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    中国通史で辿る名言・故事探訪(高啓の青邱子の歌)

     「高啓の筆禍事件」

                        明代

      高啓の字は季迪(きてき)という。二十三歳の時から、蘇州郊外で

     青邱子(せいきゅうし)を号す。明初第一の詩人と称せられた。

      生没年は、紀元1336年~1374年。

      青邱子は、洪武二年の元史編纂事業で、太祖(洪武帝・朱元璋)

     のお召を受け編纂事業に携わった。

      その後 その才を認められて戸部右侍郎に抜擢されたが、自らの

     思う所もあって固辞して帰郷した。

      それから後 洪武七年太祖の好色を風刺したため、直ちに獄に

     投ぜられ、国都・南京で腰斬の刑に処せられた。

      
        高啓 「青邱子の歌」

        第一節

          青邱子 臞(や。=痩)せて清し

          本と是れ五雲閣下の仙卿なり

          (=青邱子はすらっと痩せていた。

           本は天上の五彩の雲のたなびく仙宮の役人であった。) 

          何れの年か降謫(こうたく)されて 世間に在り

          人に向かって姓と名を道(い)わず

          (=何時の事だか罪を犯して放逐され、俗世間に身を置いて

           いたが、人には己の姓名を明かさなかった。)

             ☞ 降謫とは、責め降すの意。

          履を躡(ふ。=踏)むも遠游を厭い

          鋤を荷(に。=担)うも躬耕に懶(ものう)し

          (=靴を履いても遠くに旅することを好まず、

           鋤を手にしても、身を屈めての畑仕事はもの憂い。)

             ☞  懶し、とは怠る・もの憂いの意。

           剣あるも鏽渋(しゅうじゅう)するに任せ

           書あるも縦横たるに任す

           (=剣はあっても錆びるに任せ、書物はあっても

            思いのままに散らかっていた。)

           腰を折って五斗米の為にするを肯(がえ)んぜず

           舌を掉(ふる)って七十城を下すを肯んぜず。

           (=わずかな食い扶持の為に上司に諂うようなことは事は

            出来るものではなく、

             舌先三寸で以って敵の城を降すような真似事など出来

            るものではない。)


        ※ 舌先三寸 云々とは、秦朝の滅亡後 漢の劉邦と西楚の

          項羽の覇権争いの最中に、漢に属した韓信の斉攻略軍と

          は別に、劉邦の直命を受けた説客酈食其(れきいき)による

          口先だけの説得による斉の帰順工作をいう。



             

      
          

      

      

    テーマ : 詩経・漢詩・詩賦等
    ジャンル : 学問・文化・芸術

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(洪武帝の六諭)

     
    「洪武帝の六諭」

                        明代

      明朝を創建した洪武帝(朱元璋)は、異民族の元朝支配下に

     荒んだ天下の人心の安定を重んじ、離農放浪していた農民の

     帰農を推し進めるとともに、人民教化策として、その守るべき道を

     示そうとした。

      洪武帝は、人民支配の原理として「朱子学」を国家学となし、

     その徳目を人民階級に普及させようとして、1397年 六カ条の教訓

     を発布した。
      
      これを洪武帝(或いは明)の「六諭(りくゆ)という。

         一  父母に孝順なれ。    

         二  子孫を教訓せよ。

         三  長上(年長者)を尊敬せよ。

         四  各々 生理(生計の道)に安ぜよ。

         五  郷里に和睦せよ。

         六  非為(不法)を作(な)す毋(なか)れ。


       明朝のこの「六諭」は、次の清朝にも受け継がれて、

      「六諭衍義(りくゆえんぎ)」となった。

      

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(江蘇熟すれば天下足る)

