コンテントヘッダー

    中国通史で辿る名言・故事探訪(七大根の宣戦布告)

     「サルホの戦い」

      その始めは女真族のマンジュ五部の統率者であったヌルハチは、

     1615年末、その部族の一部の海西女真のイエヘ族を除いてほぼ

     全女真族を統一することに成功した。

      そして年が明けた1616年(天命元年)正月元旦、諸王や重臣に

     推されて「ハン位」に就いた。

      その国号を「後金」と定めた。

      即ちその昔 宋と覇権を争った女真族の国家であった「金」の

     後継者であるという大いなる誇りと自負によるものであった。

      そして自らは天命帝と号し、元号を「天命」と名付けた。

      だが後金が国家として自立するには、食糧の自給自足が急務

     であったが、今や遼東の総兵官であり明の交易を取り仕切る実力者

     でもあった李成梁が政変により失脚し、明の矛先がヌルハチに向け

     られ、剰え一方的に交易は断ち切られてしまった。

      そのような理由もあって、ヌルハチはいつまでも食料を明に頼って

     いたのでは心もとなく覚え、積もり積もった明に対する恨みごとを七つ

     取り上げて、宣戦布告の理由とした。

      これが「七大根の宣戦布告」と言われるものである。

      その理由となった大本の原因は、肉親の殺されたこと、女真(後金)

