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    中国通史で辿る名言・故事探訪(韓原の戦い)

       「韓原の戦い」   

      「汎舟の役」

       魯・僖公十三年(前647) 晋では未曾有の大飢饉が発生した。

       晋の恵公(二十代。姫夷吾)は隣国の秦に食料の緊急救援を要請

      した。

       秦では先に晋の領土割譲を反故にされた経緯もあり、この機会に

      晋を討つべしという意見もあった。

       だが穆公(十代)は葵丘の会盟での盟約、即ち「飢饉が生じた際の

      諸国の食糧の融通」という条目もあって、それを順守しようとして、

      “ 其の君はこれ悪あれど、其の民に何の罪あらん ”と言って、

      食料を大量に送った。 

      秦の国都・雍を出発してから,晋の国都・絳まで川面に大船団が延々

     と続いた。

      「粟(ぞく)を晋に輸(いた)す。雍より絳に及ぶまで相 継げり」 

      これを命(な)づけて、汎舟の役という」。  

        ※ 汎:はん。

             水に浮かぶさま。

                       「春秋左氏伝 僖公十三年」

      「韓原の戦い」

      それから二年後(前646年)、今度は秦が大飢饉に見舞われたので、

     秦は晋に緊急の食糧救援を要請した。

      ところが翌年、晋の恵公は秦の弱みに付け込んで、なんと師旅

     を繰り出した。所謂 「韓原の戦い」の勃発である。

      秦の穆公は丕豹(ひひょう)を将に任じて兵を動員し、自らも出陣した。

      魯・僖公十五年(前645年)、韓原の地で合戦の火ぶたが切って落と

     された。

      しかし晋軍は三度敗北を重ねて、自領の韓まで軍を退いた。

      晋の恵公は慶鄭に向かって言う、

      「敵は我が領内に深く侵入した。どうすべきや」と。

      慶鄭は対えて、

      「君自身が招き入れたことです。どうすることが出来ましょうぞ」と。

      恵公は不遜なりとし怒り、改めて車右を務める者を卜させたところ、

     なんと慶鄭吉なりと出たのである。

      だが恵公は慶鄭の言を無視して、歩揚を車御に家僕徒を車右にして、

     小駟という駒を馬車とした。この小駟は鄭が晋に献上したものであった。

      慶鄭が再び言う、

      「昔は戦争という大事には、自国産の馬を用いたものです。

      それはその土地に生まれているので、国の人の気心を読み、普段の

     調教にも慣れ親しみ道を覚えているからです。

      然るに今や他国産の馬で戦場に出られようとしています。

      外見は強そうに見えても、いざという時には、きっと進退ままならない

     でしょう。君 必ずこれを悔いん」と。

      九月 恵公は彼の意見を聞くことなく、短期決戦で挑み、捨て身の

     勝負に出た。

      ところが戦場を駆け巡っているうちに、恵公の車を牽く駟馬が泥濘に

     脚を取られ、身動きが取れなくなった。

      恵公は慶鄭を大声で呼び付けたが、慶鄭は、

      「人の諫言を聞かず、卜の占いにも従わなかった。

      是 もとより敗戦を求めしもの。どうして逃れることが出来ましょうや」

     と言って立ち去った。

      そこで恵公は意を改めて、韓簡に命を伝えさせて、

      慶鄭の為に梁由靡(ゆうび)を御に、車右には虢射(かくせき)を

     付けて、肉薄してくる秦の穆公の手勢に立ち向かわせた。

      秦の穆公は、どうしても恵公を仕留めることが出来ず、手こずって

     いる内に、逆に晋の軍勢に包囲されてしまった。

      だが穆公のこの危機一髪の時に、慶鄭がなんと、

      「恵公を援けよ」と絶叫したので、優勢に包囲していた晋軍の咄嗟

     の対応に齟齬を生じさせることとなり、秦の穆公を取り逃がして

     しまった。

      そして立場再び逆転し、晋の恵公は秦軍に捕らわれて秦に連れ

     去られた。

                        「春秋左氏伝 僖公十五年」

          

