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    中国通史で辿る名言・故事探訪(黄泉で母に見える)

     「地を穿(うが)って母に見ゆ」

                        春秋時代

      春秋の昔、鄭の武公と姜夫人(武姜)の間には二人の公子がいた。

      兄の寤生(ごせい)が太子となったが、武姜は寤生を生む時 難産

     (逆子)であったので、宗教的理由から彼を忌避し、次子の段を大子に

     しようと画策したことがあったが失敗した。

      武公の没後、太子の寤生が即位した。これが荘公である。

      荘公の即位後、母の武姜は荘公に対して、制の邑を弟の段に与える

     よう強要した。

      だが荘公は、制は国の要となる要害堅固の邑であると言って断り、

     その代りに京城の邑を与えることにした。

      その内 段は京城の城郭に着々と大改修を施し、兄の荘公に対抗し

     ようと謀った。

      また物資を集め、武器の手入れをして戦端の準備を整え、あまつさえ

     国都にいる母親と謀略を示し合わせた。

      事ここに至り、荘公は 紀元前722年(魯・隠公元年)夏五月、公子呂

     に兵車二百乗を授けて京城を急襲させた。

      また京城の人民は段に背いたが、段は鄢(えん)の地で戦い、敗れて

     だらに共に奔った。

      自分に背いた母を城穎の地に幽閉した。

      そして曰く、

      「黄泉に及ばずんば相見えること無からん」、と誓った。
     
        ※ 黄泉とは、死後の世界であり地下に行くことをいう。

      だが一年が経ち、母に会いたくなった荘公は、自分の立てた誓いに

     苦しみ始めた。

      潁国の封人(ほうじん。国境警備官)で、母親想いの潁孝叔という者

     がいた。

      彼は荘公の苦しみを耳にすると、献上物を持参して上京し荘公に

     見えた。

      荘公は彼に食事を下賜したが、彼が肉を遺したのでその訳を尋ねた。

      潁孝叔は下問に応えて、

      「私には母が居りますが、差し上げる食事といったら、日々に我々下々

     の戴く物ばかりでありまして、未だこのようなご馳走を差し上げたことが

     ございませんので、これを戴いて帰ることをお赦し願い、食べさせたいと

     存じます」、と。

      荘公は寂しげに言う、

      「爾、母有りて遣る。ああ、我独り無し」と。

      潁孝叔がその訳を聞くと、荘公はその理由を告げ、そしてそれを悔い

     ていることを嘆いて聞かせた。

      潁孝叔は君の嘆きを聞いて、

      「君なんぞ患(うれ)えん。

      若し地を闕(か)きて泉に及び、隧(ずい)して相見えば、それ誰か

     然らずと曰わん」、と。

      (=泉の出る所まで地を掘り下げ、トンネルを掘って、そこでご対面 

       為されれば、誰も誓いをお破りになったとは申しません。) 

      荘公はその意見に従い、遂に地下で母に相見えた。

      荘公は地下で詠った、

          大隧の中 其の楽しみや融融

              ※ 融融:和らぎ楽しむさま。

     母の武姜も出てきて詠った、

          大隧の外 其の楽しみや泄泄(えいえい)

              ※ 泄泄:のびのびする様。

      ここに於いて、遂に母子の仲を取り戻すことが出来たのである。

                       「春秋左氏伝・隠公元年」





     

    テーマ : 中国古典・名言
    ジャンル : 学問・文化・芸術

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(国家の立つや、)