     「江蘇熟すれば天下足る」

      江蘇地方を制すれば、天下を手に入れることが出来る。

      中国の南方地域の江蘇の地の穀物が良く熟すれば、広大な

     中国全土の消費経済を支えることが出来るとの極言。

      この豊かな江南の地で、既に呉王を称していた朱元璋は、

     1368年正月、南京應天府で皇帝即位の儀式を挙行した。
     
       朱元璋は年号に「一世一元制」を初めて採用した。

        従って彼以後の皇帝の一般的な呼び方も、それぞれの

       皇帝の元号によることとなる。

        朱元璋の元号は、「洪武」であるので、洪武帝と称する。

        なお洪武の字義は、大いなる武威という意である。

      朱元璋は、江南の地で敵対していた陳友諒、張士誠を滅ぼし

     たが、中原の大都には、痩せたりとはいえ猶も強力な元朝の

     精鋭軍が油断なく控えていた。

     》 元軍掃討作戦 《   紀元1368年

       その後 洪武帝(朱元璋)は北伐軍を編成して、徐達を征虜

      大将軍に、常遇春を副将として十五万の軍団で以って征討作戦

      を展開した。

       嘗ての紅巾賊の「胡虜を駆逐し、中原を回復する」という

      呼び声を胸に記して、多くの極貧に喘ぐ民を水火の難より救わん

      とした。その当時の民の苦難の有り様は、

        「中原の民、久しく群雄に苦しめられ、流離して相望む」という

      状況下にあった。

       洪武帝は北伐に先立ち、征虜大将軍の徐達にその状況を訓示

      として与えた。

       破竹の勢いで進む北伐軍に対して、元朝では丁度 内訌が

      起こり、防戦態勢も十分に整えることが出来ず、枢要の地である

      河南は陥落した。

       元朝では、ようやくククティムルが政敵に勝ち、朝廷は彼を河南王

      に封じたが、時すでに遅く、不詳の前兆と云われる「白虹が日を

      貫く
    」という天の警告があった。

       白虹は兵の象徴であり、日は天子の象徴である。

       こうした前兆が再び現れた翌日、恵宗(12代。ドコン・テルム)は

      諌めるものの言に耳を貸さず、兵乱を避けて母国であるモンゴル

      の奥深くにある応昌に撤退する詔勅を発した。

       その夜 健徳門が開かれて、皇帝以下 続々と北へ向かう行列

      が絶えなかった。

       だが明の北伐軍は、洪武帝の諭文にある、

      「元の宗戚(皇族とその縁戚)は皆 保全せしめよ」に従って、

      彼らを猛追するようなことは無かった。

       それでも各地の戦いでは圧勝し、洪武元年(1368年)八月

      には、元朝の夏の行都である大都を占領した。

       ここに至って、中国の征服民族・モンゴルの大元帝国は滅亡

      した。

       その一方では、征南将軍・湯和(とうわ)の軍団は、浙江地方

      の方国陳を降して福建地方を治め、廖(りょう)永忠の軍団は、

      広西、広東を平定し、楊璟らの別働隊は、湖南から広西に転戦し、

      ここに中国全土の平定が成った。

       

       

     
       

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(旌旗戈盾これを望めば山の如し)

     「旌旂戈盾 これを望めば山の如し」

                        元代

      軍容の盛大なさま。

        ☞ 旌旂(せいき)とは、軍陣で用いる旗の総称。

           旌は、旗竿の先に旄(ぼう。旗飾り)として

          氂牛(りぎゅう)の尾に付け、それに五色の羽根を

          垂らした旗。

           天子が軍の士気を高めるのに用いた天子専用の旗。

           旂は、上り龍と下り龍を描いた赤い旗で、その旗竿の

          上端には鈴を付けた。

           これは諸侯の用いる旗。

          戈盾(かじゅん)は、矛と盾。

     》 鄱陽湖の戦い 《  紀元1363年

       至正二十一年(1361年)、朱元璋は軍船を率いて陳友諒の

      「漢」と江州で戦い敗走させた。

       この戦いに先立ち、陳友諒は密かに張士誠に使者を遣り、互い

      に朱元璋を挟撃する約束をしていたが、張士誠は約を守らず兵を

      動かさなかった。

       同年三月、張士誠は部下の呂珍に兵を率いさせて、宋国皇帝を

      名乗る韓林児の安豊を包囲させた。

       これに対して朱元璋は、安豊に援軍を送り之を破った。

       この措置は、朱元璋の力量と声望を天下に知らしめる結果と

      なった。

       至正二十三年(1363年)四月には、陳友諒が洪都を包囲した。

       そこで元璋は、先ずは張士誠よりやや弱体の陳友諒を鄱陽湖に

      誘い込み、謀略を仕掛けて湖上決戦に持ち込もうと画策した。

       七月になると、朱元璋は南京を進発して、鄱陽湖の入り口になる

      湖口に至った。

       その地は、戦略上の要地であった。

       陳友諒は朱元璋が自ら出陣したことを知ると、洪都の包囲を

      解いて、鄱陽湖に入って迎撃しようと、六十万の総兵力を

      以って転進した。 

       「明史」のこの下りでは、その軍容を記すに、

       「巨舟を連ねて陣をなし、楼櫓高きこと十余丈、連なりて数十里

      に亘る。

       旌旂戈盾、これを望めば山の如し」と。

       この大軍団の威容に接して、敵の軍船の余りにも大きく自軍の

      軍船の小さいことに臆して、戦意を完全に喪失して退却しようと

      した自軍の将校連中の十数人を、朱元璋は躊躇することなく誅殺

      した。

       緒戦に於いて朱元璋は火攻めの策を大々的に採用したが、折から

      の東北の強風が自軍には幸いして完勝した。

       その後の戦いにおいて、陳友諒軍からの投降が相次ぎ、八月に

      は湖口を突破して涇江に至ったが、その地の戦いで陳友諒は戦死

      し、全軍は壊滅した。

       この戦いにおいて、朱元璋の座乗する旗艦に敵の猛将の張

      定辺が躍り込んで来て、当に朱元璋の危機一髪という時に、

      隣りの船の常遇春が矢を放って敵将を倒すという際どい場面も

      あった。

       朱元璋は戦いの後、捕虜の将士をそれぞれ故国に送還したが、

      負傷者には手厚い看護を施し、死者に対しては慰霊祭まで執り

      行った。

       そして望む者は、詮議することなく自軍に編入した。

       至正二十四年(1364年)正月、朱元璋は「呉王」を称するように

      なった。

      

    テーマ : 中国古典・名言
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    Author:tyouseimaru
    出身地は四国八十八か所参りの発心の阿波、大阪を終の棲家とする。
    歴史好きで、城郭・神社仏閣・歴史遺跡巡りが趣味となる。
    歴史小説や時代小説を好み、往年の著名な時代小説の類は概ね完読と、自負している。

    自薦
    自著「中国通史で辿る名言・故事探訪」の 上・中・下の3巻を、 近い内に「電子書籍」での出版を予定しています。 今年一年間は、さらに工夫を加えるなどして、補記訂正などの校正を第一義としています。       
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