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    中国通史で辿る名言・故事探訪(電光 影裏に春風を斬る)

     「電光影裏に春風を斬る」

                       南宋

      煌めくように速くて鋭い稲妻の陰影が、当に春風を斬るようなもの。

     《 臨済宗・無学祖元 》  

      後の紀元1279年、執権北条時宗に招請されて帰化し、鎌倉の

     円覚寺の開山となった無学祖元は、亡びゆく南宋に在って、禅の修業

     に暇が無かったが、ひしひしと迫ってくる元の圧力を避けて温州の

     能仁寺に兵難を避けていた。

      だがやがて、その寺にも元兵の蹂躙が及ぼうとしていた。

      その時に至っても、無学祖元は少しも動じることなく平然たる態度で

     以って、頌(しょう)を詠んでいた。

      ※ 頌とは、その本義は詩経の「六義(6つの類型)」の一つで、

        性質・内容から分類したものであり、祖廟で先祖の徳を称える

        歌である。

         また単に、人の功績や人柄を褒め称える言葉ともなる。

      「臨剣の頌」

         乾坤孤筇(こきょう)を卓(た)つるも地なく、

         喜びを得ん、人も空、法もまた空なることを。

         (=この天地には一本の杖を立てる余地もなく、

          喜びを得ようとしても、人も法も仮の姿で実体は何も

          ないのだ。)

            ☞ 孤筇は、孤独の杖。

          珍重す大元三尺の剣、

          電光影裏に春風を斬らん。

          (=如何に大元帝国の威光ある剣と謂えども、

           我が眼前では稲妻の影の如くであり、

           春に吹く風を切るようなものだ。)

           ☞ 春風とは、穏やかな風の意。

        ※ 悟りを得れば、生死などは問題ではなく、吾が魂までは

          斬れるものではないぞ、というほどの禅解釈とされる。



           
      

        

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    テーマ : 神話伝説逸話
    ジャンル : 学問・文化・芸術

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(慷慨して死に赴くは易く、)

     慷慨して死に赴くは易く、

        従容として義に就くは難し。

                        南宋

      時世に悲憤慷慨して、潔く死に赴くことは未だ易しいもの。

      しかし、冷静になって事の前後をよく考えて、誤まりなく義に適う

     行動をとるのは難しいことだ。

        ☞ 慷慨(こうがい)とは、心が昂って嘆き悼むこと。

           従容(しょうよう)とは、ゆったりと落ち着いた様。

      謝枋得(しゃぼうとく)は、“南宋最後の忠臣” と称えられる。

      儒学者であり、号は畳山(じょうざん)、字は君直。

      生没年は、紀元1226年~1289年。

      科挙の「受験用基本書」として知られる、「文章軌範」を撰集した。

      この文章軌範は、唐・宋時代の名文を撰集したものである。

      謝枋得は元軍との戦いの際、敗れて捕らわれの身となった。

      その際 元軍に敗れて降った南宋兵の多くは、改めて元に忠誠を

     誓ったものである。

      だが謝枋得だけは、身を以って南宋への変わらぬ忠節を尽くした。

      その為 長い間 幽閉されることになった。

      それから幾星霜の後、彼は終に与えられる食を断ち、自らの命を

     絶った。

      彼の死んだ年は、元の世祖の至元 二十六年(1289年)であるが、

     何と南宋が滅んでから十年後の事であった。

     

    テーマ : 中国古典・名言
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    中国通史で辿る名言・故事探訪(一旅一成)

