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    中国通史で辿る名言・故事探訪(恩を己に帰せんと欲せば、)

     「恩を己に帰せんと欲せば、

        怨みは誰をして当たらしめん」


                        宋代

      人に与えた恩義を自分に還して欲しいと望むならば、即ち、

     もし後になってから、恩に着せた者に何らかの事情が生じて、その者を

     左遷したり解任したりすることになれば、その怨みは一体 誰が受ければ

     よいのか。

     》 士大夫宰相・王曾 《

      眼中の丁と悪評のあった丁謂の後任として宰相となった王曾は、七年間

     その地位に留まった。

      その間に、王曾と並ぶ四人の宰相が次々と任用されたが、王曾のみは

     留任したのである。

      王曾は科挙の受験に臨んだが、青洲の郷試(科挙の一時予備試験)、

     尚書省の会試(二次試験)、それに最後の関門である殿試を、何れも

     首席で合格した所謂 「状元三場(じょうげんさんじょう)」と言われる

     稀有の俊秀であった。

       ☞ 状元とは、それぞれの試験における主席合格者のこと。

      王曾が宰相となってから、彼の門下からは一人の抜擢人事も無かった。

      また王曾の推薦で昇進した者でも、それが王曾の推薦によるものである

     ことを知る者はいなかった。

      ある時 機会があって、氾仲淹は王曾に質したことがあった。

      「優れた人物を取立て、励ますこともまた宰相の仕事と云えます。

      隠す必要がどこに在りましょうか」と。

      王曾は徐に答えて、

      「恩を己に帰せんと欲せば、怨みは誰をして当たらしめん」と。

                         「十八史略 宋・仁宗」

     

      

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(眼中の丁)

     「眼中の丁(てい)

                        宋代

      邪魔者・障害物の喩え。

      目の中の釘(丁を釘に比して)、即ち嫌われ者の丁謂の意。

      北宋の初期、丁謂が引き続き宰相として権力を揮い始めたのを見て、

     副宰相の王曾は内々に奏上した。

      「丁謂、禍心(謀反の意?)を包蔵して、真宗の山陵より、

     擅(ほしいまま。=恣)に皇堂を絶地に遷す」と。

      丁謂は遂に免職となり、崖州の地方役人に落とされた。

      丁謂は先に宰相の寇凖を譴責した折、書記官に命じて、

     「春秋公羊伝」から引用した「無将」という言葉と漢の時代に使われた

     「不道」という言葉を使わせて、寇凖反逆の証としたことがあった。

      この度は、丁謂が地方に流されるに際して、書記官は寇凖の時と同じ

     文言を使って弾劾した。

      先に寇凖が地方へ流された時、都の人々は、

      「天下の寧き(安寧)を得んと欲せば、当に眼中の丁を抜くべし。

      天下の好(よしみ)を得んと欲せば、寇老を召すに如くは無し。」

      と言って、丁を釘に喩えて憎悪し、寇凖の復帰を待ち望んでいた。

      しかし寇凖は、都に還ることなく、虚しく雷州で没した。

                        「十八史略 宋」

                        「續資治通鑑・長編」



      

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(水滴りて石穿つ)

     「水 滴(したた)りて石 穿(うが)つ」

                        宋代

      時の経過は、微弱なものでも測り知れない力を発揮することの喩え。

      滴り落ちる水と謂えども、何時かは岩石をも穿つの意。

      張乖涯(ちょうかいがい)が崇陽の令となった時に、一人の下吏が

     庫(金蔵)から出てきた。

      張が彼の顔を見ると、鬢の辺りを蔽う頭巾の中に「一銭」が隠れて

     いるのに気付いた。

      そこで張が彼を追及したところ、庫中の銭である事が判明したので、

     張は威儀を正して、獄吏に命じて彼を杖打たせようとした。

      ところが、下吏は勃然として曰く、

      「一銭なんぞ道(い)うに足らん、乃ち我を杖打たんや。

      爾(なんじ) 能く我を杖打つも、我を斬る能わざるなり」、

     と強弁した。

      (=盗んだとはいえ、一銭くらいが何だ。そんな事くらいでこの我を

       杖打ったり出来るものか。

        よしんば杖打つとしても、斬罪になどは出来るものか。)

