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    中国通史で辿る名言・故事探訪(知るなきに如かざるなり)

    「知るなきに如(し)かざるなり」


                        宋代

      知らなくでも良いことは、知らないでいた方が良い。

      宋の太宗の御代に、科挙に合格後 十一年目にして呂蒙正が副宰相に

     起用された。

      ※ 副宰相のことを、宋の当初は参知政事という。

      ある時、太宗の抜擢人事で副宰相になった呂蒙正の悪口を言う者が

     現われた。

      それと知った呂蒙正の属僚が呂蒙正に、

      「其の者の氏姓名を究明致しましょう」、と言った。

      だが呂蒙正は言う、

      「一度 名姓(めいせい)を知らば、即ち身を終わるまで忘れず。

      知るなきに如かざるなり」と。

      呂蒙正は、後に趙普と並んで宰相の座に就いたが、彼の懐には、

     常に天下の人材の名を記した冊子が入っていたと謂われる。

      太宗は、太祖時代の官僚を退けて、自らの子飼いの天子門生

     (高級官僚)を育成しようと腐心していた。

      中国では古来から、臣下たる重臣や高級官吏は、有能な人材を

     天子や君主に推挙するのは重要な務めでもあった。

      因みに、太祖の時代には、科挙の合格者は進士科で平均二十名程度、

     多くても三十人、その外の諸科では一定せず、多い時で九十六人で

     あった。

      ところが太宗の初年には、進士科で呂蒙正以下百九人、諸科では

     二百七人を合格させたのである。

      そして太宗は進士科の合格者には、格別に優遇した。


      

      

    テーマ : 中国古典・名言
    ジャンル : 学問・文化・芸術

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(科場にて峻彦を取り、)

    「科場にて峻彦(しゅんげん)を取り、十に五を得ざるも、

      一、二を取らば、治を致す具となる」

                        宋代

      科挙で一度に多くの俊秀を採用できなくても、合格者を少しづつ増やせ

     ば事は足りる。

     》 太宗の人気取り政策 《

       太宗が即位した当初は、帝位簒奪説も流れていて、人気は余り芳しく

      なかった。

       そこで太宗が打ち出した政策が、科挙の合格者人数を増やすことで

      あった。

       太宗は、特に士大夫階級の心を捉えるのに腐心した。

       太宗曰くに、

       「科場にて峻彦を取り、十に五を得ざるも、

       一,二を取らば、治を致す具となる」と。

       ※ 科場とは、科挙の試験場。
        
          峻彦は、非常に高く厳しい様をいう。

       かくして、次第に科挙の合格者を大量に輩出するようになった。

       有能な士大夫予備軍をどんどん増やして、新人を抜擢して任用

      しようとしたのである。

       科挙合格後、十一年目にして、ようやく宰相に任用すべき人物が

      現れた。その名を呂蒙正(りょもうせい)という。

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(斧声燭影千古の疑い)

     「斧声燭影(ふせいしょくえい)千古の疑い」

                        宋代

      斧の音がして、灯火の火が揺らぐだけ、事の真実の状況は永遠に

     不明であるという疑惑。

     》 太宗(趙匡義)の帝位簒奪説 《    紀元976年

       太祖が病に伏し やがて臨終を迎えた時、宋皇后は宦官の王継恩に

      命じて、我が子の徳芳を臨終の席に呼び寄せようとした。

       ところが王継恩は、徳芳でなく太祖の弟で晋王の趙匡義を呼びに

      行った。

       晋王が病床に駆けつけると、太祖は人払いを命じて二人だけで

      密談した。

       やがて太祖が柱斧を振り上げて床に突き刺し、大声で

       「好くこれを為せ」と叫んだようであった。

       ※ 柱斧とは、どのような性質のものか判明しないが、

        その昔 斧鉞(ふえつ)は天子が出征する大将に授ける

        という古例がある。

       太祖の介抱で同室していた近臣らも、その話の内容は知る由も

      無かった。

       ただ遠くから灯火に映る影で、晋王の席を少しずらした姿が認め

      られるだけであった。

       この臨終の間際の状況と背景が、後世に至るも変わることのない

      帝位簒奪の根拠となってしまった。

       間もなく太祖は崩じたが、その臨終の席に駆けつけてきた皇后は、

      その席にいるはずの我が子は居らず、晋王の姿を認めて愕然とした。

       その状況を逸早く察した皇后は、

       「我が母子の命は、みな官家に託す」と言って、我が子の即位を

      諦めた。 

       後に、太祖と晋王の二人だけの密談の状況をあれこれと想像したり、

      類推して帝位簒奪説が流れ、太宗の人気は必ずしも好くなかったと

      云われる。
       

       

      

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(士大夫を言論を理由として殺すなかれ)