      

    テーマ : 中国古典・名言
    ジャンル : 学問・文化・芸術

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(管蔡の乱)

      「管蔡の乱」

                        周王朝

      「管蔡の乱」は、「禄父の乱」 或いは「三監の乱」ともいう。

      武王が崩じた時 後継者たる誦(しょう)はまだ嬰児であった。

      そこで叔父に当たる周公旦が、誦即ち成王を摂政するようになった。

      だがその内 周公旦の兄弟達の中から、三男の管叔と五男の蔡叔

     が流言を天下にまき散らした。

      曰く、「周公、将に成王に利あらざらんとす」と。

        (=周公旦は、成王を廃して自ら王になろうとしている。)

      そして頃は良しとばかりに、自分たちが世話することになっていた

     前王朝の紂王の子・禄父(ろくほ)を担ぎ出して、自らは東方の蛮夷

     の淮夷(わいい)を率いて反乱を起こした。

      周公旦は、王朝の創建に身命を賭して奔走していたので、その事を

     よく知る太公望や召公奭(せき)は、周公が自分が率先してやるしかない

     という決意を認め且つ納得もしていた。

      だが管叔らとは本格的な戦いとなり、当に内乱状態にな陥り、その

     収束までに三年の長きを要した。

      戦後 禄父と管叔を誅殺し、蔡叔は馬車七輛と従者七十人のみを与え

     て、郭鄰に移して幽閉し、霍叔は庶人の身分に落し、三年は王族の待遇

     を受けさせなかった。

      そして殷の祭祀は、殷の王族たる亡命者・微子啓を宋に封じて建国させ

     執り行わせた。

      また降った殷の多くの遺民対策として、新たに封せられた微子啓の宋と

     武王の末弟・康叔の封ぜられた「衛」に、分割移住させて支配させるよう

     にした。

      ところが猶も周の支配に服することを潔しとしない勢力は、定住する

     ことを欲せず各地を経巡り 交易(行商)を行うことを生業(なりわい)と

     するようになった。

                           「史記」魯周公世家

      ※  幽閉された蔡叔の子・蔡仲は、よく徳を積みその言動は慎み

        深かった。そこで周公は、蔡仲を卿士に取り立て、蔡叔が死んだ

        後は 成王に進言して「蔡」に封じて建国させた。

          また、周の支配に服することを潔しとせず、定住しなかった殷の

         遺民の行商は、「商人」という語の起源となる。

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(社右宗左)

      「社右宗左」

                        殷王朝

       国の神位を建つに、社稷を右にし宗廟を左にす。

        (=国家の神殿を建てるに際して、社稷は右に建て、宗廟は

          左に建てるものである。)

          ※ 社稷とは、土地の神(社)と五穀の神(稷)。

             天子や諸侯は建国の時、国家の守り神として社稷を

            祀った。

       また喪国の社は、これに屋して天陽を受けざるなり。

        (=また滅び去った国の社は、上に屋根をかけて太陽が当たら

          ないようにしなければならなかった。)

                         「礼記」王制 

       ※  「春秋義例」

           凡そ邑(ゆう)は、宗廟・先君の主有るを「都」と曰い、

          無きを「邑」と曰う。

            (=およそ町は、国の宗廟や先君の位牌が安置されている

             所は都といい、其れが無い所は邑という。)

           邑には「築く」と曰い、都には「城く」と曰う。

            (=城壁を築くのに、邑であれば築くといい、都であれば

             城くという。)

                        「春秋左氏伝」荘公二十八年 伝

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(二つの周都)

