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    中国通史で辿る名言・故事探訪(草原の蒼き狼)

     「草原の蒼き狼、モンゴルを統一」

                        宋代

      11世紀末から12世紀にかけて、モンゴル高原には多くの部族が存在

     していた。

      それらの部族は、ケレイト、タタル、モンゴルらのモンゴル語系部族と

     ナイマン、メルキト、オングトらのチュルク(トルコ)語系部族に大別

     される。

      「上天より命(みこと)ありて生れたる蒼き狼ありき。

      その妻なる惨白(なまじろ)き牝鹿(めじか)ありき。」

      これはジンギス・カン(チンギス・ハーンとも)生誕を物語る祖先神の

     伝説である。

      即ち、ジンギス・カンの遥かなる始祖は蒼き狼であった、と。

      神話では、さらに夥しい先祖の名が続き、遂にエスケイ・バアトルに

     至り、その子としてテムジン(後のチンギス・カン)が現れる。

      時に、南宋の二代皇帝・孝宗の御世であり、乾道三年(1167年)の

     ことである。

      テムジンの父のエスケイ・バアトルが宿敵タタル部族(モンゴルの

     東北部)の罠にかかり毒殺された時、彼はまだ九歳の童子であった。

      彼の一家の構成は、母のホエルンと弟が三人・妹が一人、それに

     異母弟が二人いた。

      一家に遺された財産といえば、馬が九頭と羊が二十頭であったが、

     母の健気な努力で何とか露命を鎬ぎ、子供たちは厳しい環境の中で

     成長していった。

      当時の遊牧社会では、部族長を頂点とする男系の縦の絆、姻戚関係、

     盟友関係が重視された。

      その後 テムジンはオンギラト部から妻を迎え、父の盟友であった

     ケレイト部族(モンゴル中央部)のワン・ハン及び幼友達のジャムカと

     盟友を結んだ。

      それからしばらくして、テムジンはメルキト部族に襲われ、逃げ遅れた

     妻のボルテは拉致されてしまった。

      当に時ここに至り、盟友のワン・ハン、ジャムカが協力して、タタル部

     を撃ち滅ぼすことに成功した。

      かくして徐々に勢力を蓄え、周辺部族との戦いで名を成したテムジン

     は、遂に盟友であったジャムカと宿命の対決をすることとなった。

      テムジン側は劣勢であり、戦闘の結果はテムジンの敗走となった。

      ところが勝ったジャムカの陣営では、戦後の戦利品の分配を巡り、

     ウルウト・マンウト・コンゴタン等が陣営から離脱して、テムジン側に

     寝返ってしまった。

      テムジンは戦いに負けたにもかかわらず、勢力を一層強めるという幸運

     に恵まれたのである。

      その後の戦いは連戦連勝で、コイデンで再度 ジャムカと対決すること

     になったが大勝し、ジャムカは同盟軍のワン・ハンに降った。

      やがて、テムジンの急成長は、これまで長年 協力してきた盟友

     ワン・ハンの心に翳りを生じさせることとなった。

      そして両者は対立するようになり、テムジンは苦戦を強いられたが、

     最後には難敵を撃ち破ることに成功した。

      かくしてテムジンは、モンゴル高原の東部にあった二つの大部族である

     タタルとケレイトを滅ぼし、その勢いを駆って西モンゴルのナイマンを

     撃ち滅ぼし、全モンゴルを支配するようになった。

      そして1189年には、モンゴル二十一氏族連合の盟主となり、

     「可汗」の称号を得るようになった。

      ※ 二十四正史の「元史」では、宿命の対決はテムジンの勝利と

       為すが、「元朝秘史」では、テムジンが敗れてオノン河の谷に

       逃れたと記し、矛盾がある。

        そして秘史では、その後 戦利品を巡りジャムカ陣営では分裂

       が起こり、大局的にはテムジン陣営の勝利となったのだとみなす。



       

      

      

      

      

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(燕蝠の争い)

     「燕蝠の争い」

                        宋代  

      事の是非を分別しないこと。

      晨(あした。=朝)と黄昏(たそがれ。=晩)についての、燕と蝙蝠

     (コウモリ)の是非を分別しない者同士の言い争い。

      燕は日の出が朝で、日の入りが晩だと云う。

      蝙蝠は逆に日の入りが朝で、日の出が晩だと云う。

      互いに言い争ったが決着がつかず、鳳凰に訴え出ようとした。

      ※ 鳳凰は想像上の動物であるが、謂わば鳥類の神様的な存在

        と看做されていた。

      その途次、一羽の小鳥に出会い、小鳥は燕に向かって言った。

      「鳳凰は眠りに就いていて、すべてはコノハズクが代理しているよ」

     と。

        ☞ コノハズクは、漢字で「木葉梟」と書き、梟(ふくろう)