     「士大夫を言論を理由として殺すなかれ」

                         宋代

      北宋の時代、歴代皇帝は如何なる理由があろうとも、「士大夫」を

     その思想や言論を理由として処罰してはならないという鉄則があった。

     》 太祖の石刻遺訓 《

       宋の太祖(趙匡胤)は、子孫の為に教訓を石に刻んで遺し(石碑)、

      それを禁中の最も深い所に安置し、皇帝以外はそれを見るこを

      許さなかった。

       そのような理由もあって、「石刻遺訓」が存在するという事自体が

      世間一般には知られていなかった。

       太祖が崩じてから百五十有余年が経ち、宋の国都・開封が金軍に

      攻め落とされて宮殿が蹂躙された時に初めて、「石刻遺訓」が発見

     されたのである。

       その石刻遺訓は、極めて簡潔に記す。

       「宋に国を譲った後周の王室の柴氏(さいし)を、

       子々孫々にわたって面倒を見るべし。

       士大夫を言論を理由として殺すなかれ。」

       この遺訓の精神こそ、宋王朝の文治主義による平和国家志向の

      根源であり、よく軍閥を抑えて文官優位の政治・経済社会を維持

      せしめた所以であると言われている。

       


       

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(彬の疾は薬 能く愈するに非ず)

     「彬の疾は薬 能く愈(い)するに非ず」

                        宋代

      我 彬(ひん)の病は、薬では治らぬ。

     》 宋の名将・曹彬(そうひん) 《

       太祖は全国統一事業の最終段階で、最後まで存続していた南唐を攻略

      し続けていたが、その最高司令官に曹彬を任命した。

       太祖は先に後蜀を攻略した際には、総司令官に王全斌(ぜんひん)

      を起用したが、その攻略中に余りにも多くの敵将兵を殺生したとして

      反省し、今回は思い遣りの深い曹彬を起用したのである。

       曹彬は南唐の都・金陵を包囲し、次第に圧力を加えていった。

       その重圧に耐えかねた南唐の国主・李煜(りいく)は、使者を派遣

      して、宋への入貢を申し出てきた。

       だが太祖は之を許さなかったので、曹彬は遂に金陵城総攻撃を決意

      した。

       ところが曹彬は、南唐王の下へ使者を派遣し、事前通告した。

       「某日には、必ず総攻撃をかけるので心せよ」、と。

       そして総攻撃を目の前にしたある日、曹彬は病と称して一室に

      閉じ籠もってしまった。

       驚いた武将や幕僚が駆けつけると、曹彬はその胸中を明かして

      言った。

       「彬の疾は薬 能く愈(癒)するに非ず。

       諸侯若し共に信誓をなして、城を破るに妄りに一人も殺さずんば、

      則ち彬の病 愈(癒)えん」と。

       (=我が病は薬では治らぬ。君たちが私と共に誠の誓いを為して、

        敵城総攻撃の際に罪の無い者を一人として殺害しない、と言って

        くれれば、たちどころに治るだろう。)

       諸将幕僚たちは、こぞって賛意を表し、香を焚いて誓約した。

       翌日、金陵は落城し、国主の李煜は城を出て降伏した。

       曹彬は国都へ凱旋したが、宮中の小門から名刺を差し出し帰国の

      報告をした。

       その名刺には、

       「勅を江南に奉じ、事を幹(な)して回(かえ)る」と。

       (=勅命を奉じて江南に至り、事を中心となって遂行し、

        帰国いたしました。)

                         「十八史略 宋」

        

     

        
      

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(臣、論語一部あり、)

     「臣、論語一部あり、

        半部を以って太祖を佐(たす)けて天下を定め、

        半部を以って陛下を佐けて太平を致す。


                         宋代

      宋の太祖(趙匡胤)の治世の初期に、宰相として敏腕を揮った趙普

     の自負の言葉。

      私 趙普は、論語を一部 所有していました。

      その半部で、太祖(趙匡胤)を援けて天下を平定することが

     出来ました。

      また後には半部で、次の陛下(太宗の趙匡義)を援けて、天下に太平

     をもたらせることが出来ました。

     《 趙普の逸話 》

       趙普は実務面においては優れた為政者であったが、無学であった

      と云われる。

       或る日のこと、太祖に勧められて読書に親しむようになり、終には

      無類の読書好きになったと云う。

       彼の公務場所の机の抽斗には、常に「論語」一部を入れておき、

      大事を決する時には、常に之を読んだと言われる。

       論語を愛読する彼であったが、科挙出身の進士とは反(そ)りが

      合わず、彼らが要職に登用されることを嫌い、策を以って排斥した

      ので、後には太祖に疎んじられるようになる。

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(刑賞は天下の刑賞なり、)

