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    中国通史で辿る名言・故事探訪(鉄心石腸)

     「鉄心石腸」

                       南宋

      「石心鉄腸」とも。

      外界の事物に影響されることのない不動の心の喩え。

      意志は強固でありかつ精神も強靭なこと。

      鉄のような心と石のような腸(身体)の意。

     《 南宋最後の耀ける星・文天祥 》

       文天祥の鉄心石腸の祖国愛、憂国の情、その豊かで溢れるばかり

      の詩才と博識は、元の初代皇帝フビライ汗(忽必烈)をして

      彼の帰順工作に腐心させたと云われる。

       文天祥は南宋の第8代皇帝端宗を擁立する陳宜中らに福州

      で合流するが意見が合わず、その後二年間 福建の内陸部を

      拠点にして別働隊として元軍を攪乱した。

       だがその後 興国に於いて元軍の急襲を受けて捕虜となった

      が、一旦は逃げ出して帝の後を追い、広東に至り海豊の五坡嶺
     
      で再度捕えられた。

       文天祥は隙を窺って自殺しようと図ったが果たさず、元軍の本営

      に連行された。

       だが元軍の大将である張弘範(南宋軍からの降将)は、彼を

      客人として手厚くもてなした。

       やがて張弘範は、猶も激しく抵抗する南宋軍の張世傑の軍に

      送るべき「降伏勧告文」を文天祥に書かせようとした。

       だが文天祥は肯んぜず、遂に張弘範は崖山の攻略に文天祥

      を帯同することにした。

       その途中においても、張弘範は盛んに文天祥に要求したが、、

      零丁洋を渡る時 文天祥は己の気概を詩に託した。

        文天祥 「零丁洋を渡る」

         辛苦遭逢(そうほう) 一経(いっけい)より起ち、

         干戈落落 四周星。

         (=経典を学んで身を立て、あらゆる辛苦に遭遇し、

          戦いに際して志を得ることも無く、はや四年が

          過ぎ去った。)

         山河粉砕し、風は絮(じょ)を飄(ひるがえ)し

         身世(吾が身一代)浮沈 雨は萍(へい)を打つ。

         (=その間、祖国の山河はことごとく破壊され、風が柳の

          綿を吹き払うが如く、

           我が身も雨に打たれる浮き草のように浮き沈み

          してきた。)

           ☞ 身世とは吾が身一代。

         惶恐灘頭(こょうきょうたんとう) 惶恐を説き、

         零丁洋裏 零丁を歎ず。

         (=先に惶恐灘(韓江十八灘の一つ)の頭(ほとり)では、

          大いに恐るべき事態への対応策を主張し、

           今またこの零丁洋という所では、嘆かわしくも一人ぼっちの

          身を嘆いた。)

           ※ 大いに恐るべき事態とは、元軍が建康を陥落させ、

             臨安に迫った急変をいう。

           ☞ 惶恐は大いに恐れるの意。

              零丁は落ちぶれて孤独な様。

         人生 古より誰か死なからん、

         丹心を留取して汗青を照らさん。 

         (=人は誰しも死なない者はいない。

           せめて、この真心をこの世に留めておき、史書の上に

          輝きたいものだ。)


       この詩の接して、流石に張弘範もきっぱり断念したという。

       だがその後もフビライ汗の意を受けた将軍たちによる、硬軟両面

      での情理ある説得を試みたが、文天祥は頑として受け入れようと

      しなかった。

       そこでやむを得ず地下牢に監禁幽閉される身となったが、それから

      二年間の間 なおも帰順の説得は続けられたが、彼の不屈の意志は

      変わらなかった。

       そして監禁三年目になると、さすがにフビライ汗も帰順させることを

      諦め、重臣たちに其の身柄釈放を協議させようとした。

       ところが折り悪く、中山地方で宋の天子と称する者が数千の兵を

      集めて、文天祥奪回を画策していることが判明した。

       獄中にある文天祥は、今や元に対する抵抗運動の象徴的存在に

      までなっていたので、将来を危惧したフビライ汗は、遂に彼を処断

      することに決した。

       

         

       

       

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(亡宋の三傑)

