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    中国通史で辿る名言・故事探訪(斉・桓公の覇者への道程)

     「斉の桓公、春秋の覇者へ」   紀元前681年~651年

                   春秋時代

      斉の管仲は経済政策の基本として、特産品の塩の専売制を行い、

     諸国との交易で莫大な財政収入をもたらした。

      また農政にも力を入れて、国家の穀倉は充ち溢れるようになった。

      民の衣食も十分となったので、老人から子供に至るまで礼儀を

     重んずるようになり、民は誇りを持つようにもなった。
      
      そして国力も充実してきたので、次に兵の訓練に力を入れた。

      斉・桓公二年(前684年=魯・荘公十年)、遂に兵を起し、郯(たん)

     を一気に攻め滅ぼした。次に盟に背いて魯を攻めたが、敗北を喫して

     しまった。

        ※ 郯は、「春秋左氏伝」では「譚」と記す。

      その後、桓公五年、再び魯を攻略した。

      魯の荘公は、遂邑の地の割譲を条件に和睦の申し入れをした。

      桓公は承知して、その冬 魯の「柯の地」で会盟をすることとなった。

      之を世に「城下之盟」という。

       「一小快を愉(たの)しむのみ」   前681年

      魯には、力もあり度胸もあった曹沫(そうばつ)という将軍がいた。

      荘公に見込まれて将軍となること三度であった。

      三度 斉と戦って、三度敗北を喫したが、荘公は曹沫を非難したり

     処罰するどころか、そのまま将軍の地位に留めていたのである。

      この度の会戦にも、曹沫を側近として帯同して来たのである。

      以下は、和睦の調印の行われる檀上での出来事である。

      桓公は隙を衝かれて、魯の荘公の従者・曹沫にいきなり匕首を

     突き付けられ、「土地の返還」の約束を強要された。

      桓公はその場において、曹沫の要求を受け入れることにして危難を

     脱した。

      ところがその直後、桓公は領土の返還の約束を反故にして、且つ

     曹沫を殺そうと意気込んだが、管仲に諌められた。

      「それ却(=脅)かされて之を赦し、信に倍(=背)きてこれを殺すは、

     一小快を愈(=愉)しむのみ。

      而も信を諸侯に棄て,天下の援けを失わん。不可なり」と。

      はたして桓公は、約束通り土地を魯に返還した。

      このことは天下の諸侯の間で評判になり、諸侯は桓公の懐の深さを

     知り、反って懼れられるようになった。

                       「史記 斉太公世家」

      「甄の地の会盟」    前679年

      先の曹沫の事件があってから二年後の桓公七年、桓公は宋・陳・

     衛・鄭の諸侯を「甄(けん)の地」に集めて会盟した。

      そしてその後 会盟主催者として、宋、楚を攻めた。

      「侯伯を賜う」     前667年

      前667年には、周(東周)惠王(5代)から念願の侯伯(諸侯の旗頭)

     を賜う。

      桓公の在位23年(前663年)には、燕王の要請を受けて北方の蛮夷

     の山戎を征伐し、弧竹国まで遠征した。

      桓公はその在位中に、斉の周辺の弱小国を次々と吸収併呑した。

      その数は、三十とも三十五とも謂われる。

      ※  多くの諸侯を一か所に集めての会盟には、「文会」と「武会」

        があった。

          文会は「素車の会」と呼ばれて、武器や兵車は伴わない。

          武会は「兵車の会」と呼ばれ、これに応ずる諸侯は武装して

         兵車を率いて参集した。

       「葵丘(ききゅう)の会盟」      前651年

       この会盟によって遂に斉の桓公は、春秋時代最初の「伯(覇者)」

      と認められる。


     


       

        

      

      

      

    テーマ : 中国古典・名言
    ジャンル : 学問・文化・芸術

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(一芸に通ずる者の志)

     「羿の道は射に非ず、造父の術は馭に非ず。

      奚仲の巧みは斲削に非ず。


                        東周王朝

      羿(げい)は弓を射るのが巧みであるというが、羿の根本の道は、

     決して弓を射るということにある訳ではない。

      また造父(ぞうほ)は、馬を馭する術に熟達しているというが、彼の

     技術は、決して馬を馭するにある訳ではない。

      奚仲(けいちゅう)は車を作るのに、切ったり削ったりすることに上手と

     言われているが、彼の本領はそのような処にあるのではない。

        ※ 斲削(たくさく)とは、切ったり削ったりすること。

      一芸に熟達するほどの者は、その手先の良し悪し以上のもの、即ち

     道に志し、道に得るところがなければならないのである。

                        「管子 形執」

      ☆ 羿は神話の堯舜時代、或は夏の初期の頃の弓の名人とも。

        奚仲は夏の時代の車作りの名人。

        造父は周の第5代穆王(姫満)に仕えた馬車の名御者。 


      