     「一旅一成」

                        南宋

      多くも無いが、少なくも無いという意味の軍団の勢力。

      古代においては、一旅は五百人編成の軍団をいい、

     一成は十里四方の土地を云った。

     》 南海の流浪 《

       南宋の末期の紀元1276年、第6代度宗の嗣子で第7代恭帝

      (趙隰)が早逝したので、抗戦派は度宗の子・趙昰(ぜ)を擁立

      した。これが第8代端宗である。

       ところが新たな態勢も整わぬうちに、彼らは福州を追われて

      泉州に至った。

       その当時 泉州では大食(たーじ。サラセン)人の蒲寿庚が

      招撫使として大きな勢力を持っていた。

       その彼が端宗に拝謁した後、当地に滞在するよう助言した。

       この蒲寿庚は南海貿易に従事して、巨万の財を蓄積し、大小

      無数の船舶を保有していた。

       ところが宋軍では船舶が不足していたので、蒲寿庚の船とその

      積み荷を没収したのである。

       蒲寿庚はその背信行為を怒り、泉州在住の宗室関係者や士人・

      兵卒を殺して、あっさり元軍に投降してしまった。

       抗戦派は再び南海の沿岸を転々とし、遂に南海島に近い地に

      移るが、三年に及ぶ逃亡流浪の日々が続いたので、夏の四月 

      遂に幼帝端宗は病没してしまった。

       陸秀夫曰く、

       「度宗皇帝の一子、尚 在り。将(はた) 焉(いず)くにか之を

      置かん。

       古人、一旅一成を以って中興せしむ者在り。

       今 百官有司 皆 具わり、士卒数万在り。

       天若し未だ宋を絶つを欲せずんば、之 豈に国を為す

      べからざらんや」と。 

      (=度宗皇帝にはまだ御子が御一人おられる。其れなのに、

       このお方を一体どうして置いておかれようか。 

        昔の人で、五百人の軍勢と十里四方の土地を以って、

       国の中興を果たした者がいたという。

        ところが、今 我が軍には官人も軍隊も数万は備わっているでは

       ないか。

        天命がまだ宋の命脈を絶とうとしていないならば、之でどうして

       国を興せないことがあろうか。)

       彼の説得でようやく、衆人は一緒になって 時に七歳の衛王趙昞

      (度宗の第三子)を擁立して皇帝とした。

       南宋最後の皇帝であるが一般には第九代祥興帝という。

       楊太妃が幼帝を補佐し、張世傑が宰相と為り、陸秀夫が之を援け

      た。

       その後 新会県の崖山に移って仮行宮を造営し、兵舎や軍船も

      建造して軍備の強化に務めた。

       この時には、官民合わせて、尚も二十万余が従っていた。

       

        

    テーマ : 中国古典・名言
    ジャンル : 学問・文化・芸術

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(助長)

     「助長」

                        戦国時代

      「揠苗(あつびょう)助長」とも。

      助けようとして無理に外から力を加え、反ってそれを害すること。

      後には意味が転じて、力を加えて成長を促したり、発展することを

     助けることをいう。

      「孟子 公孫丑上」が出典である。

      助けて長ぜしむること勿れ。

      (=外から手を貸してやり、無理に成長させようとしてはならない。)

      宋人の如く然(しか)すること勿れ。

      (=昔の愚かな宋国の人のようなことはすべきではない。)

      宋人に其の苗の長ぜざるを閔(うれ。=憂)えて、

     これを揠(ぬ。=抜)ける者有り。

      芒芒(ぼうぼう。=茫茫)然として帰り、その人(家の人)に

     謂いて曰く、

        ☞ 芒芒然とは、疲れ果てた様子。

      「今日は病(つかれ。=疲)れぬ。

       予(われ) 苗を助けて長ぜしめたり」と。

      (=今日は全く疲れ果ててしまったよ。成長のよくない田の苗に

       手を貸してやり、よく伸ばしてやったぞ。)

       その子 趨(はし。=走)りて往(ゆ)きてこれを視れば、

      苗は則ち槁(か。=枯)れたり。

       天下の苗を助けて、長ぜしめざるものは寡(すく)なし。

       (=この世には、宋国の農夫のように、苗を引っ張って成長を阻害

         させるような人は少ない。)

       以って益無しと為してこれを舎(す。=棄)つる者は、苗を

      耨(くさぎ)らざる者なり。

       (=またするに効果無しとて放棄する者は、田の除草をしない

        ものと云える。)

       これを助けて長ぜしむる者は、苗を揠(ぬ)く者なり。

       徒(ただ)に益無きのみに非ず、而してまたこれを

      害(そこ)なう」と。

       以下 略。




      

      

    テーマ : 中国古典・名言
    ジャンル : 学問・文化・芸術

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(正気の歌)

     時 窮まれば節 乃ち見(あら)われ、

        一つ一つ丹青に垂る

                        南宋

      非常の事態ともなれば、精気というエネルギーは人間の「節義」

     という形で現れ、それらは一つ一つが史書に記録されて伝えられる

     ものなのだ。

      
       文天祥 「正気(せいき)の歌」の一節

         天地に正気あり、雑然として流るる形を賦す。

         (=正気とは浩然の気であり、それは尽きることのない精力

          でもある。
     
           それは元々 決まった形を持つものではなく、天地の下に

          雑然と而も流動的に存在し、またいかなる形にも変幻する

          ものである。)

