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    中国通史で辿る名言・故事探訪(晋の躍進)

    「大子立つを得ず」

                        東周

      晋は献公十六年(=魯の閔公元年。前661年)、軍を上下の二軍

     として増強し編成した。

      献公は自らは上軍を率いることとし、太子申生を下軍の将に任じた。

      そして自らの指揮車の御者と車右には、それぞれ趙夙と畢(ひつ)万

     を抜擢した。

        ※ 一軍は、一万二千五百人の編制。

      かくして晋軍は軍事行動を起こして、周辺の同族の小国の霍(かく)・

     魏・耿(こう)を滅ぼした。

      凱旋した後 献公は太子の申生の為に曲沃に城郭を築き、趙夙と

     畢万にはそれぞれ耿と魏に封じ、二人を大夫に取り立てた。

      その措置を見て大夫の士蔿(しい)は、太子に忠告した。

      「大子立つを得ず。これに都城を分かちて位するに卿を以ってし、

     先ずこれが極(最高の位)をなす。

      またいずくんぞ立つを得ん。

      (=あなたは最早 大子としては認められていません。都城を分与

       され、あまつさえ臣下としての卿(下軍の将)に任ぜられ、それで満足

       せよとの君の御意向ですぞ。)

      これを逃ぐるに如かず。罪をして到らしむること勿れ。

      (=ここは将来において罪を得るようになる前に、他国に亡命するのが

       最善と言えます。)

      呉太白たる、また可ならずや。なお令名あらん」と。

      (=その昔 弟の季歴に位を譲った周の呉太白らの故事に倣うこと

       です。そうすれば良い評判も立ちましょう。)

      だが、申生は聞こうとはしなかった。

      翌年 献公は太子申生に対して、東山地方の討伐を命じた。

      その際 大夫の李克は、祖廟や社稷を按じ、供物に気を配り、国君の

     膳部を監督するのが太子の役目であり、また国君が親征なされれば、

     太子は留守を預かるのが昔からの制度慣例であるとして献公を諌めた。

      だが献公は、

      「寡人には他にも子はある。

      未だその後継ぎを誰にするかは、決めていないぞ」と。

      李克は反論することなく身を退き、太子に会って暗に自立を進言

     した。

      「子は孝ならざるを懼れ、立つを得ざるを懼るるなかれ。

      己を修めて人を責めずんば、難に免れん」と。

      そしていよいよ大子の出陣の日、献公は太子に偏衣を着せ、

     金の玦(おびたま)を佩用させた。

      ☞ 偏衣:左右で色の異なる衣服。

         玦 :輪環の一部を欠いた玉で、別れとかの決意を表わす。

                      「史記 晋世家」



        

    テーマ : 中国古典・名言
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    中国通史で辿る名言・故事探訪(魯の季友、上卿となる)

