマ : 中国古典・名言
    ジャンル : 学問・文化・芸術

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(喜によりて人を賞し、)

     「喜によりて人を賞し、怒によりて人を刑せず」

                        五代十国

      後周の世宗は、常に自戒して言った、

      “ 朕、必ず喜によりて人を賞し、怒によりて人を刑せず ”と。

      そしてその言葉通り、文武の官は公平に登用し、互いの長所を

     発揮させるように気配りした。

      自身は質実剛健を旨とし、政務の余暇には学者を招いて歴史など

     を学び、君主としての歩むべき道を模索した。

    》 三武一宗の法難(その四)    紀元955年

      後周の世宗は、顕徳二年(955年)に仏教弾圧を強行した。

      治世の当初、国内で税金と兵役逃れの目的で私度僧尼となったり、

     且つ寺院の僧侶が仏道より蓄財に精を傾けると云った非道が横行し

     ていたので、世宗はやむなく、仏教を排斥し、多くの寺院を破却さ

     せた。

      没収した土地および仏像や銅器類は、鋳潰して銅銭を鋳造した。

      また還俗させた僧尼らは、生産労働に駆り立てた。

      世宗の仏教弾圧は、中国における最後の法難となった。

    》 後周の軍制改革と戦果 《

      世宗は、軍事力の評価は量より質にありとして、諸軍を総点検

     させ、先ずは老と弱を除き、更に全国各地から壮士を募り、諸軍を

     再編成させた。

      そして、特に強壮強健な者は近衛軍や禁軍に編入した。

      この改編により、後周軍は見違えるような精強軍となった。

      かくして後周に、中華統一の機運が生じたが、先ずは北漢に攻め

     込み、その南辺の七州を攻略した。

      そして紀元958年には、遂に南唐の征討を図り、世宗は苦戦の

     後 南唐を降伏させ、江北の地を割譲させた。

      南唐の第三代目の国主・李煜(りいく)は、後周に朝貢するように

     なった。

      ※ 南唐は以後、帝号を廃して南唐王を称し、国主の李煜は、

        最後の王朝ともなったので、「後主」と称される。

                     「十八史略 後周」

      

      

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(山の卵を圧するが如きのみ)