     「国家の立つや、本は大にして末は小なり」

                         東周

      晋の内憂            紀元前745年~ 

      「その遠因」

       晋の9代穆公(前811~785)には、夫人姜氏の産んだ二人の子が

      あった。

       大子の仇(後の11代文公)と成師(曲沃に封じられた桓叔)である。

       この二人の命名については、

       仇は穆公七年(前805)の条の討伐の時に付けられ、成師は穆公

      十年の千畝の討伐の時に付けられたものである。

       この二人の命名について、成師の生まれた後に大夫・師服は諫言

      した。

       「異なるかな、君の子に名づくるや。
     
       夫れ名は以って義を制し(筋道を立て)、義は以って礼を出だし(筋

      道から礼が生じ)、礼は以って政を体し(礼が政の要諦をなし)、政は

      以って民を正す(そのような政によって民を正しく治められる)。

       是を以って政 成りて民 聴く。

       易(か)うれば則ち乱を生ず。

       嘉耦(かぐう)を妃といい、怨耦(おんぐう)を仇という。

       古の命(決まり事)なり。

       今 君、太子に名づけて仇といい、弟に成師という。

       始めて乱を兆せり。兄、其れ替(かわ)らんか」、と。

       ※ 成師の意義は、“師を成す”、即ち敵軍を撃破して戦功を立てる

        の意。

       その序章として穆公が在位二十七年にして没するや、その弟・殤叔が

      太子・仇を廃して、自ら即位した。

       この10代殤叔の在位期間は、前784年~781年。

       太子・仇は、已む無く他国に出奔したが、その4年後 殤叔を追放

      して即位した。これが11代文侯である。(前780~746)

       その後 12代昭侯元年(前745)に、晋が初めて乱れる。

       ここに師服の予言が的中することとなった。

       文侯が没した後、太子の伯が即位した。これが12代昭侯である。

       (前745~739)。

       ところが、文侯の弟・成師が自立を望んで晋は乱れ始めた。

       そこで昭侯は成師(桓叔)を曲沃に封じて、一諸侯並みの待遇を

      与え、かつ6代の靖侯(前858~841)の孫にあたる公族大夫・欒賓

      を目付として輔佐に任じた。

       ところが欒賓はうまく丸め込まれてしまい、やがて曲沃に桓叔は

      本家を凌ぐ勢力を有するに至る。
       

      

    テーマ : 中国古典・名言
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    中国通史で辿る名言・故事探訪(兵は戢めて時に動かす)

      「先王は徳を輝かして兵を観しめ。誇示すること)さず

      それ兵は戢(おさ。=収)めて時に動かす

      動かせば則ち威(おそ)る。観せば則ち玩(けが。懿徳が)る。 

      玩るれば則ち震(おそる。威厳が)る無し。

      この故に周の文公(周公旦の死後の諡号)の頌に曰く、

      『載(すなわ)ち干戈を収め、載ち弓矢を嚢(のう)にす。

      我 懿徳(=美徳)を求め、時(こ)の夏に肆(つら)ぬ。

      允(まこと)なるかな王(武王)のこれを保つこと。』

       ※ 時の夏とは、この国の意。

         夏は、自国を称する接頭語である。

      先王の民を治めるには、利を務めて害を避け、道徳を慕って威厳を

     懼れるようにさせました。

      それで、天下をよく保つことが出来たのです。

      また先王の制によれば、喩え来朝しない国があったとしても、出来る

     限りの手段を尽くして心服させようと致しました。

      それでも来朝しなければ、更に一層 徳を重ねて、遠征しようとして

     民を苦しませるようなことはしませんでした。

      そこで近国は言うに及ばず、僻遠の国も信頼しないものはありません

     でした。

      今 犬戎の国の君・大畢と伯士が亡くなってから、犬戎はその外交

     慣例に従って来朝致しました。

      然るに天子様は、

      「余は必ず其の不享を責めて征伐し、兵威を誇示しよう」と仰せになり

     ました。

      臣の聞くところ、『犬戎の君・樹は慎んで先代の徳に従い、終身専一に

     守り通す』と言っております。

      きっと、我が王朝軍に抵抗致しましょう、と。

      だが穆王は聞き入れず、遂に出兵した。

      しかし勇躍 遠征に出かけたものの、白い狼 四頭と白い鹿 四頭

     を得て虚しく帰還した。

      そして、この事を以って夷荻は入朝しなくなった。

                          『国語』周語



      

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(周代の命名法)