     と明との国境線の問題及び食糧収穫の問題とイエヘ部族の取り込み

     にあった。

      「七大根の理由」

     (1) 明は理由も無く父と祖父を殺した。

     (2) お互いに国境線を越えないという女真との誓約を破った。

     (3) 誓いを破った越境者を処刑したが、その報復に我が使者を

       殺して威嚇した。

     (4) 我らイエヘ部族の婚姻を妨げ、その娘をモンゴルに与えた。

     (5) 国境近くで我が民が耕作し収穫するのを認めず追い払った。

     (6) 同族ながら悪辣なイエヘ部族を信用して、我らを侮った。

     (7) 天下の公平な裁きに背き、悪を善となし、善を悪とした。

    》 開戦 《    紀元1618年

      天明3年(1618年) 4月、遂に意を決したヌルハチは軍を南進

     させた。

      撫順を守る明の李永芳は、一戦も交えることなく降伏した。

      さすがに明の朝廷でも事の重大さに気付き、大軍を擁して討伐に

     立ち上がった。

      海西女真族イエヘ部、朝鮮などの援軍と合わせて、後金の本拠

     であるヘトアラ(興京)への多方面からの同時攻撃が策定された。

      万暦四十七年(1619年)陰暦三月一日、明軍の総司令官楊鎬は

     全軍を四方面に分けて、ヌルハチの本拠を同時に衝く作戦を取り、

     それぞれの方面軍は進発した。

      撫順方面からは杜松の本隊たる左翼中路軍が、開原方面からは

     馬林の左翼北路軍がサルホ経由で、また同時に清河方面からは

     李如柏の右翼中路軍が、鴨緑江方面からは劉テイの右翼南路軍が

     興京に向けて進発した。

      明の軍勢は援軍も併せて十万余、それに三百余りの大砲をも装備

     した大規模な遠征軍であった。

      対する後金軍は、精鋭部隊のマンジュ八旗六万を称していたが、

     実数は一万数千であった。

      明軍のマンジュの拠点に対する同時攻撃に対して、ヌルハチは

     明軍の各軍団の共同作戦は困難だと予測し、拠点での籠城戦は

     回避し、マンジュ八旗の全軍でもって、明軍の各個方面軍を集中して

     迎撃するという作戦を取った。

      明軍は三月一日を期して、南北各所から後金の領内に進攻した。

      ヌルハチは、明軍の左翼の両軍が主力軍だと判断した。

      もはや躊躇することなくマンジュ八旗の全軍を率いて、自らサルホ

     方面に出撃し、突出していた杜松の左翼中路軍本隊(三万)に

     襲い掛かり殲滅した。

      翌日 ヌルハチはホンタイジを将とする正白旗(一千)を率いてワフム

     に向かったが、火器を装備する龔(きょう)念遂の指揮する左翼中路軍

     の別働隊(二千)と目的地で遭遇した。

      丘に陣したヌルハチは騎兵五百を下馬させ、敵の前線の盾となって

     いた装甲車に肉弾で突入させて装甲車を破壊させるという攪乱戦法

     を取ることにし、ホンタイジに命じて、その間隙を衝いて騎馬で突入

     させ明軍の別働隊の後続を断ち切った。

      さらに北から接近しつつあった馬林の左翼北路軍二万も、ワフムの

     北方にあるシャンギャン、フィエフィンで迎撃されて連戦連敗して瓦解

     してしまった。

      左翼北路軍との共同作戦に従った明の援軍のイエヘ部軍(一万)

     は遁走した。

      時に劉禎  の指揮する右翼南路軍と朝鮮の援軍が、後金の根拠地

     ヘトアラ(興京)に接近しつつあった。

      三月四日 ヌルハチは次子のダイシャンを総指揮官として急遽、

     五旗(五つの軍団)を転進させた。

      マンジュ五旗は本拠地のヘトアラを過り、アブダリ山に劉テイ指揮

     する右翼南路軍を強襲して撃滅し、フチャの野で残存部隊を蹴散ら

     した。

      明の援軍の朝鮮軍(一万)は、戦意を失って後金に降伏した。

      後金軍はさらにその余勢を駆って翌月には宿敵イエへを攻略して

     併呑し、ヌルハチは遂に全女真族を一つに統合してしまった。

      その直後 内モンゴルの東部のモンゴル族が服属するようになった。

      その後 六月には開原を攻略し、時をおかず遼陽を占領してその地

     に遷都した。

      かくして後金は、遼東の肥沃な地に勢力を張ることが出来て、多くの

     漢人を擁することとなった。


      
      

      

      

      

    テーマ : 歴史雑学
    ジャンル : 学問・文化・芸術

    コンテントヘッダー

    中国通史で辿る名言・故事探訪(虜庭を犂す)

     「虜庭を犂(たがや)す」

      異民族を討伐すること。

      虜庭とは、中華を自称する尊大な中国人が、異民族である北慮の

     国土を蔑んで庭に喩えていう言葉。

      》 漠北のモンゴルの復活 《

        曽て燕王朱棣(後の永楽帝)は、東方の守りとして北京を拠点と

       して睨みを利かせていた。

        モンゴル東部のタタール部を制圧し、部族は分裂状態となって

       いた。

        その頃 漠北の西域には、同じくモンゴルのオイラート部が蟠踞

       していた。

        ところが、分裂状態にあったタタール部は、明朝が靖難の変で

       漠北のモンゴルへの警戒が緩んだ頃から息を吹き返した。

        永楽六年(一四〇八年)前後に、北元の嫡流を名乗るベンヤシリ

       がティムール帝国の国都・サマルカンドから帰国し、カーン(干位)

        を継ぐと、にわかに明朝に対する態度を硬化した。

        その背景には、チンギス汗の後裔と称するティムール帝国の

       影ながらの支援があったとも言われる。

        また事実として、靖難の変の直後にティムール大帝は二十万の

       大軍を率いて、遠征の途に上ろうとした。

        ところがその直前に、大帝が病没したので中止になったと云わ

       れる。

        そして大帝の没後に内訌が起こり、帝国は分裂してしまった。

        そして翌年の四月、永楽帝がベンヤシリの下へ遣わした使者が、

       殺害されるという結末となった。

        遂に腹に据えかねた永楽帝は、丘福を大将軍に任じて、十万余

       の遠征軍を派遣したが、敵を侮っていたので全軍壊滅という惨敗

      を喫してしまった。

      》 永楽帝の親征 《     紀元1410年

        「五度 砂漠に出で、三度 虜庭を犂(たがや)す。」

        明朝の成祖(永楽帝)は、漠北のモンゴル征討に自ら大軍を率い

       て、五度出征し、そのうち三回は敵の本拠地を襲い帰順させた

       という。

      》 オノン河畔の戦い 《

        かくして永楽帝は自らタタールを討つべく、永楽八年二月 

       大軍を率いて親征の途に就いた。

        北征の大軍は五月に、ようやくオノン河畔でベンヤシリ軍を補足

       し、戦闘を交えてこれを大破した。

        ベンヤシリは惜しくも逃してしまったが、北征軍は圧倒的な勝利

       を得て七月には北京に凱旋した。  

        

