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    中国通史で辿る名言・故事探訪(未亡人)

     「未亡人」

                        春秋時代

      春秋時代の魯の成公(22代)の九年(紀元前582年)、魯の伯姫は

     宋公(宋の25代国主の共公)に嫁すことになった。

      魯の季文子がその嫁入りの采配を命じられたが、無事にその任務を

     果たして、魯に還り成公に復命した。

      成公はこれを労うべく、慰労の宴席を設けた。

      その席上、季文子は「詩経」の言葉を借りて主君と宋公を讃え、宋の

     国土はよい所であり、姫も定めし楽しく暮らせることでしょう、との意の歌

     を歌った。

      これを聞いた伯姫の生母である穆姜は大層喜んで、季文子を丁重に

     もてなし、

      「この度は大変お世話になりました。あなたは先君の時から忠勤を

     励まれ、この未亡人(びぼうじん)にまでよく尽くしてくださいまして、

     本当に感謝いたしております。」

      と言って、同じく「詩経・邶風」の緑衣の終わりの章に満足の情を託し

     て歌った。

                       「春秋左氏伝・成公九年」


      ☷ 拾遺・弥縫

        未亡人の謂いは、本来は夫が亡くなると妻もともに死すべきで

       あったが、未だ生き永らえているという意味で、妻が自分のことを

       遜(へりくだ)っていう言葉であった。

        後に、この「未亡人(びぼうじん)」は、一般的には

       「未亡人(みぼうじん)」と呼ばれるようになる。

    テーマ : 中国古典・名言
    ジャンル : 学問・文化・芸術

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(誅しても不当、誅さなくても不当)

     「誅しても不当、誅さなくても不当」

                         周王朝

     「宣王の容喙(ようかい)」

      魯の9代君主の武公9年(紀元前817年)、武公は二人の公子を

     伴って周王朝に参朝した。 

      そして宣王に謁見した後、親子はしばらく周の国都に滞在したが、

     二人の公子のうち 弟の戯が宣王に寵愛されるようになった。

      その後に至り、宣王は魯の後継者について臆面も無く容喙

     (口を差し挟む)するようになった。

      「戯を立てて、魯の太子とせよ」と。

      このように宣王の魯に対する容喙を知った中山甫(ちゅうざんほ)は、

     王に諫言を呈した。

      「長幼の順が守られなかったら、必ず王命を犯すことになり、王命を

     犯せば必ず誅するところとなります。

      故にこそ命令には順序がある訳です。

      順序が逆になれば、下の者は上を立てなくなり、やがては棄て去る

     ことになりましょう。

      今ここで天子が、諸侯をお立てになるに、幼少をお立てになるのは、

     民に逆を教えることとなり、さらに魯がそれに従えば、諸侯も倣って後嗣

     に幼少を立てることに不義を感じなくなりましょう。

      すると上から下への命令である王命が、塞がれる時が来ます。

      その時 王命に従わないから誅すということになれば、それは結局

     自ら王命を誅す殊に他なりません。

      そうなると、誅しても不当、誅さなくても不当、

     ということになります」、 と。

      ところが宣王は、王朝の武威発揚を志向しており、また政治や外交上

     の機微を解しなかったので、中山甫の諫言に耳を傾けなかった。

      そしてこの、「戯」を大子とせよ」との上(しょう)の言葉が、行く末の

     魯の国運を左右することとなる。

                        「史記」周本紀

    テーマ : 中国古典・名言
    ジャンル : 学問・文化・芸術

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(周公 摂政を辞す)

     「周公 楚に逃れる」

                        周王朝

      幼かった成王も、幼少の身で即位してから7年が経った。

      成王も成長したので、自ら政治を執り行なうことが出来るようになった

     ので、周公は政治の大権を返上した。

      そして臣下の席に着き、臣下の礼を以って王に仕えるようになった。

      成王は周公の手を離れて大権を掌握したが、臣下に対しては常々、

     叱咤激励した。

      「功の高きは惟れ志、業の広きは惟れ勤」と。

      (=志を確と立てれば、その功は自ずと高くなる、

        また努力して勤勉であれば、その業は自ずから広くなる

       ものである。) 

      ところが成王が政治を行うようになると、周公について在らぬ事を

     吹き込む者が現れた。

      いつしか成王も、いささか猜疑心を募らせるようになったので、周公は

     楚に逃れる羽目になった。

      周公が去った後の事になるが、或る日 成王は王室の府庫を開扉し

     した。

      府庫の役人を従えて各種の記録などを見聞したが、図らずも周公の

     祭文を見つけた。

      それは成王が未だ幼かった頃、重病に罹ったことがあったが、周公は

     自分の爪を切って之を黄河に沈め、成王の病の回復を河神に祈ったもの

     であった。

      祭文の曰く、

      「王は少(わか)く未だ識る非ず、

      神の命を奸(おか)す者は及ち旦なり」 
    と。

       (=王はまだ幼少の身で分別を備えて居りません。

         神の命に背いたとすれば、すべてはこの旦の責任であります。)