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(長勺の戦い)

     「それ戦いは勇気なり、

      彼竭(つ)き 我盈(み)つれば克つ」


                         春秋時代

      魯・荘公九年(前685年)秋、斉は小国の魯を乾時(かんじ)に破り、

     盟を交わして軍を退いた。

      ところがその翌年春、斉の桓公は管仲らの反対に拘らず、盟約に

     背いて高傒を将として再び魯に軍を進めた。

      魯の荘公が応戦の準備で大童の時、郷人の曹劌(そうけい)という者が

     王に拝謁を願い出てきた。

      彼の同郷の人は、引き留めて言う、

      「肉食者が対策を立てられるのだから、余計なことはするな」と。

      曹劌は、

      「肉食者は身近のことばかりで、遠大な計画は立てられないものだ」

     と言って出向いた。

        ※ 肉食者とは、高位高官連中のこと。

          当時 肉は高価なもので庶民の食せるものではなかった。

      曹劌は願い叶って、目通りした王に問うた。

      「何を恃みに戦いをなさるのですか。」

      荘公は言う、

      「飽食暖衣を独り占めせず、人民と分け合ってきたぞ。」

      曹劌は、

      「そのような恩恵では、とてもすべての者には行き渡りません。

      民は従いかねます。」

      荘公、

      「神には犠牲や玉帛を十分に供え、且つ誠心誠意 信を以ってお祈り

      して来たぞ。」

      曹劌、

      「そのような信は未だ小さいもので、神は福をもたらせません。」

      荘公、
     
      「これまで争いごとの訴えは、その大と謂わず小と謂わず、たとえ

     真相は究明出来なくても、公平を旨として情理を尽くして裁いてきた

     つもりだがな。」

      曹劌、

      「それなれば、当に真心を尽くしたものと言えます。

      一戦交えて然るべきでしょう。わたしもお伴致しましょう。」

     かくして荘公は、彼を兵車に同乗させ、長勺(魯の支配地内)で

     斉の軍と対峙した。

      頃合いを見て、荘公は進撃の太鼓を打とうとした。

      だが曹劌は、

      「まだ早すぎます」と言って、その打つ手を抑えた。

      そして斉軍が三度太鼓を打った時、

      「今です」、と荘公を促した。

      勢いの尽きかけた太鼓に合わせて魯軍に進撃された斉軍は、総崩れ

     となった。

      荘公は敵軍の乱れに乗じて追撃しようとしたが、曹劌は、

      「ちょっとお待ちください」と言った。

      そして兵車から降りると、敵の兵車の跡を調べてから再び荘公に

     言った。

      「もう、よろしいでしょう」と。

      そこで魯軍は、斉軍を追撃して勝利を確定した。

      戦いの後、荘公は曹劌に戦闘中の采配如何の故を尋ねた。

      曹劌曰く、

      「それ戦いは勇気なり。

      一鼓して気(勇気)を作(な)し、再びして衰え、三度して竭(つ)く。

      彼(敵の勇気)竭き我(味方の勇気)盈つ。故にこれに克つ。

      それ大国は測り難し、伏(兵の)あらんことを懼る。

      我その轍の乱れたるを視、その旗の靡(なび)けるを望み、故に(それら

     の乱れ具合から判断して)これを逐(お)えり」と。

      ※ 鼓鉦:こしょう。

         太鼓と銅鑼のこと。

         軍隊用語で、攻めは太鼓で、退却は銅鑼が合図。

                      「春秋左氏伝 荘公十年」

      ※ 春秋時代、一介の地方の郷士が何の手ずるも無しに君主に

        見えることなど出来るものではないが、春秋左氏伝には付言

        も無いが、何らかの事情があったものと解したい。





      

      

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(管仲、斉の宰相となる)