      張は筆を執り、調書を作成して談判して言う、
      
      「一日一銭、千日千銭、縄 鋸(きょ)して木 断ち、

      水 滴(したた)りて石 穿(うが)つ」と。

      (=一日一銭でも千日で千銭となり、木を縛った縄目もいつしか

       鋸となり、木を切断することもあろう。

        また滴り落ちる水と謂えども、何時かは石をも穿つものだ。)

      かくして、張は剣を杖について階段を降り、下吏の首を切ってから、

     台府(御史台)宛に自らの罪状を認(したた)め、法によって潔く自ら

     断罪した。

      崇陽の人は、今に至るも之を伝える、と。

      補注に言う、
      
      「蓋し五代(十国時代)より以来、軍卒 将師を凌ぎ、

     胥吏(在地で任用される下級官吏) 長官を凌ぐ、余風 此処に至る。

      時なお未だ尽く除かず。張乖崖がこの一挙、一銭の為にして設くるに

     非ず。その意 深し、その事 偉なり」と。

                    南宋 羅大経編 「鶴林玉露」


     ☷ 拾遺・弥縫

       「胥吏(しょり)」

       宋代以後、官僚機構の末端で実務を担当したのは、胥吏という

      非公式の下級官僚である。

       彼らは在地で任用され、俸禄は支給されず無報酬であった。

       その代り、実務を通じて役得により得られる多大な収入が

      保証された。





      


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    中国通史で辿る名言・故事探訪(佞言は忠に似たり、)

     「佞言は忠に似たり、姦言は信に似たり」

                        宋代

      君に阿(おもね)る思いから出た言葉は、一見すると忠誠なのかと

     聞き違えるものである。

      また君に対して邪悪な心から出た言葉であっても、外見的には

     真心から発せらたように聞こえるものである。

                          「宋史・李沆(りこう)」

      北宋、南宋時代は社稷の忠臣・名臣を数多く輩出したが、また

     所謂 姦臣・佞臣の類もそれに比例して大いに跋扈した。

      宋代に始まる士大夫階級は、そもそも国家社会を担うべき知識

     階級であり、高級官僚でもあった。

      ところが立身出世欲の為に、その道を踏み誤り、国家を危殆させ

     たり、有能な士大夫を眼の敵にして貶め、姦佞な士大夫の類が幅を

     利かせて政治の中枢を占めるようになり、遂には亡国の運命に

     曝されることがしばしばあった。 

      士大夫として矜持すべき愛国心や気位・志操を失った恥ずべき佞臣

     と言える者は、王欽若や丁謂である。

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(浸潤の譖り)

