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    中国通史で辿る名言・故事探訪(辛亥革命)

     「辛亥革命」

                        清朝末期

      宣統三年(1911年) 辛亥の年、革命勢力が清朝を倒して

     「中華民国」を樹立した民主主義革命を辛亥年に因んで辛亥革命と

     いう。

      1910年3月、武昌蜂起に始まり、翌年1月には孫文を臨時大総統

     とする南京臨時政府が成立した。

      清朝最後の皇帝となった12代宣統帝(愛新覚羅溥儀)は退位して、

     ここに「清国」は滅亡した。

      だが革命勢力は弱体であったし、うち続く各地での内戦や外国勢力

     の介入を未然に防止すべく北洋軍閥の袁世凱と妥協し、袁世凱も

     共和政府の樹立に同意したので、ここにおいて彼を大総統に任じた。

      ところが1916年、袁世凱が急死し、後継体制を巡って大総統・

     黎元洪(れいげんこう)と国務総理・段祺瑞(きずい)の政治的対立が

     生じた。

      黎元洪が段祺瑞を抑えようと、張勲の軍隊を利用しようとしたところ、

     何と清朝に忠実であった張勲は、1197年7月、前皇帝の溥儀の復辟

     (いわゆる皇帝返り咲き)を図った。

      だが結局 段祺瑞の巻き返しにあって、結局 11日間で退位を余儀

     なくされた。

      溥儀は退位はしたものの、紫禁城に住むことは許された。追放される

     のは1924年11月5日である。

      ところが、溥儀は日本の満州駐屯の関東軍により、三度 皇帝に担が

     れた。所謂 傀儡皇帝で「満州国皇帝溥儀」といわれるその人である。



      

    テーマ : 歴史
    ジャンル : 学問・文化・芸術

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(天下を一家となす)

     「天下を一家となす」

                        清代

      この天の下に広がる国家全体(国中)は、全て一つの家族だと

     する思想。

      清朝の末期、廣州出身の洪秀全は十六歳から三十一歳までの

     間に、廣州府で四回 科挙の秀才を受験するための予備試験

     (府試)を受験したがその都度失敗した。

      その失敗の原因は、身分的差別にあったと云われる。

      彼が三回目の試験に失敗し失意のどん底にあった時、彼に一人の

     伝道者がキリスト教の入門書を与えた。

      洪秀全は熱心に熟読し、「天の啓示」を確信するようになる。

      その後 四回目の科挙を受験したが、あえ無く失敗した。

      そして遂に受験の教本たる孔孟の書を棄てて故郷に帰り、

     キリスト教の洗礼を受けて入信。後 エホバの信仰を説いて

     回るようになる。

      時 至り遂に宗教結社「上帝会」を組織し、多くの貧しい農民らの

     帰依を受けるようになった。

      だが特権支配階級からは激しい弾圧を受けるようになったので、

     江州、広西を旅するようになり、以前にも増して多くの信者を獲得

     するに至った。

      道光三十年(1850年)に、広東・広西地方で大飢饉が発生した。

      多数の餓えた信者が、広西の金田村に集まり決起した。

      洪秀全を首領として指導者たちは、

       「 集まった老若男女・兄弟姉妹は皆平等なり、

        天下一家とする 」


     となし、反清復明・滅満興漢・替天行動・劫富済貧を旗印として、

     即ち満州王朝の支配を打倒し、腐敗官僚と収奪豪農及び大商人らの

     撲滅を叫んで決起した。

      その勢力は「太平軍」と命名されたが、勢力を増すに従い軍団と

     しての整備された組織となり、鎮圧に乗り出した清朝軍をしきりに

     撃ち負かした。

      かくして中原解放を呼称して、北上を開始。

      先ずは広西の永安を占拠し、翌年 洪秀全は天王と称して、

     「太平天国」の樹立を宣言した。

      そして軍団を五つに分けて、それぞれの指導者を王に任じた。

      太平軍は官軍や富豪連中の自衛武装団と戦いつつ、興安・

      全州・長沙・武昌などへその占領地域を広げていった。

      咸豊三年(1853年)には、遂に南京を攻略した。そしてこの南京

     を天京と称して都とした。

      同年五月には洪秀全は、北京攻略を果たすべく北伐軍を派遣した。

      北伐軍は途中の山西や河北で抵抗する住民や満州人を多く虐殺し、

     一時期ではあるが北京の陥落はもはや時間の問題とまで噂された。

      太平天国軍は、蜂起してからその滅亡に至るまでの間 清の都城

     七十余を占拠し、勢力範囲は華南から華中に及び、最盛時にはその

     兵力は百万を称したが、儚く潰え去った。

      南京入りしてから、洪秀全は政務は諸王に任せきりとなり、自らは

     宮廷から出ようとせず宗教に没頭したり、奢侈逸楽を事とするように

     なった。

      政治的理想の実現を没却した太平天国は、次第に民衆から

     疎遠な存在となり混迷を一層深めるようになった。

      咸豊六年(1856年)夏 天京事件と云われる内紛が生じ、民衆

     にも背かれるようになり、また欧米列強の介入を招き入れるように

     なる。 

     

      

    テーマ : 中国古典・名言
    ジャンル : 学問・文化・芸術

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    tyouseimaru

    Author:tyouseimaru
    出身地は四国八十八か所参りの発心の阿波、大阪を終の棲家とする。
    歴史好きで、城郭・神社仏閣・歴史遺跡巡りが趣味となる。
    歴史小説や時代小説を好み、往年の著名な時代小説の類は概ね完読と、自負している。

    自薦
    自著「中国通史で辿る名言・故事探訪」の 上・中・下の3巻を、 近い内に「電子書籍」での出版を予定しています。 今年一年間は、さらに工夫を加えるなどして、補記訂正などの校正を第一義としています。       
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