     「刑賞は天下の刑賞なり、

      安んぞ私の喜怒を以ってこれを専らにするを得ん」


                        宋代

      人民に対する刑罰や賞誉といものは、広く世間一般、または国家に

     属するものである。

      喩え天子といえども、勝手気ままにすべきものではない。

     》 趙普、宰相となる 《    紀元964年~973年

       後周の遺臣でありながら、引き続き宋王朝の宰相職にあった范質、

      王傅(おうふ)、魏仁浦らが辞職を願い出てきた。

       太祖はその願いを受け容れて、後任には趙普を任命した。

       しかし、趙普は無学であった。

       そのことで太祖を大いに嘆かせたこともあたが、太祖の信頼は絶大

      なものがあり、よくその信に応えた。

       趙普を誹謗して罪を着せようとした者が出た時、太祖は言った。

       「趙普は、我が社稷の臣であることを知らぬか」と。

       趙普の厳正豪胆な性格を表わす逸話がある。

       ある日のこと、趙普は太祖の臣下で昇進に値する功を挙げた者がいた

      ので、太祖の其の許可を願い出た。

       ところが、太祖は其の者を以前から嫌っていたので許可を与えようと

      しなかった。

       趙普は、執拗に許可の承認を太祖に迫った。

       すると太祖は、

       「朕が断じて与えない、と言ったらどうするか」と威圧した。

       趙普はそれでも屈することなく、己の不退転の信条を以って説得を

      試みようとした。

       「刑賞は天下の刑賞なり。

       安んぞ私の喜怒を以ってこれを専らにするを得ん」と。

       しかし太祖は、聞く耳を持たず席を立った。

       趙普は構わず後を追ったが、太祖はそのまま宮室に入ってしまった。

       だが趙普はその門前に立ち尽くして、去ろうとはしなかった。

       さすがに太祖も根負けして、遂にその人事を承認した。

       このように趙普は重厚にして果敢、自己の責任において政治を取り

      仕切ってきたが、政務を執る部屋の片隅に甕を据え置き、自分の気に

      入らない上奏文はその中に入れて焼き捨ててしまった。

       そしてそれが原因となり、非難が集中した。

       ようやく太祖も事の次第を知り不信感を抱き始め、改めて二人の

      副宰相(参知政事)を任命して宰相と同格となし、共に政務室で政務を

      執らせ、連署して上奏するよう運用を改革した。

       それから間もなく趙普は宰相を免ぜられ、河北三鎮の節度使に任ぜ

      られた。


       

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(国に長君あるは、)

     「国に長君あるは、社稷の福なり」

                       宋代

      長君とは人並み優れた成人の意であり、王朝の天子には幼少の君を

     立てるべきではなく、必ず親疎長幼等をよく勘案してから立てるべきある。

      そして其れが結果的には、社稷(王朝国家)にとって幸運となる

     のである。

     》 金匱の誓い 《     紀元961年

       宋の太祖(趙匡胤)の母である昭憲皇太后は、その臨終の床に

      我が子の太祖を呼び寄せて、昔を思い出すように語って聞かせた。

       「そなたはどうして天下を手に入れられたと、お思いか。」

       「ひとえに亡き父上や母君のお蔭でございます。」

       太后は笑いながら、

       「其れは違いますね。柴氏(後周王朝の天子)が幼児を天子にした

      からですよ。

       ですから、そなたに万一のことがあれば、天子の位は弟の晋王

      (匡義)に、晋王は下の弟の秦王(廷美)に、そして秦王からは

      そなたの子の徳昭に伝えるようにしなさい。

       何と言っても、天子は一人前の成人でなければなりません。

       そうでないと、社稷を持ち堪えることが出来ませんよ。」

       「謹んでお教えに従います。」

       そして太后は、その場に宰相の趙普(ちょうふ)を呼び付け、

      誓約書を作成させた。

       趙普は書き終わってから、

       「臣 晋 記す」と署名し、金匱(金の箱)に入れて保管した。

                        「十八史略 宋」   

       

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(人生は白駒の隙を過ぐるが如し) 

     「人生は白駒の隙(げき)を過ぐるが如し」

                       宋代

      人生の儚いことの喩え。

      人生とは、白馬が家屋の戸の隙間から一気に駆け抜けるのを見るように

     短いものであるの意。

      また、白駒は光陰にも喩えられて、月日が経つのが非常に早いことの

     喩えでもある。

      ※ 古代中国では、人生の短さや時の流れの早さを喩えるのに、

       「馬」を用いるのは決まり文句であった。

    》 国家長久の計を策定 《 

      建国当初に叛乱異分子を征討した直後のこと、太祖は枢密使の

     趙普(ちょうふ)を召して、諮問した。

         ※ 枢密使は、軍政を担当する枢密院の長官であるが、

          この段階では、行政全般の執政官であろう。

      「国家長久の計は如何にあるべきか」と。

      趙普は対えて、
     
      「唐以来、多くの王朝の変遷があったのは、一重に国内の各節度使や

     藩鎮が強くて、君主が弱かったという事です。

      要するに臣下が余りにも強かったからです。

      ですから彼らからその権を奪い取り、その財政基盤をもぎ取れば、

     天下は自ずと安らかになりましょう。

      また現下の将師で、無能の者はその役を奪い他に移すべきでしょう」と。

      かくして太祖は各功臣を招集して酒宴を開き、当に宴 酣(たけなわ)