       そしてこの祭文は、武王の時と同じように府庫に納めて、人目に触れ

      ないようにしていたのである。

       果たして成王は、自らの不明を悔い、周公を楚から呼び戻した。

                     「史記」 魯周公世家

    テーマ : 中国古典・名言
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    中国通史で辿る名言・故事探訪(王朝の女官の制)

     「歴代王朝の内宮の諸制度」

       中国の歴代王朝においては、公の政を行う朝廷(外廷)に対して、

      天子或いは帝王の私生活の場である後宮についても、決まり事

      即ち制度的なものが定められた。

       天子に仕える女官は、それぞれの階級と階級別の人数及び

      官位が定められた。

       以下 先ず周王朝の女官の制について記す。

       「周王朝」

       階級は正妻たる「皇后」に続いて、

       「夫人」は三人、「嬪(ひん)」は九人、「世婦(せいふ)」は二十七人、

      「御妻(ぎょさい)」は八十一人で、総枠は百二十一人であった。

       この周朝の女官の制は、後世の各王朝の範となる。

       尚 皇后については、一,二の例外を除きほぼ常に一人であった。

       夫人以下は複数の設置となり、各王朝でそれぞれの定数が決め

      られた。

       また女官の名称は各王朝により異なり、階級の上下位が入れ

      替わる。

       後宮に詰める女官などを含む官女の総数は、各王朝ともに其の

      実数は把握しきれなかったようである。

       中唐の白楽天(白居易)の「長恨歌」では、後宮の美女三千と詠っ

      たりするが、この三千という数は唐代流行の誇張的比喩だとしても、

      唐王朝の女官の実数は他王朝に比しても隔絶していると謂われる。

       就中 盛唐の玄宗皇帝の後宮は、嘘か真か四万人説まであると

      いう。

        ※ 玄宗皇帝: 第6代皇帝で、在位期間は712年~756年

       最も少なかったのは、清王朝でありほぼ、三、四百人で推移した

      と謂われる。

       「唐王朝」

       皇后が正妻であり、その他の側室はすべて貴賓別に階級化され、

      それぞれの定数が制度化された。

       『四夫人』  正一品

          貴妃(きひ)・淑妃(しゅくひ)・德妃・賢妃

             ※ この貴妃に玄宗皇帝の楊貴妃がいる。

       『九嬪』   正二品

          昭儀・昭容・昭媛・修儀・修容・修媛・充儀・充容・充媛

             唐朝・高宗の愛妾・武氏は昭儀であったが、後に

            則天武后となる(女性唯一の天子)。

       『二十七世婦』

          婕妤(しょうよ) 正三品、 美人 正四品  才人 正五品

          各々 九人づつ。

            婕妤は、漢代には序列も異なりその格も高く、「列侯」に

           匹敵した。

       『八十一御妻』

          宝林(ほうりん。正六品)、御女(ぎょじょ。正七品)、

          采女(さいじょ。正八品)、の順で、各々二十七人ずつ。  



       
      
      
      

      

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    テーマ : 歴史雑学
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    中国通史で辿る名言・故事探訪(周礼の制定)

