FC2ブログ
    コンテントヘッダー

    中国通史で辿る名言・故事探訪(河曲の戦い)

     「河曲の戦い」

                        春秋(東周)時代

      秦の11代康公は、令狐の戦い(前620年)の恨みから、前615年

     冬、晋に侵攻し羈馬を占領した。

      晋の霊公(24代)は、趙盾を中軍の将に荀林父をその佐、郤缺を

     上軍の将に臾駢(ゆへい)をその佐、欒盾(らんとん)を下軍の将に

     胥甲(胥臣の子)を佐に任じた。

      そして晋軍は河曲で秦軍を迎え撃った。

      晋軍は当初、臾駢の意見に従って敵遠征軍の疲れを誘導するため

     防禦に徹する陣構えをした。

      会戦を欲する秦は、自国に亡命して来ている晋の名将であった士会

     に戦略を質した。

      士会は助言するに、

      「先代襄公の娘婿で、趙盾にも可愛がられた趙穿(ちょうせん)が

     従軍しているが、彼は猪突猛進型の将であり且つ上軍の佐に任命

     された臾駢を憎んでいるので、彼に集中攻撃をかければ挑発に乗って

     来るでしょう」と。

      十二月戊午(10日)、秦軍は晋の上軍に襲撃をかけたが、果たし

     て趙穿は秦軍の駆け引きに乗ぜられ、自らの部隊を率いて追撃して

     来た。

      総帥の趙盾は、

      「若し秦軍が趙穿を捕獲すれば、卿を一人捕獲したことになり秦は

     勝って帰れるが、我は帰国後 何と報告出来ようぞ」と言って、全軍を

     出撃させた。

      だが黄河の屈折点で交戦するも決着がつかず、両軍とも兵を退いた。

                       「春秋左氏伝 文公十二年」


      「趙盾、士会を呼び戻す」

      趙盾は、秦が名将士会(随会ともいう)を度々戦に起用することに

     不安を覚え、同年夏 六卿を招集して密談を交わした。

      「士会は秦に在り、賈季(狐射姑)は狄に在りて、しかも晋国内では

     再び内紛が生じかねない状況にある」と。

      荀林父は賈季の呼び戻しを薦めたが、郤缺は士会の呼び戻しを薦め

     た。

      かくして士会を秦から奪還するための綿密にして大がかりな偽計が

     為された。

      事は計画通りに運ばれ、士会は言うに及ばず、案じられた彼の家族も

     無事に秦の手で送り返された。

      士会、卿となる

      前612年春、士会は晋軍を率いて赤狄の甲氏・留吁(りゅうく)・

     鐸辰を討ち滅ぼした。

      晋侯はその捕虜を天子に献じて、士会を「卿」に任ずるよう願い出て

     勅許された。

      晋侯は士会を中軍の将に任じ、太傅(たいふ)の職を与えた。

      ☷ 拾遺・弥縫
        「礼記 王制」

         侯・伯(五爵のうちの公は別格としての上位)の国には、

        三卿あり。

         そのうち二卿は上卿となし、他の一卿は下卿となす。

         上卿は天子から直接命ぜられ、その国の執政に任じた。



          

      

              

    テーマ : 中国古典・名言
    ジャンル : 学問・文化・芸術

    コンテントヘッダー

    中国通史で辿る名言・故事探訪(秦の穆公)

     「秦の穆公の雄略と死」

                        春秋(東周)時代

      秦の穆公三十六年(前625年)、穆公は孟明視等に兵を授けて、

     再び晋を攻略した。

      たちまち晋軍を一蹴して、王官や殽の地を奪取し、ここにおいて殽山

     の敗戦の復讐を遂げることが出来た。

      穆公も茅津から黄河を渡り、殽山の地に遺棄された将兵の遺骸を

     埋葬し、全軍に喪を発して三日間にわたり哭泣の礼を行った。

      後世をして以って余が過ちを記さしむ

      その後、全軍に宣言した。

    「汝ら士卒、謹んで我が誓を聞け。

      古の人、黄髪番番たるに謀れば、過つところなし。

      (=昔の人は事を謀るに際して、老人の順次に従って行ってきたので、

       過つことは無かった。)