         の一種。

      王安石の新法に反対する蘇軾が、同じく反対する弟の蘇舜擧(蘇徹)

     に文を贈って言った。

      「どうして燕や蝙蝠(こうもり)に習い、しばしば朝や晩を言い争う

     として、王庭老(王安石)等のコノハズクのような者が、是非を弁別し

     ないのを謗ろうとするのですか」と。

      



      

       

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(程門、雪に立つ)

     「程門、雪に立つ」

                        宋代

      門弟が師を尊ぶことの喩え。

      程頤(伊川)の門弟が師に見えようとしたが、師が瞑想していたので、

     長い間 雪中に侍立したの意。

       ☞ 侍立とは、貴人に付き添って立つこと。

      程伊川の門弟の游酢(ゆうさく)と楊時の二人が、師に見えようとした。

      だが師は端座して深く瞑想に耽っておられたので室には入らず、雪の

     降る戸外で侍立し、久しく去ろうとしなかった。

      やがて師は顧みて言った、

      「二人はまだここにいたのか。日も暮れて来たので、しばし宿舎に就き

     なさい」と。

      二人が退き下がると、門の外の雪は深さが尺余もあった。

      その厳しさはかくの如くであった。

                 宋の朱熹・李幼武編 「名臣言行録」

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(視の箴)

     「視の箴(しん)

                        宋代

      物事を正しく視ることの戒め。

        ☞ 箴は、戒めるの意。

      宋の「程伊川(ていいせん)の四箴」の内の一つ。

      「心は本(もと)虚、物に応じて跡無し。

      之を操るに要有り。視ること之が則(のり)たり。

      (=心は、本来的には実体の無いものであり、万物に応じて処処変化

       し、その跡は見ることが出来ない。

         そこで要領というものが有り、正しく物事を「視る」ということが

        其の要諦なのである。)

      蔽前(へいぜん)に交われば、其の内(うち) 則ち遷(うつ)る。

      (=眼の前を覆えば、どうしても安易に陥りやすいもの。)

      之を外に制して、以って其の中(うち)に安(やす)んじ、

     己に克(か)ちて礼に復(かえ)る。

      (=そこで、眼を覆う元凶となる物欲を抑えて、心を安らかにし、

       礼に立ち戻るべし。)

      久しくして誠有り。」

      (=さすれば自ずと、誠実な心になれよう。)


      ※ 「視の箴」は、「聴の箴」・「動の箴」・「言の箴」と共に

        「程伊川(程頤)の四箴」といい、外物に捉われない心の修養説

       である。

        「視の箴」は、「論語 顔淵篇」の

        「礼に非ざれば視ること勿れ」を敷衍し発展させたもの。



       

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(聖人の道は、耳に入って心に存し)

     「聖人の道は、耳に入って心に存し、
        
      之を積めば徳行となり、之を行えば事業となる。

      文辞のみを以ってする者は、陋(ろう)なり。」
     
                        宋代

      学問の本来の目的は、よく学んで心に留めることに在り、且つ又

     修養を重ねて聖人の道、即ち道徳を体得することである。

      学問が唯 文章を作るとか、文章の巧拙を競い合うというような事だけ

     では、その学ぶところは浅く、卑しいものとなる。

        ☞ 陋とは、心や知識が狭く、卑しいの意。

                   「近思録 為学類」より、周濂溪の言葉。


      

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(泥中の蓮)

     「泥中の蓮」

                         宋代

      俗世間にありながら、周囲の穢れに染まらず潔白に身を保つ人の喩え。

      蓮が泥の中で育ちながら、穢れることなく美しい花を咲かせる風情

      から生まれた諺。

      周敦頤の「愛蓮説」が出典。

     「水陸草木の花、愛すべき者 甚だ蕃(多)し。

      晋の陶淵明は独り菊を愛す。
     
      李唐(唐王朝は李姓の国)より来(このかた)、世人甚だ牡丹を

     愛す。


      予独り、蓮の汚泥より出でて染まらず、清漣(清らかな漣)

     洗われて妖(怪しい美しさ)ならず、中は通じ外は直く(茎の中は穴が

     通じているが、外側はまっすぐに伸びている)、蔓あらず枝あらず

     (よくはびこる蔓や枝がない)香り遠くして益々清く、亭亭

     (高く聳え立つ様)として浄(きよ)く植(た。=立)ち、
     
     遠観すべくして褻翫(せつがん)すべからざるを愛す。

     (=遠くから見ることはできるが、狎れて玩ぶことが出来ないのを

      愛すのである。)