     「名に五 有り」

                        周代

      周の時代には、人の名の付け方に五つの慣習があった。

      生まれた時の特徴で名を付けるのを、「信」という。

      徳に因んで名を付けるのを、「義」という。

      似たものを名とするのを、「象(しょう)」という。

      万物の名称から付けるものを、「仮(か)」という。

      父に関係づけて名づけるのを、「類」という。

      だが、建前として、国名・官名・山川名・疾病名・六畜の名・

     祭器や玉帛の名は忌避された。

         ※ 六畜とは、馬・牛・羊・豚・犬・鶏の家畜を云う。

      周代は、生前の実名(諱)によって神(祖霊)に仕えたので、死後に

     おいてはその名は忌んで使われることは無かった。

      現実にはあまりあり得ないことだが、例えば国名や官名が人の名に

     用いられると、その人の死後は、その名に使用された国名や官名は

     使えなかった。

      だからそのような場合には、国名や官名の変更が余儀なくされた。

      そのような稀な事例を一つ紹介すると、

      周の時代 司空職は六卿の一つであり、土地人民を司る重要な官職

     であった。

      ところが諸侯の宋では、そのような禁忌を無視して、十一代戴公の

     後嗣が司空と名付けられた。これが後の十二代武公である。

      以後 宋では司空職は、「司城」と変更されることになった。 

                      「春秋左氏伝 桓公六年」

      
      ☷ 拾遺・弥縫

            「西周の滅亡」 

         東周の平王は、平王十三年の紀元前759年、西周の

        携王(姫余)を攻め滅ぼし、ここに二王並立時代は終止符を

        打った。





    テーマ : 中国古典・名言
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    中国通史で辿る名言・故事探訪(周王朝の東西並立から東周王朝へ)

     「混迷の周王朝から東周王朝の創建へ」

                        東周時代

      周の国都の鎬京が、異民族の犬戎に蹂躙された後、国家壊滅状態

     の中で、幽王の二人の遺児がそれぞれの支持する諸侯によって擁立

     された。

      周王朝の西方の有力者であった西虢の虢君翰(かくくんかん)は、

     申公や魯・許・鄭の諸侯等に擁立された姫宜臼に対抗して、幽王の

     公子・余臣を立てて宗周(鎬京)で王朝を開かせた。

      これが西周王朝の携王である。

      幽王亡き後の周は、直ちに東周王朝が開かれたのではなく、一時期

     ではあるが、二王並立の時代(紀元前771年~760年)が続くので

     ある。

         「東周王朝」   前771年→前249年

      諸侯は申から、周の成周(洛邑)に姫宜臼を擁立して王位に就ける。

      これが平王である。

      周王朝の西都・鎬京には既に犬戎が迫っていたので、東都の成周

     に遷都しての即位であった。

      その後 幾ばくもせずに周王朝は犬戎の侵攻により滅亡したが、

     幽王に放逐されていた元の太子の宜臼が、母親の実家の申氏の援助

     で後継王朝を継ぐこととなり、以後 国都を移して東周王朝を称す。

      時に辺境の地にあった秦の襄公は、東周の遷都の際、蛮族と戦って

     これを撃退し、周王朝を大いに援助した。

      その功績に対して周王朝は、秦を「諸侯国」として認め、また岐山より

     西をその領土として与えた。

      なお東周の平王元年(紀元前770年)から、戦国時代に入る前年

     の紀元前402年までを「春秋時代」ともいう。

      この春秋時代は、「覇者の時代」ともいわれる。

        魯の隠公元年、即ち紀元前722年から魯の年代記「春秋」

         が書き始められたので、この年を以って春秋時代に入るとの説

         もある。



      

      

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    テーマ : 詩経・漢詩・詩賦等
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    tyouseimaru

    Author:tyouseimaru
    出身地は四国八十八か所参りの発心の阿波、大阪を終の棲家とする。
    歴史好きで、城郭・神社仏閣・歴史遺跡巡りが趣味となる。
    歴史小説や時代小説を好み、往年の著名な時代小説の類は概ね完読と、自負している。

    自薦
    自著「中国通史で辿る名言・故事探訪」の 上・中・下の3巻を、 近い内に「電子書籍」での出版を予定しています。 今年一年間は、さらに工夫を加えるなどして、補記訂正などの校正を第一義としています。       
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