       ※ 黄髪とは老人。

          番番は事の順序。

      然るの余はその戒めを破り、蹇叔・百里奚の諌めを聞かず、

     多くの忠良なる将士を死に至らしめた。

      故にこの誓を作り、後世をして以って余が過ちを記さしむ」と。 

      これを聞いて涙せぬ者とておらず、益々穆公に信頼を寄せたという。

      そして翌年、穆公は由余の作戦に基づき、西方の異民族を討伐し、

     戎王の治下にあった十二の国を併呑した。その領土を広げること千里

     に及んだ。

      天子は召公過を派遣して、穆公に金鼓を贈りその功を称えた。

        ※ 金鼓:金属製の楽器。元は鐘(退却時の合図)と

              鼓(進撃時の合図)

      「穆公の死」

      穆公三十九年(前621年)に、穆公は崩じて雍に葬られた。

      時に殉死者は百七十七人に及んだという。

      その中には名臣も多く含まれており、彼らの殉死を悲しみ,秦の人々

     は、「黄鳥の詩」を作って鎮魂歌とした。

      この詩が、「詩経 秦風・黄鳥」である。

      後世の人々は穆公を評して言う、

      覇王に等しい功績を挙げながら、諸侯の盟主になれなかったのは、

     死に際して後事を忘れ、あらた名臣たちを殉死させたことによる、と。

      事実この殉死により、秦の国力は著しく低下し、再び復興して戦国

     時代の雄となるのは、十五世の後の昭王(前306年→251年)の時代

     になってからである。

                      「史記 秦本紀」



     

      

    続きを読む

    テーマ : 中国古典・名言
    ジャンル : 学問・文化・芸術

    コンテントヘッダー

    中国通史で辿る名言・故事探訪(先軫の死)

     「晋の襄公、箕(き)に狄を破る」

    東周王朝

      紀元前627年、殽(こう)で秦と晋が戦った年の八月戊子(25日)、

     白狄が晋を伐ち箕(き)に進出して来た。

      晋侯はこれを箕に迎え撃ち、郤縠(穀)は白狄の君を捕獲した。

      この戦いで従軍していた先軫は、

      「先の殽の戦いの折、臣たる身が君に当たり散らす不敬の行いを

     したが、しかし君からは何のお咎めも無かった。

      この上は進んで自分を罰せねばならぬ」と言って、甲冑を脱いで

     狄軍に突入し討死してしまった。

      戦いが終わって戻ると、先軫の首が狄から返されて来たが、襄公は

     三命により先軫の子・先且居(しょきょ)を中軍の将に任命し、再命に

     よって先茅のものであった県を先代文公に郤缺を推挙した臼季に

     感謝の意を込めて賞として与えた。

      また一命によって、郤缺を卿に任命し改めてその故地の冀(き)に封じ

     たが、軍職は未だ担当させなかった。

                         「春秋左氏伝 僖公三十三年」



      ☷ 拾遺・弥縫

        「三命」とは、周代の制であり君侯の上奏により、改めて天子から

       大国或いは次国の卿大夫に任命されることをいう。

        なお、「一命」とは、初めて正式の官職に任命されることをいう。

      

    テーマ : 中国古典・名言
    ジャンル : 学問・文化・芸術

    コンテントヘッダー

    中国通史で辿る名言・故事探訪(文公崩ず)

