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    中国通史で辿る名言・故事探訪(張士誠に遠図無し)

     「張士誠に遠図無し」

                        元代

      張士誠には、将来像も国造りの遠大な計画も無いということ。

      張士誠の大周国軍は大元に対して謀反を起したものの、元軍に

     攻め立てられ、当に瀕死の状態からようやく脱することができた。

      其れより以後は、蘇州を占領し湖州、常州を陥として平江府の

     全域を支配下に収め、平江府を「降平府」と改称し、高郵から蘇州

     に拠点を移す。

      時を同じくして、朱元璋も南京攻略を果たし、さらに南下する潮時を

     狙っていた。

      時代はやや遡り、李斉が元朝に仕えて高郵の知府であった頃、

     元末の動乱はこの高郵にも及び、張士誠の蜂起軍が城砦に攻め

     寄せてきた。

      張士誠は、漢人の李斉を誘降して拝跪させようとした。

      ところが李斉は、

      「我が膝は鉄の如し、豈に賊の為に屈せんや」と、

     言って拒絶した。

      この李斉は曽て科挙の『進士』に挙げられ、状元(主席)の合格者

     であったと云われる。

      時の識者は云う、

      「学ぶ所に背かず」と。

                明の李賢らの勅撰地理志 「大明一統志」

      高郵から蘇州に拠点を移した張士誠は、当時 花の都と謳われ

     た文明文化の先端都市・蘇州において、初めの頃は民心を得る

     ための施策をあれこれと施していたが、忽ち本性を露呈し、部下

     たちも野卑を覆うぶべくもない体たらくとなった。

      大周国の連中は、上から下に至るまで遊楽に現を抜かすように

     なった。

      その内 張士誠は政治の実権を弟に譲り、その弟もまた部下に

     託すといった不敗凋落の道を歩み始めた。

      張士誠は朱元璋の南下に対抗するため、あろう事か元朝と講和

     を結び、元朝の国防大臣に相当する大尉の官職を名目的にしろ受任

     して、大周国を廃してしまった。


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    中国通史で辿る名言・故事探訪(弥勒仏が下生し、)

     「弥勒仏が下生し、明王が出世す」

                        明代

      弥勒菩薩や明王(みょうおう)がこの世に現れ出ること。

      明王とは大日如来の意を受けて、導き難き人々を強力に仏の教えに

     導いて救済する諸尊の一。

      東晋の高僧である慧遠(紀元334年~紀元417年)は、安帝の

     元興元年(402年)七月に、廬山の東林寺に於いて子弟たちと共に

     「白蓮社」という宗教結社を結んだ。

      仏教の一宗派である白蓮教を唱えて、念仏三昧の修業をして、

     阿弥陀仏の浄土への往生を願う教団であった。

      いつしか、時代の変遷と共に教義も変貌していった。

      弥勒信仰も加味されるようになり、更にはマニ教も取り入れられ、

     明王信仰を説くようになった。

      この世界は明と暗の二宗があって、明は善で、暗は悪とされるが、

     弥勒仏が下生(げしょう)して且つまた明王がこの世に現れるならば、

     明宗は必ず暗宗に勝ち、この世に極楽浄土が出現すると説かれる

     ようになった。

      この結社は現世を否定して来世に迎合する思想が強くて、現状に

     不満を抱く人々を糾合し、政治権力に反抗する政治結社に転化する

     可能性を秘めていた。

      

      

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(梨に主 無きも、)

    「梨に主 無きも、吾が心 独り主なからんや」


                        元代

      うち続く戦乱で国土や耕作地が荒れ果ててしまい、所有者の

     いなくなってしまった路傍の梨などは、誰でも採って食べられるが、

     吾が心中だけは、その所有者がいなくなった訳ではないのだ。

      戦乱や内訌のうち続く元の末期、方向を同じくする旅人の一団

     が旅をしていたが、河陽を過ぎた頃には 皆 喉の乾くこと甚だ

     しかった。

      すると丁度 路傍に梨の木が果実をたわわに実らせていた。 

      衆 争いて取りて之を喰らう。

      衛 独り樹下に跪坐して自若たり。

      或る人、問うて曰く、

      「何故 取らざるか」と。

      曰く、

      「其の己の有に非らずして、之を取ること不可なり」と。

      或る人曰く、

      「世 乱れて、斯の梨に主なきなり」と。

      曰く、

      「梨に主 無きも、吾が心独り主なからんや」と。

                         「元史」

      》 元の末期 内乱頻発 《   紀元1348~

        1348年、台州で方国陳が挙兵する。

        1351年、劉福通は白蓮教主・韓山童を頭にして、白蓮教と

       黄河掘削工事に強制徴用された民衆を率いて、穎州(河南)

