FC2ブログ
    コンテントヘッダー

    中国通史で辿る名言・故事探訪(城濮の戦い)

     「城濮の戦い その4」

                        春秋時代

      四月戊申(5日) 尽くすべき措置を終わった晋は、直ちに宋・斉・秦と

     四カ国連合軍を編制し、子玉の率いる楚の連合軍を城濮(衛の地)

     で迎えた。

      楚軍は子玉がその一族の六卒を中軍に編入して総指揮をなし、右軍

     には同盟国の陳・蔡軍を編入して子上(闘勃)が将となり、左軍は子西

     (闘宜申)が率いた。

      楚の連合軍は、険しい丘陵を背にしての宿営であった。

      そのあり様から晋公は心配して、開戦の意を決しかねているようで

     あったので、子犯は激励して、

      「ここは戦うべきです。戦って勝てば必ず諸侯は付いてきます。

      たとえ勝てなくても、晋の山河を表裏にすれば必ず害なけん」と。

      晋公が、

      「かって楚で受けた恩義はどうするか」と言うと、

      今度は欒枝(らんし)が応えて、

      「漢水以北の我らと同姓の姫姓諸国は、楚がすべて滅ぼしたのです。

      小さな恩義に拘って、受けた大きな屈辱をお忘れなきように」と。

      「楚と晋の宣戦の口上」

      決戦に先立ち楚軍を指揮する子玉は、子上を宣戦布告の使者として

     晋の陣営に派遣して言わしめた。

      「請う君の士と戯れん。

      君 軾(しょく)に馮(よ)りて之を観よ。

      得臣(子玉の名)も与かりて目を寓(よ)せん」と。

      (=君は指揮車で見物でもなされよ。我もお供して見物いたしま

       しょう。)

      文公は欒枝に応対させて言わしめた。

      「寡君 命(宣戦の口上)を聞けり。

      楚君の恵み未だ之を敢えて忘れず。

      是を以って此れに在り。

      (=恩を忘れぬ故にこそ、三舎を避けてここに陣したのだ。)

      大夫(楚の子上)の為にも退きたり。其れ敢えて君に当たらんや。

      既に命を獲(え)ざれば、敢えて大夫を煩わす。

      (=しかし既に宣戦の口上を受けたからには、お相手致しましょう。)

      二三子に謂え、汝の車乗を戒め、汝の君事を敬せよ。

      (=ご一統に伝えられよ。兵車の御と乗者をよく戒め、最善を尽く

       させよ。)

       ※ 二三子とは、君主が諸侯に対しての「呼びかけの)常套語。

      詰朝(明朝) まさに相見えんとす」と。

      晋の兵車七百乗は既に準備を完了していた。

      文公は有莘(古代の国)の廃墟に上り、自軍の軍勢を観て断じて

     曰く、

      「かほど統制が取れておれば、十分戦えるぞ」と。

      「決戦」

      翌日の己巳(6日) 先ず晋軍から下軍の副将胥臣が精鋭部隊を

     率いて撃って出て、楚陣の右翼を受け持つ陳・蔡勢に襲い掛かった。

      楚の右翼軍が完膚なきまでに壊滅しても、子玉は意に介せず、三軍を

     並行させて出撃した。

      晋軍はそれぞれに真っ向から激突させた。

      だが楚王に兵力を削減されたとはいえ、楚軍は数においては晋軍を

     凌駕していたので、次第に押し返されるようになった。

      晋軍では将たる狐毛の上軍と同じく将たる欒枝の下軍が、粉じんを

     蹴上げつつ敗北を装って後退した。

      之を見た楚軍は、全軍挙げて一斉に追撃態勢に移った。

      ところが晋の中軍は自陣に踏みとどまり、楚の猛攻に耐えてよく陣を

     死守した。

      そこを見計らって、晋の上下両軍は急ぎ兵車や歩兵の向きを反転させ、

     二手に分かれて楚軍の両翼を挟撃した。

      ここに至って、楚の中軍を率いた子玉のみ辛うじて持ち堪えたが、楚の

     敗北は既に確定したので子玉は兵を収めて去った。

      「拾遺・弥縫」

      城濮の戦いは、「春秋の五大会戦」の一つであるが、たった一日の決戦

     で決着のついた会戦であり、余りにもあっけない幕切れであった。

      戦場となった城濮は、黄河の氾濫原が広がってできた大地であり、当に

     戦車戦に適した戦場であった。

      この戦いに投入された戦車は晋軍は七百乗、楚軍はそれ以上の戦車

     を以って戦ったとされるが、その兵車の操縦練度と全軍の運用指揮能力は

     晋軍が格段に優っていたとされる。

                   「春秋左氏伝 僖公二十七年・二十八年」 

                   「史記 晋世家」

    テーマ : 中国古典・名言
    ジャンル : 学問・文化・芸術

    コンテントヘッダー

    中国通史で辿る名言・故事探訪(城濮の戦い その3)