      「慶父を去らずんば、魯の難 未だ已まじ」

                        東周

      魯の閔公元年(前661年)夏六月、先々代(16代)の荘公を葬る。

        ※ 18代の閔公は、「史記」では湣公と記す。

           尚 17代に当たる先代の君は、公子・姫斑と言うが、

          在位期間が紀元前662年の1年弱であった。

      同年秋八月、閔公は斉の桓公と落姑で盟を立てたが、その際に

     先に陳に奔った季友を呼び戻すべく斉侯の助力を請い、後に斉侯

     の口添えもあり陳から季友が帰国してきた。

      そしてその年の冬 斉の大夫・仲孫湫は、魯のお家騒動にまつわる

     内情を視察した。

      帰国した仲孫湫は、斉侯に次のように復命した。

      「慶父を去らずんば、魯の難 未だ已(や)まじ」と。

      即ち慶父を政権の座から外さないと、魯の内政の乱れは収まらない

     ということである。

      斉侯は言う、

      「どうしたら除けるのか」と。

      「騒動が収まらなければ、自ら倒れるでありましょう。

      先ずはお待ちください」と。

      湣公二年夏 湣公の傅(傅役)が大夫・卜齮の田を横取りしたが、

     湣公は何の沙汰もしなかった。

      時に秋八月辛丑(8日)、慶父は卜齮を唆して湣公を宮中の武闈門

     で弑殺させた。

      この閔公は、先代の荘公の元に輿入れした斉の桓公の公女・哀姜

     の妹・叔姜の子であり、桓公もその後ろ盾になっていたが、慶父は哀姜

     と公私ともに通じていたのである。

      ※ 当時の支配階級の習俗として、姉が輿入れするとその妹も

       媵(よう。付き添い)として同行した。

      その事情を知っていた季友(成季とも)は、公子・申(後の19代

     僖公。その母は成風)を守って今度は邾(ちゅう)へ逃れた。

      哀姜は湣公の死後、慶父を君位に昇らせようと考え、慶父もその

     意志を明らかにした。

      ところが国人層は慶父の即位を認めず、反って慶父を攻め殺して

     季友を迎えようという動きを示したので、身の危険を感じた慶父は

     莒(きょ)へ亡命した。

      一方では、哀姜も湣公の死に関与していたので、邾に逃れた。

      だが哀姜の母国の斉では、彼女を許さず捕えて夷で殺し、その亡骸

     を持ち帰った。

      公子・申を伴って帰国した季友は、姫申を即位させた。

      これが19代僖公(史記では釐公と記す)である。

      季友は莒に対して、慶父の身柄の引き渡しを要求した。

      莒は魯から既に賂(まいない)を手にしていたので、慶父を引き

     渡そうと密まで送りつけた。

      慶父は命乞いをするも許されず、ここに至り自ら命を絶った。

      魯の一連の騒動を通じて、季友は巧みに主導権を発揮して政敵

     たる異母兄の叔牙や慶父を除き、僖公を擁立した。

      季友はここに至り上卿に任ぜられ、汶陽と費の邑を下賜されて、

     名実ともに「魯の三桓」の最上位を占めるようになる。

      時代は下がるにつれて三桓の勢力は伸長し、宗室をも凌ぐように

     なるが、中でも末子の季友の季孫氏は揺るぎない最大勢力を保持

     するようになる。

      尚 後のことになるが、僖公は哀姜の亡骸を斉から貰い受けて、

     改めて葬った。

                   「春秋左氏伝 閔公元年~二年」   



      

      



      

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(虢国に神降る)

     「神を得て以って国興り、また或いは以って亡ぶ」

                         東周

      東周王朝の17代惠王十五年(前663年)に神が虢(かく)国の莘

     に降るという事件があった。

      惠王と大夫の内史(史官)の過との間で、虢国存亡についての深刻

     な問答があった。

      惠王が過に其の事を質した。

      「何故そのような事が起こり、虢に降ったのか」と。

      過は、

      「国が興隆する時には、その君は公明正大で純潔慈愛があり、その徳

     は神に捧げる芳香に相応しく、その恵みは人民を統治するに十分であり、

     さすれば神もお受けになり民は従い、民も神も怨みません。

      そこで明神が降って、その盛徳を見て広く福をお授けになります。

      反対に国が亡びようとする時は、貪欲邪悪・淫乱怠惰で粗暴残虐で、

     その政治は生臭く、神への芳香は昇らず、その刑罰は乱脈を極め、

     民は離反します。

      神はそれを不潔とされるので、民に謀反の気持ちが出てくるや、民も

     神も怨んで懐き慕うという心がありません。

      さすれば神も、出向いてそのあり様を観察し、禍を降します。

      そこで、

      【是を以って或いは神を得て以って興り、また或いは以って亡ぶ】という
     
     訳でございます」、と。

      かくして昔の夏王朝や殷王朝の盛衰に言及し、

      「周王朝の興るや、鳳凰 岐山に鳴き、衰微すると宣王に殺された

     杜伯の亡霊が鎬の都に現れて宣王を射殺しました。

      これは皆 明神の記録でございます」と。

      更に王に問われるに、

      「今 降った神は何の神で、誰がお受けするのか」と。

      「その昔 悪徳の呼び名も高かった丹朱の神であり、虢国がお受けに

     なりましょう」と。

      王曰く、

      「然らば何の為にか」と。

      過は言う、

      「臣はこのように聞いております。

      『道ありて神を得る、之を福を逢うといい、

      淫にして神を得る、之を禍を貪るという。』

      今 虢は少しばかり荒んでおりますから、亡びるでしょう」と。

      王は、

      「吾は如何に為すべきや」と。

      過曰く、

      「太宰に申し付けて、祝史に狸姓の者を従え、犠牲とお供えの穀物

     と玉帛を奉げて祀りますが、決して願い事を祈らせてはなりません」と。

      そして王は問うた。

      「虢は後 何年もつのか」と。

      「五年の内でございましょう」と、応えた。

      果たして、惠王十九年(前659年)に、虢は滅ぼされてしまう。

                        『国語 周語』



      

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(晋の重耳の放浪)

