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    中国通史で辿る名言・故事探訪(天子の壱道)

     「天子の治国論考」

                        南宋

      天子の天下を治める要道は、唯一つ 臣民の多くの意見を一つに

     取りまとめることに尽きる。これを「天子の壱道」という。

      「墨子 尚同上」によれば、

      「天子唯能く、天下の義を壱道す、是を以って天下治まる。

      一人(いちにん)は則ち一義、二人(ににん)は則ち二義。」

      天子は天下の人々の意見や主張を一つに取りまとめなければ

     ならない。
     
      それが治国の要道と言えるのである。

      一人いれば一つの主張があり、二人いれば二つの主張がある。

      人はそれぞれに、異議異論を持つものである。

      それがまた国が治まらない理由でもある。

      国を治めるには、小を棄て大となるべき纏まった主張が無ければ

     ならない。 

      小を取るか大を取るかは、衆議を尽くさねばならないが、最終判断

     は天子に在ると言える。  

      南宋の初期、悲劇的な最期を遂げた岳飛に対する民衆の尊崇の

     念は絶大なものであった。

      その反動として、彼を罪に貶めた宰相秦檜の評判は手酷いもの

     であった。

      功罪相半ばす、という言葉もあるが、こと秦檜に関しては罪悪の方

     が圧倒的である。

      だが秦檜の動機がどうであれ、秦檜は軍閥を徹底的に抑え込み、

     金との和平協定を結ぶことにより、宋の政治的特質である文官・

     士大夫優位の絢爛たる文化社会が維持できたとする秦檜擁護論

     もある。

      商工や農業も大いに発展し、国都である杭州は人々の耳目を奪う

     ような空前の繁栄をもたらすことが出来たのである。

      秦檜悪玉論には徹底したものがあるが、秦檜自身にしても、彼が金

     に抑留される以前には、対金強攻論者であったという事実は隠し難い

     ものがある。

      しかし宋の時代は、漢民族の中華思想が異民族に粉砕され、屈辱を

     味わされた時代であり、所謂 尊王攘夷思想の勃興期に重なり、秦檜

     は必要以上に姦臣視され国に仇なす国賊として扱われた面が強かった

     といえる。

      後のことになるが、岳飛は救国の英雄として、杭州の西湖の辺に

     御廟が建立されたが、その廟前に鎖で繋がれた秦檜夫婦と政敵・

     張駿らの石像が附置された。

      ※ 岳飛廟が設置されてから、中華人民共和国の初期まで、

        人々は延々と岳飛廟に附置された秦檜夫婦の石像に故意に

        「排尿」するとう風習があったようである。



         



      

      

      

    テーマ : 中国古典・名言
    ジャンル : 学問・文化・芸術

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(童稚の恥なからんや)