     「城濮の戦い その3」

                        春秋時代

      「開戦」 

       晋が曹・衛を攻略した後、楚と宋の紛争が再燃した。

       楚軍が再び宋都・商邱(そうきゅう)を包囲したので、宋は晋に救援を

      求めて来た。

       文公はその対策に窮した。

       救援軍を直接送れば、必然的に楚と相戦うことになる。

       楚の成王には曽て諸国流浪中に厚遇を受けた恩義があり、交戦は

      気が進まなかった。

       また一方では宋にも恩義があり、これも見殺しには出来なかった。

       決断しかねている文公に先軫が献策した。

       「曹伯を捕えて、衛・曹の地を分かち、以って宋に与えん。

       楚、衛・曹を急にして、その勢いよろしく宋を釈(=棄)つべし」と。

       (=楚の鋭鋒が曹・衛に急行すれば、宋の包囲は自ずと解かれる

        はずだ。)

       文公は其の策を採った。そして晋は予定通り衛と曹の領地を宋に

      与えることにして、且つ宋からは秦と斉に働きかけさせて、その両国の

      仲介による対楚和平工作を図らせた。

       だが曹と衛の領地を宋が領有することになったことを知った楚の

      成王は、激怒して秦と斉の和平仲介を拒絶してしまった。

       事ここにおいて、晋の目論み通り晋・秦・斉・宋の同盟が成った。

       状況を知った成王は、果たして宋都の包囲を解き、自ら指揮する

      親征軍を引き揚げたが、宋の奥深くまで進み転戦中の師将で令尹の

      子玉(闘得臣)には、晋との決戦を避けつつ撤収するよう命じた。

       だが子玉は、王への特使を通じて言う、

       「かつて我が国が晋侯(文公の重耳)を遇すること至厚なるに、この

      度 我が国の立場を承知しながら曹・衛を攻撃するとは、我が君を

      愚弄するにも程がありますぞ」と愚痴った。

       これに対して成王は、使者を通じて説得した。

       「晋侯は19年の久しきに及ぶ亡命の後、帰国し遂に復帰を成し

      遂げた人物であり、治国の才にも優れたものがある。

       天の開く所なり(天命である)。当たるべからず」と。

       だが子玉は、成王に再び伯棼(はくふん)を使者に立て、戦闘継続

      の許しを請うた。

       「敢えて必ずしも功有らんとするに非ざるなり。願わくば以って

      讒慝(ざんとく。邪な人)の口を間執(封ずる)せん」との口上で

      以って、出陣に先立つ蔿賈(いか)との確執に拘っていたのである。

       命令無視に立腹した成王は、子玉に多くの兵を与えなかったので、

      子玉の指揮下には、当時の楚の二つの軍団編成の内 右広と

      大子直轄の東宮軍及び子玉の血縁集団軍である若敖氏の六卒

      (六〇〇人)が従った。

      「子玉の戦略」

      戦力的に窮した子玉は、晋軍に大夫・苑春を軍使として派遣し、通告

     せしめた。

      「請う衛侯を復して曹を封ぜよ。

       臣もまた 宋の囲みを釈(と)かん」と。

      (=まず衛侯の身柄を衛に返し、曹領を元に戻されよ。そうすれば、

       我も同様に宋の包囲を解き撤退しよう。)