     「山の卵を圧するが如きのみ」

                      五代十国

      容易至極なことの喩え。

      沢山積み上げられた卵の山を押し潰すようなものの意。

    》 北漢の建国 《   紀元951年

      後漢が帝位争いの紛糾により滅亡したその翌年、劉知遠の弟である

     劉崇(りゅうすう)は自らの領土である太原で自立して建国した。 

      しかし、その支配する領域は、并州など太原一帯の十二州に

     過ぎなかった。

      劉崇は国家運営の方針として、契丹(遼)と好を通じて、その安泰

     を図ろうとした。

      後漢の隠帝亡き後、後継者として、一時 劉崇の子で徐州の劉贇

     (りゅうひん)が迎えられるという算段もあった。

      ところが後漢の太后の意により、劉贇を廃位して湘陰公に格下げ

     し、郭威が監国に任じられた。

      そして後、監国となった郭威は、自ら帝位に上り、後周を建国する

     ことになる。

      劉贇の父である劉崇は、隠帝が殺害さたと聞くや、自ら都に上って

     帝位に就くべくその準備に取り掛かったが、その矢先に息子の劉贇が

     新帝として迎えられると云う情報に接して、

      「子が立つなら満足だ」と言って、準備を取り止めるという経緯が

     あった。

      だが現実には劉贇は廃された上に、殺されてしまったのである。

      その後、後周討伐を試みたが失敗し、さらには契丹などにも援軍

     を依頼するなどして、結局はその権威を失墜し、最後は契丹の臣下

     として「北漢王」に任命されるという体たらくとなった。

     》 後周と北漢の覇権争い 《    紀元954年 

      後周の太祖・郭威が死ぬや、北漢の劉崇は今こそ、中原回復の機会

     が来たと喜び、早速 契丹に援軍を請い南下を開始した。

      契丹の応援一万と自ら三万の兵を率いての報復戦でもあった。

      之に対して、後周の世宗も自ら総司令官として征討軍を率いると、

     その意志を表明したが、重臣連中に猛反対された。

      だが世宗は、

      「(劉)崇は自ら来たらん。朕 往かざるべからず。

      吾が兵力の強を以って崇を破る、山の卵を圧するが如きのみ」

     と言って、多くの反対を押しきって出陣し、前線で果敢に指揮した。

      北漢軍は高平に陣を敷いた。

      後周の先鋒隊は、之に先制攻撃をかけ急追したが、逃げる敵軍を

     追い詰めるその余りの速さに後続部隊が追い付かなかった。

      両軍の戦端が再開された頃、後周軍の右翼が敵の集中攻撃を

     受けて、二人の将軍は遁走し歩兵千余人は降伏してしまったので、

     右翼軍は壊滅状態となった。

      形勢危しと見た世宗は、わずかな兵を率いて敵の矢面に立ち奮戦

     した。


      「国家の安危、此の一挙に在り」 

      国家が安泰でいられるか滅亡するかの分かれ目は、この戦い如何

     にあるということ。

      世宗に後続していた宿営軍の一方(近衛南軍)の将である

     趙匡胤(ちょうきょういん)は、

      「主の危きことかくの如し、吾が属なんぞ死を致さざるを得ん」

     と号泣し、同僚の一方の将(近衛北軍)・張永徳に語りかけるに、

      「賊は気 驕(おご)れり、破るべきなり。

      公、兵を率いて高きに乗じ、西に出でて左翼と為れ。

      我は右翼となりて以って之を撃たん。

      国家の安危、此の一挙に在り」と。

      かくして二人の将はそれぞれ二千騎を従えて北漢軍を挟撃したが、

     趙匡胤は自ら前線で指揮して、 馬を疾駆させて敵の先鋒を突き

     崩したので、士卒もここを死に場所と心得て奮戦し、敵陣突破を

     果たした。

      その余りの凄まじさに北漢軍は総崩れとなり、契丹軍も手の施しよう

     も無く戦線から撤収した。

      北漢の劉崇は、這う這うの体で晋陽に逃げ帰った。

      世宗は凱旋帰国の後、敵軍に捕らわれたり、逃亡した将士を捕縛

     し、世宗に対する背信行為と売国行為を責め七十余人を処罰して、

     軍律と忠国心を正した。

      多くの将兵たちは、世宗の今回の戦いぶりと戦後の厳しい処分を

     見て、改めて目を覚ます思いをした。

                   「十八史略 後周」

      

       

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(陛下は惟 声を禁じよ、)