     「重耳と夷吾の放逐」

                        東周

      晋の19代献公(在位期間は前676-651)の大子であった申生や

     公子の夷吾(後の20代恵公)・重耳(後の22代文公)は既に立派な

     青年公子になっていた。

      ところが献公が晩年になって娶った驪姫(りき)の策謀により、太子の

     申生が曲沃の新城に遷された際 ついでに重耳は蒲城に、夷吾は屈城

     にそれぞれ遷されていた。

      ところがその後、夷吾と重耳は国都で驪姫の讒言に遭い、また国主

     たる父に挨拶もせずに帰国してしまった。

      献公は、二人の公子に疑惑を深めて激怒した。

      そして明くる献公二十二年(前656年)、追っ手の兵を屈城と蒲城に

     差し向けた。

      この時 献公の特命を受けた蒲邑の宦官・履鞮(りてい)は、重耳に

     自決を迫り威迫した。重耳はとっさに塀を乗り越えて遁走した。

        ※ 履鞮は、「春秋左氏伝」では勃鞮と記す。

      履鞮は重耳に追いすがって斬りつけたが、袂を切り裂いただけで、

     重耳はそのまま生母・狐姫の里である狄(てき)に出奔した。

      もともと重耳は親子の争いを避けようと考えていて、

      「父の下で食禄を食む身でありながら、其の父に手向かいしたら、

     取り返しのつかぬ大罪を犯すことになる。

      それより我 それ奔らん(亡命の道を選ぼう)」と、

      決心していたのである。

      この時 叔父の弧偃(こえん。子犯とも舅犯ともいう)・顚頡(てん

     けつ)・ 趙衰(ちょうし)・魏武子(魏犨)・司空季子(名は胥臣)らが

     随行した。その外 重耳が若かりし頃から随身していた賈佗(かだ)・

     先軫(せんしん)らがいた。

      その一方 屈城の夷吾は、父から攻められても、しばしば奮戦したが、

     戦況が不利になると、遂に母方の孤氏を頼ろうとしたが、重耳との鍔迫り

     合いになるのを恐れ、且つ大夫の冀苪(郤芮とも)の進言もあり、大国の

     秦に隣接する梁(夷吾の夫人の実家)に亡命した。


               「史記 晋世家」、「春秋左氏伝 僖公六年」

      

      

      

      

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(陳人、其の公子御寇を弑す)

     「陳の公子完、斉へ亡命」

                        東周

      魯桓公十二年(前700年)、陳の13代厲公が崩じた。

      公子完は厲公の二男であったが、厲公の兄の12代桓公の三人の

     公子が順次に即位した。

      即ち利公(14代。在位期間 前700年)、荘公(15代。

     前700-693)、宣公(16代。前693-648)である。

      その宣公二十二年、この年は魯の荘公二十二年に当たりその春に、

     陳では内紛が生じた。「春秋」では次の如く記す。

      「陳人、其の公子御寇(ぎょこう)を殺す」と。

      この御寇は太子であった。

      その弑殺事件の仲間に公子完と顓孫(せんそん)が加わっていて、

     愈々迫りくる身の危険を避けるため二人は斉へ出奔した。

      斉には、中原の覇者・桓公がいての全盛の時代である。

      陳からの亡命者である公子完は、斉では陳氏を田氏と改氏した。

      なお、陳氏の国姓は嬀(ぎ)という。

      公子完の諡は敬,、氏は陳。陳完とも陳敬仲とも。改氏の後は、田完。

      斉の桓公は田完を「卿」に取り立てようとしたが、田完はその桓公の

     自分に対する優遇ぶりが斉の諸氏に嫉まれることを畏れて、拝受は

     しなかった。

      そこで桓公は、職工技芸の宰領たる工正(こうせい)に任じた。

                        「春秋左氏伝 荘公二十二年」



      

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(楚の鬻拳の極諫)