     「童稚の恥なからんや」

                       南宋

      幼児の恥さえないないのか、という相手を侮辱しての嘆き。

     《 紹興の和議成る 》   紀元1142年

      南宋は講和の結果、金への「歳貢」として、

     銀二十五万両・絹二十五万匹を呈するという条件を呑み、形式的に

     は金を「宗主国」と仰ぐことになった。

        ※ 歳貢とは年貢のことであるが、反面では朝貢を強い

         られることを意味する。

      この和議において、宋と金の両国は、淮水・函谷関を境界線として、

     中国を南北にほぼ折半するという国境線を確定した。

      北宋の全盛期には、その支配領域は三百余州を数えたが、曽ての

     遼(契丹)が雲燕十六州を占領したどころではなかった。

      金は、淮水以北の百十数州を割譲させたことになるのである。

      実に屈辱的な講和であったが、それでいて猶 金に抑留されていた

     前皇帝の欽宗の帰還は許されなかった。

      金のこの措置については、秦檜の裏工作があったと言われる。

      秦檜は高宗の密かなる内命を受けて、徽宗・鄭后・王后の棺と

     生母の韋賢妃の帰還を裏取引の条件としたが、欽宗の帰還は要求

     しなかったという。

      高宗は金に圧迫されて南遷し、付き従った臣下に擁立されて皇帝

     に収まったが、先の皇帝の欽宗に譲位された訳でも、爾後承認された

     皇帝でもなかった。

      従ってその地位は至って不安定なものであり、欽宗が帰還すれば

     当然 辞退すべきものであったので、秦檜に密かに頼み込んで、

     欽宗が帰還できないように運動したと言われる所以である。

      《 胡銓の直諫の極め付け 》

      紹興和約に対する主戦派の反対は言うまでもないが、特に南宋

     朝廷の編修官・胡銓(字は澹庵)の反対の上奏文は殊に有名である。

      その上奏文に曰く、

      「此の膝 一度屈すれば、復(ま)た伸ぶべからず。

      天下の己を議するを畏(おそ)れ、台諫(だいかん。御史台の諫官)・

     順臣(侍従)をして共に謗りを分かたむ。 

      祖宗廟社の霊ことごとく夷狄に汚され、祖宗の赤子(せきし。

     人民のこと)尽く左衽(さじん)となり、朝廷の宰執

     (宰相以下の顕官)みな陪臣と為らん。

       ※ 左袵とは、異民族に支配されること。

         当時の異民族は、着物の襟を左前に合せる風習があった。

      三尺(さんせき)の童子は無知なるも、犬豕(けんし。犬や豚)

     指して拝させしめば、怫然(ふつぜん)として怒らん。


       ※ 三尺の童子とは、七,八歳の子供。

          尺は「せき」と読み、一尺で二歳半に数えた。

      堂々たる天朝、あいひきいて犬豕を拝せんとす。

      即ち童稚の恥なからんや。


                   「十八史略 宋」、

                 胡銓 「高宗に上(たてまつ)る封事」

       ※ 封事とは、天子一人だけに見せるために、封入して提出

         される機密の意見書。





      
      

      

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(怒髪、冠を衝く)

     「怒髪、冠を衝く」

                        南宋時代

      非常に激怒することの喩え。

      怒りで逆立った髪の毛が、冠を突き抜けるの意。

      この成語の初出は、「史記 廉頗・藺相如列伝」にある。

      《 岳飛が憂国の心情を詠った詩 「満江紅」 》 

          怒髪 冠を衝き、欄に憑(よ)る処、

          瀟瀟(しょうしょう)たる雨 歇(や)みぬ。

        (=激怒して欄干に寄りかかると、悲しげに降る雨音は

         止んでしまった。)

          眼を擡(もた)げて望み、天を仰いで長嘯(ちょうしょう)

        すれば、  

          壮懐 激烈たり。

        (=目を持ち上げて天を望み、長らく募る思いをうそぶけば、

         我が胸中に勇壮な思いがほとばしる。)

          三十の功名 塵と土、 

          八千里の路 雲と月。

        (=三十歳に至るも我が功名は、塵や土に塗れるばかりで、

         ただ月と雲を追って各地を転戦しただけなのか。)

          等閑(なおざり)にする莫れ、

          少年の頭 白くなりて空しく悲しみの切なるを。

        (=疎かにしてはならない。

           いつの日か老いた後にも功名も祖国の復興も無くして

          悲哀に暮れないように。)

          靖康の恥 猶 未だ雪(そそ)がず、

          臣子の恨み 何れの時にか滅せん。

        (=靖康の恥は未だ雪がれず、

          我等臣下の恨みは、何時 消えて無くなるのだろうか。)

       ※ 靖康の恥とは、

          北宋の靖康元年(1125年)、北宋が女真族の金に寇略

         されて、国都・開封は陥落し華北を失い、徽宗・欽宗以下

         三千余人が捕虜となり金の最北の地に連行された事件。

          之により北宋は滅亡した。


          長車に駕し 賀蘭山を踏破して欠かん。

        (=乗り物に乗り、賀蘭山を撃破して、敵rを攻め従えよう

         ではないか。)

          壮士 飢えて餐(く)らうは胡虜の肉、

          笑談 渇して飲むは匈奴の血。

        (=憂国の壮士が喰らうのは、金の捕虜たちの肉であり、

         談笑の後の、喉の渇きを癒すのは彼らの血である。)

          頭(はじめ)より旧山河を収拾するを待ちて、

          天闕(てんけつ)に朝せん。

        (=我らの奪われた故地を回復するのを待ってから、

         宮城で天子に見えん。)


           この岳飛の「憂国の詩文は」、中国の「四大美文」

           の一つに数えられる。  

      

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(十年の功、この一日に廃れたり)