      この申し出に対して、弧偃(子犯)は反対した。

      「子玉は礼無し。君は一を取るに、臣にして二を取る。許す勿れ」と。

       《戦略を秘めた偽装信義》

       一方 先軫は、

      「人を定める(人の地位を安泰に保つこと)、これを礼という。

      楚は一言にして三国(衛・曹と宋)を定め、

      子(弧偃)は一言にして之を亡ぼすは、我(我が国) 則ち礼無し。

       楚に許さざる(楚の無礼な要求を斥ぞける)は、是れ宋を棄つる

      なり。

       如かず、密かに曹・衛に許して以って之を誘い、苑春を捕えて

      以って楚を怒らせ、既に戦いて然る後 之を図らんには」と。

       結局 先軫の意見が採用されることになり、楚の使者・苑春はその

      まま拘束しておき、楚(子玉)には報せることなく隠密裏に曹と衛を

      旧に復した。

       建前上は楚の要求を呑むことになったわけであるが、、果たして

      晋の思惑通りに曹と衛は、その見返りに楚との盟約関係を断って

      しまった。

       これを知った子玉は、烈火のごとく怒って晋軍に迫った。

       文公はそれに立ち向かわず、軍を大きく三舎も後退させた。

       当時の軍の行軍距離は、

       一日に一舎、即ち三十里行軍して一泊する慣わしであったが、

      決戦を避けて敵陣から「三舎を避けて」布陣した。

         ※ 当時の一里は、405メートルである。

       其れに対して軍の目付が異議を称えた。

       「君以って、臣を避くるは辱なり。

       かつ楚の師(軍旅)老いたり(疲れている)。何の故に退く」と。

       その意見に対して、弧偃が弁護して言った。

       「戦いは、その目的が道理に適っていることが重要である。

       我が君が楚に亡命した時の恩義がなければ、今日の晋は無く、

      今 楚に対して三舎を避けたのは、それへの恩返しである。

       約束を反故にすれば道義は失われ、我が軍の不利となる。

       我が軍が退いた後、もし楚が攻撃を仕掛けてくれば、其れは

      臣下の率いる軍として我が君主の率いる軍に対して非礼となり、

      我が軍は道義的にも優位に立つことが出来る」と。

       かくして晋軍が三舎を避けたので、楚軍の内部では進撃中止の

      意見が強まったが、子玉は耳を傾けようとはしなかった。

                   「春秋春秋左氏伝」、「史記」



       


       

    テーマ : 中国古典・名言
    ジャンル : 学問・文化・芸術

    コンテントヘッダー

    中国通史で辿る名言・故事探訪(城濮の戦い その2)

      「城濮の戦い その2」

                        春秋時代(東周)