     「宗周と成周」


                         周王朝

       受命の君と謂われ評判の高まった西伯昌は、周原と謂われた

      岐山の麓から、「豊邑」の地に遷都した。時に西暦前1039年。

       周という国、すなわち後の周王朝の名はこの周原に由来する。

       その昔、西伯昌は犬戎、密須国を討伐して更には耆(き)国を

      撃破した。

       西伯昌のこの活躍を紂王の忠臣・祖尹(そいん)が警戒するよう

      進言したが、紂王は、

       「天命は我に在り。西伯に何が出来よう」と言って、意にも解し

      なかった。

       西伯昌はその後、太公望を軍師として邘国、崇国を討伐し、遂に豊邑

      に遷都した。そしてその遷都の翌年に世を去った。

                         「史記」周本紀

       「二つの周都 宗周と成周」

       後 武王の時代に豊邑の近くに大規模な国都「鎬京」が建設され、

      西都或いは宗周と呼ばれた。

       さらに成王の時代には、周王朝第二の都として豊邑より東の地に

      洛邑が完成した。

       これが東都或いは成周

      とも呼ばれる。

       だが豊邑は周の祖廟の地として、鎬京と与に「豊鎬の地」とも言わ

      れて重きをなした。

       洛邑は後漢の時代になると、再び国都が置かれ、その名も「洛陽」と

      呼ばれるようになる。


       

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(虞芮の争い)

      「虞芮の争い」

                         殷王朝末期

      他を見て我を改めることを云う。

      殷王朝の末期、諸侯国たる「周」の君主である西伯昌は、諸国の人民

     から篤い人望を集めていた。

      時に虞(ぐ)と芮(ぜい)という国が、その田地の所有権を争い、何年

     経っても解決しなかった。

      そこで虞と芮の君は、お互いに解決策を持ちかけた。

      「周の西伯という御仁は、仁人であると聞く。我らその地へ赴き、

     孰れが正しいか質してもらおうではないか」と。

      事は速やかに相決まった。

      そして二人の君が周の国境に入ると、耕す者はお互いに畦道を譲り

     合い、さらにその都に入ると、男女は道を別にし、また白髪交じりの者が

     荷物を提げるということはなかった。

      朝廷の様子は如何にというと、士は大夫の為に譲り、大夫は卿の為に

     譲っているという有り様であった。

      虞と芮の二人の君は言った、

      「ああ、我々は小人だ。これでは君子の朝廷を履むことは出来ない」

      と言って、相携えて朝廷を退き、共々帰国の途に就いた。

      その後、懸案の相争う所の田地をことごとく「閑田」となして、争いを

     自主的に解決した。

                   「孔子家語」・二好生

       所で殷王朝の紂王の暴政は止むことが無く、諸侯は皆争いごとを

      「周」の西伯昌の下に訴え出るようになったが、虞芮の争いの事は

      何時しか諸侯の耳にも達し、

       “西伯昌こそ「受命の君」だ”、と囁き合った。

       西伯昌の死後の諡は「文王」という。

                       「史記」周本紀

       ※ 天の命を受けて、天下に王たるべき者を「受命の君」という。

         天が有徳の人に命を下して、天下を治めさせるという思想であり、

         周の時代に始まる。

          周より以前は、宇宙の支配者である「天帝」の直系の子孫を

         称する者が、天下を治めるという事に正統性が認められた。

       ★  「虞芮の争い」の逸話は、儒家の聖祖と尊崇する西伯昌の徳

         を賛美して、周王朝を正当化する必要から生まれた後代の捏造・

         粉飾されたものだと謂われる。


    テーマ : 中国古典・名言
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    Author:tyouseimaru
    出身地は四国八十八か所参りの発心の阿波、大阪を終の棲家とする。
    歴史好きで、城郭・神社仏閣・歴史遺跡巡りが趣味となる。
    歴史小説や時代小説を好み、往年の著名な時代小説の類は概ね完読と、自負している。

    自薦
    自著「中国通史で辿る名言・故事探訪」の 上・中・下の3巻を、 近い内に「電子書籍」での出版を予定しています。 今年一年間は、さらに工夫を加えるなどして、補記訂正などの校正を第一義としています。       
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