     「十年の功、この一日に廃(すた)れたり」

                        南宋時代

      北宋亡びて後、南宋王朝が樹立されたとはいえ、金の圧迫は熾烈な

     ものであった。

      この金の侵寇に対して敢然と、義勇軍を募って奮戦した将・岳飛の

     高宗の佞臣・秦檜に対して発した痛罵の言葉。

     》 紹興の和議と秦檜の策謀 《

       南宋の高宗は、宰相秦檜の助言により、金との講和に傾きかけて

      いた。

       だが愛国の義勇軍を率いる岳飛は、各地で転戦して敵軍を撃破し、

      意気すこぶる軒昂であった。

       この岳飛軍の動きを知り驚いたのは、秦檜である。

       これでは、金との講和が出来なくなると即断した。

       今や、金の上層部も講和に傾きかけているこの時期に、余り勝ち

      過ぎると反って金を激怒させ、講和どころの問題ではなくなる、と。

       秦檜は直ちに高宗に拝謁し、岳飛軍撤退の勅命を懇請した。

       「岳飛を撤退させない限り、講和は成りません。

       御父帝の棺は言うに及ばず、太后や皇后の御帰還の望は潰え

      ましょう。如何なさいますか」と。

         ※ この事件を靖難の変という。

       高宗も母や后の事を持ち出されては如何ともし難く、ここに至って

      金字牌の勅令が出された。

       だが一回の金字牌では、岳飛に無視される懸念もあって、念の為に

      十二回も勅令が出されたのである。

         ※ 金字牌とは、最も重要な勅命を伝える時に、文書に泥金

          の文字を用いて書かれた勅令。

       かくして召喚された岳飛の義勇軍は公収・解体され、その見返りに

      岳飛は枢密副使という高位を与えられたが、紹興十一年

      (1141年)、ライバルたる張浚将軍に無実の罪を着せられ、それを

      受けて秦檜は岳飛を謀反の罪で上奏した。

       岳飛親子と部下の張憲将軍は獄に投じられた。

       その時 岳飛は捕吏に対して自らの信念を示す為、衣服を破り、

      背中に彫った「尽忠報国」の刺青を見せた。

       だがもはや如何ともし難く、

       「十年の功、この一日に廃れたり」と、悲憤慷慨して涙を流した。

       だが秦檜夫婦は非情にも岳飛の処刑を急がせ、間もなく刑が執行

      された。

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(誠忠岳飛)