       において元朝に反旗を翻した。

        白蓮教主・韓山童の反乱集団は、それぞれ頭に紅巾の

       頭巾をつけて一味の旗幟としたので、世上 これを

       「紅巾の賊」と称した。

        至正十二年(1352年)、定遠の土豪・郭子興が紅巾賊の

       劉福通に通じた。

        同年春 その郭子興のもとに二十五歳になった放浪の乞食僧

       朱元璋が加わり、濠州を攻略する。




     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(五大姓の漢人すべて殺すべし)

     「五大姓の漢人すべて殺すべし」

                       元代

      元の時代において、漢民族で最も多い姓は、張・王・劉・李・趙で

     あった。

      これを漢民族の五大姓というが、元末における生粋のモンゴル人

     権勢家の伯顔(バヤン)は、見出しの如く驚天動地の提案した。

      紀元1332年 明宗(9代)の次子・イリンジバルが即位した。

      これが寧宗(11代)であるが、在位五十日余で崩じてしまった。

      1332年 皇帝文宗(8代及び重祚して10代)は、自分の子を差し

     置いて明宗の長子であるドゴンテルム(後の恵宗)に皇位を伝える

     遺詔を遺していたが、権臣でキングメーカーと謂われるエンテルムは

     ドゴンテムルの弟・イリンジバルを帝位に就けたが、これが11代寧宗

     である。

      ところで、エンテルムは寧宗の後を追うようにして、あっけなく死んで

     しまった。
     
      ここに至り、明宗の長子・ドゴンテムルが即位した。

      これが大元王朝の最後の皇帝となる12代恵宗である。

      恵宗は即位前までは、広西地方に冤罪で流されていたが、北京入り

     する際、敵対勢力による反撃の危険性があったが、汴梁(べんりょう)

     の伯顔(バヤン)が兵を率いて護衛した。その功により、」今度は伯顔

     が新しい権力者となった。

      エンテムルは漢文化を尊重する親漢派であったが、伯顔はモンゴル

     の国粋派であった。為に科挙は直ちに停止された。

      この伯顔、生粋のモンゴル主義者であったが、性格的にも常人を逸す

     る過激な言動がしばしばあった。

      その特筆されるべき言動として、張・王・劉・李・趙の

      「五大姓の漢人を総べて滅ぼすべし」、と提案した。

      この五大姓で全中国の人口の半数以上を占めるといわれるが、当に

     精神に異常を来した発言としか言いようが無かったようである。

      さすがにこの暴論は取り上げられることは無かった。



      

      

      

      

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(終わる所を知らず)

     「終わる所を知らず」

                        元代

      いつ何時死ぬかも知れないという運命の嘆き。

     》 大元の内訌 《    紀元1328年~

       致和元年(1328年)七月十日、泰定帝(6)が夏の行都・

      上都開平府で、三十六歳の若さで崩じた。

       すると八月になると、新皇帝の擁立を狙う策謀が渦巻いた。

       泰定帝は武宗(3)の系統とは世系を異にし、その即位そのもの

      が英宗(5)を弑殺した軍務大臣テクシらが推し進めたものであった

      からである。

       事ここに至って、武宗の旧臣たちは、大都の留守を守るエンテムルを

      盟主として、武宗の皇統の再興を企てた。

       そして八月四日、エンテルム等は武力により大都を制圧した。

       だがこの時、武宗の嫡子の周王コシラは軍務で外征していたので、

      九月になると仮にその弟の懐王トク・テルムが立てられて即位した。

       これが文宗(8)であり、天暦と改元したので、天暦帝ともいう。

       その一方では先手を取られた上都では、泰定帝の専権者宰相

      タウラシャは、晋と安西の両王家の支持を取り付け、相前後して

      泰定帝の子のアスキバを擁立して、天順と改元して、大都に対抗

      した。このアスキバが天順帝(7)である。

       かくして三つ巴の内戦に突入したが、十月になると、結局 上都は

      陥落したので、文宗は潔く退位した。

       ここに改めて周王クシャラが即位した。これが明宗(9)である。

       ※ 義に悖る即位をした泰定帝と天順帝には、廟号はない。

       大元における朝廷の権力闘争においては、敗北した側の者は、

      新皇帝の名によって反逆罪に問われることになり、例え皇后であれ、

      宗室であれ、その死は免れることは無かった。

       天順帝もまた、その「終る所を知らず」と伝えられているので、

      その例に洩れず、同じ運命を辿ったものと思われる。



       

       

       

      

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    Author:tyouseimaru
    出身地は四国八十八か所参りの発心の阿波、大阪を終の棲家とする。
    歴史好きで、城郭・神社仏閣・歴史遺跡巡りが趣味となる。
    歴史小説や時代小説を好み、往年の著名な時代小説の類は概ね完読と、自負している。

    自薦
    自著「中国通史で辿る名言・故事探訪」の 上・中・下の3巻を、 近い内に「電子書籍」での出版を予定しています。 今年一年間は、さらに工夫を加えるなどして、補記訂正などの校正を第一義としています。       
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