      予 謂(おも)えらく、

      菊は花の隠逸(世の中から隠れ逃れる)なる者なり、

      牡丹は花の富貴なる者なり、

      蓮は花の君子なり、と。

      嗚呼 菊を之れ愛するは、陶(淵明)の後に聞くこと有ること

     鮮(すく)なし。

      蓮を之れ愛するは、予に同じき者 何人ぞ。

      牡丹を之れ愛する者は、宜(むべ)なるかな衆(おお)きこと。

                    「古文真宝 後集」

       菊の別名を「隠逸花」といい、

       牡丹の別名を「富貴花」と云うのは、

        この愛蓮説によるもの。

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(無極にして大極)

     「宇宙の生成は、無極にして大極」

                        宋代 

      宇宙における生成の過程は、時を経て無極にして大極なり。

      万物の本体たるべき大極は、動いて陽を生じ、動き極まって静なり。

      静にして陰を生じ、静 極まって復た動なり。

      一度は動、一度は陰、互いのその根と為り、陰に分れ陽に分れて

     両儀立つ。

      陽変じ、陰合して、水火木土金を生ず。(陰陽五行説)
     
      五気順布して、四時行わる。

      五行は一陰陽なり。陰陽は一大極なり。大極もとより無極なり。

      五行の生ずるや、各々その性を一にす。

      無極の真、二五(にご)の精 妙合して凝り、

     乾道は男を成し、坤道は女を成す。

      二気交感して、万物を化成す。万物 生々して変化極まりなし。

      太極図説を著した周敦頤は、太極を有となし無極を無となすが、

     宇宙の本源は一面から考えれば、「無」であり、また「有」であると

     する。
     
      あるいは、また有と無とを超越したものである、とも説く。

      儒教では、「太極両儀を生ず」といい、宇宙の本体は大極であり、

     それらから両儀、即ち陰と陽を生じる、と。

      陰陽は女男であるから、それから万物が生じるのだと考えるのである。

      その一方、老子は、

      「道は一を生じ、一は二を生ず」と云う。

      この場合の一は儒教の太極であり、二は儒教の陰陽である。

      しかし老子はその前に道を考え、その道が一を生じると云う。

      だがその論理の筋道から言って、その道は一であってはならない

     のである。

      つまり「有」であってはならないから、老子は道は「無」であると説く

     のである。

                  南宋 呂祖謙・朱熹 「近思録 道体」

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(私隙を以って公道を廃せず)

     「私隙を以って公道を廃せず」

                        宋代

      公務上に於いて、同僚などと個人的な確執があったとしても、その故を

     以って相手の明らかな事物の道理まで損なうようなことはしない。

       ※ 私隙は個人的な不和・不仲。

          公道は正しい道理。

      北宋の時代、趙卞(ちょうべん)が御史たりし時、藩鎮と事を論じて

     確執が生じた。

      それから後に王安石が宰相となるに及んで、、藩鎮はしばしば趙卞の短

     (短所)を上(しょう。天子のこと)に訴えようとしたが、安石は之を

     阻んだ。

      或る日の事、上は藩鎮の人となりを王安石に下問した。

      安石対えて曰く、

      「趙卞に問わば、即ち鎮の人となりを知らん」と。

      上が趙卞に問うと、

      「忠臣なり」と対えた。

      上曰く、

      「何を以って之を知る」と。

      趙卞曰く、

      「昔、仁宗皇帝 違予(天子の病のことをいう)なりし時、(藩鎮は)

     鎮守として皇祠(天子を祀った小さな祠)を建立して、以って社稷を

     安ぜんことを願い、 疏(そ。上奏文)を十九度 上(=奉)り、

     命を俟つこと百日、鬚髪(しゅはつ)皆 白し。

     忠臣に非ずして何ぞや」と。 

       ☞ 鬚髪は、顎鬚と頭髪。

       ※ 仁宗は第四代皇帝(在位期間は1022年~1063年)

      上、之を然りとなし、既に退く。

      後になって安石は趙卞に言った。

      「公(あなた)は、鎮と隙あるに非ずや」と。

      趙卞曰く、

      「何ぞ敢えて、私隙を以って公道を廃せんや」と。

      安石 大いに恥じたという。

                           「宋史 趙卞伝」

        

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    Author:tyouseimaru
    出身地は四国八十八か所参りの発心の阿波、大阪を終の棲家とする。
    歴史好きで、城郭・神社仏閣・歴史遺跡巡りが趣味となる。
    歴史小説や時代小説を好み、往年の著名な時代小説の類は概ね完読と、自負している。

    自薦
    自著「中国通史で辿る名言・故事探訪」の 上・中・下の3巻を、 近い内に「電子書籍」での出版を予定しています。 今年一年間は、さらに工夫を加えるなどして、補記訂正などの校正を第一義としています。       
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