     「浸潤の譖(そし)りと膚受の愬(うった)え」」

                        補遺 春秋時代

      人を誹謗するのに、水が徐々に物に滲み込んでゆくように、

     急ぐことなく繰り返して誹謗中傷することを「浸潤の譖り」という。

      悪口を少しずつ言ったり、仄めかしたりすると、それを聞く者をして

     次第に信じ込ませるものである。

      また己の冤罪を訴えるのに、其の害悪が我が肌身に直接に

     斬りつけられているように訴えれば、聞く者をして事実を明らかにする

     よりも先に同情させてしまうものである。

      之を「膚受(ふじゅ)の愬え」という。

        ☞ 浸潤とは、水などが じわじわと綿などに浸みこんで

         濡れる様。

          譖りは、事実を曲げて悪口を言ったり、嘘を言って

         訴える事。 

     「論語 顔淵第十二」より

       子張、明を問う。

       子曰く、

       浸潤の譖り、膚受の愬(=訴)え、行われざるを明というべきのみ。

       浸潤の譖り、膚受の愬え、行われざるを遠と謂うべきのみ。

       浸潤の譖りと膚受の愬えとは、人のよく見分け難いことであるが、

      この二つの手段を行って、いざ人を欺こうとしても、能く之を見破り

      行われないようにするならば「明」と云える。

       この明とは、心が外物や事態・状況の変化に覆われることなく、他人

      から欺かれない事を云う。

       またこの二つを事前に能く見破って、行われないようにするならば、

      明の遠きに及ぶ者と云える。

       明の遠きとは、明の外に更に遠があるのではなく、もっと奥を深める

      という意である。

       ※ 子張がただ明を問うたのに対して、孔子は更に遠を付け加えて

         同じ事を繰り返し、高遠な事を好む傾向にある子張に、卑近な

         人情をもっとよく察すべきことを暗示したのである。



     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(社稷の忠臣と佞臣)

     「社稷の忠臣と佞臣」

                        宋代

      国家や朝廷に忠義な臣下と天子や主君に阿り心の不正な臣下。

      ※ 本義は土地の神を「社」といい、五穀の神を「稷」という。

         昔 中国では国家を建国した際、天子・諸侯は国家の守り神

        として、社稷を祀った。

         後にはその意は転じ、社稷は国家・朝廷を意味するようになる。

     》 寇凖と王欽若 《

       宋(北)の第3代皇帝真宗は、契丹が宋に侵攻した時の活躍

      及び契丹との「澶淵(せんえん)の盟」に際しての寇凖の働き

      を多として、以前にも増して丁重な態度で寇凖を遇するように

      なった。

       或る日のこと、真宗は朝議を終えて退出する寇凖の後姿をいつまでも

      慈愛の眼差しで見送っていた。

       その傍らにいた副宰相の王欽若は、その天子の様子を見るにつけ、

      先に契丹の侵攻に際して寇凖の己に対する措置を深く怨んでいたので、

      進み出て己の所見を申し上げた。

       「陛下がそれほどまでに寇凖を敬せられるのは、彼に社稷の大功がある

      からと思し召されるからでございましょう。

       しかしながら、《城下之盟》と申しますのは、そもそも

      春秋時代の小国でさえも恥としたものでございます」と。

       そう言って間接揶揄的に寇凖を誹謗し、真宗に屈辱の苦悶

      を抱かせるように仕向けた。

       その事があってから、真宗は徐々に寇凖を軽んずるようになり、

      寇凖はやがて宰相職から解任されることになった。

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(澶淵の盟)

     「澶淵(せんえん)の盟」

                        宋代

      紀元1004年、南下して黄河河畔の澶州に陣を張った契丹(遼)と

     これを迎え撃った宋との間で締結された和平条約。

      契丹軍は大軍を擁して南下して来たが、戦局は有利に展開しな

     かった。

      そこで先の戦いで捕虜にした宋軍の降将の意見もあって、契丹は

     使者を宋に派遣して和議を申し出た。

      契丹側の和議の条件は、先の王朝である後周の世宗の時に、契丹

     から奪った関南の旧領を返還せよというものであった。

      宋の真宗は之に対して、領土はならぬが金帛を与えようと考えた。

      ところが宰相の寇凖は、一層強固な考えであり金帛はおろか、

     契丹討伐計画書を真宗に提出した。

      だが真宗は、人民の苦しみを顧みて、講和も止む無しと決定した。

    》 講和の交渉 《

      宋は曹利用を講和の使節として契丹(遼)に派遣することになったが、

     曹利用は出発に際して、契丹に毎年贈る金帛の数量についての了解

     を求めた。

      真宗は弱気になっており、

      「最悪の場合は、百万でも致し方あるまい」、とその額を暗示した。

      ところが寇凖は、その後で曹利用を呼び付けて、申し渡した。

      「勅旨有りと雖も、三十万を過ぐるを得ず。

       もし この数を過ぎるなら、来たりてこの凖を見る莫れ。

       吾爾を斬らん」と活を入れた。

      かくして契丹の陣営に赴いた曹利用は、絹二十万・銀十万をもって

     和議を結び帰国した。

      