     「陛下は唯 声を禁ぜよ、臣らの在るあり」

                      五代十国

    》 後漢(こうかん)二代 《     紀元947年~951年  

      契丹軍が後晋から撤収する一カ月前に、契丹討伐の先頭に立った

     人物は、沙汰族出身で後晋の将軍であった劉知遠である。

      後晋の高祖・石敬瑭は、その死期を悟った時 劉知遠を河東節度使

     から呼び返して朝廷で新王(出帝)を補佐させようと遺命したが、皇帝

     の側近に握り潰されるという経緯があった。

      その為 劉知遠は、朝廷に対する忠誠心は既に失せていた。

      後に至り、契丹の侵攻に再三悩まされた朝廷では、劉知遠を防衛

     の総司令官に任じようとしたが、彼は言を左右にして応じなかった。

      やがて契丹は、後晋を亡ぼして国都・大梁に滞陣したが、略奪の

     限りを尽くして引き揚げた。

      その一カ月前に、劉知遠は晋陽で後漢を建国し即位を宣言した。

      そして洛陽に進軍し、遂に大梁に遷都する。

      だが高祖・劉知遠は在位一年で崩じ、子の周王・劉承祐が十八歳

     で即位した。これが二代皇帝の隠帝である。

      後漢の実力者・郭威と劉知遠の弟・劉崇は、互いに不仲であって、

     互いに鎬を削っていた頃、河中節度使の李守貞が反旗を翻した。

      郭威は各藩鎮を動員指揮して反乱を鎮圧。

      李守貞は自殺した。

      朝廷は、郭威を契丹の侵寇に備えさせ、政治全般は宰相・楊邠

     (ようひん)が差配し、侍衛指揮使の史弘肇(しこうちょう)が国都の

     警固を、三司使の王章が財政を分担して、国政は軌道に乗った

     かのごとくであった。

      だがその内 互いに見解の食い違いが生じ、隠帝も彼ら重臣の

     口出しが煩わしく思うようになってきた。

      そんな陛下の様子を察知した宰相の楊邠は、御前会議において

     陛下の気勢を制する為に閣僚を代弁して言った。

      「陛下は唯 声を禁ぜよ、臣らの在るあり」と。

      (=陛下は唯 黙って見ていて下さればよいのです。

        その為に我々大臣が就いているのですから。)

      隠帝は日ごろの不満を抑えきれず、且つ側近の忠告もあり、遂に

     楊邠・史弘肇・王章らを誅殺し、詔勅を下して鄴都に出征中であった

     郭威をも暗殺しようと謀った。

      その動きを察した郭威の参謀たちは、軍を率いて朝廷に参内し、

     身の潔白を申し開きかつ進言した。

      その後を追って郭威自身も軍を率いて都に向かったが、慌て

     ふためいた隠帝は迎撃軍を派遣したが、迎撃軍は一戦も交えること

     なく降伏したり、都に逃げ帰った。

      そして隠帝は、兵卒の手にかかって死んでしまった。

      その後 郭威は太后に、高祖の弟・劉崇の子で武寧節度使の劉贇

     (りゅうひん)を新帝に迎えるよう進言し、自らは契丹軍の侵攻の報に

     接して征討軍を率いて澶州(せんしゅう)に至った。

      その時である、部下の将兵たちは郭威の体に黄色の旗を切り裂い

     て被せ、万歳を叫んで郭威を天子に戴いた。

                      「十八史略 後周」





       

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(中国の治め難きこと、)