     「精忠岳飛」

                        南宋

      岳飛(字は鵬挙)は南宋初期、一兵卒から身を起し、湖北一帯を

     宰領する軍閥の長と為り、隣接する異民族国家の金の侵寇に苦慮

     する南宋王朝の為に孤軍奮闘した忠君愛国の武将。

      彼のその愛国心は、高宗をして、

      「精忠岳飛」と言わしめ、

      その四文字を記した軍旗が下賜された。

      南宋では、講和派の秦檜(しんかい)が宰相となった。

      高宗は詔を発して、金との講和を協議させた。

      高宗は即位以来、毎年のように使者を金に遣り、

      「我が国は帝位を用いず、金の正朔(国家の暦)を奉じて、

     藩臣の礼を執る。

      由って、侵寇を中止されたい」、と屈辱の提議をし続けてきた。

      だが使者のほとんどは捕縛されて帰還してこなかった。

      金はこの提議を無視して、繰り返した宋に侵寇して来たが、余り

     成果は挙げられなかった。

      とりわけ長江以南は寇略不可能と知るようになり、抑留していた

     南宋の秦檜を納得ずくで帰国させ、金の為に宋朝内部で攪乱工作を

     画策させようとした。

      前年の大斉国(金の傀儡国家)による宋への侵攻が失敗に帰して、

     金もようやく和議に傾き出した。

      ところが紹興十年(1140年)、金軍は再度大々的に侵寇を開始

     した。

      金は宗弼(そうひつ。兀朮《こつじゅつ》)を総司令官に任じて、

     全軍十二万で四方面軍を編成して南下した。

      南宋軍は将軍劉琦が、金軍の総司令官宗弼の率いる主力軍を

     順昌府で撃破した。

      これには秦檜は大慌てで、高宗に奏上して、劉琦を戦線から召喚

     させた。

      その一方、岳飛も郾城(えんじょう)で金軍を撃破し、もう少しの

     ところで金の宗弼を捕虜にするところであった。

      そして岳飛は、なおも朱仙鎮まで進撃し、宗弼を開封に逃げ帰らす

     という大殊勲を挙げた。

      岳飛軍は五百騎でもって、十万金軍を破ったと喧伝されるほど、

     当に寡にして衆を破るという奇跡を起こしたのである。

      これに対して、秦檜はまたもや急遽、上奏して岳飛を戦線から後方

     に召喚させた。

      その後 宗弼は、河南・河北の進駐軍と本国からの招集兵を再編成

     して再挙を図り、翌年 紹興十一年(1141年)盧州を陥落させ、

     和州に侵入した。

      先に召喚された劉琦及び楊沂中(ようきちゅう)の率いる部隊は、

     またもや槖皐(たくこう)で撃破した。

      秦檜は再び高宗に上奏して、劉琦・楊沂中の部隊を撤退させ、

     楊沂中は臨安に、劉琦は太平州に、そして軍閥の将である

     張浚(しゅん)は健康に後退せしめた。

      その後,三人とも宣撫使は解任され、その指揮する部隊は天子の

     直属軍に編入されることになった。

        ※ 宣撫使とは、占領地に於いて占領軍の目的や方針などを

         知らしめ、人心を安定させることを任務とする勅任官。

      だが岳飛の義勇軍は、意気軒昂たるものがあり、なおも中原回復を

     目論み、しきりに軍事行動を起こそうとしていた。 

      

      

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(竜頭蛇尾)

     「竜頭蛇尾」

                       宋代

      竜のような立派な頭と蛇のような貧弱な尾の意。

      ことの初めは盛んで、終りになると振るわないことを云う。

      「頭でっかち尻すぼみ」と同義。

      宋の時代、陸州に黄檗(おうばく)系の禅僧で陳尊者(名は道明)

     という者がいた。

      ある時、陳尊者が一人の僧に出会った。

      陳尊者はそこで、彼に対して禅問答を仕掛けた。

      「近隣 いずれの処ぞ」と。

      (=貴方は何処から来られたのですか。)

      対して その僧は、

      「喝」と。

      陳尊者はそこで、再び問答を試みようとしたが、

     その僧は、間 髪を入れず再び、

      「喝」と。

      陳尊者はその僧に、

      「三喝、四喝の後、什麼生(そもさん)」と。

        ☞ 什麼生とは、如何にの意。

      その僧は、遂に陳尊者の鞭打つような言葉に屈してしまった。

      陳尊者はその僧を評して言う、

      「只だ恐る、竜頭にして蛇尾ならんことを」と。

      (=その僧の最初の勢いは竜頭であるが、言葉に詰まって屈服する時

       は勢いも無く蛇尾となることが、唯々 心配だ。)

        即ち一見して立派な僧に見えるが、未だ本物には程遠い、

       と言う程の意。  

                        南宋 仏果圜悟 「碧巌録」


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    中国通史で辿る名言・故事探訪(胡馬北風)

     「胡馬北風」

                        宋代

      「越鳥南枝」とも。

      故郷を忘れ難いことの喩え。

        「文選  古詩・十九首其の三」

            胡馬は北風に依り、

            越鳥は南枝に巣くう。 

      (=北方の異民族の地から来た馬は、自ずと北風の吹く度に生まれ

        故郷のある北方を慕っていななき、

         南方の越から飛んできた渡り鳥は、南にある故郷を慕って

        樹木の南側に張り出した枝に巣を構えるもの。)


      ※ 「文選」は、南朝・梁の昭明太子・蕭統の編。

         古詩とは、漢代に成立した一連の作者未詳の古体の詩形で

        五言詩である。



      

                       

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(臣の精力 此の書に尽く)

