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    中国通史で辿る名言・故事探訪(髪を留めんとせば、頭を留めず)

     「髪を留めんとせば、頭を留めず」

                        清代

      女真族(女直とも)の清朝は、漢民族から見れば夷荻の王朝

     である。

        ※ 後の天聰九年(1635年)10月庚寅 女真族という民族名

         を嫌い満州族と改称する。

      この事は清王朝の皇帝にとって、支配上の最大のアキレス腱

     でもあった。

      女真族(満州民族)は当時、全人口を合せても六十万人に過ぎず、

     広大な中国の国土で、自民族の約百倍に匹敵する漢民族を支配

     するわけである。

      統治者として厳格な思想の統制はもちろん不可欠であったが、

     少数支配の実効性を確保するには、外見的にも完全に服従させる

     必要性があると判断された。

      そこで王朝の支配者としての強権を発動して、武力を背景に

     ヌルハチ(太祖)、ホンタイジ(太宗)の時代に、支配下にある

     全漢民族の男子たる者の誇りとする長い頭髪と着冠の風習を棄て

     させ、古くからの北方アジア民族の風習である「弁髪」「胡服

     (満州服)
    の着用を強制した。

      その後、清の支配領域は拡大し、長江流域の平定が進んだが、

     江南を中心に弁髪胡服に対する激しい反発と抵抗が繰り広げられた。

      順治二年(1645年)、ドルゴンは強硬姿勢を崩すことなく、再び

     「弁髪令」を下した。

      とりわけ漢民族男子の最も屈辱とする弁髪への反発や抵抗に

     対しては、二者択一の厳しい姿勢を示し、強要した。

      「頭を留(とど)めんとせば髪を留めず、

      髪を留めんとせば頭を留めず」
    と。

      すなわち、首を落とすか髪を剃るか、と迫ったのである。

      事ここに於いて本来の漢民族の矜持は、失われたことになる。

      言葉を変えて言えば、新しい同化された漢民族の誕生と謂うべきか。

      ※ 弁髪とは、男子の頭部の周辺部を深く刈り込み、頭頂部に

       残した髪を編んで後頭部に長く垂れ流すヘアスタイルである。

      

    テーマ : 中国古典・名言
    ジャンル : 学問・文化・芸術

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(餓死の事は小にして、)

     「餓死の事は小にして、節を失うの事は大なり」


                        清代

      人が餓死するということは大した問題ではない。

      それより節義を失うことの方が、むしろ大問題なのである。

      明末 清初の儒者にして高級官僚の劉宗周の言葉である。

      劉宗周、号は念台、字は起東といい、陽明学に傾倒した儒者である。

      劉宗周はその言葉の通り、清朝初期に 身をもって実践した。

      清の順治帝二年(紀元1645年)、杭州が清軍に攻略されると、

     劉宗周は二十日間 絶食して明朝に殉じた。

      劉宗周は明朝最後の皇帝である崇禎帝(17代)に仕えて

     いた時には、工部侍郎(長官)や南京左都御史を歴任した。

      後 五十歳の時に官を退き、東林書院で講学した。

      その学は儒学でありながら朱子学と陽明学のそれぞれの

     足らざるを克服しようとする誠意説を唱えたが、紹興の北の地

     蕺山(しゅうざん)で講学したので、彼の事を蕺山先生とも言う。

                     「劉念台文集」



      

    テーマ : 中国古典・名言
    ジャンル : 学問・文化・芸術

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(忠臣弧子)

     「忠臣弧子」

                        明代

      明朝の末期、最後の皇帝である崇禎帝から父を思うその篤き

     孝心を讃えられた黄宗羲の故事。

      黄宗羲の父である黄尊素は、東林党の有力な指導者であった。

      天啓年間(1621年~1627年)において反東林党が宦官の大物

     の魏忠賢に権力を委ねるに及んで、東林書院は閉鎖され高攀竜

     や黄尊素らが次々と投獄され、恐怖政治が断行されることになった。

      ところが1627年に天啓帝が崩ずるや、その異母弟の朱由検が

     即位した。これが崇禎帝である。

      崇禎帝は英邁な帝王で、魏忠賢にも厳しい目を向けていた。

      また時は良しとばかりに朝廷内部においても魏忠賢弾劾談の声が

     上がると、さしもの魏忠賢も、もはや新しい皇帝の下で信任は得られ

     ないと判じて自ら命を絶った。

      時は崇禎帝即位の元年(1628年)、黄尊素の子で十九歳に

     なる黄宗羲は、父の罪を晴らす為上京し、懼れることなく時の権力者

     たる魏忠賢一味の処罰を上訴した。

     崇禎帝は黄宗羲の孝心を憐れみ、彼を「忠臣弧子」と称えた。

      おりしも、朝廷では遂に重い腰を上げて、魏忠賢一党の罪を糺すこ

     とになった。

      そして遂に、魏忠賢を始め主だった宦官は断罪されることとなった。

      忠臣弧子と称えられた黄宗羲は、後の清朝初期において、

     「清初三大儒」の一人に数えられる人物である。

      彼は「民本主義」の政治を唱えて、「中国のルソー」と評される。

      ※ ジャンジャック・ルソー(仏)は、自由民権(人民主権)

       思想家。「エミール」等の著。

      

      

      

      

    テーマ : 神話伝説逸話
    ジャンル : 学問・文化・芸術

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    Author:tyouseimaru
    出身地は四国八十八か所参りの発心の阿波、大阪を終の棲家とする。
    歴史好きで、城郭・神社仏閣・歴史遺跡巡りが趣味となる。
    歴史小説や時代小説を好み、往年の著名な時代小説の類は概ね完読と、自負している。

    自薦
    自著「中国通史で辿る名言・故事探訪」の 上・中・下の3巻を、 近い内に「電子書籍」での出版を予定しています。 今年一年間は、さらに工夫を加えるなどして、補記訂正などの校正を第一義としています。       
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