     「覇者・晋の文公崩ず」

                          東周王朝
     
     晋の文公九年(紀元前628年)、その冬十二月己卯(16日)、

    文公が崩じた。

     文公は紀元前629年の秋、諸侯に魁て清原で軍の勢揃いを

    行った。

     これを「三行(さんこう)」といい、歩兵部隊を編成した軍団であった。

     これは国土防衛の戦略上の必要に迫られて、従前からある戦車部隊

    とは別に編成したものであった。

     晋では先代の君侯である恵公以来の土地改革政策を継承発展させて

    公田・公地を大いに増やして、戦時には歩兵として転用できる自作農を

    育成するという背景があった。

     文公の時代となってからは、荀林父(りんほ)が中行の将、先縠が右行、

    先蔑が左行の将となった。そして重鎮の 趙衰は卿に任ぜられた。

     晋は以後 約百年間は、事実上の中原の覇者の国として君臨すること

    となる。

      文公の公子・歓が、父の崩御に伴い即位した。

      即位の期間は短かったが、名君で知られる二十三代襄公である。

      殽の戦いで秦に勝利し、衛を討ち、彭衙で再び秦を破りさらに親征

     して敵を破るなど覇者たるべき働きをしたが、如何せん短命であった。

                     「春秋左氏伝 僖公三十一年」

     

    テーマ : 中国古典・名言
    ジャンル : 学問・文化・芸術

    コンテントヘッダー

    中国通史で辿る名言・故事探訪(晋・文公の復讐戦)

     「鄭君を得て甘心せん」

                       東周王朝

      晋の文公七年(紀元前630年)の九月甲午(一日)、文公は晋の

     穆公と連合して鄭を包囲攻撃した。

      討伐の理由としては、かつて亡命の途中に立ち寄った鄭国で、

     文公(重耳)を冷遇したことと城濮の戦いで楚に味方したことが挙げ

     られた。

      鄭の都を包囲した文公は、鄭の大夫・叔瞻(しゅくせん)の身柄を

     要求した。

      叔瞻は重耳主従が流浪中、鄭都に立ち寄った時に、主たる鄭君に

     重耳を礼遇しないのであれば、後顧の憂いをなくするために重耳を亡き

     者にせよと、進言したことがあった。

      叔瞻は要求の経緯を耳にするや、自ら命を断った。

      鄭ではその屍を晋の陣営に届けて赦しを請うたが、晋では素気無く

     突っぱねた。

      曰く、「必ずや鄭君を得て甘心せん」と。

      (=きっと鄭君を捕虜となし、この忌々しい我が思いが晴れるまで

       思う存分にしようぞ。)

      一方では鄭の文公(鄭伯)は怖れをなして、燭之武(しょくしぶ)という

     老臣を密かに秦の陣営に派遣して、好条件を手土産に説得させた。

      燭之武曰く、

      「鄭を滅ぼして晋に篤くするは、晋においては得なれども秦は未だ利

     となさず。

      君 なんぞ鄭を解き、東道の交となすを得ざる」と。

      (=鄭を滅ぼさずに、秦が東方へ行く際の接待役とさせた方が秦に

       とっては得策ですぞ。)

       ※ 晋・鄭・秦の地理的状況は、秦が西方に晋は東方にあり、

         鄭はその中間にあった。

        「東道の交」

          「東道主人」ともいう。

          客を案内してもてなす主人のこと。

       晋の穆公は悦んで鄭と盟約を結び、大夫の杞子、逢孫、揚孫の

      三人を留めて鄭を守らせ、自らは軍を率いて本国に引き揚げた。

       晋の子犯は、憤り晋軍を追撃すべきことを進言したが、文公はそれ

      を推し止めて、

       「秦君の援けなかりせば、今の我は無し。

       人から力を借りてその人を損なっては、不仁というもの。

       良い味方をむざむざ無くすのは、愚人の為すこと。

       せっかく収まった秦・鄭の仲をまた乱すのは武の道に非ず」と。

       かくして、文公も已む無く撤兵した。

                       「春秋左氏伝 僖公三十年」




      