     「謀略戦」

       晋にとり、ここは宋を救援して楚と戦うより外に道は無かった。

       だが晋は、この戦いに協力してくれる同盟軍が欲しかった。

       戦略上、楚に近接する斉と楚の背後にある秦の協力が是非とも

      必要であった。

       戦略会議の席上、先軫が進言した。

       「宋の救援を一応 形式的に断っておけば、宋は直ちに斉と秦に

      和平工作を働きかけるでしょう。

       然る後に、我が軍は直ちに楚との関係の深い曹と衛を攻略し、

      接収した領地を宋に与える策を採ります。

       楚にしてみれば、曹と衛とは親密な関係にある国であり、斉・秦の

      調停に応じるはずがありません。

       斉・秦は調停を拒否されれば、国の面子を無視されたということで、

      我らと与に宋の救援に乗り出してくるに違いありません」と。

      「衛・曹の攻略」

       年が明けて春になった。晋の文公は曹討伐の計画を立て、先ずは

      衛にその領土内の通行を申し入れた。

       だが衛に拒絶されたので、迂回路を取って黄河を渡り 曹に攻め

      込んだ。

       一方では通行を拒絶された衛の領土にも侵攻して、文公にとり昔日

      に受けた曰くのある「五鹿の地」を占領した。

       ※  文公が未だ公子重耳として諸国を流浪中、衛の五鹿の地で

         食うに窮した時、その地の黎民が食を請う重耳らに土塊を投げ

         与えるという非礼を受けたことがあった。

      「斂盂(れんう)で斉と会盟」

       2月に中軍の将(総司令官)の郤縠(穀)が没した。後任には下軍の

      将・先軫が抜擢され、胥臣がその後任となった。

       文公は衛の地で斉の昭侯と会盟した。

       この会盟に衛の成公は参加を申し出たが、文公は拒絶した。

       そこで衛の成公は楚と再び手を結ぼうとしたが、衛の国人層は反対

      して、成公を衛都から放逐して襄牛に隠棲させ、晋に釈明するという

      挙に出てきた。

       この時 楚の陣営に与していた魯は、衛都防衛の為 公子買を

      派遣して来た。さらに楚も衛救援軍を派遣して来たが、遂に晋を破る

      ことは出来なかった。

       晋の矛先は、いよいよ曹都・陶丘に向けられた。晋軍はたちまち

      曹都を包囲したが、城門で激戦が展開され晋軍にも多くの犠牲者が

      出た。

       曹ではそれら晋兵の屍体を集めて、城壁の上に並べて晒し者に

      した。

       これには文公も憂慮したが、下級兵士らの歌う文句に教えられて、

      「曹の墓を移す」という攪乱戦法で以って曹を動揺させた。

       曹は其の回避策として、晒し者にしていた晋兵の屍体を棺に納めて、

      城門を開いて晋側に返還してきた。

       3月丙午(13日)、その虚に乗じて晋軍は総攻撃に出て、遂に城門

      を攻略し、曹伯を捕えた。

      「文公、恩讐を果たす」

       文公はこの衛・曹攻略戦において、昔日の流浪中に受けた恩と仇

      を同時に果たした。

       先ず曹の攻略では曹伯を捕えて、昔日受けた屈辱を晴らし、同時に

      その際に受けた曹の大夫・釐負覊(きふき)に受けた恩義に報いた。

       衛では、食うにこと欠いていたにも拘らず、衛公(成公)からは冷遇

      され、あまつさえ黎民からは食い物の代わりに土塊を投げ寄こされた

      が、国そのものを奪うことによって屈辱を晴らした。

       文公は曹都に入ると先ず曹の治世の出鱈目ぶりと、かって釐負覊

      の進言を無視して文公を冷遇したことの二点を挙げて、曹伯を問責

      した。

       併せて指揮する進駐軍に対しては、大夫釐負覊とその一族の保護

      を厳命した。

       ところがこの措置に不満を持つ者が、釐負覊の屋敷を焼き打ちに

      した。

       何と、文公の股肱の臣でもある魏武子と顚頡(てんけつ)である。

       二人の言い分は、

       「我らの労をばこれ図らず、報いるにおいて何かあらん」、という

      ものであった。即ち、恩返しが何だ位の意。

       文公は軍律を質すべく二人を処刑しようとしたが、股肱の臣を二人

      同時に失うことを憂いて、魏武子に対しては焼き打ちの際に受けた

      傷が恢復するものならば助命しようと考えて使者を遣り、その様子を

      窺わせた。

       そして使者の報告を受けて処刑を取り止め、顚頡だけを処刑して

      軍中に其の罪を触れさせた。

       そして文公の車右であった魏武子に代えて舟之僑が任ぜられた。

                         「春秋左氏伝」・「史記」

                       
      

       
        

    テーマ : 戦記
    ジャンル : 学問・文化・芸術

    コンテントヘッダー

    中国通史で辿る名言・故事探訪(春秋五大会戦)

        「城濮の戦い その1」

                        春秋時代(東周)