      

    テーマ : 歴史
    ジャンル : 学問・文化・芸術

    コンテントヘッダー

    中国通史で辿る名言・故事探訪(鄭和の南海大遠征)

     「鄭和の南海大遠征」   

      明の初期、鄭和は第一次から第七次までの(紀元1405年~

     1433年) 南海遠征隊の総督に任ぜられた。

      鄭和は、明の洪武四年(1371年)に中国の雲南の生まれ。

      その姓は馬といい、祖父の頃に中央アジアから移住してきた

     西域系のイスラム教徒であった。

      従ってその家庭環境の下で、アラビヤ語でコーランを詠み、

     ペルシャ語で日常会話をしたと言われる。

      鄭和が生まれた頃は、明朝が創建されたが、未だ雲南地方までは

     その支配下に入っておらず、鄭和が十二才の頃になって、ようやく

     その支配下に組み込まれた。

      鄭和の一家は、元朝時には色目人として漢人よりは社会的には

     有利な地位にあった。

      だが明の支配下に組み込まれてからは地位も逆転し、鄭和は

     燕王朱棣(後の永楽帝)のいる北京に連行されることになった。

      少年鄭和は去勢された後、宦官として燕王朱棣に献上された

     のである。

      その後、靖難の役に於いて彼の武功は著しものがあって、即位した

     永楽帝(燕王朱棣)に優遇されることとなり、鄭姓を受贈し宦官の

     最高位である大監に任命された。

      その後、明朝の海外通商の為に派遣されることとなった船団の

     大総督に抜擢されたが、鄭和のその人格識見と語学力に負う所が

     大きかったようである。

      かくして彼が三十五歳の時、第一次の大遠征が行われた。

      第一次の航海ではほぼ三年を要した長期の遠征であり、遠くは

     アフリカの西海岸にまで及んだ。

      一次も含めて七次の航海まで、この貿易は朝貢形式であり、友好的

     に行われたようである。

      第一次から第七次の航海まで、すべて鄭和が総指揮を執ったと

     云われる。

      この大航海は、スペイン・ポルトガルの大航海に先立つこと一世紀

     であり、略奪や征服を伴うものではなく、平和的であり且つ友好的に

     行われたという。

      ただ乗組員の一部で寄港地に住みつく者がいて、後に彼らが母国

     から一族知人を呼び寄せたりして、華僑社会を発展させていったようで

     ある。

      

      

    続きを読む

    テーマ : 歴史
    ジャンル : 学問・文化・芸術

    プロフィール
    プロフィール

    tyouseimaru

    Author:tyouseimaru
    出身地は四国八十八か所参りの発心の阿波、大阪を終の棲家とする。
    歴史好きで、城郭・神社仏閣・歴史遺跡巡りが趣味となる。
    歴史小説や時代小説を好み、往年の著名な時代小説の類は概ね完読と、自負している。

    自薦
    自著「中国通史で辿る名言・故事探訪」の 上・中・下の3巻を、 近い内に「電子書籍」での出版を予定しています。 今年一年間は、さらに工夫を加えるなどして、補記訂正などの校正を第一義としています。       
    最新記事
    月別アーカイブ
    最新コメント
    最新トラックバック
    カテゴリ
    天気予報

    -天気予報コム- -FC2-
    FC2カウンター
    おきてがみ
    おきてがみ
    twitter
    フリーエリア
    検索フォーム
    RSSリンクの表示
    リンク
    Powered By FC2ブログ

    今すぐブログを作ろう!

    Powered By FC2ブログ

    ブロとも申請フォーム

    この人とブロともになる

    QRコード
    QR
    メールフォーム

    名前:
    メール:
    件名:
    本文:

    <
      /body>