     「中国の治め難きこと、斯くの如きを知らず」

                    五代十国

    》 後晋の滅亡 《  紀元946年

      契丹は後晋の条約破棄、及び帰国した契丹の使者が後晋の口上

     をそのまま奏上した自国への侮辱に激怒し、一時は出兵もした。

      そしてその後、漸くその怒りは頂点に達し、契丹軍は国境を越え

     て一気に黄河を渡った。

      それを受けて後晋では、出帝が自ら陣頭指揮に立ち、将軍李守貞

     らに一軍を授けて、挟撃作戦を採った。

      それを探知した契丹軍は、一旦は国境から退却した。

      しかしすぐさま攻勢に転じ相州に出現したが、またまた撃ち破られ

     た。 

      後晋軍が追撃に入ると、堪らず向きを変えて南に転じたが、後晋軍

     に迎撃され国境の外に姿を消した。

      この勝利に若き後晋王は有頂天になった。

      ところが、そこを狙いすましたように、契丹軍は大軍を擁して怒涛の

     如く後晋の国都目指して侵入してきた。

      後晋の防衛軍の主将は堪らず敵に降り、契丹軍の先鋒隊は

     たちまち国都の卞(べん。大梁)に迫ってきた。

      契丹の精鋭軍に後晋の防衛軍は刃向う事も出来ずに降伏し、

     後晋王は捕虜となり契丹の本拠に送られ、ここに後晋は滅亡した。

      契丹軍は国都・卞を中心に、諸州で略奪・乱暴狼藉の限りを尽くし

     た。

      成年男子は刀槍の餌食となり、老者幼者は河に投げ込まれ、

     婦女子は乱暴されるなどして、方数百里は根こそぎに荒らされた。

      だがそれでも満足せず、契丹の王は後晋の財務大臣であった

     劉昫(く)を呼び付けて、
     
      「契丹の兵士は、当然の権利として戦利品を求めているが十分

     ではない」と恫喝し、更なる上乗せを要求した。

      この限界を知らない無謀とも思える要求に応えざるを得なかった

     劉昫は、国内四方に数千人の伝達使を動員して人民から物資を調達

     し、都に運び込ませた。

      ところが契丹の王は、それを兵士に分配する意向は全くなく、

     すべてを本国に移送させた。

      その処置に後晋の人民の怒りは収まらず、遂に契丹追うべしと

     称えて、各地で蜂起した。

      この情勢を知った契丹の太祖は、大いにぼやいたものである。

      「我 中国の治め難きこと、斯くの如きを知らず」と。

      かくして国都の卞を占領すること三カ月にして、契丹軍は引き揚げ、

     後晋の旧領土(河南・河北)を自国領に併呑するのを諦めた。

                       「十八史略 後晋」

      ※ 契丹軍の侵寇は景延広の舌禍が呼び水となったものである

       が、契丹軍は退き揚げる時に、景延広を捕えて北方に送り

       込んだ。

        そしてその翌年、景延広は陳橋で自殺した。

      

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(翁 怒らば来たりて戦え)

     「翁 怒らば来たりて戦え」

                       五代十国

    》 景延広の大言 《    紀元943年

      後晋では、高祖(石敬瑭)が死に際に、宰相・馮道に我が幼い子・

     重璿(ちょうせん)の跡目相続を頼んで死んだ。

      ところが、いざという段になって景延広は、国家多難の折には年長の

     君主を戴くべきだと異議を差し挟み、高祖の兄の子・重貴を即位させ

     自分が実権を握り、宰相兼禁軍の総司令官となった。

      景延広は御前会議を完全に牛耳るようになった。

      そしてその昔 国家の危急存亡に際して、救援軍の要請の見返りと

     して臣従を誓ったはずの契丹(遼)に対して、歳幣の停止に留まらず

     不遜な言動をするようになった。

      ある時 高祖の喪を奉ずるに際して、契丹との条約の定めを無視して、

     自国の事を「臣」と称する屈辱的慣習を廃止することを一方的に通告

     した。

      更に遼(契丹)からの貿易通信使・喬栄を一時抑留した後、

     帰国させるに際して、

      「帰って報告せよ。

      先帝は北朝の立つるところたり。故に臣と称して表を奉る。

      今上(きんじょう)は即ち中国の立つるところ、

     隣(りん)となり孫(そん)と称すれば足らん。

      (お祖父さん) 怒らば即ち来たりて戦え。

      孫に十万の横磨剣ありて相待つ」と、大見栄を切った。

        ☞ 表とは、臣下から君主に奉る上表文。

           隣となり孫と称すとは、遼(契丹)との盟約の取り決め

          である臣従関係の深い「父」に対する「子」では無く、

          やや疎遠な「孫」と称すればよいでしょう、の意。

      その翌年、遼軍が来寇すると、自ら上将軍となって抗戦を指揮した。

      その後も専横のこと多く、憎まれて西京留守に左遷された。

                       「十八史略 後晋」

      

         

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(痛恨の燕雲十六州)