    1 「開戦序章」

       楚の成王(20代)は宋の攻略を目論んだが、その包囲に先立ち、

      開戦準備の為に先の令尹(楚の宰相職名)子文(闘穀於菟)に

      命じて、睽(けい)の地で軍事演習を行わせたが、一人の兵士も

      処罰することは無かった。

       日を改めて、今度は令尹子玉に(闘得臣)に蔿(い)の地で演習を

      行わせた。

       子玉は終日演習を実施し、三人を鞭打ち七人の耳を貫く処刑者を

      出すという厳しいものであった。

       子玉の指揮ぶりを見て、楚の国老連中は感嘆して彼を令尹に推し

      た子文を祝賀した。

       この時 蔿賈(いか)はまだ若輩であったが、遅れて伺候し而も

      お祝いをしなかった。

       子文は不機嫌そうに、その訳を尋ねた。

       蔿賈は対えて、

       「祝賀する理由がありません。あなたが執政職を子玉に伝えたのは

      我が楚の安泰を願えばこそのことです。

       内政の安泰を願っても、外に戦って敗れたのでは得る所は何もあり

      ません。若し子玉が戦いに敗れでもしたら、彼を推したあなたの責任

      になります。

       国を敗北に導くような推挙をどうして祝うことが出来ましょうか。

       そもそも子玉は剛にして礼なし。以って民を治むべからず。

       況や戦いの指揮をするに、彼の兵車が三百乗を過ぎれば統御でき

      ないでしょう。卑しくも無事に帰還して祝賀するなど及びもつきません。

       祝うとしても、帰還してからでも遅くはありません」と辛辣であった。

       晋の文公四年(紀元前633年)の暮れ、楚は陳侯・蔡侯・鄭伯・

      許男の同盟軍を率いて宋へ攻略をかけ、その国都・商丘を包囲した。

       窮した宋は、公孫固を急派して晋侯に救援を求めて来た。

       この要請に晋の文公は苦慮し決断しかねていた。

       文公は即位する前に諸国放浪中に受けた宋公の恩義を思えば、

      直ちに救援軍を派遣したいが、楚の成王にも同じく恩義を受けた

      ことがあったので干戈を交えたくは無かった。

       だが楚王に宋攻略の中止を申し入れても、聞き入れられない

      ことは明白であった。

       また事は早急だとして宋の商丘へ派兵すれば、楚の友好国である

      曹と衛に側面を衝かれる恐れもあった。

       文公は臣下の進言を待った。多くの意見具申がなされた。

       先軫が進言した。

       「宋の難局を救って宋公(襄公)の恩に報いると同時に、諸国に

      我が国の力を示し、以って天下に覇を称える好機かと存じます」と。

       弧偃(子犯とも)は言う、

       「楚は最近 曹を支配下に置き、衛と縁組を整えたところです。

       今 我が国が曹と衛を攻撃すれば、楚は何を置いてもこの二国の

      救援に向かわざるを得ません。

       かくなれば占めたものです。宋はもちろん、かねてから楚に脅かされ

      ていた斉も危急を逃れることが出来ましょう」と。

       文公はこれらの進言に従って行動を起すべく、直ちに兵の戦時編制

      を行った。

       趙衰(ちょうし)の推挙により、総指揮官は中軍の将として郤縠(穀)、

      その副将は郤臻(げきしん)、上軍の将は狐毛(弧偃の兄)、副将は

      弧偃、下軍の将は欒枝(らんし)、副将は先軫が任ぜられた。

       なお 趙衰自身は卿に任ぜられた。

       文公の兵車には、荀林父が御(御者)を務め、魏武子が車右を

      務めることになった。

       いよいよ晋軍は作戦を開始し、十二月には太行山の東部一帯を

      攻略した。

       そして趙衰を上卿に任じて、原の地に封じた。

                    「史記 晋世家」、

                  「春秋左氏伝 僖公二十七年、二十八年」

       

       
        

      

    テーマ : 戦記
    ジャンル : 学問・文化・芸術

    コンテントヘッダー

    中国通史で辿る名言・故事探訪(苑濮の盟)

     「苑濮の盟」

                         東周

      前629年 衛は狄に攻め込まれて帝丘(商丘とも)に遷都した。

      それより前の紀元前634年、衛では文公(21代)の卒(しゅつ)

    後 その子の鄭が即位した。これが22代成公である。

      だが当時、晋と楚という二大強国に挟まれた衛などの弱小国は、

     その舵取りを誤れば亡国の運命を背負うこともあった。

      後に宋国を巡る晋と楚の覇権をかけた戦いで、成公は先代に引き

     続き楚を与国として晋に立ち向かった。

      だが戦いが始まるや晋の策謀により、成公は一時期ではあるが国人

     らに国を追われ、楚に奔ることになる。

      晋に攻略された衛の国人層が晋の要求により、国を復する条件として

     衛君の追放を呑んだのである。

      そして両雄の争いで現実に覇権を手中にしたのは、晋の文公である。

      文公は、斉の桓公に続いて春秋の第2代目の覇者となる。

      後に六月になると、成公は晋に許されて衛に復帰した。

      成公に随行して国外にいた賢大夫の寗武子(ねいぶし)は、衛の国人

     らと苑濮で盟をなした。

      其の命に曰く、

      天 衛国に禍し、君臣協(かな)わず、以って此の憂いに及べり。

      今 天 その衷(まこと)を誘い、皆 心を降して以って相従わしむる

     なり。

      (=だが今や、天のお蔭で以って君臣共々衷心を取り戻し、立場を

       越えて和協するようになった。)

      居る者(残留者)有らずんば、誰か社稷を守らん。

      行く者(君の随行者)有らずんば、誰か牧圉を守らん。

         ※ 牧圉とは、ここでは君の御車を管理する者の意から、

          君の身辺警護をいう。

      
      不協の故に、以って明らかに盟を大神に乞いて、以って天衷を啓く。

      (=和協しなかったので、ここで大神に誓いを立てて、天の示す誠

       のお導きをお願いしよう。)

      今日より以往、既に盟うの後 行く者は其の力を保つことなく、居る者

     は其の罪を懼れること無かれ。

      (=今日より後、盟を交わした後は、君に随行した者は其の功労

       を誇ることなく、国に残留して祀りを守った者も君に従わなかった

       という罪を畏れることは無い。)