         (しも)は則ち河嶽となり、

         上(かみ)は則ち日星(じつせい)となる。

         (=下へ行けば山川となり、上に昇れば太陽や星となる。)

         人に於いては浩然となり、沛呼として蒼冥に塞(み)つ。

         (=それは人の精神の中では浩然の気となり、

          滔々として人間世界に広がるものである。)

          ☞ 蒼冥とは、世界の意。

         皇路 清く夷(たいら)かなるに当たれば、

         和を含みて明庭に吐く。

         (=人の履み行うべき大道が、清浄で且つ泰平であれば、

          その気は和やかな形となり、明るい朝廷に吐き出される

          ものである。)

         ☞ 皇路とは、大きな道、即ち人の履み行うべき大道をいう。

         時 窮まれば節 乃ち見われ、一つ一つ丹青に垂る。 

         (=ところが非常の事態ともなれば、正気という精力は

          人の節義という形で現れ、それらの一つ一つが史書に

          記録され伝承されることとなる。)

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    テーマ : 詩経・漢詩・詩賦等
    ジャンル : 学問・文化・芸術

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(万世無疆の休)

     「万世無彊の休」

                        宋代

      限りない安らぎをいう。

      彊の字義は強い弓の意であり、万世無彊(むきょう)とは

     塞外異民族のモンゴルの脅威が永久に無くなったという事

     である。

      拠って以って、大いなる安らぎを得たという意味である。 

     》 南宋寇略戦 《     紀元1257年

       モンゴル帝国のモンケ(憲宗。4代)は、自ら大軍を率いて蜀に侵攻

      し、合州(重慶)に攻め入った。

       一方、フビライは河北、河南から南下し卾州(武昌)を包囲した。

       この時点において、モンゴル軍は合流して、南宋の中心部に進攻

      する予定であった。

       この時 卾州を守っていたのは、制置使の賈似道(字は師憲)で

      ある。

       蒙古軍の猛攻に遭って、城中の死傷者は一万三千人に上り、恐れ

      をなした賈似道は独断で以って、隠密裏に使者をモンゴル軍に送り

      込んで言わせた。

       「南宋は蒙古に臣として仕え、毎年 貢物を差し出す」という条件で

      講和を申し入れたのである。

       フビライは拒絶したが、ちょうどその時 兄のモンケの死がもたらさ

      れたのである。

       フビライはそこで再度の賈似道の申し入れを受け入れて、陣払いを

      して主力軍と共に北に引き揚げた。

       そして後には張傑らの将を残し、湖南から到着する予定の

      ウリヤンハタイ将軍が北上してくるのを待たせ、合流して帰還する

      ことを命じた。

       ※ 賈似道の密約説については、後世 否定する学説もある。

       その後 蒙古軍の卾州駐留の将・張傑は、予定通り南征軍の

      ウリヤンハタイ将軍と合流したので、お互いに部隊を率いて撤収した。

       そこで賈似道は一計を案じた。

       このままでは朝廷に対して全く面目が立たず、卑怯者の汚名を

      被ることは必定であり、帰朝報告するにしても何か対策が必要だと

      判断した。

       賈似道は武将の夏貴に命じて、撤退する蒙古軍の後を追わせ、

      卾州の北方の新生磯という所で蒙古軍の殿を襲わせ、少しばかりの

      損害を与えたところで矛を収めさせた。

       かくして都に帰還してから、先ずは己自身の保身の為に、先に国家

      を餌にしてまで売国的且つ屈辱的な和議をフビライと結んだことは

      秘密にして、理宗に対してまんまと報告した。

       「卾の囲み始めて解け、江面粛清(長江の波も静まり)、

      社稷危くしてまた安し(危地に陥った国家も安泰と為りました)。

       実に万世無彊の休なり」と。

       理宗は、賈似道が国家再興の著しい働きをしたとして、詔を下して

      多大の恩賞を下賜した。

      

       

    テーマ : 中国古典・名言
    ジャンル : 学問・文化・芸術

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    Author:tyouseimaru
    出身地は四国八十八か所参りの発心の阿波、大阪を終の棲家とする。
    歴史好きで、城郭・神社仏閣・歴史遺跡巡りが趣味となる。
    歴史小説や時代小説を好み、往年の著名な時代小説の類は概ね完読と、自負している。

    自薦
    自著「中国通史で辿る名言・故事探訪」の 上・中・下の3巻を、 近い内に「電子書籍」での出版を予定しています。 今年一年間は、さらに工夫を加えるなどして、補記訂正などの校正を第一義としています。       
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