      「澶淵の盟の約条項」

       1 国境は変更しない。

       2 宋は兄、契丹(遼)は弟の礼を以ってする。

       3 宋は毎年 銀十万両、絹二十万匹を契丹に贈る。

                         「十八史略 宋・真宗」

     

        

      

      

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(百僚 股栗す)

     「寇凖、殿に上(のぼ)りて百僚股栗(こりつ)す」

                        宋代

      寇凖が宰相となると、多くの役人は恐れをなして、己が股がわなわな

     と震え慄いた。

      寇凖は宋の名宰相の一人であるが、以前から事の善悪を峻別して

     事案に対処したので、いざ彼が宰相になると、多くの役人連中は皆 

     自分はどういう処置を受けるかと、顔色を失うほど恐れをなした

     ものである。

                        「宋名臣言行録・寇凖」

     》 契丹の侵攻 《   紀元1004年

       真宗の時代になると、契丹の侵攻はさらに激しさを加えた。

       契丹では、聖宗皇帝(6代)の時代は国力とみに充実し、その

      全盛期に入ろうとしていた。

       そして聖宗は、長年の懸案を一挙に解決すべく、

       999年 遂に宋を討つ詔を下した。

       手始めに宋の北辺を侵攻した。

       そして1004年、20万の大軍を擁して、宋の領内に怒涛の如く

      雪崩れ込んで来た。

       宋王朝は建国以来 最大の危機に立たされた。

       宋の朝野は震撼した。

       これに対して、副宰相の陳堯叟(ぎょうそう)は自分の故郷の蜀へ

      の避難を、同じく副宰相の王欽若は、やはり自分の故郷の江南に

      難を避けることをそれぞれ進言した。

       真宗は、さらに宰相の寇凖に意見を求めた。

       寇凖は言い放った。

       「我は腰抜けどもを血祭りに挙げ、然る後に北伐の兵を起す

      所存です」 と。

       真宗は寇凖の決意に心を動かされ、自ら出陣することとなった。

       出陣に先立ち、寇凖は朝廷の主な役人を各州の長官に任じ、宮中

      の回廊で勅命を拝受させ、州の軍権を掌握させてから、改めて

      訓示した。

       「汝らに濫りに戦うことを求めず。

       ただ一城一壁を失わば、当に軍法を以って処断せん。」

       一方では寇凖は、軟弱且つ狡猾な副宰相・王欽若に天子親征の

      決定を覆されることを恐れて、彼を名誉職的な軍団の長に任じて

      都から追い払い、後顧の憂いを無くしてから漸く出陣した。

       防衛軍の主力部隊は、衛南に軍を進めた。

       その頃、契丹の大軍は澶州に殺到して、三方面から包囲攻撃を

      かけていた。

       王欽若の守る城下にも契丹の大軍が押し寄せてきたが、王欽若は

      何の策も無く、ただ城門を閉じさせ、己は斎戒沐浴して経を唱える

      だけの為体(ていたらく)であった。

       宋の主力防衛軍の大将・李継隆らは、契丹の大軍を迎撃して、

      敵大将の撻覧(たつらん)を討死させるという活躍をした。

       その為 契丹軍は戦意を喪失して、戦線はしばし膠着状態と

      なった。

       時に寇凖と近衛軍司令の高瓊(こうけい)は、黄河を越えて

      澶州に根拠地を確保して戦うべきであると進言した。

       真宗は躊躇していたが、結局この策に従って黄河を越え、澶州に

      入城した。

       宋の将兵は、この時とばかりに一斉に万歳を唱えたので、数十里

      先に対陣していた契丹兵は、突然のこの騒ぎに気を呑まれたという。

                       「十八史略 宋・真宗」



      
      
        

      

      

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(真宗の勧学文)

     「真宗の勧学文」

                        宋代

      北宋の三代皇帝真宗は、学問を奨励して「勧学文」を遺している。

      文に曰く、

      「男児 平生(へいぜい)の志を遂げんと欲せば、

      六経勤めて窓前に向かって読むべし。

      (=男子たる者 出世を望むならば、先ずは六経を習熟すべし。)