     「周礼の制定」

                        周王朝

      周公旦は幼い天子の成王を摂政する任に就いたが、王朝維持の

     為の制度として、「周礼(しゅうらい)」を制定したとされる。

      制度の根本は、封建制と井田(せいでん)制である。

      『封建制』

      武王は一族功臣を各地に封じたが、周公旦はそれを拡充し制度化

     した。

      封建制は王朝の地方統治の制度であり、天子が一族の功臣及び

     殷討伐に敢えて敵対しなかった諸侯らを、新たに九州(全国)を治める

     こととなった領域を分割して封じ(柵封)て建(立)て、それぞれの国を

     治めさせる制度である。

      「封建」なる言葉の由来である。

      周公旦は、彼らをその身分・功績に応じて、公・侯・伯・子・男の

     「五等の爵」を定めて下賜し、朝覲(ちょうきん)制度や貢納、さらに出兵

     義務などを定めた。

        ※ 朝覲とは、諸侯や属国の君が、天子に伺候して拝謁する

          制度。

      『井田制』

       井田制は、土地の均分所有を建前とし、可能な限り正方形の地形

      を九等分して、周辺の八等分を私田とし、中央の一等分を公田とした。

       そして公田分は、私田の八家に協同して耕作・収穫せしめた。

       なお農家の宅地として、公田の二割分の田地面積を八等分して

      各戸に与えた。

       一井(田)は、一里四方の面積で、一私田の面積は百畝であった。

       周の税制では、六十四井を「甸(でん)」といい、この甸から税の一つ

      である「兵賦」として、兵車一台・兵士七十五人を供出させた。

       収穫期には、公田・私田のすべての収穫を均等に分け、概ね民は

      九を得て、国は税として一の割合を徴収した。

       この税は「徹法(てつほう)」といわれ、即ち「十分の一税」が基本で

      あった。

       また耕作地を類別し、連作可能地を不易とし、一年休耕する地を

      一易となし、二年休耕地を再易とした。

       そして不易地は百畝、一易地は二百畝、再易地は三百畝を支給

      する規定を設けた。

       なお古代の五穀とは、黍(もちきび)・稷(うるちきび)・麻・麦・豆

      をいう。

       なお周礼について、一般的には周公旦の制定とされるが、後代の作

      とも言われる。

       ☷ 拾遺・弥縫

          「儀礼」と「礼記」

          周公旦は、周代の冠婚葬祭などの儀式作法などについても

         詳しく定めたが、これを「儀礼(ぎらい)」という。

          周代から遥か後 漢の時代の初期に、儒者は周代より伝わった

         一般的な礼に関する諸々の説を集大成した。

           これを「礼記(らいき)」という。

          この「周礼」・「儀礼」・「礼記」を併せて「三礼

         (さんらい)」といい、それぞれ儒教の「十三経典

         (ぎょうてん)」の一部に数えられる。

         ※ 従来 儒家の経典には「六経」あったが、楽経は早い

           時期に亡び漢代には「五経」となった。

            後漢の時代に論語と孝経が加わり「七経」

           となる。

            なお漢の「五経」のうち、「礼」には三礼、春秋には三伝

           あるので、経に分けると「九経」となり、論語と孝経を併せて

           「十一経」となる。

            更に唐代に「爾雅」が、宋代には「孟子」が加わり

           「十三経」となる。




     

      

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(周公の三笞)

      「周公の三笞」

                        周王朝

      よく子弟を教育することの戒め。

      周公旦の子である伯禽は父の襲封地である「魯国」に、また周公の

     弟である康叔が「衛国」にと、それぞれが着任した後のことである。

      彼らは上京して成王に謁見したが、その席で周公にも会った。

      だが周公旦は、その二人を訳も言わずに鞭打った。

      その後も同じように三度 成王に謁見したが、そのたびに周公は

     二人を鞭打った。

      康叔は、驚いた顔色をして伯禽に言った。

      「商氏という者あり、賢人なり。

      そなたとこれから会いに行こうではないか」、と誘った。

      二人は商君に会って言った。
      
      「我々は先日、成王に謁見して、その席で周公に出会いました。

      その後も 同じようにして三度会って、三度 我々は鞭打たれました。

      その訳は、一体 何でしょうか」と。

      商君は二人に言った。

      「二人で与に南山(泰山)の陽(みなみ。=南)に行ってみなさい。

      【橋】という名の木がありますよ。」

      二人は南山の陽に行って、橋という木を見た。

      それは真に実に仰ぐべき程の高であった。

      二人は帰ってから、商君に其の見たことを報告した。

      商君は言った、「橋は父道なり」と。

      商君はさらに、

      「二人で与に南山の陰(きた。=北)に行ってみなさい。

      【梓(あずさ)】という名の木がありますよ」と。

      二人は南山の北に行って、梓を見た。

      それは真に畏敬の念を生ずること、俯するが如しであった。 

      それは、低く低く下を向いていたのである。

      二人は帰って、商君に報告した。

      商君は言った、「梓は子道なり」と。

      そして二人はその翌日、周公に会おうとするに、門に入っては趨行し、

     堂に昇っては膝まづいた。 

         ※ 趨行とは、貴人の前では小走りに歩む当時の仕来たり。

      周公は二人の頭の塵を払い、労って食事を与えてから尋ねた。

      「何処で君子に会ったのか」と。

      二人は応えて、「商君に会いました」と。

      周公は言った、「君子だな商子は。」

                        「説苑」建本

      ※  周公旦が幼帝・成王の摂政となった際、その子の伯禽は

        父に代わって襲封した魯国に赴いて政事を執り行なっている

        ので、現実にはこの訓話はあり得ないことになる。



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    tyouseimaru

    Author:tyouseimaru
    出身地は四国八十八か所参りの発心の阿波、大阪を終の棲家とする。
    歴史好きで、城郭・神社仏閣・歴史遺跡巡りが趣味となる。
    歴史小説や時代小説を好み、往年の著名な時代小説の類は概ね完読と、自負している。

    自薦
    自著「中国通史で辿る名言・故事探訪」の 上・中・下の3巻を、 近い内に「電子書籍」での出版を予定しています。 今年一年間は、さらに工夫を加えるなどして、補記訂正などの校正を第一義としています。       
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