    テーマ : 中国古典・名言
    ジャンル : 学問・文化・芸術

    コンテントヘッダー

    中国通史で辿る名言・故事探訪(郤氏の復活)

     「敬いて相待つこと賓の如し」


                     東周王朝

      ある日のこと、冀(き)に逼塞していた晋の郤缺(げきけつ。郤成子、

     冀缺とも)が田野に出て雑草を刈り、彼の妻がその食事を用意する姿

     があった。

      彼らのその姿や態度、仕草たるや、当に賓客を迎えての接待である

     ような恭敬なものであった。

      その二人の不思議な光景に目を止めた者がいた。

      晋の文公の股肱の臣でまた重臣でもあった臼季(きゅうき。胥臣とも)

     である。

      思えば夫婦のようでありながら互いに敬い、まるで賓客を遇し合って

     いるような光景に接して、臼季は興味を覚えた。

      二人に近寄って見ると、なんとその正体が文公暗殺を企てたことの

     ある今は亡き郤芮(げきぜい)、その子の郤缺であることを知り、臼季は

     さらに驚かされた。

      だがこの時期には晋は、既に国内を完全に統一し、対外的に活動する

     時期に至っていたので、臼季は強いて言えば郤缺ら謀反人の追求者で

     はなかった。

      その後 臼季は郤缺を伴って文王に帰朝報告したが、その際に

     郤缺を推挙した。

      文公は、不機嫌な顔をして承知しようとしなかった。

      「あれの父(郤芮)には、罪(文公の暗殺を謀った経緯)がある。

       それでも良いというのか」と。

      だが臼季は引き下がらず、古の聖人舜と斉の桓公の故事を引き合い

     にして、即ち罪ある者の子を許したり、罪ある本人を許したという例を

     挙げて説得し、

      さらに康誥(書経の篇)を引き合いに出して説得した。

      「父は慈(いつく)しまず、子は親を敬わず、兄は弟を憐れまず、

      弟は兄に仕えざるも、其の罪 相及ぼすものならず」と。

      また詩(詩経)に曰く、

         葑(かぶ)の葉を摘み、韮の葉を摘む。

         根の悪しきとて、葉は棄つるなかれ。

      郤芮の子であるとはいえ、郤缺には優れた資質がございますので、

     捨て置かれませんように。

      臣はこのようにも聞きます、

      「門を出ずるに賓の如く、事を承るに祭りの如くなるは、仁の則なり」と。

      その説得に流石の文公も折れて、郤缺を取り立ててえ、下軍の大夫に

     任じた。

                 「国語 晋語」、「春秋左氏伝 僖公三十三年」 

    テーマ : 中国古典・名言
    ジャンル : 学問・文化・芸術

    プロフィール
    プロフィール

    tyouseimaru

    Author:tyouseimaru
    出身地は四国八十八か所参りの発心の阿波、大阪を終の棲家とする。
    歴史好きで、城郭・神社仏閣・歴史遺跡巡りが趣味となる。
    歴史小説や時代小説を好み、往年の著名な時代小説の類は概ね完読と、自負している。

    自薦
    自著「中国通史で辿る名言・故事探訪」の 上・中・下の3巻を、 近い内に「電子書籍」での出版を予定しています。 今年一年間は、さらに工夫を加えるなどして、補記訂正などの校正を第一義としています。       
    最新記事
    月別アーカイブ
    最新コメント
    最新トラックバック
    カテゴリ
    天気予報

    -天気予報コム- -FC2-
    FC2カウンター
    おきてがみ
    おきてがみ
    twitter
    フリーエリア
    フリーエリア
    検索フォーム
    RSSリンクの表示
    リンク
    Powered By FC2ブログ

    今すぐブログを作ろう!

    Powered By FC2ブログ

    ブロとも申請フォーム

    この人とブロともになる

    QRコード
    QR
    メールフォーム

    名前:
    メール:
    件名:
    本文:

    <
      /body>