     「痛恨の燕雲十六州」

                       五代十国

      後晋の建国者である高祖(石敬瑭)は、少数異民族の沙汰族の

     出自で、後唐の明宗(李嗣源)の娘婿であった。

      時に石敬瑭は、契丹の援助で以って後唐を滅ぼし、契丹王の後押しで

     紀元936年に後晋を建国する。

    》 繰り返される前車の轍 《

      石敬瑭は後唐の明宗の下で、李従珂(潞王)と共に戦功を競い合う

     武勇に優れた武将であったが、どうした訳かソリが合わなかった。

      ※ 李従珂は、本性は王氏。十才の時、母と共に李嗣源に捕まり、

       程なくして養子となる。

      その後 時運により李従珂は皇帝に推戴された。

      帝位に就いた李従珂を祝賀する為、石敬瑭は領地の河東から都に

     上った。

      祝賀の行事の後 皇帝の側近は、石敬瑭を領地の河東に帰すべき

     ではないと進言した。

      だがこの時 石敬瑭は長患いに悩まされ、その身は痩せこけて驚くほど

     憔悴していたのを見るにつけ、李従珂はこの男は先は長くないと確信した

     ので、何ら手を打つことはしなかった。

      その為 石敬瑭は無事に帰還することが出来たのである。

      やがて、石敬瑭を鄆州に移封するという勅命が下った。

      石敬瑭が之を拒絶すると、討伐軍が編成された。

      石敬瑭の臣下の桑維翰は主人の意を受けて、契丹に救援起請文を起草

     した。

      その救援依頼の条件たるや、契丹に臣従し、戦勝の場合は応分の領土

     を割譲するというものであった。

      その条件に、劉知遠は頑強に反対して、進言した。

      「契丹は金品さえ贈れば必ず救援に駆けつけるが、その上に領土の

     割譲を約束すれば、自今 中国の大いなる病根となるだろう」、と。

      だが石敬瑭は、その意見を斥けて救援依頼をした。

      南方進出を狙っていた契丹は大喜びで、直ちに五万の騎兵と共に救援

     に向かい、晋陽城下で後唐軍を撃ち破った。

      其の後は、石敬瑭を押し立てて南下し、撃破しつつ本拠地の潞州に

     至った。

      ここで契丹軍は退き返したが石敬瑭軍はさらに南下し、洛陽に入城

     した。

      此処において、後唐王・李従珂は憤死した。

    》 後晋王朝 《   紀元936年~947年

      国都は洛陽に置いたが、後に卞京(開封)に遷都する。

      だが契丹の援助の見返りとして、契丹に「燕雲十六州」を割譲し、

     後々の王朝に至るまで大きな禍根を残すこととなった。

      

      

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(君に忠ならずとも国に忠なり)

     「君に忠ならずとも国に忠なり」

                       五代十国

      仕える君主を転々としたので、君主には忠義とは言えないが、

     国家の為には大いに粉骨砕身の努力をしてきた,との意。

    》 不死鳥の馮道(ふうどう) 《

      五代に生を受けた馮道は、漢人で景城の人。字は可道。

      馮道を「ふうどう」と読むのは呉音読み。
     
      漢音読みでは「ひょうどう」。

      生没年は、紀元882年~954年。

      馮道は、後唐を建国した李存勗(そんきょく)の側近であった宦官の

     張承業にその才を見い出され、翰林学士に任命された。

      2代皇帝明宗の時代には、宰相に抜擢された。

      馮道は唐末、幽州節度使の属吏となっていたが、五代の始め頃には

     既に名声があったようである。

      後唐の明宗は、当時流行していた四六駢儷体(しろくべんれいたい)

     の奏上文が理解できず、馮道がその解説役に登用されたが、それが出世

     の始まりであった。

      以来、王朝は後晋(石氏)、後漢(劉氏)、後周(郭氏)と順次 交替

     したが、いずれの王朝においても高位高官として仕えること三十年に

     及び、その内 宰相職には二十余年在任するという不死鳥ぶりを発揮

     した。

      後の後梁の王朝も含めて、「五朝八姓十一君」に仕えた

     と言われる。

      だが後世、馮道の生き方は無節操・不忠だとして、厳しく非難される

     ことになる。

      ところが馮道は、其の自叙伝『長楽老自伝』の中で、

      「君に忠ならずとも国に忠なり」と記し、君に忠という言葉は見当たら

     ないのである。

      馮道が生きた時代は、当に乱世の時代であり、目まぐるしく変転推移

     した波乱激動の時代でもあった。

      しかもこの時代の社会や国家の変転は、少数異民族による多数の

     漢民族の支配であり、当然 多くの漢民族は塗炭の苦しみを味わって

     いた訳である。

      異民族間の王朝交代による漢民族の略奪と制圧を、出来るだけ緩和

     しようと粉骨砕身の努力をした馮道は、優れた愛国者であり、為政者で

     もあったと言える。

      彼の生き方を批判するのは、儒教倫理に根ざすものであり、現実を

     知らない似非愛国者の空論であって、余りにも感情論に奔り過ぎるもの

     と言えよう。

      馮道の功績は、虐げられた無辜の多くの漢民族のための政治を志向

     したものであり、可能な限り異民族の横暴を抑制しようとする施策を五代

     に亘り差配したことにあると言える。

                      「十八史略 後唐 他」

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(眼中の釘)