     「君を懼すに兵を以ってす」

                        東周時代

      魯・荘公九年(前675年)春、楚の19代文王(熊貲)は巴の軍を

     防いだが、楚の津で黄軍に大敗を喫して、帰国した。

      ところが先君が命じて文王の補佐役とした鬻拳(しゅくけん)は、

     文王を都に入れようとしなかった。

      そして、国君が大敗を喫しておめおめ帰るとは何事ぞ、とばかりに

     強く意見を君に呈した。

      だが文王は聞きいれなかったので、鬻拳は遂に武器を以って文王を

     畏れつつも嚇しつけた。

      文王は仕方なく畏まって再び出征し、黄の軍を踖陵で撃ち破ってから

     帰国して来た。

      ところが文王は、都に入る前 楚の湫で病に罹っていて、国都に帰った

     後の夏六月庚申(27日)の日に没した。

      鬻拳は文王を先君の墓地の石室に葬ってから、自ら文王の死に殉じた。

      この鬻拳、先に国君を再び出旅に追いやった後、

      「吾 君を懼(おど)すに兵を以ってす。

      罪 焉(これ)より大なるは莫し」
    と、懺悔した。

        ☞ 懼すとは、畏れ慎みつつの意を含む。

      そして、自ら「刖(げつ)の刑」に処した。

        ☞ 刖の刑とは、肢きりの刑。

      鬻拳の殉死の後、楚の人は彼を城門の門番の総取締に任じ、

     その子孫にその職を代々継がせた。

      君子曰く、

      「鬻拳は君を愛すと謂う可し。諌めて以って自ら刑に納(い)る。

      刑するも猶 君を善に納るるを忘れず」と。

                        「春秋左氏伝 荘公十九年伝」

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(晋の台頭)

     「晋の武公、内紛を収拾す」

                        東周時代

      晋は内紛で長らく、【翼(本家筋)】と【曲沃(分家筋)】に分れて、

     主導権争いをしていたが、曲沃の桓叔の孫・姫称が宗家の晋侯の

     姫緍(きびん)を殺して宗家の勢力を削ぎ凋落させ、また晋の宝器を

     周王朝の釐王(16代。僖王とも)に献上したりして信任を得、改めて晋の

     国君に任ぜられた。この姫称が第18代武公である。

      ※ 曲沃は、晋の9代穆公の公子で、11代文公の弟である桓叔(諱は

       成師)の分封地。

      「献公、公族の族滅を謀る」

      武公の公子で大子であった詭諸が、父の崩御に伴い即位した。

      これが19代献公である。

      献公九年(前670年)に、国都の絳を「翼」と改称した。

      この献公が即位した頃、献公の実子である重耳(ちょうじ)は既に

     二十一歳の青年であったが、重耳は十七歳にして、五人の賢臣を

     擁していた。

      その五人とは、叔父の弧偃(こえん)を筆頭に 趙衰(ちょうし)・

     賈佗(かだ)・先軫(せんしん)・魏武子らである。

      献公が即位して数年が経った頃から、曲沃では桓叔の子孫が強力な

     公族を形成して、富子が中心となり、その勢力は侮り難いものとなって

     いた。

      献公は大変に苦慮した。彼らを直接に降そうとすれば、反乱を企て

     る恐れがあったからである。

      献公の下には智謀の大夫・士蔿(しい)という者がいた。

      士蔿は献公の許しを得て、彼ら公族の族滅策を推し進めた。

      まず中心勢力の富子を嫉む連中に火を付けて、中傷工作を煽らせた。

      そして富子を除くことに成功すると、これも献公の許しを得て、没収した

     富子の家財をことごとく敵対する公族に分配してやり、その分配方法も

     不平不満が生じるように執り行った。

      即ち、残った公族連中の抗争分裂を煽ったのである。

      その方法で二人の有力な公族を自滅させた。

      次に游氏と他の公族の対立が激化したので、士蔿は游氏に対立する

     公族を煽って、遂に游氏一族を族滅させた。

      士蔿は今回も、族滅された者の家財は公収するのではなく、族滅

     させた者が自分たちの食邑とすることを許した上で、聚に城壁を築いて

     群公子をそこに移住させた。

      そして献公九年(前669年)冬、士蔿は献公の命を受け大軍を率いて

     突如 彼らを包囲して殲滅してしまった。

      献公は最早 誰に遠慮する必要も無くなり、大抜擢人事を敢行した。

      士蔿は大司空に任ぜられた。そしてこの人事は、群臣に活気を生じ

     させることとなった。

      この当時、西方の大国としてしられた虢公(公爵国)の醜が晋に二度

     まで攻め込んで来た。

      その理由は、晋の公室の公子が虢に亡命しており、虢君に哀願して

     攻めてもらったのである。

      献公は直ちに虢を攻め滅ぼそうと考えたが、士蔿に諫言され当面は

     自国の国力を増強することにし、虢に対してはその国力の衰えるのを

     待つことにした。

                       

      
     

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    tyouseimaru

    Author:tyouseimaru
    出身地は四国八十八か所参りの発心の阿波、大阪を終の棲家とする。
    歴史好きで、城郭・神社仏閣・歴史遺跡巡りが趣味となる。
    歴史小説や時代小説を好み、往年の著名な時代小説の類は概ね完読と、自負している。

    自薦
    自著「中国通史で辿る名言・故事探訪」の 上・中・下の3巻を、 近い内に「電子書籍」での出版を予定しています。 今年一年間は、さらに工夫を加えるなどして、補記訂正などの校正を第一義としています。       
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