        ※ 六経とは、儒学の経典で、

          易経・詩経・書経・礼記・春秋・楽経のこと。

      家を富ますには良田を買うを用いず、書中に自ずから千鐘の粟

     (ぞく)あり。

         ※ 良田とは、地味豊かな田畑。

            千鐘とは、きわめて多い量を云う。

            参考までに 1鐘=10釜=640升

      居を安うするには高堂を架するを用いず、書中に自ずから黄金の

     屋(おく)あり。

         ※ 居を安うするとは、住まいを按ずること。

            高堂は、高くて立派な邸宅。

      門を出ずるに人の随う者無きを恨むこと莫れ、書中の車馬は

     多くして簇(むら。=群)がるが如し。

        ※ 人の随う者無きとは、随行者の無いことをいう。

      妻を娶るに良媒無きを恨むこと莫れ、書中に女あり、顔玉の如し。

          ※ 良媒とは、良き媒酌人のこと。

             顔玉とは、宝玉のようにきらめく美人。

      男児 平生の志を遂げんと欲せば、六経勤めて窓前に向かって

     読むべし。



      

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(人間の疾苦を知らしむべし)

     「人間(じんかん)の疾苦を知らしむべし」

                        宋代

      天子には世の中の人々の患いや苦労は、努めて教えるべしという事。

      ☞ 人間(じんかん)とは、人の住む世界、世間をいう。

     》 諫院の設置 《

       至道二年(紀元997年) 太宗が崩じて、長子の趙恒が即位した。

       これが北宋の第3代皇帝・真宗である。

       真宗は勅命を以って、「諫院」を設置する。

       諫官には六名を任用して、その職責を定めさせた。

       秦の時代には「諫議太夫」という職制があったが、漢の時代にも

      文帝は賢人で正直な者を挙げて「諌め役」を置き、武帝は元狩五年

      に「諫太夫」を設置したことがあった。

       だがその後は、絶えて久しい制度であった。

       真宗の在位期間は二十六年に及んだが、宰相として李沆(りこう)、

      呂蒙正(りょもうせい)、寇凖(こうじゅん)、王旦(おうたん)

      などの歴々たる人物を輩出した。

       そのうち宰相として十一年の長きに及んだ王旦が副宰相に起用

      された時は、李沆が宰相であった。

       李沆は、財政規模の抑制と人民の負担軽減を政策に掲げたが、

      論語を好み己の信条とすることがあった。

       そして常日頃から、

       「聖人の言は、終身これを誦すべき」と胆に命じていたという。

       李沆は其の身は宰相でありながら、各地の水害・旱魃・群盗に

       関する情報を自ら天子に対して、毎日欠かさず報告していた。

       このような瑣末なことまで天子に報告することを、副宰相の王旦

      が苦言を呈すると、李沆は諄々と語った。

       「人主は少年なり。まさに人間(じんかん)の疾苦を知らしむべし。

       然らざれば、血気 将に剛となり(壮年に及んでから)、

      意を声色(音楽や女色)・犬馬に現(うつつ)を抜かすようになるか、

      はたまた土木・甲兵(戦争)・祷祠(祭祀)の事 作(おこ)らん。

       吾 老いたり、見るに及ばじ。

       これ参政(若い王旦らのこと)、他日の憂いとならん」、と。

       その時 王旦は、「李沆殿は将に聖人である」と感嘆したという。

       ※ 李沆の心配は、王旦が宰相として輔佐したら真宗の晩年

        に現実問題として生じることとなる。

                       「十八史略 宋・真宗」




     

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    tyouseimaru

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    出身地は四国八十八か所参りの発心の阿波、大阪を終の棲家とする。
    歴史好きで、城郭・神社仏閣・歴史遺跡巡りが趣味となる。
    歴史小説や時代小説を好み、往年の著名な時代小説の類は概ね完読と、自負している。

    自薦
    自著「中国通史で辿る名言・故事探訪」の 上・中・下の3巻を、 近い内に「電子書籍」での出版を予定しています。 今年一年間は、さらに工夫を加えるなどして、補記訂正などの校正を第一義としています。       
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