     の頃を見計らって言った。

      「朕は汝らの働きがなければ、天子の座に座ることは出来なかった。

      然れども終夕 未だ曽て枕を高くして眠れぬ有り様である。

      誰だって、この天子の位には座りたいと思うであろうからなあ」と。

      近衛軍長官の石守信らは言った、

      「陛下はどうして、そのような事をおっしゃるのですか。

      天命は既に定まり誰に異心がありましょうや」と。

      太祖はそれに対して、

      「汝らに異心無しと雖も、麾下の人の富貴を欲するを如何せん。

      無理に麾下の者に黄袍(こうほう)を着せられれば、どうし様も

     あるまい」と。

         ※ 黄袍とは、天子の象徴たる黄色の戦袍をいう。

            太祖自身、遠征中に将士らに黄袍を無理に着せられた

           経緯があった。

      功臣皆 頓首して泣いて云う、

      「臣らは愚にして、ここに想いを致しませんでした。

      どうか今後の我らの道を教えてくだされ」と。

      太祖は、当に俟っていましたとばかりに詠嘆した。

      「人生は白駒の隙を過ぐるが如し」と。

      そして太祖は続けて言う、

      「富貴を好むところの人は、多く金銭を貯めこみて自ら遊興を楽しみ、

     子孫をして貧乏させないと望むのみ。

      お前達 兵権を解いて自らの藩をよく守り、良田を選んで子孫を栄え

     させることを考え、且つ歌舞音曲を楽しみつつ、日々酒を嗜む、これ楽し

     からずや」と。

      かくして、功臣たちは皆 兵権を返上して、自今は病と称して節度使を

     辞めんことを願って来た。

                         「十八史略 宋・太祖」



         

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(様に依りて葫蘆を画く)

     「様に依りて葫蘆(ころ)を画(か)く」

                      宋代

      新たな創意工夫のないことの喩え。

      ただ手本に従って、瓢箪を描くだけの意。

        ☞ 様は手本の意。

           葫蘆(葫芦とも)は、瓢箪・ふくべ。

    》 宋の建国 《   紀元960年

      後周禁軍の憂国の将士らの陳橋の変の擁立劇により、趙匡胤は

     宋国皇帝として即位した。

      この「宋」という国名は、趙匡胤が後周王朝の宋州節度使であった

     ことに由来する。

      南北朝時代の南朝の「宋」は、劉氏の宋ということで「劉宋」と

     称されるが、趙匡胤の宋は、「趙宋」と称される。

      趙宋の国都は、当初は「卞京(べんけい)」に置かれたが、後には

     東京開封府(とうけいかいふうふ)と改称される。通称は開封という。

      宋の太祖(趙匡胤)は、形式上は後周の禅譲を受けて建国したことに

     なっている。

      太祖は創業当初においては、後周王朝の宰相職にあった三人を解職

     することなく、そのまま引き続き任用して人臣を慰撫した。

      趙匡胤(太祖)が擁立されて、都に帰還した時の出来事である。

      趙匡胤は天子の位を禅譲されたと云うものの、急な事でもあり、後周の

     恭帝の手元には譲位の詔勅が用意されていなかった。

      その時 翰林学士の陶穀という者が、実に手際よく、事前に用意して

     おいた詔勅を懐中から取り出して、太祖に差し出した。

      この陶穀はその心中 大得意であったが、それ以来 太祖は彼を重用

     しようとはしなかった。

      陶穀は久しく翰林に据え置かれ、すこぶる太祖を怨んだという。

      だが太祖は、

      「吾は聞いている。

      学士が制を草するは、様に依りて葫蘆が画くのみ。

      何の労かこれ有らん」と言って、遂に彼を重用することはなかった。

        ※ 制を草するとは、勅命(天子の命令)を下書き(起草)

         すること。

                    「十八史略 宋・太祖」


     

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    tyouseimaru

    Author:tyouseimaru
    出身地は四国八十八か所参りの発心の阿波、大阪を終の棲家とする。
    歴史好きで、城郭・神社仏閣・歴史遺跡巡りが趣味となる。
    歴史小説や時代小説を好み、往年の著名な時代小説の類は概ね完読と、自負している。

    自薦
    自著「中国通史で辿る名言・故事探訪」の 上・中・下の3巻を、 近い内に「電子書籍」での出版を予定しています。 今年一年間は、さらに工夫を加えるなどして、補記訂正などの校正を第一義としています。       
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