    「亡宋の三傑」

                        南宋

      亡びゆく南宋で最後の光彩を放った忠君愛国者は、文天祥・

     張世傑・陸秀夫の三人に尽きると言われる。

      この三人は、人呼んで「亡宋の三傑」という。

      文天祥(字は宗瑞。号は文山)は二十歳の時、科挙の進士科の

     試験で状元、即ち主席合格者となったが、その時の論題「法天息まず」

     は極めて秀策であったので、試験官の王応麟をして、時の天子・理宗

     に言わしめたものである、

      「陛下、ここに人材を得たことを慶賀致します」と。

      文天祥は官吏としては各地の知事を歴任した後、祖国の危機に際し

     ては私財を擲って義兵を募り、次第に勢力を拡大して擁する兵団は

     二万に及んだ。

      陸秀夫(字は君実)は江蘇の出身で、文天祥とは科挙の進士科の

     同期であった。

      彼は張世傑らと端宗を擁立し、端宗亡き後 崖山の戦いで敗れ、

     幼帝を背負って海中に身を投じた忠臣として知られる。

      張世傑は河北の出身で、初めはモンゴル軍の麾下にあったが、罪を

     得て南宋に逃亡し、南宋軍の下級軍人から身を起こして、何時しか

     その軍事的才能を呂文徳に認められて将となった。

      元軍に抵抗する南宋軍に在って、次第に武将としての才覚を現し、

     いつしか反抗元軍を旗幟とする軍団の指揮官となった。


      

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(一利を興すは一害を除くに若かず)

     「一利を興すは一害を除くに若かず」

                        元代

      何事においても新たに事を興そうとするならば、先ず既存の一つ

     の害を除くことに力を入れるべきである。

     》 モンゴル帝国の歴代大汗の顧問・耶律楚材 《

      モンゴルの草創期において、内政面で基礎を固めたのは耶律楚材

     であった。

      耶律楚材は、字は晋卿、号は湛然居士(たんぜんこじ)といい、

     契丹系の人で、最初は金王朝に仕えていた。

      彼は、儒仏はおろか天文・地理・暦法・卜占・医術に精通し、中国の

     伝統的教養を身に付けた稀有の官吏でもあった。

      そのような理由もあって、金が滅んだ後も、モンゴル帝国の太祖

     (チンギス汗)に見い出されて大いに信頼され、次の太宗(オゴタイ汗)

     にも仕えて重用された。

      モンゴル帝国は彼の進言によって、先ず統一的な税制が確立された。

      だがその当初は、モンゴルの股肱の臣下たちは口を揃えて、その課税

     が軽すぎると非難したものである。

      そのような意見に対して、耶律楚材は確信して軽減策を勧めた。

      「税金というものは、必ず将来的には増えて来るものであり、課税した

     時点に置いて既に重いものなのである」と。

      また言う、

      「一利を興すは一害を除くに若かず、

      一事を生ずるは一事を減らすに若かず」と。

      (=また一事を増やそうとすれば、先ずは一事を減ずべき

       である。) 

      ※ 耶律楚材が、常に言っていた、行政とか施策の簡素化を

        強調する言葉である。

             「元史 耶律楚材伝」・「十八史略 南宋・理宗」


      

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(格物か致知か)

     「朱子と王陽明の格物致知論」

                        南宋~明

      儒教の経典である「四書五経」のうち、「四書」の一つである

     “大学”は、儒教の教義を簡潔かつ体系的に叙した書である。

      その大学に曰く、

      「古の明徳を明らかにせんと欲する者は、先ずその国を治む。

                               (治国)

      その国を治めんと欲する者は、先ずその家を斉(ととの)う。

                               (斉家)

      その家を斉えんと欲する者は、先ずその身を修む。

                               (修身)

      その身を修めんと欲する者は、先ずその心を正す。

                               (正心)

      その心を正さんと欲する者は、先ずその意を誠にす。

                               (誠意)

      その意を誠にせんと欲する者は、先ずその知を致す。

                               (到知)

      知を致すは、物に格(いた)るに在り。」と。

                               (格物)  

      ところで「到知」と「格物」については、古来から解釈が分かれた。

      朱子は到知を解して、

      「到は押し極むるなり、知はなお識の如し。

      我の知識を押し極めて、その知るところが尽きざること無からんを

     欲するなり」と。

      (=知識を徹底的に追求して求め、あらゆる事物を知り尽くすのが

       到知の本義なのだ。)