     「眼中の釘(てい)

                        五代十国時代

       己に害を為すものの喩え。

       目に入った釘の意。

       後唐の趙在禮(礼)が宋州節度使として任官すると、只でさえ過酷な

      春秋の両税法に加えて、「沿徴」と謂われる限度の無い随意的な

      付加税を課したので、中小の農民は非常に窮乏し、彼を恨んだ。

       しかし彼はどこ吹く風といった態で、私財をせっせと貯めこんだ。

       そんな彼が遂に、永興郡節度使として栄転することになった。

       ※ 両税法とは、唐の徳宗の時代に制定された税制。

          均田制の租庸調に代わるものとして、土地税と資産税を

         春秋の二期に徴収した。明代まで存続する。

          永興郡は、現在の甘粛省に所在。

       宋州の人々は、満面の喜びで以って互いに言い合ったものである。

       「眼中の丁 抜けたり、豈に楽しからずや」と。

                       「五代史 趙在禮(礼)」

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(爾の俸禄は)

     「爾なんじ)の俸 爾の禄は、

     民の膏(あぶら)民の脂(し)なり。


     下民(かみん)は虐げ易きも、上天(じょうてん)は欺き難し。

                  五代十国

      官吏の俸禄というものは、民の膏血(血と脂)を搾り取って得た税金で

     賄われているものである。

      お上に仕える官吏たる者は、ややもすると民百姓を虐げようとするが、

     お天道様(天帝)は何事もお見通しである。

      だから、常日頃から人民には感謝して、労りの心を忘れてはならない。

     》 後唐の建国と前蜀の滅亡 《   紀元923年~925年

      李克用の長子・存勗(そんきょく)が後梁を滅ぼした時、たまたま

     唐王朝の伝国の宝器が魏州に於いて、「晋王」・李存勗の手に渡った。

      かくして李存勗は、紀元923年 魏州に於いて即位した。

      これが荘宗である。その国名を「後唐(こうとう)」という。

      紀元925年になると、荘宗は王建が四川で建国した前蜀の内乱に

     付け込んで、皇子の李継岌(けいきゅう)を総司令官に、王の智慧袋で

     枢密使の郭崇韜(すうとう)を副司令官として征討軍を派遣した。

      戦意の無い前蜀王・王衍(えん)は抵抗も無く降伏したが、李継岌

     は王衍を始め一族を皆殺しにした。

      前蜀はこのようにいとも簡単に滅亡してしまったが、国内のそれぞれの

     群庁には、次のような碑文の「戒石碑」を建立し、支配層の者たちの

     戒めとしていた。

          爾の俸 爾の禄は、民の膏 民の脂なり。

          下民は虐げ易きも、上天は欺き難し。


      この征討軍には、普段から郭崇韜を快からず思っていた宦官が同行して

     いた。そして折を見ては、ことある毎に総司令官に郭崇韜の讒言をした。 

      総司令官は、密かに父の荘宗にその事を報告した。

      讒言を信じた荘宗は、宦官の馬彦珪(げんけい)を特派し、郭崇韜と

     同行していた子の郭廷晦の誅殺を命じた。

      その後、荘宗は蜀の西域に、孟知祥を西川節度使に任じた。

      だが荘宗 自らは次第に驕慢となり、政治を怠るようになった。

                      「通俗編 政治」



       

      

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    Author:tyouseimaru
    出身地は四国八十八か所参りの発心の阿波、大阪を終の棲家とする。
    歴史好きで、城郭・神社仏閣・歴史遺跡巡りが趣味となる。
    歴史小説や時代小説を好み、往年の著名な時代小説の類は概ね完読と、自負している。

    自薦
    自著「中国通史で辿る名言・故事探訪」の 上・中・下の3巻を、 近い内に「電子書籍」での出版を予定しています。 今年一年間は、さらに工夫を加えるなどして、補記訂正などの校正を第一義としています。       
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