     「管仲、斉の宰相となる」

                        春秋時代

      魯に抑留されていた管仲は、「管鮑の交わり」の故事で有名な鮑叔牙

     の配慮で斉の桓公を焚き付けて、斉に帰国することが出来た。

      鮑叔牙は管仲との再会を喜び、早速 城中に管仲を帯同し桓公に

     面謁させた。

      拝謁してから管仲がこれまでの君に対する非礼を詫びると、桓公曰く、

      「斉はいま国を富まし、兵を強くせねばならぬ時である。

      この度 お前の大才を用いることが出来て喜ばしく思う」と。

      自分の命を狙ったこともある管仲に恨みの一つも言わず、直ちに

     大夫に任じ、施政の大権を委ねた。

      桓公は幕下に鮑叔牙・高傒(こうけい)たちも交えて、共に政治の

     改革に取り組んだ。

      管仲は桓公と相談の上、各部署の長たる人材を推挙して任じた。

      大行(たいこう。主席外交官)には、礼に明るく賓客の応対に長けた

     隰朋(しゅうほう)を、大理(司法官)には頭脳明晰で財物に潔白な、

     また人情の機微に長けた在野の処士の弦商を、太田(農務官)には、

     荒れ地を開墾して食糧増産に優れた手腕を発揮する在野の処士の

     寧武(ねいぶ)を、大司馬(軍旅の総司令官)には、戦場に赴くこと

     我が家に帰るが如き勇猛果敢な公子・成父を、君主に逆らってでも、

     敢えて強く諌めることの出来る東郭牙を諫官に任用した。

                       「国語・斉語」

      ※ 大行(たいこう)は、本来は「大行人(だいこうじん)」といい、

        周から戦国時代にかけての官名で、外国の賓客の接待を司った。

         漢代 以後は、「大鴻臚(だいこうろ)」という。

        当時の斉には上卿の国氏と高氏がおり、

        管仲が執政になってからも、彼ら両人の地位は不動であり、

        管仲が上位に座るものではなかった。



        

      

      

      

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(斉の後継者争い)

      「臣 謹んで誅を行う」     

      紀元前686年 斉(姜斉)の大夫擁廩(=林)は、15代の公孫無知

     を弑してから大夫連中に告げて曰く、

      「無知は、襄公(14代の姜諸兒)」を弑して自立す。

      臣 謹んで誅を行う。

      ただ大夫ら、さらに公子の当に立つべき者を立てよ。

      ただ命をこれ聴かん」と。

      自らは、懼れ多くも野望の無いことを闡明したのである。

      『小白と糾の後継者争い』  

      大夫擁廩(林)の表明を受けて、斉の重臣は誰を新たに君に

     立てるべきかで紛糾した。

      小白の母は衛の出であって、先代釐公の寵愛を受けていた。

       ※ 釐公は「史記」の記名、春秋左氏伝では「僖公」と記す。

      そして小白は、卿大夫の高傒(こうけい)とは少年の頃から親しかった

     ので、結局 もう一人の卿大夫の国氏もこれに同調し、密かに小白を

     莒(きょ)から呼び戻そうとしていた。

      一方では公子糾の擁護者たる管仲は、魯にいて斉の動向を密使の

     報告で察知していたので、直ちに糾を伴い且つの魯の援軍を帯同して

     魯を出国した。

      また鮑叔牙も同じく斉の動向を察知して、擁護する小白を斉に連れ

     戻そうとしたが、丁度その時 斉の留守を守っていた正卿の高傒から

     密かに連絡があり莒を後にした。

      管仲は糾と小白の後継争いは避けられないと考えていたので、自ら

     は一軍を率いて小白の一行を待ち伏せしていた。

      やがて小白の一行が目に入るや、管仲は小白めがけて矢を射込

     んだ。

      矢は小白の帯鈎(バンドの金具)に当たったが、小白は鮑叔牙の

     指図通りに死んだふりをして見事に管仲を欺いた。

      この管仲の誤まった判断が、後になり糾の命取りとなる。

      死を免れた小白は、鮑叔牙に急かされて、遂に斉の都に先着する

     ことが出来た。

      秋七月 国君となった小白 即ち桓公は、襄公の葬儀を執行した。

      『乾時(かんじ)の戦い』

      八月になると、魯軍は斉に攻め込み、斉の乾時で戦闘を交えた。

      だが魯軍は惨敗を喫し、荘公は自らの兵車を乗り棄て、馬車を

     乗り継ぎ、這う這うの体で国に逃げ帰った。

      荘公の御者と車右は、兵車に王の旗を立てて、斉軍を脇道に誘い

     込んで荘公を逃したのである。

                       「史記 斉太公世家」



      

      

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    tyouseimaru

    Author:tyouseimaru
    出身地は四国八十八か所参りの発心の阿波、大阪を終の棲家とする。
    歴史好きで、城郭・神社仏閣・歴史遺跡巡りが趣味となる。
    歴史小説や時代小説を好み、往年の著名な時代小説の類は概ね完読と、自負している。

    自薦
    自著「中国通史で辿る名言・故事探訪」の 上・中・下の3巻を、 近い内に「電子書籍」での出版を予定しています。 今年一年間は、さらに工夫を加えるなどして、補記訂正などの校正を第一義としています。       
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