      この解釈に対して、後の時代(明)の王陽明(守仁)は曰く、

      「知は、これ心の本体なり。

      朱子の如く知識と解せば、知識は刻々増進してやまない。

      心の本体と解せば、始めより完全に具備していて、少しも増減する

     ことは無い。

      これを良知といい天性に根ざすものである。」と。

      両説をさら突っ込んで比較すると、

      朱子は説く、

      「あらゆる事物に即して、既知の理を手掛かりにして、日々努力して

     事物に内在する理を極め尽くせば、普遍的且つ客観的な道理を明らか

     にし、知の認識作用を完全なものと成すことができる」と。

      これを砕けて言えば、

      「万物はすべて一木一草に至るまで、それぞれ理を備えている。

      この理を一つ一つ極めてゆけば、ある時 豁然として万物の表裏・

     精粗を明らかにすることが出来る。

      これが格物致知なのだ」と。

      この朱子説に対して、後代(明)の王陽明が反論した。

      王陽明の説くところは、

      格物の「物」とは、「事」である。

      事はすべて心の働き、意のあるところのものである。

      事と云うからには、そこに心があり、心の外には物も理も無い。

      故に格物の「格」とは、「正す」と読むべきで、事を正し・心を正す

     ことが「格物」である。

      悪を去り、心を正すことによって、人は心の中に先天的に備わる

     良知を明らかにすることが出来る。

      これが知を致すことであり、「良知」である。」と唱えた。

      朱子に対する王陽明の格物致知に関する論争を称して、

     「格物致知論争」という。

      
      

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(稲雲 雨降らず)

        
        稲雲 雨降らず多くは黄ならず   

        宋代の楊万里 「憫農」より

         稲雲  雨降らず多くは黄ならず

         (=見渡す限りの田の稲穂は、雨が降らないので、ほとんど

          黄金色に色付かない。)

           ※ 稲雲とは、見渡す限りの稲穂を雲に喩えたもの。

         蕎麦(きょうばく) 空しく花咲きて早(つと)に霜を着く

         (=ソバもようやく花を付けたというのに、もう霜に犯されて

          しまった。)

         已に分(ぶん)とす 飢えを忍んで残歳を度(はか)るを 

         (=飢えを堪え忍んで今年の残りの冬を凌ぐのは、致し方も

          無いことだけれども、)

         更に堪えんや 歳裏 閏(うるう)の長さを添うるに

         (=今年は閏年なので例年より一ケ月多く、耐える辛さに

          更なるものがあると言える。)

         ※ 楊万里は、字は廷秀。号は誠斎。

            高等官僚にして詩人であり学者でもあった。

            詩は江西派に学び、後に一派を成し、「誠斎体」と称せ

           られる。

            南宋の第二代皇帝孝宗の時、侍講に推挙されたが、

           その時の宰相 王淮に 【淳熙薦士録】と云う書で以って、

           朱熹など六十人を登用すべく提言した。






     

    テーマ : 詩経・漢詩・詩賦等
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    中国通史で辿る名言・故事探訪(青天の霹靂)

     「青天の霹靂(へきれき)

                        南宋

      天候が急変して、青空に激しい疾雷を伴うということ。

      転じて、思いがけない出来事をいう。

        ☞ 霹も靂も、ともに雷を伴う疾風のこと。

        陸游 「鶏の未だ鳴かざるに起きて作る」

         放翁(ほうおう) 病みて秋を過ごす

         (=官職を追われたこの老人は、病に罹り秋を過ごしていた。) 

          ※ 放翁とは、陸游自身の自虐的認識による表現である。  

         忽ち起きて酔墨を為す

         (=病 何するものぞとばかりに、起き上がって酒を飲み、

           酔った勢いで絵筆を取った。)

         正に久蟄(きゅうちつ)の竜の如く

         (=その勢いたるや、久しく地中に隠れていた竜の如く、)

         青天に霹靂(へきれき)を飛ばす

         (=晴れ渡った青空を急変させた。)

         
         

    テーマ : 詩経・漢詩・詩賦等
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    tyouseimaru

    Author:tyouseimaru
    出身地は四国八十八か所参りの発心の阿波、大阪を終の棲家とする。
    歴史好きで、城郭・神社仏閣・歴史遺跡巡りが趣味となる。
    歴史小説や時代小説を好み、往年の著名な時代小説の類は概ね完読と、自負している。

    自薦
    自著「中国通史で辿る名言・故事探訪」の 上・中・下の3巻を、 近い内に「電子書籍」での出版を予定しています。 今年一年間は、さらに工夫を加えるなどして、補記訂正などの校正を第一義としています。       
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