      この盟に背く者有れば、禍 たちどころに降りて、明神、先君これに

     誅罰を加えられんと。

      衛の国人は、此の盟を聞いてようやく、

      誰に付くべきか付かざるべきかと苦衷したり、疑心暗鬼の思いを

     持たなくなった。

                       「春秋左氏伝 僖公二十八年」




       

      

    テーマ : 中国古典・名言
    ジャンル : 学問・文化・芸術

    コンテントヘッダー

    中国通史で辿る名言・故事探訪(周室内紛の収束)

     「周王室の内紛 終息す

                        東周

      魯・僖公二十二年(前638)、周王朝の襄王(18代)は大夫富辰の

     助言を得て、斉に亡命中の王子帯(叔帯)を京師(周朝の都)に呼び

     戻した。

      この王子帯は、王室にとっては好ましからざる人物であった。

      折角 襄王は弟の王子帯を京師に呼び戻したが、前636年 王位を

     狙う王子帯に夷荻の「狄(翟とも)」と結託して京師に攻め込まれ、防戦

     するも利非ず,止む無く軋轢のあった鄭国に避難して身を寄せる事態と

     なった。

      春秋の筆法によると、天子が亡命したり逃走することを

      「外に蒙塵す」と記す。

      慣例的にて天子が王宮を出ると、下々の者は総動員されて、事前に

     その予定経路の露を落し、塵を祓い清めて、塵埃や霜露が玉体(天子

     の体)に触れてはならないとされていた。

      しかし天子の亡命や逃走といった非常時には、そのような措置をとる

     ことが出来るはずも無く、外に塵を蒙ると、糊塗したのである。

        ※ 諸侯以下の者が他国に逃れることは、「出奔」という。

          天子は天下を以って家と為すので、何処に行っても「居る」

         といい、「出る」ということは無い。

          敢えて「出る」といえば、天子を非難しての意を含む。 

      この戦いで大夫の富辰は、一族を率いて奮戦したが陣没した。

      その昔 襄王は鄭が臣下の礼を尽くさなかったので、異民族の狄

     と同盟し、その力を借りて鄭国に攻め込んだことがあった。

      そして周・狄同盟の証として狄の娘を周王朝の後宮に入れるという

     経緯があった。

      政略結婚であるから愛情がある訳はなく、頃合いを見計らって

     襄王はその娘を狄に追い返してしまった。

      その仕打ちに激怒した狄王は、野望を抱く襄王の弟の王子帯に

     与して周の京師を攻め、遂に襄王を追い詰めて王宮から鄭国に逃亡

     させてしまった。

      その年の冬、襄王は使者を魯に遣わし、周の騒動を告げさせた。

      魯の臧(ぞう)文仲《諱は孫辰》対えて曰く、

      「天子 外に蒙塵す。敢えて奔りて官守に問わざらんや」と。

      (=天子様は難を外に避けられておられる由。

        どうしてすぐにお伺いして、お役人たちのお指図を受けないで

       おられましょうや。)

      襄王はその後、前635年 春秋の覇者である晋の文公と秦の穆公

     との働きにより復位することができたが、王子帯は殺された。

          「史記 秦本紀」、

          「春秋左氏伝 僖公二十二年、二十四年、二十五年」



      

      

    テーマ : 中国古典・名言
    ジャンル : 学問・文化・芸術

    プロフィール
    プロフィール

    tyouseimaru

    Author:tyouseimaru
    出身地は四国八十八か所参りの発心の阿波、大阪を終の棲家とする。
    歴史好きで、城郭・神社仏閣・歴史遺跡巡りが趣味となる。
    歴史小説や時代小説を好み、往年の著名な時代小説の類は概ね完読と、自負している。

    自薦
    自著「中国通史で辿る名言・故事探訪」の 上・中・下の3巻を、 近い内に「電子書籍」での出版を予定しています。 今年一年間は、さらに工夫を加えるなどして、補記訂正などの校正を第一義としています。       
    最新記事
    月別アーカイブ
    最新コメント
    最新トラックバック
    カテゴリ
    天気予報

    -天気予報コム- -FC2-
    FC2カウンター
    おきてがみ
    おきてがみ
    twitter
    フリーエリア
    フリーエリア
    検索フォーム
    RSSリンクの表示
    リンク
    Powered By FC2ブログ

    今すぐブログを作ろう!

    Powered By FC2ブログ

    ブロとも申請フォーム

    この人とブロともになる

    QRコード
    QR
    メールフォーム

    名前:
    メール:
    件名:
    本文:

    <
      /body>