     「臣の精力 此の書に尽く」

                       宋代

      宋の元豊七年(1084年)、時の皇帝神宗に司馬光が「資治通鑑」の

     完成を告げた上奏文の中の言葉。

      司馬光は資治通鑑の完成に至るまで十九年の年月を要したが、

     全二百九十四巻の完成後、二年にしてこの世を去った。

      この資治通鑑は、漢の司馬遷の「史記」と並んで「史書の双璧」と

     称せられる。

      周王朝末期の32代威烈王二十三年(紀元前404年)から、

     五代十国時代最後の後周の世宗・顕徳六年(960年)までの

     百十三君主・千三百六十二年に亘り、国事・軍事・君臣の言行録を

     編集。

      とりわけ南朝・五代を重視した、「編年体史書」である。

      ただ中国の伝統普遍的歴史観の「紀伝体」の記述によらないので、
     
     正史とは認められない。

       この資治通鑑は、当初は「通史」と呼ばれていたが、

        後に神宗が「資治通鑑」と名付けたのである。

         即ちその名付けた理由を曰く、

         「其の治道に資(たすけ)あり、

        且つ歴代を通して鑑の如く明らかなり」と。



      

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(紅一点)

     「紅一点」

                        宋代

      多くの男子の中に、ただ一人の女性が混じって目立つこと。

      また多くのものの中で、際立って優れているものの喩え。

      宋の王安石の「石榴(ざくろ)を詠む」が典拠。

        「石榴を詠む」

          万緑叢中(ばんりょくそうちゅう) 紅(こう)一点

          (=見渡す限りの緑の草木の中に、赤い一輪の花

           《石榴》が咲いて目立っている。)

          人を動かす春色 多きを須(もち)いず

          (=人を感動させる春景色には、多くの彩色を必要とは

           しない。)

                       宋  胡継宗撰 「書言故事大全」

          この詩は現今では王安石の作ではない、との説もあり

          真偽は不明。

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(靑山 骨を埋むべし)

    「靑山 骨を埋むべし」

                        宋代

      男子たる者 何処の墓地にでも自分の骨を埋めることが出来るという

     気概を表現する言葉。

      必ずしも故郷でなくてもよいという蘇軾の自の感懐の詩の一句から。

      蘇軾は、一時は死を覚悟したと言われる。
      
      獄に繋がれた時には、既に四十歳であったが、獄吏たちは新法派に

     迎合しようとして、蘇軾を手厳しく取り扱った。

      蘇軾はその時の心情を綴り、弟(蘇徹)に贈ったのが次の詩である。

        「獄中にて子由に贈るの詩」

         予、事を以って御史台の獄に繋がる。

          ☞ 御史台とは、後漢時代に設置された官吏監察機関で、

           明代に廃止されるまで存続した。

         獄吏、梢(や)や侵(おか)さる。

         自ら度(おも。=思)う堪うる能わじ。

         獄中に死して子由と一別するを得ざらん。

         故に二詩作りて獄卒の梁成に授け、以って子由に遣(おく)る。 


            聖主は天の如く万物は春なるに

             ☞ 聖主は天子。

            小臣は暗愚にして自ら身を亡ぼす。

            百年未だ満たざるに先ず債を償い

            (=百歳にならずして死せば、)

            ☞ 債を償いとは、前世の債務を償うということであり、

              死を意味する。

            十口(じゅっこう)は帰する無く更に人を累(わずら)

           わす。

            (=やがて私の十人の家族は寄る辺なく、君の世話に

             なるだろう。)

            是(いた)る処の靑山、骨を埋むべきも

            (=私は何処に骨を埋めてもよいのだが、)

            他年の夜の雨に独り神(こころ)を痛ましめん。

            (=将来に降る夜の雨に、君独りを悲しませることに

             なろう。)

            君と世世 兄弟と為り

            (=君とは尽くせぬ因縁であったが、)

            更に人間(じんかん)の未だ了(おわ)らざる因

           (えにし)を結ばん。

            (=来世もまた兄弟となり、縁を結びたいものだ。)

             ☞ 人間とは、人の住む世界。 

      

      

      

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    テーマ : 詩経・漢詩・詩賦等
    ジャンル : 学問・文化・芸術

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    tyouseimaru

    Author:tyouseimaru
    出身地は四国八十八か所参りの発心の阿波、大阪を終の棲家とする。
    歴史好きで、城郭・神社仏閣・歴史遺跡巡りが趣味となる。
    歴史小説や時代小説を好み、往年の著名な時代小説の類は概ね完読と、自負している。

    自薦
    自著「中国通史で辿る名言・故事探訪」の 上・中・下の3巻を、 近い内に「電子書籍」での出版を予定しています。 今年一年間は、さらに工夫を加えるなどして、補記訂正などの校正を第一義としています。       
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